最果ての桃源郷
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恋戦記は現在一部のお話のみヒロインの名前変換可です薄桜鬼とテニプリは名前変換可、刀剣乱舞はネームレス夢です
恋戦記小説について
現在一部作品のみ名前変換可にしていますが、ヒロインの下の名前「花」が一般名詞でもあるため「花瓶の花」などで巻き込み変換されてしまいます
それでも良い方は変換してお楽しみください。それがダメな方はデフォ名「山田花」でお楽しみください
すみませんが、よろしくお願いいたします
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彼女が誰を選ぼうと、自分にできることはその幸福を願って背中を押すことだけだから。幸せでいてくれるならもう何でも構わないと思っていたのだけど。
「……やっぱり、腹が立つんだよねぇ」
諸葛孔明は悶々としていた。ついこの間、孔明は近所のショッピングセンターで花と孟徳が一緒に買い物をしているのを見かけてしまったのだ。
食料品を手に笑い合う二人はとても幸せそうで、文句のつけようもない仲睦まじいカップルだった。けれど、孔明はそれが気に入らなかった。
しかし、そんな孔明の心の内など知る由もなく、彼の隣にいる花は無邪気な顔で孔明を見上げてくる。
「どうしたんですか? 孔明先輩」
「……うーん。あのさあ、ねえキミ。今からでも遅くないから、考え直さない?」
「考え直す?」
「そうだよ。だってさ……。キミ、本当にあんなのが相手でいいの?」
「……っ、せ、先輩?」
孔明に急に声をひそめるようにして尋ねられて、花は戸惑う。孟徳とのことを言われているとようやく気がついたようで、可憐な頬にさっと赤みがさした。そんな花に孔明はたたみかけてくる。
「名前はあえて出さないけどさ……。ずいぶん歳も離れてて、すっごい有名人なんでしょ……。仕事も私生活もときどきニュースで取り上げられてるし、キミも色々と苦労が多いんじゃないの?」
「苦労って……。私は別に、そんな……」
お付き合いしている相手をあからさまに貶されて花は戸惑う。一応はかばおうとするものの、否定しきれずにしどろもどろになっていた。
「叔父と姪って嘘までついて、こそこそしてさ……。そんなことまでして、キミがあんな奴に合わせてやる必要なんてないんじゃないの?」
けれどさすがに、これは我慢できなかった。あんな奴呼ばわりもひどいと思ったけど、自分たちだってあんな嘘をつきたくてついているわけじゃないのに。
「っ、孔明先輩! ひどいこと言わないでください! 私だって、好きでそんな嘘をついているわけじゃ……!」
けれど、珍しく語気を強める花に、不意に助けが入った。
「――よお、久しぶりじゃないか孔明。ただの先輩でしかないお前が、俺の花ちゃんにずいぶんとご執心のようだな」
「……っ、なんであなたがこんなところに」
ついに孔明の天運が尽きたのか、話題の人物がようやく姿を現した。日本で知らない者などいない大企業の重役を務める、曹孟徳その人である。
孟徳はずかずかと大股で歩いてくると、花と孔明の間に割りこんだ。花をかばうようにして孔明と対峙する。
「なんだ? 俺がここにいたら悪いか?」
「いいえ~。今日もお忙しいはずの方がなんでまたこんなところに」
「ふん、俺のところもようやく働き方改革と相成ってな。お陰様で今日は完全なる休日だ。……ね、花ちゃん」
普段はスーツを着ることが多い孟徳だが、今日は私服だった。といってもビジネスカジュアルというか、私服通勤可のところならこのまま出社できそうなきちんとした格好なのだが。
「なるほど~。先日は定宿のホテルで過労で倒れて大騒ぎされた方がおっしゃると、さすが説得力が違いますね」
「あいにく俺はVIPらしくてな。粗相のないようにご丁寧な対応をされただけだ。お前たちとは甲斐性が違うからな」
「……相変わらず一言多い方ですね」
「お前にだけは言われたくないな」
「あ、あの……。孟徳さん、孔明先輩……」
なぜかさっそく口喧嘩が始まりそうになっている。花は慌てて仲裁しようとするが、孟徳に遮られてしまった。
「……花ちゃん、君がこんな奴に親切にしてやる必要なんてないんだよ。君は俺のことだけ見ていればいい」
「……え?」
「今さら一途ぶっても、過去の悪行は消えませんよ。孟徳殿」
「余計なお世話だ。今の俺は花ちゃんと二人で生きる未来だけを見つめてるんだよ。……ね、花ちゃん?」
「えっ……? ええまぁ……。そう、ですね……?」
あまりにも白々しい歯の浮くような孟徳の発言に、素直に同意することができず。花はやはり戸惑ってしまう。孔明も含めた様々な人々から、何かと悪い印象を持たれている孟徳を、フォローしたいと思ってはいるものの、相変わらず要領を得ない喋りだ。
その一方で、孟徳はしれっとしていた。かつての不品行はさらっと黒歴史にして、いつの話してんだよと言わんばかりに、悪びれもしない。
あまりにも理不尽な孟徳の振る舞いと、それを惚れた弱みで許容している様子の花を目の前にして、孔明は小さく息を吐く。
「……はぁーあ。なんとなくわかってたけど、こんなことになるんならもっと早くボクが」
「――なにか言ったか?」
「なんでもありませーん」
孔明と孟徳の口喧嘩はまだ終わりそうにない。
孔明が孟徳を悪く言うのを聞くのも嫌だけど、孟徳が孔明に容赦なく圧をかけているのを見るのも嫌だった花は、今度は孔明をかばおうとしたが。孟徳がそれを許容するはずもない。
「孟徳さん、孔明先輩にひどいこと言わな……。っ!」
花の言葉が終わるのも待たずに、孟徳は彼女の腕を取ると強引に自分の方に引き寄せた。
「……花ちゃん、早く行こう。『あんな奴』を君が相手にする必要なんてない」
孟徳があんな奴をことさらに強調したのは、もちろん先ほどの意趣返しだ。花は悲しい気持ちになってしまう。
男の人として好きなのは孟徳だけだけど、孔明のことだって大切だ。それは間違いない。大切な人たちには、本当は仲良くして欲しいのに。
「……っ。……孟徳さん」
花は眉を曇らすが、孟徳と孔明に対して「二人とも仲良くしてください!」などと言っても無理がある。『いくら君(キミ)の頼みでもそれは無理』と二人同時に返されて、さらに状況が悪くなるに決まっているのだ。
しかし、一体どこ吹く風なのか。先に折れてくれたのは孔明だった。
「――いいよ、行きなよ花」
「先輩……」
先に相手を悪く言って花を困らせたのは自分の方という負い目があるからか。孔明は花に対して、不思議なほど穏やかで優しい笑顔を向けてくれた。
「こっちのことは気にしなくていいから。それじゃあね。デート楽しんで。孟徳殿も、先ほどは口が過ぎたようですみません」
意外にも孟徳に謝罪の言葉をくれて。孔明は花に背を向けてひらひらと手を振る。珍しく孔明が孟徳を気遣ってくれたことに安堵しつつも、花もまた孔明に手を振り返した。
大切な先輩で師匠だ。これから先、彼のもとに戻ることがもう二度となかったとしても。花の師匠は永遠に孔明だけなのだ。花の夫が孟徳ひとりであるのと同じように。
先ほどの孔明の謝罪でようやく溜飲がおりたのか、孟徳は柔らかな笑みを浮かべると。
「さぁて、君のお師匠様のお墨付きも頂いたことだし、それじゃあ俺たちも行こうか」
「そうですね……」
「……手、繋いでいこう。花ちゃん」
孟徳は言うやいなや花の手を取る。けれど、普段はとろけるように甘いその声には、ほんの少しの硬さがあった。それに気づいた花は胸がぎゅっと締めつけられる。
「……はい」
今は春。出会いと別れ、旅立ちの季節だ。孔明と別れを告げた花は孟徳と一緒に歩き出す。しっかりと手を繋いで。いつもは花の手を優しく握る孟徳だけど、今日このときばかりは強く握りしめてきた。
先ほど花が孔明をかばおうとしたときも、彼にしては珍しいほど腕を強く掴んできて、花を強引に閉じ込めようとした。冷たい鳥籠ではなく温かな腕の中に。珍しく余裕のない様子の孟徳に、花の胸に切ない気持ちがこみ上げる。
閉じ込めようとしてでも欲しがって、自分のことを求めてくれた、かつての彼を垣間見た気がした。
***
うららかな春の日差しを感じながら。花と孟徳は手を繋いで繁華街を歩いていた。休日の街は行きかう人々も多くとても賑やかだ。
今日の二人の目的地は、繁華街を抜けたところにある大きな公園だ。今の季節らしいお花見デート。途中で花の好きなベーカリーに寄ってご飯を買って公園で二人で食べるという、ちょっとしたピクニックの予定だった。
いつも忙しくしている孟徳と、昼間から二人で出かけられるのはとても嬉しく、花はご機嫌だった。孟徳も心なしかいつもより楽しそうにしている。
「まずはデパ地下のベーカリーに行くんだっけ?」
「そうです。そこでご飯を買います!」
「うん、わかった。じゃあこっちだね」
若かりし頃ならいざ知らず。地位と立場を得た今となっては運転手つきの高級車で移動して、街歩きなんてほとんどしなさそうなのに、孟徳は地理に強かった。迷いなく歩みを進めていく。
しかし、その歩調は一緒に歩くパートナーに合わせて、きちんと落とされていた。そんな彼の隣を花は幸せな気持ちで並んで歩いた。
そして辿り着いたデパートの店内で。地下階につながるエスカレーターに向かう途中、不意にピアノの音が花と孟徳の耳に届いた。
その音色は花が感嘆の声を漏らしてしまうほど美しく、まるで生演奏のような豊かな響きと存在感があった。
耳慣れたクラシックの名曲だったが、流れるように積み重ねられる和音に効果的につけられた抑揚、ときおり差し込まれるこれまで華やかなアレンジに、とてもじゃないけどこれが店内放送の背景音楽とは思えずに、花は興奮した様子で口を開く。
「なんだか、生演奏みたいなBGMですね!」
「そうだね」
わくわくとした様子の花に、孟徳は相槌を打つとおもむろにあたりを見回した。そして、あるものを見つけると、花に楽しげに耳打ちをする。
「……あ、やっぱり。見てよ、花ちゃん。あっちにストリートピアノがある。誰か弾いてるみたいだよ」
「えっ……!?」
花は驚きに目を見開くと、孟徳の視線の先を見つめた。
たしかに彼の言う通り。そこには一台のピアノがあり、今まさに演奏しているらしき人がいた。少し遠くて奏者の素性はわからないけど、美しい銀髪で線が細くてまさに絵にかいたようなピアニストだ。花は声を上げる。
「わぁ、本当です!」
「空港とかでたまに見るけど、こんなところにもあるんだね」
はしゃいだ様子の花の隣で、孟徳もまた感心した様子でつぶやいた。
「私、初めて見たかもしれません。孟徳さん、行ってみてもいいですか?」
「うん、いいよ」
花のおねだりに孟徳は優しく頷く。孟徳の許可を得た花はすぐピアノの方に小走りに駆けて行った。そんな彼女を孟徳は早歩きで追いかける。
しかし、意外なことにピアニストは顔見知りだった。狭すぎる世間である。
「……あれ、もしかして」
「おや、あなたは……」
花と演奏を終えたばかりの銀髪のピアニストは、呆気にとられた様子で意味もなく見つめ合う。そして。花から少し遅れてこの場にやってきた孟徳は、傲岸さを隠そうともせず言い放った。
「孫家のところの名物社員じゃないか。こんなところで出くわすとはな」
「……孟徳殿」
先ほどまで名演奏を披露してくれていたのは、孫家が率いるメガベンチャーに勤務する美貌のエリート社員、周公瑾だった。彼はわざとらしいほどうやうやしく、主に花に対して挨拶をしてきた。
「人を待っていましてね。暇に任せて手遊びをしていたところです。……花さん、ごきげんよう」
「こんにちは」
「……へぇ、人をねぇ」
公瑾の花に対する馴れ馴れしさと、鼻につくような取り澄ましぶりにイラっとしたのか。孟徳は公瑾に対して素っ気ない態度を取っている。かつての孟徳は公瑾に対して大敗を喫したことがあるせいか、二人は今でも折り合いが悪いようだ。
しかし、孟徳の不機嫌に花まで付き合っていたら収拾がつかなくなる。花は場の空気を壊さないように公瑾に無難な話題を振った。
「公瑾さん、ピアノすごくお上手ですね」
「いえ、それほどでも……。あるんですけどね」
「……えっ?」
無難な返事を期待していたのに。公瑾の斜め上の返答に花は思わず変な声を出してしまう。しかし、孟徳は予想の範囲内といった様子のあきれ顔だ。
「相変わらず、いい性格してるよな。お前は」
「いえいえ、あなたほどではありませんので」
「ああそうかよ。別に俺はどうでもいい」
孟徳と公瑾のそりの合わなさは致命的なようで、二人の周囲には誤魔化しきれないほどの冷え切った気配が漂い始める。
大人げない大人二人に花は困惑するが、そんな彼女を救うかのようにかわいらしい元気な声が響いた。
「こうきーん、クラシックつまんなーい! 流行りの歌弾いてよ!」
「弾いてよ!」
今まで気がつかなかったが、公瑾のピアノのすぐそばには小さな女の子が二人いた。大喬と小喬だ。明るい彼女たちはなにかにつけて場を和ませてくれる。花と孟徳は苦笑したが、名指しされた公瑾はうろたえた。
「ク、クラシックがつまらないとは……」
「つまんないよー。みんなが喜ぶもっと楽しいの!」
「……仕方がありませんね」
しかし。今日の公瑾はよほど興が乗っていたのか、暇を持て余していたのか。そのリクエストに応えてくれた。
「それでは特別に昨年の大ヒット曲をお聞かせしましょう。きっとお気に召していただけるはずです」
自信ありげにそう口にして、わざとらしく咳ばらいをすると。公瑾はピアノに向き直る。そして、彼の両手が鍵盤に乗せられて、すぐ。
――沈むように溶けてゆく夜に――
切なく美しいイントロが奏でられる。
「あっこの曲……!」
「……へぇっ」
花も知っている心中を描いた大ヒット曲だ。先ほどの、店内音楽のようなクラシックを手慰みで弾いていたときとは違う、公瑾の本気の演奏に花は息を呑む。
確かな実力に裏打ちされた高度な技術はひけらかすためではなく、演奏の完成度をより高めるためにだけに捧げられ、原曲の良さと相まって、切ないメロディーが胸を打つような旋律に昇華されてゆく。
楽曲のテンポの速さに譜割りの細かさ、難易度の高さなどはものともせずに、公瑾は澄んだ高音が華やかな楽曲を流れるように弾きこなす。
軽やかで細かな指捌きに、楽曲のテンポに合わせてときおり揺れる上体も、奏者の容色の素晴らしさと相まって芸術的なまでに美しい。鍵盤に向き合う真剣な表情はまるで彫刻のようで、伏せられた瞳を縁どる長い睫毛や垂れた横髪も、まるできらめく銀糸のようだ。
奏でられる音色にも生演奏らしい迫力と厚みがあり、一音一音が空気をビリビリと震わせる。響き合う和音も聴き手が恍惚となってしまうほどに心地よく、ときおり差し込まれる、原曲の余情をいや増すかのような編曲も天才的だった。
公瑾の繊細な指先から奏でられる、死神に恋をした僕の儚い恋物語。休日の昼間のデパートの一階が、世界でたった二人きりの夜の世界に姿を変える。
公瑾の演奏のあまりのレベルの高さに、周囲の客がざわつきはじめる。イントロが終わった時点ですでに、人だかりができていた。
「……なかなかやるじゃないか」
「ピアノが、歌ってます……」
原曲のペースよりは少しだけ遅く、しかしそれが生演奏のピアノの音色の美しさを際立たせ、よりいっそう聴衆の心を揺さぶる。
自らの高い技巧を存分に生かしながら、公瑾は自らの全てを指先に込めて、涙を誘う恋の歌を奏でていた。
原曲のテーマは恋し合う二人の自死だ。悲しい末路の曲だけど、原曲のテンポの速さやノリの良さを尊重して弾いているからか、公瑾の演奏には儚さや切なさだけではなく、誰かを勇気づけるかのような不思議な明るさがあった。
聴衆にもそれが伝わっているのか、直立不動で涙ぐんでいる人以外にも、体を揺らして楽しそうにリズムを取る人や、スマホで動画を撮っている人もいた。
やがて、死神に恋をした僕の物語はいよいよ佳境に差しかかる。
二番のBメロの最後、死神の彼女が初めて笑ったその瞬間。半音下がる転調ののちにアレンジが入り、テンポを落とした優しく囁きかけるかのような落ちサビが、聴衆の心にすべり込んでくる。
苦しい日々に追い詰められ、生きる希望を失った彼の瞳に映る死神の彼女は美しく、ひとりきりの夜にこぼされた涙は、彼女の手によってすくいあげられ溶けてゆく。ああ、これこそが。求め続けていた救済なのだと。歌詞の中の彼が確信したそのとき。
怒涛のフィルイン、半音上がる転調。最高音を響かせながらのクライマックスは、まさにこの楽曲の頂点だった。
――変わらない日々に泣いていた。苦しかった日々に手を差し伸べてくれたのは、たったひとり君だけだった。そんな君が神であろうと悪魔であろうと、もうどちらでも構わない――
この場にいる全員が公瑾の演奏に聴き入っていた。聞こえるはずのない歌声に聴き惚れていた。ついに歌詞の中の彼が生への未練を断ち切り、二人は最期のときを迎える。
――繋いだ手を離さないでね。ふたりで夜に駆けだそう――
ビルの屋上から転落し、動かなくなった彼の手を恋人繋ぎで握り込み。死神の少女は愛した人間の青年の、温もりを失った唇にキスをする。そして、飛び跳ねるような明るい終奏で二人だけの夜の世界が締めくくられる。
数瞬、あたりが静まりかえった。昼日向の休日のデパートには、まだ色濃い夜の残滓があった。
けれど、その余韻が失われた瞬間に。万雷の拍手が巻き起こった。永遠に止むことのないような喝采の中、演奏を終えたばかりの公瑾は小さく息を吐いて苦笑した。
「……これはこれは、人だかりになってしまいましたね」
公瑾は白々しくつぶやくが、その口元には満ち足りた笑みが浮かんでおり、大喬と小喬の二人も口々に囃し立てる。
「公瑾、久しぶりに本気出したー!」
「出してたー!」
「……私にはそんなつもりはなかったのですが、まったくやれやれ、こういうことがあるから流行歌を弾くのは嫌なんです」
聴衆の歓声を浴びながらわざとらしく肩を竦めて苦笑する公瑾だったが、彼に嘘は通じない。孟徳は疑心丸出しの半眼でつぶやいた。
「ふーん。嫌、ねぇ……」
けれど。今の公瑾の様子を見ていれば孟徳でなくてもわかる。口にされる言葉とは裏腹に、聴衆の歓声を浴びている公瑾はとても嬉しそうだ。
公瑾はすっと立ち上がり聴衆に向き直ると、深々と一礼をした。そして、数十秒の間を置いてから顔を上げると、またしてもツッコミどころのある発言をする。
「ご清聴ありがとうございました。……また再生数が伸びてしまいますね」
「なんだよお前、動画サイトにでも投稿してるのか?」
先ほどはどうでもいいと口にしながらも、気になったのか孟徳が尋ねてきた。実際にそういう動画は多くある。腕に自信のある者が自分の演奏を撮影して投稿しているのだ。しかし公瑾はそれをさらりと否定する。
「私が投稿しているのではありません。私の演奏に惚れ込んだどなたかが、素晴らしい思い出を皆さんに共有してくださってるんです」
イケメンに流行歌、超絶技巧のピアノ生演奏。これは役満というやつだろう。再生数も伸びそうだ。けれど話を振った孟徳は公瑾の自意識過剰ぶりにうんざりしたのか、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「ふん、面倒くさいやつだな」
いくら奇跡のような名演奏を披露されても。こんな発言をされたら素直に褒めたくなくなってしまう孟徳だ。しかし、花は違った。瞳をうるませて公瑾を素直に称える。
「すごかったですよ、公瑾さん。感動しました」
「ありがとうございます。ほぼ初見ですけどね」
「へえ、『初見』」
くだらない嘘を重ねる公瑾に孟徳の眉がぴくりと動く。しかし、暴露は思わぬところからなされた。
「ウソウソ公瑾メチャクチャ練習してたー」
「してたー!」
「アレンジもメチャクチャこだわって原曲より上目指してたー!」
「ねっ!」
「……っ!」
身内のはずの女子二人に暴露され、デパートのピアニストは端正な顔を引きつらせた。しかしさすが美周郎の異名をもつ彼はそんな表情すらも格好よくて。
けれど、あまりにも余裕のないその姿に、孟徳はざまあみろと言わんばかりの悪辣な笑みを浮かべた。
「自業自得だな。くだらない嘘ばかりつくからだ」
嘘の分かる孟徳は、公瑾の偽りを最初から全て見抜いていた。
クラシックも流行曲もどちらも好きだ。目立つのも褒められるのも大好きで。あの曲だって初見であるはずもなく、ずっと練習を重ねていた。
本人の言動のせいでケチがついてるけど、演奏が素晴らしかったのは本当だったから。孟徳は公瑾の人間性ではなく技術の素晴らしさに敬意を表した。
「だが、演奏はなかなか良かったぞ。褒めてやる」
「ありがとうございました! 公瑾さん」
「……いえいえ、大したことはしていませんよ」
しかし、公瑾は相変わらずだ。せっかく褒められているというのに、嫌味にしか聞こえない謙遜を口にして、わざとらしく畏まる。
とはいえ。ピアノの聴いているのも楽しいけど、今回の目的はあくまでも公園でのお花見デートだ。孟徳と花の二人は公瑾たちに別れを告げると、お目当てのベーカリーに足早に向かった。
その途中。不意に孟徳が足を止め、きょろきょろと周囲を見回した。
「……孟徳さん、どうかしたんですか?」
孟徳の不思議な行動に花は尋ねるが、孟徳はなんでもないよといった様子で、甘く微笑んだ。
「うん、ちょっとね。足の速い子がいたな、と思って」
「そうなんですか……?」
孟徳は妙に楽しげだが、花はよくわからない。そして、今度こそ本当に。孟徳と花は目的地のベーカリーに辿り着く。
昼食用のサンドイッチセットと飲み物を二人分買い物カゴに入れて確保してから。花はトレイとトングを手にして、美味しそうなドーナツが陳列されている売り場の前で悩んでいた。
「このお店のドーナツ、味が四種類ほどあるんですけど、どれもすごく美味しいんです」
ドーナツを食い入るように見つめながら真剣な表情でつぶやく花に、孟徳は笑いそうになっている。しかし、孟徳は吹き出したりはせず、いたって真面目な様子で彼女の話の先を促した。
「……そうだね、どれも美味しそうだね」
「でも、カロリーが気になるんです」
「……」
花が求めている言葉など、孟徳はとっくに察しがついている。あえて言わずに花が自分から口にするのを待っても良かったが、そこは惚れた弱みである。
「……じゃあ、全種類買って半分こする?」
孟徳がそう口にした瞬間、花はぱあっと顔を輝かせた。
「は、はいっ……! ぜひ、そうしたいです……! 孟徳さん、ありがとうございます……!」
「別にいいよ。他ならぬ君の頼みだから、仕方がないね」
こんなにも全開の笑顔で、花にお礼を言われたのは初めてかもしれない。惚れた弱みは幸せ太りに帰結しそうだなと孟徳は淡く苦笑する。
元々特別甘いものが好きなわけではない。多くの男性がそうであるように孟徳もまた、一緒にいる女性が甘いもの好きだから付き合いで口にする程度だ。
彼女を独占するものになら何でも嫉妬してしまう孟徳だから。今はドーナツが少しだけ羨ましい。本当はスイーツではなく自分のことをあんな風に見つめて欲しかった。
そんな本音を胸に秘めたまま、孟徳は花からトレイとトングを借りて、彼女のためにドーナツを全種類一つずつ取っていく。
そして、自分が払うと言い張る花をなだめて押し切って、キャッシュレス決済でお会計を済ませたところで。
「――あらっ、花さんに孟徳殿! 奇遇ですね。お買い物ですか?」
「尚香さん……!」
「なるほど、人待ちね」
孫家のご令嬢の登場に孟徳は思わず頷いていた。一階にいた公瑾たちは彼女を待っていたのだろう。ということは、態度だけはでかいあの彼もそのうち現れるはずだ。
「花さんたちも、このお店によく来られるんですか? ここ、すごく美味しいですよね! 私の母もここのドーナツが好きなんですよ」
尚香の手にも同じベーカリーの袋があった。同志を見つけてよほど嬉しかったのか、尋ねたわけでもないのに尚香は色々と教えてくれた。
すると、間を置かずに。聞き覚えのある怒声が向こうから響いてきた。
「――おい尚香! こんなところにいつまでいる気だ! 母上たちへの土産も買ったんだから、いい加減帰るぞ!」
「兄上!」
「あっ、仲謀さん……!」
「今日は本当に、孫家の連中によく会うよな」
尚香と花は驚きに声を上げ、孟徳に至っては呆れている。そしてこの場に現れた仲謀もまた、花と孟徳の姿を見つけて驚きに目を見開いていた。
「っ、お前ら……!」
絶句している様子の御曹司に、孟徳はどうでもよさそうに声を掛ける。
「おい、孫仲謀。一階でお前のとこの疲れるやつが、待ちくたびれてピアノ発表会やってたぞ。早く戻ってやったらどうだ」
「なっ、公瑾のやつまたやってるのか!」
「また?」
仲謀の発言を聞きとがめ、孟徳はツッコミを入れる。
「あいつ最近ストリートピアノが好きみたいで、見つけるたびにああやって弾いてるんだよ。それでギャラリーにチヤホヤされて喜んでやがるんだ」
「兄上、そんな言い方は……」
「なんだよ、本当のことじゃねぇか」
身内の恥は己の恥という概念がないのか、あるいは完全に他人事なせいか。仲謀の公瑾に対する発言は意外なほどに辛辣だった。
「実害がないから放っておいたんだが、そんなにチヤホヤされたいなら、自分で撮影して動画サイトにでも投稿してろって言っとかねぇとな」
「あいつ身内からもこの扱いなのか」
「公瑾さん」
仲謀のあまりの言いぐさに、孟徳と花は思わず真顔になってしまう。公瑾本人の態度はアレだが、演奏は神がかっていたから余計にいたたまれない。
しかし、奇跡のような名演奏でも毎日浴びれる環境にいれば、邪魔な雑音となり果てるのだろう。公瑾は猛練習していたらしいから、それこそ『もう飽きた』だったのかもしれない。
しかし、心優しい花は公瑾のことをフォローした。
「……でも、公瑾さんお上手でしたから、投稿を始めたら本当に人気者になりそうですね」
他の男を褒める花に孟徳は面白くなさそうにしていたが。彼女には嘘をつかないと約束していたから、孟徳は仕方なく花に同意してみせる。
「そうだね。口さえ開かなければ人気も出そうだよね。口さえ開かなければ、だけど」
「孟徳さん……」
孟徳はどれだけ公瑾のことが嫌いなんだろう。但し書きのついた誉め言葉に花は呆れてしまう。
仲謀と尚香もしばらくの間呆気にとられていたが、仲謀はハッと我に返ると。
「……とにかく! 尚香、俺たちも早く戻るぞ。公瑾も大小も待ちくたびれてるらしいからな!」
「はい、わかりました。兄上」
「お前らも教えてくれてありがとな、感謝する。じゃあまたな!」
「はい、それじゃあまた」
きちんとお礼を言ってくれて手まで振ってくれた仲謀に、花もまた手を振り返す。尚香もまた、礼儀正しく挨拶をしてくれた。
「花さんと孟徳殿も道中お気をつけて。良い休日をお過ごしくださいね!」
仲謀と尚香は連れだってデパートの一階へ向かって行く。長身の美形兄妹はやはり人目を引くようで、周囲の人々がざわついて口々に彼らを噂した。
「……俺たちも行こうか、花ちゃん」
「はい!」
孟徳と花も彼らを追うように、デパートの地下階を後にした。
***
公園を目指して歩いている途中でオフィス街に差し掛かり、孟徳がおもむろにポケットから変装用のメガネを取り出す。
「今日は休みだし、こんなところで知り合いに会うことはないと思ってるけどね」
休日のビジネス街は人もまばらだ。これなら孟徳の言うように知り合いに遭遇することもないだろう、と思いきや。
「あそこにいるのは……。文若さんでしょうか。女の子に話しかけられてますね」
「へぇ。珍しい」
若干の驚きと嫌味の混じった孟徳の台詞。隙あらば文若をおちょくってコケにするのは、孟徳の長年の娯楽のようなものだ。彼なりの愛情表現でもあるから、花はもう何も言わない。それに、どうせ注意しても無駄なのだ。ここにきて元譲の気持ちがわかってきた花である。
しかし、文若の手に社名の入った小さな手帳があるのを見咎めて、孟徳の瞳に剣呑な光が宿る。
「……あれは逆ナン、かな。うちの会社の男、婚活女子にモテるからねぇ」
孟徳の意外な発言に花は面食らう。
「えっ……!?」
ネームバリューのある一流企業でお給料もいいというのはなんとなく知っていたけど、まさかそんなに需要があったなんて。けれど、驚愕している様子の花を差し置いて孟徳は冷めた瞳でぼやく。
「そんないいとも思わないけどね。出張も転勤も多いし、女の子も辛いだけだと思うよ」
「そうなんですか……」
腐っても、孟徳は勤務企業の重役だ。その発言には妙な説得力があり、花は素直に納得してしまう。
(やっぱり、すごく大変で忙しいんだ……)
そして花は自然な流れで孟徳との結婚生活を夢想する。多忙な彼と上手くやっていけるのだろうか。また、すれ違ったりしたら……。
「しかし、ああやって困ってる文若見るの面白いね。しばらく観察してみようか」
空想の世界に羽ばたいていた花は、孟徳の心ない発言に引き戻された。
「……かわいそうですよ」
さすがにこれはひどい、あんまりだ。さすがに花は真顔になる。
けれど、文若の方を見てもあからさまに動揺しているようで、日頃の辛辣さは鳴りを潜め、積極的な女性の申し出をはねつける押しの強さもなさそうだった。
(いつもはあんだけキツイのに、なんでこういうときだけ大人しいかな)
花は苦々しく思ってしまうが、本当は心の優しい人だからだろうと文若に最大限都合よく解釈し『かくなるうえは』と決意を固めた。
かつても別の時空で似たようなことをしたことがある。それと比べれば楽勝だ。少なくとも現代日本の婚活女子は、罪のない通行人に因縁をつけて道端で土下座させ続けるなんて悪辣な真似はしないはずだから。
「……孟徳さんすみません、ちょっと文若さんを助けに行ってきます」
「えっ、花ちゃん?」
予想だにしない花の発言に戸惑う孟徳だが、すでに腹を括っていた花はさっさと行ってしまった。
「――あのっ、すみません! この人、私の兄なんです! 兄になにかご用ですか?」
気の強そうな女性と文若との間に堂々と割り込んだ。
「っ、花……!? なぜお前が……!」
文若は絶句する。相手の女性も突然の第三者の出現に驚いているようだ。
「えっ、妹……!? 妹さんなの? この子が? へぇ……」
文若狙いだった女性は、これ以上粘っても分が悪いと判断したのか。鞄からメモとペン取り出して何事かを書きつけると、文若に押しつけた。
「お邪魔しちゃって、なんかすみませーん! これ私の連絡先なんで気が向いたらラインください! それじゃあ」
勝気な女性は礼儀正しい捨て台詞を残して颯爽と立ち去ってしまった。
彼女の後ろ姿が小さくなったのを見届けて、文若は改めて花に向き直る。
「……すまないな、花。くだらないことで世話をかけた。しかし、まさかこんなところでお前と会うとはな……。どうかしたのか?」
どこか困ったような照れ隠しの微苦笑を浮かべる文若は、休日だというのにキッチリとしたスーツ姿だった。ここは繁華街の中でもオフィスビルばかりが集まっている区画で、文若が休日出勤していることは尋ねずともわかる。
そんな彼に対して『はいっ! 今日はお休みなので彼氏とデートなんです!』などと抜かすことは躊躇われ、花は返答に窮してしまう。
しかも、その彼氏についても大きな問題があった。正直な本音を言えば、今の文若に孟徳を会わせたくはない。
「え、えっとですね……」
花は言いよどむ。けれど、この期に及んで誤魔化せるはずもなく。いつの間にか、すぐそこまでやってきていた『花の彼氏』がおもむろに口を開いた。
「――なっさけないよなぁ、逆ナンのひとつやふたつ自分でなんとかしたらどうだ。俺の花ちゃんを煩わせやがって」
「っ、常務!」
「孟徳さん……」
目を見開き驚く文若に、花はこの先起こるであろう騒動を予見して、頭を抱えたい気持ちになる。
変装用の眼鏡をかけたまま腕組みをして文若を睥睨する孟徳は、見間違えようもなく勤務企業の重役の顔をしていた。
休日だからカジュアルな私服だったけど、放たれる威圧感はまるで平日のオフィスで君臨する彼のようで、花は怯みそうになったが。文若に対して冗談ではなく本気の苛立ちを露にしている孟徳をなんとか宥めようとする。
「孟徳さん……! 別に私は……!」
「花ちゃんはちょっと静かにしてて」
しかし、孟徳はよほど腹に据えかねているようで。花に圧をかけて黙らせると文若を𠮟りつけた。
「――文若、会社のロゴの入ったものを外で使うときは気をつけろ。こんなことを俺に言わすな。いまどき新卒でもしないミスだろ」
「申し訳ございません。気をつけねばならないこと、もとより承知しております。今回は少々確認したいことがありまして、おおよそ二十秒程度、社用の手帳を取り出したのですが、まさかこんなことになるとは……」
普段は孟徳のいい加減さに文若が小言を言うことがほとんどだったが、珍しく今日は逆で花にとっては新鮮だった。文若には申し訳ないけれど……。
とはいえ、孟徳になじられる文若が気の毒で仕方がない。助けない方が良かったのかと花は自分を責めてしまうが、やってしまったことは取り返せない。
どうやら文若は休日の繁華街に慣れていないらしく、逆ナンされた経験もないようで、積極的に迫ってくる見知らぬ女性をバッサリやる勇気がなかったらしい。
(休日の繁華街なんだから、格好いい人が立ち止まっていればすぐに声をかけられますよ……!)
花は心の中で叫んでしまうが、文若に対して本気の怒りをにじませている孟徳の前でそんなことを口に出せるわけもなく、黙ってことの推移を見守る。
孟徳はよほど腹に据えかねているのか、あるいはいつものお返しなのか、文若にしつこく文句を言っていた。
「はいはい言い訳ご苦労さん。相変わらず会社以外では無能だよな、お前は」
「……申し訳、ございません」
とはいえ、ここまでくるとさすがに耐えられない。花はつい、文若をフォローしてしまった。
「そんなことないですよ。文若さんは格好いいから、女の子が放っておかないんですよ」
「……まぁ黙っていれば悪くはないよな、黙っていれば」
花のフォローに、意外なことに孟徳は乗ってきた。けれど。
「――あのねぇ、花ちゃん。デパートいたときも気になってたんだけどさ。俺の前で他の男を褒めるのは感心しないよ?」
「……す、すみません」
とばっちりというか、孟徳の怒りの矛先が今度は花に向いてきた。普段は焦点をあえてぼかしたような、匂わせるような物言いしかしない孟徳に、きっぱりと釘を刺されて花は縮こまる。
文若は一瞬だけ気の毒そうな表情を浮かべたが、すぐにいつもの真顔に戻ると、おもむろに腕時計に視線をやった。
「……約束の時間に遅れそうです。申し訳ありませんが、今回はこのあたりで失礼させてください」
休日まで働いているような人にそう言われてしまったら、見送るほかない。
「はい、わかりました。お仕事お疲れ様です」
「ふん、せいぜいキリキリ働くこったな。俺は休みだからな、きっちり休むぞ!」
気を取り直して。花は文若に礼儀正しく挨拶をしたが、一方の孟徳は相変わらずの憎まれ口だ。
しかし文若はそんな二人に、というよりは孟徳に対して頭を下げると、すぐ近くのオフィスビルのエントランスに向かって早足で歩いて行った。
文若が去ったあとまで不機嫌でいる理由はないと判断したのか、孟徳から放たれる威圧感が和らぎ、花は密かに安堵する。
この切り替えの早さはやはりさすがだ。必要性の有無で自分の感情を見せるか隠すかを判断して、威圧感までも器用に出し入れをしてしまう。
孟徳はもともとそういう人だ。頭の回転が速くて、どこまでも合理的に振る舞える人。先ほど文若を叱っていたときだって、孟徳はあえて苛立ちを表に出して相手を威圧していた。
しかし、花と二人で過ごしている休日にまで仕事を持ち込みたくないようで、孟徳は小さくため息をつくと、花の手を取って柔らかな微苦笑を浮かべた。
「休みだっていうのに、変なところみせちゃってごめんね。花ちゃん、行こうか」
「……はい」
さっき文若に対して怒りを露にしていたときはどうなることかと思ったけど、孟徳に気遣われて花の胸の内に温かなものが広がる。
文若だけじゃない。本当は孟徳だって優しい人だ。必要にかられてしかたなく厳しく振る舞っているだけで。
花と手を繋ぎながら休日の街をそぞろ歩く孟徳は、心なしかいつもより穏やかな気がする。
『……君と手を繋いでいると、なんか自分の汚いものが浄化される気がするんだよね』
孟徳のことを汚いなんて思わないけど、彼がそうしたいなら自分もできる限り付き合おうと花は決めていた。
今の彼が仕事から解放される未来はまだ予想もつかないけど。ほんの少しでも孟徳の苦しみや痛みが軽くなればいいと花は願った。
いつか二人で表舞台を去るその日まで、彼の心が少しでも安らかでいられるように。
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