ねこのひかる
名前変換設定
恋戦記は現在一部のお話のみヒロインの名前変換可です薄桜鬼とテニプリは名前変換可、刀剣乱舞はネームレス夢です
恋戦記小説について
現在一部作品のみ名前変換可にしていますが、ヒロインの下の名前「花」が一般名詞でもあるため「花瓶の花」などで巻き込み変換されてしまいます
それでも良い方は変換してお楽しみください。それがダメな方はデフォ名「山田花」でお楽しみください
すみませんが、よろしくお願いいたします
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黒くて小柄で綺麗なお顔で、そしてピアスがお似合いの。猫の光は名前の可愛い飼い猫だ。離れたところから名前を呼ぶと、面倒くさそうにしながらもちゃんと名前のところに来てくれて、だけど構いすぎるとしっぽビンタで怒るツンデレさん。
好きなものはマグロの猫缶と、名前のお膝の上。クールなふりして意外と甘えん坊で、名前が泣いていると涙をキスでぬぐってくれるおませさん。
そんな猫の光が、ある日突然人間の男の子になってしまいました。今日はそんなお話です。
開け放した窓からは初夏の風が吹き込んでいる。天気のいい休日の朝。名前は目覚ましのアラームを止めて、気持ちよく二度寝をしていた。厳しい試験を突破して入学した大学にもようやく慣れて、今日はのんびりとしようと決めていた、その矢先。
「ん……」
ベッドサイドに人の気配を感じて、名前は重い瞼を開けた。一人暮らしの部屋なのにおかしいな。まだぼんやりとする意識の中、名前は不思議に思うが。しかし、本当に人がいた。端正な顔立ちの見知らぬ男の子が、ベッド脇に立って名前を見おろしている。
「ッ!」
さすがにこれには肝を潰した。眠気は一瞬で吹き飛んで、名前は反射的に叫び声を上げようとする。しかし、その少年は驚くべき俊敏さで、名前の口を手で覆うと。
「ちょ、話聞けや。……落ち着いて聞いて欲しいんやけど、俺あんたが飼ってる猫。光や光。……俺もよおわからんけど朝起きたらこうなっててん」
無表情でそう囁きかけてきた。
「……!」
そんなの、あまりにもありえない。現実味のない話の内容に驚いた名前は、華奢な身体を震わせてその少年を見上げた。驚きとおびえの混じった視線を彼に向ける。
しかし少年は何も言わずに名前の口元から手を離すと、加害の意思がないことを示すように彼女から距離をとった。
「……光、なの?」
信じられないといった面持ちで、名前はその飼い猫を名乗る少年を見つめる。少し小柄だけど、黒く短い髪に整った容姿。そして、左耳についた銀色のピアス。確かにそう言われれば、猫の光が人間になったらこんな感じかもしれない。
猫の光も小さいけど凛々しくて、雑種だけど整ったお顔で、短い黒い毛並みの綺麗な、可愛くて格好いい男の子だった。そして、大きな三角のお耳には小さなシルバーのピアスが付いていた。目の前にいる少年と同じく、左耳にひとつだけ。
猫の光は元は地域猫で、ピアスは去勢手術済みの目印だった。名前がまだ中学生だった頃、地元の猫カフェから光を譲り受けて、それ以来ずっと名前は光を可愛がっていた。
地元から離れた関西の大学への進学が決まり、一人暮らしをすることになっても、片時も離れたくない一心で連れてきた。
名前にとって猫の光は、小さな相棒で、友達で兄弟で、家族以上の存在だった。そんな光が、まさか人間の姿になってしまうなんて。子供向けの絵本のような展開を受け入れがたく、名前は再び彼に問いかけた。
「本当に、光なの……?」
「だから、そうや言うとるやろ」
「で、でも」
いらだったように言われても、それでもやはり信じられない。しかも、小柄で美人さんとはいえ、今の光はどう見てもれっきとした男の子。一人暮らしの部屋にふたりきりというのはなんとなく怖くて、名前はひるんでしまう。
けれど、名前は光の首元にほどけかけのリボンが巻き付いているのを見つけた。
「あ……」
見覚えのあるそれは、数日前に買ってきたマカロンのアソートボックスについていたものだった。猫の光の目の色と同じ綺麗なグリーンで可愛いメタルチャームまで付いていたから、光の首に結んで沢山写真を撮った。
猫の光は面倒くさそうにしながらも、一時間近い撮影会に付き合ってくれた。
「あ、あの…… リボン」
「……ああ」
光はどうでもよさそうにそう言うと、ゆるく首に絡んでいたリボンを外した。そして自分の左手首に巻きつけて、きゅっと結んだ。チャームがついているから、まるでそういうデザインのブレスレットのようにも見える。
「え?」
てっきり捨てられると思っていた、名前は意外そうに光を見つめる。撮影会をしているときも、光はずっと首元のリボンを外したそうにしていたのに。名前の視線に気が付いたのか、光は言い訳をするように口を開いた。
「……捨てたら怒るやろ。限定パッケージのリボン、かわええゆうとったやん」
「う、うん」
光の言う通り、それは限定パッケージのリボン。メタルチャームはスターリングシルバーにゴールドのコーティングが施されたもので、普通にアクセサリーとしても使えるほどの、作りのよさと可愛さだった。
リボンの方も爽やかなミントグリーンで、店名のロゴが白抜きでプリントされている素敵なもの。
「つか、毎度毎度の記念撮影ええかげんうっとおしいわ。三枚撮れば充分やろ。あんときも長いこと付きあわせおって、あとでマグロの猫缶もらえんかったら、寝しなにしっぽビンタしとったわ」
「えっ、え……!」
まだ、誰にも話していない。光と名前の一人と一匹だけの思い出を言い当てられて、名前は驚きに固まる。
マグロの猫缶も光の好物だった。猫カフェ『ぜんざい』にいた頃からの大好物で、それをあげると光は一日機嫌がいいのだ。
「本当に、光なんだ……」
信じられないという気持ちはまだあるけど。この男の子は本当に猫の光なのかもしれない、名前はようやくそう思えるようになってきた。しかし、光の方はつれない。まだ怒っているようだ。
「……だから、そうやって最初から何べんも言うとるやろ」
「うん、まあ、そうなんだけど……」
名前は困ったように視線を落とす。だって自分の飼い猫が人間の男の子になっちゃうなんて、いくら証拠を突きつけられても、やっぱり信じられないわけで。
「まあええわ。それより……」
しかし、おもむろに光は口ごもった。
「……なあに?」
急に訪れた沈黙に耐えきれず、名前は尋ねた。しかし光はしれっとした表情で、名前に向かって言い放った。
「……顔洗って、着替えとかしてきたらええんちゃう。よお見たら、ひどい格好やで」
「ッ!」
光のあまりの放言に名前は顔を真っ赤にする。ひどい、ひどい、あんまりだ。人が眠っているところに、いきなりやってきたのはそちらなのに。
「ッ、も、光のバカ!」
「バカって、別に、起き抜けやなんやから恥ずかしがることないやろ」
フォローもなんだか微妙だ。恥ずかしいやら悔しいやらで、名前の瞳が涙で潤む。
「~っ! バカ! も、洗面所行ってくるっ!」
叫ぶようにそう言って、名前はベッドから抜け出しバタバタと洗面台へと向かった。
(も、最低の朝だよ……)
名前は恥ずかしさに涙ぐみながら、身だしなみを整えていた。パジャマ姿のまま髪をとかして顔を洗って、歯を磨く。一通りの支度を終えた彼女は着替えをしようとするが、服の替えは光がいる部屋の引き出しの中だった。名前は憂鬱そうに息を吐く。
普通の大学生の一人暮らしは、そのくらいの間取りが多数派だ。とはいえなんだか気まずく、名前は光のいる部屋に戻りたくなかった。もう五年近く一緒に暮らしている猫の光とはいえ、今は人間の男の子だから気恥ずかしい。
けれど気持ちを奮い立たせて、名前は光のいる部屋に引き返した。おずおずと声を掛ける。
「あ、あのね、光。お洋服そっちの部屋に…… って何してるの!」
しかし、後半はほとんど絶叫だった。光が勝手に名前のスマホをいじっていたのだ。自分から電話機を取り上げようとする名前を素早くかわしながら、光は相変わらずの無表情で言う。
「――別にええやろ。アンタが早よやらなアカンやつ、代わりに俺がやっといたるわ」
「え、えっ!?」
戸惑う名前を差し置いて。光は手早く目的の画面を電話機に表示させると、ぽつりとつぶやく。
「えっと…… 川隅くん、てコレやな」
「ッ! ちょっと光!」
その名前を聞いて、名前は青ざめる。猫なのになぜかデジタル機器扱いが上手い光は、当然のように名前のスマホで電話をかけ始めた。
『――名前ちゃん!? 久しぶりやな! 名前ちゃんから電話なんめっちゃウレシ……』
電話機越しに聞こえてくる声に、名前はついに固まった。弾むようなその声は、間違いなく例の川隅くんだ。
「あ、すんません。俺、アイツちゃいますわ」
しかし。電話機から光の――男の子の声が聞こえるや否や。
『――はぁ?』
先ほどまでの明るさとは裏腹に、川隅くんの声色は一気に冷え切ったものに変わった。そのあまりの変わり身の早さと豹変ぶりに、名前は身震いする。
川隅くんは、やりとりを名前が聞いているとは思っていないようだ。誰とも分からない男に舐められたくないとでも思っているのか、低い声で光に食って掛かる。
『――つか、お前誰だよ。こんな朝から、名前ちゃんの携帯で何の用だよ』
しかし、光は平然としている。この程度は想定内とばかりに、川隅くんに応戦する。
「それはこっちの台詞っすわ。気安く名前で呼ぶんやめてもらえます?
ついでにオカシなちょっかい出すのもやめて欲しいんですわ」
『――へえ……。お前、彼氏かなんか? 本人いないって言ってたけど?』
あからさまに不機嫌な川隅くんは、光を挑発してきた。後半は露骨な揶揄だ。まるで光を小馬鹿にするような。それは名前でもわかるほどで、腹が立たないわけはないのに。
けれど、光は眉ひとつ動かさない。口の端をわずかに上げて、平然と言い放った。
「なんかやなくて、正真正銘カレシっすわ。本人恥ずかしがって隠したがるんで、俺もホンマに迷惑しとるんです。ま、そんなわけで『お試し』は他あたってくれます?」
男の子に、こんなふうに庇ってもらえるのなんて初めてだった。ライバルからの揺さぶりにも動じない余裕たっぷりの笑顔に、名前はハートを掴まれる。整ったルックスに、つい見惚れてしまう。
猫だった頃から、光はとても美形だった。元々地域猫で血統書なんてないのに、家に来るお客さんみんなに褒めてもらえるくらいに。
『――ッチ、マジかよ』
不機嫌そうに舌打ちをして、川隅くんは電話を切った。小さく息を吐くと、光は名前にスマホを返してきた。ぶっきらぼうに、ポイッと投げ渡す。
「……これでわかったやろ。『お試しでエエから付き合って』なんて言うてくる男なん、どうせロクでもない遊び人なんや」
「で、でも……」
キャッチしたスマホを胸に抱いたまま、名前は悲しそうな顔をする。しかし、そんな彼女に対して光は鋭い瞳をさらにつりあげると。
「何がでもやねん。そうやっていつもフワフワしとっから、おかしなヤツに目ェつけられるんやろ!」
「ッ、してないよ!」
「しとるわ! だいたい毎日毎日『川隅くんが』って、似たような話ばっかり聞かされるこっちの身になれや! この一か月ストレスで軽く八〇〇グラムは痩せたわ」
〇.八キロ。とはいえ、猫の光は元々体重四キロ程度だったから結構な数字だ。確かに最近お腹のあたりがほっそりした気がしていたけど、まさかそんな理由だとは思わなかった。驚いた名前はつい声を荒らげてしまう。
「な、なにそれ!」
「アンタには俺がおるんやから、他の男の相手なんせんでええわ! 今まで通り俺のことだけ可愛がって、俺のお世話だけしとればええんや!」
しかし、光は一歩も退かない。容赦なく怒鳴り返してくる。けれどその頬は淡く赤みを帯びていて、名前は息を呑む。ちょっとどころでなく怒っていて、拗ねた口調なのも決定的だった。
「光……」
ここまで揃えば鈍い名前でも分かる。光は自分のことが……。
「ずっと猫の姿で、だから言えへんかったけど、ホンマは……――」
そのままの流れで、光は名前に想いを告げようとしてきた。が。
「ッ! だ、だ、だめッ!」
甲高い声でそう叫ぶと、名前は慌てて光の口を押えようとした。最初とは逆だ。けれど、小柄とはいえ男の子。光はあっさりと名前を押し返して、逆に彼女に食って掛かる。
「ッ、何すんねん! 人の一世一代の……!」
「だ、ダメだよっ! ダメダメ!」
もうほとんど取っ組み合いだ。まるで子供のケンカ。強引に光の口を押えようとする名前と抵抗する光とで、つかみ合いのようになっている。
ストレスでやせ細ってしまうレベルでこじらせていた積年の想いを、せっかく告げようとしていたのに。なぜかよりによって本人に妨害された光は、怒りに任せて名前を怒鳴りつける。
「何がダメやねんふざけんなや! コッチはいつまたあの元の姿に戻るか分からんのや! 今言うとかんと……!」
「ッ! だ、ダメ! やだ! そんなのやだよ!」
結構な勢いで怒られたのにも関わらず、名前はひるむどころか、光を上回る声量で叫んだ。さすがにこれには驚いて、光は黙り込む。名前はそのまま、ボロボロと涙をこぼし始めた。
「だって、光は…… 光は私のにゃんこなのに……」
最初は粒だった名前の涙は、あっという間に滝のようになる。ぐずぐずと鼻をすすりながら、名前は本当に悲しそうに泣いていた。
「……昔からずっと一緒で、ずっと仲良しだった、大事なにゃんこなのに」
次から次へと涙をあふれさせ、喉を詰まらせてしゃくりあげながら。それでも名前は懸命に、光になにかを訴えようとしてきた。
たしかに、名前が混乱するのも仕方ない。ずっと可愛がっていたペットが急に人間の男の子になって、ヤキモチを妬いて淡い恋をぶち壊して、あまつさえ自分に告白しようとしてきたら。そんなの困るに決まっている。
これまでの関係が壊れるとか、これから先どう接していけばいいのとか、そんな心配や不安があって当たり前だ。
気持ちを伝えられても困る、応えられない。名前は光にそう言いたくても言えずに、妙な行動を取ったり、急に泣き出したりしたのだった。
「……ッ!」
光は唇を噛んだ。黙ったまま、睨むように名前を見つめる。もう号泣に近い。彼女はそこまでひどく泣いていた。
猫カフェでもらってこられてもう五年近く。その間ずっと一緒にいたのに。それでも初めて見るくらいの、名前の大泣きだった。
(そこまで、イヤなんやな……)
それほどまでに、自分の気持ちは迷惑なのか。ちょっとどころでなく傷つきながら、光は拳を握りしめる。
しかし同時に、申し訳なさも覚えた。今しかないチャンスを逃したくなくて、必死だった。頭の中にあったのは自分の気持ちや都合だけで、名前のことなんて何も考えていなかった。
忌々しいライバルをとっとと蹴落として、憎たらしいほど呑気な彼女に、誰が本当に彼女のことを想っているのか、しっかりと分からせて……。
けれどそれは全て光自身のわがままだ。彼女からのひどい拒絶はその報いなのだろうか。
「……ごめん」
胸の痛みに耐えながら、光は名前に謝った。やり場のない悔しさの矛先は、自分に向ける。
「……もう言わんから、そんな泣かんといて」
冷静さを取り戻した今、思うことはひとつだけ。自分のことはもういいから。本当に辛そうに泣いている彼女から、その辛さと苦しみを取り除いてあげたい。
未だに、名前はグズグズと泣いていた。大きな瞳から涙を次から次へとあふれさせ、ときおりしゃっくりにも似た嗚咽を漏らして、肩を震わせている。
この様子では普通にしゃべるのも無理だろう。そう判断した光は自分の方から口を開いた。
「……つか、ここまで泣かれるとか、俺も傷つくんやけど」
切ない男心。これでも純愛のつもりだったのに。表情自体は安定の真顔だけど、かなりショックを受けていた。猫の姿でいた今までに、あれだけ可愛がってもらっていたから、なおさら。
猫だった頃は、いつも名前の方からくっついてきて、何かにつけてだっこして、眠るときだって、名前が離れるのを嫌がるからずっと一緒で、こんなにも愛されていたのに。
しかし、人間の姿の今は、これほどまでに拒絶されている。変わったのは姿だけで、心の中は何ひとつ変わっていないのに。
猫カフェからもらわれてきて五年。ずっと、名前と一緒に暮らしてきた。毎日欠かさずお世話をしてくれて、何もできない自分を、あれほどまでに愛して必要としてくれる彼女のことが、光は本当に大好きで、ずっと愛し続けていた。それなのに。
けれど、仕方がないのだ。猫と人間の男の子とでは、全く違う。同じように愛せるはずもない。光の好意をはねつけて、戸惑いに涙する、名前のことは責められない。
「……俺の方見て、名前」
囁くようにそう言って、光は名前の目尻に指を伸ばした。そういえば、彼女の名前を呼んだのは、人の姿になってからは初めてだ。
胸の痛みをこらえながら、光は細い指先で名前の涙をそっとぬぐった。本当はもっと早く、こうしてあげたかったのに。
まだ声が出ないのか、名前は何も言わずに、おそるおそる光を見上げてきた。潤んだ大きな瞳には、まだおびえの色が浮かんでいた。まるで、恐ろしい何か、化け物でも見つめるような。
飼い主の名前に、こんな目を向けられるのなんて初めてだった。猫の姿だったときは、あれほどまでに相思相愛だったのに。しかし、悲しみを抑え込みながら、光は無理に笑顔を作ると。
「……つか、泣きすぎやろ。目ェ腫れとんで」
優しくそう言って、そして、名前に改めて尋ねた。
「……前、猫だったときにしとったこと、してもええ?」
何のことか分からず、名前は不思議そうな顔をする。光は切なげに眉根を寄せると、彼女にすっと近づいて、濡れた目尻に唇を寄せた。そのまま、そっと涙をぬぐう。
塩辛い涙の味の、優しいキス。けれど、まるで恋人同士のようなその行為に、名前は嫌がる素振りを見せた。猫の光なら嬉しいけど、今の光は猫ではないのだ。
「……何もせえへん。涙拭くだけやから」
しかし、光はやめなかった。柔らかな唇は、ずっと名前の目尻に這わせたまま。瞳におびえの色を湛えたまま、しかし、名前は小さく頷いた。なんだか哀願されているような気がして、彼がかわいそうになったからだ。
先ほどまではもう夢中で、自分のことしか考えていなかったけれど。落ち着いて考えてみれば、光に対してずいぶんひどいことをしていた気がする。名前はそっと瞳を閉じた。もう嫌がったりはせず、彼に身体を預ける。
そういえば、光が猫だった頃。何かあって名前が泣くたびに、光はこうやって慰めてくれた。濡れた鼻先をくっつけるようにキスをして、やすりのような舌で、名前の顔を舐めてくれるのだ。
人の姿の光は名前の目元にキスを落としながら、唇と舌先で涙をぬぐっていく。それは猫の光と全く同じキス。けれど、猫のザラザラとした舌ではなく、温く柔らかな人間の舌の感触に、名前は身体を強張らせる。
今はもう、男の子の光が怖いわけじゃない。けれど、こんなことを誰かにされたのは初めてで、どうしても緊張してしまうのだ。
猫だった頃も、同じことをされていたのに。光が人の姿をしているというだけで、同じキスでもなんだか全く違うもののように感じる。
(何でこんなに違うんだろ……)
ぼんやりと名前はそんなことを考える。
猫だから。優しい言葉もかけられないし、逞しい腕で名前を抱きしめてやることもできない。だからだろうか。猫の光は名前に何かあるたびに、こうやって優しく励ましてくれた。
同じ人間ではない、小さくて無力な存在だから、できることは限られている。優しくキスをしたり、ずっと隣にいてくれたり。
けれど、名前にとってはそれで充分すぎるほどだった。いつも可愛がっている光が、そうやって自分を気遣ってくれるだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる。
愛してくれてというよりは、愛させてくれてありがとう。愛情を返してくれてありがとう、という気持ちだった。
何かを大事に可愛がり、そして、その大事にしている対象から愛を返してもらうというのは、これほどまでに人の気持ちを優しく穏やかにしてくれて、幸せをくれる。何かを愛して慈しむことは、本当に素晴らしいことだ。
泣き虫の名前でも、可愛がっている光の優しいキスで、すぐに機嫌が直ってしまう。そう、今このときも。
「も、へいき…… 光、ありがとね」
泣き腫らした瞳で、それでも精一杯のはにかみ笑顔を浮かべて、名前は光を見上げた。
「……ッ!」
その笑顔のあまりの愛くるしさに、光は息を呑んだ。自分が人間の姿になって、初めて見せてくれた、大好きな名前の可愛い笑顔。
猫だったときはいつも見せてくれていたのに、人になってからは一度も見せてくれなかった名前のその笑顔に、光は心臓を掴まれる。
それは決して甘くなどない、ほろ苦いときめき。けれどこの苦しみも、いまだに続く胸の痛みも、全て恋の醍醐味なのだ。大好きな名前がくれるものなら、光にとっては痛みや苦しみすらも愛おしく大切だった。
それほどまでに、光は名前が好きだったのだ。だからこそ、この衝動を抑えられなかった。
「……やっぱ無理や。ゴメン」
「え?」
光は名前の頬に手をやった。そして。
「――ッ!」
当然のように唇を重ねられて、名前は驚きに息を呑む。名前にとっては、生まれて初めてのキス。しかも、その相手は自分のペット。ねこのひかる。
どれくらいそうしていただろう。光はゆっくりと名前の唇から自分の唇を離した。しかし、そのとき。あたりにまぶしい光が満ちた。そして、その光が消えたあと。光は黒い猫の姿になっていた。
「――え、光!?」
あまりにも突然の事態。驚きと戸惑いに、名前は慌てる。光も焦っているのか、名前の足元で何かを訴えるようにニャアニャア鳴いている。まだ何か言いたいことがある様子だ。
しかし、猫の光のそばには例のリボンが落ちていた。メタルチャームのついた、人間の光が自分の手首に結び直したもの。人間の手首にはぴったりだったリボンの環も、猫の前足には大きすぎる。
光の小さな黒い前足のそばに落ちている大きなリボンの環に、残酷な現実を思い知らされて、名前はまた涙ぐむ。今度の涙は驚きと戸惑いではない。悲しみと絶望だ。
「う、うそ、そんな……」
あまりにも突然のお別れ。こんなに早く訪れるなんて思ってなかった。
さっき、ほんの数十分前に出会ったばかりだったのに、もう会えないなんて。そんなの受け入れられない。
「や、やだよ、光! 元に戻って!」
元は猫なのだから今が元の姿なのだが、悲しみに混乱している名前は矛盾に気づかない。そう、今の彼女にとっては。人間の男の子の姿が光の元の姿で、同時にそうであって欲しい姿だった。
名前はきゅっと口を引き結ぶと、猫の光を抱え上げためらうことなくキスをした。猫だから、人間のような柔らかな唇はない。それはあまりにも固く、そしてどことなく獣の香りのするキスだった。
固く瞳を閉じて、祈りにも似た想いを込めて。名前は猫の光に口づける。ずいぶん長い間そうしてから、名前はそっと唇を離した。その瞬間。
「……今度は、あのエフェクトはないんやな」
あたりに光は満ちなかったけど、再び光が人間の姿になった。
「よかった、光っ!」
反射的に、名前は光に抱きついた。涙をこぼしながら、ギュウギュウと彼を抱きしめる。今度の涙はうれし涙だ。間違えようがない。
あまりにも大げさな名前の喜びぶりに、光の涙腺もわずかに緩む。瞳をわずかに緩ませて、光は心の中でつぶやいた。
(……俺も、そう思っとるで)
人間の姿に戻れて本当によかった。やっぱり今日は人生最良の日だ。もう二度と離さないといわんばかりの名前の熱い抱擁に、光は口の端を緩めて笑った。
人間の姿になって初めて、彼女からの愛情を確信できた瞬間だった。
「――キスで変身するんだ」
「そうみたいやな」
その後。ふたりは抱き合ったまま、顔をくっつけて、そんなことを囁き合っていた。先ほどとは違って、ふたりとも随分ご機嫌な様子だ。
特に名前は本当に嬉しそうに、ニコニコとしている。まだ目元は泣き腫らして赤いけど、とても幸せそうだ。
「なんか、童話みたいだね」
たしか『かえるの王子様』だ。お姫様のキスで、王子様は人間に戻る。しかし、光は疲れた顔で息を吐くと。
「……何や、ええのか悪いのか分からんわ」
呆れたようにそう言った。光としてはやはり、ずっと人間の姿でいたかった。そんな彼に、名前は不安げに尋ねる。
「ね、ねえ光」
「?」
「猫の姿と人間の姿、どっちがいい?」
あまりにも心配そうに自分を見上げてくる名前に、光はつい笑ってしまう。そんなこと、尋ねるまでもなく分かっていると思っていたのに。
けれど名前は自分の口から、はっきりとした言葉を聞きたいのだろう。臆病な彼女を安心させてあげたくて、光は口を開いた。
「そんなん…… こっちのがええに決まっとるやろ」
口元を緩めて笑う。きっと今の自分は、かつてないほどにデレデレとしているに違いない。念願かなって人の姿になれて、飼い猫としてではなく同じ人間の男として、ずっと恋をしていた飼い主の女の子と想いを通わせることができた。
笑顔の光に、名前もまた嬉しそうに微笑んで。そして、名前はそのまま光の唇にキスをしようとしたけれど。何かを思い出したように踏みとどまると、彼女はそっと光の頬に唇を触れさせた。
その場所だったら、光は猫に戻らない。人間の男の子のまま。
「――光、好きだよ」
「……知っとる」
ずっと一緒にいた。五年以上も、ずっとお世話をしてもらって、可愛がってもらっていた。分からないはずはない。どれだけ、名前が自分を愛して可愛がってくれていたか。
「……違うよ。男の子の光のことだよ」
人間でも好き。それは名前からの告白だった。先ほど光が告白しようとしたときは、あれほど邪魔して泣いて嫌がったのに。
彼女の気持ちは先ほどの一件で確信できていたけど、まさかこんなにもはっきりとした言葉をもらえるとは思わなかった。光は驚きに目を見開いて、頬を淡く染めた。つい視線を泳がせて、ピアスのついた左耳に手をやった。
「……それは、今知ったわ」
そのつぶやきは精一杯の照れ隠し。そんな彼を見て、名前は嬉しそうに笑った。……小さな不思議な恋のお話。続きはまた別の機会に。