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Paw, my girl!
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「夏希」
肩に手が乗って、私は慌てて身体を起こした。
「こんなところで寝たら、風邪をひくよ」
……ああ、そうか、さっき最後の力を振り絞ってカプセルを飲んで、力尽きたんだ。
蔵馬はにこっと笑うと、部屋の入口を指した。
「お風呂にお湯を張っておいたから、入ってきて。きっと疲れているんです」
ああ……蔵馬だって今日仕事してたのに、悪いことしちゃったな。
「ううん、先に入って。蔵馬こそ、早く寝て身体休めなきゃ」
「オレはまだ仕事があるから」
だったら、言ってくれたら私やったのに。
私は申し訳なくなって、下を向いた。
「ごめんね。何もしなくて。これからは、できる限り私が色々するから、何でも言ってね」
蔵馬はありがとう、と笑った。
お風呂にはさっきのアレみたいな薬湯でも入っているんじゃないかって内心怖かった。
でも、お風呂場に入った途端、思わずうわぁって声が出た。
バスタブには赤やピンクのバラの花びらが一面に浮かべてあった。
ステキ! お姫様の気分!
黄泉さんってば、気配り上手!
甘い香りに包まれて体を温めていると、また眠気が襲ってくる。
そういえば、もう2日間くらい起きてるんじゃないかな。
……早く寝よ。
お風呂で寝てしまわないうちにそそくさと上がり、置いてあったバスローブに身を包む。
だけど、寝室に入った途端、眠気は一瞬にして飛んでしまった。
なんで、なんでこんなに広いお部屋なのに、ベッドがひとつなの!?
「どうしたの?」
寝室の入口で立ち尽くしているところに、急に蔵馬が声を掛けてきたので、私は思わず飛び上がってしまった。
「な、な、なんでもない!」
「そう? じゃ、先に寝ていてくださいね」
蔵馬はそう言って奥へ行ってしまった。
……よく考えたら、今日知り合ったばっかりの男の子と同じ部屋で生活するのよね。
ちょっと、やっぱり、それって、かなり、倫理的に問題が……。
恐る恐るベッドに近寄ってみると、枕元に用意されていたのはスケスケのえっちくさいネグリジェ!
ちょっと! 何てモノ置くのよ!
変態じゃないの? 黄泉さんって!
私はえいっと一枚毛布を引き抜いてソファに投げつけると、クッションを枕にして潜り込んだ。
嫁入り前の身で知らない男の子と同じベッドで寝るなんて絶対ダメ!
やっぱり相当疲れていたんだと思う。
私は横になった瞬間に眠りに落ちてしまった。
そして……
目を覚ました瞬間、大悲鳴。
だってだって、目の前に物凄い美少年が眠っていたんだもん。
その距離わずか10cm。
私の悲鳴で目を覚ました蔵馬は、だるそうに髪をかきあげた。
「……おはよう」
おは! おは! おはようって、おはようって!!
金魚のように口をパクパクさせている私に、まだぼんやりした目で蔵馬は言った。
「どうしたんですか? 慌てちゃって」
どうしたもこうしたも、何であなたと私が同じベッドで寝てるの!?
蔵馬はゆっくりと上半身を起こした。
「それにしても、すごい寝相でしたよ」
ドキッ! う、そ……?
「ベッドから飛び出して、ソファで寝てました」
飛ぶかあぁぁぁぁ!! あっちで寝てたの! 私の意思で!
赤くなったり、青くなったりしている私をじっと見ていた蔵馬は、突然むんずと私の二の腕を引き寄せた。
それで私はバランスを崩して、その膝の上に仰向けに倒れてしまった。
ドキッとする私の頬を繊細な指でそっとなぞって、彼は顔を近づけた。
柔らかい髪が私の上にこぼれる。
私は息をするのも忘れて、目の前に迫った大美人のどアップを見つめた。
「可愛かったよ。昨夜は……」
言って、甘く艶っぽく微笑む。
な、な、なっ、何があったの!?
眼をまん丸にした私の上で、蔵馬はぷっと吹きだした。
「寝顔が」
……ハメられたっ!!
思った瞬間、蔵馬はベッドから出て、悪戯っぽく笑った。
「寝ている女の子を襲う趣味はないから安心して」
呆然としている私を置いて、彼は笑いながら部屋を出た。
私ははっと我に返って、悔し紛れに彼が消えたドアへと枕をぶつけた。
「いい加減、機嫌直して?」
蔵馬はオムレツをつつきながら、私を覗き込む。
「せっかく蔵馬にベッドを譲ったのに」
「女の子をソファに寝かして、オレだけぬくぬくベッドでなんて寝られないよ」
「私は居候なんだから、いいの!」
私はトーストに噛み付いた。
そんな私の前で、蔵馬はにやっと笑う。
「違うな」
なんとなく薄ら寒いものを感じて、トーストに噛み付いたまま目を上げる。
笑顔なのに恐怖を感じるのは何故……?
「あなたはオレのペットですよ。ご主人様の命令には従ってもらわなきゃ」
……なんか不穏なこと言い出したぞ、この人。
「ということで、今夜も一緒のベッドです」
「ちょっ! ……」
「お風呂も一緒がイイですか?」
私は思わず立ち上がってしまった。
「いいわけないでしょ! ペットなんて今日限りで廃業です!」
すると蔵馬は、片肘を突いて、視線を逸らした。
「そうですか……それじゃ、無事に人間界に帰れることを祈ってます」
くっ……鬼畜……。
再び椅子に腰をおろす私を見て、蔵馬はくすくすと笑った。
「からかってごめんね」
フンっ!
仕事に行くために服を着替えた蔵馬は、惚れ惚れするほどカッコよかった。
白い肌と、紅みを帯びた黒髪によく似合う、暗いブルーグレーの、カッチリした軍服。
上着は膝のあたりまであって、ウエストにベルトが通してある。
華奢そうに見えて、意外としっかりしたボディラインがステキに映えていた。
中性的な美貌と、突然垣間見えた男っぽさのギャップが、妖しいまでに魅力的。
私はさっきまでの怒りも忘れて、ただただ見入ってしまった。
「多分、夜までは帰ってこないと思うけど、その間、オレの本でも読んでる?」
彼は堅苦しい服と対照的に、柔らかく微笑んだ。
「ううん、いい。たまたま教科書と一緒にこっちに来たから、勉強しとく。何か、留守の間にできること、ない?」
彼はしばらく考えて、こちらを見た。
「できたら、オレが留守のとき、この部屋には君とオレ以外の誰かを入れたくないんだ。多分、しばらくしたら女官が掃除に来ると思うんだけど……」
「わかった。断っておいて。掃除は私がするから」
「ありがとう。それからひとつ」
言って蔵馬はちょっと屈んで私の目を覗き込んだ。
「この部屋から一歩も出ないって、約束して」
私が頷くのを見て、蔵馬は「行ってきます」と部屋を出た。
しばらくして、昨日のメイドさんが掃除用具やアメニティ一式を持って来て、かわりにお洗濯物を持っていってくれた。
その掃除用具でお掃除したけれど、もともとキレイだったこのお部屋。すぐに掃除なんて終わっちゃう。
蔵馬に宣言しちゃったんだから、教科書を広げて宿題なんかしてみるんだけど、一体何やってるんだろ、って気になってくる。
異界まで来て夏休みの宿題って……。
夏なのに! 夏休みなのに!
バカンス……って雰囲気でもないか、この世界じゃ。
それにしても、難しいな。
進学校とは聞いてたけど、かなりレベルが高い学校だったのね。
どうせ1ヵ月缶詰だもん、しっかり予習して置いていかれないようにしなきゃ。
かくして私は黙々と勉強に励み、蔵馬が帰って来たときにはげっそりとしてしまっていた。
でも、結構進んだもんね!
「大丈夫? クマできてるよ」
私の顔を見て、蔵馬は驚いた声を出したけれど、こっちも思わず言ってしまった。
「蔵馬こそ、疲れきった顔してるよ」
「そうですか?」
私はこっくり頷く。
蔵馬はふっと笑った。
「あんまり顔に出るタイプじゃないんだけど……夏希の顔を見て気が緩んだのかな」
何気ない蔵馬の言葉に、私は何故だか少しドキッとしてしまった。
「胸、まだ痛むの?」
「え? ううん」
「そう。また胸、押さえてますよ」
あ……ホントだ。癖になっちゃったのかな。
「でも、夏希のテリトリーの中は、何だかホッとするよ」
蔵馬は優しく笑う。
私はまたドキドキしてさり気なく視線を外した。
「じゃ、私の能力は誰かをホッとさせることなのかもね」
「そんな能力もあるかもしれないね……そうそう、夕食の後で、女官が貴方の服のサイズを測りに来ますから」
へっ?
「着たきり雀じゃ、夏休み明けにはくたくたになっちゃいますよ、制服」
私は慌てて胸の前で両手を振った。
そんなこと、気にしてくれてたんだ。
「そんなの気にしなくていいよ。これ、前の学校のだから、もう着ないし」
蔵馬はソファに腰掛けて、長い足を組んだ。
「じゃ、なおさらだ。大切な思い出でしょう?……でも、似合っているから、もう着ないなんて勿体ないね」
いよいよ、顔が真っ赤になるのを感じた。
何? 何? どうしちゃったんだろう、私。
もしかして、私、蔵馬にときめいてる?
そんなっ、だめよ、私には一樹がいるんだから!
そう、これは、知恵熱だ。
勉強のしすぎなの、きっと。
そうかそうか、明日からはちょっとペース落として……
コンコン――。
「わあああっ!! ごめんなさいっ」
「は……?」
急にノックの音が響いて、私は思わず悲鳴を上げてしまった。
お食事を運んで来てくれたメイドさんがびっくりして固まっている。
「あ、いえ、何でもないです」
く・ら・まっ! 後ろで声を殺して笑ってるの、分かってるんだからね!!
食事を終えて、蔵馬が言った通りサイズを測られ、私たちは向かい合ってお茶を飲む。
そしてまた彼は、悪魔の微笑を浮かべたのだった。
「薬、飲みましょうね」
ひぇぇぇぇ!!
咄嗟に逃げ出そうとする私の手首を掴んで、彼はにっこりと笑った。
「飲まないと……」「飲んだら死ぬっ!!」
私は蔵馬の言葉を慌てて遮った。
「今日はさすがに反応が早いですね」
蔵馬はわざとらしく感心している。
「もう、無理! 飲めない! あんなの人間の飲み物じゃない!」
「まあ、妖怪も飲みますけど」
いいながら、蔵馬はまたキッチンへと歩いていく。
に……逃げなきゃ。今のうちに逃げなきゃっ!
私は思わず窓に張り付いたけれど、きゃああ、何階よ、ここ?!
これじゃ飛び降りてぺっちゃんこ!
となったら、やっぱりドアから……ひああああっ!
後ろには、もう悪魔が笑顔で立っていた。
「いい加減、諦めてください」
「い……いや」
「じゃ、また飲ませてあげましょうか?」
「結構です」
「ああ! いっそ口移しなんてどうでしょう?」
へっ、変態悪魔っ!
じりじりと、悪魔は近付いてくる。
私はついに背中と壁がぴったりくっつき、身動きできなくなった。
「はい」
……あれ?
蔵馬の手には、4粒のカプセルのみ。
あの魔の液体は?
「ちゃんと、カプセルにしておきましたよ。これなら、飲めるでしょ?」
私はへなへなとその場に座り込んでしまった。
蔵馬もしゃがみこんで、薬を私に差し出すと、くすくすと笑った。
「世話が焼けるペットですね」
お風呂から出てくると、蔵馬は書類に埋もれていた。
さっきわかったんだけど、あのバラの花びらは、黄泉さんじゃなくて、蔵馬が用意してくれていたみたい。
服のことといい、本当に色んなことに気が回る人なんだなぁ。蔵馬って。
甘い香りがほんのり肌に残っていて、気分がいい。
今日は先にお湯をつかった蔵馬は、髪を乾かすのもそこそこに仕事に入ってしまったみたいで、まだその艶やかな髪は露っぽかった。
「ちゃんと乾かさないと、風邪ひいちゃうよ?」
「ああ……夏希も湯冷めするといけないから、先に寝ていてください」
私はキッチンへ向かった。
「まだ眠くないから。……コーヒーいれるね」
コポコポと音を立てて、コーヒーの香りが広がる。
今日、メイドさんにお願いして、コーヒーメーカーを持ってきてもらったの。
いれたてのコーヒーのひとつを蔵馬の前に置くと、私はもうひとつを持って、ソファの脇のサイドテーブルに向かった。
話し掛けたら邪魔しそうだし、私も勉強でもしよ。
「そこの代入が違ってますよ」
突然、頭の上から声が降ってきた。
私は思わずそのままのけぞって、声の主を見上げた。
蔵馬はそんな私に構わず、腕を伸ばして教科書を手に取る。
「これ、うちの学校と同じ教科書だ」
「ほんとっ?」
私は身体を起こして彼を振り返った。
「ね、数学得意?」
「まあ、理系ですから」
私は蔵馬から教科書を奪い取って、今日どうしてもわからなかった問題のページを広げた。
「お願い、ここ……あ、仕事は?」
「終わりましたよ。で、どの問題?」
腕時計を見たら、結構時間が経っている。
「あ、いいや。もう遅いし……」
私は曖昧に笑って教科書を閉じようとするけれど、蔵馬はそこに長い指を差し入れた。
「わからないところを放っておいちゃ、ダメですよ」
そう言って、ソファに腰をおろす。
「……で、ここでこの公式に当てはめて……」
――頭良さそうには見えたけれど、やっぱりスゴイ。
とっても解りやすい教え方だった。
私も結構成績には自信がある方なんだけど、数学だけはダメ。
どうしても理解できない。
そんな私でも、蔵馬に教えてもらって類題を解いてみたら、スラスラ解ける。
「すごいね! 蔵馬。学校の先生になったらいいのに」
「さ、解けたらもう寝よう? 頑張りすぎも良くないよ」
時間はあれから更に30分近く過ぎている。
ああ、暇人が多忙人の時間を食ってしまった……。
「ありがとう」
蔵馬はにっこりと笑った。
「いいですよ。それより、昨日バスローブで寝てたみたいですけど……」
私はあのネグリジェを思い出して真っ青になった。
「い! いいの! 私はこれが好きっ」
うわっ、笑ってる! あの笑いだ!
「あれ、似合うと思いますけど」
「蔵馬のエッチ! すけべ! 変態オヤジっ!!」
蔵馬は声を出して笑いながら自分の荷物を開け、何か差し出した。
「はい。オレのTシャツだけど、洗濯してあるから、よかったらどうぞ」
「え……いいの?」
「オヤジ呼ばわりされちゃったら、ね」
「あ、ありがとう」
そうして蔵馬に借りたシャツは、脱衣所の鏡の前で思わずびっくりしてしまうくらい大きかった。
蔵馬って、意外と大きいんだ……。
シャツはふんわりバラの香りがして、蔵馬を思い出して私はまた頬が火照った。
今日は本当にどうしちゃったんだろう、私。
私はそのまま鏡におでこをくっつけた。
一樹じゃない男の子と同じ部屋で寝起きして、優しくしてもらって、ドキドキして。
こんなの、良くないよね。
私、神様に試されているのかも。
あなたの一樹への思いは本当ですかって。
うん! 今日こそは私、ソファで寝るっ!
蔵馬はもうベッドに入っていた。
私はそっと自分の枕を抱えて、ソファに向かう。
「夏希」
後ろから声が掛かり、私はびくっと振り返る。
「今朝、約束したでしょう?」
「でもやっぱり私、ソファで寝るよ」
蔵馬はルームライトを点けた。
「おや、ペット様はご機嫌斜めかな……」
「私、彼氏がいるんだもんっ!!」
蔵馬の言葉を大きい声で遮った。
「だから、あなたと同じベッドでは、寝られない」
蔵馬はちょっと驚いたような顔をした。
……なに、この沈黙。
つまり「まさかこの私に」彼氏がいるなんて思ってもいなかったって、そういうこと? つくづく失礼ね!
私がベッドを離れようとすると、蔵馬はそこから出た。
「今朝は無神経なことをしてすみませんでした」
言いながら、私の前に回って、肩を掴む。
「それなら、オレがソファで寝ます。夏希はベッドで寝て?」
「そういうワケにはいかないよ。私は置いてもらっているだけなんだから」
蔵馬は、ちょっと力を入れて、でも優しく、私をベッドに座らせた。
「今朝も言ったけど、オレは女の子をソファに寝かせてベッドでなんか寝られない。君がどうしてもソファで寝るなら、オレは床で寝るよ?」
なっ、なんでそうなるの!?
慌てる私を横にさせて、蔵馬はクローゼットから予備の毛布を出すと、部屋の隅のソファに向かった。
その横顔が、なんだか少し淋しそうに見えて、私はびっくりした。
――もしかしたら、この人は淋しいのかもしれない。
そうだ、最初会ったときもこの人から何ともいえない孤独感を感じた。
そつがなくて、頭がよくて、話も上手だから、彼の本音に目を向けないように、まるで誘導されていたみたいに感じる。
突然妖怪だらけの世界に来て、人間の身体でありながら、国王の近くで働いているんだもん。
ふと、妖駄さんが見下すように『人間』って言っているところを思い出した。
きっと嫌なことも言われる。神経だって使うし、疲れるよね。
そんなとき、誰かの温もりがあったら、少しは落ち着くのかも、癒されるのかもしれない。
私はソファに横になろうとしている彼に向かって、叫ぶように言った。
「だっ、だったら、私も床で寝るっ!」
蔵馬は呆れたように言った。
「そうしたら、一緒に寝ているのと同じでしょう?」
「だ……だから……一緒に寝ようって言っているの……」
ぼんやりした明かりの中で、驚いてこちらを見ている蔵馬に私は近付いた。
「ごめん。ごめんね、蔵馬。私、ちっとも蔵馬に優しくできなかった。私は蔵馬のペットなのに、言葉も分かるペットなのに、蔵馬を癒すどころか、世話ばっかり掛けて。蔵馬が私に言ってくれたわがままは、ひとつだけだったのにね。ごめんね」
蔵馬は、近付いた私の手を強く引き寄せた。
急に引っ張られて、私は蔵馬の胸の上に転がってしまった。
蔵馬はそのまま私を抱きしめた。
「ふたりで、ソファで寝るってのはどうですか?」
私は苦笑いしてしまった。
「それは物理的に無理」
「こうしたら?」
ふわっとウエストが浮いて、ハッと気付くと私は蔵馬の上にいた。
「そんなことしたら、金縛りにあっちゃうよ」
「軽いから大丈夫。ああ、でも、君のカレに怒られちゃうかな」
「……ううん。一樹はもう、怒らないよ……」
私は蔵馬の暖かい胸にほっぺをくっつけた。
「本当はね、ふられちゃったの。でも私はまだ彼が好きで、諦められなくて……ちゃんと話したら、何の問題もなくいつも通りに戻れる気がして……」
蔵馬は黙ってじっと聞いてくれている。
「引越が決まって、そのことを彼に言ったの。”ちょっと離れちゃうけど、これからもよろしくね”って言おうとしたんだ。でも、その前に言われちゃった。『そっか、じゃあ、もう会えなくなるな』って。『今まで楽しかったよ。元気で』って。まさかそんなにあっさり言われるなんて、あんなに明るく笑われるなんて思ってもいなくて、私、びっくりして、そのまま何も言えなかった」
言葉にしたら、その時のショックを思い出して、涙が出そうになり、私はえへへって笑った。
「新幹線に乗ったらすぐ会えるのに、一樹ったらあんまり遠出したことないから、そんなこともわからないんだ。今までだって、ふたりで会ってたのなんて月に何回もなくて、それも週末だけなんだから、ちっとも変わらないでしょ? ……そう言ったら、きっと一樹は『あっ、そうか』っていうはずだって……そう思うんだけど……」
私はちょっと唇をかむ。
「どこかでは、わかってるの。もう、終わっていたんだって。本当に私のこと好きだったら、あんなに明るく手は振れない。あんな風に笑えない……」
不意に、堪えていた涙がポトっと蔵馬のシャツに丸いシミをつけた。
私は慌てて片手で顔をぬぐうと、涙の冷たさを彼に知らせないために、シャツをくしゃっと握った。
そんな私の頭を蔵馬は自分の胸に引き寄せた。
そのはずみで、早くも溜まっていた涙は、いくつもの水玉をシャツに描いてしまう。
困って、私は言葉を紡いだ。
「嬉しかったんだ。付き合ってって言われたとき。一樹はとっても女子に人気があって、私はいつも遠くから見てるだけだったの。叶うわけない恋だってわかってたから……向こうからそんな風に言ってくれて、本当に嬉しかった……夢みたいだって。それだけで私はもう、一生分の幸せをもらったんだから、これ以上望んだりしたらいけないよね……」
ごまかすために喋っていたのに、涙は後から後から溢れてきて、蔵馬のシャツはすっかり湿ってしまった。
「あ、ごめんね。濡れちゃった……」
諦めて顔を上げようとすると、蔵馬は腕に力を入れて、それを遮った。
「ダメですよ。ちゃんと、話さなきゃ。ここから帰ったら会いに行って、自分の気持ちを伝えなきゃね。あなたが帰るたびに、彼の中で、ふたつの街の距離は縮まっていきますよ」
蔵馬は腕を緩めて、身体を起こした。
「大丈夫。こんなに可愛い君を手放したがる男なんていないから。……目、腫れちゃうよ」
ちょっと笑って蔵馬はその繊細な指を曲げ、私の目元を拭った。
近付いた彼の微笑みはどこか切なそうで、それを見て、私は思った。
蔵馬にも好きな女の子がいるのかもしれない。
こんなにステキで頭もいい人だけど、やっぱり恋をして、辛い思いをして、それでも幸せを追って頑張っているのは、一緒。
私は目のラインを辿る彼の手をぎゅっと握った。
「うん。ありがとう。会いに行くよ。きっと、決定的にフラれるのが怖いだけだったんだよね。当たって砕けてくるよ」
「大丈夫。砕けませんよ。……ほら、やっぱり笑っている方が可愛い」
私はカアっと赤くなって、慌ててそっぽを向いた。
「オレでさえ手放すのが惜しくなっちゃうな……」
「なっ」
蔵馬は笑って私を引き寄せ、また横になった。
「彼氏だったらなおさらだよ。……夏希がここにいる間はオレが夏希を守ります。だから、ずっと笑顔でいてください」
目を閉じると、微かにバラの香りがした。
――あったかいね……蔵馬。
ネグリジェは黄泉さまのご要望です。断じて私の仕業ではありません!
初:20051009
改:20250922
肩に手が乗って、私は慌てて身体を起こした。
「こんなところで寝たら、風邪をひくよ」
……ああ、そうか、さっき最後の力を振り絞ってカプセルを飲んで、力尽きたんだ。
蔵馬はにこっと笑うと、部屋の入口を指した。
「お風呂にお湯を張っておいたから、入ってきて。きっと疲れているんです」
ああ……蔵馬だって今日仕事してたのに、悪いことしちゃったな。
「ううん、先に入って。蔵馬こそ、早く寝て身体休めなきゃ」
「オレはまだ仕事があるから」
だったら、言ってくれたら私やったのに。
私は申し訳なくなって、下を向いた。
「ごめんね。何もしなくて。これからは、できる限り私が色々するから、何でも言ってね」
蔵馬はありがとう、と笑った。
お風呂にはさっきのアレみたいな薬湯でも入っているんじゃないかって内心怖かった。
でも、お風呂場に入った途端、思わずうわぁって声が出た。
バスタブには赤やピンクのバラの花びらが一面に浮かべてあった。
ステキ! お姫様の気分!
黄泉さんってば、気配り上手!
甘い香りに包まれて体を温めていると、また眠気が襲ってくる。
そういえば、もう2日間くらい起きてるんじゃないかな。
……早く寝よ。
お風呂で寝てしまわないうちにそそくさと上がり、置いてあったバスローブに身を包む。
だけど、寝室に入った途端、眠気は一瞬にして飛んでしまった。
なんで、なんでこんなに広いお部屋なのに、ベッドがひとつなの!?
「どうしたの?」
寝室の入口で立ち尽くしているところに、急に蔵馬が声を掛けてきたので、私は思わず飛び上がってしまった。
「な、な、なんでもない!」
「そう? じゃ、先に寝ていてくださいね」
蔵馬はそう言って奥へ行ってしまった。
……よく考えたら、今日知り合ったばっかりの男の子と同じ部屋で生活するのよね。
ちょっと、やっぱり、それって、かなり、倫理的に問題が……。
恐る恐るベッドに近寄ってみると、枕元に用意されていたのはスケスケのえっちくさいネグリジェ!
ちょっと! 何てモノ置くのよ!
変態じゃないの? 黄泉さんって!
私はえいっと一枚毛布を引き抜いてソファに投げつけると、クッションを枕にして潜り込んだ。
嫁入り前の身で知らない男の子と同じベッドで寝るなんて絶対ダメ!
やっぱり相当疲れていたんだと思う。
私は横になった瞬間に眠りに落ちてしまった。
そして……
目を覚ました瞬間、大悲鳴。
だってだって、目の前に物凄い美少年が眠っていたんだもん。
その距離わずか10cm。
私の悲鳴で目を覚ました蔵馬は、だるそうに髪をかきあげた。
「……おはよう」
おは! おは! おはようって、おはようって!!
金魚のように口をパクパクさせている私に、まだぼんやりした目で蔵馬は言った。
「どうしたんですか? 慌てちゃって」
どうしたもこうしたも、何であなたと私が同じベッドで寝てるの!?
蔵馬はゆっくりと上半身を起こした。
「それにしても、すごい寝相でしたよ」
ドキッ! う、そ……?
「ベッドから飛び出して、ソファで寝てました」
飛ぶかあぁぁぁぁ!! あっちで寝てたの! 私の意思で!
赤くなったり、青くなったりしている私をじっと見ていた蔵馬は、突然むんずと私の二の腕を引き寄せた。
それで私はバランスを崩して、その膝の上に仰向けに倒れてしまった。
ドキッとする私の頬を繊細な指でそっとなぞって、彼は顔を近づけた。
柔らかい髪が私の上にこぼれる。
私は息をするのも忘れて、目の前に迫った大美人のどアップを見つめた。
「可愛かったよ。昨夜は……」
言って、甘く艶っぽく微笑む。
な、な、なっ、何があったの!?
眼をまん丸にした私の上で、蔵馬はぷっと吹きだした。
「寝顔が」
……ハメられたっ!!
思った瞬間、蔵馬はベッドから出て、悪戯っぽく笑った。
「寝ている女の子を襲う趣味はないから安心して」
呆然としている私を置いて、彼は笑いながら部屋を出た。
私ははっと我に返って、悔し紛れに彼が消えたドアへと枕をぶつけた。
「いい加減、機嫌直して?」
蔵馬はオムレツをつつきながら、私を覗き込む。
「せっかく蔵馬にベッドを譲ったのに」
「女の子をソファに寝かして、オレだけぬくぬくベッドでなんて寝られないよ」
「私は居候なんだから、いいの!」
私はトーストに噛み付いた。
そんな私の前で、蔵馬はにやっと笑う。
「違うな」
なんとなく薄ら寒いものを感じて、トーストに噛み付いたまま目を上げる。
笑顔なのに恐怖を感じるのは何故……?
「あなたはオレのペットですよ。ご主人様の命令には従ってもらわなきゃ」
……なんか不穏なこと言い出したぞ、この人。
「ということで、今夜も一緒のベッドです」
「ちょっ! ……」
「お風呂も一緒がイイですか?」
私は思わず立ち上がってしまった。
「いいわけないでしょ! ペットなんて今日限りで廃業です!」
すると蔵馬は、片肘を突いて、視線を逸らした。
「そうですか……それじゃ、無事に人間界に帰れることを祈ってます」
くっ……鬼畜……。
再び椅子に腰をおろす私を見て、蔵馬はくすくすと笑った。
「からかってごめんね」
フンっ!
仕事に行くために服を着替えた蔵馬は、惚れ惚れするほどカッコよかった。
白い肌と、紅みを帯びた黒髪によく似合う、暗いブルーグレーの、カッチリした軍服。
上着は膝のあたりまであって、ウエストにベルトが通してある。
華奢そうに見えて、意外としっかりしたボディラインがステキに映えていた。
中性的な美貌と、突然垣間見えた男っぽさのギャップが、妖しいまでに魅力的。
私はさっきまでの怒りも忘れて、ただただ見入ってしまった。
「多分、夜までは帰ってこないと思うけど、その間、オレの本でも読んでる?」
彼は堅苦しい服と対照的に、柔らかく微笑んだ。
「ううん、いい。たまたま教科書と一緒にこっちに来たから、勉強しとく。何か、留守の間にできること、ない?」
彼はしばらく考えて、こちらを見た。
「できたら、オレが留守のとき、この部屋には君とオレ以外の誰かを入れたくないんだ。多分、しばらくしたら女官が掃除に来ると思うんだけど……」
「わかった。断っておいて。掃除は私がするから」
「ありがとう。それからひとつ」
言って蔵馬はちょっと屈んで私の目を覗き込んだ。
「この部屋から一歩も出ないって、約束して」
私が頷くのを見て、蔵馬は「行ってきます」と部屋を出た。
しばらくして、昨日のメイドさんが掃除用具やアメニティ一式を持って来て、かわりにお洗濯物を持っていってくれた。
その掃除用具でお掃除したけれど、もともとキレイだったこのお部屋。すぐに掃除なんて終わっちゃう。
蔵馬に宣言しちゃったんだから、教科書を広げて宿題なんかしてみるんだけど、一体何やってるんだろ、って気になってくる。
異界まで来て夏休みの宿題って……。
夏なのに! 夏休みなのに!
バカンス……って雰囲気でもないか、この世界じゃ。
それにしても、難しいな。
進学校とは聞いてたけど、かなりレベルが高い学校だったのね。
どうせ1ヵ月缶詰だもん、しっかり予習して置いていかれないようにしなきゃ。
かくして私は黙々と勉強に励み、蔵馬が帰って来たときにはげっそりとしてしまっていた。
でも、結構進んだもんね!
「大丈夫? クマできてるよ」
私の顔を見て、蔵馬は驚いた声を出したけれど、こっちも思わず言ってしまった。
「蔵馬こそ、疲れきった顔してるよ」
「そうですか?」
私はこっくり頷く。
蔵馬はふっと笑った。
「あんまり顔に出るタイプじゃないんだけど……夏希の顔を見て気が緩んだのかな」
何気ない蔵馬の言葉に、私は何故だか少しドキッとしてしまった。
「胸、まだ痛むの?」
「え? ううん」
「そう。また胸、押さえてますよ」
あ……ホントだ。癖になっちゃったのかな。
「でも、夏希のテリトリーの中は、何だかホッとするよ」
蔵馬は優しく笑う。
私はまたドキドキしてさり気なく視線を外した。
「じゃ、私の能力は誰かをホッとさせることなのかもね」
「そんな能力もあるかもしれないね……そうそう、夕食の後で、女官が貴方の服のサイズを測りに来ますから」
へっ?
「着たきり雀じゃ、夏休み明けにはくたくたになっちゃいますよ、制服」
私は慌てて胸の前で両手を振った。
そんなこと、気にしてくれてたんだ。
「そんなの気にしなくていいよ。これ、前の学校のだから、もう着ないし」
蔵馬はソファに腰掛けて、長い足を組んだ。
「じゃ、なおさらだ。大切な思い出でしょう?……でも、似合っているから、もう着ないなんて勿体ないね」
いよいよ、顔が真っ赤になるのを感じた。
何? 何? どうしちゃったんだろう、私。
もしかして、私、蔵馬にときめいてる?
そんなっ、だめよ、私には一樹がいるんだから!
そう、これは、知恵熱だ。
勉強のしすぎなの、きっと。
そうかそうか、明日からはちょっとペース落として……
コンコン――。
「わあああっ!! ごめんなさいっ」
「は……?」
急にノックの音が響いて、私は思わず悲鳴を上げてしまった。
お食事を運んで来てくれたメイドさんがびっくりして固まっている。
「あ、いえ、何でもないです」
く・ら・まっ! 後ろで声を殺して笑ってるの、分かってるんだからね!!
食事を終えて、蔵馬が言った通りサイズを測られ、私たちは向かい合ってお茶を飲む。
そしてまた彼は、悪魔の微笑を浮かべたのだった。
「薬、飲みましょうね」
ひぇぇぇぇ!!
咄嗟に逃げ出そうとする私の手首を掴んで、彼はにっこりと笑った。
「飲まないと……」「飲んだら死ぬっ!!」
私は蔵馬の言葉を慌てて遮った。
「今日はさすがに反応が早いですね」
蔵馬はわざとらしく感心している。
「もう、無理! 飲めない! あんなの人間の飲み物じゃない!」
「まあ、妖怪も飲みますけど」
いいながら、蔵馬はまたキッチンへと歩いていく。
に……逃げなきゃ。今のうちに逃げなきゃっ!
私は思わず窓に張り付いたけれど、きゃああ、何階よ、ここ?!
これじゃ飛び降りてぺっちゃんこ!
となったら、やっぱりドアから……ひああああっ!
後ろには、もう悪魔が笑顔で立っていた。
「いい加減、諦めてください」
「い……いや」
「じゃ、また飲ませてあげましょうか?」
「結構です」
「ああ! いっそ口移しなんてどうでしょう?」
へっ、変態悪魔っ!
じりじりと、悪魔は近付いてくる。
私はついに背中と壁がぴったりくっつき、身動きできなくなった。
「はい」
……あれ?
蔵馬の手には、4粒のカプセルのみ。
あの魔の液体は?
「ちゃんと、カプセルにしておきましたよ。これなら、飲めるでしょ?」
私はへなへなとその場に座り込んでしまった。
蔵馬もしゃがみこんで、薬を私に差し出すと、くすくすと笑った。
「世話が焼けるペットですね」
お風呂から出てくると、蔵馬は書類に埋もれていた。
さっきわかったんだけど、あのバラの花びらは、黄泉さんじゃなくて、蔵馬が用意してくれていたみたい。
服のことといい、本当に色んなことに気が回る人なんだなぁ。蔵馬って。
甘い香りがほんのり肌に残っていて、気分がいい。
今日は先にお湯をつかった蔵馬は、髪を乾かすのもそこそこに仕事に入ってしまったみたいで、まだその艶やかな髪は露っぽかった。
「ちゃんと乾かさないと、風邪ひいちゃうよ?」
「ああ……夏希も湯冷めするといけないから、先に寝ていてください」
私はキッチンへ向かった。
「まだ眠くないから。……コーヒーいれるね」
コポコポと音を立てて、コーヒーの香りが広がる。
今日、メイドさんにお願いして、コーヒーメーカーを持ってきてもらったの。
いれたてのコーヒーのひとつを蔵馬の前に置くと、私はもうひとつを持って、ソファの脇のサイドテーブルに向かった。
話し掛けたら邪魔しそうだし、私も勉強でもしよ。
「そこの代入が違ってますよ」
突然、頭の上から声が降ってきた。
私は思わずそのままのけぞって、声の主を見上げた。
蔵馬はそんな私に構わず、腕を伸ばして教科書を手に取る。
「これ、うちの学校と同じ教科書だ」
「ほんとっ?」
私は身体を起こして彼を振り返った。
「ね、数学得意?」
「まあ、理系ですから」
私は蔵馬から教科書を奪い取って、今日どうしてもわからなかった問題のページを広げた。
「お願い、ここ……あ、仕事は?」
「終わりましたよ。で、どの問題?」
腕時計を見たら、結構時間が経っている。
「あ、いいや。もう遅いし……」
私は曖昧に笑って教科書を閉じようとするけれど、蔵馬はそこに長い指を差し入れた。
「わからないところを放っておいちゃ、ダメですよ」
そう言って、ソファに腰をおろす。
「……で、ここでこの公式に当てはめて……」
――頭良さそうには見えたけれど、やっぱりスゴイ。
とっても解りやすい教え方だった。
私も結構成績には自信がある方なんだけど、数学だけはダメ。
どうしても理解できない。
そんな私でも、蔵馬に教えてもらって類題を解いてみたら、スラスラ解ける。
「すごいね! 蔵馬。学校の先生になったらいいのに」
「さ、解けたらもう寝よう? 頑張りすぎも良くないよ」
時間はあれから更に30分近く過ぎている。
ああ、暇人が多忙人の時間を食ってしまった……。
「ありがとう」
蔵馬はにっこりと笑った。
「いいですよ。それより、昨日バスローブで寝てたみたいですけど……」
私はあのネグリジェを思い出して真っ青になった。
「い! いいの! 私はこれが好きっ」
うわっ、笑ってる! あの笑いだ!
「あれ、似合うと思いますけど」
「蔵馬のエッチ! すけべ! 変態オヤジっ!!」
蔵馬は声を出して笑いながら自分の荷物を開け、何か差し出した。
「はい。オレのTシャツだけど、洗濯してあるから、よかったらどうぞ」
「え……いいの?」
「オヤジ呼ばわりされちゃったら、ね」
「あ、ありがとう」
そうして蔵馬に借りたシャツは、脱衣所の鏡の前で思わずびっくりしてしまうくらい大きかった。
蔵馬って、意外と大きいんだ……。
シャツはふんわりバラの香りがして、蔵馬を思い出して私はまた頬が火照った。
今日は本当にどうしちゃったんだろう、私。
私はそのまま鏡におでこをくっつけた。
一樹じゃない男の子と同じ部屋で寝起きして、優しくしてもらって、ドキドキして。
こんなの、良くないよね。
私、神様に試されているのかも。
あなたの一樹への思いは本当ですかって。
うん! 今日こそは私、ソファで寝るっ!
蔵馬はもうベッドに入っていた。
私はそっと自分の枕を抱えて、ソファに向かう。
「夏希」
後ろから声が掛かり、私はびくっと振り返る。
「今朝、約束したでしょう?」
「でもやっぱり私、ソファで寝るよ」
蔵馬はルームライトを点けた。
「おや、ペット様はご機嫌斜めかな……」
「私、彼氏がいるんだもんっ!!」
蔵馬の言葉を大きい声で遮った。
「だから、あなたと同じベッドでは、寝られない」
蔵馬はちょっと驚いたような顔をした。
……なに、この沈黙。
つまり「まさかこの私に」彼氏がいるなんて思ってもいなかったって、そういうこと? つくづく失礼ね!
私がベッドを離れようとすると、蔵馬はそこから出た。
「今朝は無神経なことをしてすみませんでした」
言いながら、私の前に回って、肩を掴む。
「それなら、オレがソファで寝ます。夏希はベッドで寝て?」
「そういうワケにはいかないよ。私は置いてもらっているだけなんだから」
蔵馬は、ちょっと力を入れて、でも優しく、私をベッドに座らせた。
「今朝も言ったけど、オレは女の子をソファに寝かせてベッドでなんか寝られない。君がどうしてもソファで寝るなら、オレは床で寝るよ?」
なっ、なんでそうなるの!?
慌てる私を横にさせて、蔵馬はクローゼットから予備の毛布を出すと、部屋の隅のソファに向かった。
その横顔が、なんだか少し淋しそうに見えて、私はびっくりした。
――もしかしたら、この人は淋しいのかもしれない。
そうだ、最初会ったときもこの人から何ともいえない孤独感を感じた。
そつがなくて、頭がよくて、話も上手だから、彼の本音に目を向けないように、まるで誘導されていたみたいに感じる。
突然妖怪だらけの世界に来て、人間の身体でありながら、国王の近くで働いているんだもん。
ふと、妖駄さんが見下すように『人間』って言っているところを思い出した。
きっと嫌なことも言われる。神経だって使うし、疲れるよね。
そんなとき、誰かの温もりがあったら、少しは落ち着くのかも、癒されるのかもしれない。
私はソファに横になろうとしている彼に向かって、叫ぶように言った。
「だっ、だったら、私も床で寝るっ!」
蔵馬は呆れたように言った。
「そうしたら、一緒に寝ているのと同じでしょう?」
「だ……だから……一緒に寝ようって言っているの……」
ぼんやりした明かりの中で、驚いてこちらを見ている蔵馬に私は近付いた。
「ごめん。ごめんね、蔵馬。私、ちっとも蔵馬に優しくできなかった。私は蔵馬のペットなのに、言葉も分かるペットなのに、蔵馬を癒すどころか、世話ばっかり掛けて。蔵馬が私に言ってくれたわがままは、ひとつだけだったのにね。ごめんね」
蔵馬は、近付いた私の手を強く引き寄せた。
急に引っ張られて、私は蔵馬の胸の上に転がってしまった。
蔵馬はそのまま私を抱きしめた。
「ふたりで、ソファで寝るってのはどうですか?」
私は苦笑いしてしまった。
「それは物理的に無理」
「こうしたら?」
ふわっとウエストが浮いて、ハッと気付くと私は蔵馬の上にいた。
「そんなことしたら、金縛りにあっちゃうよ」
「軽いから大丈夫。ああ、でも、君のカレに怒られちゃうかな」
「……ううん。一樹はもう、怒らないよ……」
私は蔵馬の暖かい胸にほっぺをくっつけた。
「本当はね、ふられちゃったの。でも私はまだ彼が好きで、諦められなくて……ちゃんと話したら、何の問題もなくいつも通りに戻れる気がして……」
蔵馬は黙ってじっと聞いてくれている。
「引越が決まって、そのことを彼に言ったの。”ちょっと離れちゃうけど、これからもよろしくね”って言おうとしたんだ。でも、その前に言われちゃった。『そっか、じゃあ、もう会えなくなるな』って。『今まで楽しかったよ。元気で』って。まさかそんなにあっさり言われるなんて、あんなに明るく笑われるなんて思ってもいなくて、私、びっくりして、そのまま何も言えなかった」
言葉にしたら、その時のショックを思い出して、涙が出そうになり、私はえへへって笑った。
「新幹線に乗ったらすぐ会えるのに、一樹ったらあんまり遠出したことないから、そんなこともわからないんだ。今までだって、ふたりで会ってたのなんて月に何回もなくて、それも週末だけなんだから、ちっとも変わらないでしょ? ……そう言ったら、きっと一樹は『あっ、そうか』っていうはずだって……そう思うんだけど……」
私はちょっと唇をかむ。
「どこかでは、わかってるの。もう、終わっていたんだって。本当に私のこと好きだったら、あんなに明るく手は振れない。あんな風に笑えない……」
不意に、堪えていた涙がポトっと蔵馬のシャツに丸いシミをつけた。
私は慌てて片手で顔をぬぐうと、涙の冷たさを彼に知らせないために、シャツをくしゃっと握った。
そんな私の頭を蔵馬は自分の胸に引き寄せた。
そのはずみで、早くも溜まっていた涙は、いくつもの水玉をシャツに描いてしまう。
困って、私は言葉を紡いだ。
「嬉しかったんだ。付き合ってって言われたとき。一樹はとっても女子に人気があって、私はいつも遠くから見てるだけだったの。叶うわけない恋だってわかってたから……向こうからそんな風に言ってくれて、本当に嬉しかった……夢みたいだって。それだけで私はもう、一生分の幸せをもらったんだから、これ以上望んだりしたらいけないよね……」
ごまかすために喋っていたのに、涙は後から後から溢れてきて、蔵馬のシャツはすっかり湿ってしまった。
「あ、ごめんね。濡れちゃった……」
諦めて顔を上げようとすると、蔵馬は腕に力を入れて、それを遮った。
「ダメですよ。ちゃんと、話さなきゃ。ここから帰ったら会いに行って、自分の気持ちを伝えなきゃね。あなたが帰るたびに、彼の中で、ふたつの街の距離は縮まっていきますよ」
蔵馬は腕を緩めて、身体を起こした。
「大丈夫。こんなに可愛い君を手放したがる男なんていないから。……目、腫れちゃうよ」
ちょっと笑って蔵馬はその繊細な指を曲げ、私の目元を拭った。
近付いた彼の微笑みはどこか切なそうで、それを見て、私は思った。
蔵馬にも好きな女の子がいるのかもしれない。
こんなにステキで頭もいい人だけど、やっぱり恋をして、辛い思いをして、それでも幸せを追って頑張っているのは、一緒。
私は目のラインを辿る彼の手をぎゅっと握った。
「うん。ありがとう。会いに行くよ。きっと、決定的にフラれるのが怖いだけだったんだよね。当たって砕けてくるよ」
「大丈夫。砕けませんよ。……ほら、やっぱり笑っている方が可愛い」
私はカアっと赤くなって、慌ててそっぽを向いた。
「オレでさえ手放すのが惜しくなっちゃうな……」
「なっ」
蔵馬は笑って私を引き寄せ、また横になった。
「彼氏だったらなおさらだよ。……夏希がここにいる間はオレが夏希を守ります。だから、ずっと笑顔でいてください」
目を閉じると、微かにバラの香りがした。
――あったかいね……蔵馬。
ネグリジェは黄泉さまのご要望です。断じて私の仕業ではありません!
初:20051009
改:20250922