猫孟徳
名前変換設定
恋戦記は現在一部のお話のみヒロインの名前変換可です薄桜鬼とテニプリは名前変換可、刀剣乱舞はネームレス夢です
恋戦記小説について
現在一部作品のみ名前変換可にしていますが、ヒロインの下の名前「花」が一般名詞でもあるため「花瓶の花」などで巻き込み変換されてしまいます
それでも良い方は変換してお楽しみください。それがダメな方はデフォ名「山田花」でお楽しみください
すみませんが、よろしくお願いいたします
.
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
『……いいよな、こいつは。仕事もしないでずっと君のそばにいて、ちょっと鳴けば構ってもらえる。あーあ、俺も猫に生まれてくれば良かった』
なんてことを口にしたのがいけなかったのだろうか。
ある日の朝。漢の丞相曹孟徳は寝台の上で途方に暮れていた。隣にはすやすやと眠る愛しい花の姿がある。しかし、今日の彼女はやたらと巨大に見える。
孟徳は改めて己の手のひらに目をやるが、そこにあったのは桃色の肉球だ。先ほど部屋の銅鏡で確かめてみたが、己の頭上には三角の大きな耳があり、全身はふわふわの毛並みで覆われ、尻には長い尾があり、身体の大きさもすっかり縮んでいた。
孟徳は改めて花を呼んだ。しかし、その口から出るのは「ミャアア」という鳴き声ばかりで、人の言葉は出てこない。そして花はやはり起きない。
(……嘘だろ。本当に猫になるなんて)
こんな奇怪がまさか自分の身に起きるなんて思いもしなかった。花と一緒にいて不思議には慣れたつもりだったのに。
(……ねえ花ちゃん、花ちゃん起きてよ)
孟徳は可憐に惰眠を貪る少女の肩を猫の手でつついた。いつもよりずっと大きく感じる彼女の顔の近くで「ニャアニャア」とうるさく鳴いてみる。
昨夜張り切りすぎたせいか、愛しの花は一向に目覚める気配がない。しかし、彼女に起きてもらわなければ困る孟徳は最後の手段に出た。
(――花ちゃん! 花ちゃん! 起きて!)
孟徳は長いしっぽで花の顔をくすぐった。ふわふわの猫の尾によるくすぐりだ。これなら効くはず。すると、ようやく花が瞬きをした。
「……う、うーん。あ、あれ……?」
(花ちゃんっ! 俺だよ俺っ! なんでかわからないけど、朝起きたら猫になってて……!)
猫の孟徳は必死に花に訴えるが、あいにくその口から発せられるのは「ミャアミャア」という鳴き声ばかりだ。
一方の花は朝から見知らぬ猫に纏わりつかれて驚いたのか目をぱちくりとさせると、ふにゃりと相好を崩した。
「猫ちゃん、おはよう。どうしたの? 孟徳さんに入れてもらったの? 元気だね」
(花ちゃん! 俺が孟徳だよ! あと元気なんじゃなくて焦ってるんだよっ!)
猫の孟徳は目覚めた花に己の窮状を必死に訴えるが、残念ながら花の目にはやたらそわそわしている知らない猫としか映らない。孟徳の口からは相変わらず「ニャアニャア」という鳴き声しか発せられず、事態は完全に行き詰っていた。
しかし、そんなひとりと一匹の騒ぎを聞きつけたのか、不意に扉の向こうから穏やかな声がかかる。
「――花様、いかがいたしましたか?」
花付きの侍女の鈴麗(リンリー)だ。
「鈴麗さん。来てください。子猫がいるんです」
起きぬけで乱れていた身なりをできる範囲で整えてから、花は鈴麗を呼んだ。先ほどからずっと隣室に控えていた鈴麗は花の許可を得てからようやく入室し、花と孟徳のそば近くまでやってくる。
「まぁ。花様、そちらの子猫は……?」
「わかりません。朝起きたらこの子が枕元にいて……。私には覚えがないんですけど、何かご存じですか?」
「さぁ……。私どもは何も……」
「孟徳さんの飼い猫なんでしょうか……?」
「そのような話はお聞きしていませんが……」
「そうなんですか?」
花と鈴麗は顔を見合わせて不思議がる。孟徳はあまりのじれったさにそわそわとしてしまうが、猫の姿では間の抜けた空気を醸す二人をただ見ていることしかできない。
(……このままじゃ埒が明かないな。予想できたことだけど)
孟徳もまた事態を打開するために考えを巡らすが、やはり何も思いつかず。
(……子猫の姿じゃ仕方ないよなぁ。でもまあせっかくの機会だし、元に戻るまで花ちゃんに甘えて過ごせばいいか)
しかし、孟徳がそう結論を出したそのとき。
「……どうしましょうか。猫ちゃんはかわいいんですけど、ここに置いておくわけにもいきませんよね」
(えっ、花ちゃん!?)
「誰かの飼い猫なら飼い主を探さないといけませんし、野良なら元居た場所に返さないと」
真面目な顔でもっともらしいことを口にする花に、孟徳はかつてないほどうろたえる。
(花ちゃん!? ちょっと待ってよ! 俺を捨てるの!?)
花にとっては自然な成り行きかもしれないが、孟徳にとっては寝耳に水の発言だ。
「そうですね……。ここで飼うのはやはり……」
侍女の鈴麗も神妙な面持ちで孟徳に追い打ちをかけてくる。
(おい鈴麗! 同意するな! 花ちゃんに俺を捨てさせようとするんじゃない!)
このまま箱に入れられて捨てられたのではたまらない。主人を守らない侍女に毒づきながらも、孟徳は必死に花に取りすがる。
「ニャウッ! ニャウッ!(花ちゃん! 嫌だよ! 俺を捨てないで! 君のそばに置いてよ!)」
これまでの人生で「捨てないで」としがみつかれたことはあっても、しがみついたことはなかった。孟徳にとっては初めての体験だが、今の状況でなりふりなど構っていられない。大きな瞳を限界まで見開いて、声の限り鳴き叫びながら孟徳は花にへばりついた。
「わっ、急にどうしたの?」
「フンニャー! フンギャアアア!」
すると侍女の鈴麗がくすくすと笑った。
「ずいぶんと花様に懐かれているご様子ですね」
「どうしましょう。猫ちゃんはかわいいんですけど、飼うとなると孟徳さんが」
「ニャウウッ! ニャウウウッ!(花ちゃんっ! 違うよ! 俺が孟徳だから!)」
「困りましたね……」
ほとんど絶叫しながら花にすがりつく孟徳だが、花は意見を変えるつもりはないようだ。完全に猫の孟徳を捨てるつもりでいる。
「フニャアアアアアアア!(おい鈴麗! 困ってないでお前も花ちゃんを説得しろ! お前、昔猫が好きとか言ってなかったか!? 俺は覚えてるぞ!)」
特技は暗記。面接の際の侍女の発言をきっちり覚えていた孟徳である。
孟徳は理不尽な怒りを侍女に向けるが、身も世もなく鳴き叫び花にしがみつく見知らぬ子猫がさすがに不憫になったのか、猫好きの鈴麗は孟徳に助け船を出してくれた。
「……本日の昼餉のときに丞相にご相談されてはいかがですか? 花様のお願いでしたら丞相もお許しくださいますよ」
(鈴麗! 偉いぞ! 褒美にお前は二階級特進だ!)
それは戦死だ。しかし気が動転している孟徳はそれに気づかない。
「はい、そうします!」
先ほどとは打って変わって、花はぱあっと表情を明るくした。鈴麗に励まされて希望に燃えているようだ。
花は孟徳の前足の付け根に両手を入れて抱え上げると、柔らかく微笑んだ。
「よかったね、猫ちゃん。これからも一緒にいられるように、孟徳さんにお願いしてみるからね」
「ニャウッ!(ありがとう、花ちゃん!)」
先ほどは取りつくしまもなかったが、侍女の助けでなんとか危機を脱して孟徳はご機嫌だ。
(……ん?)
しかしここで孟徳はようやく重大な矛盾に気が付いた。本日の昼餉のときに相談とはどういうことだろう。ここには人の自分もいるのだろうか。
そういえば丞相の雲隠れと騒ぎになっていないのもおかしな話だ。これだけの時間執務を離れていれば騒動になっているはずなのに、花も侍女もいつも通りで、部屋の外も静かだった。
(どういうことだ……?)
不審に思うが猫の身では確かめようもない。自分の執務室に行こうとしても途中でつまみ出されるのが精々だろう。孟徳は仕方なく昼餉の時間まで花の部屋で過ごすことにした。
***
しばらく前にこの城内で起きた丞相暗殺未遂事件。丞相の孟徳を庇って刺客に刺された花はなんとか一命を取り留めたものの、今も日々の時間の多くを寝台の上で過ごしていた。
傷は一応塞がったもののまだ痛むことがあり、過保護すぎる孟徳の意向で療養に専念させられていたのだ。
以前と違って仕官しているわけでもない、花の毎日は平和そのものだ。先ほどまで部屋にいた侍女もすでに下がり、今は花と孟徳の二人きり。
花は寝台から身を起こし、黙々と書簡を読んでいた。以前、当時の上司だった文若に用意してもらった文字の教本や兵書だ。寝台の近くの机には筆や硯と言った筆記具がいつでも使えるように準備されている。
(そういえば気が向いたときにひとりで勉強してるって言ってたな)
健気な花に心を震わせながらも、孟徳は彼女の腕の中でその温もりを堪能していた。ごろごろと喉を鳴らしながら目を閉じていると、優しい花の声が降り落ちてくる。
「……猫ちゃん、可愛いね。どこから来たの?」
「ニャーニャー」
「う~ん、何て言ってるかわかんないや」
「ニャウ……」
「ごめんごめん」
何の生産性もない不毛な会話である。しかし、孟徳は気にならなくなっていた。
元々あまり悩まない方だ。気にしても仕方のないことを気にするのは無意味に思うし、理不尽な状況でも現状が変えられないならいっそ楽しんでしまおうと、孟徳は決めてしまっていた。
(ま、俺は花ちゃんと一緒にいれるなら何でもいいしね)
孟徳は「ニャン」とひと鳴きすると、花の身体に頭をぐいぐいと押しつけた。猫の頭突きは愛情表現だ。
(ねえ、もっと構ってよ。花ちゃん)
勉強にかまけて自分を放置している花を誘惑しようと、孟徳は大きな瞳をきらきらと輝かせて熱い視線を送る。花はそんな孟徳を見おろして優しく微笑むと。
「……猫ちゃん、これからも一緒に過ごせるようにお昼に孟徳さんにお願いするから、ちゃんとお利口さんにしててね」
「ミャウ……」
「心配しなくても大丈夫だよ。孟徳さん優しいし、きっと許してくれるよ」
「ミャア……(不安だ……。不安で仕方がない)」
花に言われずとも自分のことなど自分が一番よくわかっている。孟徳は心の内でつぶやいた。
(俺のことを優しいって言ってくれるのは花ちゃんくらいだよな)
小さくてかわいらしいものは嫌いではない。けれど自分から花を奪おうとするなら話は別だ。自分のことだからきっと花のいない隙に。
『このっ、お前なんてカラスに襲わせてやるからな!』
それくらいのことは言い出しかねない。邪魔な奴を事故にみせかけて殺す程度はお手のもの。恋敵が自分だなんて最低だ。しかも権力にものをいわせて好き放題。
(仕事はしたくないが権力は欲しいな……)
可愛い子猫の姿のまま、曹孟徳は権力を渇望する。そんな孟徳の心の内はつゆ知らず、花は再び話しかけてきた。
「ねぇねぇ猫ちゃん」
「ニャ?(なあに? 花ちゃん)」
「ずっと猫ちゃんじゃなんだし、私が名前をつけてあげよっか?」
「ニャッ?(えっ、ほんとに?)」
「うん。さっき考えたんだ。『マオくん』はどう?」
「ミャウ……(安易だね……。花ちゃん……)」
得意満面の笑みを浮かべる花に、孟徳は生ぬるい笑顔を返す。そのまんまだ。けれど。
(でも、君がつけてくれる名前ならなんでもいいよ。俺は喜んで受け入れる)
猫の孟徳は喜びを込めてひと鳴きした。
「ニャオ~~ン」
「気に入ってもらえてよかった」
猫の姿とはいえご機嫌なのは伝わるらしい。花は嬉しそうに笑うと、手にしていた書簡を閉じて脇に置いた。
「それじゃあ、呼んだらお返事してね。――マオくん!」
「ニャッ!」
「わ~~上手! じゃあもっぺん呼ぶね、マオくん!」
「ニャ!」
「上手~~!」
きちんとお返事をする孟徳に、花はおおはしゃぎだ。勢いあまって猫の孟徳をぎゅっと抱きしめる。花の控え目な胸が全身に押しつけられ、孟徳は喜びを嚙みしめるが。
しかし、自分は一体何をやっているのだろうか。ふと我に返ってしまった、孟徳は複雑な気持ちになってしまう。
おかしな名前を付けられてニャアニャア返事をし、あまつさえそれを上手上手と褒められて。花は嬉しそうにしているし、自分も猫の姿なら仕事も何もせず、ただ安穏としていられるけど。
(……花ちゃんの抱っこは最高だけど、人が動物になるなんて、なんでまたこんなことになったんだろうな)
人が動物になる変身譚といえばかの有名な人虎伝だ。あの彼は臆病な自尊心と尊大な羞恥心のために虎になってしまったが、自分ときたら。
(『働きたくない』で子猫になったな)
そんな馬鹿な。確かに仕事はしたくないが、この曹孟徳ともあろう男が。
(……でもまあいいか。仕事は代理がしてくれてるみたいだし)
なにをどう心配しようが、子猫の姿ではどうすることもできないのだ。孟徳は気にしても仕方ないことは気にしないことにして、花の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らした。
「――奥方様」
扉を叩く小さな音とともに、穏やかな声がかかる。半刻ほど前にこの場を離れた侍女の鈴麗だ。
「あ、鈴麗さん。どうぞ」
「ありがとうございます。……マオ様用のおもちゃをお持ちしました。よろしければお使いください。この時期の子猫には入用でしょう」
鈴麗は入室してすぐ、花に猫じゃらしのようなおもちゃを恭しく差し出してくる。
猫の名前に様づけが新鮮な気もするが花はあえてそれには触れず、鈴麗の気遣いにお礼を伝えておもちゃを受け取った。
「ありがとうございます。お借りします」
「そんな、滅相もない。差し上げますよ」
「本当ですか、ありがとうございます。わざわざすみません」
(まあ花ちゃんの……。俺の妻の猫だしな。お猫様扱いにもなるか)
この調子なら昼飯は豪華なものが食べられそうで、孟徳は安堵した。いかに猫の身とはいえ、殺したての庭園のスズメなど食いたくもない。ネズミだってごめんだ。
鈴麗が下がったのを見届けて、花は嬉しそうに孟徳の眼前でおもちゃを振った。
「よかったね、マオくん。せっかくだし、これで今から遊ぼうか!」
「……ニャッ?(……え? 猫じゃらしで?)」
(いや、確かに今の俺は子猫だけど猫じゃらしは別に…… って、ああああ身体が勝手にっ!)
「――ニャウッ!! ニャウウウウウウッ!!」
哀しいかな、子猫の本能。孟徳は目の前で揺らされる猫じゃらしに反射的に飛びかかっていた。そのまま両の前足で抑え込み、無我夢中でかじりつこうとする。
しかし、花の操る猫じゃらしは孟徳の前足の間をさっとすり抜けて、宙に舞い上がった。
「フンニャアアアアアア!!」
興奮した孟徳は伸びあがって猫じゃらしにしがみつこうとするが、猫じゃらしは巧みな動きで孟徳の攻撃をかわし、ひゅんひゅんと揺れながら凄まじい速さで地を駆けてゆく。さながら本物の野ネズミのような俊敏さだ。
(――ああっ! 何でこんなッ! 花ちゃんッ! 花ちゃんひどいよ……ッ!)
猫の孟徳は猫じゃらしを猛烈な勢いで追いかけながら、花に想いをぶちまけるが。あいにく猫の口からは「フンギャア」だの「フガフガ」だの、意味不明の叫びしか出てこない。
「ニャアアアアッ!(俺はッ! 君に抱っこされているだけでッ! よかったのにッ! あっこら待て!)」
猫じゃらしを操る花は天才的な才能を見せた。とにかく猫じゃらし捌きが上手いのだ。届きそうで掴めない、あのふわふわ。まるで本物の虫やネズミのようで、孟徳は夢中になって追い回してしまう。
今や花の寝台の上では大運動会が開催されていた。出場者は猫の孟徳ただひとりだが。
(くっこの、今度こそ捕まえて……!! あっかわされた!!)
「――あははっ、マオくん、こっちだよこっち」
やたらとイイ笑顔の花に、孟徳の胸に甘く切ないものがこみ上げる。
(花ちゃん、花ちゃんひどいよっ! こんなに、こんなに俺をもて遊んで一体どうするつもりなの……!?)
花が操る猫じゃらしは再び空高く舞い上がった。孟徳が渾身の猫パンチを繰り出しても決して届かない、空高くに。
結局、孟徳はその後たっぷりと花の猫じゃらしにじゃらされてしまったのだった。
(つ、捕まえられなかった……。あんなに粘ったのに……)
これでも、人だったときは武人でもあった。多くの戦で自ら指揮を執り、雨のように降る矢や紅蓮の炎の中を馬で駆け抜け、敵将を追い詰め刃を交えた。運動神経には自信があったはずなのに。
(……花ちゃん、君は俺をじゃらす才能まであるんだね)
正確には俺ではなく猫なのだが、孟徳はそんなことにも気づけないほどに感動していた。憧れのこもった、きらきらとした瞳で花を見上げる。
(すごく、すごく楽しかったよ……。花ちゃんの操る猫じゃらしとの追いかけっこ)
また、あれがしたい。すっかりやみつきになってしまった。
(あんなに、あんなに楽しい遊びがこの世に存在するんだね。俺、知らなかったよ……!)
花に渡された猫じゃらしをがじがじと噛みながら、後ろ足でけりけりとしながら、猫の孟徳は感動に打ち震えていた。まだ、この世界にこんなにも知らないことがある。こんな新鮮な驚きは久しぶりだった。
人だった頃の己は、全てを手にし全てに倦んでいた。政と戦、それらの職務に追われる充実しているはずの日々を、なぜかとてもつまらなく感じていて。
虚しさを紛らわせたくて恋をしたり遊んだりしたこともあったけど、本当の幸せや満足はついに得られなかった。花と出逢って、彼女を愛するようになるまでは。
(花ちゃん、君はいつだってこんなにも簡単に俺を救い上げてくれるね……)
猫じゃらし一本で救われてるんじゃねえよ。どこからか天の声が聞こえた気もするが孟徳はそれをガン無視し、大きな瞳を興奮に潤ませながら花に熱い視線を送った。
(花ちゃん、もう一度君と遊びたいよ。また、猫じゃらしを振ってよ。ねぇ、花ちゃん……)
猫の孟徳は両の前足で猫じゃらしを抱えたまま「ミャアミャア」と甘く鳴き、己の全力のかわいらしさで花を誘惑したが。
「よしよし。マオくんお疲れ様。私、しばらくお勉強をしたいから待っててくれる?」
まるでわがままな子供をなだめるように孟徳の頭を優しく撫でてから、花は再び書簡を手に取った。
「ミャウ……」
やはり彼女は難攻不落だった。子猫の愛くるしさをもってしても己になびかない花に、孟徳は改めて彼女への愛を深めたのだった。
***
寝台から身を起こし兵書に目を通している花の隣で、孟徳は丸くなってうとうととしていた。
花の勉強が終わるのを待っているうちに眠くなってしまったのだ。猫じゃらしを追いかけてじたばたと暴れまわった先ほどの疲れを癒やしている。
大きな窓から降り注ぐ暖かな日差しの中、飼い主の少女の隣で遊び疲れて眠る子猫。あまりにも平和な絵面だ。
猫の孟徳は穏やかなまどろみの中、無意識のうちに花の掛布団に吸いついた。
これもまた幼い猫の本能だ。がじがじと甘噛みをしながら、まるで母猫の乳を吸うようにちゅうちゅうとやっていた。花もまた愛猫の幸せそうな様子に気がついて柔らかな笑みをこぼす。
孟徳にとってはこれ以上ないほどに幸せなひとときだ。何を心配することもなく愛しい花の隣でうとうととまどろんで。やがていつの間にか、猫の孟徳は本当に眠り込んでしまった。
他の生き物の赤ちゃんと同じように、子猫もまた一日の大半を寝て過ごす。猫の孟徳が眠っているあいだ、花は寝台で兵書を読み、筆を使って文字の練習をしていた。
そして、太陽がちょうど南の空高く昇った頃合い。
「……はぁ疲れた、ちょっと休憩しようか」
花はぽつりとつぶやくと、すやすやと眠る愛猫の丸い背中を撫でた。すると花が動いた気配を察知したのか、孟徳が目を覚ました。くわぁと大きなあくびをして、小さな身体をぐーっと伸ばして、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせて、花を見上げてくる。
「あれ、マオくん起きたんだ? 寝てても良かったのに」
つぶらな瞳で見つめてくる猫の孟徳の首筋を、花は片手で撫でてやる。繊細な指先が孟徳の被毛の奥を優しくくすぐり、孟徳は嬉しそうに目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。
(ああ、花ちゃん……。気持ちいいよ……)
猫が喜ぶ場所をよく知っている花の愛撫の心地よさに、孟徳は蕩けそうになってしまう。
首のまわりや顎の下は自分で毛づくろいしにくい場所のため、多くの猫は撫でられると喜ぶ。
孟徳も例外ではなく、目を閉じて喉を鳴らしながら「もっと撫でて」と首をぐっと伸ばした。かわいい愛猫のご機嫌な様子に花も嬉しそうだ。
「……よしよし、いい子いい子」
いつもよりずっと優しい囁き声で呼びかけながら、慈愛に満ちた瞳で猫の孟徳を見おろして。花は孟徳の小さな顎の下で指先を何度も往復させる。
(花ちゃん、花ちゃん、大好きだよ……)
花によしよしと撫でられながら、孟徳は天にも昇る気持ちでそう繰り返していたが。そんな幸福な時間は前触れもなく破られた。
「――花ちゃん、入ってもいい?」
「……フニャッ!?」
あまりにも覚えがありすぎる男の声が扉の向こうから聞こえ、猫の孟徳ににわかに緊張が走る。
「……孟徳さんですか? どうぞ」
「――ありがとう」
扉を開けて入ってきたのは見間違えるはずもない、人だった頃の己と生き写しの男だ。
鳳凰の描かれた緋色の袍、右手に巻かれた革紐に片耳だけの耳飾り。わずかに垂れた琥珀の瞳に、愛しい女性にだけ見せるとろけるような甘い笑顔。
猫の孟徳は亡霊を見るような思いで彼を見上げる。
(俺だ、紛れもなく俺だ……。どういうことだ……?)
疑心に満ちた瞳で見上げるものの、残念ながらなんの綻びも見つけられず。
(……俺が子猫であいつも俺で)
ここに花をめぐる子猫の孟徳と丞相の孟徳の、世にも不毛な戦いが始まったのだった。
今の孟徳の身体は花の両手に乗ってしまうくらい小さい。なにせまだ生まれて少ししか経っていない子猫なのだ。けれど、自尊心の高さだけは負けていない。猫の孟徳は挑みかかるような瞳で、丞相の孟徳を睨みつける。
(こいつにだけは、負けたくないな……)
たとえ自分であろうとも、今の孟徳にとっては他の男だ。そんなものに愛しい花をとられるなんて許せない。絶対に負けられない戦いがここにあった。
(花ちゃん、俺は誰かと君を分け合うなんて嫌なんだよ……。それがたとえ自分でも、他の猫でも……)
しかし。
(……右腕の革紐が気になって仕方がないな)
本能とはつくづく哀しいものだ。猫の孟徳は丞相の孟徳の右手の革紐に釘づけだった。人の孟徳が右手を上げるたびに、袖口からちらちらと覗く紐の先端に飛びつきたくなる衝動を必死で抑えていた。
正直な本音を言えば、今は花よりもあの革紐のことが気になって仕方がない。
(紐、紐、紐ッ……! あの紐、あの紐に飛びつきたい……ッ! あの紐をつかんで思いきり引っ張りたい……! 何なんだこの激しい衝動は……!)
しかし飛びついても邪険にされるに決まっている。
(……そうだよな。どうせ払いのけられるに決まってる)
自分は賢い猫だ。甘えるべき相手くらいわかっている。
(花ちゃん……)
猫の孟徳は己の身の内で暴れまわる衝動を鋼の理性で抑え込みながら、花を見上げた。花はこちらには見向きもせず、人の孟徳にだけ優しい笑顔を向けていた。孟徳の心の中に『すれ違い』の劇伴の導入部が流れ始める。
かわいがってはくれるけど、花は別に猫好きなわけではない。以前かわいがっていた猫だって「たまたまこの子がここにいついたから」という理由で世話を焼いていた花だ。人の孟徳が来れば猫は後回し。
そもそも、花は人の孟徳がいかに焼きもちやきで我が儘で甘えん坊かを知っているから、気を遣ってあえて猫を放り出して人の彼の相手ばかりをしているのだ。花は自分の立場や物事の優先順位をきちんとわかっている、賢くて優しい女の子だから。
けれど、頭では理解できても心は追いつかない。人の孟徳に優しくする花を見たくなくて、猫の孟徳はぷいとそっぽを向いた。
(……花ちゃん、俺を差し置いて浮気だなんてひどいよ)
本当は間男は自分の方なのだが、猫の孟徳はあえてそれは考えない。しかし、小さな胸には苦いものがこみ上げる。
こらえきれなくなった猫の孟徳は花の寝台から飛び降り、ぴゅーっと駆けて行った。人の……丞相の孟徳に目をつけられないように柱の陰に身を隠す。
他の男に笑顔なんて向けないで、自分だけを構って欲しい。こんなみじめな負け猫みたいな嫉妬心、人だった頃に感じたことなんて久しくなかったのに。
漢王朝の丞相として位人身を極めた己も、子猫となり果ててしまった今はただかわいいだけの無力な存在だ。花が他の男に纏わりつかれていても、相手が相手なこともあり、邪魔することも割って入ることもできない。
けれど、そっぽを向いていても人の耳より遥かに性能のいい猫耳は、しっかりと音声を拾ってしまう。花に甘える人間の……丞相の孟徳の声だ。
「――花ちゃん、怪我の具合はどう?」
「――そっか、よかったよ……。うん、いつも心配してる。仕事してるときも、なんだか君のことばかり考えちゃって……」
「――え? やだなぁちゃんとやってるよ! 元譲や文若だっているし、俺だって真面目に働くときだってあるんだよ……」
自分の声のはずなのに妙に癇に障る。意中の女相手の甘ったるい声だからだろうか。
(このっ! 覚えてろよ! 花ちゃんの前だからって猫かぶりやがって……!)
人の自分のあまりの豹変ぶりに苛立った猫の孟徳は、目の前の柱に思いきり爪を立てた。そのまま全力で爪とぎを始める。カリカリカリカリ。えんじ色の柱にいくつもの獣の爪痕が刻まれてゆく。
(くそっ……! くそっ……! あの野郎……! 花ちゃん、嫌だよ、なんでこんな……。あんなオッサンのどこがいいんだよ……! あんな年増のぶりっ子なんかより、俺の方がっ……!)
カリカリカリカリ。猫の孟徳はやり場のない悲しみをぶつけるかのように、磨き上げられた調度品に傷をつける。後で怒られるだろうけど構うもんか、そもそもこれは自分が設えさせたんだ。
(俺の城の俺の調度品だぞ……! なんの問題があるんだ……! それに、そもそもこれは花ちゃんが……っ!)
小さな小さな獣の身体で猫の孟徳はじたじたと暴れまわった。すると。
「――ねぇ花ちゃん。あの猫さっきから、城の柱で爪とぎしてない?」
「えっ!? あっ、マオくん! こらっ!」
(っ、しまった!)
悪事に気づかれてしまった猫の孟徳は慌てて逃げ出した。今度は大きな家具の後ろに身を隠す。
「――もう、マオくんのバカ……! すみません孟徳さん。あんなことするような子じゃないんですけど」
「――あはは、別にいいよ。あとで人を呼んで直させるから。そんなことより……」
人の孟徳は意外なほど心が広かった。子猫一匹の粗相など意にも介さず、ただ花だけを見つめて甘い笑顔を浮かべている。
(……そうか、普段俺はこう見えているんだな)
調度品の陰からひょこっと顔を出し、猫の孟徳は人の孟徳に視線を送る。
若い女に縋る哀れなオッサンの姿がそこにあった。「頭痛がつらい」だの「仕事が片付かない」だの、そんなことばかり口にして哀愁を演出し、隙あらば花に甘えようとしている。
(本当はまだ元気なくせに調子に乗りやがって……)
人の孟徳の偽りを見破り、猫の孟徳は悪態をつく。それにしてもいかに相手は自分とはいえ、花が他の男を相手にしている場面なんてやはり見たくない。なんて悪夢だ。
(花ちゃんのバカ……。あんなやつ、金と地位しか取り柄のない性悪の年増じゃないか)
猫になっても孟徳は孟徳だった。他人の嘘を一目で見破り、気に入らない奴の悪口を言って、自虐風自慢をかましながら、思い通りにならない恋人に八つ当たりをする。
(俺なら……。俺ならこんなに若くてかわいいのに)
なにせ小さな子猫なのだ。金で買えない価値がある。しかし見た目には自信があるが、あいにく見た目しか取り柄がない。
かわいいだけで何もできない子猫の孟徳は、ぎゅっと目を閉じた。嫌なものは見たくない。もう耐えられなかった。
(花ちゃんのバカバカ……! それでも大好きだよ、花ちゃん……! 花ちゃん……! 俺だけの……! 俺だけの……!)
***
「――孟徳さん、孟徳さん、起きてください。こんなところで眠ったら風邪をひきますよ」
「……っ! ……あ、あれっ?」
目を開けると許都の城の庭園の風景が飛び込んできた。そこで自分は転寝をしていたようなのだが……。元々用心深くて眠りの浅い自分が、こんなところで眠り込んでしまうなんて珍しい。
「お疲れならお部屋に戻りますか?」
「……大丈夫だよ。ごめんね花ちゃん。何でもないんだ」
「そうですか、ならいいんですが……」
心配そうにこちらを覗き込んでくる花に微笑みを返して、孟徳は己の姿を確かめる。
頬や頭上に手を当て、両の手のひらや足先に視線をやった。よかった、ちゃんと人の姿だ。ふわふわの毛並みも桃色の肉球も三角の大きな耳もない。けれど。
「……孟徳さん、何してるんですか?」
不審な振る舞いをしていたら、花に心配されてしまった。眉間に皺を寄せ口をへの字に曲げた彼女は、それこそ小さな子猫なんかより、ずっとかわいらしい。
先ほどは「なんでもない」と誤魔化した孟徳だったが、やはりことの真相を正直に話すことにした。彼女には嘘のない本当の気持ちを、いつだって伝えておきたかったから。
「……さっき、夢を見たんだ」
「夢ですか?」
「うん。俺が子猫になって君にお世話される夢」
「孟徳さんが猫になるんですか?」
「うん、すごく臨場感あふれる夢でね。だからつい、確かめちゃったんだ」
「孟徳さんはちゃんと人ですよ。猫じゃないです」
「――本当に?」
「もう、わかってるくせに聞かないでください」
嘘が分かるという孟徳の特技を知っている花はむくれるが。まるで幼い子供のようなあどけない表情に、孟徳は相好を崩して笑った。
出会ったころから今まで様々な出来事を経てきたのに、今もなお変わらないまま、自分を面白がらせてくれる彼女が愛おしい。
(花ちゃん、俺はね。君のことが本当に愛おしくて仕方がないんだよ。俺にとってたったひとりの大切な君のことが……)
胸の内にこみあげた想いは秘めたまま、孟徳は穏やかな瞳で話を続ける。
「あはは、ごめんごめん。子猫の姿で君に甘えるのも楽しかったけど、猫の姿じゃ他の男に抱きつかれてる君を見てることしかできなかったから、やっぱり人がいいな」
「……えっ!?」
他の男に抱きつかれる。孟徳の言葉に花はわかりやすくうろたえる。本当に浮気をしたわけでもないのに、大きな瞳を可哀想なほど揺らして絶句していた。
孟徳は何やら大いに誤解しているらしい彼女に淡く苦笑すると。
「……夢の中でね、人の俺と猫の俺で君の取り合いをしてたんだ」
「そ、そんなことしてたんですか……」
「うん。だけど、猫の姿じゃ人の…… 丞相の俺には勝てなかったから、やっぱり人の姿がいいって思った」
「もう、孟徳さんってば」
二人の孟徳に取り合われるなんて大変そうだ。冗談抜きで戦が起こるかもしれない。
「君を他の誰かと共有するなんて俺には耐えられなかったよ。それがたとえ自分でも、他の猫でもね」
「孟徳さん……」
自分のこれまでの所業は棚に上げ、孟徳はここぞとばかりに己の一途さと独占欲を花に訴えようとする。
「だから……」
しかし、甘い時間は長くは続かない。
「――孟徳! すまん! 仕事だ」
どこからか聞こえてきた野太い声が、孟徳の安らぎのひとときをぶち壊す。
「…………」
「あの、孟徳さん」
「…………」
「すまん、孟徳! 文官の連中からどうしてもと言われ……」
「……花ちゃん、俺ついに疲れでどうかしちゃったのかな。聞こえないはずの声が聞こえる」
「すまん、この書簡だけ、この書簡だけでいいんだ……!」
「はああ……」
「も、孟徳さん……」
「……ん、大丈夫だよ、花ちゃん。ちゃんと仕事はする」
自分と元譲を交互に見上げながらひたすら困惑する花に、どこか引きつった笑みを返して。
「はぁ……。たまの休みでも仕事仕事、やっぱり猫になりたい気がしてくるよ。嫌なことは全部忘れて、君に甘えて過ごしたい」
「孟徳さん……。それは、ちょっと……」
「あはは、冗談だよ。冗談。半分だけは、ね」
何ひとつままならない愛すべき己の日常に、猫でない方の孟徳はため息をついた。
***
猫の孟徳が花のところにやってきてしばらく経った。当初はやたらと意思表示の激しい見知らぬ猫の出現に、戸惑いを隠せない花たちだったが。
猫の孟徳は今やすっかり丞相府に馴染んでおり、花の隣に一匹の愛くるしい子猫がいることはただの日常になっていた。
猫の孟徳も心得たもので、最近は人の孟徳の目の前でも遠慮はしなくなっていた。そう、なにせ自分は子猫なのだから。かわいがってくれる飼い主に甘えるのは当然のことなのだ。別に何もおかしくはない。
そして、猫の孟徳は勘づいていた。花を傷つけ悲しませることを何より嫌がる人の孟徳は、自分に決して手出しできない。
丞相の孟徳の弱みを見透かした猫の孟徳は、今日も神をも恐れぬ振る舞いで、我が世の春を謳歌していた。
寝台から身を起こし書簡を読んでいる花をきらきらとした瞳で見上げ、花の手の甲に己の小さな前足をそっと重ねて抱っこをせがみ、しまいには花の腕の中にすっぽりとおさまって満足げに喉を鳴らす。
まるで小さな恋人のような振る舞いをする猫の孟徳に対して、いつの間にかやってきていた人の孟徳は「あはは、そいつ本当に君のことが大好きみたいだね」と腕を組みながら鷹揚に笑っていたが。
***
「――は~~あ。あの猫、早く死ねばいいのにな」
ここは丞相の執務室だ。今この場にいるのは孟徳とその側近である元譲と文若の三人だけ。気心知れた部下たちの前で、孟徳は正直すぎる本心を吐露していた。
「ひどいことを言うな、孟徳。あいつが可愛がっている子猫なんだろう」
「そうなんだがな。なぁ~~んか見てて腹が立つんだよなぁ。あいつオスだよな。ついてたもんな。あいつ花ちゃんを自分の恋人か何かだと勘違いしてんじゃないのか」
「…………」
ほの暗い病んだ瞳でぼやく孟徳に、元譲は黙り込んだ。こうなった彼には何を言っても無駄だと経験で知っているから、元譲はもう何も言わない。
一方、隣の文若は孟徳の露骨な言い回しに眉を顰め、こめかみに手を当てていた。
『ついてたって、どこに何がついてたのですか。猫の股間より上げた書簡の内容をご確認頂けませんか』
とでも言いたげだ。しかし、それをそのまま口に出すほど文若は愚かではない。
側近二人の微妙な空気には頓着せず、孟徳は死んだ魚のような目で吐き捨てる。
「ったく忌々しい。カラスにでも襲わせてやりたいな。彼女が悲しむからしないけど」
猫の孟徳が人の孟徳を嫌っているのと同じ程度には、人の孟徳も猫の孟徳を嫌っていた。限りある花の愛と関心を奪い合う敵同士。まさに近親憎悪といったありさまで、いがみあっていた。
「――まだ小さな子猫です。母親が恋しいのでしょう。猫は飼い主を己の母と見なすと聞きます」
「……母、ねえ」
石頭の部下にずれた励ましをされて妙な気分になった人の孟徳は、話者の真意を探るべく文若にちらりと視線を送った。
その発言に嘘はなく、自分も似た話を聞いたことがあったが、やはりどうしても納得できない。
(い~や、アレは母じゃなくて好きな女に対する態度だね)
自分にはわかる。種族は違えど同じ男としての勘だった。昔から、直感には自信があった孟徳である。戦と政と色恋に関わるものならなおさら、外したことなどほとんどない。
同じ女性を愛する真の意味で同じ男同士、人の孟徳と猫の孟徳は通じ合っていた。
しかし、そんなことを察せる文若ではない。色恋に関しては戦力外というより、もとより戦力になる気すらないお堅い尚書令は改めて口を開く。
「丞相、本日も予定が詰まっております。花の子猫は侍女にでも預からせますので、こちらの書簡を」
「いや、そこまでしなくていい。可愛い盛りのを取り上げたら寂しがるだろうしな。……ったく、強力な敵が増える一方だ」
文若に差し出された書簡を受け取り、孟徳は中身に目を通す。自分としては本当は仕事なんてしている場合じゃないけど、やらないと眼前の面倒な糸目が怒り出すので仕方がない。
「はぁ~あ。やっぱり猫になりたい気がするな」
「丞相」
「……何でもない」
王佐を自負する部下に今日も怒られ、猫になれない孟徳は口をつぐんだ。