【跡部】続・みえない星(一)
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恋戦記は現在一部のお話のみヒロインの名前変換可です薄桜鬼とテニプリは名前変換可、刀剣乱舞はネームレス夢です
恋戦記小説について
現在一部作品のみ名前変換可にしていますが、ヒロインの下の名前「花」が一般名詞でもあるため「花瓶の花」などで巻き込み変換されてしまいます
それでも良い方は変換してお楽しみください。それがダメな方はデフォ名「山田花」でお楽しみください
すみませんが、よろしくお願いいたします
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俺様を振る女なんていない。本気でそう思っていた時期が、確かに自分にもあった……。
窓の外の雪景色を眺めていた跡部は、その遠慮がちなノックの音に気がついて顔を上げた。天気のいいある朝。休日のこんな時間に自分の私室を訪ねてくるなんて、誰なんだろう。不思議に思いながらも、跡部は声を張って返事をする。
「――景吾、入ってもいいかい?」
穏やかなその声を聞いたのは、実に数ヶ月ぶりだった。
「……どうぞ」
跡部は声の主を促す。かちゃりとドアノブの回る音がして、部屋に入ってきたのは壮年の男性だった。
「日本に戻ってらしたんですね、父さん」
そう言って跡部は、学校では見せることのない穏やかな笑みを浮かべる。
「うん、ついさっきね。母さんも戻ってきてるよ」
そう言いながら、跡部の父は後ろ手に部屋のドアを閉める。
「景吾、今から下でお茶にしないかい? 母さんのお土産のケーキがあるんだ。みんなで食べよう」
「わかりました。今から行きます」
跡部はそう答えて、未だドアのそばにいる父の方に向かう。
「――そうだ、景吾。須藤綾香さん、覚えてる?」
不意に尋ねられて、跡部の瞳はわずかに揺れる。蘇るのはある一人の、美しい年上の女性。
「……はい」
それは、忘れられるはずのない出来事だ。
「来年の春にね、子供がうまれるそうだよ」
跡部の父は目を細める。まるで、大切な思い出話をするかのように。
「…………」
跡部はじっと押し黙る。
「ずいぶん若いお母さんだよね。これから大変だ」
口元に手をやって、ふふっと笑う。
「それじゃあ下に行こうか、景吾」
この時期は、やはり吐く息も白い。両親と数ヶ月ぶりのティータイムを楽しんでから、駅前の大通りを跡部はひとりで歩いていた。今日は、彼女と久しぶりのデート。ふたりで映画を見ることになっている。
クリスマスもお正月も終わった晩冬の街は、しかしそれでも賑やかで、待ち合わせ場所についたものの、彼女の姿が見つけられない。跡部は周囲を見回す。しかしそのとき、人混みの向こうに懐かしい姿を見つけて、思わず跡部は声を上げていた。
「――……綾香!?」
しかし、目を凝らせばその姿は、その彼女ではなく……。
「なんだ、名前かよ……」
跡部はぽつりとつぶやく。そう、その姿は例の女性ではなく、跡部が現在つきあっている年下の彼女の名前だった。自分を探しているのだろうか、彼女もまたきょろきょろとあたりを見回している。そのうち見つけるだろう。跡部はそう思い、あえて彼女を放置する。
「……何間違えてんだ、俺は」
らしくない。昔のことを思い出すなんて、そんながらじゃないのに。けれど、こんなに感傷的になるのは、父のあの一言のせいだろうか。でも「子供が」なんて言われても、まだ高校生の自分にはちっとも想像がつかない。
「あ! 跡部先輩っ」
雑踏の向こうから跡部の姿を見つけて、名前は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「すみません、お待たせしちゃって」
彼を見上げて、幸せそうに笑う。デートに気合いを入れているのか、今日の彼女は髪をゆるく巻いており、着ている真っ白なコートも彼女のかわいらしさを引き立てていた。
(……アイツも、そういえばよく白い服を着てたな)
そんなことを思い出しながらも、跡部は眼前の彼女に向かって笑顔を作った。
「いや別に、今来たとこだぜ」
「ならよかったです」
お約束のやりとりをしてから、名前は跡部の手を握った。
「今日の映画楽しみですね」
にこにこと笑う彼女の頬は寒さのせいかほんのりと赤い。
「ああ、そうだな……」
映画館に向かって二人で歩く。だがやはり、跡部はどこか上の空だ。
「そういえば、今日来る途中に道聞かれたんですよ。すごく綺麗な人で……」
久々のデートに浮かれる名前は、それでも跡部に話を振るが、なかなか相手にしてもらえない。寂しくなった彼女は、眉間に皺を寄せて言った。
「……先輩、聞いてますか?」
「どうでもいい。つか、お前知らないヤツについていくんじゃねーぞ」
けれど。正直すぎる跡部の言葉に、彼女は頬を膨らませる。
予約していたシートに腰掛けてしばらくすると、ブザーが鳴ってあたりが暗くなった。目の前の巨大な画面で、予告編が始まる。今日観るタイトルは、大正時代の華族の悲恋ものだ。原作は有名な文学作品で、今冬一押しの邦画らしい。……スクリーンで舞い散る桜が、まるで春の雪のようにも思えた。
***
彼女に引き合わされたのは、二年前のある花冷えの日だった。桜の美しい、高級ホテルのレストランでのこと。
「景吾、こちら綾香さん。須藤さんのところのお嬢さんなんだ」
父に女性を紹介されたこと自体は、何度かあった。自分の眼前で白いワンピース姿で佇む彼女は、歴史ある一流企業の社長令嬢だった。
「綾香です。よろしくお願いします」
その微笑みは、儚い桜花のようだった。
「年も近いみたいだから二人仲良くしてくれたら嬉しいな」
そう言って、父は意味ありげな視線を跡部に送る。勘の鋭い跡部には、それだけで充分だった。今回のホテルでの会食の目的、父の意図は…………。
「跡部景吾です。こちらこそよろしくお願いします」
全てを察した跡部は、いかにも御曹司らしい柔らかな笑みを浮かべてそう応えた。
まずは、父と自分と彼女の三人で前菜を楽しんだ。途中から彼女の父も加わって、四人になった。食事が終わってしばらくしたところで、跡部は綾香と二人だけにされた。ホテルの敷地の広大な日本庭園を散策する。柔らかな陽光の中、跡部は彼女に半歩遅れて歩く。
「……素敵ですね。まるで京都にいるみたい」
庭の池にかかる橋の上で彼女は跡部を振り返って微笑む。遥かには三重塔が見え、庭のそこここでは桜が今を限りと咲き乱れていた。
「そうですね、ここが都内だなんて俺も信じられません」
跡部も微笑み返す。舞い散る桜を背景に佇む、彼女は完璧そのものだった。まさに、令嬢の名に恥じぬ一分の隙のない美しさ。
「そうだ、跡部くんはテニスをしてらっしゃるんですよね?」
唐突に、彼女は口を開いた。
「ええ、そうですが……」
「奇遇ですね、私もなんですよ」
といってもただの手習いなんですけどね、そう続けてから、また彼女は笑った。
その夜、珍しく跡部は父の書斎に呼ばれた。
「綾香さん、優しそうな子だったね。テニスしてるなんて驚いたよ」
穏やかに微笑む父に、跡部は言いようのない底知れなさを感じていた。
「そうですね」
言葉を選び、慎重に答える。
「君とも合いそうだ」
微笑みながら、父は続ける。
「――ここだけの話だけど、お祖父様があそこの会社との提携を考えていらっしゃるんだ」
核心に迫る言葉をやっと父の口から聞き、跡部はようやく緊張から解き放たれる。しかし、今度は別の暗雲が心の中に立ちこめる。
「僕は申し分のないお嬢さんだと思っているんだけど、景吾はどうかな」
穏やかな笑みを浮かべたまま、腹を探るような質問を父は跡部に向けてくる。
「…………」
自分の青い瞳が氷のような冷たさを帯びていくのを、跡部ははっきりと感じ取っていた。しかし別に何も驚くことはない。恐れることもない。いつか来るべきことが、今来たと言うだけだ。
この家に生まれた以上は、恋愛も結婚もきっと自分の自由には出来ないと、跡部はそう覚悟して生きてきた。そしてそれは、相手の彼女も同じはず。そこまで思いを巡らせてから、跡部は口の端に笑みを浮かべた。
「はい、俺もそう思います。父さん」
特権は利用すべきもの。そう考える自分は、幸か不幸か超のつくほどのリアリスト。ちょうど学校のうるさい女子たちの相手にも、うんざりしてきたところだった。美人で完璧な年上の女性。自分に似合いの、申し分のないお相手だ。それが公認のお墨付きで差し出されるのであれば、頂かない手はないだろう。
「そうか。それは良かったよ」
思えば父のそのセリフこそが、この恋の、跡部が恋だと思っていたものの、始まりだった…………。
***
それから、彼女とふたりで会うことが増えた。跡部邸の屋外テニスコートに、初夏の日差しが降りそそぐ。
コートのそばのベンチに座って、彼女――綾香は跡部のプレーを眺めていた。ボールを数度バウンドさせて目を細め、跡部は大上段からサーブを繰り出す。彼が腕を振り下ろすとほぼ同時に、ボールが相手コートの地面を打つ鋭い音が響いた。
打球のコースを確認してから、大きく深呼吸をして。跡部はポケットから二つ目のボールを取り出す。そしてまた数度バウンドさせてから、今度は大きなかけ声とともにサーブを打った。今日は部活が休みの水曜の放課後。例えそんな日であっても、跡部が練習を欠かすことはない。
何度かサーブを打ってから、跡部は綾香に声をかけた。コート上から呼びかける。
「――よかったら、一緒にプレーしませんか?」
しかし、彼女は首を横に振る。
「跡部くんの邪魔になるわ」
それはあまりにも控えめな、跡部にとってはもの足りない答え。ラケットを持ったまま、跡部は綾香のいるベンチに戻る。
「邪魔だなんて思いませんよ。それに、ウェアもシューズも用意してありますし」
彼女から渡されたタオルを受け取りながら、意識して柔らかく微笑みかける。せっかくの共通項なんだから、これを利用して親睦を深めたい。跡部はそう考えていた。
確かに月並みな考えではあるけれど、跡部の周りでテニスの話ができる女性は思いのほか少なく、ずっと跡部はそのことを不満に思っていたのだ。
自分を好きというのなら、自分が好きなものも少しくらいは理解しようとしてほしい。そう思うのは人間の自然な感情だろう。しかし遠慮もあったのか、跡部に群がる女性で、彼のその思いに気がつくものはいなかった。
しかし、綾香がその数少ないテニスがわかる女性の一人だったというのも、跡部にとっては密かな自慢だった。だって、ますます自分の伴侶にふさわしいじゃないか。そんな跡部の思いを知ってか知らずか、綾香はそっと微笑んだ。
「観ているだけで充分ですよ」
「そうですか……」
その穏やかな微笑みに、どことなく拒絶されたような疎外感を覚えて、跡部は内心で落胆する。知り合ってもう数ヶ月も経つのに、まだ壁があるような気がする。名家のお嬢様というのは、こういうものだっただろうか。跡部の気落ちを察したのか、おもむろに綾香は口を開いた。
「跡部くんのフォームは綺麗ですね」
「……ありがとうございます」
「スイスの――選手みたいだわ」
それはテニスプレイヤーであれば知らないはずはない、世界ランク上位のプレイヤーだった。
「それは、とても恐れ多いですね」
けれど、フォームの型にも自信のあった跡部は、自分でも意識しないうちに、口の端を上げていた。
「――景吾様! 綾香様!」
唐突に名前を呼ばれて、跡部と綾香は声の方を見返す。すると跡部家の家政婦が、スーツ姿の男性を伴って、いそいそとこちらにやってくるところだった。
「どうしたんだよ?」
「……綾香様にお迎えが」
跡部の問いかけに、家政婦は畏まった面持ちで答える。そして、脇に控えるスーツ姿の男性に一瞬だけ視線を送る。
年の頃は綾香と同じか少し上。その手には白い手袋がはめられており、跡部は運転手か何かだろうと予想する。しかし、細身のスーツをスタイリッシュに着こなすその様は、切れ者の秘書のようにも見える。
「申し訳ございません、跡部様」
家政婦に視線を送られた男性は、それを受けると、跡部を見据えて慇懃に頭を垂れた。つかの間、跡部は彼の瞳の奥に、ほの暗くゆらめく炎のようなものを見る。しかしそれは一瞬にして消え、今の彼の眼差しは忠実な使用人らしい穏やかさを取り戻していた。
「…………」
妙なひっかかりを覚えたが、何も言えずに、彼に付き添われコートをあとにする綾香を、跡部は複雑な面持ちで見送った。
そんなことがあっては、練習に身が入るはずもない。跡部はコートから引き上げて、自分の部屋に戻っていた。軽くシャワーを浴びて、私服のシャツに着替える。そしてあのときの運転手のことを思い出す。
確かに睨まれた。それは間違いない。しかし、そんなことをされる覚えは本当に跡部にはなかったのだ。政略そのものの交際なのは承知していたが、綾香と自分であれば両家のメリットにこそなれ、デメリットとなることはありえない。自分も出来る限りで、良い交際相手の責務を果たしてきたつもりだった。
自分のファンを自称する女子生徒とも距離を置き、テニスと学業の次に綾香を優先していた。それこそ、周囲に望まれた関係そのもののはずなのに……。
跡部がそんなもの思いに囚われていたそのとき、部屋の扉をノックする音がした。人の応対をする気分ではなかったが、跡部は渋々と扉を開ける。そこにいたのは馴染みの使用人ではなく、自分の父だった。意外な人物の登場に、跡部は小さく息を呑む。
「……どうしたんですか、父さん」
「驚かせちゃって、ごめんね」
相も変わらず、父は飄々としていた。息子の不躾な態度など、全く意に介していないようだ。そしてまた唐突なことを言い出して、跡部を困惑させた。
「ねぇ景吾、今からドライブに行こうよ」
手の中で車のキーをもてあそびながら、跡部の父は穏やかに笑う。
眼前のフロントガラス越しには、都心の目抜き通りの夜景が広がる。前を走る車のテールランプやガラス張りの路面店のライトアップ、マンションやビルの窓明かりが跡部の目に眩しく映る。黒塗りの外国車のハンドルを握る、父はいやに上機嫌だった。
「……自分で運転するのなんて久しぶりだよ。腕が鳴るなぁ」
「気をつけてくださいね。あなたが事故を起こしたら、ささいものでも新聞に載ってしまいます」
子供のようにはしゃぐ父を、跡部は苦笑しながらたしなめる。
「ちえっ、景吾は冷たいな」
唇を尖らせながらも、父は手慣れた様子でハンドルを切る。クルマはちょうど、レジデンスの裏側の散策路に差し掛かっていた。桜並木で知られる、静かで落ち着いた長いスロープ。小さな公園と道沿いの桜の木々のシルエットが、街灯に照らされてぼんやりと夜の闇に浮かび上がっている。
ふと跡部は、まるで自分がどこかの住宅街の小路に迷い込んでしまったような、そんな錯覚を起こす。しかし、正面に視線を戻してほんの少し見上げれば、そこにはヒルズのタワーが圧倒的な存在感でもって、そびえ立っていた。跡部はとたんに現実に引き戻される。
このタワーは、跡部家の誇りそのものだ。父と祖父が十七年の歳月をかけて成し遂げた、総事業費数千億円のビッグプロジェクト。オープニング時には時の首相が駆けつけて祝賀挨拶を行ったと聞いている。目の前の塔をうっとりと見上げながら、跡部の父はため息を漏らした。恍惚に浸った表情のまま、愛息につぶやきかける。
「――ああ、早く君とも仕事の話がしたいよ。景吾」
父のその言葉に、しかし跡部は自分の宿命を、嫌というほど自覚させられたのだった。
時間は少しさかのぼる。綾香を後部座席に乗せてから、彼は車を発進させた。意図的に遠回りになる道に入って、口を開く。
「……今なら、まだ引き返せます」
その口ぶりは使用人のそれではなく、さながら恋人を責める嫉妬に焦がれた男のようだった。
「今さら何言ってるの? もう戻れるわけないじゃない」
彼のその言葉に綾香は拗ねた様子で言い返す。名家の令嬢たる彼女が、いじけた子供のようなその表情を見せるのは、ハンドルを握る彼と二人きりのときだけだ。
「発表はもう明後日なのよ。わかってよ……」
そこまで言って、彼女は喉を詰まらせる。あふれる涙を拭いながら、綾香は彼の下の名前を呼んだ。
『―――社、―――との資本業務提携で合意』
二日後。大きな見出しが、全国紙の一面を飾る。同日の経済面には満面の笑みを浮かべて手を握り合う、綾香の父と跡部の祖父がカラー写真で掲載されていた。
***
「――ねぇ景吾、綾香さんとは順調?」
出し抜けにそんなことを訊かれて、跡部はわずかに眉を動かす。短かった秋も終わり、年の瀬も押し迫ったある日のこと。
「……順調だと思いますが。どうしたんですか? 父さん」
「だって、気になるんだもの」
ふふ、と笑ってから、跡部の父は温かなダージリンの注がれたカップを傾けた。薄い磁肌に精緻な花の装飾の施されたそれは、跡部の母のお気に入りのものだった。
「……………………」
父の真意をはかりかねて、跡部は押し黙る。そして自分もまた、ティーカップに口を付けた。父と二人でお茶を飲むなんて、本当に久しぶりだ。何を話せばよいのかも分からずに、跡部は窓の外の景色に視線を送った。
父の後ろには、ちょうど大きな窓があった。季節柄もあり、屋敷の庭園のバラは全て葉を落として、そこにあったのは芝生と常緑樹の緑だけだった。寒々しい庭の様子に、これからはもっと寒くなるんだろうと、跡部が思ったそのとき。
「――景吾、君は綾香さんのどこが好きなの?」
急に尋ねられて、ほんの一瞬だけ、しかし確かに跡部は答えに詰まった。だってそんなこと、考えたこともない。
「……どうして、そんなことお聞きになるんですか」
質問を質問で返す。その声は、自分でも驚くほどに苦しげだった。
「さぁ、どうしてかな」
いつも通りの柔和な笑みを浮かべながら、父はつかみどころのない答えを返す。からかわれただけなのだろうか。しかし……。気詰まりな空気に耐えかねて、跡部はカップをソーサーの上に置く。自分の父ながら、底の見えない人だ。
「そうだ、そういえば綾香さんのお誕生日がね、今週の土曜日なんだよ」
「……っ!」
跡部は息を詰まらせる。数日前に会ったとき、本人はそんなこと、ひとことも言ってこなかった。
「せっかくだから二人で食事にでも行ってきたら? うちの系列なら、今からでもいいレストランが押さえられるよ」
息子の不手際を叱ることもせず、父は何でもない口ぶりでそんなアドバイスをする。
「そうですね」
跡部は目を伏せた。自分は本当に彼女のことを何も知らないんだと思い知る。そして、好かれてはいないということも。
けれど。だからこそ、自分はもっと彼女のことを知っていかなくてはいけない。そして、好意を持たなくてはならないのだ。無意識に、跡部はそんなことを考える。
「どこで食事するか決めたら、教えてね」
穏やかな笑みを浮かべたまま、父は立ち上がる。
「それじゃあ、僕は書斎に戻るよ」
椅子に腰を下ろしたまま父の背中を見送って、跡部はまた視線を落とした。心の中にまた鉛色の雲が立ちこめる。父に彼女のどこが好きかと訊かれたとき、自分はこう言ってしまいそうになったのだ。『断る余地のない話を、持ってきたのはあなたじゃないですか』と。
自分が目を覚ましたとき、彼はもう既にスーツを着込んだ後だった。ベッドから起きあがり、綾香は目元をこする。手近な時計で時間を確かめる。幸いにも、まだそんなに経っていないようだった。
よかったと息を吐いて、綾香はベッドサイドに丁寧にたたんで置かれていた白いワンピースを手に取った。袖を通して、寝乱れた髪を整える。そしてリビングにいるであろう、彼のもとに向かった。
「……もう起きてたのね」
「ええ」
一分の隙もないスーツ姿で、運転手の彼は綾香に向かって微笑みかける。ここは、彼のマンションだった。
「それでは戻りましょうか、お嬢様」
二人きりでいるのに、ベッドの外では他人行儀な呼び方を決して崩そうとはしない彼に、綾香は悔しさと悲しみを覚える。しかし、そんなことで彼を責めても、困らせてしまうだけだ。その程度の分別は、綾香にもあるつもりだった。
人目につかないように、二人は別々にマンションの玄関を出た。車の中で落ち合って、揃って屋敷に戻る。運転はもちろん彼だった。
最低のことをしている自覚はあった。けれどずっと、もう何年も前から、綾香は彼のことが好きだったのだ。今はまだ誰にも言えない関係だけど、いつかきっと皆に認めてもらえるようになろうねと、ふたりで約束した矢先の、跡部家の令息との縁談だった。
後部座席に座り、ミラー越しに綾香は彼の表情を盗み見る。すがるような思いで、嫌いになれそうなところを探す。こっそりと見ていたつもりだったのに、目が合ってそっと微笑まれた。愛する彼から視線を外して、綾香は俯いた。
(……やっぱり嫌いになんてなれない)
彼女がそう確信したそのすぐあと、車は屋敷にたどり着いた。
「――遅かったじゃないか、綾香」
二人が戻って来てすぐ、朗らかな笑みを浮かべながら、近づいてきたのは彼女の父だった。大柄で恰幅の良い身体に、明るい笑顔はよく似合っている。何も知らなければ、どこにでもいる快活な父親にしか見えないだろう。
「……お父様」
「申し訳ございません、道が混んでおりまして」
すかさず、運転手の彼は綾香をフォローする。
「そうかぁ、この時期は仕方がないなぁ」
はっはっは、と綾香の父は声を立てて笑う。
「そうだ綾香、さっき跡部くんから連絡があったぞ。誕生日のお誘いだ、良かったじゃないか」
たいそうご機嫌な父に、綾香は返す言葉もない。消え入りそうな声で、はいとだけ返事をする。運転手の彼はポーカーフェイスを崩さぬまま、しかし彼女とその父の様子を気づかわしげに伺う。
けれど、幸いにも父は娘の様子は気にもせずに、自分の言いたいことだけを言い終わると、またどこかへ行ってしまった。……そしてついに、そのときがやって来る。
「……うわっ、マジで降ってきやがった」
傘を持っていなかった跡部は、小さく舌打ちをして空を仰いだ。濃紺の空にはおぼろげながら星が瞬き、週末の雑踏に微かな光を届けている。そして綿のようにふわりとした雪が降り出したのは、いましがたのことだ。
今日は許嫁の綾香の誕生日。しかし跡部はひとりで、夜の繁華街を歩いていた。もっと長い間一緒にいられるかと思ったのに、ディナーを楽しんで早々に、彼女は例の運転手に連れられて屋敷に戻ってしまったのだ。しかし「父に呼ばれている」のであれば、跡部は何も言えない。
形容しがたいうら寂しさを覚えながらも、跡部はコートの襟を立てて歩く。ぽっかりと時間が空いてしまった。けれど、まっすぐ家に帰りたくはなかった。氷帝の仲間に連絡をとってみようか、跡部はらしくないことを考える。寒さに凍えた手で、ポケットから携帯電話を取りだした。
そしてふと顔を上げたそのときに、跡部は見てしまったのだ。足早に行き交う人々の向こうで、手をつないで歩きながら幸せそうに笑いあう、綾香と例の運転手の姿を。
恋人の裏切りにも関わらず、仲むつまじい二人の姿を見て、しかし跡部は、ほっとしたような気持ちになったのだった。
『最後の思い出に、手をつないで街を歩きたい』
そう言い出したのは彼女の方だった。けれど、それを了承してしまった自分も、もしかしたら心のどこかで、この展開を望んでいたのかもしれない。
目の前には不機嫌に煙草をくゆらせる綾香の父がいる。この人が煙草を吸うのは、決まって何か許せない出来事があったときだけだ。長年仕えてきた彼は、誰よりもそれをわかっている。それこそ、実の娘の綾香よりもずっと。
「まさかお前に、恩を仇で返されるとは思わなかったよ」
激しい憎しみのこもった低い声でなじられる。そこにいるのは陽気な父ではなく、辣腕で名高いコンツェルンの総帥だ。
「……許されるなら今ここで、お前を殺してやりたいよ」
彼の胸ぐらを乱暴に掴み、まるで唾でも吐きかけるように、綾香の父は子飼いの部下を侮蔑する。
***
自分が喋ったわけではないが、目撃者は他にもいたらしい。今にして思えば、きっとあの二人はああなることを望んでいたのかもしれない。
『もう何年も前からね、皆に内緒で付き合ってたみたい』
電話口から聞こえる父の声は、普段となにひとつ変わらない飄々としたものだった。跡部は黙って、父の話を聞く。
別に、ショックとか悔しいとか、そんな気持ちがあったわけではなかった。ただ、強いて言うのなら虚しい。そのひとことに尽きる。半年以上、一緒に過ごしてきたのに。
『……無理強いをしたつもりはなかったんだけど、でもやっぱり僕たちの言うことはみんな断りにくいのかな』
彼の父はぽつりとつぶやく。その言葉の端に形容しがたい哀しみを感じ取り、跡部は長い睫毛を伏せた。電話の向こうの父の自嘲の笑みが見えた気がして、なぜか跡部の胸までもが痛んだ。
『景吾も、本当にごめんね』
父にそうやって謝られたのは、生まれて初めてのことだった。
綾香の父と自分の祖父との間で、どんなやりとりがあったかは知らない。ただ、あの提携が破談になったという話は聞いていない。けれどそれ以来、跡部は自分の両親や祖父母に、異性を紹介されることはなくなった。
ほとぼりが冷めた頃を見計らって、もう縁談はないのかと跡部は遠回しに父に尋ねたことがある。そのときの言葉は、今でも彼の脳裏にこびりついている。
『自分の子供には、幸せでいてほしいからね』
「――映画、泣けましたね!」
未だに瞳を潤ませたまま、彼女――名前は自分に同意を求めてくる。
「……まぁなあ」
本音を言えば、昔のあまり思い出したくない出来事が蘇って、純粋に映画を楽しめなかったのだが、跡部は一応話を合わせる。
忘れていたが『しいて言うならこれが見たい』と言ったのは、他ならぬ自分自身だった。心の内で、跡部はミスチョイスを悔やむ。原作が純文学だったからすこしはためになるかと思ったのに、とんだ落とし穴だった。
「でも、ラストのお寺の場面とかすごく綺麗でしたね! あと聡子役の女優さんも」
「そうだな」
それは同意できる。跡部は素直に頷いた。予算をかけている作品だけあって、映像の美しさは際立っていた。旧き良き大正の日本と、原作の耽美な世界観を余すところなく表現していた。それだけで、劇場まで足を運んだ甲斐があったというものだろう。映画館のロビーで目元をこする名前に向かって、跡部は改めて口を開いた。
「……悪かったよ」
「え?」
跡部の唐突な台詞に、彼女はきょとんとする。
「朝、どうでもいいとか言って」
その言葉を聞いて、小さく首を横に振ってから、名前は嬉しげな笑みを浮かべた。
「もう、気にしてないですよ」
屈託のない返事に毒気を抜かれて、思わず跡部は口元を緩める。自分から好きになって、自分から告白した彼女なのだ。ちゃんと大事にしなければ。
ふと、後輩から聞いた話を思い出し、跡部は悪戯を思いついた子供のような表情を浮かべた。口角をわずかに上げて、話を振る。
「そういえば、お前体育でテニス選択したらしいじゃねぇか」
「……え、なんで知ってるんですか」
自分には知られたくなかったのか、名前は嫌そうな、それでいてどこか恥ずかしそうな顔をした。そのリアクションに、跡部は機嫌を良くする。
「日吉が言ってたぜ。サーブ空振りして先生に呆れられてたって」
「~~っ!」
よほど忘れたかった出来事だったのか、彼女は顔を真っ赤にし、きっと跡部をにらみつける。だけど、子犬のような大きな瞳と、赤く染まった頬でそんなことをされても、跡部にとっては嬉しいだけだ。
「……ちゃんと練習してできるようになりますしっ!」
「ホントかよ。怪しいもんだぜ」
なぜかムキになる名前に、跡部はニヤニヤと笑いながら、恒例のわがままを吹っかける。
「……特訓してやるよ。お前、来週俺のウチに来いよ」
「え~~っ!」
そう。傍若無人なこのノリこそが、いつもの自分だ。ようやく跡部は、ひととき見失っていた自分を取り戻したように感じていた。かつての恋の感傷なんて、やっぱり自分には似合わない。
「なんだよテメェ、この俺様の好意が受け取れねぇって言うのかよ」
「そ、そういうわけじゃあ、ないですけど……」
まだ微妙に嫌がる彼女と、強引に約束を取り付けて。跡部は何かを吹っ切ったような、晴れやかな笑みを浮かべた。
「なら決まりだな」
その夜。夕食の時間に、跡部はまた父に絡まれた。
「……名前ちゃんだっけ。今度の子とは長続きするといいね。いい子だし」
断定的な口調で、急にそんなことを言い出した父にひっかかり、跡部は顔を上げた。
「道を聞いたら親切に教えてくれたって、母さんが言ってたよ」
こともなげにそう言って、父は未だ湯気のたつスープを口に運ぶ。驚いて、跡部は今日の出来事を回想した。しかしすぐに、心当たりに思い至る。世間は狭い。
「いつか、ちゃんと会わせてほしいな」
「……そのうち、連れてきますよ」
満足そうに微笑む父に、跡部は口の端を上げて答えた。
『君と君の選んだ人が、どうか幸せでありますように』
窓の外にはいつのまにか、冬の終わりを告げる淡い雪が、ただ優しく舞っていた。