ねこのひかる
名前変換設定
恋戦記は現在一部のお話のみヒロインの名前変換可です薄桜鬼とテニプリは名前変換可、刀剣乱舞はネームレス夢です
恋戦記小説について
現在一部作品のみ名前変換可にしていますが、ヒロインの下の名前「花」が一般名詞でもあるため「花瓶の花」などで巻き込み変換されてしまいます
それでも良い方は変換してお楽しみください。それがダメな方はデフォ名「山田花」でお楽しみください
すみませんが、よろしくお願いいたします
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そして夏の終わりのある日。いよいよ計画は実行に移された。
「これがマグロなんやなあ……」
巨大な水槽を見上げて感慨深そうにつぶやく光に、名前は吹き出すように笑う。
関西で一番大きな水族館。港近くで、すぐ隣には大きな観覧車やショッピングモールがあるところ。二人の初めてのデートらしいデートだけど、制限時間は四時間十分だ。猫の光が人間の男の子の姿でいられる時間。
ゆったりと泳ぐマグロをいまだに目で追っている光に、名前は笑いかける。
「そうだよ。光が好きなやつだよ」
今は人間の男の子の姿だけど、本当は猫の光。好物はマグロの猫缶だ。本物と念願のご対面を果たして、感動に打ち震えている様子。
「そうか、これが……」
ぽつりとつぶやいて、光は改めてマグロを凝視する。クールなふりして興味津々だ。
水族館の中は、まるで深海にいるかのように薄暗い。アクリルガラスの向こうの群青の世界を泳ぐ大きなマグロは、黒いダイヤと呼ばれるのも納得の美しさだ。光はマグロを見つめながら。
「ほんますごいわ。これがあの、めっちゃ美味いやつなんやな……」
好奇心を隠しきれていない様子の光に、楽しんでくれているみたいでよかったと、名前はほっとする。あとは、光が元気そうでよかった。胸の内で名前はそうつぶやく。
お互いに明るく振る舞っているけど、本当は光は病を患っていて、あと半年も生きられない。だから遠出して遊びに行くなんて、本当はよくないことだった。
けれど、二人の最初で最後の思い出として、お出かけしようと決まったのが今回の水族館デートだった。もちろん光の容態が変わったらすぐに戻る。お互いに無理をしない、させないという約束のもとでのデートだ。
水族館はマグロがいるというのもあるけど、空調の効いた屋内で夏でも過ごしやすく、光の負担になりにくいからと選んだ場所でもあった。四時間だけだけど、のんびりと楽しみたい。
「ねぇ光、こっちジンベイザメいるんだって、早く行こうよ」
いつまでもマグロを見つめている光の手を取って、名前は先に行こうとする。光と水族館というのがよほど嬉しいのか、名前はとてもご機嫌だ。その幸せそうな笑顔は、悩み事や心配事など何ひとつなさそうな、穏やかなものだった。
「ん、ああ…… せやな」
光も微笑み返して、二人は薄暗い水族館の中を手を繋いで進んでゆく。
光もまた、名前と同じくとても幸せそうにしていた。二人の様子は、周囲の他のカップルや家族連れの人たちと何ひとつ変わらない。余命わずかな恋人との最初で最後のデートという悲愴感はない。あくまでも自然体だ。
この幸せが永遠に続くと信じて疑っていないかのような、無邪気な振る舞い。
けれど、それでいいのだ。残りわずかな大切な時間を明るく過ごそうと二人で約束しあった。
ペットは元々長く生きられない。猫ならどんなに長く生きても十五年程度。いつかは別れなければならないときが来る。けれど、そういうときが来ても、名前に元気でいてもらいたいというのが、光のたっての願いだった。
そして名前は、彼のそんな願いを健気に実践していた。悲しい顔は決して見せず、まるで光の病のことなど忘れたように、何も知らなかった頃と同じように、明るく振る舞っている。
(……ごめんな。でもお前には強くなって欲しいんや)
いたいけな彼女に辛い要求を強いていることは、光自身も分かっていた。しかしそれでも、彼女には強くあって欲しかったのだ。それは光のためというよりは、名前自身のために。
とはいえ正論で割り切ることもできず、油断すると光の胸も痛み始める。けれど、この痛みには耐える他ない。仕方がないのだ。今の自分にできることもまた、名前と同じく悲しみを押し隠して明るく振る舞うことだけなのだから。
生まれつきのポーカーフェイス。感情が顔に出ないタイプでよかったと感謝しながら、笑顔の名前に手を引かれ、光は水族館の中を進んでいく。
少し行った先にあったのは、まるでトンネルのような水槽だった。海の底まで潜ったらこんな感じなのだろうか。他のお客さんたちと一緒に、ゆっくりとしたペースで歩きながら光は思う。
マントのような大きなエイや、カラフルな熱帯魚の群れが頭上をすっと泳いでいく。群青の世界は地上とは別世界の美しさだ。深海の青いパノラマ。
名前と手をつないで歩みを進めながら、光は上方の景色を眺める。今まで映像だけでしか知らなかった世界が、目の前にあるのは不思議な気持ちだ。
光はずっと室内飼いで、今までは名前のお家の中と、名前に引き取られる前にいた猫カフェの店内くらいしか知らなかった。そして、パソコンやテレビの画面に映し出される画像や映像。
それが人間になれなかった頃の、まだ普通の猫だった頃の、光の世界の全てだった。
しかし、人間になれるようになって、名前と一緒に外にお出かけするようになって、光は色々なことを知った。映像ではない、五感全てを使って味わう現実。
先ほどのマグロだけではない。移動中の車窓からの景色や、チケット売場の人混みに、美しい青い空。晩夏の湿気をはらんだ暑い風や、子供たちの笑い声に、水槽のアクリルガラスの冷たい固さ。そして、すぐ隣にいる名前のコロンの匂いも、二人で半分こしたアイスクリームの美味しさも。
光は世界の美しさや広さを改めて実感し、改めて名前と神様に感謝した。自分をここまで連れてきてくれてありがとう。人間に変身する力をくれてありがとう。
元々は余命短いペットの心を慰めるための変身の力だったけど、この力のおかげで自分は幸せだ。猫の姿では不可能だとずっと諦めていた夢が、今は全て叶っている。ずっと好きで憧れだった飼い主さんと、まるで本当の恋人同士のようにデートできている。
残り少ない命でも、人間になれるようになったお陰で、自分はこの上もないほど幸せだ。
海底トンネルをくぐり抜けると開けた場所に出た。この水族館の一番の見どころの大水槽だ。ビルの数階分くらいありそうな巨大なアクリルガラスの向こうには、ゆったりと泳ぐジンベイザメがいた。雄大なパノラマだ。ジンベイザメを見上げる人たちは、皆とても小さく見える。
光は名前に連れられて、水槽のガラスのそばまでやって来た。人混みを縫うようにしてたどり着いた最前列。
「すごいね、光。ジンベイザメだよ。私も初めて見たよ」
「ほんまにすごいなあ……」
先ほどのマグロも大きいなと思ったけど、ジンベイザメはそれとは比較にならない。体長は十メートル以上もあり、まるでモンスターか怪獣のようだ。今もゆったりと泳ぎながら、大きな口を開けて海水を吸い込んでいる。
その様は巨大な掃除機だ。人一人くらいなら余裕で丸飲みできてしまいそう。そんなジンベイザメの後ろを、アジの大群がついていくように泳いでいる。
一匹一匹は数十センチ程度でも、数千匹単位の大きな群れとなると圧巻だ。群青の海水の中でもなお、照明の灯りを受けて銀の輝きを放つ巨大な魚群は、息を呑むほどに美しい。
鈍く輝く渦のようなそれが、光と名前の眼前を流れるように泳ぎ抜けてゆく。その様子はさながら海中の竜巻だ。トルネードのような群舞は、まるで脈動する巨大な生命体。光は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。
「おお……」
「こっちもすごいね」
感心している様子の光に、名前も相槌を打つ。
「ほんまやな」
光は口元を緩めて微笑む。
「……光は、やっぱりマグロが一番好きなの?」
「……?」
唐突に発せられた名前の質問の意図がつかめず、光は不思議そうな顔をする。
「初めて見て一番感動したのって、やっぱりマグロ?」
なぜか随分と真剣な表情で、名前はそう尋ねてきた。たしかに食べ物で一番好きなのはマグロの猫缶だけど、それはあくまで好物の話だ。眺めて一番感動したのは。
「なんやろうなあ……」
けれど、改めて尋ねられると悩んでしまう。みんな綺麗で、みんなすごかった。
美味しそうなマグロも、巨大なジンベイザメも、数千匹単位のアジの群れも、マントのようなエイも、色鮮やかな熱帯魚も、不思議な美しさのクラゲも、みんなそれぞれ綺麗で。
「……やっぱ選び切れへんわ」
全部、素敵で選べない。珍しく素直な光の返答に、名前は満足そうに目を細める。
「私も、一番なんて選べないよ」
全部綺麗ですごかったもん。ぽつりとそう続けて。まるで海の底にいるかのような、水族館の薄暗い照明の中で、名前は淡く微笑む。
今日も自分の飼い主さんは、本当に可愛らしくて綺麗だった。今日のデートのために張り切って新調してくれた白いワンピースや、貝殻やパールのあしらわれたネックレスやヘアアクセもよく似合っていて。
その姿はまるで、深海のお城で暮らす人魚姫のような、儚さと美しさだった。
***
館内を一周した後、二人は外に出てきた。もうおやつの時間を過ぎた頃。暑い盛りを過ぎたのはよかったけど、残り時間はもう少ない。
光が人に変身したのは水族館に着いてからだったけど、四時間十分の変身時間は丸一日のデートには、やはり物足りなく感じる。
しかし、二人は芝生でのんびりとくつろいでいた。海が近いからか、カモメのような鳥が頭上遥かを舞っている。少し離れた場所には巨大な観覧車があった。こちらも関西で一番大きいと有名なもの。
いつものように、名前は光に膝枕をしてあげていた。水族館の館内とはいえ沢山歩いたから休憩中。同じようにくつろいでいるカップルや家族連れも多かった。
「……なんか、公園とか思い出すね」
「せやな」
二人でよく訪れた近所の公園や川辺。美しい芝生の上で、名前はよくこうやって光に膝枕をしてあげていた。
張り切って遠くにお出かけしてきても、やることは普段と変わらない。いつも通り、のんびりと仲良く過ごす。
「そうだ、光。次はどこ行く?」
「ん…… 別に俺はなんでもええで」
「なんでもいいの?」
「今日は名前の我儘なんでも聞いたるよ。元々今日はそういう日やろ」
ぶっきらぼうでそっけないけど、発言の内容は驚くほど優しい。今までの光の振る舞いからは考えられない。
「えっ?」
思わず名前は彼を見返してしまう。
「……疲れんやつ限定やけどな」
淡く頬を染めながら、名前から目を逸らして。光は照れ臭そうにそう付け加える。
「……光」
あまのじゃくな光が初めてくれた、素直に名前を思いやる言葉。今までならきっと、もっと辛辣な言葉が返ってきていた。考えるのが面倒だとか、そんなのお前が考えろとか。
照れ隠しだとわかっていても、そういう言葉を浴びせられるたび、名前は少しだけ悲しい気持ちになっていた。
(優しくなったな……)
改めて名前は感慨に耽る。病が発覚してから、光は本当に優しくなった。優しかったのは元からだけどひねくれていたから、行動は思いやりがあっても、彼の言葉はいつも厳しかった。
けれど、今は違う。自分を素直にいたわってくれて、温かな言葉をかけてくれる光に、名前は瞳を潤ませる。光のまっすぐな優しさが嬉しくて仕方がない。
「……光、ありがとね」
瞳に涙を浮かべて、名前は光にお礼を言う。
「…………」
まだ照れているのか光は無言だった。名前から視線を外して黙り込む。
名前に「ありがとう」と言われるたびに、光の胸は不意にぎゅっと苦しくなる。嬉しくもあるけどそれ以上に切なく、この気持ちを何と呼ぶのか、光はまだ分からずにいた。
お礼を言いたいのは自分の方だ。名前がこんなにも沢山の愛をくれたから、今自分はとても幸せだ。けれどそんな言葉は、きっと一生口にはできない。どう頑張っても自分は、まっすぐで優しい名前のようにはなれないから。
「……そんなんええから、何がいいん?」
光はぶっきらぼうに催促する。早く話題を変えないと、恥ずかしくていたたまれなかった。名前は少しだけ考えるそぶりをすると。
「あのね、一緒に観覧車に乗りたい」
気恥ずかしそうに、そんなことを口にする。デートの定番、王道中の王道だ。
「……ええで。もう少し休んだら行こうな」
名前の膝枕で寝そべっている光からは見えないけど、芝生の上で横座りしている名前の視点からなら見える観覧車。
シースルーのゴンドラが有名で、天気のいい日には遥か遠くの山並みや国際空港までが見渡せるという巨大なもので、眺望の美しさはお墨付きだ。
光の了承をもらった名前は、嬉しそうに微笑んだ。
「うん、ありがとね」
光の髪をそっとなでる。名前によしよしとされながら、うとうとと光は微睡み始める。光が瞼を閉じたのを見届けて、名前は視線を観覧車の方に向けた。
晩夏の青空と白い雲を背景に佇む、世界最大級の規模を誇る鋼の回転輪は、絵に描いたような行楽地の光景だ。
しかし、ちょうどそちらの方にいたカップルに、名前の視線は吸いよせられる。互いに見つめ合い、幸せそうに笑っている二人。
年の頃は二十代後半で、女性は妊婦さんのようだった。ゆったりとした衣服にフラットシューズ。膨らんだお腹をなでる左手にはプラチナのマリッジリングが輝いていた。
愛される女性の指先に輝く、決してくすむことのないプラチナは、永久の愛を約束しあった証だ。
けれど。指輪もそれ以外のものも全て、名前と光の二人には決してありえないものだ。
つけるはずのない指輪。本当は猫の彼と幸せな将来など願えるはずもなく、そして生涯をともにすることなど、もっとありえない。
病のことがなくても元々の寿命が全く違う。十年と八十年の差が埋まることはなく、こんなにも近くにいて、あれほどまでに強く想い合っていても、名前と光の赤い糸は決して結ばれることはなかった。
幸せな結婚をして、いつかは子供を授かって父と母になり、長い人生をともに歩んでいく。そんな普通の幸せなど願えない、名前と光の関係はそんな未来など望めない。
けれどそれは、名前が自分の意志で選んだことだ。決して報われることのない関係でも光のことが好きなのだと。自分に一途な気持ちを向けてくれる飼い猫の彼を愛するのだと。
茨の道を歩んでいくと決めたのは他ならぬ自分自身で、だからこの苦しみは、自分が受け入れて背負わなければならないもの。
名前は若い夫婦から視線を外して瞳を伏せる。大きな瞳は涙で潤んでいた。しかし、愛する光にもう泣かないと、悲しむ姿は見せないと約束したから。名前は唇を噛みしめて涙をこらえる。眠る光の前髪をそっとなでた。
***
それから。名前と光の二人は観覧車の順番待ちをしていた。夏の終わりとはいえまだオンシーズンだからか、こちらも人が多く、二人の順番が回ってくるにはもう少し時間がかかりそうだ。
ふと喉の渇きを覚えて、名前はおもむろに口を開いた。
「……あ、そうだ。光、喉乾かない? 私飲み物買ってくるよ」
まだ暑いし、ここは水族館内とは違って屋外だから熱中症には気をつけないといけない。元気そうでも、本当は病に侵されている光のことも心配だった。
「飲み物?」
いつもの低いテンションで光は尋ね返してくる。しかし、名前は彼に笑顔を向けた。
「うん。光は何がいい?」
「ん……」
けれども光の反応は鈍い。何か考えている様子だ。いらなかったのかなと名前が思ったそのとき、光は妙にきっぱりとした口調で言った。
「いや、俺が買うてくるで」
「え、でも」
「すぐそこやし、お前は気にせんでええで」
「う、うん……」
光が心配な名前は、本当は自分が買いに行きたかったんだけど。光は強引に行ってしまった。名前が引き止める間もなく、自分からさっと列を離れてしまう。
小さくなっていく彼の背中を見送りながら、名前は不思議に思う。一体どうしたんだろう。
何かあったときのために、名前の連絡先が書いてあるメモと、現金を入れたお財布を渡してあるけど。それでも病気の彼を一人にするのは心許ない。残された名前は心配のあまりそわそわとしてしまう。
室内飼いでいつも一緒が当たり前だったせいか、すっかり過保護な飼い主さん。けれど、幸いなことに光はすぐ戻って来た。
「――はい、お茶やで」
そう言って、光は冷たい緑茶のペットボトルを名前に差し出してきた。
「あ、ありがとう」
名前はお礼を言って受け取る。光は自分のぶんのスポーツドリンクのペットボトルを開栓すると、そのまま一息にあおった。そんな彼につられて、名前も緑茶のペットボトルを開ける。
ドリンクを飲みながら待っていると、観覧車の順番が回ってきた。
世界最大級の巨大さでも、所要時間は一周十五分。観覧車のゴンドラはもうすでにかなり高いところまできていた。
「わあ、綺麗だね!」
「ほんまやな」
明るくはしゃぐ名前に、ご機嫌な光。デート日和のいいお天気で、ゴンドラの中からは素晴らしい眺望が見渡せていた。青く澄んだ空に白い雲。その下にはどこまでも続くビルの群れ。
名前が落ち着くのを見計らい、光はおもむろに切り出した。
「……せや、受け取ってほしいもんがあるんやけど」
「え?」
光はズボンのポケットの中から、小さな何かを取り出した。水族館のロゴとジンベイザメのイラストがプリントされた可愛らしいビニール袋だ。いかにもお土産屋さんで買いましたといったそれを、光は名前に差し出した。
「え、どうしたの、これ……」
妙に改まった様子の光に戸惑いながらも、名前は受け取る。
「さっき買うてきたんや。開けてみて」
「う、うん……」
光に促されるまま名前はその袋を開けた。入っていたのはベルベッドの小さな巾着袋、ジュエリーポーチだった。そして、その中には。
「わ、可愛い……!」
小さなフェイクパールとラインストーンのあしらわれた銀の指輪に、名前は感嘆の声を上げる。パールは海の恵みだ。水族館らしいモチーフ。デザインも華奢で可愛らしい。
パールの柔らかな光沢と、ラインストーンの煌めきが美しい繊細な指輪は、名前のほっそりとした指先によく似合いそうだ。
「すごい…… 嬉しいよ、光……」
瞳を潤ませて喜ぶ名前に、光は目尻を下げるときまりが悪そうに頬を掻いた。いつもはクールな光なのに、今はなんだか照れている様子だ。頬は淡く染まり、視線は泳いでいる。
「……俺が買うた言うても結局お前の金やし、ほんまはやめようか思うたんやけど、やっぱ我慢できんくってな。今日の記念にどうしてもお前に贈りたかったんや」
言い訳をするようにそう言って。改まって光は名前の目を見つめた。そして小さく息を吸い込んでから、見たこともないほど真面目な顔で。
「――俺の気持ちや。受け取ってくれますか?」
「え……?」
光に敬語を使われたのなんて初めてだった。しかも、彼の表情はびっくりするほど真剣で、名前は急に気恥ずかしくなってしまう。だって、これじゃあまるで。
けれど、名前は自分の空想を考え過ぎだと振り払う。ぎこちないながらも笑顔を作ると。
「も、もちろんだよ……」
「ほんなら、よかったわ」
可愛らしい名前のはにかみ笑顔に、光の口元がふっと緩む。鋭い瞳を愛おしげに細めて淡く笑うと。
「つけたるよ。貸して」
光は柔らかな声でそう言うと、名前に手のひらを差し出した。名前は言われるがまま、光に指輪を渡す。
「ほら、手ぇ出し?」
指輪を手に、光は得意げに微笑む。その笑顔のあまりの眩しさに、名前の胸の鼓動は高鳴る。
観覧車のゴンドラの中というシチュエーション。いつも以上に格好いい光の背景には、果てしなく続く青い空。遥か下には陽の光を受けて輝く紺碧の海に、どこまでも連なるビルの群れが見える。そんな美しい景色の中で。
とてもロマンチックだ。まるで幼い頃に憧れた恋愛映画のような。
けれど、内気な名前は気後れしてしまう。急に恥ずかしくなってしまった。名前は少しだけ躊躇うそぶりを見せるが、光の眼前におずおずと片手を差し出してきた。
しかし、それは右手だった。恥ずかしいのか鈍いのか、あえて空気を読んでいないのかは、分からないけど。
「左やろ。ふざけんなや」
光は名前を叱り飛ばす。自分が甘えるのは好きでも、相手を甘やかしたりはしないタイプ。変なところで遠慮しがちな恋人には容赦ない。
「ほら、こっちや」
「あっ……」
光は強引に名前の左手を取ると、繊細な銀の指輪を、彼女のほっそりとした薬指にはめた。サイズはぴったりで、名前は驚きに息を呑む。
「すごい、ぴったり……」
「……これで、ずっと俺のもんや」
光は満足げに微笑むと、名前の左手を自分の口元に引き寄せて、はめてあげたばかりの指輪にキスをした。
本当は人間の男の子じゃなくて猫なのに。その仕草はまるで王子様のようだ。キスが得意な彼らしい、素敵な演出。
「俺のもんなんやから、ほかの男によそ見したら許さへんで。猫でもダメや」
「光……」
「ずっと俺のことだけ想っとって。名前」
「うん……」
まるで彼女にすがって甘えるような、ひねくれた愛の言葉。しかし、名前は瞳に涙を浮かべて微笑んだ。
「よそ見なんてしないよ。私はずっと光だけのものだよ」
永遠にあなただけ。それが嘘なことくらい、お互い痛いほど分かっていた。うたかたの夢だ。決して現実にはならないそれは、すぐに失われてしまう今だけのもの。
しかし、だからこそ。それは泣けるほどに切なく、胸を打つほどに尊く美しいのだ。
余命わずかな恋人からの、おままごとのようなプロポーズ。指輪だってシルバーで宝石もニセモノで、いつかは色あせてしまう。
しかし、名前は嬉しかった。大好きな人からのプロポーズは、女の子の永遠の憧れだ。たとえ子供だましのごっこ遊びでも、涙が溢れるくらい嬉しい。
「光、ありがとね。私、世界でいちばん幸せだよ」
誇張でもなんでもなく、本心から名前はそう思っていた。今が幸せだ。光と一緒に過ごせるのはもう長くないと分かっていても。それでも名前は幸せだった。
一緒にいられるのが今だけだからこそ、今のこの瞬間が、どうしようもないほど愛おしい。
「指輪、ずっと大事にするね」
「……当たり前や。一生大事にせい」
素直じゃない光は相変わらず、返品禁止だのひねくれたことを言っているけど、その瞳は涙で潤んでいた。
名前でも見たことがないくらい、光は幸せそうにしていた。満ち足りた穏やかな表情で、口元がゆるみそうになるのを我慢している。
ちょうどそのとき、二人の乗っている観覧車のゴンドラが頂上にたどり着いた。頂きへの到着を知らせるアナウンスが流れる。
「あ……」
「……頂上か」
我に返った二人は、あらためて周囲を見渡す。
世界最大級の観覧車。窓が大きく取ってあるゴンドラの中から眺める景色は、本当に素晴らしいものだった。
無限に広がる青空に白い雲。遥か下にはビル群に濃紺の海原。海に浮かぶ船は先ほどよりずっと小さく見える。
こんなにも美しい眺望なのに。いてもたってもいられなくなった名前は座席から腰を浮かすと光のすぐ隣に移動した。今までは向かい合って座っていたけど、光と離れているのが物足りなくなったのだ。
たしかに美しい景色だけど、今はそれを楽しむよりも、愛しい彼に触れていたかった。
「……名前」
「光、大好きだよ」
そう言うやいなや、名前は光を抱きしめた。もう離さないと言わんばかりの、まるでしがみつくような熱い抱擁。
しばらくの間、そうやって全身で彼の温もりを感じてから。名前は指輪をした左手を、光の右手に絡めた。それはいわゆる恋人繋ぎで。
固くつながれた手と手は、まるで二人の絆のようだ。おもちゃの指輪に、おままごとのようなプロポーズ。実現が不可能なことくらい、お互いにわかっている。幼すぎる恋、かりそめの永遠。
けれど今はそれに浸らせて欲しかった。他の全てがニセモノでも、この気持ちだけは本物なんだから。
指と指を絡めたまま、名前は光の唇にキスをしようとする。光もまた、それを受け入れようとしたが。唇が触れ合う寸前に、お互いに気がついて顔を見合わせて苦笑する。
唇にキスをしたら魔法が解けて、光は猫に戻ってしまう。けれど、唇がダメなら他の場所にすればいい。名前は光の頬に口づける。すると光は、名前の額に優しいキスを返してくれた。
窓の広く取ってあるゴンドラで、中の様子は外からでも見えているのに。名前と光は人目もはばからず、何度も口づけを交わしあっていた。
その夜。自宅のベッドで猫の姿で眠る光を見つめながら、名前は心の内でつぶやいた。
(……光、お疲れさま)
今日はゆっくり休んでほしい。
(今日は、本当にありがとね)
とても楽しかった一日を、名前は振り返る。水族館の深海のパノラマも観覧車の高みから見おろす眺望も、どちらもとても綺麗だった。そして、観覧車のゴンドラの中で贈られた愛の言葉と可愛らしい指輪。
いつか長い時が流れて、名前が本当の大人になって。他の誰かと恋をして、ダイヤモンドの飾られたプラチナの指輪と一緒に、素敵な愛の言葉をもらっても。そしてそれを、彼女が受け入れたとしても。
光がくれたおもちゃの指輪と愛の言葉は、何にも代えられない名前の永遠の宝物だ。
「……ッ、ひかる」
いつの間にか。名前の頬には一筋の涙が伝っていた。泣かない約束だったのに堪えきれない。我慢しているのに溢れてくる。
安らかに眠る小さな姿を見つめながら、名前は声を殺して泣いた。いたいけな愛くるしい黒い猫。それが名前の恋人の本当の姿だった。そしてその命の灯はあと数か月で消えてしまう。
音のない寝室に、名前の嗚咽だけが満ちてゆく。