雨底の潜水艇

 小学校の玄関の軒下に佇む。屋根から滴る雨水が目の前を線になって落ちていく。思わずその様子を目で追ってしまう。
「透ちゃん?」
 小糸は透に話しかけた。円香と雛菜もそれぞれ傘を差して見つめていた。朝、お母さんが『今日は午後から雨だから、傘忘れないでね』って言ってたのをゆっくり思い出した。
「ふふ。忘れたわ、傘」
「まぁ、そんなことだろうと思った」 
 円香は淡々と言った。
「やはー。雛菜の傘、一緒に入るー?」
 雛菜は自分の傘を回しながら軒下に入ってきた。それに合わせ横を通る人が大回りで避けていく。今日は普段放課後に校庭で遊ぶ人も真っ直ぐに家路につく。玄関はいつも以上に賑わっていた。そして、校舎内からはいつも以上に早く人の気配がすーっと流れ出て消えていく。そのうち、雨に閉じ込められた静かな学校の外殻だけが残るだろう。
「ね。今からしない? かくれんぼ」
 考えるより先に口が動いていた。雛菜は乗り気な反応を示し、小糸は心配そうな顔になった。円香はいいとも悪いとも言わなかったが、じゃんけんで負けると急に嫌そうな顔になった。
 円香が数字を数え始めたのと同時に三者三様に散らばった。小糸は教室方面へ、雛菜は体育館方面へ向かっていった。透は二人を見送った後、二人とは違う美術室・音楽室方面へ急いでいった。すでに、円香は六を数えていた。
 雨の音を背景に薄暗い廊下を小走りに進む。少し、肌寒い。足音や自分の切れた息が響いて耳に届いた。このまま雨が降り続けて街が溺れたら、小学校に取り残された私たちは水族館とは逆に魚に見られるようになったりするのかもしれない。なんて、想像したりする。
 美術室は鍵がかかっていて入れなかった。ドアを揺すると焦らせるように軋んだ音がした。幸いにして隣の音楽室は開いていた。靴を脱ぎ、一応のことも考えて、靴を持って部屋に入った。
 音楽室はカーテンが引かれ廊下以上に暗かった。その中で黒光りするグランドピアノが目につく。下は十分なスペースがありそうだった。頭をぶつけないよう慎重にしゃがんで奥に進んだ。足を抱え横になると、ピアノの影にすっぽりと入った。グランドピアノに中途半端にかかっていたカバーを扉の方向に半分下ろし、隠れる準備は完璧になった。
 ただ、ひたすらに耳を澄ますだけの時間が続いた。一定のリズムを刻むポツポツという雨の音で眠くなりそうだった。扉は開く気配すらなかった。小糸や雛菜が捕まったかどうかも分からなかったが、不思議と気持ちは落ち着いていた。うつらうつらと目を閉じる。
 ふと、急に足元から光が差し込んだ。それから、荒っぽい足音がピアノに近づいてきた。
「はぁ。また、ちゃんと片づけないで帰ったのかしら」
 そう呟くと垂らされていたカバーがピアノに掛けなおされた。透の目の前にはごわごわした毛糸の靴下を履いた足が現れた。音楽の先生だった。音楽の先生は、ピアノのカバーを整えた後もしばらくピアノの前から離れなかった。そして、掛けなおしたカバーをやおら取って近くの棚の上に置くと、椅子に座り鍵盤を弾き始めた。
 指を馴らすように、あるいは調子を確かめるようにゆっくりと丁寧に弾いたかと思うと、急に激しく強くなったり、あるいは遠く小さく奏でたりと一瞬たりとも同じ弾き方をしなかった。雨の音はかき消され、ピアノの下ではどの音も迫って聞こえ、透は全身で音に打たれていた。気温が上がったように錯覚す 70 る熱量だった。
 脈絡なく音が止まった。ピアノはまだ余韻で震えていた。先生は立ち上がるとピアノの横に来て、力をこめるためにしゃがみ、ピアノの蓋を開けようとした。その時、ピアノの下に居た透と目が合った。
 喉の奥で叫び声をあげ力が抜けた先生は、途中まで上げた蓋に指を挟まれそうになった。その後、透はピアノの下から引っ張り出され長々と説教された。探しに来た円香が音楽室を覗いたタイミングで説教は終わり、反省文を書くように言い渡された。
「――え。でも、書き方がわかりません」
「国語の授業、受けてるんでしょ」
 思わず漏れた本音にも辛辣な先生だったが、こころなしか、いつもより顔が赤かったように思えた。
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