レットイットスノー(R18)
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恋戦記は現在一部のお話のみヒロインの名前変換可です薄桜鬼とテニプリは名前変換可、刀剣乱舞はネームレス夢です
恋戦記小説について
現在一部作品のみ名前変換可にしていますが、ヒロインの下の名前「花」が一般名詞でもあるため「花瓶の花」などで巻き込み変換されてしまいます
それでも良い方は変換してお楽しみください。それがダメな方はデフォ名「山田花」でお楽しみください
すみませんが、よろしくお願いいたします
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(相変わらずすごい景色だなあ……)
タワーマンションの高層階。壁を埋め尽くすかのような巨大な窓にカーテンはなく、窓外には都会のビル群と真冬の薄青い空が広がっている。
(まるで展望台みたいだけど、孟徳さんは景色なんて興味ないんだろうなあ)
なにせここに住んでいるんだから、景色なんて見飽きてるはずだ。
つい先ほどまで読んでいた文庫本を手にしたまま。広いリビングのソファーに座って窓の外を眺めていた花は、不意に隣の洋室に続くドアに視線をやった。その向こうは孟徳の仕事部屋だ。
この一年で在宅勤務が増えたこともあり、孟徳は自宅マンションの部屋の一つを正式な仕事部屋にした。なので花も気を遣ってこの部屋にはあまり近寄らないようにしている。
孟徳も仕事中の自分を花に見せたくはないようで、入ってきてということもほとんどなかった。今も向こうでは孟徳が仕事をしているはずだ。
(仕方ないんだけど、ちょっと寂しいな……)
ちょうど年末年始の休暇中。孟徳も休みのはずだったけどやはり休めずに、仕事を家に持ち帰っていた。なので、孟徳の自宅に二人きりというシチュエーションなのにも関わらず、花も放置されがちだったのだが……。
(……そうだ、お茶を淹れて持っていこう)
お仕事で忙しい人に構って構ってとまとわりついても仕方がないから、その代わりに。孟徳が少しでも落ち着けるように。元々自由に使っていいと言われている。花はいそいそとキッチンに向かった。
大手企業の重役を勤める孟徳の自宅マンションとなれば、やはりさすがの豪華さだ。本邸は別にあると聞いているけど、このタワーマンションだって充分すぎるくらい広くて。
(キッチンもこんなに立派なのに、使ってる形跡がないからホントに綺麗だ……)
不自然なまでにピカピカのシンクに苦笑しつつ、花は電気ケトルでお湯を沸かす。
(……落ち着けるようにノンカフェインのお茶にしようかな。文若さんに教えてもらったお勧めのやつにしよう)
そんなことを考えながら、花が作りつけの棚から茶葉やポットを取り出しているうちに、お湯が沸いた。花は温めたポットに茶葉を入れ、お湯を注いで蒸らしながら、余ったお湯できちんとカップも温める。
やがて数分が経過して、花が『そろそろいいかな』と思ったそのとき。家主がキッチンにやってきた。
「――あ、花ちゃん、ここにいたんだ」
「孟徳さん」
「リビングにいないからちょっと探しちゃったよ」
「すみません。お茶を淹れようかと思って……。孟徳さんもどうですか? ちょうど持っていこうと思ってたんです」
「……ありがとう。さっきやっと仕事も区切りがついたし、俺も一休みしようかな」
孟徳は柔らかな笑みを浮かべると、先ほどまでかけていた仕事用のブルーライトカットの眼鏡を外した。
「わかりました。じゃあ、孟徳さんはリビングで待っていてください。すぐ準備して持っていきます」
「えっ、俺も手伝うよ! これをカップに注いで運べばいいんでしょ?」
「……は、はい。そうなんですけど」
花と孟徳が今いるのはキッチンだ。ここで二人は立ち話をしていた。流れとして何ひとつ不自然な個所はないのだが。
「……いえっ、やっぱり大丈夫なので、孟徳さんは向こうで座っててください」
孟徳の生活力のなさや不器用さを知っている花は、たっぷりの間を置いてから孟徳の申し出を辞退した。気遣いは嬉しいものの、下手に手を出されて台無しにされるのが嫌だった。
二人の間に微妙な空気が流れる。なぜ手伝わせてもらえないのか、その理由は孟徳だって知っていた。
「……はい」
たっぷりの間を置いて返事をして、孟徳は照れたように苦く笑う。そんな彼に花はもう一度念押しをした。
「…………本当に、大丈夫、なので」
「……はい」
日本で知らない人のいない大手企業の役員として、オフィスでは皇帝のように君臨し、多くの部下たちに畏敬の念を抱かれている孟徳を、こんなふうにあしらえるのは花くらいだ。けれど花自身はそんなことにも気づかない。
「……おいしい。杏子の香りがするね」
「ルイボス茶に杏子と蜂蜜で香りづけがしてあるんです。ノンカフェインなんですよ」
「へえすごい、ノンカフェインなのにこんなに美味しいんだ!」
「気に入ってもらえてよかったです」
二人きりの広いリビング。テレビも点いていない音のない世界だけど、孟徳と花の周囲には暖かな空気が流れていた。孟徳は花の淹れたお茶にいたく感心しているようだったけど、それが文若のお勧めだったことは伏せたまま、花は話題を変えた。
「……お仕事はもう終わったんですか?」
「うん。ちょっと無理やりだけど終わらせてきたよ」
孟徳は少し疲れた笑顔を返すと、大きなため息をつく。
「海外の支社はちゃんと休むのにね。日本だけだよ年末年始も動いてるのは」
「そうなんですね……」
「文若のやつ、自分が独り身で仕事しかすることがないからって、休み中でもず~っと俺のところに決裁上げてくるんだ。もうイジメだろ?」
「相変わらず働き者ですね、文若さんは……」
「まったく、勤勉な部下を持って涙が出るほど嬉しいよ俺は」
孟徳のわかりやすい嫌味に花は苦笑する。
「花ちゃん~。俺もう家にいるの嫌になっちゃったよ~。外の空気を吸いに行かない? お茶飲んだらどこか買い物に行こうよ」
「いいですね」
孟徳に甘い笑顔を向けられて、かわいらしく甘えられて。花もつられて微笑む。ただの買い物だけど、二人きりでのお出かけはデートみたいで嬉しい。持ち帰り仕事で放っておかれていたからなおさらだ。
さっきまでなんとなく寂しい気持ちだったけど、孟徳の気遣いと優しさに花の心は上向いた。
コートを羽織って部屋の外に出た。マンションの共有スペースに、やはり人はいない。年末年始の休暇中だから、みんなどこかに出かけているのだろう。
高層階専用のエレベーターで一階に降りると、そこにはまるで高級ホテルと見紛うような豪華なエントランスが広がっている。花と孟徳の二人はそこで一組のカップルとすれ違った。
男性の方は三十歳は過ぎていそうだったが、細身の長身でステンカラーのコートとスラックスがいかにも優秀なビジネスマンといった雰囲気で。
女性の方は花と同い年くらいで、ゆるく巻かれた明るい色の髪と白いダッフルコートがかわいらしかった。つば付きの帽子を深めに被っていたため目元はあまり見えなかったけど、小顔でスタイルが良くてまるで化粧品の広告に出ているモデルのようだ。
(……あれっ、でもあの女の子どこかで見たような)
すれ違った瞬間はわからなかったけれど、数秒後に違和感を覚えて、ようやく気がついた。
「あ、あの子ってアイドルの……!」
芸能人には興味なかったけど、いざ実際に遭遇すると驚いてしまう。さすがに振り返って叫ぶようなみっともない振る舞いはしないけど、花は小さく囁いて反射的に孟徳を見上げてしまった。すると、孟徳は一瞬だけ口元に人差し指を当てると、淡く苦笑した。
「たまにうちのマンション来るんだよ。彼氏がここに住んでるみたい」
(じゃあ、さっきのあの人が……)
花はごくりと喉を鳴らして、先ほどの彼女の連れの男性の姿を反芻する。アイドルの彼女と並んでも見劣りしないプロポーションで、いかにもデキる男といったような感じだったけど。
(けっこう歳の差があったような……)
それ以外はまさにお似合いのカップルだった。しかし、さすがセレブタワーマンション。住んでる人がセレブだと訪ねてくる客もセレブだ。自分だけは例外だけど。
「あれっ、でもさっきのアイドルの子のグループって」
たしか恋愛禁止というルールで有名な。
「……だから。内緒だよ」
「……はい」
花は神妙な顔で頷いた。きっとこのマンション内で見聞きしたことは他言無用という暗黙の協定が住人たちの間で結ばれているのだろう。相手の方も交際が明るみになっては困るだろうが、それは自分たちも一緒だった。
日本を代表する大手企業の重役である孟徳と、普通の女子大生の自分が結婚を前提に真剣交際しているなんて。
年の差はあっても花は一応成人しているし、やましいことのないお付き合いのつもりだけど。様々な事情を考慮して、花と孟徳は二人の関係ついて周囲には伏せていた。知っているのは両家のご家族と孟徳の腹心の部下の数人だけ。
「君はわかってると思うけど。友達や家族にも言わないで欲しいし、SNSにも書かないでね。鍵アカや裏アカでもダメだよ」
「わ、わかってますよ……」
妙にしつこい孟徳の念押しに、花は若干の戸惑いを覚える。
(昔、誰かほかの子に口外されて揉めたことがあるのかな……)
再び、花の心の中にもやもやとした気持ちが渦巻く。
(……そんな余計なこと考えちゃダメだ。今は久しぶりの二人の時間を楽しく過ごすことに集中しないと)
忙しい孟徳と二人きりで過ごせる時間は貴重なんだから。胸を刺す棘のような憂鬱な物思いを、花は必死に振り払う。
孟徳がいろんな女の子たちに人気があったのは花も知っていた。それを承知の上でお付き合いを始めたのだから、些細なことをいちいち気に病むのはそれこそお門違いというものだ。けれど、頭ではそう理解していても心はついていかなかった。
しかし、花がひとり思い悩んでいるうちに、いつの間にか。二人はマンションの共有スペースを抜けて敷地の外に辿り着いていた。
「ん~! やっぱり外はいいなあ! 空気も新鮮でおいしい!」
孟徳の自宅はタワーマンションの高層階で、安全上の理由で窓は開けられない。換気は二十四時間しているらしいけど。
思い切り伸びをする孟徳につられて、花も少しだけ身体を伸ばした。鬱々とした気持ちをなんとかして切り替えたくて、深呼吸をする。
「なんとなく上階にしちゃったけど、こうしてると地上の方が安らげる気がするよ」
孟徳の住むマンションの付近はちょっとした公園のようになっている。今は冬で木々の緑は散り落ちているけれど、日当たりの良い空間はこのあたりの住民たちの憩いの場になっていた。
「――ねぇねぇ、手つないでいこうよ。花ちゃん」
ここにきてようやく人心地がついたのか、孟徳は生き生きとした様子で花に手を差し出してきた。まるで少年のような、屈託のない無邪気な笑顔。孟徳が嬉しそうだと花もなんだか嬉しくなる。孟徳の笑顔はいつも元気をわけてくれる。
「……はいっ」
孟徳に笑いかけられて、花を苛んでいた胸のモヤモヤが少しだけ和らいだ。やっと、いつもの自分を取り戻せそうな気がする。花もまた孟徳に微笑みを返して、差し出された手を取った。
「――休みらしくない休みだけど、君といると楽しいな。こうやって手を繋いで散歩してるだけでも、すごく幸せな気持ちになるよ」
花と手をつないでいるときの孟徳は、なぜかいつも機嫌がいい。今だってすごくにこにことしている。そんな孟徳につられて、花もようやく明るい気持ちになってきた。繋いでいる手を握り返して、花は孟徳を見上げると。
「……私もです。こうやって一緒にいられるだけで、すごく嬉しいです」
「そっか」
花の飾らない言葉に、孟徳も目尻を下げて微笑んだ。彼女の嘘のない想いがしっかりと伝わっているのだろう。
「せっかくだし、このまま少し離れたスーパーまで行ってみようか!」
「はいっ!」
真冬の空気は冷たいけど、こうやって手を繋いでいれば手袋要らずだ。寒さが気になれば、孟徳は繋いだ手をそのままコートのポケットに入れてくれる。二人並んで道を歩くだけでもこんなに幸せな気持ちになれるなんて。
(孟徳さんとこういう関係にならなかったら、きっと知らないままだったんだろうな……)
「――花ちゃん、何か買うものある?」
「買うもの……」
街中の高級スーパーは年末年始の休暇中でも賑やかだった。人混みではぐれないようにするためなのか、それとも単に下心なのか癖なのか。さりげなく身体を寄せて花の腰に手を回し、少しかがんで話しかけてくる孟徳に苦笑しながらも、花は彼を見上げた。
腰に回された手はやっぱり気になってしまうけど、この程度の触れ合いで舞い上がっていたら心臓がいくつあっても足りない。孟徳と一緒にいればこのくらいは日常だから、もうすっかり慣れてしまった。ほのかに漂う男物の甘い香水の匂いにも、仕事部屋で隠れて吸っているらしい電子煙草の匂いにも。
「……ノンカフェインのお茶が欲しいです。もうすぐ買い置きが切れてしまうので」
「そっか。じゃあ俺もコーヒー買い足しておこうかな、どうせ沢山飲むし。……他には何かある?」
「そうですね……」
飲み物以外にはすぐにつまめるお菓子やフルーツにお惣菜を買うことにして。孟徳と花の二人は売り場を巡って買い物をすませた。
そして、今は荷物を持って店を出たところ。
「も、孟徳さんコーヒーばっかりそんなに買い込んで……。飲み過ぎは良くないですよ。頭痛が……」
「え~別に大丈夫だよ。っていうか飲まなきゃやってらんないしさ~。家で仕事なんて」
「た、確かに……」
諫めようとしたつもりが、逆に納得させられてしまった。孟徳の口の上手さは相変わらずだけど、ここしばらくの孟徳の境遇に思いを巡らせて、花は口をつぐんだ。近頃増えた在宅勤務のせいで持ち帰り仕事が常態化してしまい、最近の孟徳は家でも寛げていない様子だったのだ。
「ほ~んとここんところの在宅勤務のせいで、家まで職場になっちゃってうんざりだよ。在宅っていうから家で仕事してただけなのに、なしくずしで夜中や休日までしょっちゅう仕事が持ち込まれるようになったんだよ? うちは一応定時は十八時で土日は休みのはずなのにさ!」
「孟徳さんの会社、定時あったんですね……」
孟徳と彼の部下の元譲や文若はいつも忙しそうにしているから。孟徳たちの会社はシフト勤務で二十四時間年中無休で営業しているのではないかと、花は少し疑っていた。
今回の孟徳の発言で晴れてその疑念は払拭されたけど。無邪気な姫君の歯に衣を着せないお言葉に、孟徳の疲労感はいい具合に増したらしい。
「……うん、定時は一応あったんだよ。俺は役員だからあんまり関係ないけどね」
自らの酷使され具合をはかなんだのか、孟徳は小さく息を吐いた。そして、唐突に。
「花ちゃん! 俺を癒してよ~! もうコーヒーなんていらなくなるくらいに~!」
スーパーから出てまだそんなに経っていない。周囲には通行人もいて人目があるのに、孟徳は急に花に抱きついてきた。
「っ、ひゃっ……!」
今日は孟徳と会えるということで花は慣れないヒールを履いていた。転ばなくてよかったと安堵しつつ、花は孟徳を見上げた。
「っ、孟徳さん、やめてください……! こんなところで……!」
「別にいいじゃない。誰も見てないよ。花ちゃんは外でこういうことするの嫌?」
「は、恥ずかしいです……」
「あはは、恥ずかしがる君もかわいいな。もっとすごいことがしたくなる……」
花の小さな身体を腕の中にしっかりと収めたまま。孟徳は琥珀の瞳をすっと細めた。その奥にあるのはおいしそうな獲物をみつけた肉食獣のような獰猛な燻ぶりだ。
「ねぇ、部屋に戻ったら続きしようよ。仕事なんてどうでもいいよ。そんなことより、君と過ごす時間の方がずっと……」
「だ、だめですよ。孟徳さ……」
「――常務。白昼堂々このようなところで一体何をしておられるのか」
花の言葉が皆まで終わるのを待たず。唐突に被せられた低い声に、花は肩を震わせた。
「ぶ、文若さん!」
「……なんでこんなところにこいつが」
「……なぜ私がここにいるか。それは常務が『俺が不便だから遠くに住むな』と私を無理やりあなたの自宅マンション付近に住まわせたからです。私とて好き好んでこのような無駄に賑やかな街で暮らしているわけではありません」
「そ、そうだったんですか……!?」
文若が実はご近所さんだったことを知り、花は目を丸くする。その一方で孟徳は不快げに顔をしかめた。
「常務。街中では誰に見られても構わないような節度ある振る舞いを『いついかなるときも』お願いしたいと、何度申し上げればわかっていただけるのか」
いついかなるときも、をやけに強調しながら文若は孟徳に詰め寄ってくる。独特の威圧感のある背の高い男二人が睨み合う様はなかなかの迫力で、意図せず挟まれた花の胃がキュッとなった。
(元譲さんもいつもこんな気持ちだったのかな……)
嫌すぎる現実から逃げたくて。花は孟徳の腕の中でうっかり他の男に想いを馳せてしまうが、そんなことをしていても埒が明かない。相変わらず孟徳と文若は花を挟んで火花を散らしていた。
花を腕に抱いているのに不機嫌を隠そうともしない孟徳は、文若を睨みつけたままふんと鼻を鳴らすと。
「別にいいだろ。こんなところまで週刊誌の記者は追いかけてこない」
「記者などおらずとも人目はあります。そもそも公共の場でこのようなお戯れをなさるのは、いかがなものかと」
そう口にするやいなや。文若は花の腕を掴んで孟徳から無理やり引き剥がす。まさか文若にそんなことをされるなんて夢にも思わなかった。
「……ひゃっ!」
花はバランスを崩して転びそうになり、反射的に文若の上着を掴んでしまう。履き慣れないヒールゆえのことだったが、花が文若にしがみついたそのとき。孟徳の目の色が明らかに変わった。
「っ……!」
見間違えるはずもない、はっきりとした怒りの色だ。息を呑み目を見張る孟徳に、花は慌てて文若から離れようとするが。孟徳が花に近づけないように、文若は強引に自分の背後に花を庇ってしまった。
文若に割り込まれているため孟徳の方には戻れない。花は仕方なく数歩ほど後ろに下がるが、その行為は孟徳の目には花が自分から文若の後ろに隠れたように映ってしまったかもしれない。いよいよ身の置き場をなくした花はひとまず文若に謝罪した。
「っ、文若さんすみません……。ヒールにまだ、慣れなくて……」
「……いや。私の方こそ、配慮が足りなかった」
花も動揺していたが、それは文若も同じだった。初々しい恋人同士のようなやりとりを、まさか孟徳の目の前で文若と繰り広げることになるなんて。
花にとっても孟徳にとっても信じられない展開だった。そうこうしているうちに、いよいよ孟徳の怒りは高まり、雰囲気が明らかに不穏なものになってくる。
「……お堅いお前にまさか盗癖があったとはなぁ、文若。――よほど早死にしたいとみえる」
腹心の部下の文若を面罵する、こんな孟徳を見るのは花もあまりなかったようで、花は可哀想なほどにうろたえながら、孟徳と文若を心配そうに見つめる。
しかし、このような困った状況だというのに。文若は一歩も引かなかった。『主君の過ちは身命を賭しても正す覚悟のある』頑固一徹な王佐の信念はこの程度では揺らがないらしい。
「私とてこの者に触れたくて触れたのではありません。そもそも常務が節度ある振る舞いをなさらないのが――」
このままでは本当に収拾がつかなくなってしまう。
「あの、文若さん、孟徳さんも……」
孟徳と文若の背後に威嚇しあう獅子と猛虎を幻視しながらも、花は言い合いを続ける二人を止めようとするが、何をおいても上手(うわて)なのはやはり孟徳その人だった。
「……ふん。おい、いいのか? お前がグチグチうるさいせいで余計に目立ってるぞ俺たちは」
「っ!」
孟徳の指摘に文若はようやく周囲の様子に気がついたようだ。込み入った男女関係の痴情のもつれと思われたのか、先ほどから通行人数名に遠巻きにチラチラと視線を送られていた花たちである。
独特の凄みのあるいい歳をしたサラリーマン風の男二人が二十歳を越えたか越えないかの少女を挟んで口喧嘩、そんなことをしていれば悪目立ちするのも当然だった。
正論で突っかかってくる文若に、これでは勝てないと判断したのか、孟徳は周囲の状況を持ち出して煙に巻くつもりのようだった。
やはり孟徳に口喧嘩で勝つのは難しい。いくら極めつけに優秀な文若であっても、その融通の利かなさはこの場において致命的だった。すると、己の不利を悟った文若の怒りは、やはりというべきか花に向けられた。
「……花! お前もお前だ。嫁入り前の女子学生が慎みを忘れるな。親が泣くぞ。常務の甘言に惑わされて自分を見失うんじゃない!」
「は、はいっ!」
「おい文若、お前それどういう意味だよ」
聞き捨てならないとばかりに。孟徳はぶつくさと文句を言ったが、文若は完全にスルーする。
「とにかく、常務のことはお前がきちんと気をつけて、お前も自分を大切にしろ。わかったな!」
こんな言われ方をしてしまえば孟徳もケチのつけようがない。
花に孟徳の世話を押しつけて、自分の言いたいことだけを言い残して。文若はさっさとこの場を後にしてしまった。孟徳の指摘通り、これ以上ここにいて悪目立ちするのを避けたかったのだろう。
旅行先ならいざ知らず、自分たちが住んでいる街で問題を起こして変な目立ち方をしたくないのは、当然のことだ。
「……なんか文若さんってお母さんみたいですね。ちょっと小言の多い」
「っ、花ちゃんは優しすぎるよ! あんなやつ、ただの陰険な石頭だよ!」
ようやく平常心を取り戻したのか、先ほどまでの怖すぎるオーラを引っ込めて。いつものぶりっ子じみた口調でむくれる孟徳に、花は苦笑してしまう。
(……優しいと思うけどな、文若さんは。どちらかというと私より孟徳さんに優しいと思う)
さきほどは流れで花を庇う形になったけど、文若が真に守りたかったのは花ではなく孟徳だ。
経済誌や写真週刊誌の記者に追われるほどの有名人なのに、奔放な振る舞いを改めようとしない孟徳を文若はいつも心配していて、それは花も知っていた。先ほど花が孟徳に振る舞った杏子のデカフェのお茶だって、孟徳の健康を気遣って文若が花に教えてくれたものだった。
『――私の名は出さずにお前のお勧めということにしてくれ。そうすれば常務も口になさるだろう』
けれど、今の孟徳にそんな話をしても詮無いことだ。花は不自然にならない程度に笑顔を作ると孟徳の上着の裾をきゅっと掴んだ。
「文若さんも行かれてしまいましたし、いつまでもここにいても仕方ないですよ。早くお家に戻りませんか?」
「……それもそうだね。邪魔者もいなくなってくれたし、早く俺たちの家に帰ろうか」
花の笑顔にようやく気持ちが落ち着いてきたのか、孟徳も穏やかな笑顔を見せてくれた。
孟徳のマンションは『俺たちの家』ではないけれど、孟徳はなぜか頻繁にこういった言い回しをしてくる。冗談なのか本気なのかはわからないけど、花は孟徳のこの手の発言が好きだった。
やはり年頃の女の子。孟徳との未来の結婚生活を夢見てしまう。こんなこと本人に言えるはずもないけれど。
そして、孟徳のマンションに戻ってきてから。社用スマホに秘書課のスタッフから着信があったとのことで、孟徳は再び仕事部屋に行ってしまった。
花は買ってきたものを冷蔵庫や戸棚にしまってからリビングのソファーに腰を下ろして、置かれていたクッションを抱きしめながら文若の言葉を反芻していた。
『花、お前も嫁入り前の女子学生が慎みを忘れるな。常務の甘言に惑わされて自分を見失うんじゃない――』
嫌味ではなく本当にしつけに厳しいお母さんのような、厳しいけど愛のある言葉。
(やっぱり雰囲気が盛り上がっちゃったからって、道端で抱き合ったりするのはいけなかったかなぁ……)
正確には抱きしめられていただけだけど、それでも同じことだ。自由奔放な孟徳と一緒にいるとつい流されてしまうけど、文若の言う通り世間一般の常識は忘れてはいけないし。
(孟徳さんの立場のことがあってもなくても、道端でべたべたするのはよくないよね)
ひとり反省会のあと、花は至極真っ当な結論を導き出した。あまりにも普通で芸のない。けれど、この当たり前をずっと大切にしていたいと思う。孟徳と一緒にいて、力のある彼が注いでくれる甘すぎる愛を浴び続けていると、今でも色んなことを見失いそうになってしまうから。
花は改めてリビングを見渡した。まるで高級ホテルの一室かと見紛うような生活感のない広すぎる部屋に、窓外の都心の絶景。高級タワーマンションは別に贅沢をしたかったわけじゃなくて、オフィスから近くてセキュリティがしっかりしているところを選んだら、たまたまここになったのだと、以前孟徳が教えてくれた。
(……はぁ、でもやっぱりすごいなあ)
花が物思いに耽っていると、ようやく孟徳が戻ってきた。
「――花ちゃん、お待たせ」
「孟徳さん」
「ごめんね。さっきからず~っと、バタバタしてて」
「いえ、そんな……」
「……それよりも。さっき文若に触られたとこ貸して? 消毒。早く俺で上書きしないと」
「っ!」
戻って来るやいなや。孟徳は花のすぐ隣に腰を下ろし、花の小さな左手を取って口づけてきた。ちょっと性急な、彼らしくない振る舞いに花は動揺してしまう。孟徳のことは信じているけれど誤解があったら悲しくて、花はつい言い訳めいた言葉を口にする。
「……孟徳さん、文若さんは別に下心があったわけじゃないですよ?」
「わかってるよ。でも俺は嫌だったし許せない。君に触れていい男は俺だけなんだから」
「っ」
ちょっと拗ねたような表情は、まるでお気に入りのおもちゃを取られたヤンチャな男の子のような独占欲のようにも見える。オフィシャルな場では完璧な仮面を被る、一回り以上年上で大人な彼が見せてくれる無防備な素顔が嬉しい。
いつもそのギャップにやられている。年相応の大人の顔と幼い少年のような顔。そのどちらも、どうしようもないほどに、好きで好きで仕方がない。この人の代わりなんて世界中のどこにもいない。この人こそが自分にとっての唯一なのだと、そんなふうに思えるほどに。
「ねぇ。さっきの続き、しようよ花ちゃん。家に着いたんだから、もういいでしょ……?」
「孟徳さん……」
「仕事もちゃんと終わらせたし、道端でべたべたするのも我慢した。――偉い俺にご褒美ちょうだい?」
孟徳は自分の魅力を『知っている』人だ。女の子の顔を覗き込んで上目遣いでおねだりをする、そんな甘え方だって堂に入っていて。
花の瞳をじっと見つめたまま、孟徳はさりげなく自分が着ているカシミヤのカーディガンのボタンに手をかけた。そのまま当たり前のように外し始める。
そんな圧のかけ方はさすがに卑怯だ。孟徳の我儘な指先に、花はわかりやすく慌ててしまう。二人がいるのはベッドではなくリビングのソファーなのに。
「っ、でも……。こんなところで……」
「こんなところ、だからいいんでしょ?」
己の勝ちを確信した、孟徳の瞳が楽しげに細められる。酷薄でどこか悪辣なその表情。
お目当ての女の子を甘い甘い罠にかけ、落とすかたちでモノにする。そしてすぐ興味を失ってまた次に。かつてそんな恋ばかりをしていた頃の片鱗は、今もときおり顔を出す。甘く優しい仮面の奥の曹孟徳という男の本性。
壁際に押し込めば詰ませやすいのはチェスと一緒だ。ソファーに座らせたらさりげなく隣を陣取って、頃合いを見て自分の腕の中に閉じ込めてしまえばチェックメイト。
強引なやり口でも熱心に口説いている風を装えば、背もたれとシートで退路を断たれている姫君は、多少不本意でも諦めてその身を委ねてくれると、若かりし頃の経験で知っているから。あとは好きにさせてもらうだけ。
これではまるで王子ではなく賊のようなありさまだけど、これが孟徳の本質なのだから仕方がない。余裕をなくして引きずり出された剥き出しの素の感情。孟徳はそれを花にぶつけてしまう。
タワーマンションの高層階。壁を埋める巨大な窓から見えるのは、薄曇りの空と都心のビル群の絶景だ。広いリビングに置かれているソファーは、そういうことができそうなくらい大きなものだけど、部屋にはまだ煌々とした明かりが点いていて。
「あのっ、孟徳さん……。照明を……」
「ダメ、今日は消させない」
絶妙な色気と威圧感を放つ孟徳に、花は身体を固くするが。今日の孟徳は常とは違い花の怯えに気づいても、その凄みを和らげなかった。そのまま、孟徳は花を自分の腕の中に閉じ込める。
(――チェックメイトだ。今日は君の負けだよ、花ちゃん)
浅ましい本心は、可憐な姫君に気取られないように、胸の奥に隠したまま。孟徳は優しい男の仮面を被って熱く甘くかき口説く。
「……さっき、文若に君を取られて、すごく腹が立った。俺の腕の中から君を奪い去るなんて、許しがたいよ。――万死に値するね」
花の前だからなんとか取り繕って穏当な言葉選びをしてるけど。ピリついた本心は隠しきれずに、声音にしっかりと乗っている。常よりも低くて、少し触れただけでも切れそうな。聡明な花であれば、自分が激怒していると気づいているはず。
いつもなら押し殺せるはずの感情を、露わにしてしまうのは珍しい。抑えがきかなくなってしまうのは、花が絡んだときだけだ。
冷静さを欠いて、感情のコントロールを失って、相手の一挙手一投足に振り回されて、素の自分を引き摺り出される。まるで恋を知ったばかりの少年の頃に戻ったように。
これほどまでにのめり込んでいるのだ。この世界でたったひとりの、永遠の恋人に。……だからこそ。
「君が、責任持って慰めてよ」
「慰める、って……」
「文句なら文若に言いなよ。全部、あいつが悪いんだから」
先ほどの文若との口喧嘩。きっかけをつくったのは自分だったけど、むしろ今はそんなことすら、どうでもよくなっていた。
卑しい獣の本能だ。美味なる生餌を前にすれば、思考はそれを喰らうことだけ。血の一滴すらも残さずその全てを貪り尽くしたい。
***
「んっ……。つっ……」
何かをこらえるかのような甘い息遣いが、花の唇から密やかにこぼされる。リビングのソファーで花は孟徳に組み敷かれていた。
もう二人ともほとんど一糸まとわぬ姿で、脱ぎ捨てた衣服は投げ捨てられたかのように、あたりに散らばっていた。孟徳のシャツや花のニットにスカート、そして二人の下着まで。
(今日の孟徳さん、機嫌悪いような気がする……)
強引にソファーに押し倒されて、はぎ取るように服を脱がされて、今もがつがつと愛されている。日頃の甘く溶かしていくようなものとは全く違う、蹂躪し奪いつくすような愛し方に、花は後ろめたさを覚えてしまう。
(……やっぱり、さっきの文若さんとの喧嘩のせいかな)
思い出すのは、慣れないヒールで転びそうになって文若にしがみついてしまったときの、孟徳の虚をつかれたような、驚きと悔しさがないまぜになった表情だ。
といっても孟徳がそんな無防備な顔を見せたのはほんの一瞬で、花が文若の背に庇われてしまってからはずっと、氷のような怒りをたたえた瞳で文若を睨みつけていたけれど。
(傷つけちゃったよね、ごめんなさい……)
心の内で謝罪するものの、もう後の祭りだ。自分の愚かさを悔やんでも時間は巻き戻らない。転びそうになったのはわざとではなく、文若からはすぐに離れたからというのも、言い訳にならないだろう。
「……っ」
孟徳に体重をかけられて、花は小さく呻いた。肌を重ねているときに、こうやってのしかかられるようにされたのは初めてだ。
(っ、重い、よ……。男の人の身体ってこんなに重いものなんだ……)
細身で華奢なのを気にしている孟徳だけど、スポーツ経験もあるから筋肉だってちゃんとあって、背だって高いから、花から見れば充分体格がいい方だ。そんな彼に加減なく体重を掛けられれば、押しつぶされそうになる。
(っ、苦、しい……)
息苦しくて、ほんの少し手足を動かすことすらままならない。独特の圧迫感に全ての自由を奪われて、圧倒的な権力者に蹂躪されているような錯覚すら覚える。
これまで孟徳に抱かれているときに、こんな苦しさや痛みを感じたことなんてなかった。花はいかに自分が孟徳に甘やかされて大切にされていたのかを思い知る。
「……っ」
呼吸がままならないせいか意識は次第に朦朧としてくるが、こうやって孟徳に体重を掛けられながら激しく求められることに、花はえもいわれぬ喜びを感じていた。
痛いほど強く抱きしめられて、ソファーのシートに押さえつけられて、容赦なく愛されるのが心地よい。今だって脚の間は熱く潤ってしまっているはずだ。
自分がこんなふうに乱暴に抱かれて興奮してしまう女だったなんて知らなかった。けれど、それは孟徳だからだ。相手が他ならぬ孟徳だからこそ、暴力的なまでの愛情を向けられて激しく求められても、喜びを感じられる。
けれど、出だしからこのペースで愛されていたら最後まで保たないから、孟徳の肩口を掴んでいる指先に力を込めながら、花は呼びかけた。
「も、孟徳さん……っ。もう少し……」
今日はお願いしてもダメかもしれない。そんな予感はあったけど、たとえどんな状況でも自分の気持ちは伝えておきたかった。いくら愛しているとはいえ、孟徳の理不尽な振る舞いを、何も言わずにただ受け入れるのは嫌だったのだ。
すると、意外なことに孟徳はペースをゆるめてくれた。
「もう少し……。なあに?」
けれどまだ不機嫌なようで、その声には明らかな棘がある。こういうときの孟徳と向き合うのは怖い。だけど、彼から逃げたくはなかったから。花は自分を励ましながら、わずかに震える唇を開いた。
「……もう少し、優しくして、欲しくて」
恋人と身体を重ねている最中とは思えないほどの張り詰めた緊張感。孟徳は少し考えこむようなそぶりを見せたあと。不意に花からほんの少しだけ身体を浮かせた。
先ほどまでずっと密着していた花と孟徳の身体がようやく離され、二人の視線が至近距離でぶつかりあう。
「……君のお願いはなるべく聞いてあげたいけど、それは無理かな」
「っ……!」
「……ごめんね、今日はあまり優しくしてあげられそうにない、かも」
孟徳の琥珀の瞳がわずかに揺れる。傷を隠してひとりぼっちで荒野を彷徨う手負いの獣のような彼の苦しげな瞳に、花の心臓がぎゅっと掴まれる。
この人を幸せにしてあげたいというかつての願いは、まだ胸の内に生きているから。こんな目をされたら放っておけなくなってしまう。
「……っ」
「……俺が怖い?」
巨大な窓から差し込む冬の日差しを背に受ける彼に、静かに問いかけられる。ちょうど逆光になっている孟徳の目に光はなく、ほんの少し選択を間違えば、その瞳の奥の闇に吸い込まれてしまいそうだ。
けれど、それに吞まれたくはなかった。たとえどんなことがあったとしても、自分だけは孟徳と全力で向き合い続けたい。彼を相手に嘘だけはつきたくなかった。花は孟徳から目をそらさずに、その問いかけに答えた。
「少しだけ……。でも、私が好きなのは、孟徳さんだけですよ……?」
大好きだから、全てをありのままに受け止めたかった。明るい笑顔も、不安な瞳も。作り上げられたよそゆきの顔も、しがらみに囚われた一筋縄ではいかない素顔も。
「……わかってるよ。でも、あれを目の前で見せられて平気でいられるほど、俺は大人じゃない。君に関しては、心が狭いみたいなんだよね」
「孟徳さん……」
「だから今は、黙って俺に抱かれてて?」
「っ……!」
「靴は今度、歩きやすくてかわいいのを買ってあげる」
無防備な素の感情を隠そうとするかのように、白々しい笑みを数瞬浮かべて、孟徳は再び花の首筋に顔を埋めてきた。
醸す雰囲気は相変わらず張り詰めたままだけど、このような状況にあっても孟徳は表向きには優しくて、そしてひどく冷静だった。
もうこれは彼の癖や習慣なのだと思う。まさに鉄壁の守りだ。わずかな隙もなく、そのうえ攻め手に回っても強力で。こんな彼にごり押しで口説かれてしまえば、拒みきれるはずもない。
怖い顔も、甘くて優しい顔も、我儘で独占欲の強い子供っぽい顔も、余裕のある大人の顔も。全部が大好きだ。その全てに魅了されている。
花にとっての最初で最後の恋が孟徳だった。始まりも終わりも、気がつけば全て彼に捧げてしまっていた。
かつて友人たちにどんな男の人が好きかと聞かれて『年上で甘やかしてくれる人かな』と何の気なしに答えたことが、こんなことになるとは思わなかった。
確かに甘やかしてくれるけど他の女の子たちにも優しくて、離婚歴まであって。一回り以上も年上で大企業の役員を務めていて、それなのに頼りになるようでならなくて。まさか自分がこんな男性と人生を変えるほどの大恋愛をするなんて、予見できようもない。
だからこそ文若に正道を説かれたところで無理があった。『甘言に流されるな』だなんて、ままならない感情のただ中で、そんなことができれば誰も苦労しない。
(それに今日のこれは文若さんも悪いです……っ)
思わず、花は今日のきっかけを作った文若を恨んでしまう。
「っ、文若さんのバカ……!」
「――え?」
「……あ」
「その名前だけは、今日は聞きたくなかったな……」
考えたことをつい口に出してしまっただけとはいえ、取り返しのつかない失態だ。
口調だけは相変わらず穏やかなまま。しかし、孟徳の声は明らかに低くなり、彼をとりまく空気にさらなる威圧感が混ざり始める。
「さっきも言ったけど、俺、君に関しては了見が狭いから。……傷つけたりはしないけど、困らせたくはなっちゃったかな」
口の端だけを上げて不穏な笑みを浮かべる孟徳に、花は激しく後悔するのだった。
***