ラムネとメノウの静物
「……めぐるちゃん、遅いね」
真乃は壁に掛かった時計をちらと見て言った。すでに、五分めぐるが予定していた時刻より経過していた。いつもお泊り会には遅刻することのないめぐるにしては珍しい。
「うん。仕事が長引いているのかもしれない」
真乃はカップを両手で持って紅茶を飲んだ。灯織も自分のカップから飲もうとしたが、中身はもうなかった。
「確か、今日の仕事はCMの撮影だっけ?」
灯織はテーブルに置いてあるポットから紅茶をカップに注ぎながら言った。ポットの横にはめぐるのために用意したカップが寂しそうにちょこんと座っていた。
「うん、コラボがあるんだって言ってたね。内容は発表まで教えちゃいけないって言ってたけど、食べ物系っぽかったね」
「あー、そうだったね。めぐる、いつも美味しそうに食べるから、CM見るとつい買っちゃうんだよね」
今までのめぐるのCMを思い出しながら灯織は言った。灯織自身、CM撮影の際にはよく参考にしていた。
「ほわっ、そうだよねっ。私も普段行かないのにスーパーに寄っちゃう」
「今回のCMも楽しみだね」
「うん。こないだ、打合せで会ったディレクターが楽しい人だったって言ってたから、今回もきっといいCMになるねっ」
「めぐるには放送日聞いておかないと」
「ふふっ。うん」
二人で顔を見合わせ笑っていると、不意に二人のスマホが同時に鳴り始めた。お互いにスマホを確認する。
「めぐるちゃんからだ」
「私も。……というか、グループ通話だね。二人とも出るとハウリングしちゃうから、私は切っておくね。真乃のスマホで出てくれる?」
「うん。スピーカーにするね」
真乃はスマホをスピーカーにするとテーブルの上に置いた。画面をスライドすると騒がしく鳴っていたスマホが一瞬だけ静かになり、次の瞬間にはめぐるの声があふれてきた。
「遅れててごめん! ちょっと渋滞にはまっちゃって、もうしばらくかかりそうなんだ。本当にごめん! 何だったら先始めてて!」
めぐるは一息にそう言った。焦りと申し訳なさが口調に滲んでいた。
「……とりあえず、まずはお仕事お疲れ様。渋滞なら、仕方ないよ。事故とかでなくてよかった。後、どれくらいかかりそう?」
ホッと胸を撫でおろし、灯織は落ち着かせるような声を意識して言った。
「ちょっと、待って。プロデューサー、どれくらいで着けそうか、分かる? うん。あ、了解、伝えるね。あ、もしもし。なんか、早ければ二十分くらいで着けそうだって」
「安全第一、で来てねっ」
「ありがとう! お土産もあるから、楽しみにしててね!」
「はいはい。気を付けて来てね、待ってるから」
「うん!」
力強い返事の後、電話は切れた。いつの間にか二人してスマホを覗き込んでいた。真乃のスマホのホーム画面は三人で撮った写真だった。顔をあげると真乃と目が合った。
「ほわ……二十分だって」
「なんか、絶妙だね。どうしよう。めぐるが言ってたみたいに先、始めちゃう?」
灯織は返事が分かってることを敢えて聞いた。
「うーん。……私は、待ちたいかな」
真乃は当たり前のように予想通りの答えを返した。灯織の口元が微かに緩む。
「ふふっ、私も。今日は鍋だから冷めたりする心配もないし。じゃあ、三人用だけどボードゲーム用意してあるからそっちする?」
真乃は少し微笑んで、紅茶を飲もうとしている灯織を見つめた。その優しい強かな瞳に捉えられ、灯織は途中まで運んでコップをテーブルの上に戻した。
「……うん、真乃の考えてること、分かるよ」
灯織は噛みしめるように少し目を伏せた。
「デザート、作ろっか」
*
「……お土産、よかったのか」
プロデューサーは、電話が終わった後もスマホを不安気に見つめているめぐるに言った。
「え? 何で?」
「お土産って今日の現場でもらった物のことだろ。今日頑張った分と連絡不足のお詫びにって二つしかもらってないんじゃないか?」
「ううん、いいんだ。遅刻しちゃってるから、何か埋め合わせしなきゃーって思ってたし」
ふいに、掛かっている暖房が強く風を吹き出し、車全体が震えているような錯覚を起こさせた。
「……なかなか進まないね」
めぐるは一向に動かない車の行列を眺めながら言った。声には疲れが滲んでいた。
「改めてだが、仕事のことは本当にすまなかった。今日がお泊り会の日だって知ってたのに、俺の確認不足で撮影が長引いてしまって」
「もう、それはプロデューサーのせいじゃないでしょ。誰にも分かんなかったよ。行ったらディレクターが変わってたなんて」
今日は現場に着くと、控室に通される前に打合せになり、そこで急なディレクターの変更を告げられた。
「スタッフさんに後から教えてもらったが、今回の変更は不祥事があったからとのことだった。このCMへの影響を少なくするために内々で処理したらしい。その処理がぎりぎりまでかかって連絡が遅れた、と謝ってたよ」
プロデューサーから聞く初めての情報も、どこか遠くに聞こえる。現場では目の前のことで精一杯になっていたが、こうして何もすることのない時間だとどうしても変なことを考えてしまう。前のディレクターは楽しいことが好きな人で、打合せの最中でもめぐるを笑わせようとするような人だった。打合せで盛り上がったことが懐かしく思い出される。今や、そのディレクターはカーテンが引かれたように世界から隠され、目の前からいなくなってしまった。
「それにしても、新しいディレクターさんが理解のある人でよかったな。演出も元々の予定からはほとんど変わらなかったし」
新しく変わったディレクターは堅実で知られる人で、今回も事前に企画書をしっかり読み込んで来ていた。前のディレクターの演出もしっかり尊重してくれていて、打合せでも企画書の内容の深堀りがメインだった。本当に申し分ないディレクターだった。けれど、そのことが逆に前のディレクターを思い出させた。全く違う演出だったなら、少しは気が楽だったかもしれない。気が付くと所在ない指が髪をいじっていた。
「……うん。でも、なんか、なんて言えばいいのか分からないけど……本当にびっくり、したね」
前に連なる車のブレーキランプが波のように、付いたり消えたりするのを見てると、大きな壁の前で右往左往しているようで、やるせない。目も少し疲れてきた。なんか真乃と灯織に早く会いたくなってきた。
「……そうだな」
プロデューサーの声が優しく響いた。
*
結局、冷蔵庫の中にはデザートになりそうな物は何もなく、材料をスーパーに買いに行くことになった。
「牛乳があればプリンができたんだけどね」
「あ、一応、ゲームの時に食べようと思ってた蜜柑があるけど、それだけじゃデザートにはならないよね」
灯織はコートに袖を通しながら思い出したように言った。足元にはエコバッグが置いてあった。真乃は最低限の荷物だけを持って、すでにマフラーも首に巻き終え、上がり框に座ってブーツを履こうとしていた。
「んー……ごめんね、私のワガママで」
真乃は首だけを灯織の方に向けながら言った。
「ううん……! 気にしないで。私もいい考えだって思ったし。それに作るなら良い物を作りたいから」
それから、灯織はエコバッグを取り、忘れ物がないかを確認して真乃の後を追って来た。玄関を出る時に灯織が小さく、いってきますと言ったのを真乃は聞き逃さなかった。外はもうすっかり暗くなっていた。吐く息も白く、思わず星を見上げたくなるような夜だった。
「日が落ちるのも早くなったね」
「うん。いつの間にね」
真乃は吐いた息を手に当てながら言った。もう手袋を出す時期なのかもしれない。見ると、灯織も寒そうに手を強く握りしめていた。
「デザート、何がいいかな」
「めぐるだと、アイスのイメージが強いんだよね」
灯織は少し困ったように言った。
「ふふっ、確かに。でも、この時期だと寒いよね」
真乃は手をグーパーしながら言った。冬の夜はいつも以上に声が通る気がして、小声気味に話す。周りの家から漏れる灯りが二人の顔を仄かに照らした。
「……そうなんだよね。後、お土産もあるって言ってたよね」
「うんっ、言ってたね」
「そのお土産って何だと思う?」
真乃は考えて、ゆっくりと言葉を選んで言った。
「……きっと、今日のお仕事でもらったもの、だよね? 軽くつまめるものなのかな?」
「うん、事前に用意してたらもっと早く言ってくれたと思うし、私もそう思う。問題は今から作るデザートが被らないようにすることなんだけど……」
「ほわっ……。確かに。ふふっ、聞いておけばよかったね。今からでも電話してみる?」
「……でも、もしかしたらサプライズのつもりで、それで何も言わなかったんじゃないかっていう可能性も」
「そ、そうだね……」
「後、夕食は鍋だから、それとも合うようなものにしたい」
灯織は手を顎に当てながら言った。すっかり考え込んでいるようだった。
「そういえば、お鍋の準備、あまり手伝えなくてごめんね」
真乃は機会を逃がして言えていなかったことを伝えた。今日は真乃とめぐるに仕事があることを知った灯織が夕飯の準備を引き受けてくれたのだった。
「ふふ、謝ることじゃないよ。真乃だって、美味しい紅茶持ってきてくれたから。私は今日、自主練の日だったから、融通が利くし、それに鍋の準備って言っても材料切るだけだから簡単だったよ。真乃は今日一日ドラマの撮影があったんでしょ。けっこう疲れたんじゃない?」
「……ありがとう。でも、今日はブルーレイ用の特典映像の撮影だけだったんだ」
「じゃあ、一区切り付いたんだね」
灯織は自分のことのように嬉しそうに言った。
「うんっ! だから、デザート作りは頑張るね」
二人で喋りながら歩いていると横断歩道にぶつかって足止めをくらった。交差する車道の信号機が青、黄、赤と変化していく。灯織にはその黄色がなんとなく、蜜柑のように思えてきた。
「あっ……」
「……?」
「……ええと、あの、一つ考えたんだけど、被っても大丈夫なように、いくつかバラエティがあるものをデザートにするのはどう? ただの思いつきなんだけど」
灯織は自信なさそうに目を逸らしながら言った。
「ほわ……なるほど。確かに、いい考えだね」
真乃の言葉に灯織が嬉しそうに微笑み、それにつられて真乃も笑顔になった。心なしか、身体も温かくなってきたような感じがする。
そのうち、目指していたスーパーが見えてきた。温かみのある照明に奇妙に誘われる。扉が開く度に暖房によって温められた空気が生きているように押し出されていた。
「製菓コーナーはこっちだよ」
「うんっ」
灯織は慣れた様子でレジの横を通って製菓コーナーへ向かう。レジの近くには入れ替えのために、値引きされている商品が置かれているカゴがあった。通り過ぎようとした時、何かが真乃の目の端に引っかかった。よく見知った顔がいた気がした。
*
助手席のめぐるは、靴を脱ぎ座席の上で膝を抱えていた。相も変わらず車は進まないまま。
「めぐる、眠かったら寝てもいいぞ」
「あ、ううん。違うの」
めぐるは顔の前で手を振って言った。それから、遠慮がちに言った。
「……実は、今日ふたりに会うから普段履かないちょっといい靴なんだ。だから、少し靴擦れみたいな感じになっちゃって」
「そうだったのか……。気付かなくてすまなかった。後ろの俺の鞄に簡易救急セットが入ってるから、よかったら使ってくれ」
「ありがとう、プロデューサー!」
めぐるはシートベルトを外すと、よいしょと言いつつ、後ろに身を乗り出した。垂れた髪がプロデューサーの肩にかかる。空気の動く気配が顔まで敏感に届く。助手席がシートベルトをしていないことを示すアイコンが赤く灯ったのがいやに目についた。プロデューサーは気持ち少しだけめぐるから離れるように身体を傾けた。
「あ、あった」
めぐるは絆創膏を二枚取り出すと、ゆっくりと元の体育座りに戻った。靴下をつま先から引っ張って取り、素足をさらす。その赤くなっている皮膚に絆創膏を一枚ずつ丁寧に貼り付けた。そして、そのままの姿勢で貼ったばかりの絆創膏を撫で始めた。
「痛むのか?」
「……うん、少しね。でも、じきに引いていくと思う。本当にありがとう、プロデューサー」
それから、何かを決意するように短く息を吸うと言った。
「それと、プロデューサー。見るつもりじゃなかったんだけど、一つ聞きたいことがあるの」
*
「真乃、何かあったの?」
「え、な、何もないよ」
「あ……」
真乃が隠すよりも早く、灯織はそれの存在に気付き、思わず手に取っていた。
「……まだ、あったんだ」
それは今年の夏に灯織がコラボした水に溶かすとサイダーになるラムネだった。パッケージの眩しい笑顔の灯織の横に強調するように貼られた割引シールが痛々しかった。
灯織は一度胸に押し当てるような仕草をすると、持っていた買い物カゴにラムネを入れた。それから、首を何度か振ると、
「じゃあ、行こっか」
と、言って真乃に向き合った。灯織の表情はまだ固かった。スーパーの強い照明が灯織を逆光で照らしていた。
「……なんか、ごめん。少し嫌なところを見せたね」
「ううん、そんなことないよ」
灯織は真乃の顔を見ずにぽつりぽつりと話しながら歩き始めた。
「……いつもね、私のじゃなくても知ってる人が割引カゴに入っていたら、気付いた時だけだけど、つい買っちゃうんだ。でも、さっき鍋の材料を買いに来た時にはなかったから、ちょっと驚いちゃって」
そう言いながら真乃の先を行く灯織はいつもより早足だった。食品棚がそびえる薄暗い中をずんずん進んでいった。
「……ごめん、言い訳みたいな感じだけど言い訳したいワケじゃなくて」
買い物カゴが動くたびに箱の中のラムネが音を立てる。真乃はなんて声をかけていいか分からなかった。灯織は急に立ち止まると振り返った。
「なんかごめん……。いや、まぁ、もう冬だから仕方ないって思うよ……。それに、今こういう風に残っているってことは、欲しかった人全員に届いたってことなのかもしれないし……」
灯織の声は尻すぼみになっていった。真乃が目線を下に向けると、嫌でも買い物カゴの中のラムネと目が合った。ラムネの灯織は無邪気に明るい笑顔を浮かべていた。その笑顔が、真乃に灯織がこの仕事について話していた時のことを思い出させた。目の前の灯織とは違い、イルミネ近況報告会で撮影での思い出を楽しそうに語っていた。そして、めぐると真乃の二人で楽しくその話を聞いていた。
「……灯織ちゃんは優しいんだね。そういうところ、素敵だと思う。私、灯織ちゃんが報告会で話してくれたこと覚えてるよ。うまく伝えられるか分からないんだけど、この仕事のことを灯織ちゃんが楽しそうに喋っていた時、嬉しかった。すごく、似合ってるなって思った」
真乃は灯織の感じる気まずさに自分の気持ちを返そうと思った。真乃は灯織の空いている手を両手で握った。灯織の目の中に映る自分が見える。
「だから、その楽しかった思い出を私も大切にしたい。私がそのラムネ、買ってもいい?」
灯織の持っている買い物カゴからラムネの箱を取り出すと、真乃はその箱を胸に抱いた。灯織はキョトンとした顔をしていた。
「……買って、どうするの?」
言ってから、しまったという文字が灯織の顔に浮かんだ。真乃はその表情にあまり気付かず、うーんと唸って考えていたかと思うとあっと何かを閃いたような表情になった。
「……あのね、このラムネを使ってデザートを作るっていうのはどうかな?」
「このラムネで?」
灯織は首を傾げた。
「うん、フルーツポンチを作らない?」
灯織の目が大きく丸くなったかと思うと、嬉しそうに泣きそうに目尻が下がっていった。
「ふふ……。ありがとう。でも、このラムネだけだと足りないと思うから、ペットボトルのも買おう」
*
「プロデューサーの鞄の内ポケットに、メノウのストラップが付いてたんだけど、もしかして、真乃にもらった?」
「お、よく分かったな」
「へへー、実は灯織とわたしも真乃にもらったんだー」
めぐるは自分のメノウのストラップを鞄から取り出して、道路わきの街頭から差し込む光に透かした。メノウの茶色が鮮やかにめぐるの顔を彩った。
「……メノウはね、もう聞いてるかもしれないけど、心をつなげてくれるって灯織が言ってたんだ」
「へー、そうなのか」
「うん、だから、このストラップは一番のお気に入りなんだ」
メノウを手の中へ収め、軽く握りしめた。
「なんだか、俺が持っているのが申し訳なくなってきたな」
「そんなことないよ。わたし、プロデューサーが持ってるって知って嬉しかった」
めぐるは自分の髪を指先でいじり始めた。
「……ねぇ、プロデューサー。今日のディレクターの交代ってわたしにはどうしようもなかったのかな」
「……あぁ、そうだな」
プロデューサーは静かに言った。それでもその言葉は冷たくは聞こえなかった。めぐるから見るプロデューサーの横顔は外からの色々な光で照らされていた。
「うん、そうだよね。あのね、プロデューサー。今日はちょっと昔のことを、少し思い出しちゃったんだ。今はもう消化できているけど、お父さんに転校を言われた時のことをね」
無意識にメノウを握る手に力がこもった。プロデューサーは前を向いたまま何も言わずに聞いていた。
「……でもね、あの頃よりはほんの少しかもしれないけど、自分のこと、成長したと思ってるんだ。その先を知ったからかな。だから、プロデューサー、一つ頼まれて欲しいんだ。前のディレクターに伝言をお願いしたくて。『本当は一緒に撮影するのを楽しみにしてた』って。いけないことはいけないことだけど、私のこう思う気持ちも間違ってはいないはずだから」
「……そうだな。確実に伝えるよ。変わることが全てではないからな」
プロデューサーの声はいつも以上に落ち着いて優しく響いた。前に連なる車のブレーキランプがカウントダウンのように遠くから一つ一つ消えていった。
「なぁ、めぐる。俺からも一つ頼まれて欲しい。実は、俺も一つお土産をもらってたんだ。それをめぐるに食べて欲しい」
「え、それこそ、申し訳ないよ」
「俺もな、めぐるを遅刻させた埋め合わせがしたかったんだ」
車は流れに乗って進み始めた。
*
「じゃあ、真乃には蜜柑を剥いてもらおうかな」
「うん、頑張るね」
「ええと、白玉は解凍しておけば大丈夫で、桃も缶詰だから直前に開ければ大丈夫。切るのが必要なのはバナナと林檎だけ。よし、じゃあまずシロップを作ろう」
灯織は一人で呟きながらキッチンの方へ回った。缶詰の汁もあるから、あまり甘くなりすぎないシロップを作ろう。コンロの火を点けるとカチッと心地よい音が響いた。砂糖が溶け始めしばらくすると真乃の方にも甘い香りが漂ってきた。
「いい匂いだね」
「うん、後は粗熱取って冷蔵庫に入れておくよ。蜜柑はどんな感じ?」
「うーん、白い筋を取るのが、けっこう時間かかるね」
「ふふ、ある程度で大丈夫だよ」
灯織は真乃の向かいにまな板と包丁を持ってくると、バナナと林檎を切り始めた。食べやすいように一口大にする。なるべく形も同じになるように気を付ける。
ピンポーン。小気味よいチャイムがなった。
「めぐるちゃんかな」
「だね」
灯織と真乃はお互いに顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。今している作業を止め、二人で玄関に迎えに行った。
*
「じゃーん、見て。わたしとコラボのゆずアイス。今日の撮影でもらったんだ。パッケージはまだわたしじゃないけど」
「ふふ、やっぱりアイスにしなくてよかったね」
「ね」
「え? なになに?」
「めぐるちゃんのために二人でデザートを用意したんだっ」
「ホントに!? ありがとう!」
「うん。まぁでも先に夕飯食べちゃおう。ほら、用意するから、先に席に着いてて」
「いやいや、手伝うよー、灯織。何持ってけばいい?」
「んー、じゃあ、この野菜お願いしようかな」
*
「よし、準備できたね。野菜も肉も全部あるね」
「うん。後はカセットコンロの火を付けるだけだねっ」
「じゃあ、めぐる。いつもの、よろしく」
めぐるは一つ咳払いをした。
「それでは! 第ひゃくよんじゅ……」
「第百三十九回」
「あ、あれっ!? そっか……!」
ふふっと真乃と灯織が笑い、つられてめぐるも笑顔になる。
「それでは! 第百三十九回、イルミネお泊り会 in 風野家の開催をここに宣言します!」
真乃は壁に掛かった時計をちらと見て言った。すでに、五分めぐるが予定していた時刻より経過していた。いつもお泊り会には遅刻することのないめぐるにしては珍しい。
「うん。仕事が長引いているのかもしれない」
真乃はカップを両手で持って紅茶を飲んだ。灯織も自分のカップから飲もうとしたが、中身はもうなかった。
「確か、今日の仕事はCMの撮影だっけ?」
灯織はテーブルに置いてあるポットから紅茶をカップに注ぎながら言った。ポットの横にはめぐるのために用意したカップが寂しそうにちょこんと座っていた。
「うん、コラボがあるんだって言ってたね。内容は発表まで教えちゃいけないって言ってたけど、食べ物系っぽかったね」
「あー、そうだったね。めぐる、いつも美味しそうに食べるから、CM見るとつい買っちゃうんだよね」
今までのめぐるのCMを思い出しながら灯織は言った。灯織自身、CM撮影の際にはよく参考にしていた。
「ほわっ、そうだよねっ。私も普段行かないのにスーパーに寄っちゃう」
「今回のCMも楽しみだね」
「うん。こないだ、打合せで会ったディレクターが楽しい人だったって言ってたから、今回もきっといいCMになるねっ」
「めぐるには放送日聞いておかないと」
「ふふっ。うん」
二人で顔を見合わせ笑っていると、不意に二人のスマホが同時に鳴り始めた。お互いにスマホを確認する。
「めぐるちゃんからだ」
「私も。……というか、グループ通話だね。二人とも出るとハウリングしちゃうから、私は切っておくね。真乃のスマホで出てくれる?」
「うん。スピーカーにするね」
真乃はスマホをスピーカーにするとテーブルの上に置いた。画面をスライドすると騒がしく鳴っていたスマホが一瞬だけ静かになり、次の瞬間にはめぐるの声があふれてきた。
「遅れててごめん! ちょっと渋滞にはまっちゃって、もうしばらくかかりそうなんだ。本当にごめん! 何だったら先始めてて!」
めぐるは一息にそう言った。焦りと申し訳なさが口調に滲んでいた。
「……とりあえず、まずはお仕事お疲れ様。渋滞なら、仕方ないよ。事故とかでなくてよかった。後、どれくらいかかりそう?」
ホッと胸を撫でおろし、灯織は落ち着かせるような声を意識して言った。
「ちょっと、待って。プロデューサー、どれくらいで着けそうか、分かる? うん。あ、了解、伝えるね。あ、もしもし。なんか、早ければ二十分くらいで着けそうだって」
「安全第一、で来てねっ」
「ありがとう! お土産もあるから、楽しみにしててね!」
「はいはい。気を付けて来てね、待ってるから」
「うん!」
力強い返事の後、電話は切れた。いつの間にか二人してスマホを覗き込んでいた。真乃のスマホのホーム画面は三人で撮った写真だった。顔をあげると真乃と目が合った。
「ほわ……二十分だって」
「なんか、絶妙だね。どうしよう。めぐるが言ってたみたいに先、始めちゃう?」
灯織は返事が分かってることを敢えて聞いた。
「うーん。……私は、待ちたいかな」
真乃は当たり前のように予想通りの答えを返した。灯織の口元が微かに緩む。
「ふふっ、私も。今日は鍋だから冷めたりする心配もないし。じゃあ、三人用だけどボードゲーム用意してあるからそっちする?」
真乃は少し微笑んで、紅茶を飲もうとしている灯織を見つめた。その優しい強かな瞳に捉えられ、灯織は途中まで運んでコップをテーブルの上に戻した。
「……うん、真乃の考えてること、分かるよ」
灯織は噛みしめるように少し目を伏せた。
「デザート、作ろっか」
*
「……お土産、よかったのか」
プロデューサーは、電話が終わった後もスマホを不安気に見つめているめぐるに言った。
「え? 何で?」
「お土産って今日の現場でもらった物のことだろ。今日頑張った分と連絡不足のお詫びにって二つしかもらってないんじゃないか?」
「ううん、いいんだ。遅刻しちゃってるから、何か埋め合わせしなきゃーって思ってたし」
ふいに、掛かっている暖房が強く風を吹き出し、車全体が震えているような錯覚を起こさせた。
「……なかなか進まないね」
めぐるは一向に動かない車の行列を眺めながら言った。声には疲れが滲んでいた。
「改めてだが、仕事のことは本当にすまなかった。今日がお泊り会の日だって知ってたのに、俺の確認不足で撮影が長引いてしまって」
「もう、それはプロデューサーのせいじゃないでしょ。誰にも分かんなかったよ。行ったらディレクターが変わってたなんて」
今日は現場に着くと、控室に通される前に打合せになり、そこで急なディレクターの変更を告げられた。
「スタッフさんに後から教えてもらったが、今回の変更は不祥事があったからとのことだった。このCMへの影響を少なくするために内々で処理したらしい。その処理がぎりぎりまでかかって連絡が遅れた、と謝ってたよ」
プロデューサーから聞く初めての情報も、どこか遠くに聞こえる。現場では目の前のことで精一杯になっていたが、こうして何もすることのない時間だとどうしても変なことを考えてしまう。前のディレクターは楽しいことが好きな人で、打合せの最中でもめぐるを笑わせようとするような人だった。打合せで盛り上がったことが懐かしく思い出される。今や、そのディレクターはカーテンが引かれたように世界から隠され、目の前からいなくなってしまった。
「それにしても、新しいディレクターさんが理解のある人でよかったな。演出も元々の予定からはほとんど変わらなかったし」
新しく変わったディレクターは堅実で知られる人で、今回も事前に企画書をしっかり読み込んで来ていた。前のディレクターの演出もしっかり尊重してくれていて、打合せでも企画書の内容の深堀りがメインだった。本当に申し分ないディレクターだった。けれど、そのことが逆に前のディレクターを思い出させた。全く違う演出だったなら、少しは気が楽だったかもしれない。気が付くと所在ない指が髪をいじっていた。
「……うん。でも、なんか、なんて言えばいいのか分からないけど……本当にびっくり、したね」
前に連なる車のブレーキランプが波のように、付いたり消えたりするのを見てると、大きな壁の前で右往左往しているようで、やるせない。目も少し疲れてきた。なんか真乃と灯織に早く会いたくなってきた。
「……そうだな」
プロデューサーの声が優しく響いた。
*
結局、冷蔵庫の中にはデザートになりそうな物は何もなく、材料をスーパーに買いに行くことになった。
「牛乳があればプリンができたんだけどね」
「あ、一応、ゲームの時に食べようと思ってた蜜柑があるけど、それだけじゃデザートにはならないよね」
灯織はコートに袖を通しながら思い出したように言った。足元にはエコバッグが置いてあった。真乃は最低限の荷物だけを持って、すでにマフラーも首に巻き終え、上がり框に座ってブーツを履こうとしていた。
「んー……ごめんね、私のワガママで」
真乃は首だけを灯織の方に向けながら言った。
「ううん……! 気にしないで。私もいい考えだって思ったし。それに作るなら良い物を作りたいから」
それから、灯織はエコバッグを取り、忘れ物がないかを確認して真乃の後を追って来た。玄関を出る時に灯織が小さく、いってきますと言ったのを真乃は聞き逃さなかった。外はもうすっかり暗くなっていた。吐く息も白く、思わず星を見上げたくなるような夜だった。
「日が落ちるのも早くなったね」
「うん。いつの間にね」
真乃は吐いた息を手に当てながら言った。もう手袋を出す時期なのかもしれない。見ると、灯織も寒そうに手を強く握りしめていた。
「デザート、何がいいかな」
「めぐるだと、アイスのイメージが強いんだよね」
灯織は少し困ったように言った。
「ふふっ、確かに。でも、この時期だと寒いよね」
真乃は手をグーパーしながら言った。冬の夜はいつも以上に声が通る気がして、小声気味に話す。周りの家から漏れる灯りが二人の顔を仄かに照らした。
「……そうなんだよね。後、お土産もあるって言ってたよね」
「うんっ、言ってたね」
「そのお土産って何だと思う?」
真乃は考えて、ゆっくりと言葉を選んで言った。
「……きっと、今日のお仕事でもらったもの、だよね? 軽くつまめるものなのかな?」
「うん、事前に用意してたらもっと早く言ってくれたと思うし、私もそう思う。問題は今から作るデザートが被らないようにすることなんだけど……」
「ほわっ……。確かに。ふふっ、聞いておけばよかったね。今からでも電話してみる?」
「……でも、もしかしたらサプライズのつもりで、それで何も言わなかったんじゃないかっていう可能性も」
「そ、そうだね……」
「後、夕食は鍋だから、それとも合うようなものにしたい」
灯織は手を顎に当てながら言った。すっかり考え込んでいるようだった。
「そういえば、お鍋の準備、あまり手伝えなくてごめんね」
真乃は機会を逃がして言えていなかったことを伝えた。今日は真乃とめぐるに仕事があることを知った灯織が夕飯の準備を引き受けてくれたのだった。
「ふふ、謝ることじゃないよ。真乃だって、美味しい紅茶持ってきてくれたから。私は今日、自主練の日だったから、融通が利くし、それに鍋の準備って言っても材料切るだけだから簡単だったよ。真乃は今日一日ドラマの撮影があったんでしょ。けっこう疲れたんじゃない?」
「……ありがとう。でも、今日はブルーレイ用の特典映像の撮影だけだったんだ」
「じゃあ、一区切り付いたんだね」
灯織は自分のことのように嬉しそうに言った。
「うんっ! だから、デザート作りは頑張るね」
二人で喋りながら歩いていると横断歩道にぶつかって足止めをくらった。交差する車道の信号機が青、黄、赤と変化していく。灯織にはその黄色がなんとなく、蜜柑のように思えてきた。
「あっ……」
「……?」
「……ええと、あの、一つ考えたんだけど、被っても大丈夫なように、いくつかバラエティがあるものをデザートにするのはどう? ただの思いつきなんだけど」
灯織は自信なさそうに目を逸らしながら言った。
「ほわ……なるほど。確かに、いい考えだね」
真乃の言葉に灯織が嬉しそうに微笑み、それにつられて真乃も笑顔になった。心なしか、身体も温かくなってきたような感じがする。
そのうち、目指していたスーパーが見えてきた。温かみのある照明に奇妙に誘われる。扉が開く度に暖房によって温められた空気が生きているように押し出されていた。
「製菓コーナーはこっちだよ」
「うんっ」
灯織は慣れた様子でレジの横を通って製菓コーナーへ向かう。レジの近くには入れ替えのために、値引きされている商品が置かれているカゴがあった。通り過ぎようとした時、何かが真乃の目の端に引っかかった。よく見知った顔がいた気がした。
*
助手席のめぐるは、靴を脱ぎ座席の上で膝を抱えていた。相も変わらず車は進まないまま。
「めぐる、眠かったら寝てもいいぞ」
「あ、ううん。違うの」
めぐるは顔の前で手を振って言った。それから、遠慮がちに言った。
「……実は、今日ふたりに会うから普段履かないちょっといい靴なんだ。だから、少し靴擦れみたいな感じになっちゃって」
「そうだったのか……。気付かなくてすまなかった。後ろの俺の鞄に簡易救急セットが入ってるから、よかったら使ってくれ」
「ありがとう、プロデューサー!」
めぐるはシートベルトを外すと、よいしょと言いつつ、後ろに身を乗り出した。垂れた髪がプロデューサーの肩にかかる。空気の動く気配が顔まで敏感に届く。助手席がシートベルトをしていないことを示すアイコンが赤く灯ったのがいやに目についた。プロデューサーは気持ち少しだけめぐるから離れるように身体を傾けた。
「あ、あった」
めぐるは絆創膏を二枚取り出すと、ゆっくりと元の体育座りに戻った。靴下をつま先から引っ張って取り、素足をさらす。その赤くなっている皮膚に絆創膏を一枚ずつ丁寧に貼り付けた。そして、そのままの姿勢で貼ったばかりの絆創膏を撫で始めた。
「痛むのか?」
「……うん、少しね。でも、じきに引いていくと思う。本当にありがとう、プロデューサー」
それから、何かを決意するように短く息を吸うと言った。
「それと、プロデューサー。見るつもりじゃなかったんだけど、一つ聞きたいことがあるの」
*
「真乃、何かあったの?」
「え、な、何もないよ」
「あ……」
真乃が隠すよりも早く、灯織はそれの存在に気付き、思わず手に取っていた。
「……まだ、あったんだ」
それは今年の夏に灯織がコラボした水に溶かすとサイダーになるラムネだった。パッケージの眩しい笑顔の灯織の横に強調するように貼られた割引シールが痛々しかった。
灯織は一度胸に押し当てるような仕草をすると、持っていた買い物カゴにラムネを入れた。それから、首を何度か振ると、
「じゃあ、行こっか」
と、言って真乃に向き合った。灯織の表情はまだ固かった。スーパーの強い照明が灯織を逆光で照らしていた。
「……なんか、ごめん。少し嫌なところを見せたね」
「ううん、そんなことないよ」
灯織は真乃の顔を見ずにぽつりぽつりと話しながら歩き始めた。
「……いつもね、私のじゃなくても知ってる人が割引カゴに入っていたら、気付いた時だけだけど、つい買っちゃうんだ。でも、さっき鍋の材料を買いに来た時にはなかったから、ちょっと驚いちゃって」
そう言いながら真乃の先を行く灯織はいつもより早足だった。食品棚がそびえる薄暗い中をずんずん進んでいった。
「……ごめん、言い訳みたいな感じだけど言い訳したいワケじゃなくて」
買い物カゴが動くたびに箱の中のラムネが音を立てる。真乃はなんて声をかけていいか分からなかった。灯織は急に立ち止まると振り返った。
「なんかごめん……。いや、まぁ、もう冬だから仕方ないって思うよ……。それに、今こういう風に残っているってことは、欲しかった人全員に届いたってことなのかもしれないし……」
灯織の声は尻すぼみになっていった。真乃が目線を下に向けると、嫌でも買い物カゴの中のラムネと目が合った。ラムネの灯織は無邪気に明るい笑顔を浮かべていた。その笑顔が、真乃に灯織がこの仕事について話していた時のことを思い出させた。目の前の灯織とは違い、イルミネ近況報告会で撮影での思い出を楽しそうに語っていた。そして、めぐると真乃の二人で楽しくその話を聞いていた。
「……灯織ちゃんは優しいんだね。そういうところ、素敵だと思う。私、灯織ちゃんが報告会で話してくれたこと覚えてるよ。うまく伝えられるか分からないんだけど、この仕事のことを灯織ちゃんが楽しそうに喋っていた時、嬉しかった。すごく、似合ってるなって思った」
真乃は灯織の感じる気まずさに自分の気持ちを返そうと思った。真乃は灯織の空いている手を両手で握った。灯織の目の中に映る自分が見える。
「だから、その楽しかった思い出を私も大切にしたい。私がそのラムネ、買ってもいい?」
灯織の持っている買い物カゴからラムネの箱を取り出すと、真乃はその箱を胸に抱いた。灯織はキョトンとした顔をしていた。
「……買って、どうするの?」
言ってから、しまったという文字が灯織の顔に浮かんだ。真乃はその表情にあまり気付かず、うーんと唸って考えていたかと思うとあっと何かを閃いたような表情になった。
「……あのね、このラムネを使ってデザートを作るっていうのはどうかな?」
「このラムネで?」
灯織は首を傾げた。
「うん、フルーツポンチを作らない?」
灯織の目が大きく丸くなったかと思うと、嬉しそうに泣きそうに目尻が下がっていった。
「ふふ……。ありがとう。でも、このラムネだけだと足りないと思うから、ペットボトルのも買おう」
*
「プロデューサーの鞄の内ポケットに、メノウのストラップが付いてたんだけど、もしかして、真乃にもらった?」
「お、よく分かったな」
「へへー、実は灯織とわたしも真乃にもらったんだー」
めぐるは自分のメノウのストラップを鞄から取り出して、道路わきの街頭から差し込む光に透かした。メノウの茶色が鮮やかにめぐるの顔を彩った。
「……メノウはね、もう聞いてるかもしれないけど、心をつなげてくれるって灯織が言ってたんだ」
「へー、そうなのか」
「うん、だから、このストラップは一番のお気に入りなんだ」
メノウを手の中へ収め、軽く握りしめた。
「なんだか、俺が持っているのが申し訳なくなってきたな」
「そんなことないよ。わたし、プロデューサーが持ってるって知って嬉しかった」
めぐるは自分の髪を指先でいじり始めた。
「……ねぇ、プロデューサー。今日のディレクターの交代ってわたしにはどうしようもなかったのかな」
「……あぁ、そうだな」
プロデューサーは静かに言った。それでもその言葉は冷たくは聞こえなかった。めぐるから見るプロデューサーの横顔は外からの色々な光で照らされていた。
「うん、そうだよね。あのね、プロデューサー。今日はちょっと昔のことを、少し思い出しちゃったんだ。今はもう消化できているけど、お父さんに転校を言われた時のことをね」
無意識にメノウを握る手に力がこもった。プロデューサーは前を向いたまま何も言わずに聞いていた。
「……でもね、あの頃よりはほんの少しかもしれないけど、自分のこと、成長したと思ってるんだ。その先を知ったからかな。だから、プロデューサー、一つ頼まれて欲しいんだ。前のディレクターに伝言をお願いしたくて。『本当は一緒に撮影するのを楽しみにしてた』って。いけないことはいけないことだけど、私のこう思う気持ちも間違ってはいないはずだから」
「……そうだな。確実に伝えるよ。変わることが全てではないからな」
プロデューサーの声はいつも以上に落ち着いて優しく響いた。前に連なる車のブレーキランプがカウントダウンのように遠くから一つ一つ消えていった。
「なぁ、めぐる。俺からも一つ頼まれて欲しい。実は、俺も一つお土産をもらってたんだ。それをめぐるに食べて欲しい」
「え、それこそ、申し訳ないよ」
「俺もな、めぐるを遅刻させた埋め合わせがしたかったんだ」
車は流れに乗って進み始めた。
*
「じゃあ、真乃には蜜柑を剥いてもらおうかな」
「うん、頑張るね」
「ええと、白玉は解凍しておけば大丈夫で、桃も缶詰だから直前に開ければ大丈夫。切るのが必要なのはバナナと林檎だけ。よし、じゃあまずシロップを作ろう」
灯織は一人で呟きながらキッチンの方へ回った。缶詰の汁もあるから、あまり甘くなりすぎないシロップを作ろう。コンロの火を点けるとカチッと心地よい音が響いた。砂糖が溶け始めしばらくすると真乃の方にも甘い香りが漂ってきた。
「いい匂いだね」
「うん、後は粗熱取って冷蔵庫に入れておくよ。蜜柑はどんな感じ?」
「うーん、白い筋を取るのが、けっこう時間かかるね」
「ふふ、ある程度で大丈夫だよ」
灯織は真乃の向かいにまな板と包丁を持ってくると、バナナと林檎を切り始めた。食べやすいように一口大にする。なるべく形も同じになるように気を付ける。
ピンポーン。小気味よいチャイムがなった。
「めぐるちゃんかな」
「だね」
灯織と真乃はお互いに顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。今している作業を止め、二人で玄関に迎えに行った。
*
「じゃーん、見て。わたしとコラボのゆずアイス。今日の撮影でもらったんだ。パッケージはまだわたしじゃないけど」
「ふふ、やっぱりアイスにしなくてよかったね」
「ね」
「え? なになに?」
「めぐるちゃんのために二人でデザートを用意したんだっ」
「ホントに!? ありがとう!」
「うん。まぁでも先に夕飯食べちゃおう。ほら、用意するから、先に席に着いてて」
「いやいや、手伝うよー、灯織。何持ってけばいい?」
「んー、じゃあ、この野菜お願いしようかな」
*
「よし、準備できたね。野菜も肉も全部あるね」
「うん。後はカセットコンロの火を付けるだけだねっ」
「じゃあ、めぐる。いつもの、よろしく」
めぐるは一つ咳払いをした。
「それでは! 第ひゃくよんじゅ……」
「第百三十九回」
「あ、あれっ!? そっか……!」
ふふっと真乃と灯織が笑い、つられてめぐるも笑顔になる。
「それでは! 第百三十九回、イルミネお泊り会 in 風野家の開催をここに宣言します!」