【侑士】続・みえない星(一)
名前変換設定
恋戦記は現在一部のお話のみヒロインの名前変換可です薄桜鬼とテニプリは名前変換可、刀剣乱舞はネームレス夢です
恋戦記小説について
現在一部作品のみ名前変換可にしていますが、ヒロインの下の名前「花」が一般名詞でもあるため「花瓶の花」などで巻き込み変換されてしまいます
それでも良い方は変換してお楽しみください。それがダメな方はデフォ名「山田花」でお楽しみください
すみませんが、よろしくお願いいたします
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全てを奪う嵐のように
それはまるで、全てを奪う嵐のように。
「……だから『xは0でない』言うことは、xで割り算せぇ言うことなんや、わかるか?」
そう言って、忍足先輩は問題文のx≠0にマルをつける。
「……そ、それはわかるんですけど」
買い物から戻って来てから、約束通り先輩はずっと私に勉強を教えてくれている。まずは、出かける前にもやってた数学だ。得意科目なだけあって、先輩の解説は先生よりもずっとわかりやすい。
だけど、中身の詰まった授業がぶっ通しで一時間半……。先輩の表情を伺いながら、私は遠慮がちにきりだした。
「せ、先輩、そろそろ休憩しませんか?」
「休憩?」
嫌そうな顔で、でも先輩は壁の時計を見る。
「……まあ、しゃあないな」
不満げにそう言って、だけど先輩は私をやっと離してくれた。
逃げるようにキッチンに駆け込んで、いそいそとコーヒーの準備をはじめる。
お湯が沸くのを待っていたら不意に、さっきまでの勉強を教わっていたときのことが蘇った。
ずっとくっついてたから、なんだか緊張したな。あの優しい声も、ペンを持つキレイな指先も、全部大好きだ。……あんな鬼コーチだとは思わなかったけど。
コーヒーを淹れ終わって、お茶うけのクッキーと一緒にリビングのテーブルに持って行く。
先輩はソファーに座って足を組んで、新聞を読んでいた。新聞を読む先輩の表情が珍しく真剣だったから、つい気になって、お菓子とコーヒーを置いてから、私は横からのぞき込んだ。
「何の記事読んでるんですか?」
「……ああ、経済面やで」
ちょっと気まずそうな先輩の声が聞こえたのと、紙面の大きなリードが目に飛び込んできたのは、ほとんど同時だった。
『――社、イギリス事業のさらなる拡大へ』
針か何かで刺されたように、胸がチクリと痛む。自分のお父さんの勤め先がニュースになると、それが例えいいことでも、やっぱりなんだか落ち着かない。
事業拡大ということは、すでに向こうに行っているお父さんたちは、やっぱりまだしばらく、こっちには帰ってこれないのかな。当初の予定では、帰国時期は未定だけど、三年を目処に日本に戻ってくるはずだった。
「……名前のオヤジさんとこの会社はすごいな」
気遣うような先輩の声が聞こえる。
「別にすごくなんてないです」
新聞から離れてそっぽを向いた。こんな気持ちになるんなら、あんなもの見なければよかった。どうせいつも、ほとんど読まずに捨てているのに。
先輩の小さなため息が聞こえて、新聞をテーブルの上に置く音が聞こえた。急に、うしろからぎゅっと抱きしめられる。
「俺は、ずっとお前のそばにいるから」
真面目な声で言われて、涙が出そうになる。
「……大学は関西戻るのに」
わざと揚げ足をとったら、きつい口調で言い返された。
「お前も関西来ればええやろ」
「でも」
「別にお前は、大学東京やのうてもええんやろ。ならええやん」
私を抱きしめる先輩の腕に、わずかに力がこもる。
「楽しいで、関西。イトコとか向こうの友達にも、お前のこと会わせたいし会ってほしいし。道頓堀のネオンもなんばのデパートも、見せてやりたいし」
明るい言葉とは裏腹に、先輩の声は少し震えていた。
「それに、やっぱり離れんのイヤやねん。医学部六年もあるんやで。その間ずっと遠距離なんて俺はイヤや」
先輩の言う通り、東京と大阪の遠距離恋愛は大変だ。一緒にいられる時間もぐっと減って、色んなことが今までと同じってわけにはいかなくなる。それが六年。耐えられるのかな。
「だから、お前も」
先輩がそうつぶやいた、そのとき。ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
先輩の腕が緩む。今日は来客の心当たりなんてなかった。妙な不安で心がざわめく。嵐の前ぶれみたいな、この予感は何なんだろう。軽い動悸を覚えながら、それでも私は先輩の腕の中から抜け出して、インターホンを取った。
「……ハイ、苗字です」
『――名前か?』
受話器から聞こえたのは、低い男の人の声。忘れるはずのないその声に、全身から血の気が引いた。
「なんで……」
漏れた呟きに、玄関口のその人は、いたって簡潔に理由を説明してくれた。
『急に東京の本社に呼ばれてね。近くを通ったから寄ったんだ』
インターホンの受話器を置いて、私はあわてて先輩に告げた。
「……せ、先輩隠れてください! お父さんが来ちゃった!」
「はぁ!?」
先輩もびっくりしたのか、ソファーから立ち上がった。
「どうしよう」
忍足先輩とはいえ、部屋に男の子とふたりきりなんてまずすぎる。しかも、お父さんは家の合いカギを持っている。そして今日に限って、ドアチェーンはしていなかった。
ガチャガチャッ。そうこうしてる間に、玄関のカギを開ける音が聞こえてきた。
「ちょお待ち、オカンと一緒にイギリスちゃうん」
「そのはずなんですけど…… 先輩、荷物もってクローゼットに」
「無茶言うなや! 無理やで!」
「どうしよう、玄関に先輩の靴出しっぱなしだ」
「もう腹くくって挨拶するしかないやろ。って、聞いとるんか名前」
先輩の言葉は聞こえていた。だけど、これからの事態への恐怖心が先に立って、私は先輩の顔を見れなかった。玄関の方から足音が近づいてきて、そして、すぐそばで止まった。
「――久しぶりだな、名前」
おそるおそる、私は部屋の入り口の方を見た。一年半ぶりに見るお父さんは、いつもと同じ真っ黒なスーツを着ていた。襟元には、見覚えのあるロゴマーク入りの社章がついている。
視線だけを先輩の方に向けて、しらじらしくお父さんは言った。
「……そちらは、忍足くんだったかな」
明らかに、お父さんの機嫌は悪い。一人暮らしの家に、男の子を上げていたんだから当たり前なんだけど……。
「はい、お久しぶりです。お邪魔しとります。」
だけど先輩はしっかりした口調で、お父さんに挨拶してくれた。
「……お、お父さん! あのね、今日ちょっと先輩に勉強教えてもらってて」
無駄なことと理解しつつも、私は必死に言い訳をする。
「勉強?」
「そうなの! 先輩すごく成績よくて、――の医学部目指してて」
「ほう」
大学名を告げた瞬間、お父さんの表情がわずかに変わった。かすかな希望を感じる。だけど次の瞬間、それはあっさりと打ち砕かれた。
「だが、一人暮らしの部屋でふたりだけでとは、非常識なんじゃないのか」
不機嫌を露わにして、お父さんは私たちを見下ろすように腕を組んだ。
「近所には喫茶店も図書館もあるだろう」
こんなに露骨な言い方をされるなんて思わなかった。それでも私は言葉を続ける。
「……うちの方が近かったから」
「――すいません、ご挨拶が遅れて。秋の初めから、お付き合いさせてもろてます」
これ以上の言い訳は無理だと判断したのか、先輩が助け船を出してくれた。お父さんの目がすっと細くなる。
「それは初耳だな、名前」
睨むような目で視線を送られる。
「ごめんなさい」
「……だが申し訳ないが、それももう『終わり』だ」
「えっ?」
耳を疑うような単語がお父さんの口から飛び出して、私は顔を上げた。
「毎日きちんと新聞を読んでいるお前なら知っていると思うが、
社の方針でイギリス事業を継続して強化していくことになった。
少なくともまだ数年は、日本には戻れないだろう」
腕を組んだまま、お父さんは静かに続ける。
「名前、来年の春になったら、お前もこちらに来なさい」
その言葉は、まるで青天の霹靂みたいだった。
「聞けば最近は、日本もずいぶんと危ないらしいじゃないか。元々私は、お前をひとりでここに置いて行くのは反対だったんだ」
淡々とお父さんは続ける。だけど今度は残るなんて許さないという、言外の強い意志を感じて身体が震えた。
「いっ、嫌だよ! だいたい日本よりむこうの方が危ないじゃん! それに私、英語だって」
「語学は努力で済む話だろう。治安についても、むこうの住居は大使館のはす向かいだ。ガードマンも雇用する。お前を危険な目には遭わせない。この家も、もう引き払うつもりだ」
「そんな……」
断定的な口調で言われて、目の前が暗くなる。何も言い返すことが出来ずに、私は押し黙った。忍足先輩も何も言わずに、部屋に重い沈黙が落ちる。
ピリリリリッ。突然、誰かの携帯電話が鳴った。おもむろに、お父さんはズボンのポケットに手を入れる。発信者名をチラリと見て、そのまま電話に出た。
仕事関係だったのか、腕時計を見ながら早口で英語を喋って、お父さんは電話を切った。そして私に向き直る。
「……まだ話し足りない気もするが、会議があるからもう出るぞ。今回は数週間日本にいるから、続きはまたにしよう。会社の近くのホテルにいるから、用があれば連絡してきなさい」
言いながらお父さんは、携帯をポケットに戻した。
「名前」
改まって名前を呼ばれて、私はお父さんを見上げた。
「……今度は残るなんて認めない。必ずお前を連れていく。だからお前もそのつもりでいろ。わかったな」
とどめを刺すようにそう告げて、お父さんは踵を返した。
***
「……今度は残るなんて認めない」
そう言い捨てて、お父さんは出て行った。そのあとすぐに玄関のカギの閉まる音がして、クルマのエンジン音が聞こえた。ぬるい涙が頬を伝う。
「名前、大丈夫か?!」
先輩の心配そうな声がすぐそばで聞こえる。
「……何や、オヤジさん色々とんでもないこと言うとったけど、お前知っとったんか?」
聞かれたことに対して、首を横に振って答えた。
「何にも、聞いてないです…… 今日こっちに戻って来てることすら、知らなくて……」
我慢しているのに、声にどうしても嗚咽が混じる。
「……そか」
「やだ…… イギリスになんて行きたくない…… 東京と大阪だって遠いのに、海外なんてイヤです……」
そんな遠距離、私にはムリだよ。しかも、こんな形で向こうに行ってしまったら、それこそお父さんが日本に戻ってくるその時まで、あっちにいなきゃいけなくなるかもしれない。
「……今日あとで、お父さんのところに行ってきます」
不安な気持ちを押し込めて、涙をぬぐって、私は先輩にそう告げた。
何もせずにただ泣いているだけじゃ、本当に忍足先輩とお別れしなきゃいけなくなる。それだけはイヤだから、またお父さんと闘わなきゃ。一年半前と同じように。
「行ってお願いしてきます。なんとかこっちに残してもらえるように」
「……大丈夫なんか?」
「平気です」
平気なわけなかったけど、私はそう答えた。
「……そか。でも、オトンどこにおるん?」
「―――です。いつもそこだったから、今回もそこだと思います」
ホテル名を答えて、気合いを入れ直した。今度は私ががんばらなきゃ。大好きな忍足先輩と、ずっと一緒にいるために。
「……つーことがあってな」
忍足は深刻そうな表情で電話越しの相手に語りかける。
『また大変なことになったねぇ』
その日の夕方、忍足は自分の部屋から電話をかけていた。相手はジロー。これまでもずっとこの件の相談に乗ってもらっていた、忍足の元・部活仲間だ。
「ホンマにあの横暴なオトンぶん殴ってやりたいわ。アイツは泣くし」
非常識呼ばわりされた時の、見下ろすような視線を思い出しながら、忍足はジローに愚痴をこぼす。
『でもさ~ 微妙だよねぇ今回は。家庭の事情だもんねぇ』
だけど、ジローは珍しく歯切れの悪い返答をする。
「そうソコなんや。だから迷っとんねん。本当にアイツのためになるんはどっちなんやろな……って」
ジローの言葉に同意して、忍足は眉間の皺を深くした。他のオトコが相手なら、それこそどんな手段を使ってでも奪い返すだけなのに。だけど、彼女の父とご家庭の事情が相手じゃあ……。
一年半前の彼女を思い出す。イギリスに自分を連れて行こうとする父をなんとか説得して、日本にひとり残ったのはいいものの、やはり寂しそうにしていた。
『……けどこのカンジだと何もしなかったら、半年後にイギリス強制連行なんじゃない。侑ちゃんはそれでもいいの?』
「ええわけあるか! 絶対嫌やわ!」
ジローの問いかけに、忍足は叫ぶように答えた。東京と大阪で六年も相当きつそうなのに、海外だなんてありえない。それで終わる関係とは思いたくないけど、実際問題むずかしいだろう。
『……だよね。でさ、今名前はマジでお父さんトコなの?』
「ああ。オトンのおるトコに行っとるハズやで」
そこまで口にして忍足は、窓のカーテンを開けてから、彼女の家の方角に視線をやった。閑静な住宅街に、夕闇の帳が下りはじめていたところだった。
同じ頃、名前は父が滞在しているホテルにきていた。オフィス街の中央に立地する、ビジネスユースには至便の高級ホテルだ。ロビーにはスーツ姿の宿泊客が行き交い、その中には外国人の姿もあった。
高い天井からはシャンデリアのような照明がつり下がり、磨き上げられた大理石の床を淡く照らしている。それら全てが演出するのは、ラグジュアリーな寛ぎだ。
「……本当に来るとは思わなかったよ、名前」
ラウンジのソファーに身体を沈めて、彼女の父はそう言った。
「……お父さん、私ね」
刺すような父の視線を受けながら、黒いワンピースに身を包んだ彼女は、真剣な表情で切り出した。
「先輩のことが本当に好きなの。離れるのなんて耐えられない。だからそっちには行けない。高校を卒業したら、関西の大学に進学したいの」
「……そんな理由で、お前は受ける大学を決めるのか」
低い声でそう答えて、父は吐き捨てるように言った。
「――話にならないな」
そう言われることはわかっていた。けどやはり、いざその言葉を口にされると、心臓を抉られるような痛みを感じる。
「……ごめんなさい。でもちゃんと勉強して、いいところに受かるように頑張るから」
声の震えを押さえながら、彼女は言葉を続ける。父に何と言われても忍足と離れたくない、その気持ちだけだった。
「名前」
そんな彼女の心の中を、見通すように父は言う。
「お前があの先輩のことをどれだけ好きかは知らないが、あのくらいの年の子なんて、すぐに気が変わるんじゃないのか? 先輩も、もちろんお前も」
ソファーから身体を起こして父はまた、彼女を見据えた。
「あのルックスで勉強もスポーツも出来れば、さぞかし人気もあるだろう。六年後も、あの先輩と一緒にいられるとでも思っているのか?」
年若い彼女に現実を思い知らせようとする父の言葉に、しかし名前は食い下がる。
「……一緒にいるもん」
「先のことなんてわからないだろう。子供みたいなことを言うんじゃない」
冷静に父は彼女を諭そうとする。だが、強い口調で名前は父に反論した。
「もう子供じゃないよ! お父さんに何て言われようと、私はイギリスになんて行かない!」
「……さっきも言ったが、あの家は年度内に引き払う。日本に残るとして、住むところはどうするんだ? お前はひとりじゃ何にも出来ない子供だよ」
だが父も譲らない。冷水を浴びせるように、彼女に正論をぶつける。
ラウンジの他の利用客が、チラチラと二人に視線を送る。声をひそめて話をしてはいるものの、ピリピリとした緊張感はやはり伝わっているらしかった。
「……ひどい、何でそんなこと言うの?」
視線を落とし、名前は強く唇を噛む。
「――わからないか?」
不意に父の語調が変わり、彼女はハッと顔を上げた。
「お前と一緒に暮らしたいからだよ」
そう言った、父の瞳は潤んでいた。
「……お前を日本に置いていったときも、辛くて仕方がなかった。向こうに行ってからも、お前を片時も忘れたことなんてない。気持ちを分かろうとしないのは、お前も同じだ」
はじめて見る父の表情に、名前の胸はしめつけられる。
「……お父さん」
一年半前、父がイギリスに発ったときのことを彼女は思い出していた。ほとんどケンカ別れするような形で、自分が望んで日本に一人残ったのに、それから数ヶ月は寂しくて仕方がなかった。ずっと家族で暮らしていた広い家に、一人きりは辛かった。同じような苦しみを、父も感じていてくれたのだろうか。
「恋人なら、向こうで探し直せばいいだろう。向こうにも日本人の子弟は多くいる」
震えた声でそう言って、父は瞳を伏せた。
「…………」
そんな父に何も言えずに、名前もうつむいた。厳しかった父がたった一度だけ見せた涙を、彼女は思い出す。それは、自分と別れての海外赴任が決まったときの……。
「……何と言われようとも、今度はお前を連れて行く。必ずだ」
強い口調そう言ってから、父は左手首の腕時計を見た。
「名前、今日はもうお前は帰れ。車を手配する」
「……いいよ。一人で帰れる」
「そうか」
父はそうとだけ言うと、近くに控えていた給仕に視線を送った。
ホテルから出て、名前はため息をついた。一体どうすればいいんだろう。イギリスに行きたくないのは変わらない。だけどあの目をした父を説得するなんて、自分にはできそうになかった。
むしろあの辛そうな顔を見て、父のそばにいてあげたいという気持ちすら、心の奥には生まれ始めていた。
しかし、父の帰国時期は未定。父を選ぶと言うことはすなわち、忍足とは別れるということだ。思い詰めた表情で、彼女は駅の方向に足をむける。
まだ日が落ちたばかりとはいえ、秋の終わりの街は寒い。ワンピースにジャケットを羽織っただけの格好だった名前は、ふと立ち止まり、身体を震わせて空を見上げた。
ビジネス街の中心だけあって、あたりには高層ビルが建ち並んでいる。その煌々とした明かりが作り上げる、東京の夜景は今日もまぶしい。冬の訪れを待ちわびるような華やかな街の姿に、思わず彼女は涙ぐむ。……イギリスに行けば、この景色ともお別れだ。
そんな物思いに名前が囚われていたその時、突然携帯が震えた。表示された名前を確認して、あわてて彼女は電話に出た。
「はい、もしもし」
『名前! 大丈夫か?』
聞こえてきたのは、耳慣れた忍足の声だった。緊張の糸が切れた彼女は、ポロポロと涙をこぼした。
「……先輩」
『今、向かいの道におるんやけど』
「えっ?!」
驚いて、名前は道路の向こう側を見た。大通りの往来の向こうに、忍足が立っていた。
『そっち行くから待っとってくれるか?』
小さく手を振りながら、忍足は彼女にそう言った。
そのまま、二人は忍足の家に戻ってきていた。名前の家では、いつまた彼女の父が訪れるか分からないからだ。彼女をソファーに座らせて、忍足は切り出した。
「……オトンとは、ちゃんと話しできたん?」
「はい」
「そか。どうだった?」
名前は首を横に振る。
「ダメでした。こっちに残るのは許さないって」
父の言い分を、名前は忍足に話した。忍足はただ黙って、彼女の話に耳を傾ける。ひととおり話し終わった彼女は、涙に潤んだ瞳で彼を見上げた。
「……先輩は、私と離れたらイヤですか?」
「イヤに決まっとるやろ、当たり前や」
強い口調での返答は、間を置かずに返ってきた。
「……俺はずっと、お前と一緒におりたい」
忍足の真剣さに、彼女はまた涙をこぼす。
父のことを思うと胸は痛むけど、やっぱり忍足と離れるなんて耐えられない。例え父の言った通り、あっという間に別れることになったとしても、だけどそれでも、この想いに賭けたい。関西についていきたい。忍足のために、そして自分自身のために。
それはまるで、全てを賭ける恋のように。
その日の夜。貴石をちりばめたかのような高層階の夜景を背に、名前の父は眼前の彼に向かって口を開いた。
「今日は千客万来だな。もっとも、仕事関係ではないが」
不機嫌な表情で腕を組む。
「――何の用だね? 忍足くん」
***
「……帰りたまえ。明日も、朝から仕事があるんだよ」
行ったはいいものの、やはり取り合ってはもらえずに、忍足は仕方なく自分の家に戻って来ていた。
やはり腹は立つが、彼女の父があそこまで強硬な態度を取る理由を知った今は、一方的な敵愾心は消えていた。彼女と離れたくない。それは、自分だって同じだ。
リビングで、コーヒーの支度をしながらテレビをつける。だけどまた、それから流れてきた音声と映像に釘付けになる。
『それでは今夜は、――社のイギリス現地法人の……』
画面では、彼女の父の勤務先の重役が、誇らしげに自社の世界戦略を語っていた。
『――これからも当社は、イギリスとともに……』
その言葉に、忍足はうんざりとしてテレビを切った。確かに、誇りなのかもしれない。だけどそれにつき合わされるコッチは、本当にたまったもんじゃない。
これが仕事じゃなくて旅行なら、行きたい時に行きたいところに行って、帰りたい時に帰ってこれるのに。そうではないから、気持ちは沈むばかりだ。
彼女の父に言われた言葉が蘇る。
「本当に名前を想うなら、身を引くべきは君なんじゃないのか?」
一瞬同意しそうになるが、気をしっかり持って追い払う。彼女のために身を引くなんて、そんなの偽善だ。自分が格好いいままで終わりたいだけのエゴだ。家族よりも自分を選んだことを後悔させないくらい、彼女を愛して大切にすればいい。ただそれだけのこと。
少なくとも、以前自分と競りあったあの泣きボクロの彼なら、きっとそうやって闘っていただろう。だから、自分も闘うだけだ。
今、願うことはひとつだけ。どうかこれがこの恋の、最後の『敵』になりますように。
家に帰ってきて、制服を着替えて、私はソファーに横になった。今日も学校帰りにお父さんのホテルに寄ったら、今日も不在だと告げられた。
へこんでいても仕方がないのに、気持ちの落ち込みは止められない。電話だって何度もしてるのに、着信拒否でもされてるんじゃないかってくらいに、繋がらないからなおさらだ。
「お父さん、忙しいのかな……」
それとも、もう話もしたくないってことなのかな。子供みたいなワガママばかりの、私となんて。ここのところはずっと、悪いことしか想像できない。
先輩がどんなに大人びていても、自分がこんなに好きでも、お父さんにしてみたら、高校生の恋愛なんてただのおままごとなのかな。……でも、この気持ちをそんな風には思いたくない。
狭いソファーで寝返りを打ったら、ふとテーブルの隅の小さなカレンダーが目に入った。十一月と大きくプリントされ、画家の格好をしたクマが描かれている。だけど今は……。
「……変えなきゃ」
私は身体を起こして、カレンダーに手を伸ばした。そう、もう十二月。クラスの子たちは、今日も「クリスマスどうする?」なんて明るく話していた。けれど私には、そんなことを考えている余裕はない。
もうすぐ、お父さんがイギリスに帰ってしまうかもしれないんだ。ここ数週間ずっと、お父さんを説得する方法を考えていた。でも、どうしても思いつかない。一年半前、私はどうやってお父さんを説得して日本に残ったんだっけ? それすらも、今はもう思い出せない。
『――話にならないな』
不意にお父さんの声が聞こえたような気がして、私はかぶりを振った。
「ダメだよ…… しっかりしなきゃ……」
カレンダーをめくって、元あった場所に置いて、部屋の中を見回した。
「……このおうちも、なくなっちゃうのかな」
十六年以上もずっと暮らしてきた、思い出の詰まった我が家。じわりと視界がにじんで、私は目元をそっと押さえた。
そのとき携帯の着信音が鳴って、私は身体を震わせた。おそるおそる電話に出る。
「……はい」
『名前、元気か?』
「忍足先輩…… どうしたんですか?」
『また泣いとるんやないかって、心配になってな』
「別に、泣いてなんて……」
ないです、とは続けられなかった。喉がつかえて嗚咽が混じる。先輩は軽く苦笑して、
『落ち込んでても状況変わらんのやから、元気出し』
その励ましに、でも私は素直になれなくて、先輩に向かって言った。
「……先輩は余裕そう」
『センパイはオトナやからな。空元気っちゅうヤツや』
恨みがましい私のセリフに、先輩は優しい冗談を返してくれた。そして、まるで子供をあやすみたいな口調で、続けた。
『名前、今はいろいろ不安やと思うけど、元気出してな。それに、例え遠距離になったって、俺らならきっと大丈夫やで』
そのあとちょっとした世間話をして、私は先輩からの電話を切った。そしてその場にしゃがみ込む。
離れても、なんて寂しがり屋で弱虫な私にとっては偽善でしかない。
一年半前に、お父さんたちと離れた時のことを思い出す。最初はあの気持ちを何て呼ぶのかすら、わからなかった。そしてしばらく経ってから、その気持ちの名前と、大切な人たちと離ればなれになることの意味を、嫌というほど理解させられた。
離れてしまったら、私じゃきっとダメになる。例え先輩が平気でも。離れずにすむ、方法はたったひとつだけ。私はもう一度制服に着替えて、家を飛び出した。
沈みゆく太陽が、眼下のビル群をオレンジに染める。ここは、赤い表紙のガイドにも載る高級ホテル。その高層階からの、眺めはやはり美しい。客室のソファーで寛ぎながら、彼女の父はその眺望を見下ろしていた。……もう何度も見ている景色に、特別な感慨はないけれど。
唐突に部屋の隅の電話が鳴り、彼は受話器を上げた。フロントからのコールだった。
『……本日も、お嬢様がお見えですが』
「ああ、いないと言ってくれ」
そうとだけ告げて、受話器を下ろす。そしてまたソファーに戻り、小さく息を吐いてから、彼はまた腕を組んだ。
「……今日も、いないって言われちゃった」
瞳に涙をためたまま、彼女はホテルから出た。父の携帯にダイヤルしても、やはり冷たいアナウンスが聞こえるだけで、彼女の心の中には、やるせない思いが広がる。まるで、真綿で首を絞められているような苦しさだ。
悔しさに唇を噛みしめて、名前は駅に向かって歩みを進める。十二月に入った街は、クリスマスを祝うオーナメントで彩られ、いよいよ華やかになっている。街路樹もシャンパンゴールドの電飾で輝き、エントランスに大きなツリーを飾っているビルも多くあった。
大きな横断歩道にさしかかり、名前は渡ろうと道の向こうに視線をやった。だが、受け入れがたい光景を目撃し、彼女はぽつりとつぶやいた。
「なんで……?」
向こうには、スーツ姿の女性と話す忍足がいた。まるでデパートの高級コスメのイメージガールのような女性と、その横に並んで立つ、普段とは違う細身のジャケット姿の忍足は、傍目に見れば、お似合いのカップルそのもので……
もしかしたら、その女性はただの知り合いだったのかもしれない。たまたま出会っただけ、だったのかもしれない。しかしその光景は、今の彼女には到底受け入れられないものだった。
「あの人は…… お姉さんじゃない」
彼女の脳裏に、父の言葉が蘇る。
『――さぞ人気もあって』
「……っ!」
踵を返し、名前は駅とは反対方向に駆けだした。冬を迎えた東京の夜風は、身を切るほどに冷たかった。
***
それはまるで、全てを捧げる愛のように。
「――ちょい待ちって! 名前!」
後ろから焦った忍足の声がして、彼女は足を止めて振り向いた。涙を指先で拭いながら、忍足に向かって叫ぶように言う。
「なんで追いかけてくるんですか! 先輩!」
「そりゃ、お前が完全に誤解しとるからに決まっとるやろ!」
彼女の問いかけに、忍足もまた叫ぶように答えた。そして、続けた。
「名前、あの人はな、お前のオトンの会社の人やで」
忍足の意外な言葉に、彼女は呆然と立ちつくした。
「え……?」
「ったく、俺どんだけ信用ないねん。行くでホラ」
不満げに息を吐くと、忍足は彼女の手を取った。そのままズンズンと歩き出す。
「せ、先輩離してください! って言うかどこに行くんですか?」
離しての部分はスルーして、忍足は答えた。
「お前のオトンのトコや」
確かに先ほどから忍足は、名前の父の滞在するホテルの方に向かって歩いていた。
「で、でもお父さんいないって」
「いや、おるで。居留守使うとっただけやから」
「ウソっ!?」
予想だにしない返答に、名前はまた声を上げた。
「あとな、お前のオトン、明日でイギリス戻るんやて」
「ッ!」
不意に核心に触れられて、彼女は身体を震わせる。そして、恐る恐る忍足を見上げた。
「でも、なんで先輩がそんなこと知ってるんですか?」
「……ずっと、お前に内緒で会うとったからや」
ひどく疲れた表情で、忍足は彼女にそう答えた。
まるできらめく星が舞い降りたかのような、都心の夜景を見下ろしながら、名前の父は、部下の女性と携帯で話をしていた。電話の向こうで、品の良いクスクス笑いが聞こえる。
『でも、知りませんでしたわ。ボスがあんなにお嬢様を溺愛なさってただなんて』
「……君は何が言いたいんだ?」
若干不服げに彼は言う。
『だって、忍足くんのお話を聞いていたら、あまりにもお気の毒だから』
「大切な娘の将来がかかっているんだ。これくらい当然だよ」
口の端に笑みを浮かべて、彼は部下に言い返した。しかしそのとき、控えめなノックの音が彼の耳に届いた。
「すまないね、お客が来てしまった」
そう相手に詫びてから、彼は電話を切った。ひと息ついて、返事をしてから部屋の入り口に向かう。そして何も言わずに、扉を開けた。
大きな窓の外には、輝く星の海のような夜景が広がる。窓辺に佇む父とその背後の景色を、名前は夢うつつで眺めていた。自分の父は、いつもこんなところに宿泊しているのだろうか。
「……忍足くん、ご苦労様」
「いえ」
通り一遍の挨拶を済ませてから、父は彼女に向き直った。
「初日以来だな、名前」
「お父さん……」
父の真意をはかりかねて、名前はおずおずと尋ねた。
「……なんで居留守とか使ったの? あと先輩とも」
「そうだな、何から話そうか」
小さく咳払いをして、父は目を伏せた。忍足も無言で、彼女の父の出方を待つ。
「まず居留守を使った件だが、すまなかったね。お前の顔を見てしまったら、手放す決心がつかなくなりそうだったんだ」
「え?」
手放す決心と言われて、思わず彼女は父を見つめた。
「忍足くんにね、ずっとお願いされていたんだよ。お前の関西行きを許してくださいとね。勿論、私は許したくはなかったんだが、何度追い返しても、熱心に通ってくれたからね」
そこまで言ってから、父は彼女を見つめ返して悠然と微笑んだ。
「そして名前、お前も、ずっと無視していたのに何度も来てくれたからな」
彼女は気まずそうな顔をする。
「……だから、仕方がないから許してやろう。関西でもどこでも、好きにすればいい」
父のそのヒトコトに、思わず彼女は瞳に涙をにじませた。一緒にイギリスで暮らしたいがために、あれほどまでに忍足との付きあいを強硬に反対した父が、ようやく、自分たちを許してくれたのだ。
「こんなことで泣くんじゃない、全くお前は相変わらずだな。 ……しかし、不思議な縁もあるものだな」
くすり笑って、父は今度は忍足の方に身体を向けた。そしてまた、口を開く。
「忍足くん、君の志望校の――大学だが、実は私も、二年間だけだがそこにいたことがあるんだよ」
忍足は息を呑み、名前は驚いて父に問いかけた。
「でもお父さん、大学は氷帝じゃ」
しかし、父はこともなげに言った。
「学部は氷帝だが、そのあとに――の大学院に進学したんだ」
「知らなかった……」
関西の大学院に行っていた、ということだけは聞いていたけれど、具体的な学校名は知らなかった彼女は、父の言葉に目を丸くする。
「……二年間だけだったが、関西での暮らしも楽しかったよ。万博のあの塔も見に行ったし、誘われてテニスをすることもあった。……そして関西にいた時に、妻に出会ったんだ」
父の告白に、彼女は言葉を失った。
「だからね、忍足くん。君の志望校を聞いたときは、運命なんじゃないかって思ったんだよ」
ピリリリリリ……。その時、思い出話の終わりを告げるかのように、父の携帯が鳴った。一呼吸置いて電話に出て、父はまた英語で何事か喋った。そして電話を切り、二人に向き直る。
「すまない、社に戻らなくてはならなくなった。今日はここまでだ」
テーブルの上のカードキーを手に取る。
「名前、今回はあまり一緒にいられなかったが、次回はゆっくりしよう。……忍足くん、君もね」
そう言って微笑む彼女の父を見て、忍足はハッとした。今までは、偉そうで気障ったらしいその振る舞いから、まるでどこかの俺様な元部長のようだと思っていたけれど、その穏やかな笑顔はどこか、自分に似ていた。
ホテルを出てから、イルミネーションで華やぐ街路を並んで歩く。路面店の店頭には、クリスマスを祝うオーナメントが飾られ、十二月の街に彩りを添えている。
「……お父さんと、ずっと会ってたんですか?」
歩きながら、名前は忍足に問いかけた。
「ああ、会うとった。……ごめんな、内緒にしとれ言われとってん」
そこまで答えて、軽く苦笑してから、忍足は言葉を継いだ。
「まあ、さすがに今日は、お前も呼ぶつもりやったんやけどな」
「そうだったんですね」
名前は瞳を伏せた。
「――大変やったんやで。お前のオトンには最初の二週間ほとんど無視されるし、お前ともホテルで鉢合わせせんように、ずっと気ィ遣ったりして」
どこか遠くを見つめながら、忍足はひとりごとを言うかのようにつぶやいた。
「……すみません」
「別に謝らんでもええよ。俺がしたくてやったことやし。でもやったな。これでオトン公認やし、お前の関西行きも決定や」
彼女を見つめて、忍足は嬉しそうに笑った。
「先輩」
「お前も、頑張ってくれてありがとうな」
彼女は首を横に振った。並んで歩く彼の手を、ぎゅっと握りしめる。そんな彼女を、忍足は愛しそうに眺める。
「……しかし、まさかこの年で『お嬢さんを僕に下さい』言わされるなん思わんかったわ」
「ッ! 言ったんですかそんなこと!?」
よほど驚いたのか、彼女は思わず声をあげた。口をぱくぱくさせて、忍足を見上げる。
「言うたで。ホンマに我ながらドラマみたいやったわ」
しばらく歩くと、駅が見えてきた。ロータリーの大きな青白いクリスマスツリーが、ふたりの視界に入ってくる。
「……もうすぐ、クリスマスやね」
「そうですね」
忍足は、名前の手をギュッと強く握りかえす。
「……今年は俺が受験で、来年はお前が受験やからあれやけど、再来年のクリスマスは、ちゃんと二人でお祝いしような」
それは、あまりにも遠い未来の約束。だけど、彼女はうれしさに涙をこぼして頷いた。
来年も再来年も、ずっと一緒にいよう。記念日も何でもない日も、ずっと。