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『ヒロインがいるということは恋愛小説ですか?』
そういえば10年前のあのときも、こちらが聞くまでそのことを伏せたままだった。
先に言えばオレが逃げると踏んで、先に出演許可を取ろうという魂胆だろうと思っていた。
しかし、もしかしたらそうではなく、そこまでのやりとりでオレには恋愛の相手役には向かないと判断したのかもしれない。
妙にギャグ夢が増えていくのもそれなら納得がいく。
しかし、それなら何故とっとと切り上げて別の適任者を探しに行かなかったのか……。
背中を反らせるようにして大テーブルの方を伺う。
まだ裏のある笑顔を浮かべて言い合いを続けているふたりのオレの真ん中で、その女はテーブルにぐったりと俯せていた。
『……振り回されるならあなたがいい』
別にどうというセリフでもなかろうに、しばらくこちらが向けなくなるほど赤くなっていたようだった。
念願叶ってあんなにも熱烈に、それもふたりがかりで振り回されたというのに全く嬉しそうに見えない。
『蔵馬がいてくれればそれでいい』
いったい彼女は何故そんなにもオレにこだわったのか――。
7.黒蔵馬改造大作戦
謎フレーズを連発しながら絡みついてくるクロをあやしつつ、再びテーブルの方に視線をやると、気持ちよさそうに熱弁していた”点”がたまたまこちらを向いて目が合う。
オレは、俯せている美馬さんを黙って指差す。
彼は不思議そうにその先を見て、慌てたように彼女の肩を揺さぶる。
その様子にビクッとしたが、すぐに白のオレが気付いてもう片側に座ってくれた。
俯せてつぶれている酔っ払いを揺さぶったら大惨事が起こると予想できないだろうか。”点”はたまに抜けている。
しかし、彼があれだけの票を集めたということは、そういうところもまた魅力のひとつなのだろうか。普段が完璧なだけに。
ぼんやりと観察していると、今度は白の方が美馬さんを抱え起こし、立ち上がらせようとしている。トイレにでも連れて行く気かもしれない。
そこに逆側から”点”が手を伸ばし、再び攻防が始まる。
オレは見なかったことにしようと真っ直ぐに座り直したが、やがて舌打ちをしたい気分で立ち上がっていた。
「すみません、ちょっと」
「蔵馬、トイレに行くときは『お花を摘みに行く』って言うのよ」
「オレはお嬢様になる気はありませんよ」
迷プロデュースから逃れてテーブルを回り、ふたりのオレの肩に両手を置く。
「盛り上がっているところを悪いんだが、ソレを立たせないでください。ウェッジウッドが瓦礫になる」
その言葉にふたりはハッとしたように手を離し、酔っ払いは再びテーブルに突っ伏せそうになる。
首に腕を伸ばして背もたれに張り付けるとカエルのような呻き声が上がったが、構わず無理やり椅子を引き、背中と膝の下に腕を入れて抱え上げる。
「俯せもやめてください。リバースします」
「……く、蔵馬?」
薄く眼を開けた酔っ払いが人の顔を見るなり顔を引きつらせる。
しかし、両隣から同じ顔がふたつ追加で視界に入り込んだため、彼女は額を押さえて目を閉じてしまった。
「すみません、美馬。大丈夫ですか」
「こんなものはどこかに転がしておけば勝手に復活します」
言いながらソファに向かうが、そこでは大の男が長々と寝そべって占領していた。
「……床でいいですね」
「やめて、寒い……」
一度は床に膝をついてみたが、確かにこの人は特異体質で酒を飲むと体温が下がるのだ。下手をすると死ぬ。
周囲を見回していると4本の腕が伸びてくる。
「気分が良くなるまでオレが抱いていましょう」
渡してしまいたいのは山々だが、そうしたら今度はこの酔っ払いでキャッチボールを始めるだろう。
オレは彼らから離れ、黄泉に膝枕をしたままコクコクと舟を漕いでいる彼女の耳元に頬を寄せる。
「疲れたでしょう。眠いようなら隣の部屋で休んでください。客用の布団を出しますから」
彼女はハッとしたように立ち上がり、オレは咄嗟に脛で黄泉の頭を押さえた。
どうやら彼は本当に眠り込んでいたようでそれでも指一本動かさない。
「私、眠ってたのか……いえいえ、私まだまだ話したりませんもの! って……黒蔵馬か……何してるの?」
黄泉の上に酔っ払いを下ろして、オレは彼女を見上げる。
「仰向けで寝かせることができて暖かい場所と言ったらここしかないので」
「蔵馬……あなた……美馬様は女性なのよ。黄泉様が襲われちゃうじゃない」
「大丈夫です。どっちも若いのが好みですから」
「……それもそうか。で? こっちの蔵馬たちは何をさっきからワイワイと……」
「ちょうど良かった。女性の意見を聞かせてください」
点と白のオレに捕まってしまった彼女を救出しようかと逡巡したが、仮眠を取って多少体力を回復したと見られ、彼らを圧倒する勢いで喋りだす。
そのままそこを離れ元の席に戻ると、先ほどの彼女たちは何故か打って変わったようによそ行きの微笑みを浮かべた。
「……どうしたんですか」
「え、どうもしてないよ」
誰かが短く答えたきり、彼女たちはティーカップを揺らしたりケーキをつついたりして、落ち着かない視線を交わし合っていた。
「オレ、またおかしなことを言いましたか?」
「『また』って」
「自分で言っちゃうんだ?」
やはり妙だ。先ほどまでの勢いがない。
「本当にどうしたんですか。急におとなしくなって」
「別に……」
「何でもないよね」
また何か企んでいるんだろうか。
口元を覆って考えていると、肩に手が乗る。
「みんな急に乙女モードになっちゃって、会話が弾みませんね。蔵馬さんのせいですよ」
不審に思って見上げると、ワイングラスを手にした彼女は少し眉を上げる。
「急にいいところ見せるから」
「いいところ?」
彼女は背中を向けると、オレが座っている椅子の背もたれに寄りかかってソファの方に視線を流す。
「男二人に奪い合われる酔っぱら……コホン、困惑するか弱き乙女を颯爽とお姫様抱っこでさらう、元伝説の美形怪盗!」
怪盗……と呼ばれた過去はないし、奪い合っていたのも元伝説のナントカなんだが……。そもそもか弱き乙女とは誰のことだ。
「破裂寸前のゴミ袋を焼却炉に移動しただけです」
「蔵馬さんはそのおつもりでも、私たちにとって若菜さんは女の子。日頃からもっと優しくしてあげていたらあんな順位にはならなかったのに」
誰かが新しくいれてくれたのだろう。手を伸ばした先にあったカップはまだ熱かった。
「オレはあの順位でホッとしました」
「蔵馬さんはこれっぽっちもモテようなんて思ってくださらないんですね」
椅子の背が小さく軋む。
「若菜さんも、あなたの標準形態がいかに素敵な人かってことは書くのに、シリアスな話になればなるほどダメなところばかり強調する気がするんです。意外と短気だったり、独善的だったり、子供っぽかったり、面倒くさがりだったり」
「それがオレですから」
背後で深いため息が響く。
「……若菜さんってつくづくドM。どうして言わないのかしら」
「何をですか」
不思議に思って振り向くと、彼女も少しこちらに横顔を向け、艶っぽい目の端にオレを映す。
「でも、こういうもどかしさがこのサイトの醍醐味なのかも」
「……教える気はないんですね」
「私、若菜さんの楽しみを邪魔する気はないから……だから、そうですね。蔵馬さんはモテようなんて思わなくていいの。格好いいけど格好悪い蔵馬さんでいてくださいね」
……この人は美馬さんの味方なのかそうでないのか……。
ある意味で利害は一致するかもしれないが、常識があって頭脳が明晰な分、美馬さん以上に痛い目に遭わされそうな気もする。オレは早々に白旗を上げた。
「美馬さんが言っていました。幸せにしようとか、幸せになろうとか頑張らなくていいと。冴えないオレのままで普通にしていてくれればそれでいいんだそうです」
「やっぱり若菜さんと私って以心伝心!」
彼女は上機嫌でグラスの腹に口づけると中身を一気に飲み干した。
「えっ、なになに? なんですか?」
彼女は満足げに微笑んで、空いている椅子に腰を下ろす。
「若菜さんってカワイイ人だって話です」
輪の中に新しい顔と話題が入ってきたことで、ようやくそこにいた彼女たちの表情が柔らかく色づき始める。
「でも、皆さんもカワイイですよ。借りてきた猫みたいになっちゃって」
「やっ、やめてくださいー!」
「しー! しーっ!」
「若いって素晴らしい……」
「あ、姿を見ないと思ったらこんなところに。黒蔵馬とヒロインの奪い合いですか?」
また新しく人が増え、春の花が次々と開くように場が活気づいていく。
「……だからですね。最初から恋人設定で始まる夢もいいけれど、友達から始まって意地を張ったり勘違いしたりですれ違ってイライラするのもアリでしょう?」
「甘酸っぱいですね」
「ザ・青春!」
「あー、いきなりエロで始まってエロだけで終わるエロてんこ盛りのエロ小説より、キスが異様に長くてエロは数行だけの方がエロかったりすることありますしね!」
「あああ……話題が深夜です……」
「ぎゃ! すみません、さっきまでぴんくらまと一緒に領域に閉じ込められてたから」
「ぴんくらまさん、ピー音ばっかりでろくにお話できませんでした……」
振り返って例の一角を見ると、遂に彼は海藤と一対一の禁句対決に突入したようだった。
「……えっ、これ出しちゃっていいんですか?」
「もう見られちゃったので……」
ヒソヒソとした声に視線を戻すと、件の便箋が再び開かれていた。
「ぶっ……さすがIIM……」
笑いを噛み殺しながらこっちを向き、オレの視線に気づいた彼女は一瞬口元を引きつらせる。
が、すぐに開き直ったと見え、広げた紙を突き付けるようにこちらに近づいて来た。
「面白いけど仮にも看板息子がこれはいけません! 何とかしましょう! 黒蔵馬改造作戦です!」
「やっぱりそうなるんですね」
思わず呟くと、彼女は不思議そうに他の面々を見る。
「あ、もう処理済みですか?」
「し、処理? には失敗したんだけど……」
キョトンとする彼女に携帯が手渡される。
「あの、とりあえず名前変換を」
「ふぇ?……はい」
「蔵馬さん、ええと……このシーンをお願いします」
そしてこちらにはこれまた唐突に、日焼けして黄色くなったコピー用紙を渡される。
「……あの、これ」
「はい。もはや誰も更新されるなどと思ってもいない『飼いカノ』第4話の台本です」
「えっ? それってまだアップしてないんじゃ?」
「それが……」
彼女はメール画面をおずおずと差し出す。
『隣の部屋のデスクの上の右から2番目の書類立てに飼いカノの原稿が入ってるから予告よろしく(´ε`*) みま』
「若菜さん何かブッ込んできた……」
「っていうかタイミング読んでた……」
「密着しすぎて黄泉耳感染……?」
思わず頭を抱え込んだところで周囲の景色が一変する。
見慣れた学校の廊下に、先ほどの彼女が制服を着て、驚いたようにこちらを見ていたのだ。
「……あの……私、台本見てませんが……っていうかいいの?」
『ヒロインさんは立ってるだけでいいです。台詞はありません。蔵馬さんを夢改造するのを私たちが躊躇する理由を分かってもらいたいだけなので……多分それで予告になると思います』
どこかから声が響いてきたのでプロデューサーの存在は確認したが、懸念点はそのプロデューサーの声に投げやり感が滲んでいることだろうか。
『それでは蔵馬さん、お願いします。あ、ペットなのでヒロイン視点に切り替えます。後はよろしくですー』
「ええー!?」
9.唐突に飼いカノ次話の予告
「やっぱりやめましょう。眠れる獅子は睡眠薬を追加盛で檻の中に入れておくに限ります」
先ほどの彼女が青ざめた顔で頭を抱える脇で、周囲は感心したように原稿を囲んでいた。
「意外と予告になってましたね」
「最初はどうなることかと思ったけどね」
「あれ、でもここの部分」
「あら」
「どうしました?」
ヒロイン役を押し付けられた彼女の言葉に戸惑い、逃げるように原稿が差し出される。
「ここ、なんで唇にキスしなかったんですか?」
オレは受け取った原稿に目を落とす。
「キスしたら悪いかと思って」
皆が一斉に項垂れる中で、ヒロイン役の彼女だけが弾かれたように顔を上げる。
「ち、ちょっと待って……それは、私の様子を見て判断したと……」
頷いたオレを見て、彼女は見る間に顔を赤く染める。
「見!? 見てた!? 見られてた!? 鼻の毛穴見えた!?」
「いえ……」
「何で勝手に変えちゃうんですかー!」
「ヒロインを怒らせてストーリーを変えるよりはキスする場所を変える方が被害が少ないでしょう?」
「鼻汗は?!」
「蔵馬さん、もしかしていつもそうやってシナリオ変えているんですか?」
「美馬さんのシナリオ通りに動いていたら、そのうち警察を呼ばれます」
「鼻の皮脂は?!」
「いいえ」
原稿用紙を返して息をつく。
疲れた……。
椅子に腰を下ろして目を上げると、向かい側に座っていた彼女たちが慌てたように顔を背ける。
「もうだめ……久しぶりに本気の蔵馬を見てクラクラしてきた……」
「スイッチの入った蔵馬は凶器です……」
「はっきり言って社会の迷惑ですね」
「やっぱり黒蔵馬はもっさりしてるくらいがいいよ」
やはりこれは何か間違っているだろう。
いったいオレは何のためにここに連れてこられたのか。何をさせるつもりだったのか。
考えているとバカバカしくなる。
頬杖をつく手がこめかみ辺りまで移動したとき、突然に先ほどのヒロイン役が視界に割り込んできた。
「あの、ものすごく聞きづらいんですが、もしかして……鼻毛とか出てませんでした?」
この人は何故これほどまでに鼻を気にするのだろうか。それとも女性はそういうものなのか?
思わずその鼻を凝視すると、彼女は視線に気づいて慌てたように両手で鼻を覆う。
そう言えば、初対面で鼻血を吹いた女がいたな……
ソファの方に目をやると、その鼻血女を肩車した黄泉と二人のオレ、そして何故か金髪になったコエンマと数人の女性たちが、太極拳でもしているのか不思議なポーズで睨み合っていた。
途端に湧いてくる頭痛を手首で押さえながら目を逸らす。
……だが、案外あの鼻血がなければオレはここにはいなかったかもしれない。
「鼻毛は出ていませんでしたけれど……」
オレはそこで言葉をぼかして口元を覆う。
予想通りに目の前の彼女は取り乱してオレの手を掴んだ。
「けど? けど何っ? 何が出てたのっ!?」
「…………いえ、何も」
「いまの間は何!? お願い、教えて!!」
オレはついに堪えられなくなって笑い出す。
感情を押し殺す必要があったのは戦いが日常だった頃の話だった。
ある日突然そんな日常から放り出され、その習性だけが残った。
『大層に考え過ぎなんだわ』
その女は言った。
『幸せって案外ちんまりしててつまらないものよ』
もしかしたら恋愛小説というのは彼女の中でどうでもいいことだったのかもしれない。
『言ってるじゃない。人間生活をエンジョイしましょって』
だから結局、何故オレに白羽の矢が立ったのかは謎のままなのだが――
「笑ってる! どうしよう、笑ってる! 蔵馬が笑ってる! もう終わった! 私の人生終わった!」
「どっ、どうしたんですか?」
「私の鼻に異常事態が発生してませんか?!」
「鼻? 何もおかしいことないですよ」
「よく見てください! 鼻毛は? 毛穴は? 脂は? 鼻の穴広がってません? 液体が流出してませんか?!」
「大丈夫よ、普通以上にきれいな鼻よ」
「うん、ほんと鼻きれいですね。羨ましい」
「見ーなーいーでー!」
鼻を押さえて逃げ出そうとする彼女の二の腕を捕んで引きずり寄せる。
「見てと言ったり見ないでと言ったり、忙しい人ですね」
「……だから何で笑ったんですか」
「そうしたらどういう反応をするかと思って」
鼻を押さえることも忘れて目と口をぱくぱくさせる彼女の肩を抱き、女性陣が目を吊り上げる。
「鬼! 悪魔! 黒蔵魔!」
「乙女心を傷付けたら酷い目に遭うわよ!」
「女の敵だー!」
「若菜さんに変なネタ送ってやるんだから覚悟しときなさい!」
オレは降参の合図に軽く両手を上げ、脚を組みながら少しだけ体の向きを変える。
窓の外の夜の裾は少し白んでいるようだった。
毒にも薬にもならないようなお喋りを朝まで続けて何が楽しいものなのか。
千年以上も生きていながら、その心理が理解できるようになったのはつい数年前だ。
『私の知っている幸せは全部あげる』
なるほど確かにこれは相当にちんまりとつまらなく、下らなくてバカバカしくて無意味で無価値で……
「――なかなか、悪くない」
「え? 何か言いました?」
ついこぼれた呟きに彼女たちが振り返る。
オレは人間らしく誠意と感謝とを込めて微笑みを返す。
「楽しいと言ったんです」
瞬間、彼女たちは恐ろしいものでも見る様に押し黙り、心配そうに顔を寄せてくる。
「眠たいですか?」
「疲れましたか?」
「壊れましたか?」
「O-96900?」
「ブラウザの乱?」
オレは笑いながら立ち上がり、ポットに熱湯を注ぐ。
立ち上る湯気の向こうでは様々な笑顔が色とりどりに揺れている。
何気なく振り返ると、妖狐姿のオレが怪訝そうにこちらを睨んでいた。
ああ、お前は真っ白だな。
お前の眼にはこの部屋は、この世界は、どんな風に映っているのだろう。
そんな風にオレを睨むな。
オレはお前を裏切ったつもりもなければ切り捨てたつもりもない。
オレはお前だ。そうだろう?
彼の隙を狙っていたのだろう。一瞬の後にはその異形の耳に誰かの手が伸び、彼は眦を決してそちらを睨み据える。
オレは小さく笑ってカップを持ち上げた。
夜明け前の疲れた目にディンブラの赤は刺激が強い。
ふと飲み掛けのワイングラスに気付き、奥に寄せようと手を伸ばす。
グラスのフチには口紅がうっすらと残っていた。
そういえば赤信号は止マレの合図でもあったのだが……。
ティーカップに口をつけると微かな花の香りが鼻をくすぐる。
花の香りも赤い口紅も一日の終わりには洗い流してしまうのに、彼女たちは朝になればせっせとそれらをまとう。退屈な日常に鮮やかな色を差す。紅い唇に笑顔を浮かべて。
確かに止マレの合図だったのだろう。
訪れている毎日は常に同じものだと思っていたオレにとっては、その毎日を輝かせる工夫など無意味で不必要で、省いてまったく構わないものだった。
誰かがはしゃぎ過ぎて転びでもしたのか、小さい悲鳴と大きな笑い声が上がり、紅茶の表面に映っていた顔がさざ波にかき消される。
「わっ、やだ、こんな時間!」
黄泉の肩にどっかりと座り込んでいた美馬さんがハッとしたように掛け時計を見上げる。
その言葉を皮切りに、部屋中蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
「よ、夜が明けてしまいます!」
「窓の外がほんのり明るい!」
「ね、寝よう! とりあえず寝よう!」
慌てたように美馬さんがパン、と手を叩くと、いままで洋室だったはずの部屋が畳に障子張りの和室に変わる。
……何がどうなってるんだ?
「蔵馬ー! 家中の布団かき集めてきて!」
「……美馬さま、その前に、正座を……正座をさせてください……」
「お願いします……このまま寝てしまっては申し訳が……」
口々に彼女たちはペタン、ペタンと座っていくが、なぜか揃って縦に並んでいく。
それはゆるやかにカーブを描き、最後に座った彼女は、正座と言い出した彼女の目の前に座って謎の車座を完成させた。ただし全員が全員の背中を見ているが。
美馬さんも面白そうにその列に加わっていたが、黄泉に肩車されたままだったので戸愚呂兄弟が混ざりこんでいるようにしか見えなかった。
「ええー、お集りの皆様方……」
どこから突っ込んだらいいものかと考え込んでいると、誰かが芝居がかった口上を述べ始める。
「誠に申し訳なく……」
彼女が頭を下げると、オレと同じように車座を眺めていたオレのひとりがポン、と音を立てて消える。
ポン……ポン……オレたちは次々に姿を消し、残ったのは茶会参加者の女性たち以外には、オレひとりとコエンマ、海藤、それと美馬さんを肩に乗せた黄泉だけになっていた。
要するに……要するに、だ。
「蔵馬夢サイト」であるにもかかわらず、その「蔵馬」を閲覧者たちから提供させていたというオチだったのだ。
なんという非常識だろう。
しかも接待はその彼らに任せてホストたる管理人は大半つぶれて寝ていたと来た。
さすがにこれはひとこと言ってやらないと……とは思うのだが、時間が時間だ。
参加者たちを休ませることのほうが優先だった。
とりあえず布団だ。
茶室を出ようとすると、再び美馬さんの声がかかる。
「蔵馬さん、蔵馬さん、布団を出してあげてください」
「だからいま……」
振り返った先で、押入れを開けている背中が目に飛び込んでくる。
「押し入れ……なんてありましたか?」
「いま作った」
おかしいだろう。いくら何でもご都合主義の濫用だ。
「ほら、コエンマさまも働いて……って、ここで寝ちゃダメ! 野郎は管理人室! 黄泉さま! ネグリジェはいらないから!」
ゲストのはずの女性たちがえっさほいさとかいがいしく布団を敷き、あっという間に茶室は修学旅行の寝室の様相と化した。
「限界迎えてる人はお布団にダイブ! シャワー浴びたい人は……あ、ひとりひとりだと遅くなるか……黄泉さま、癌陀羅の大浴場使わせてくれる? ついでに着替えもよろしく! では、解散!」
風呂に入るために魔界……? いいのか、それで。
しかし黄泉は満面の笑みで魔界の穴を開いている。
10.黒猫飛影の宅急便
じっと立ち尽くすオレを振り返り、誰かが足を止める。
「蔵馬も一緒に入りません?」
「……は?」
低い声で聞き返すと、女性たちがオレを取り囲む。
「そうしましょ。しょっちゅう茶室でお風呂入ってるんですし」
「この時間なら他にお客さんもいませんよ、きっと」
「全裸バトンだってした仲でしょ? いまさらですよ」
この世界のどこにヒロインに大浴場の女湯に誘われる男がいるんだ。
しかも全員、ふざけているわけではなく真顔だ。
なんなんだ、このサイトは。
「入りません」
「ポロリもあるよ?」
「ありません」
「ちぇー」
「ぴんくらま呼びましょ、ぴんくらま」
「私は水を吸ってシュンとなった妖狐さまが見たいです」
「今日妖狐さま呼んだの誰でしたっけ?」
「もう面倒くさいから全員呼び戻しちゃうのは?」
「乱交ですね!」
「あら、うふふ」
「そっ、それをいうなら混浴です!」
ここは全年齢対象サイトではなかったか?
ガヤガヤと茶室を出ていく女性たちを見送り、オレは額を押さえる。
「若菜さん~。私限界なので寝ます~」
「うん、うん。シャワーは朝うちの使ったらいいよ。おやすみ。いい夢をね」
「私も風呂キャンします~。おやすみなさい~」
「おやすみ~。チュッ!」
なぜ管理人(女)がヒロインにおやすみのキスをしているんだ。
「……どしたの蔵馬。頭の頭痛が痛いの?」
ようやくオレに気付いたのか、美馬さんが不思議そうにこちらを見上げている。
「どこからつっこんだらいいのかわからないんです」
「何が……って、ちょっと、私も癌陀羅のゴージャス風呂でウッフンバスタイムなんだからクソ長いお説教とかやめてよね」
「その胸で何がウッフンですか」
だいたい、どうしてオレがヒロインでもない女性の胸のサイズを知っている。
「殺……!!」
「若菜さー……って、何やってるんですか!」
「コロス! コロス!」
なぜ管理人がオレを殺そうとしているんだ。
「誰かー! 白蔵馬さま呼んできてー!」
「おや、どうしたんです?」
「聞いてよ蔵馬、この蔵馬がひどいのよ!」
どうして美馬さんとオレの喧嘩をオレが仲裁しているんだ。
「それは黒さんが悪いです」
「乙女心はデリケートなんですよ!」
「蔵馬サイテー」
どうしてオレの援護がいない。
「どうした蔵馬、若菜に嫉妬か?」
不意に隣からかかった声に反射的に腹が立つ。
「別に」
黄泉はそんなオレにニヤリと笑うと、再び顔を女性たちのほうに向けた。
「女たちが元気で楽しそうな国は良い国だ」
「……は?」
「しかもこんな時間にだぞ。こんな国を目指したいものだ」
すっとぼけた台詞を吐いたあと、まるでアザラシの群れのように女性たちを連れて行く。
……まあ、黄泉の言わんことも分からないではない。
それに……。
思わずため息が出る。学生時代のことを思い出したからだ。
女の戦いを繰り広げられるよりは手を組んでオレをハメにくるほうが何千倍も好ましいではないか。
「良い国……か」
なるほど、そういうことにしておいてやろう。
しかし、それでも、どうしても。
オレは最後尾をあくびまじりに歩く美馬さんの腕を掴んでこう言わずにはいられなかった。
今夜ずっとずっと我慢していたこの言葉を。
「間違ってるだろ、このサイト」
20251228
そういえば10年前のあのときも、こちらが聞くまでそのことを伏せたままだった。
先に言えばオレが逃げると踏んで、先に出演許可を取ろうという魂胆だろうと思っていた。
しかし、もしかしたらそうではなく、そこまでのやりとりでオレには恋愛の相手役には向かないと判断したのかもしれない。
妙にギャグ夢が増えていくのもそれなら納得がいく。
しかし、それなら何故とっとと切り上げて別の適任者を探しに行かなかったのか……。
背中を反らせるようにして大テーブルの方を伺う。
まだ裏のある笑顔を浮かべて言い合いを続けているふたりのオレの真ん中で、その女はテーブルにぐったりと俯せていた。
『……振り回されるならあなたがいい』
別にどうというセリフでもなかろうに、しばらくこちらが向けなくなるほど赤くなっていたようだった。
念願叶ってあんなにも熱烈に、それもふたりがかりで振り回されたというのに全く嬉しそうに見えない。
『蔵馬がいてくれればそれでいい』
いったい彼女は何故そんなにもオレにこだわったのか――。
7.黒蔵馬改造大作戦
謎フレーズを連発しながら絡みついてくるクロをあやしつつ、再びテーブルの方に視線をやると、気持ちよさそうに熱弁していた”点”がたまたまこちらを向いて目が合う。
オレは、俯せている美馬さんを黙って指差す。
彼は不思議そうにその先を見て、慌てたように彼女の肩を揺さぶる。
その様子にビクッとしたが、すぐに白のオレが気付いてもう片側に座ってくれた。
俯せてつぶれている酔っ払いを揺さぶったら大惨事が起こると予想できないだろうか。”点”はたまに抜けている。
しかし、彼があれだけの票を集めたということは、そういうところもまた魅力のひとつなのだろうか。普段が完璧なだけに。
ぼんやりと観察していると、今度は白の方が美馬さんを抱え起こし、立ち上がらせようとしている。トイレにでも連れて行く気かもしれない。
そこに逆側から”点”が手を伸ばし、再び攻防が始まる。
オレは見なかったことにしようと真っ直ぐに座り直したが、やがて舌打ちをしたい気分で立ち上がっていた。
「すみません、ちょっと」
「蔵馬、トイレに行くときは『お花を摘みに行く』って言うのよ」
「オレはお嬢様になる気はありませんよ」
迷プロデュースから逃れてテーブルを回り、ふたりのオレの肩に両手を置く。
「盛り上がっているところを悪いんだが、ソレを立たせないでください。ウェッジウッドが瓦礫になる」
その言葉にふたりはハッとしたように手を離し、酔っ払いは再びテーブルに突っ伏せそうになる。
首に腕を伸ばして背もたれに張り付けるとカエルのような呻き声が上がったが、構わず無理やり椅子を引き、背中と膝の下に腕を入れて抱え上げる。
「俯せもやめてください。リバースします」
「……く、蔵馬?」
薄く眼を開けた酔っ払いが人の顔を見るなり顔を引きつらせる。
しかし、両隣から同じ顔がふたつ追加で視界に入り込んだため、彼女は額を押さえて目を閉じてしまった。
「すみません、美馬。大丈夫ですか」
「こんなものはどこかに転がしておけば勝手に復活します」
言いながらソファに向かうが、そこでは大の男が長々と寝そべって占領していた。
「……床でいいですね」
「やめて、寒い……」
一度は床に膝をついてみたが、確かにこの人は特異体質で酒を飲むと体温が下がるのだ。下手をすると死ぬ。
周囲を見回していると4本の腕が伸びてくる。
「気分が良くなるまでオレが抱いていましょう」
渡してしまいたいのは山々だが、そうしたら今度はこの酔っ払いでキャッチボールを始めるだろう。
オレは彼らから離れ、黄泉に膝枕をしたままコクコクと舟を漕いでいる彼女の耳元に頬を寄せる。
「疲れたでしょう。眠いようなら隣の部屋で休んでください。客用の布団を出しますから」
彼女はハッとしたように立ち上がり、オレは咄嗟に脛で黄泉の頭を押さえた。
どうやら彼は本当に眠り込んでいたようでそれでも指一本動かさない。
「私、眠ってたのか……いえいえ、私まだまだ話したりませんもの! って……黒蔵馬か……何してるの?」
黄泉の上に酔っ払いを下ろして、オレは彼女を見上げる。
「仰向けで寝かせることができて暖かい場所と言ったらここしかないので」
「蔵馬……あなた……美馬様は女性なのよ。黄泉様が襲われちゃうじゃない」
「大丈夫です。どっちも若いのが好みですから」
「……それもそうか。で? こっちの蔵馬たちは何をさっきからワイワイと……」
「ちょうど良かった。女性の意見を聞かせてください」
点と白のオレに捕まってしまった彼女を救出しようかと逡巡したが、仮眠を取って多少体力を回復したと見られ、彼らを圧倒する勢いで喋りだす。
そのままそこを離れ元の席に戻ると、先ほどの彼女たちは何故か打って変わったようによそ行きの微笑みを浮かべた。
「……どうしたんですか」
「え、どうもしてないよ」
誰かが短く答えたきり、彼女たちはティーカップを揺らしたりケーキをつついたりして、落ち着かない視線を交わし合っていた。
「オレ、またおかしなことを言いましたか?」
「『また』って」
「自分で言っちゃうんだ?」
やはり妙だ。先ほどまでの勢いがない。
「本当にどうしたんですか。急におとなしくなって」
「別に……」
「何でもないよね」
また何か企んでいるんだろうか。
口元を覆って考えていると、肩に手が乗る。
「みんな急に乙女モードになっちゃって、会話が弾みませんね。蔵馬さんのせいですよ」
不審に思って見上げると、ワイングラスを手にした彼女は少し眉を上げる。
「急にいいところ見せるから」
「いいところ?」
彼女は背中を向けると、オレが座っている椅子の背もたれに寄りかかってソファの方に視線を流す。
「男二人に奪い合われる酔っぱら……コホン、困惑するか弱き乙女を颯爽とお姫様抱っこでさらう、元伝説の美形怪盗!」
怪盗……と呼ばれた過去はないし、奪い合っていたのも元伝説のナントカなんだが……。そもそもか弱き乙女とは誰のことだ。
「破裂寸前のゴミ袋を焼却炉に移動しただけです」
「蔵馬さんはそのおつもりでも、私たちにとって若菜さんは女の子。日頃からもっと優しくしてあげていたらあんな順位にはならなかったのに」
誰かが新しくいれてくれたのだろう。手を伸ばした先にあったカップはまだ熱かった。
「オレはあの順位でホッとしました」
「蔵馬さんはこれっぽっちもモテようなんて思ってくださらないんですね」
椅子の背が小さく軋む。
「若菜さんも、あなたの標準形態がいかに素敵な人かってことは書くのに、シリアスな話になればなるほどダメなところばかり強調する気がするんです。意外と短気だったり、独善的だったり、子供っぽかったり、面倒くさがりだったり」
「それがオレですから」
背後で深いため息が響く。
「……若菜さんってつくづくドM。どうして言わないのかしら」
「何をですか」
不思議に思って振り向くと、彼女も少しこちらに横顔を向け、艶っぽい目の端にオレを映す。
「でも、こういうもどかしさがこのサイトの醍醐味なのかも」
「……教える気はないんですね」
「私、若菜さんの楽しみを邪魔する気はないから……だから、そうですね。蔵馬さんはモテようなんて思わなくていいの。格好いいけど格好悪い蔵馬さんでいてくださいね」
……この人は美馬さんの味方なのかそうでないのか……。
ある意味で利害は一致するかもしれないが、常識があって頭脳が明晰な分、美馬さん以上に痛い目に遭わされそうな気もする。オレは早々に白旗を上げた。
「美馬さんが言っていました。幸せにしようとか、幸せになろうとか頑張らなくていいと。冴えないオレのままで普通にしていてくれればそれでいいんだそうです」
「やっぱり若菜さんと私って以心伝心!」
彼女は上機嫌でグラスの腹に口づけると中身を一気に飲み干した。
「えっ、なになに? なんですか?」
彼女は満足げに微笑んで、空いている椅子に腰を下ろす。
「若菜さんってカワイイ人だって話です」
輪の中に新しい顔と話題が入ってきたことで、ようやくそこにいた彼女たちの表情が柔らかく色づき始める。
「でも、皆さんもカワイイですよ。借りてきた猫みたいになっちゃって」
「やっ、やめてくださいー!」
「しー! しーっ!」
「若いって素晴らしい……」
「あ、姿を見ないと思ったらこんなところに。黒蔵馬とヒロインの奪い合いですか?」
また新しく人が増え、春の花が次々と開くように場が活気づいていく。
「……だからですね。最初から恋人設定で始まる夢もいいけれど、友達から始まって意地を張ったり勘違いしたりですれ違ってイライラするのもアリでしょう?」
「甘酸っぱいですね」
「ザ・青春!」
「あー、いきなりエロで始まってエロだけで終わるエロてんこ盛りのエロ小説より、キスが異様に長くてエロは数行だけの方がエロかったりすることありますしね!」
「あああ……話題が深夜です……」
「ぎゃ! すみません、さっきまでぴんくらまと一緒に領域に閉じ込められてたから」
「ぴんくらまさん、ピー音ばっかりでろくにお話できませんでした……」
振り返って例の一角を見ると、遂に彼は海藤と一対一の禁句対決に突入したようだった。
「……えっ、これ出しちゃっていいんですか?」
「もう見られちゃったので……」
ヒソヒソとした声に視線を戻すと、件の便箋が再び開かれていた。
「ぶっ……さすがIIM……」
笑いを噛み殺しながらこっちを向き、オレの視線に気づいた彼女は一瞬口元を引きつらせる。
が、すぐに開き直ったと見え、広げた紙を突き付けるようにこちらに近づいて来た。
「面白いけど仮にも看板息子がこれはいけません! 何とかしましょう! 黒蔵馬改造作戦です!」
「やっぱりそうなるんですね」
思わず呟くと、彼女は不思議そうに他の面々を見る。
「あ、もう処理済みですか?」
「し、処理? には失敗したんだけど……」
キョトンとする彼女に携帯が手渡される。
「あの、とりあえず名前変換を」
「ふぇ?……はい」
「蔵馬さん、ええと……このシーンをお願いします」
そしてこちらにはこれまた唐突に、日焼けして黄色くなったコピー用紙を渡される。
「……あの、これ」
「はい。もはや誰も更新されるなどと思ってもいない『飼いカノ』第4話の台本です」
「えっ? それってまだアップしてないんじゃ?」
「それが……」
彼女はメール画面をおずおずと差し出す。
『隣の部屋のデスクの上の右から2番目の書類立てに飼いカノの原稿が入ってるから予告よろしく(´ε`*) みま』
「若菜さん何かブッ込んできた……」
「っていうかタイミング読んでた……」
「密着しすぎて黄泉耳感染……?」
思わず頭を抱え込んだところで周囲の景色が一変する。
見慣れた学校の廊下に、先ほどの彼女が制服を着て、驚いたようにこちらを見ていたのだ。
「……あの……私、台本見てませんが……っていうかいいの?」
『ヒロインさんは立ってるだけでいいです。台詞はありません。蔵馬さんを夢改造するのを私たちが躊躇する理由を分かってもらいたいだけなので……多分それで予告になると思います』
どこかから声が響いてきたのでプロデューサーの存在は確認したが、懸念点はそのプロデューサーの声に投げやり感が滲んでいることだろうか。
『それでは蔵馬さん、お願いします。あ、ペットなのでヒロイン視点に切り替えます。後はよろしくですー』
「ええー!?」
9.唐突に飼いカノ次話の予告
「やっぱりやめましょう。眠れる獅子は睡眠薬を追加盛で檻の中に入れておくに限ります」
先ほどの彼女が青ざめた顔で頭を抱える脇で、周囲は感心したように原稿を囲んでいた。
「意外と予告になってましたね」
「最初はどうなることかと思ったけどね」
「あれ、でもここの部分」
「あら」
「どうしました?」
ヒロイン役を押し付けられた彼女の言葉に戸惑い、逃げるように原稿が差し出される。
「ここ、なんで唇にキスしなかったんですか?」
オレは受け取った原稿に目を落とす。
「キスしたら悪いかと思って」
皆が一斉に項垂れる中で、ヒロイン役の彼女だけが弾かれたように顔を上げる。
「ち、ちょっと待って……それは、私の様子を見て判断したと……」
頷いたオレを見て、彼女は見る間に顔を赤く染める。
「見!? 見てた!? 見られてた!? 鼻の毛穴見えた!?」
「いえ……」
「何で勝手に変えちゃうんですかー!」
「ヒロインを怒らせてストーリーを変えるよりはキスする場所を変える方が被害が少ないでしょう?」
「鼻汗は?!」
「蔵馬さん、もしかしていつもそうやってシナリオ変えているんですか?」
「美馬さんのシナリオ通りに動いていたら、そのうち警察を呼ばれます」
「鼻の皮脂は?!」
「いいえ」
原稿用紙を返して息をつく。
疲れた……。
椅子に腰を下ろして目を上げると、向かい側に座っていた彼女たちが慌てたように顔を背ける。
「もうだめ……久しぶりに本気の蔵馬を見てクラクラしてきた……」
「スイッチの入った蔵馬は凶器です……」
「はっきり言って社会の迷惑ですね」
「やっぱり黒蔵馬はもっさりしてるくらいがいいよ」
やはりこれは何か間違っているだろう。
いったいオレは何のためにここに連れてこられたのか。何をさせるつもりだったのか。
考えているとバカバカしくなる。
頬杖をつく手がこめかみ辺りまで移動したとき、突然に先ほどのヒロイン役が視界に割り込んできた。
「あの、ものすごく聞きづらいんですが、もしかして……鼻毛とか出てませんでした?」
この人は何故これほどまでに鼻を気にするのだろうか。それとも女性はそういうものなのか?
思わずその鼻を凝視すると、彼女は視線に気づいて慌てたように両手で鼻を覆う。
そう言えば、初対面で鼻血を吹いた女がいたな……
ソファの方に目をやると、その鼻血女を肩車した黄泉と二人のオレ、そして何故か金髪になったコエンマと数人の女性たちが、太極拳でもしているのか不思議なポーズで睨み合っていた。
途端に湧いてくる頭痛を手首で押さえながら目を逸らす。
……だが、案外あの鼻血がなければオレはここにはいなかったかもしれない。
「鼻毛は出ていませんでしたけれど……」
オレはそこで言葉をぼかして口元を覆う。
予想通りに目の前の彼女は取り乱してオレの手を掴んだ。
「けど? けど何っ? 何が出てたのっ!?」
「…………いえ、何も」
「いまの間は何!? お願い、教えて!!」
オレはついに堪えられなくなって笑い出す。
感情を押し殺す必要があったのは戦いが日常だった頃の話だった。
ある日突然そんな日常から放り出され、その習性だけが残った。
『大層に考え過ぎなんだわ』
その女は言った。
『幸せって案外ちんまりしててつまらないものよ』
もしかしたら恋愛小説というのは彼女の中でどうでもいいことだったのかもしれない。
『言ってるじゃない。人間生活をエンジョイしましょって』
だから結局、何故オレに白羽の矢が立ったのかは謎のままなのだが――
「笑ってる! どうしよう、笑ってる! 蔵馬が笑ってる! もう終わった! 私の人生終わった!」
「どっ、どうしたんですか?」
「私の鼻に異常事態が発生してませんか?!」
「鼻? 何もおかしいことないですよ」
「よく見てください! 鼻毛は? 毛穴は? 脂は? 鼻の穴広がってません? 液体が流出してませんか?!」
「大丈夫よ、普通以上にきれいな鼻よ」
「うん、ほんと鼻きれいですね。羨ましい」
「見ーなーいーでー!」
鼻を押さえて逃げ出そうとする彼女の二の腕を捕んで引きずり寄せる。
「見てと言ったり見ないでと言ったり、忙しい人ですね」
「……だから何で笑ったんですか」
「そうしたらどういう反応をするかと思って」
鼻を押さえることも忘れて目と口をぱくぱくさせる彼女の肩を抱き、女性陣が目を吊り上げる。
「鬼! 悪魔! 黒蔵魔!」
「乙女心を傷付けたら酷い目に遭うわよ!」
「女の敵だー!」
「若菜さんに変なネタ送ってやるんだから覚悟しときなさい!」
オレは降参の合図に軽く両手を上げ、脚を組みながら少しだけ体の向きを変える。
窓の外の夜の裾は少し白んでいるようだった。
毒にも薬にもならないようなお喋りを朝まで続けて何が楽しいものなのか。
千年以上も生きていながら、その心理が理解できるようになったのはつい数年前だ。
『私の知っている幸せは全部あげる』
なるほど確かにこれは相当にちんまりとつまらなく、下らなくてバカバカしくて無意味で無価値で……
「――なかなか、悪くない」
「え? 何か言いました?」
ついこぼれた呟きに彼女たちが振り返る。
オレは人間らしく誠意と感謝とを込めて微笑みを返す。
「楽しいと言ったんです」
瞬間、彼女たちは恐ろしいものでも見る様に押し黙り、心配そうに顔を寄せてくる。
「眠たいですか?」
「疲れましたか?」
「壊れましたか?」
「O-96900?」
「ブラウザの乱?」
オレは笑いながら立ち上がり、ポットに熱湯を注ぐ。
立ち上る湯気の向こうでは様々な笑顔が色とりどりに揺れている。
何気なく振り返ると、妖狐姿のオレが怪訝そうにこちらを睨んでいた。
ああ、お前は真っ白だな。
お前の眼にはこの部屋は、この世界は、どんな風に映っているのだろう。
そんな風にオレを睨むな。
オレはお前を裏切ったつもりもなければ切り捨てたつもりもない。
オレはお前だ。そうだろう?
彼の隙を狙っていたのだろう。一瞬の後にはその異形の耳に誰かの手が伸び、彼は眦を決してそちらを睨み据える。
オレは小さく笑ってカップを持ち上げた。
夜明け前の疲れた目にディンブラの赤は刺激が強い。
ふと飲み掛けのワイングラスに気付き、奥に寄せようと手を伸ばす。
グラスのフチには口紅がうっすらと残っていた。
そういえば赤信号は止マレの合図でもあったのだが……。
ティーカップに口をつけると微かな花の香りが鼻をくすぐる。
花の香りも赤い口紅も一日の終わりには洗い流してしまうのに、彼女たちは朝になればせっせとそれらをまとう。退屈な日常に鮮やかな色を差す。紅い唇に笑顔を浮かべて。
確かに止マレの合図だったのだろう。
訪れている毎日は常に同じものだと思っていたオレにとっては、その毎日を輝かせる工夫など無意味で不必要で、省いてまったく構わないものだった。
誰かがはしゃぎ過ぎて転びでもしたのか、小さい悲鳴と大きな笑い声が上がり、紅茶の表面に映っていた顔がさざ波にかき消される。
「わっ、やだ、こんな時間!」
黄泉の肩にどっかりと座り込んでいた美馬さんがハッとしたように掛け時計を見上げる。
その言葉を皮切りに、部屋中蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
「よ、夜が明けてしまいます!」
「窓の外がほんのり明るい!」
「ね、寝よう! とりあえず寝よう!」
慌てたように美馬さんがパン、と手を叩くと、いままで洋室だったはずの部屋が畳に障子張りの和室に変わる。
……何がどうなってるんだ?
「蔵馬ー! 家中の布団かき集めてきて!」
「……美馬さま、その前に、正座を……正座をさせてください……」
「お願いします……このまま寝てしまっては申し訳が……」
口々に彼女たちはペタン、ペタンと座っていくが、なぜか揃って縦に並んでいく。
それはゆるやかにカーブを描き、最後に座った彼女は、正座と言い出した彼女の目の前に座って謎の車座を完成させた。ただし全員が全員の背中を見ているが。
美馬さんも面白そうにその列に加わっていたが、黄泉に肩車されたままだったので戸愚呂兄弟が混ざりこんでいるようにしか見えなかった。
「ええー、お集りの皆様方……」
どこから突っ込んだらいいものかと考え込んでいると、誰かが芝居がかった口上を述べ始める。
「誠に申し訳なく……」
彼女が頭を下げると、オレと同じように車座を眺めていたオレのひとりがポン、と音を立てて消える。
ポン……ポン……オレたちは次々に姿を消し、残ったのは茶会参加者の女性たち以外には、オレひとりとコエンマ、海藤、それと美馬さんを肩に乗せた黄泉だけになっていた。
要するに……要するに、だ。
「蔵馬夢サイト」であるにもかかわらず、その「蔵馬」を閲覧者たちから提供させていたというオチだったのだ。
なんという非常識だろう。
しかも接待はその彼らに任せてホストたる管理人は大半つぶれて寝ていたと来た。
さすがにこれはひとこと言ってやらないと……とは思うのだが、時間が時間だ。
参加者たちを休ませることのほうが優先だった。
とりあえず布団だ。
茶室を出ようとすると、再び美馬さんの声がかかる。
「蔵馬さん、蔵馬さん、布団を出してあげてください」
「だからいま……」
振り返った先で、押入れを開けている背中が目に飛び込んでくる。
「押し入れ……なんてありましたか?」
「いま作った」
おかしいだろう。いくら何でもご都合主義の濫用だ。
「ほら、コエンマさまも働いて……って、ここで寝ちゃダメ! 野郎は管理人室! 黄泉さま! ネグリジェはいらないから!」
ゲストのはずの女性たちがえっさほいさとかいがいしく布団を敷き、あっという間に茶室は修学旅行の寝室の様相と化した。
「限界迎えてる人はお布団にダイブ! シャワー浴びたい人は……あ、ひとりひとりだと遅くなるか……黄泉さま、癌陀羅の大浴場使わせてくれる? ついでに着替えもよろしく! では、解散!」
風呂に入るために魔界……? いいのか、それで。
しかし黄泉は満面の笑みで魔界の穴を開いている。
10.黒猫飛影の宅急便
じっと立ち尽くすオレを振り返り、誰かが足を止める。
「蔵馬も一緒に入りません?」
「……は?」
低い声で聞き返すと、女性たちがオレを取り囲む。
「そうしましょ。しょっちゅう茶室でお風呂入ってるんですし」
「この時間なら他にお客さんもいませんよ、きっと」
「全裸バトンだってした仲でしょ? いまさらですよ」
この世界のどこにヒロインに大浴場の女湯に誘われる男がいるんだ。
しかも全員、ふざけているわけではなく真顔だ。
なんなんだ、このサイトは。
「入りません」
「ポロリもあるよ?」
「ありません」
「ちぇー」
「ぴんくらま呼びましょ、ぴんくらま」
「私は水を吸ってシュンとなった妖狐さまが見たいです」
「今日妖狐さま呼んだの誰でしたっけ?」
「もう面倒くさいから全員呼び戻しちゃうのは?」
「乱交ですね!」
「あら、うふふ」
「そっ、それをいうなら混浴です!」
ここは全年齢対象サイトではなかったか?
ガヤガヤと茶室を出ていく女性たちを見送り、オレは額を押さえる。
「若菜さん~。私限界なので寝ます~」
「うん、うん。シャワーは朝うちの使ったらいいよ。おやすみ。いい夢をね」
「私も風呂キャンします~。おやすみなさい~」
「おやすみ~。チュッ!」
なぜ管理人(女)がヒロインにおやすみのキスをしているんだ。
「……どしたの蔵馬。頭の頭痛が痛いの?」
ようやくオレに気付いたのか、美馬さんが不思議そうにこちらを見上げている。
「どこからつっこんだらいいのかわからないんです」
「何が……って、ちょっと、私も癌陀羅のゴージャス風呂でウッフンバスタイムなんだからクソ長いお説教とかやめてよね」
「その胸で何がウッフンですか」
だいたい、どうしてオレがヒロインでもない女性の胸のサイズを知っている。
「殺……!!」
「若菜さー……って、何やってるんですか!」
「コロス! コロス!」
なぜ管理人がオレを殺そうとしているんだ。
「誰かー! 白蔵馬さま呼んできてー!」
「おや、どうしたんです?」
「聞いてよ蔵馬、この蔵馬がひどいのよ!」
どうして美馬さんとオレの喧嘩をオレが仲裁しているんだ。
「それは黒さんが悪いです」
「乙女心はデリケートなんですよ!」
「蔵馬サイテー」
どうしてオレの援護がいない。
「どうした蔵馬、若菜に嫉妬か?」
不意に隣からかかった声に反射的に腹が立つ。
「別に」
黄泉はそんなオレにニヤリと笑うと、再び顔を女性たちのほうに向けた。
「女たちが元気で楽しそうな国は良い国だ」
「……は?」
「しかもこんな時間にだぞ。こんな国を目指したいものだ」
すっとぼけた台詞を吐いたあと、まるでアザラシの群れのように女性たちを連れて行く。
……まあ、黄泉の言わんことも分からないではない。
それに……。
思わずため息が出る。学生時代のことを思い出したからだ。
女の戦いを繰り広げられるよりは手を組んでオレをハメにくるほうが何千倍も好ましいではないか。
「良い国……か」
なるほど、そういうことにしておいてやろう。
しかし、それでも、どうしても。
オレは最後尾をあくびまじりに歩く美馬さんの腕を掴んでこう言わずにはいられなかった。
今夜ずっとずっと我慢していたこの言葉を。
「間違ってるだろ、このサイト」
20251228