犬文若
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恋戦記は現在一部のお話のみヒロインの名前変換可です薄桜鬼とテニプリは名前変換可、刀剣乱舞はネームレス夢です
恋戦記小説について
現在一部作品のみ名前変換可にしていますが、ヒロインの下の名前「花」が一般名詞でもあるため「花瓶の花」などで巻き込み変換されてしまいます
それでも良い方は変換してお楽しみください。それがダメな方はデフォ名「山田花」でお楽しみください
すみませんが、よろしくお願いいたします
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荀文若と犬文若
(ありえない……)
ある朝のことである。己の屋敷で荀文若は途方に暮れていた。目覚めたところなんと犬になっていたのだ。
鏡など見ずとも察せてしまう。あまりにも大きく見える世界、喋ろうとするたびに口から飛び出す「ワンワン!」という吠え声。己の手に視線をやってみても完全なる犬の手だった。肉球はあれども爪の出し入れはできず、ほのかな野性味のある前脚は犬のものだろう。
己の体表を覆っているのは黒く短い柔らかな毛並みで、尻から突き出すように生えており、意のままに動かせる短い縄のような何かはしっぽであろう。そして、とどめに犬らしく細長く突き出た口吻である。
犬畜生となり果ててしまった文若は困った様子でその場をウロウロとし始めた。
(ありえない……。ありえない……。こんな……。こんな……)
すると、やにわに部屋の扉が開けられた。現れたのは、かつては敵軍より降った捕虜であり、現在は文若の部下であり妻である花であった。けれども、さすがに天真爛漫な彼女といえども夫婦の寝室に見知らぬ犬がいるとは思わないだろう。
「えっ、子犬……!?」
花は驚愕に目を見開いたが、次の瞬間には柔らかな微笑みを浮かべていた。
「……ワンちゃん、こんなところでどうしたの? どこかから迷い込んできちゃったのかな」
さすがは花である。素直で心優しく順応力は抜群に高い。おおらかな彼女は夫婦の寝室に突如として出現した犬を追い払うでもなく、ただひとり部屋の窓へと向かって行く。そしておもむろに施錠を確認すると、小さく頷いた。
「……やっぱり鍵が開いていました。かけたから、よしっと」
犬の文若は黙したまま自分の妻を見上げる。しかし次の瞬間、文若は我が耳を疑った。
「じゃあワンちゃん、私と一緒に行こうか。今日は私も文若さんもお仕事だから、ワンちゃんをひとりでここに置いておけないの」
「ワンッ……!?」
(文若さん、だと……!? ここには人の私もいるのか……!?)
文若はただ一匹恐慌に陥る。あまりの衝撃に細い目を限界まで見開いて固まってしまった。
けれど、花はそんな文若を目にしても動じなかった。一匹で見知らぬ場所に迷い込んでしまい困っている気の毒な犬とでも思っているのか、花は犬の文若に優しい笑みを向けると、おもむろにしゃがみこんだ。
「ちょっとだけ、抱っこさせてね」
そう声を掛けて、優しく抱き上げる。
花に抱きかかえられるなど初めてだ。人であればその体格差から天地がひっくり返っても不可能なその体験に、文若は新鮮な驚きを覚える。
花の腕の中は温かく、彼女のささやかな胸の膨らみが全身に押しつけられて、文若はひととき男としての幸福に浸った。
(っ、やはり柔らかいものだな……)
犬となった今でも、人間の男としての本能は幸か不幸かまだ生きているらしい。さすがに雄犬としての発情を迎えてしまうことはなかったが、文若は己の浅ましさに苦笑しつつも、花の腕の中で黙考する。
(どういうことだ……。皆目わからん……。理解が全く追いつかんな……)
すると、彼をさらに混乱のるつぼに突き落とす事態が起こった。
「――おい、何をしている。花。寝室の戸締りの確認になぜここまで時間がかかるのだ。今日は早く出たいと伝えていただろう」
頭痛がするような小言とともに姿を現したのは、かつて人だったときの己と瓜二つの存在だった。
「文若さん!」
花は驚いた様子で声を上げるが、花の中の文若も驚きに言葉を失っていた。
(私だ、私でしかない……。一体どういうことだ……?)
しかし、人の文若もまた花の腕の中の存在に大いに面食らっていた。だいぶ困惑したような、戸惑った様子で口を開く。
「なんだその子犬は……。花、その腕の中の犬はどうしたんだ……。我々の屋敷にそんなものはいなかったはずだが」
「文若さん! すみません、私もよくわからないんです……。寝室に行ったらこの子がいて……。あ、戸締りは確認しました。部屋の窓の鍵だけ開いていたのでかけておきました」
花は犬の文若を抱えたまま、人の文若に事情を説明した。人の文若は花の話を聞き終えて小さく頷くと。
「そうか……。手間をかけたな。しかしわからんな。こいつは一体どこから……。玄関から侵入したとも思えんし、寝室の窓を開けて入って己の力で閉めたのか……?」
「不思議ですね……」
「ああ、不思議だ。しかし、現実にこの場にいたということは、どこかから器用に入り込んだのだろうな。……だが花、今は時間がない。議論はあとにして早く行くぞ」
「はい」
「そいつも連れてこい。無人の屋敷に置いておくわけにはいかん。本来、職場に愛玩動物を持ち込むなど不届き千万だが、今日ばかりは仕方がない」
「わかりました」
「いい返事だ。では行くぞ」
そのまま犬の文若は花に連れられて二人の職場、銅雀台の丞相府へと向かったのだった。
***
まるで今にも羽ばたかんとする鳳凰のような威容を誇る宮城の、この部屋は人の文若の執務室であった。
この場で犬の文若は不思議な気持ちで周囲の人々の働きぶりを眺めていた。小さな犬の姿だから目に映るものすべてが大きく見えるのは相変わらずだ。
(やはり、ずいぶん新鮮だな)
人の己と花はこの銅雀台においても二人で助け合い、つつがなく政務をこなしていた。
当初は文字の読み書きすらできずに小言を食らってばかりの花であったが、現在は人の己の『そばにおいても邪魔にならない』良き部下として、きびきびと働いていた。
「……文若さん、すみません。こちらの書簡は急ぎのようなので、すぐに目を通していただけませんか」
「ああ、わかった。そこに置いてくれ。すぐに読む」
人の己からの指示を必要とせず自分の判断でてきぱきと動く花に、犬の文若は満足げに頷く。
(成長したな。花)
そして、花が見つけた急ぎの書簡に目を通しながらも、侍女を呼びつけて、二人分の茶の支度を命じる人の己に面映ゆい気持ちになる。
思えば、自分がこのように誰かをいたわろうとするなど、きっと初めてのことだ。けれどそれも、相手が花だからなのだろう。
彼女と一緒に働いている人の己は、心なしかどこか穏やかだ。持病の癇癪はなりを潜め、誰かに対して苛立ちを露にすることもない。その口から出る言葉も辛辣な小言ではなく、わかりやすく具体的な指示だった。
人の己が落ち着きを失わないためか、周囲の部下たちも心穏やかに仕事ができているようで、部屋の片隅に積み上げられていた未処理の書簡の山は、順調にその数を減らしつつあった。
そして、二人分の茶が侍女の手により用意されたことをきっかけに、人の文若と花は休憩に入った。
「……しかし、どうしましょうか。ワンちゃんは可愛いんですが、留守が多いので我が家では飼えない気がします」
「そうだな。かといっていつまでもここに置いておくわけにもいかん」
湯呑を手に神妙な顔をする花に人の文若もまた同意する。
ここというのはもちろん銅雀台の文若の執務室である。本日ばかりは仕方なくこの場に犬の文若を留め置いていたが、毎日犬を連れて出退勤もないだろう。人の文若は小さく息を吐くと。
「だからといって、捨ててしまうのも寝覚めが悪い。早いうちに、なんとかこいつの居場所を見つけてやらねば……」
「そうですね……」
花もまた心配げに犬の文若に視線を送る。
(仕方のないこととはいえ、私の存在が完全に職務の妨げになっているな)
かろうじて邪魔とは口にされていないものの、明らかにそういった扱いをされている。犬の文若は若干の落ち込みを覚えながらも、ただ黙って人の己と花を見つめた。
しかし、心細くなってしまった文若は気がつくと「クゥーン」と寂しげな鳴き声を上げていた。
(はっ! わ、私としたことが……!)
こらえたつもりが、感情を態度に出してしまっていた。
自分にとっては、誰にも必要とされないのが最も悲しい。己の存在が大切な人たちの仕事の邪魔になるなど、最も辛いことだった。それこそ、自分の存在を消してしまいたくなるほどに。
すると、犬の文若が気の毒になったのか、花が慌ててこちらに駆け寄ってきた。
「……ごめんね、ワンちゃん! ワンちゃんは大事な子だよ。だから、そんな寂しそうにしないで」
泣き出しそうな顔でそう口にすると、花は犬の文若を抱え上げ、ぎゅっと抱きしめた。
本日二度目の花の胸の膨らみの感触に、犬の文若が人の男としての喜びをうっかり噛みしめてしまった、そのとき。執務室の扉が唐突に開けられた。
「――文若、いるかぁ~?」
やってきたのは、この銅雀台の主であり文若の上長でもある曹孟徳その人であった。
「丞相! 扉を開ける前に声を掛けてくださいと何度お伝えすれば……!」
「孟徳さん、お疲れ様です」
「うん、ありがとう。花ちゃんもお疲れ様」
人の文若の小言を無視し、花とさらりと挨拶を交わしてから。呼ばれもしないのにこの場に現れた孟徳はさっそく、花の腕の中の犬の文若を見つけて楽しげに笑う。
「おっ、まさか本当に『いる』とはな」
口の中でそうつぶやくやいなや。孟徳は人の文若を振り返ると、わざとらしいほど大袈裟な笑みを浮かべた。
「驚いたぞ。まさかお前が犬を拾うとはな」
「拾ったわけではありません。この者が我々の屋敷に居ついただけです。しかし、屋敷を空けがちな我々では飼うこともできませんし、いつまでも私の執務室に置いておくわけにも……」
「犬を抱っこしてる花ちゃんかわいいなあ」
「っ、丞相! 話を聞いているのですか」
花がかわいいのは同意するが。先ほどまで穏やかだった人の文若が、孟徳が現れたとたんに苛々としはじめ、犬の文若もまた花の腕の中で眉間の皺を増やした。
雄犬としての本能なのか、こちらにというか主に花にまとわりつく孟徳に、吠えかかりたい衝動をこらえながらも、犬の文若は黙って人の文若と孟徳の話に耳を澄ます。
孟徳は人の文若に対してあからさまに「ああ鬱陶しいな」という顔をしながらも、丞相らしい威厳をのぞかせながら胸を張った。
「……聞いている。犬をどうするのか困っているんだろう? 安心しろ、俺にいい考えがある」
『安心できない……!!』
この場にいる全員が心の内で絶叫するものの、丞相である孟徳に対して話も聞かずに「安心できません!」などと言い放てる人間などこの場にいない。
犬文若と荀文若と花は不安な面持ちで孟徳の様子を伺ったが、孟徳はしれっと言い放った。
「簡単なことだ。警備犬としてこの丞相府で飼えばいい」
「警備犬、ですか……?」
荀文若が訝しげに反芻するが、孟徳の意思は揺らがない。
「そうだ。それならいつでも好きなときに会いに行けるし、なかなかいいだろ? ちょうど俺も欲しいと思ってたんだよ。新しい軍用犬が」
そう口にして、孟徳は改めて花の腕の中の犬文若を見おろしたが、その瞳にはまるで兄のような温かな光があった。
この目には覚えがある。かつて若き日の文若が彼に仕官を誓ったときも、孟徳はこの瞳をしていた。思えば孟徳はあの頃から変わらない。昔も今も唯一無二の存在だ。
「世話は新入りの武人にでもやらせればいい。馬の世話のついでにな。こいつは賢そうだしな。充分問題なく働けるんじゃないか?」
孟徳は花の腕の中の犬文若の頭をその大きな手でわしゃわしゃと撫でる。仕事以外での孟徳は信用できないが、仕事の面では信じられる。そんな彼に太鼓判を押されて犬の文若は大いに励まされた。
「よし、そうと決まれば元譲のところに預けよう。しばらく訓練してものになったら、お前は晴れてこの丞相府の警備犬だ。頑張れよ」
孟徳の笑顔はどこまでも明るい。とはいえ丞相でもある彼は本当はすごく厳しいと知っている。警備犬の話だって「訓練してモノになれば」という条件つきだ。
しかし、その方が逆に燃えるというものだ。花の腕に抱かれながらも、犬文若は気合を入れ直した。
誰かのために働く犬。それはきっと愛玩犬として過ごすよりずっと自分向きだ。その上、国のためにこの丞相府で働けるならこの上のない幸せだった。
***
元譲のところに預けられた犬文若はさっそく厳しい訓練を受けていた。
「――文若! 跳躍だ! この障害物を飛び越えろ!」
「――ワンッ!」
銅雀台の一角にある広大な軍事演習場の片隅で、犬の文若は元譲に命じられるまま草も生えない大地を全力で駆け抜けていた。そして、大人の男の胸の位置に張られた荒縄を目がけて飛び上がる。
こんなことに挑戦するのは生まれて初めてだったが、なんと犬の文若は見事に己の背丈の数倍の高さの縄を飛び越えてみせた。ちなみにこの場面の劇伴は『のろしを上げろ!』である。
「――よしっ! うまいぞ! もう一度飛んでみせろ文若!」
まさか本当に飛び越えられると思っていなかったのか、元譲は隻眼を輝かせ文若に再び跳躍を命じた。今日の元譲は不自然なほど熱血漢だった。
(……元譲殿はかように熱いお人柄だっただろうか)
さすがに冷静さを取り戻してきた。犬の文若は舌を出してハアハアと息をしながらも、片方の前脚で地面をがりがりと引っ掻き己の心身の調子を整える。すると、再び元譲の声が掛かった。
「――文若! もう一度だ! お前ならできる! 飛べ! 文若!」
(なっ、なぜ私がこんな目に……)
心の内でそうぼやきながらも、文若は「ワンッ!」と返事をし再び演習場を駆けた。犬の身体は全身がバネで出来ているかのようで、とても軽やかだ。それこそ大地を駆けるために生まれてきたような気がする。走るのが楽しくて仕方がない。
犬の文若は元譲将軍の指揮のもと、広大な演習場の敷地を存分に駆け回る。
その後。匂いの追跡や不審者に襲いかかる訓練などを終えて。犬の文若は元譲と休憩時間に入っていた。
「――よしっ! ご苦労だったな、文若。ほら、お前の好きな干し肉だ」
犬ならばみんな大好きな干し肉。しかし、人だった頃の文若はそれがあまり好きではなかった。
(ほ、干し肉など……! この私が……!)
そんなものを口にするなど、花とともに過去の世界に飛んで以来だ。しかし。
(う、うまい……! 干し肉とは、かようにうまいものだったのか……!)
犬の身体に味覚が影響されたのか。元譲に投げ渡された何の変哲もない干し肉は、奇跡のような美味だった。
気がつけば、文若はあっという間に食べ終えて元譲におかわりをねだっていた。「ワンワンッ!」とうるさく鳴いて、全力で尻尾を振りながら元譲の周囲をウロウロとする。その姿は食い意地の張った分別のない駄犬そのものだ。
「ははっ、仕方のない奴だな。今日は特別にもうひとつくれてやる。よく噛んで食えよ、文若」
「ワンッ!」
ちぎれんばかりにしっぽを振りながら、犬の文若は干し肉にむしゃぶりついた。そんな犬の文若を元譲は愛おしげに見守る。
そして、休憩を終えて。再び訓練の時間である。現在、犬の文若が改めて取り組んでいるのは不審者撃退の課題であった。先ほどの訓練でこれだけはあまり上手くできなかった。
「――行けっ! 文若! 遠慮は無用だ! あの不審者役の兵士の腕に全力で噛みつけ!」
指示だしは変わらず元譲が務めている。元譲が指さす先には入隊したばかりの若い兵士が、両腕に分厚い毛布のような布を幾重にも巻きつけて、犬の文若に向かって戦闘姿勢を取っていた。しかし。
(いくら怪我をせぬように布を巻いているとはいえ、他人の腕に力の限り嚙みつくなど、なかなかやりづらいな……)
まだ人だった頃の感覚が捨てきれない。しかし、これができなければ警備犬としてやっていけるはずもない。文若は必死に己を鼓舞した。
(……今が踏ん張り時だ、荀文若! お前は立派な警備犬となり己の居場所を手にして、この国のために働くという夢を忘れたのか!? いや、忘れるはずもない! 己の夢を叶えるために、今度こそ行くぞ! 勇気を振り絞れ!)
「……ワ、ワンッ! ……ウウウウ、ワンッ!!」
犬の文若は己を奮い立たせるかのように唸り声を上げると、意を決して不審者役の兵士目指して単騎突撃していった。
「ウウ…… ワンワンワンッ!! ワンッ!! ――ガウッ!!」
「うっ、うわあ! なんだこいつ! さっきと全然違うぞ!」
覚悟を決め腹を括った犬の文若は、先ほどとは別犬のような強さを見せた。怪我防止用の布を巻いた兵士の腕に容赦なく食らいつき、腕を振り払われても離さない。
「――いいぞ、文若! 行けっ! 身の程知らずの逆徒の腕を食いちぎってみせろ!」
先ほどからずっと、元譲は犬の文若を文若と呼んでいた。正式名称は文若号らしいが、文若は複雑だった。紛らわしいことこの上ない。犬の自分をそう呼んで欲しくない。
しかし、犬の口で抗議などできるはずもなく、文若は理不尽な現状を甘んじて受け入れ、己の課題に全力で取り組んでいた。
すると、不意にこの場にいた他の兵士たちがざわめきだし、文若の犬耳に『丞相!』という言葉が届いた。
(なにっ、丞相が来られたのか……!?)
文若は不審者役の兵士を襲うのをやめ、周囲を見回した。そして、その姿を見つけるやいなや、ちょこんとお座りをした。不審者役の兵士もまた孟徳の姿を認めると、彼に向けて直立不動で礼を取る。
先ほどまで犬の文若に熱く指示出しをしていた元譲も、ようやく冷静さを取り戻したのか孟徳に対して軍人としての敬礼をした。
周囲の人間たち全員と一匹の犬から、うやうやしく礼をされながら。孟徳はたったひとり緋色の袍を翻しながら悠然とやってきて、犬の文若の眼前で足を止めた。
「――よくやっているようだな。文若の。ご苦労」
「ワンッ!」
「いい返事だ。お前は利口だな。――それにしても、元譲! さっきから文若文若うるさいぞ。面白いにもほどがあるだろ。名前くらい考えてやれ」
「……も、申し訳ありません」
元々、元譲と孟徳はいとこ同士だから、元譲は孟徳に対して敬語は使わず、彼を丞相と呼ぶこともない。しかし、今は他人の目があるからか、元譲は珍しく臣下のひとりとして孟徳に接していた。
(……丞相の仰る通りだ。元譲殿は一体何を考えておられるのか)
珍しく、文若は元譲ではなく孟徳に同意してしまう。犬としての己に何でもよいから名前を与えて欲しかった。この姿で文若と呼ばれたくないのだ。
孟徳は琥珀の瞳を細めて微笑むと、犬の文若を抱き上げた。
「さっきから、小さな身体でよく頑張っていたじゃないか。俺は感動したぞ」
孟徳は腕の中の文若を、まるで幼い我が子を見るかのような瞳で見つめながら。
「正直あまり期待していなかったんだが、お前は才能があって立派だな。明日から。俺たちのために、この丞相府のために、しっかり働いてくれよ」
「……ッ!」
採用、してもらえた。孟徳らしい雰囲気でわからせる採用通知に、犬の文若は喜びに打ち震える。
嬉しくて仕方がない。ついうっかり孟徳の腕の中で、喜びのあまりぷるぷると震えながら小用を漏らしてしまいそうになるのをこらえながら、文若は己の感情を噛みしめる。
誠にその才あれば弱といえども必ず強し、なのだ。犬と成り果てたわが身であっても、鍛錬を重ねれば国のために働ける。敬愛する孟徳の下で働けるのだ。
彼の才能をだれより理解しているのは自分だという自負がある。何の因果か犬となったが、それでも己の帰る場所は曹孟徳の旗の下だけなのだ。
孟徳のもとで、国のため人民のために働くことこそ、自分の喜びであり生きる意味だ。警備犬としての訓練は厳しくとも頑張ろう。
(立派な警備犬となって丞相府をお守りするのだ……!)
国のために今の自分のできることを。犬として……。立派な犬として……。
『――警備犬、文若号!』
『――ワンっ!』
***
「ッ、はっ……! わ、私は、犬っ……!?」
がばっと勢いよく起き上がってみたところ、そこは見慣れた自邸の寝室であった。
「っ……! ゆ、夢……?」
まだ夢うつつ。起き抜けの文若は池の鯉のように口をぱくぱくとさせるが、すると愛する妻がやってきた。
「おはようございます、文若さん。……大丈夫ですか? 少しうなされていたようですが」
文若の具体的すぎる寝言でも聞いていたのか、花はやけに心配そうにしていた。そんな彼女を安心させるべく、文若は柔らかく苦笑すると。
「いや、何でもない。私は平気だ」
「そうなんですか? ならいいんですが……。朝食はもうできていますよ。早く食べましょう」
「ああ……。すまないな」
穏やかに微笑む妻に返事をして。改めて文若は先ほどの奇妙な夢を反芻する。
(実に、不思議な夢だったな……)
犬となっても働いていた。この国のために、孟徳のもとでできることをしていた。つくづく己は筋金入りの仕事人間だ。
(……そうだな、私にはその方が合っている)
愛玩犬として、ただ可愛がられて安穏として生きるよりも。きっと自分にはその方が向いている。
花と二人で朝食をとり、揃って丞相府に出仕する。いつもと変わらない日々だ。そう、いつもと変わらない……。
「――文若、いるかぁ?」
耳慣れた声が掛かると同時に、扉が開く。
「犬拾ったんだが、見るか?」
小さくモフモフとした黒い何かを抱きかかえた己の上司こと丞相の曹孟徳を、文若は訝しげな瞳で見つめる。糸のような細い目はさらに細くなり、眉間には深い皺が刻まれる。気がつくと、思いのほか苛々とした声を出していた。
「……犬、ですか?」
しかし、苛立った様子の文若を置き去りに、花と孟徳は楽しそうに犬を囲んで笑い合っている。
「わあっ、可愛い子犬ですね!」
「でしょ? この糸のような細い目! この目がいいんだよね~ こいつならきっと立派な警備犬になるぞ!」
耳にしたことのある話だ。文若は孟徳に確認を取る。
「……丞相。今、警備犬と仰いましたか?」
「ああそうだ。この丞相府を守る警備犬だ。ちょうど軍用犬を増やしたいと思っていたところでな。訓練してものになったら、こいつを警備犬として飼おうと――」
腕の中の黒い糸目の子犬を、まるで我が子を見るような優しい瞳で眺めながら。孟徳は得意げに話を続ける。
しかし、文若にしてみれば孟徳の御託に付き合っている場合ではなかった。脳裏に先ほどの不思議な夢が蘇る。
『――警備犬、文若号!』
『――ワンっ!』
元譲の号令に合わせて返事をする犬としての己だ。孟徳の腕の中のフワフワとした黒い子犬はなるほど自分に似たところがあったが、文若は深く考えないことにした。