ねこのひかる
名前変換設定
恋戦記は現在一部のお話のみヒロインの名前変換可です薄桜鬼とテニプリは名前変換可、刀剣乱舞はネームレス夢です
恋戦記小説について
現在一部作品のみ名前変換可にしていますが、ヒロインの下の名前「花」が一般名詞でもあるため「花瓶の花」などで巻き込み変換されてしまいます
それでも良い方は変換してお楽しみください。それがダメな方はデフォ名「山田花」でお楽しみください
すみませんが、よろしくお願いいたします
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思えば今まで色々なことがあった。まだ名前が中学生だった頃に猫カフェで出会って、すぐに家族にしてもらって、五年ものあいだ家族として一緒に過ごして、憧れにも似た恋心をずっと封印していた。
そして今年の春、大学進学を機に一人暮らしをはじめた名前に連れられて、このマンションにやってきた。
ひとつ屋根の下で大好きな名前と二人きり。いつも一緒で幸せだったけど、彼女の口から大学で知り合った他の男の話を聞くたびに、ただの飼い猫のくせに嫉妬に駆られて苛立ちを募らせていた。
あの奇跡が起きたのはそんな中でのことだった。
最初は自分のことしか考えてなかった。自分の感情の全てを、綺麗なものも醜いものも全部、力の限りぶつけることを愛だと思っていて。そして自分の思い通りにならないことがあるたびに腹を立てていた。
思えばあの頃の自分はどうしようもなく幼かった。身勝手で我儘で、名前を愛していたつもりでも結局は自分のことしか考えていなかった。
「――ねぇ光、私たち、いつまで一緒にいられるのかな」
ベッドの中、腕の中の名前は今夜も寂しげに自分を見上げてくる。大きな瞳は涙で潤んでいた。彼女はいつからこんなに弱くなってしまったのだろう。以前の温かく柔らかな笑顔はもうずっと見ていない気がする。
「それは言うたらアカン約束やろ」
そう励ましても、名前はずっと悲しそうなままだ。長い睫毛がゆっくりと伏せられる。
「……そうだね、ごめん」
「泣くなや。ほら」
彼女の目尻から伝う涙を、光は優しいキスでぬぐう。しかし、その涙は止まらなかった。あとからあとから溢れてくる。
「ほら、俺のことで泣くな言うたやろ。笑って、名前」
「うん、ごめんね、光……」
自分でも残酷なことを言っていると思う。けれど、これ以外の励まし方が分からない。
本当はどう振る舞うべきなんだろう。鉛のように重い何かを心の内に抱えながら、光はそんなことを考える。
「ほら、もう遅いんやし寝るで、明日も大学あるんやろ」
彼女を寝かしつけようと髪をなでてやりながら、光は穏やかな笑みを浮かべた。名前にしか見せない、淡く優しい微笑みだ。
「うん、おやすみ、光」
光の胸に顔を埋めながら、名前は辛そうながらも笑ってみせる。血色を失った青白い顔に貼りついた、生気をなくした弱々しい笑み。
それはかつての強く優しかった彼女からは想像もできない姿で、これでは名前の方が先に儚く消えてしまいそうだ。
光はそんな名前を、両腕できつく抱きしめた。彼女がいなくなってしまわないように。この恋を見失ってしまわないように。
(……今度は、俺がコイツを支えるんや)
人間になるあの力は、本当は余命いくばくもないペットの心を慰めるための神様の厚意だった。悔いのない生を送らせて、やがて訪れる死を安らかに受け入れさせるための力。
それを知る前は、たった数時間しか人になれないことを不満に思い、自分もそう生まれたかったと人間の男性を妬んでいた。せっかく与えられた力に感謝もせず、自分の不安や自信のなさを埋めるために、大切な彼女を困らせていた。けれど、今は違う。
自分の余命ことを知ったときはショックだったけど、時を経た今は、穏やかな気持ちで受け入れることができている。人になれる力をくれた神様にも、今は素直に感謝できている。
あの力をくれてありがとう。一日たった四時間だけど、この力のお陰で、大好きな名前とさらに深く愛し合えた。楽しいことよりも苦しいことの方が多い恋で、自分も泣いたし名前も沢山泣かせたけど。
それでも。一日数時間だけでも人になれるようになってよかった。こんな自分を受け入れて愛してくれた名前にも、ありがとうと言いたい。
最後まで不完全で不器用な自分で、もうすぐ会えなくなってしまうけど、ずっと名前のことを愛しているよ。最初で最後のデート、観覧車で指輪を贈ったときの、永遠を願ったあの気持ちに嘘はないよ。
自分の腕の中で眠る名前を見つめながらそんなことを想って、光もまた瞳を閉じる。
***
鉛色の曇天に荒れ果てた大地。ひび割れた地表の間隙からは紅蓮の炎が噴き出している、おおよそこの世のものとは思えない異様な世界。そんなところに、この二人はいた。
「やっぱりここは暑いししんどいわね~ ユウくん」
「ほんまやな~ 小春」
小春とユウジだ。名前と光からは妖精さんと呼ばれているけど本当は天使。猫の光に人間に変身できる力を与えてくれた神様の御使いだ。
二人は背中の金色の翼を羽ばたかせて、この恐ろしい世界の空を飛んでいた。
「まさか、ミケ子がほんまに煉獄に迷いこんでしまうなん思わんかったわ」
ユウジは困った様子で頬を掻く。
「そうねぇ……。だけど、あの子も飼い主に執着してたものねぇ……」
小春もまた眉を下げてため息を吐く。
ミケ子とは、光と同じ虹の橋キャンペーンの当選者のミケ猫だった。可愛らしい小さな子猫で、子供のいない中年夫婦に可愛がられていたのだが、昨日ついにその短い生に幕を下ろした。
しかし、現世の飼い主夫婦に強い執着を残した彼女は自力では成仏できずに、あろうことか天国と地獄の境の、この煉獄に迷い込んでしまった。
ユウジと小春の本日の任務は、この世界のどこかにいる彼女を見つけ出し、天国まで連れて行くことだったのだが。
「でも、猫と言えば、光クンたちは大丈夫かしらね……」
「……心配やな」
小春とユウジは表情を曇らせる。猫つながりで思い出してしまった、自分たちの担当顧客のうち一組。
あちらもペットの方が飼い主に強い執着を示していた。そのうえ飼い主とペットの年が近く、しかも異性だったせいで、恋人同士のような関係に陥ってしまっていた。天使二人の間に重い沈黙が落ちる。
しかし、そのとき。ユウジは燃え盛る炎の隙間に、見慣れた少女の姿を見つけた。人の姿の彼女だ。
「――あ、小春見てみい! ミケ子おったで」
「あっ、ほんまや!」
二人は慌てて彼女のもとまで飛んでいき、上空から声をかけた。
「ミケ子~! 見つけたで~!」
「こっちよぉ~! ミケちゃ~ん!」
「あっ、ユウコハちゃ~ん!」
ユウジたちの声に気がついたミケ子は、明るく返事をするが。ずっと一人で泣いていたのか、大きな目の周りは赤く腫れていた。
「ミケ子あかんやろ、ここは天国やなくて煉獄や、お前が来たらあかんとこやで」
「せやで、ミケちゃん。もう肉体はのうなったのに、いつまでも現世に執着するからこんなとこに迷い込むんや」
ミケ子の眼前にふわりと降り立つと、ユウジと小春は口々に彼女を叱る。優しく教え諭すようなその口調。しかし、ミケ子は二人をキッと睨み返した。
「だって、パパとママが!」
父母といっても、実際の両親ではなく飼い主夫婦のことだ。子供のいない中年夫婦はミケ子を実の娘のように可愛がっていた。
そしてミケ子もまた、そんな二人に過剰な愛と執着を抱くようになっていた。
「あんなに悲しんでたもん! 私だってパパとママと離れたくないよ!」
ムキになって言い返す様は、尊く美しい親子愛。
「天国になんて行きたくない! お家に帰してよ!」
ミケ子は気持ちのままに叫ぶが、現実はそれを許さない。それを知るユウジは声を荒らげる。
「何言うとんねん! お前はもう死んだんや、体かて焼かれて骨になったやろ!」
「体なんていらないもん! オバケでいいからお家に帰る! 帰してよ!」
しかし、ミケ子は一歩も退かない。勝気で我儘な幼い少女。
甘やかされ過ぎたのか、あるいは愛情が強すぎたのか。コンパニオンアニマルとして人間と同じように可愛がられたペットは、しばしば現世の飼い主に執着し成仏を拒む。ここ数年、そういう子たちが急激に増えた。だからこその虹の橋キャンペーンだった。
悔いのない生を送らせて、思い残すことなく最期のときを迎えさせる。神の教えに背かないように、寂しさに迷って道を踏み外してしまわないように。
「……ミケちゃん、あんな」
さすがにこのままではいけない。眉を寄せた小春がミケ子の肩に手を伸ばした、そのとき。
「――哀れなり、娘よ」
地の底から響くような声にミケ子は肩を竦ませる。ユウジと小春もまた、ハッとしたような顔をする。
「この煉獄の炎をもってしても煩悩を清められず、成仏を拒むとは」
どこからともなく現れたのは、漆黒の法衣を纏った高僧だった。
「銀!」
ユウジが彼の名前を呼ぶ。銀と呼ばれた彼は、地獄への案内人だった。成仏を拒み煉獄や現世を彷徨う魂を捕らえ、地獄に連れて行く。
彼に囚われてしまったら、今度こそ取り返しがつかなくなる。ミケ子を渡すわけにはいかないと、ユウジは声を張り上げる。
「これ以上地獄行きの子を増やすわけにはいかんねん! 俺らの査定に響くんや!」
「さてい?」
あまりにも卑近な単語に、ミケ子が不意に真顔になる。しかし、彼女の隣の小春は、眼鏡を持ち上げながら醒めた口調で言った。
「――アンタは知らんでええねんで」
煩悩にまみれたやりとりだ。この場で最も浄化が必要なのはミケ子ではなく天使二人のようだ。
「とにかくアカン、この子は渡さんで!」
世にも間抜けな決め台詞を発したユウジは、自ら前に出てミケ子と小春を庇うように立った。地獄の使いの魔の手から二人を守ろうとする。
「しかし本人が成仏を拒んでおる」
だが、銀は動じず淡々と言葉を続ける。
「この場所におっても、いずれ魔物に食われるばかり。聞こえるだろう。あの恐ろしい唸りが」
銀がそう口にすると同時に、どこからともなく低音の唸り声が風に乗って聞こえてきた。
「ならばその前にワシが地獄に連れて行く。世のことわりを乱し、生命の輪廻に逆らう罪深い魂には、相応の罰を与えねばならん」
罪深い魂、相応の罰、恐ろしい単語にミケ子は青ざめる。
「――その娘を渡せ、天使」
銀はユウジたちに迫る。この煉獄にいてもいずれ魔物に食われてしまうけど、地獄に連れて行かれればもっとむごい仕打ちが待っている。凄惨な拷問を加えられ、自身の罪深さを思い知らされてから、悪魔に魂を食われてしまうのだ。
拷問を受けずに死ぬか、受けてから死ぬか。煉獄と地獄ではその違いしかないけれど、地獄の拷問の悲惨さを知っているユウジは声を張り上げる。
「まだ小さい子ォや、迷っとるだけやで。まだ分かっとらんのや。この世のことわりも、肉体の死が何を意味するのかも」
「コハちゃん、地獄ってなあに」
「……それは」
小春は一瞬だけ言いよどむが、伝えた方がいいと判断したのか、改めて口を開いた。
「現世で悪いことをした人や、死んでも成仏を拒む人らが行くとこや」
「そうだとも。地獄とは世を乱す罪人を処するところ。愚か者に相応しい罰を与え、その魂を滅ぼすのだ」
銀は静かな声で続ける。
「暗黒の業火に焼かれ百年の時を苦しみ、最後は悪魔に魂を食われる。咎人に相応しい哀れな末路だ」
現世での死は肉体の滅びだけど、魂の滅びは本当の消滅だ。完全な無となり、生命の輪廻から外れて消える。
「ッ!」
自分に与えられるかもしれない罰の内容を聞き、ミケ子は息を呑む。すると、そのとき。
「――グルル……」
低い唸りとともに、どこからともなく巨大な犬にも似た何かが姿を現した。三つ首の狼だ。
輝く銀の体毛に蛇のたてがみと竜の尾を持つそれは、地獄の門を守る魔狼の兄弟で、煉獄を徘徊している化け物だった。
恐ろしい化け物の登場に恐怖したミケ子は、その場に力なくへたり込む。そして、彼女は魔物の口のあたりを指さすと。
「あれ……って!?」
魔物がくわえていたのは、血まみれの少年の死体だった。小柄で黒い短髪、左耳にピアスをつけた少年は、しかし、名前に飼われている光ではない。
似た面差しの別人だ。けれど、違う子であってもユウジと小春は胸を痛める。
現世での死ののち煉獄に迷い込み、天使に救い出される前に魔物の餌食となったあの子は、自分たちが救えなかった魂の末路なのだ。
化け物は死体を乱暴に打ち捨てる。少年の亡骸は固い岩肌に叩きつけられると、すぐに塵と化した。
かつて少年だった塵は、あっと思う間もなく紅蓮の炎に呑みこまれ、煉獄の灰色の空に噴き上げられる。彼の未練は清められたのだろうか。
「――さあ、その娘を渡してもらおう。天使よ」
「イヤや言うとるやろ! 査定に響くっちゅーんや!」
しかし、あんなにも無慈悲な光景を目にしたばかりだというのに、ユウジは相変わらず妙な理由で銀の要求を拒む。すると、ついにミケ子が叫んだ。
「や、やだ! 私、地獄なんて行きたくない! ユウコハちゃんと天国に行く!」
「よお言ったで!! ミケちゃん!!」
ミケ子の叫びに小春は表情を輝かせる。
「ほらみい! お前はとっととその化けもん連れて帰れや!」
「……仕方ない」
得意げに胸を張るユウジに、銀は淡々と言葉を返した。その細い瞳からは何の感情も読み取れない。銀はゆっくりと踵を返すと、音もなくその場から姿を消した。
あとに残された化け物は、しばらく名残惜しそうに佇んでいたが、おもむろに遠吠えのような唸りを上げると、岩肌を蹴りどこかに駆けて行ってしまった。
「やったわね、見逃してもらえたわよ!」
「うん!」
無邪気に喜びあう小春とミケ子。ユウジはそんな二人に明るく言った。
「よっしゃ! ほな、天国いくで!」
迷える魂を極楽浄土にご案内、それが彼ら天使の本来のお仕事だ。
「今度は迷わんように、がっちりお手て繋いでいくわよ!」
「せやで、もう手間かけさすんやないで!」
小春とユウジは、それぞれミケ子の左右の手をギュッと握りしめた。少女を真ん中に手を繋ぐ姿はまるで、しっかり者のお兄さん二人と可愛い妹のような微笑ましさだ。
「は~い!」
お笑い天使にエスコートされて、ミケ子は上機嫌だ。そのままミケ子は天使二人の翼で、空高く舞い上がる。三人仲良く、荒れ果てた煉獄から美しい天上界に向かっていく。
***
カーテンの隙間から眩しい朝日が差し込んでいる。まだ日が昇ったばかりだけど、名前はすでに目覚めていた。自分の隣で丸くなっている小さな黒い姿を、黙ったままじっと見つめている。
猫の姿の光だ。人への変身は一日四時間だけだから、朝までは一緒にいられない。日が昇る前に、光は猫の姿に戻ってしまう。
呼吸のたびに腹部を小さく上下させて、安らかに眠る光を見つめるうちに、これまでの彼との思い出が名前の脳裏に蘇る。
初めて出会った猫カフェ、まだ中学生だったあの頃。それからあっという間に時が流れて、気がついたら名前は大学生になっていた。光を連れて実家を離れて一人暮らしを始めて、あの奇跡が起きた。
普通に考えれば絶対にありえないような間柄だったけど、それでも、ずっと可愛がっていた光から同じように大事に想ってもらえていたのが嬉しくて。名前は彼が猫であろうと人であろうと同じように愛していくと決めた。
恋人が同じ人間ではないことに苦しんだり、光の余命のことを知って神様を恨んだこともあった。
けれど、そのことがあったからこそ人の姿の彼と出会えて、こんなにも深く心を通わせることができたのだと思い直して、名前は懸命に光の死という運命を受け入れようとしていた。
辛いことも沢山あったけど、とても幸せだった。初恋はいつだって甘くほろ苦く、そして叶わないけど。名前は気持ちを奮い立たせて、この厳しい現実と闘おうとしていた。
(……苦しいけど頑張るからね、光)
光の飼い主として、恋人として。誰よりも彼を愛しているから。どれほど辛くとも最後まで彼と向き合って、その最期をきちんと看取るのだ。
光に朝ご飯をあげてから、名前は身支度をして大学へと向かう。
季節は移り変わってもう冬だ。街路樹の葉は枯れ落ちて、吹く風は肌を刺すように冷たい。今日も吐く息が白くなるほどに寒く、名前も周囲の人々も皆コート姿だった。
大学の構内を校舎に向かって歩いていると、名前は友人に声を掛けられた。
「――名前! おはよう」
「……綾香。おはよう」
仲のいい女友達の綾香だ。以前、名前が強盗事件に巻き込まれたときは、自分のことのように心配してくれた。しかし、明るく声を掛けてきた彼女は、名前を見て眉を寄せると。
「名前、なんか痩せた? 大丈夫?」
「痩せてないよ。もう、綾香ってば」
「ホントに?」
「ホントだってば、もう」
心配そうに尋ねてくる友人に対して、嘘をつくのは心苦しかった。けれど、本当のことを話せるわけもなく、名前は誤魔化すほかない。
強がっているだけだと、自分でも気づいていた。ここのところずっと食欲がなく、病的なまでにやつれてしまっている。鏡に向かっても、あまりの顔色の悪さに驚いてしまうほどだ。青白くて、まるで幽霊のように見える。
(……でも頑張るの。光と約束したんだ)
泣かないこと、強くなること。どんなに苦しくても、笑顔でいること。
その頃。光は無人の室内で、じっと身体を休めていた。リビングの猫ベッドで、名前の着古したニットに埋もれるようにして丸くなっている。
レースのカーテン越しに見えるのは、冬の澄んだ青い空だ。名前は夕方まで帰ってこないけど、彼女の匂いのするふわふわのニットさえあれば、光は頑張れた。
愛しい名前の匂いに包まれているだけで、安心できて癒される。たとえ彼女がいなくても、この温もりさえあれば一緒にいるように思える。
(……せや、アイツかてあんな辛そうなのに頑張っとるんや)
意識を失いかけるほどの腹部の激痛に耐えながらも、光は名前の弱々しい笑顔を思い出す。
(……だから、俺も)
しかし、病魔に蝕まれた身体にはかつてのような体力はなく、それに引きずられるように、苦しい痛みと闘う気力も奪われてゆく。
元気だった頃は一人で気ままに過ごしていた無人の室内。あの頃は名前の不在も、心の洗濯くらいにしか思っていなかったのに、今は心細くてたまらない。
寂しくて辛い。身体の痛みよりも今は、隣に名前がいないのが苦しい。本当は今すぐにでも帰って来て欲しい。学校になんて行かずに、片時も離れず自分のそばについていて欲しい。
行かないで、一人にしないで、ずっとそばにいて。どれほど大人ぶっていても、光の本心はそんな幼い子供だった。けれど、彼は決してそれを口にしない。これ以上、愛する名前の人生の邪魔はしたくなかったのだ。
大学を休ませるわけにはいかない。ずっとついていてもらっても、どうせ病気は治らないのだ。それに今だって名前は懸命に、自分を支えようとしてくれていた。外出は最低限で、休日はずっと家にこもって自分のそばについていてくれた。
光は固く目を閉じて、必死に痛みをやり過ごす。
(…………ッ)
あとどのくらい待てば、名前は自分のもとに帰って来てくれるのだろう。空の様子からいっても、早くてあと半日後だろうか。
(……名前)
光は寂しさに瞳を潤ませる。早く会いたい。早く帰って来て。優しい声で名前を呼んで。
「――光」
そう、こうやって名前を……。
(……?)
無人のはずの室内で、名前の声が聞こえた気がして、光は顔を上げる。ぼんやりと、靄がかかったようににじむ視界。
眼前に広がっていたのはマンションのリビングではなく、あの懐かしい猫カフェだった。
(……何でや、ここは)
朦朧とする意識の中、光が呆然としていると、正面に大きな影が落ちた。紺色のセーラー襟に赤いリボン。両膝を床について、優しい声で名前を呼んでくれる。
「――光、大好きだよ」
忘れるはずなどない。眼前にいるのはセーラー服の似合う中学生の女の子。自分に会いに毎日のように来てくれた。
(名前……?)
後頭部に温かな手のひらが触れる。なでられているのは頭部なのに、なぜか腹部の痛みが消えてゆく。
ここは無人のマンションの一室のはずなのに、大学生の彼女の下宿先のはずなのに、なぜ?
だけど、そんなことはもうどうでもいい。彼女の手のひらは、どうしてこんなにも温かくて心地いいんだろう。
「――光、安心して。これからはずっと一緒だよ」
優しい囁きに光は涙ぐむ。それはずっと光が求め続けていた言葉だった。猫カフェから引き取られたときも、名前は柔らかな笑顔でそう言ってくれた。大好きな彼女の家族にしてもらえたのが、涙が出るほど嬉しかった。
そして、光は何かに包み込まれるような感覚を覚える。まるで誰かに抱きかかえられているようだ。名前にそうしてもらったときのことを思い出し、光は安堵する。先ほどまではあんなに心細かったのに、今は満ち足りた気持ちだ。
すると、光は不意に強烈な睡魔に襲われる。まるでどこか別の世界に引き込まれてしまいそうな強い睡魔だ。抗うことなどできない。
(……俺、死ぬんかな)
名前の声が上方から降り落ちてくる。
「――光、おやすみなさい」
眠ってはいけない、脳裏に誰かの声が響くが、病に侵された身体は言うことをきかない。
(……でも、死ぬ前にアイツの声が聞けたからまあええか)
光はそっと瞳を閉じる。いつの間にか体の痛みは消えていた。今なら満ち足りた気持ちで旅立てそうだ。
(……おやすみ、名前)
小さなベッドの中で安らかに眠る黒い猫。それは時が止まったかのように動かない。無人の室内は、まるで絵画に描かれた世界のように、全てが静止していた。
そして半日後の夕暮れどき。ドアの鍵を開ける音がマンションの室内に響いた。
「光、ただいま~」
名前だ。ようやく大学から戻って来た。玄関先は無人だったけど彼女は驚かない。以前は毎回だった光のお出迎えも、彼が具合を悪くした今はもうなくなっていた。
けれど、部屋の奥には光の気配がたしかにあって、名前はそれでお迎えをしてもらったような気持ちになっていた。しかし、今日は様子が違った。何の物音も気配もない、水を打ったように静まり返った室内。
「……光?」
静かすぎる部屋の様子に名前は違和感を覚える。
「――ッ!!」
反射的に手にしていたカバンを投げ出して、靴を脱ぎ捨て、名前はリビングへと駆け込んだ。そして、自分の目に飛び込んできた光景に、彼女は言葉を失う。
冷たいフローリングの上で、名前の愛猫は四本の足を投げ出して横たわっていた。その目はたしかに閉じられていて、名前は衝撃に息を呑む。
「――光っ!! 光っ!!」
この世の終わりのような悲鳴を上げて、名前は彼に駆け寄った。そのまま、名前は彼を抱き上げようとするが。よく見ると、光の腹部は呼吸で小さく上下していた。どうやら眠っているだけのようだ。
「……っ!」
よかった、とは言葉にならない。大粒の涙を溢れさせ、名前はその場にへたり込む。あまりの辛さと苦しさに、名前はそのまま俯いて肩を震わせて泣いた。嗚咽交じりの号泣だ。フローリングに涙が落ちて幾つもの染みを作る。
こういうことがもう何度もあった。眠っている光を死んでいると勘違いして狼狽する。そのたびに、名前は胸を潰すような苦しい思いをしていた。
(光、苦しいよ……)
まるで真綿で首を絞められているような、生殺しの辛さだ。いつまでも宙ぶらりん。けれど、それが解消されるのはもっと嫌だった。光がいなくなるなんて、そんなことは、やはり名前には受け入れられない。
(……私のバカ。辛いのは私じゃなくて光なのに)
泣かないでいると約束したのに。元気でいると約束したのに。けれど、実際の自分は泣いてばかりだ。彼に隠れるようにしてめそめそと。
深すぎる愛は、こんなにも人を弱くするのだろうか。自身の心の内の弱さや怖れに振り回されて、名前は疲弊しきっていた。
(……私より光の方がずっと辛いんだから、私がしっかりしなきゃいけないのに……)
安らかに眠る光の隣で、名前は涙をぬぐってかぶりを振る。すると。その気配でようやく名前の帰宅に気が付いたのか、光が目を覚ました。
「ニャウ」
何度か瞬きをしてゆっくりと起き上がると、小さな声で名前に向かって挨拶をした。
『おかえり』
覇気はなくとも穏やかな笑顔を向けてくる。猫の姿でも分かる。今の光はとても嬉しそうだ。
「……光っ!」
名前は光を抱きかかえると声を上げて泣いた。今度は安堵の号泣だ。よかったと何度も繰り返して、彼の名前を呼ぶ。光が生きていて、自分に笑顔を向けてくれることがこんなにも嬉しい。
かつては当たり前でしかなかったこと。けれどそれが失われようとしている今は、こんなにも尊く感じる。
光は少しの間不思議そうにしていたが、幸せそうに瞳を細めた。大好きな飼い主さんからの抱っこは、こんなときでも嬉しく感じてくれるようだ。
どれくらいそうしていただろうか。しばらく経ってようやく泣きやんだ名前は、真面目な顔で光の目を見つめた。
「……ねえ光、お願いがあるの」
いつになく真剣な様子の彼女に、光はわずかに小首をかしげて彼女を見上げる。
***
「――小春さん! ユウジさん!」
夜半、名前は妖精二人を呼び出した。小春とユウジ。猫の光に変身の力を与えてくれた神様の御使いだ。名前の呼び声に応えてすぐに、二人は煙とともに名前たちの眼前に現れる。
名前の隣で大人しく座っている光は、二人にじっと視線を送る。
「どうしたんねん、名前ちゃん」
「なんや、こんな時間に」
もう夜も遅く、こんな時間に呼び出されたのは初めてだった。金色の翼を生やした手乗りサイズの二人は、口々に尋ねてくる。
「実は、お願いしたいことがあって……。小春さん、ちょっといいですか?」
名前は恥ずかしそうに頬を染めると、小春だけを部屋の外に連れ出した。
「……何や、小春だけって。浮気か」
取り残されたユウジは不満げな顔をするが、名前が小春に何を頼もうとしているか知っている光は何も答えない。大人しく二人の戻りを待つ。
数分後、戻って来た名前と小春の瞳は、なぜか涙で潤んでいた。小春は目尻の涙を指先でぬぐうと、おもむろに先端にハートのついたステッキを懐から取り出した。
「――次にキスしたら四時間十分じゃなくて四百十分の変身やで! 大事に使いなさい!」
そう叫んで、光にステッキを向ける。
「奥義、桃色両想い~~!!」
小春の甲高い声が響くと同時に、一瞬だけあたりにピンクの光が満ちた。
「小春、何したんやこれ」
話に一人だけ置いて行かれているユウジが、戸惑った様子で尋ねるが、小春は相手にしなかった。
「乙女の秘密の魔法よ!」
そして、小春はユウジの腕をむんずと掴むと。
「帰るわよ、ユウくん!」
「なっ、ちょっ、小春……!」
そのまま、小春とユウジは姿を消してしまった。再び白い煙がポンと爆ぜて、室内には名前と猫の姿の光の二人だけが残される。
「……光、大丈夫?」
気づかわしげに、名前は光に声をかける。光は緩慢としたペースながらも起き上がると、名前を見上げて返事をした。
身体は辛そうだけど、これだけできる元気があれば大丈夫だ。名前は安堵する。
「やったよ、光。小春さんがいいって言ってくれたよ。時間もオマケしてくれたよ」
「……ミャウ」
光は小さな声でひと鳴きすると、緑の瞳を潤ませて感慨深そうに名前を見上げた。
名前が小春に頼んだこと、それは光と一線を越えることを許して欲しいというものだった。
一線を越えてしまったら、光は人間に変身する力を失ってしまう。人の姿の光には、もう二度と会えなくなる。一線を越えなくても、光とはあと数か月で会えなくなってしまうけど。それでも。
初めて愛した人と、初めての記念すべき夜を迎えたい。それが名前と光の、最初で最後の我儘だった。
「七時間だって。よかったね。これで、朝まで人の姿で一緒にいられる……」
名前の言葉は力なくたどたどしい、けれど真剣さと愛情が伝わってくる。だからきっと、小春も時間を倍にしてくれたのだろう。
次の七時間の変身で、ついに愛する人と結ばれる。しかしそれは、この上もない喜びであると同時に、悲しみでもあった。人の姿の光とは、これでもう会えなくなる。文字通り、一緒に過ごす最後の夜。
猫の姿の彼とはこれからも一緒にいられるけど、名前は悲しみと寂しさに涙をこぼしてしまう。人の姿の光ともう二度と会えないという事実は、猫と人の両方の彼を愛する名前にはやはり重かった。
ぐずぐずと泣く名前のもとに、光がゆっくりと歩み寄って来た。猫の姿の彼は無言で、名前の身体を三回小突いた。
「……光」
その仕草はキスをねだるものだ。つまり。
「……光、変身したいの?」
「ミャウ」
「今すぐで、いいの? 次に変身したら……」
最後になっちゃうんだよ? とはさすがに口にできず、名前は喉を詰まらせる。
「ニャウ」
しかし、光はもう一度鳴くと、再び名前の身体を三回叩いた。一度の瞬きもせずに、真摯な瞳で名前を見上げてくる。
決意のこもった大きな瞳。綺麗なグリーンの虹彩は元気だった頃と何ひとつ変わらない。けれど、それ以外はすべて変わってしまった。
病魔に蝕まれた身体はやせ細り、あれほど美しかった毛並みはすっかり艶をなくしてしまった。
しかし、それでも光は最後の力をふりしぼり、この恋と自身の天寿を全うしようとしていた。そんな彼の姿に心を打たれた名前は、ごしごしと涙をぬぐうと。
「……うん、わかったよ」
そして、彼女は寂しそうに微笑むと。
「……光、ありがとね」
光も瞳を潤ませる。これで最後なのだと思うと、自分も胸が潰れるほど苦しい。猫の姿だから泣けないけど、人間の姿だったら涙をこぼして嗚咽を漏らしていただろう。
「……じゃあ、私シャワー浴びてくるね」
つぶやくようにそう言うと、今の時間を確かめて、名前はバスルームへと向かった。その後ろ姿を見送りながら、光は考える。
こんなに急がなくてもよかったんじゃないかとか、そんなふうには思わない。もういつ死ぬかもわからないこの身体。引き延ばす理由も、ましてや拒む理由もなかった。
――やっとこの恋が実るんだ。何年もの間、憧れて焦がれて。けれどずっと諦めていたこの恋が、ようやく叶おうとしている。
それはとても嬉しいことであり、同時にとても悲しいことでもあった。彼女と一線を越えてしまったら、自分はもう二度と人間の姿になれなくなる。
叶った瞬間に失われてしまう恋だけど、それでもこの思い出は永遠だ。
魔法はいつか解けてなくなる。けれど、思い出は忘れてしまわない限り、ずっと自分たちのもの。
幼い初恋の締めくくりに、妖精二人は思い出をくれた。形に残らないけど記憶に残る、永遠に色あせないたったひとつの贈りもの。