孟徳さんが過労で倒れる話
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恋戦記は現在一部のお話のみヒロインの名前変換可です薄桜鬼とテニプリは名前変換可、刀剣乱舞はネームレス夢です
恋戦記小説について
現在一部作品のみ名前変換可にしていますが、ヒロインの下の名前「花」が一般名詞でもあるため「花瓶の花」などで巻き込み変換されてしまいます
それでも良い方は変換してお楽しみください。それがダメな方はデフォ名「山田花」でお楽しみください
すみませんが、よろしくお願いいたします
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「……くそっ、まいったな」
思わず悪態をついてしまう。しかし、広い室内は無人で誰の返事も帰ってこない。定宿にしている高級ホテルのある一室で、孟徳は二人掛けのソファーに腰を下ろして眉間に手を当て唸っていた。
会議に出席し終えたばかりの夕刻。外は雨が降っているようで、窓外の都心の夜景はスモークがかかったようで幻想的だ。
このあとは少しの休憩を挟んで夕食会に参加して、同業他社のお偉方に挨拶するという予定だったが、孟徳はかつてない窮地に陥っていた。
「休めないんだよな……。今日も明日も、ずっと……」
困ったような心細い呟きは、おおよそいつもの彼らしくない。かろうじてソファーからずり落ちずに座った姿勢を保ってはいるものの、孟徳の額からは滝のような汗が吹き出し、襟元の色が変わるほどにワイシャツを濡らしていた。眉間に当てている手も先ほどからずっと小刻みに震えている。
四十度を超える高熱と身体の震え、激しい全身の痛みと猛烈な倦怠感……。おそらくこれは過労とストレスを原因とした免疫力の低下でかかってしまう感染症だ。まさか自分がこの病気になるなんて、と孟徳は自嘲する。
月並みだが「周りはなってても自分だけは大丈夫」だと楽観していたのだ。体力や気力にも自信があり、自分は無理のきくタイプなのだと。数日前からの微熱や多少の倦怠感もただの風邪だと思っていて、症状を抑えるための解熱鎮痛剤しか服用していなかった。
そのうち治ると思っていたがなかなか治らず、それどころか次第に悪化して、そしてついに症状はいよいよ堪えがたいレベルで悪くなってきた。これを容体の急変というのかは知らないけれど。
「っ、くそ。熱い……」
もう無理だ。孟徳はソファーからずり落ち床に倒れ込む。本当は横になるならベッドまで行きたかったが、動けなかった。自分では起き上がることも不可能で、できることといえば吹き出す汗はそのままに、こうして横になって激痛に耐えることだけだった。そして。
「っ、寒い……」
高熱による猛烈な暑さが去ったと思った次の瞬間、孟徳を激しい寒さが襲う。Tシャツとショートパンツ姿で、ブリザード吹き荒れる酷寒の大地に放り込まれたのかと錯覚するほどの、激烈な寒さである。ここは高級ホテルのスイートルームで、空調は今日も完璧に行き届いているはずなのに。
この寒さのお陰で先ほどまでの無限に噴き出る滝のような汗は止まったが、今度は身体の芯から氷づけにされるかのような悪夢のごとき寒さに、孟徳の全身がガタガタ震えだす。
自分ではそんなことはしたくないのに、激しい震えで歯がガチガチと鳴り続ける。歯の根も合わないほどの震えというのはこういうことを言うのだと、孟徳は初めて知った。
冬物のスーツの下には愛用のカシミヤのカーディガンを着込んで、それなりに温かな格好をしているのに、このありさまだ。
(全身が……。痛い……。くそ……)
いよいよ身体の痛みは激しくなり、意識が朦朧とし始める。生理的な涙で瞳が潤んでいるせいか、周囲の風景はぼんやりとしか見えない。このままではまずい。本当に気絶しそうだ。
孟徳は決死の思いでポケットからスマホを取り出して、腹心の部下である夏侯元譲に電話を入れて、瞳を閉じた。ホテルに滞在するときの常として近くの部屋に控えているはずだから、彼はきっとすぐに来る。
「――孟徳! 開けるぞ! 大丈夫か!?」
数分後、野太い叫び声とともにドアが開き元譲が駆け込んできた。そして彼の後ろには、心配そうな顔をした女性のホテルスタッフが二名いた。
孟徳のオートロックの部屋の鍵を用意してくれたのは彼女たちだったのだろうが、他人に弱った姿を見せたくなかった孟徳は「元譲以外は来るな!」と制止したかったもののそれもできずに、ひとり床に倒れたまま苦しみ続ける。
敗血症寸前の、身体の芯から巻き起こる焼かれるような激しい熱さと、比喩でなく本当に身体が凍りつくのではないかと錯覚するほどの猛烈な寒気と、それらに交互に襲われながらも、孟徳は懸命に自らの状況を元譲に伝えようとした。
「……げん ……じょ ……ね、つ ……が」
しかし。それを遮るかのようにホテルスタッフの鋭い声が響いた。
「――こちらでは対応できません! 救急車を呼びます、構いませんね!?」
「……っ、わかった!」
元譲は呻くように返事をする。大事にはしたくなかったが、こうなってしまってはどうしようもない。すでに騒ぎも大きくなっているようで、部屋の外がざわついてる気配が伝わってくる。
無用な人目を避けるためにエグゼクティブフロアを選んだものの、このフロアにも他の宿泊客はいる。先ほどの会議で顔を合わせたお歴々もそうだろう。一般客は少なくとも完全な無人ではない。
床で呻いている孟徳のすぐ隣に、スマホで一一九番通報したホテルスタッフが、元譲を押しのけるようにして割り込んでくる。
「――救急です! インペリアルホテル新館、エグゼクティブフロア上階の角部屋のお客様! 三十代の男性です。高熱で倒れられて……! はい! 新館の通用口にお越しください。正面玄関ではなく通用口にお願いします!」
さすが高級ホテルの現場スタッフ。無駄のない的確な受け答えだ。彼女は孟徳に向き直ると励ますような笑みを浮かべて。
「救急車はあと十五分で来ます。頑張ってください。――着衣を緩めて毛布とバスタオルですね! かしこまりました」
後半は通話相手からの指示の復唱だ。スタッフの言葉を耳にした元譲は即座に対応する。
「孟徳! すまんが服を緩めるぞ」
ネクタイがぐっと緩められ、ワイシャツのボタンがブチブチと外される。一一九番通報をしているスタッフとは別の若いホテルスタッフが孟徳の腹部から下に毛布をかけ、フェイスタオルでこめかみや首筋の汗をぬぐい始めた。
通報をしたスタッフはスマホを耳に当てたまま元譲に声を掛ける。
「お客様の介抱は私共が致します。おそらくこのまま入院となりますので、保険証と貴重品のご用意をお願いいたします。お荷物も可能な範囲でおまとめください」
「――わかった!」
元譲は慌ただしく部屋を見回って孟徳の私物をかき集める。
通報をしたベテランらしきホテルスタッフはスマホを耳に当てたまま、孟徳の汗を拭いている若いスタッフに、フロント宛に内線電話をかけるように指示をしている。
その少し向こうでは、元譲に続いて孟徳の部屋に駆けつけたと思しき元譲の部下たちが、焦った様子でどこかに電話をかけている。おそらくは会社に連絡をつけているのだろう。
孟徳は気絶しそうな激しい痛みと高熱の中、ガタガタと震えながら、これまで休みらしい休みなど一切取らず、花と二人で過ごす時間を少しでも増やしたくて無茶ばかりし続けていた、己の無謀な働き方を悔やんだのだった。
***
救急車はすぐに来た。搬送先の病院もすぐに決まり、孟徳はストレッチャーに乗せられて運ばれていた。
救急車に乗れるのは患者本人と付き添い一名の計二名だけだ。それ以外の人間は自力で搬送先の病院に向かわなくてはならない。自然な成り行きで付き添いは元譲になり、元譲の部下たちは社に戻るものと自力で孟徳の搬送先に向かうものと二手に別れた。
人目を避けるために正面玄関ではなく通用口を利用しているものの。救急車のサイレンは爆音といっていいほどにうるさく、ストレッチャーに乗せられて運ばれる孟徳を守るようにして取り囲んでいる、救急隊やホテルスタッフ、そして元譲をはじめとした孟徳の部下たちのせいで、目立ってしまっていた。
物々しい異様な雰囲気に周囲は騒然としており、居合わせた一般客たちに先ほどからずっと視線を送られている。一体何が起きたのか、運ばれている人は誰なのか、囁き合う人々も多かった。
そして、救急隊の面々と孟徳と元譲を乗せ終えて。救急車はついに発進した。
走行中の車内では、この場でできる限りの処置が行われる。ストレッチャーで横になっている孟徳は、熱を測られ点滴の針が刺され即座に輸液が開始された。まずは水分を大量に投与して脱水症状を改善するのだ。
救急車の乗り心地は良くはない。寝かされているストレッチャーは固く、運転は荒い。孟徳たちを乗せた救急車はサイレンを鳴らしながら猛スピードで、文字通り飛ぶように雨の夜のアスファルトの上を走り抜けていく。
片側二車線の交通量の多い道路だったが、遠くから聞こえてくるサイレンの大音量と「道を空けてください」という放送に、他の車たち、つまり一般車両はサーッと波が引くように避けてゆく。道路の隅に寄りながら走行速度を極限にまで引き下げて、救急車が走り抜けるための道をあけてくれる。その真ん中を、中央線を踏み越えながら。救急車は猛スピードで駆けてゆく。
緊急車両の一般道における緊急走行時の最高速度は時速八十キロと道路交通法で定められている。普段自分たちを乗せた車がこの道をこんな速さで走ることはありえないから、孟徳はまるで公道でレースをしているような不思議な気持ちになった。少し面白くなってしまう。一刻を争う状況で面白がっている場合ではないが。
そうこうしているうちに、搬送先の病院の近くに着いたのか、救急車がおもむろに減速し始めた。
「孟徳、ついたぞ。――大学病院だ。文若たちもすぐに来る。あと少しだ」
元譲から改めて病院の名前が告げられて励まされる。有名な大病院だ。このあたりで何かあれば大体ここに運ばれるのだろう。
先ほどから続けられている輸液のおかげか、身体は少しずつ楽になっていた。大学病院の救命救急センター至近の通用門を滑るように通り抜け、そのまま救急車はセンターの建物を目指して進んでいく。
ようやく安堵する孟徳だったが。しかし、こんなことになってしまって、そのあとのことを思うと憂鬱になった。
救急車で来院すると最優先で対応してもらえる。法律でそう決まっているのだ。
救急外来の初療室で慌しく診察と処置を済ませて、今孟徳がいるのは一般病棟の個室だった。ストレッチャーではなく今度は病室のベッドで引き続き横になっている。
抗生剤とブドウ糖の点滴も続けられているが、気絶しそうな全身の痛みはやはり治まらない。
付き添って一緒に病院に来た元譲は、今ここにはいない。なにかの手続きがあるとかで外に行っていて、今この場にいるのは孟徳と孟徳の処置をしていた看護師の二人だけだった。看護師は半死半生の孟徳にいたわるような笑みを向けると。
「……点滴は今夜は外せませんが、だいぶ楽になりますよ」
「……」
今夜は外せない、その言葉に孟徳は暗澹たる気持ちになる。今日も予定が詰まっている。本当ならすぐにでも戻って仕事をしなければならない身分だけれど。
(……できるわけないよなあ)
高熱でつらくて看護師の声掛けにも返事ができない。今の自分の時間感覚が当てになるかはわからないけど、倒れて運ばれてからまだ二時間もたっていないはずだ。
するとバタバタという誰かが走ってくるような気配がして、ノックもなしに病室の引き戸が開けられる。
「――常務!」
「お静かにしてください、点滴を打ちながら休まれています」
息を切らして駆けつけたのは腹心の部下の文若だった。しかし彼は早速この場にいた看護師に注意されていた。
常日頃は彼の方が「扉を開けるときは声を掛けてからにしてください」などと口うるさいのに、孟徳が倒れたと聞くやこの慌てようだ。
「――常務の容体はどうなっている!? 仕事に復帰できるのはいつ頃だ!? 今夜も明日も予定が詰まっているのだ!!」
文若は早速その場にいた看護師に居丈高に詰め寄る。
(開口一番、この台詞かよ)
孟徳は呆れるが、喋ることもままならない今は黙って横になっているだけだ。ベテランの看護師は医師から聞いたらしきことを説明していた。
「完治には二週間程度かかります。このまましばらく入院になります」
「入院? このまま? 二週間も入院になるのか?」
半死半生の状態で搬送され今もなお点滴に繋がれている患者を前に心配する言葉は一切なく、復帰時期ばかりを高圧的な態度でしつこく尋ねてくる文若に不快そうな顔をするものの。それでも孟徳を担当しているらしき看護師は淡々と返事をする。
ベテランの彼女もまたなかなかの胆力がありそうだ。半ギレの文若相手に一歩も引いてない。
「……無理をすれば早く退院することもできますが、身体に負担はかかります。自宅での絶対安静と服薬が条件です」
文若は相変わらず渋い顔だ。眉間に皺を寄せて額に手を当てる。
「そうか……」
「お仕事をされている方は皆さん『休めない』と仰いますが、休んでいただかないことには治りませんので」
やや棘のあるきっぱりとした看護師の口調。
会社の部下に対して自分個人への思いやりなど求めたことはないし、これからも求めることはないだろう。しかし、孟徳はさすがに微妙な気持ちになってくる。
けれど、仕事関係の人間などみんなそうだ。出世の階段を駆け上がり今は役員。二十四時間三百六十五日心が休まる瞬間なんて一秒たりともない。自分はいつも常務という肩書……役割として見られている。
唯一の例外は花といるときだ。彼女といるときだけは公人でない私人としての自分を取り戻せて、辛さも忘れていられる。
医師や看護師といった病院の人間もたしかに休養を勧めてくれるけど、それは患者を休ませて病を治すのが彼らの仕事だからそうしているだけで、個人対個人の思いやりや親切とは違うものだ。だからやはり花だけなのだ。自分に人としての優しさをくれるのは。
(……会いたいな)
今もなお収まらない高熱の中で、孟徳は願っても仕方のないことを願ってしまう。
全身を苛む激しい痛みのせいで眠ることもできず、点滴に繋がれたままベッドで横になり、時間が過ぎるのを待つしかないせいか、らしくない思考ばかりが浮かんでくる。
(花ちゃん……)
けれど今ここに花はおらず、いるのは仕事関係と病院の人間だけだ。己の立場を考えれば、彼らに弱い面など見せられない。
孟徳がしばらく復帰できないとわかるやいなや、文若はスマホと仕事用のタブレットを取り出し、看護師が部屋から出ていくのを待ってから、電話をかけ始めた。
タブレットで孟徳のスケジュールを確認しながら関係先と交渉を重ねる文若はまさに、そつのない事務方だ。人間性に問題はあってもやはり彼は優秀で、ごねているらしい社内外の人間を彼独特の威圧感で次々と黙らせていく。
(……あいつの正論ド詰めを返り討ちにできるのは俺くらいだろ)
能力が高く生真面目で嘘のつけない、手放せない昔からの部下だ。気が合わないこともあるけど、ずっとそばに置いている。
手加減なしの全力で自分と渡り合おうとしてくる人間が好きなのは昔からのことだ。嘘のつけないまっすぐな人間が好きなのも。それは男も女も同じだった。
今はこの場にいない元譲も、救急外来に辿り着いたばかりの頃は、孟徳の社用スマホで苦情対応をしていた。
今夜の予定は既に数件飛ばしていたからその穴埋めだろう。出るはずだった夕食会、それから続く会合に面会……。孟徳がいないと話が進まないことも多いと予定を押し込まれていたから。そして。
「――文若様」
控え目なノックをして病室に入ってきた秘書課の女性スタッフが、書類と差し入れを文若に渡す。近くのコンビニで購入したと思しき流動食にスポーツドリンク、コップとストロー、そして目立つ色の付箋のついた書類を文若の近くのデスクに置いた。
「常務はこのままこちらの部屋で入院となります。空いている個室がこちらしかないとのことです。病状次第ではICUにお移り頂くかもしれませんが、現状その予定はないとのことです。書類の……。誓約書と同意書にサインをして病院の事務に、難しければ看護師に。退院までに対応してもらえれば構わないとのことです」
「――わかった。すまないな」
スマホを手にしたまま。秘書に視線だけを向けて文若が礼を言う。孟徳のスケジュール調整と同時進行で受け答えをしていた文若だが、秘書はそんな文若にも差し入れのお茶や軽食を渡して慌ただしく立ち去った。そして、女性秘書と入れ替わりに元譲が病室に戻ってきた。
「――孟徳、入るぞ」
雄々しい声がかかり引き戸が開けられる。
「……病院の事務で面会謝絶の手配もしておいたぞ。それでいいんだろうな」
それでいいが口に出せず、孟徳は小さく頷いた。……見舞いなんていらない。迷惑だ。他人なんて信用できない。信じたくもない。
そんな自分だからこそ、弱っているところなんて誰にも見せたくなかった。点滴に繋がれ高熱に苦しめられて死にそうな顔をしている姿なんて、見せたくもない。
今この場に元譲や文若がいることすらストレスになっているのに、誰が見舞いに来て誰が来なかったのかといった些事に振り回されるのも煩わしかった。
そんな孟徳にちらりと意味ありげな視線を送り、文若はおもむろに私用スマホを取り出し、無表情のままとある相手にラインを送った。
独り暮らしの部屋でひとりスマホを眺めながら無為に過ごしていた花のもとに、文若からのメッセージが届いたのはそのときのことだ。
「え、孟徳さんが、倒れて入院……?」
既読を付けた数秒後に電話が来る。早速すぎてうろたえてしまう花だが、これが仕事中の文若の通常運転だ。この速さと正確さがあるからこそ、孟徳に認められその片腕の地位にいる。
『――ラインの文面は見たのだな。可能であれば今すぐこちらに来て欲しい。常務はお前を必要としている』
「っ、はい……! すぐに行きます……!」
『――わかった。まずはタクシーで地下鉄の駅に向かえ。もう夜も遅いからな。領収書は必ずもらっておくように』
まるで部下に指示出しをするかのような文若に命じられるまま、花は上着を羽織って家を飛び出した。
***
(すごい大病院……)
地下鉄の駅が直結している利便性の高さに舌を巻きながらも、花はビルのように背の高い建物の間を駆けてゆく。新館、本館、別館、そして救命救急センター棟。これら全てが病院の建物だというから驚きだ。
公式サイトの交通アクセスやフロアマップを手掛かりに、花は広大な病院敷地内を進んでいった。途中でコンビニや美容室、レストランに銀行のATMコーナーといった様々な施設や店舗の看板を見かけて、花は改めて孟徳が搬送された病院の規模を実感する。
(そっか、長いこと入院する人もいるからか……)
まるでちょっとした街のようだ。昼間であればきっと賑やかだったこれらの生活に必要な様々な施設も、この時間は照明も落とされひっそりと夜の闇の中で静まり返っている。
しかし、花は一か所だけ明かりのともされた場所をようやく見つけた。近くに停まっている救急車と掲げられている看板の文字に確信する。
(えっと、救急外来の受付に着いたらライン……。よしラインしよう)
文若にラインをしたつもりが、すぐにやってきたのは元譲だった。
「遅くにすまないな、花。文若はもう社に戻ったから、かわりに俺が付き添っていた」
「……はい」
「行くぞ」
受付を済ませて、そこから病院新館の上階の孟徳の個室に向かう。すでに一般の来館者は入れない夜遅い時間帯。
受付はもちろんのこと通路の照明すらも落とされて、足元の小さな常夜灯を頼りに元譲と花は薄暗い通路を進んでいく。不謹慎だけど、まるで夜の学校に忍び込んでいるかのような気持ちになってしまう。
今ここにいるのは入院患者と付き添い入院している彼らの親族、当直予定の病院スタッフにごく少数の警備員くらいのものだろう。それほどまでに暗い建物の中には人の気配がなかった。
時々明るい場所があったがそこはナースステーションで、詰めている看護師たちはパソコンの画面や帳簿を眺めたりしながら、万一に備えて待機している。
そこに一声をかけてから、しばらく歩いてようやく目的地に辿り着く。安全のためか似た雰囲気の偽名が掲げてあったが、そここそが。
「面会謝絶にしてある。仕事関係の人間は来ないから安心して過ごしてくれ。……孟徳、入るぞ」
引き戸を開けて通される。すると。
「――孟徳さん!」
「……花ちゃん」
読書灯だけを点けた暗い室内だからだろうか、その姿は余計に痛々しく花の涙を誘う。入院着姿で点滴に繋がれた孟徳には、まだ色濃い疲労が見えた。
「――花、すまんが後は頼んだぞ。俺は社に戻る。何かあれば連絡をくれ。……孟徳、しっかり休んで早く復帰してくれ。ではな」
そうとだけ言い残して、元譲はこの場を後にした。
夜の病室に花と孟徳だけが残される。花は慌てて孟徳の枕元に駆け寄った。
「孟徳さん、大丈夫ですか……? 倒れて運ばれたって聞いて、心配したんですよ……!」
「ありがとう、花ちゃん……。今はもう平気だから……。安心して……」
平気も安心も今の孟徳が口にするのでは何の説得力もない。点滴に繋がれてベッドで横になっていて、花が来たというのに起き上がることもできなくて、声にも張りがなくて。さすがに今の彼の『平気だから』は信じられずに、花は大きな瞳を涙で潤ませる。
「……花ちゃん、来てくれてありがとう。……まさか今日君に会えるなんて思わなかったから」
「何言ってるんですか……! 倒れたなんて聞いたらすぐに来ますよ……!」
「もう遅いけど……。明日、学校は……?」
今日は平日の中日、水曜だ。孟徳は花の明日の予定を心配する。自分自身がこんな目に遭っていても、大切な人の明日のスケジュールを気にするところは職業病というか、染みついた癖だった。
「大学は春休み中です」
「そっか……。お休みっていいね……。俺も休みたいよ……」
「え……?」
孟徳の台詞にわずかな引っ掛かりを覚えて、花は無意識に聞き返してしまう。そんな彼女に孟徳は弱々しい笑みを向けると、改めて明日以降の自分の予定を彼女に伝えた。
「本当はしばらく入院しろって言われてるんだけど……。明日の午前中には家に……。マンションに戻ろうと思うんだ……。ここじゃ仕事もできないし」
「お仕事、するんですか……? 明日の朝から……?」
文若からは『過労で倒れて搬送された』と聞いていた。花は信じられない面持ちで孟徳を見つめる。まだ学生の花にしてみれば、命よりも大切な仕事というのが理解できない。孟徳は絶句している彼女を宥めるように微笑むと。
「うん……。明日から在宅で、マンションで最低限の仕事だけして……。仕事以外の時間で休もうと思ってるんだ。俺がいないと進まない話もあるし」
過労で倒れているというのに、入院を断って休まず働こうとしているのだ、孟徳は。ようやく理解が追いついた花は唇をかみしめる。
自分の愛おしい人が、最低限の人としての尊厳すら保証されず、仕事にすり潰されそうになっている姿が、悲しくて悔しい。それを自ら受け入れているかのような孟徳にも怒りが湧いた。もっと自分を大切にしてほしいのに。
「……点滴も外してもらうよ。パソコン触るのに邪魔だし。……どうせ家じゃこんなものつけられない」
「でも……。ついさっきホテルで倒れたっていって、孟徳さんまだ辛そうじゃないですか! なのに……」
「……家でちゃんと休むから。仕事の取次も最低限にさせるし」
ついに耐えかねて花はボロボロと泣きだした。
大切な彼女が悲しむところなんて見たくない。傷ついているところも。そんな孟徳だったが、今日ばかりは心配されるのが嬉しい。
自分なんかのために泣いてくれる人なんて、世界中できっとこの子だけだから。自分が泣けないぶん、代わりに泣いてくれてるのかな。
こんなふうに優しい涙をこぼしてもらえたのなら、敗血症寸前のところで苦しみぬいたこの数時間も浮かばれるのかもしれない。
「……イヤです、私は反対です。……ちゃんとしばらく病院にいてください! ……お仕事なんかより、孟徳さんの命の方がずっと大切です!」
「……ありがとう、そう言ってくれるのは君だけだよ」
誇張やリップサービスなどではなくただの事実として、孟徳は淡々と礼を述べる。
こうやって職業人としての孟徳のことよりも、個人としての孟徳を気にかけてくれるのは花だけだ。元譲や文若といった最も自分に近い腹心の部下たちですらも。
『――早く復帰してくれ』
『――二週間!? 二週間もかかるのか!?』
孟徳個人を気遣うことはなく、仕事の心配だけだった。仕方のないこととはいえ。
特に「外せない仕事がある!」「休ませろ殺す気か!」で、看護師と口論を始めた文若にはいっそ笑ってしまったけど。
しかし、そんなことを思い出していたら、不意におかしな虚しさに囚われてしまった。病魔に肉体を蝕まれて、心まで病みそうになる。
職位が高くなればなるほど、人間性が邪魔になる。高い職位にある者に求められ、また必要とされるのは適切な判断と決定、それだけだ。感情に流されて自滅するわけにはいかないから、己を常に押さえつけて律してきた。
何がしたいかではなく、何をすべきかしか考えない。自分に人の心など不要なのだと言い聞かせて長い間戦い続けてきた。
弱い人間ではなかったつもりなのに、花と一緒にいるせいか、いまだ痛みを訴える身体のせいか、なんだか甘えたい気持ちになってくる。幸いにもこの場には花と自分以外誰もいない。
もう誰も信じないと決めたとき。自分は世界にひとりきりだと思っていた。けれど今は違う。自分には花がいる。こんな自分なんかのために泣いてくれる花が。
生きづらいこの世界で信じられるのは、自分の力とこの子だけだから……。
「……花ちゃん、お願いがあるんだ」
「何ですか?」
「少しだけ眠ろうと思うんだ……。眠るまで手を握っててくれる……?」
「……はい」
こぼれる涙を指先で拭って、花は孟徳の手を握った。点滴が繋がれている左手だ。こちらの手だけは布団の中に入れられないから。
かつてのような火傷の痕はないけど、誰かのために自分を見失うほど働いてきたこの大きな手を、今度は自分が守ってあげたいと花は願った。けれど。
「……孟徳さん、手が熱くないですか?」
「さっきまで熱が四十度以上あってさ。今は薬で下げてるけど」
「……ちゃんと、休んでくださいね。約束ですよ」
「うん……」
囁くようにそう言って、孟徳はそっと瞳を閉じる。ようやく痛みが落ち着いたのか、いつしか孟徳の左手から力が抜けていく。
呼吸の様子から、孟徳が眠ったのを見届けて。花もまた孟徳の手を握ったまま、瞳を閉じた。
孟徳の病は主に夜に悪化する。解熱鎮痛剤が切れかかるたびに熱が上がり、激しい身体の痛みで孟徳の意識は無理やり浮上させられる。
けれど、激痛と高熱で意識を朦朧とさせながらも、自身の左手をぎゅっと握りしめながら眠る小さな存在に、孟徳は励まされていた。隣に花がいて、手を握ってくれている。たったそれだけのことがどうしようもないほど嬉しい。
彼女の存在に勇気づけられながら、孟徳は気を失うように眠りに落ちる。そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか長い夜が明けていた。
病室のカーテンの隙間からは朝の日差しが差し込んでいる。
まだ日が昇ったばかりの時間帯だが、見回りが来たようだ。浅い眠りのせいか人の気配で目を覚ました目覚めた花は、孟徳の左手から手を離し、適度な距離を作る。
やってきたのは看護師だった。点滴のパックを交換して、孟徳の……患者の容態を確認して、部屋を出る。
この場では、花は姪ということになっていた。血縁者なので付き添い入院の許可が下り、夜通し孟徳のそばにいられた。そして、看護師と入れ替わるように文若がやってくる。
「……おはようございます。文若さん。孟徳さんはまだ眠ってます」
「そうか」
短くそう答えて、文若は花の近くの椅子に腰を下ろした。
「……花、お前にも面倒をかけてすまないな。差し入れだ、食べるといい。コンビニの飯は味気ないだろう」
早朝から深夜まで営業している駅近くの高級スーパーで買ってきた品々を、店名が印刷されたビニール袋に入れたまま、文若は花に渡してくれた。
孟徳が近くで休んでいるとはいえ、こんな早朝からこんな場所で文若と二人きりという状況に花は不思議な気持ちになる。
いつも忙しくしている文若とはいえこんな早朝から仕事があるとは思えない。ということは、そのぶん早く家を出て様子を見に来てくれたのだろうか。
義務感や責任感からくる行為なのか、それとも本当に心配してくれたのか。それは本人以外知る由もないけど、心配な気持ちもあったなら嬉しいと花は思った。孟徳と文若の間にも絆があると信じたいから。
「……常務はただの過労だ、しばらく休めば治ると聞いている。食事制限もないから、常務が欲しがるようなら一緒に食べてくれて構わない。今は無理かと思うが」
「はい……」
「私はもう行くぞ」
「え、もう行かれるんですか? 文若さんは、ご飯は」
てっきり一緒に朝食を食べるものと思っていた。花は尋ねてしまうが。
「常務が目覚めたときに、お前と私が二人で朝食をとっているところを見られてみろ。あとでどうなるかわからんぞ」
淡く苦笑される。夜と朝の境目の時間。少しやつれているスーツ姿の文若はそこはかとない色気がある。さっき隣に座った時に感じたのはシャンプーの匂いだ。かっこいい兄のような人だけど、この人は兄ではないから。
「そ、それもそうですね……」
花は頬を淡く染めてしまう。
普段は飄々としていて、自分こそ若い頃は色んな女の子たちと色んなことがあったくせに。孟徳は嫉妬深くて独占欲が強かった。花に対してはいっそ病的なほどに。
「……とにかく、私はもう行くぞ。今日から私も在宅勤務に切り替えるつもりだ。何かあれば連絡をくれ。お前も付き添うなら無理のない範囲で頼むぞ。お前にまで倒れられてはかなわんからな」
「はい……」
「……ではな」
そうとだけ口にして、文若が立ち上がった。花も立ち上がり軽く礼をして、その場から文若を見送る。文若が去ったのを見届けて、花は改めて孟徳と向き直った。
「早く良くなってください……。孟徳さん……」
***
その日の正午過ぎ。
「……やっと戻ってこれた。なんか今回は結構大変だった気がするよ」
点滴の針をずっと刺していた内出血の痕のある左腕をさすりながら、孟徳はやれやれといった様子で苦笑した。
実際は翌日昼過ぎの帰宅だからそんなに離れていたわけではないけど、孟徳にとってはなんだか久し振りの我が家だ。
「……お疲れ様でした。孟徳さん」
「ははっ、そうだね……」
心配そうな花に、孟徳は力なく笑う。さすがに過労で倒れて緊急搬送された翌日という状況では、疲れを否定できない。花には嘘をつかないと約束している孟徳だから。
今、孟徳と花の二人は、孟徳のマンションの寝室にいた。孟徳はベッドで横になっており、花はその脇にちょこんと座りこんでいたが。
ベッドにはシンプルなテーブルが設置され、孟徳の手が届く位置にノートパソコンが準備されていた。パソコンの脇にはスマホが二個並べるように置かれている。孟徳の仕事用と私用のものだ。実際に手を動かすような職位じゃないけど、パソコンと仕事スマホくらいはないといけないから。
孟徳のベッドの上は今やすっかり臨時のお仕事デスクとなっていた。
「今日からはここで横になりながらお仕事をするんですか?」
「ん……。そのつもりだけど、今日はさすがに休めると思う。元譲や文若がなるべく取り次がないって言ってたから」
「そうですか……」
繰り返すが、過労で倒れた翌日正午のことである。
本来は二週間以上の入院が必要だった孟徳だが、絶対安静と服薬を条件に無理やり自宅に戻ってきて、それなのに「さあ今から働くぞ」といった様子の彼に、花は心配で仕方がない。
医師に厳命された絶対安静とは何だったのか。ベッドにいるとはいえこんなふうに体を起こして問題ないのかなど懸念は尽きない。
そして。孟徳本人も不安だが、文若の言う「今日はなるべく取り次がない」もなかなかの当てにならなさだ。なにせ年末年始休暇の最中も孟徳のところに決裁を上げ続けていたような仕事人間である。
これまでの孟徳たちの定時がいつかも忘れそうになる激務ぶりに、花は不安になってくる。かくなる上は、孟徳が無事に完治するまで自分が皆を見張らなければ……。
あてになるようでならない大きな問題児たちを前にして、花は密かに決意を新たにしたが。そのとき、花は孟徳に柔らかな声で呼びかけられた。
「……花ちゃん、一人で寝るのは退屈だから添い寝してよ。こっちにおいで」
「いいんですか?」
「別にいいよ。うつる病気じゃないし、薬も飲んだし。あとは寝てるだけだから……。眠るときは君と一緒がいい」
「……っ、はい。……じゃあ、着替えてきますね」
良かった、孟徳は休むつもりがあるらしいと安堵して。花は孟徳の家においている部屋着を取りに別室の引き出しへと向かった。安直な気もするけど、やはり孟徳に必要とされるのは嬉しかった。
「……平日の昼間からこうやって二人でいられるなんて夢みたいだよ。たまには病気もいいね」
「変なこと言わないでください……」
「あはは、ごめんごめん」
二人くっついてひとつのベッドの中にいる。今日ばかりは花が孟徳を抱きしめる形だ。
「体調は大丈夫なんですか」
「……今はなんとか落ち着いてるよ。熱が出るのは夜だけのはずだから」
「それより孟徳さん、冷却シートいりますか? まだ身体が熱い気がします」
心配で仕方がない。『私が孟徳さんを守るんだ』という決意を胸に、花は孟徳の額に手を当てた。やはり少し熱いけど、本人は自分の病状には無頓着だ。
「ん、大丈夫……。しかし、君と一緒にいられるのは嬉しいけど、ずっと寝てなきゃいけないっていうのも退屈だね」
「孟徳さん……」
「今更やりたいことも思いつかないし……」
「……今は、何もせずに休んでください」
花は呑気な孟徳をたしなめた。昨夜過労で倒れて搬送された人が何を言っているのか。今日ばかりは彼の軽口も笑えない。けれど、孟徳もそんな花の気持ちが伝わったようで。
「……そうだね、そうしようか。……少し、眠るね」
「はい。おやすみなさい……」
琥珀の瞳がゆっくりと閉じられる。こうやって眠る彼を見つめるのは昨夜に引き続き二度目だ。病を得て寝込む孟徳を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。普段は風邪くらいなら寝込むこともなくて、働きながら治してしまえるくらいタフで、隙がなくて。
ふわふわとした柔らかな赤茶の髪からは、いつも甘く爽やかなフレグランスや整髪料の香りをさせている孟徳なのに。
(汗の……。匂いがする……)
昨夜は入院着の襟元や背中の色が変わるほどの滝のような汗。今は違うけど、それでも額にはうっすらと汗がにじんでいた。
背の高い大人の男の人が呼吸を荒くして体を丸めて、花の部屋着の胸元に顔を埋めて縋るようにしている。普段明るくて飄々としているぶん、苦しんでいる姿が余計に痛々しい。可哀想なほどにやつれて苦しそうだ。
大好きな人が苦しんでいる姿を目にするのは悲しい、けれど同時に愛おしさもこみ上げた。
(……早く治って欲しいな)
心からそう願って、花もまた孟徳を胸に抱きながら瞳を閉じる。昨夜は病室のベッドサイドで寝落ちしてあまり寝られなかったから、少し休んでおきたかった。これからの二週間近い看病生活を乗り切るためにも。
眠り続けたいと願っていても、薬が切れるたびに全身の痛みと倦怠感で目覚めてしまう。寝入ってから数時間後、きっかり薬が切れるタイミングで目を覚ました孟徳は、まず最初に花の姿を確かめた。
花が自分のすぐそばで眠っているのを見届けて自分もまた眠ったり、起き上がって追加の薬を飲んだり。ひたすらその繰り返しだ。
当初はこのような状況でも働くことを覚悟していた孟徳だったが、意外なことに文若の宣言通り孟徳の社用スマホが鳴ることはなく、そのおかげで孟徳は束の間の安息を得たのだった。