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どうやら学校の廊下のようだった。目の前の蔵馬が着ている制服からして盟王高校ではなかろうかと……。
日はまだ高いけれど窓の外からは掛け声やボールの音が聞こえるし、どこかで退屈な音階をなぞるラッパの音も響いているから放課後なのだろう。
「うん」
脈絡もなく突然蔵馬は頷く。
そう言って頷いたからには何かを了解したか納得したということなのだからして……
私は周囲を見回す。他には誰もいない。
うん、何かよく分かんないけど蔵馬は私の言葉に頷いてくれた。
……が、なんと薄情なことに次の瞬間私に背を向けちゃったんですよ!!
わっ、ちょっと待って!
呼び止めそうになったけれど、さっき言われたことを思い出して言葉を飲み込む。
私はきっと何も言っちゃいけないに違いない。きっとどうにかなる。っていうかどうにかして!!
私の願いが届いたのかシナリオだったのかは甚だ謎だけど、蔵馬は思い直したようにこちらを振り返った。
「莉花ちゃんだけど、夏希が心配するようなことは何もないよ」
はい~?
またしても出掛けた言葉を飲み下し、必死で記憶の糸を辿った。
誰だっけ、誰だっけ、莉花って誰だっけ!?
何か前回の飼いカノのラストにいかにもな美少女が出てきた気がするんだけど、あの人か? でも彼女って「み」とか付く名前じゃなかったっけ?
それ以前に更新の間が空き過ぎだってば若菜さん!
ここにいる人の中で飼いカノの存在自体覚えている人が何人いるかって話……。
その上前回の話の内容まで覚えてる人なんてひとりもいない! 断言する! 少なくとも私は忘れた! 思い出すのは無理!
……となると状況判断しか手が……。
私はまじまじと目の前の蔵馬を観察する。
……相変わらずものすごい色の制服ですこと……久しぶりに見た気がする、この学ラン。さっきも一瞬この姿が見えたんだけど、何か変な恰好してたし。
さらに視線を上に向けると、バッチリと目が合ってしまった。
当たり前っちゃあ当たり前ですけどね。
ああ、死にそう。ここのヒロインやるのだって久しぶりですよ。
何年たっても非の打ち所がない完璧な美少年っぷりは若菜さんの執念としか……もちろんさっきまでの黒蔵馬と同じブツではあるんだけど、さっきまでのは全くやる気がなかったし……。
やる気モードの黒蔵馬さんはヤバいですね。
愛する彼女にはこんな色っぽくて優しい顔するんですね。
顔は同じなのにいったい何が違うんだ?
美術館に並ぶ絵画や彫刻でも眺めるような気分でいた私は、そのまばたきにビクッとして目を逸らす。
そ……そういや、その彼女っていま私じゃありませんでしたっけ!
あれ、いま蔵馬なんて言った?
確か心配すんなって言った。
ああ、じゃあ心配した顔しとかなきゃいけないわけね。こりゃまた失礼。
きっとアレだ。莉花ちゃんとやらが何か大変なことになってんだ。
話は忘れたけど幽白だし、きっと妖怪に襲われたんだ。
そりゃ大変! 心配っスね……違う違う、心配だわ!
しかしそんな一大事にも関わらず、蔵馬は穏やかな微笑みを浮かべたままこちらを見ている。
あれ……私の台詞待ちとかじゃない、よね? 立ってるだけって言ってたもんね。
しかし立ってるだけとはいえ、こうやって見られているのはかなり緊張するんだけど……ん?
確かに蔵馬は彼らしい優しげな微笑みを浮かべていたけれど、向こうは向こうで何か緊張しているような雰囲気もある。
見られているというよりは観察されているような……
あれ、これってもしかして腹の探り合い的な?
私は慌てて目を伏せる。
くっそ、ヒロインちゃん、蔵馬と心理戦なんてするほど彼女スキル上げてたとは……
「夏希?」
蔵馬の声が聞こえ、視界に彼の上履きの先が入り込む。
ひぃ! 来た!
観念して顔を上げると、目の前に翡翠色の瞳があった。
近い! 近い! 心臓に悪い!
とはいえ恋人設定とあらば、ここで目を逸らすのは負けだ私!
私は踏ん張るようにして顔の位置を固定する。
けれどもう先ほどの探るような光はその眼にはなかった。
まるで丁寧に整えたかのような美しいラインを描いた眉がほんの少しだけ寄ってそこに心配げな影を落としている。
……本当に、この人はヒロインのことが可愛くて、大事で、どうにもならないくらい好きなんだろうな……いいなあ……
『すみません、ヒロインは夏希さんです』
見るに見かねたのか、唐突に先ほどの声が脳内に響き、顔が瞬間的に赤くなる。
やめて! そこ考えないようにしてたんだから!
「ごめん……」
蔵馬は思い詰めたような表情で私の眼を覗き込む。
その美貌は無情にもさらに近付き、まつ毛の一本一本まで観察できるほどなのに、アラのひとつも見つけられない。
毛穴とかヒゲとかどうなってんだコレ。
迂闊にも観察してしまったのが運の尽き。
こうなってしまうとまばたきすらも憚られ、ただ目を見開いたまま息を殺すくらいしかできないほどに追い詰められてしまった。
「もしかして、不安にさせた?」
はい、激しく不安を掻き立てられております。
鼻息掛かったらどうしようとか、鼻に脂浮いてたらどうしようとか、鼻の毛穴見られたらどうしようとか、鼻毛出てたらどうしようとか、鼻血吹いたらどうしようとか……
『夏希さん、鼻のことは忘れてください。これは夢なんです。いいですか? 夢の中でパイロットになろうが総理大臣になろうがウルトラマンになろうが誰もバカにしないし、誰に迷惑も掛かりません。蔵馬の最愛の恋人になってもです。せっかくそんな素敵な恋人といるのに酔わないなんてもったいないです。鼻が邪魔なら取ったらいいんです』
こ……恋人……こんな物凄いのの恋人になっても誰も怒らない……。
むしろこれの恋人にならないと、今に限っては怒られる……という据え膳……。
私は目の前の麗しの微笑みを見てゴクッと息を飲む。
そう、そうだ夏希! おまえには鼻がないじゃないかっ!!
心の中で叫んだ瞬間だった。
たぶん、ほんの数ミリも動いてはいないと思う。
ただちょっとだけさっきより深く息を吸ったか吐いたか程度だろうと思うんだけど、わずかに蔵馬の頬の角度が変わり、私はそれだけで飛び跳ねそうになるほど焦って汗をにじませた。
……むしろバカにして欲しいんですが……笑って欲しいんですが……怒って邪魔して止めて欲しいんですが……。
自分の恋人、つまり同次元の生き物などと思うとなおさらあり得ない。美しすぎる。
蔵馬の髪と瞳は黒であると主張する原作派と、あのサイケデリックなカラーリングのアニメ支持派と、両方の感情を逆撫でしないようにと知恵を絞り、ギリギリまで彩度を押さえたに違いない、深い深い暗緑色の瞳や赤墨色の髪は、その色であると確信を持つためにはこのくらい近付く必要があった。
要するに普通の人にとっては目の錯覚や光の加減で片付けられてしまうこの色を、はっきり緑だの赤だのと言えてしまうこと自体が、このサイトにおいてはごくごく親しい人間の証明であり、先ほどこれを『翡翠色の瞳』などと鮮やかに描写してしまっていた自分にすくみ上る。
本当にいいんでしょうか……役得で済ませてもらえるんでしょうか……?
実際この身長差だけでもかなり無様な絵柄だと思うんですが……。
なんかもう視線の高さを合わせるために明らかに腰曲げてるんですが、この『彼氏』……。
……と思ったそのとき、彼氏様が急に身体を起こし、私は思わず身構えた。
中途半端に浮いたこの両手を、彼氏殿下の手がそっと包み込む。
なんですとぉぉぉー!?
思わず絶叫しそうになったが何とか堪えて目を伏せる。
ダメ! ダメ! お触り禁止! 踊り夢主に手を触れないでください!
しかし彼氏閣下は容赦なくシナリオを消化しているようだった。
ゆっくりと四つの手が上昇を始める。
意外と大きいその手に鎮座した私の手は、ちょっと見たら大きさの対比のお陰でいい感じに見えた。
けれどやっぱりよくよく見たら残念ポイントに次々にスポットが当たって私の気分を落ち込ませる。
それも結局は彼氏猊下の手との比較によって顕わになるのが皮肉だった。
くそう。こいつ顔だけじゃなくて手までべっぴんだ……。
ピアニストですかよと聞きたくなるような長い指の先には潔癖に切り揃えられた爪がツヤツヤとタテジワのひとつも見当たらない。
けれどこちらから伸びている短い指にはご丁寧にささくれが発生していた。
人差指の脇には紙で切った細いカサブタがくっついているし、爪の形も妙に丸い。しかも深爪。
何より私を落ち込ませたのは男の色気をぷんぷん漂わせるその絶妙な骨感!
対して私のこれは少々肉付きが良すぎた。なんでこんなところに肉が付くんだ……。
『夏希さん、考えたら負けです』
再び響いてきた声に私は覚悟を決めて深く息を吸い込んだ。
そう、そうだ、ド○えもん! おまえには指がないじゃないかっ!!
私が唇を引き結ぶと、蔵馬は少し屈んで目を伏せた。
恐ろしく長いまつ毛や切り込んだような目頭のラインを息を飲んで観察していた私は、次の瞬間大悲鳴を上げそうになり、慌てて息を止める。
ド○えもんが、彼氏陛下のその清潔感溢れる美しいラインを描いた唇に吸い付……逆だ! その魅惑の唇がドラ……間違えた、私の手にそっと押し付けられ……本当か?
自分が信じられなくなってきた……もしかして夢の中で夢を見てるだけかもしれない。夢っていうか妄想?
『そして蔵馬はそっと私の指先に口づけた』
修正された……しかもひと言で終ってた……。
それでも私は脱力することもできずに、目玉がぽろっと落ちるんじゃないかと危ぶまれるほど見開いた目で蔵馬を眺めるしかできなかった。
これだけヒロインが挙動不審になっていたらさすがにアドリブを入れてもいいんじゃないかと思うんだけど、蔵馬は動揺ひとつ見せずにゆっくりと目を上げる。
俯いた拍子にこぼれた前髪が影を落とし、黒い瞳が月下の湖のように幻惑的な輝きを湛える。
うん、だからね。これは仕方ないんです。
女という生き物がこれにぽーっとなるのは脊椎反射とかそういう類の反応なんです。
私はおかしくない! みんなこうなる! そう、私だけじゃない!
どうせ蔵馬にとってはどんなヒロインが来ようとも名前が違うくらいのものなんですよ!
ヨダレたらそうが失神しようが目がハート形になろうがきっと彼には見えていない!
蔵馬にとって私というヒロインは、星の数ほどいるヒロインの中の、実にありきたりな反応を示すひとりに過ぎない!
……なんか考えてたら悲しくなってきたけど、悲しんでいる場合じゃない。
鼻の下伸ばして見とれてもオーケーだっていうんだったら、ここはあれこれ考えずに骨の髄まで堪能するのが正しい乙女道!
と、ようやく心の中で折り合いがつき、こみ上げてくるニヤニヤを隠しもせずに堂々と蔵馬に向き直る。
彼は私の手から唇を離し、ゆっくりと目を上げる。
「……オレが好きなのは、夏希だけだよ」
ファッ!?
心の中を読んでいたとしか思えない言葉にうろたえながら、ふとその前の台詞を思い出す。
『莉花ちゃんだけど、夏希が心配するようなことは何もないよ』から『オレが好きなのは夏希だけ』と来るなら、それはつまり私が心配していたというのはその子の身の安全とかではなく、三角関係?
あー、言われてみたらそんな話だったかも……。
ペットのヒロインってぼたんちゃんとか、ぼたんちゃんはともかく黄泉→蔵馬←ヒロインの三角関係をナチュラルに受け入れるほど実は意外とヤキモチ焼きな一面があった……とは思ったんだけど、案外違うのかもなあ……。
私は目の前にある、彫刻のように美しさを追求し尽した美貌を眺める。
これが彼氏って言われたって「は? 私? 私でいいんスか?」ってなるよ……。
いちいち私みたいにパニクってたら話が進まないから書き飛ばされちゃってるだけで、実際は物凄い葛藤と戦ってるのかもしれない。
これだけ容赦なく自分の凡人っぷりを思い知らされ続けていたら、そう思ってしまうのも仕方ないよなあ。
自分に自信が持てなくて、いつ嫌われてしまうか、飽きられてしまうかって怯えて。
罪な男ですねえ、蔵馬さんも……。
呆れ半分にその眼を見ながら、それでも胸が締め付けられるように苦しくなっていく。
ここのヒロインはよく瞳に感情が浮かぶという表現をしている。
でも瞳は瞳だ。色が変わるわけでも形が変わるわけでも文字が浮かぶわけでもない。
だからきっと、本当はその他のパーツが動いて作られる表情や影がそう見せているだけなんだろう。
そうだとしても……。
どれだけ胸を痛めているか、どれだけ目の前の私を愛しく思っているか、どれだけ神経を払って私を気遣っているか、言葉に出せないものをどれだけ抱えて苦しんでいるか、ただ見つめるだけで伝わってしまうのは、やっぱりこの不思議な色の瞳は彼の心という部屋の小窓なのかもしれないなんて思ってしまう。
そうでなければ催眠術でも掛けられているのかもしれない。
どちらにしたってこの眼を覗き込んだら最後、否応なく彼と、彼の見せる夢に引き込まれてしまう罠なのだ。
20251228
日はまだ高いけれど窓の外からは掛け声やボールの音が聞こえるし、どこかで退屈な音階をなぞるラッパの音も響いているから放課後なのだろう。
「うん」
脈絡もなく突然蔵馬は頷く。
そう言って頷いたからには何かを了解したか納得したということなのだからして……
私は周囲を見回す。他には誰もいない。
うん、何かよく分かんないけど蔵馬は私の言葉に頷いてくれた。
……が、なんと薄情なことに次の瞬間私に背を向けちゃったんですよ!!
わっ、ちょっと待って!
呼び止めそうになったけれど、さっき言われたことを思い出して言葉を飲み込む。
私はきっと何も言っちゃいけないに違いない。きっとどうにかなる。っていうかどうにかして!!
私の願いが届いたのかシナリオだったのかは甚だ謎だけど、蔵馬は思い直したようにこちらを振り返った。
「莉花ちゃんだけど、夏希が心配するようなことは何もないよ」
はい~?
またしても出掛けた言葉を飲み下し、必死で記憶の糸を辿った。
誰だっけ、誰だっけ、莉花って誰だっけ!?
何か前回の飼いカノのラストにいかにもな美少女が出てきた気がするんだけど、あの人か? でも彼女って「み」とか付く名前じゃなかったっけ?
それ以前に更新の間が空き過ぎだってば若菜さん!
ここにいる人の中で飼いカノの存在自体覚えている人が何人いるかって話……。
その上前回の話の内容まで覚えてる人なんてひとりもいない! 断言する! 少なくとも私は忘れた! 思い出すのは無理!
……となると状況判断しか手が……。
私はまじまじと目の前の蔵馬を観察する。
……相変わらずものすごい色の制服ですこと……久しぶりに見た気がする、この学ラン。さっきも一瞬この姿が見えたんだけど、何か変な恰好してたし。
さらに視線を上に向けると、バッチリと目が合ってしまった。
当たり前っちゃあ当たり前ですけどね。
ああ、死にそう。ここのヒロインやるのだって久しぶりですよ。
何年たっても非の打ち所がない完璧な美少年っぷりは若菜さんの執念としか……もちろんさっきまでの黒蔵馬と同じブツではあるんだけど、さっきまでのは全くやる気がなかったし……。
やる気モードの黒蔵馬さんはヤバいですね。
愛する彼女にはこんな色っぽくて優しい顔するんですね。
顔は同じなのにいったい何が違うんだ?
美術館に並ぶ絵画や彫刻でも眺めるような気分でいた私は、そのまばたきにビクッとして目を逸らす。
そ……そういや、その彼女っていま私じゃありませんでしたっけ!
あれ、いま蔵馬なんて言った?
確か心配すんなって言った。
ああ、じゃあ心配した顔しとかなきゃいけないわけね。こりゃまた失礼。
きっとアレだ。莉花ちゃんとやらが何か大変なことになってんだ。
話は忘れたけど幽白だし、きっと妖怪に襲われたんだ。
そりゃ大変! 心配っスね……違う違う、心配だわ!
しかしそんな一大事にも関わらず、蔵馬は穏やかな微笑みを浮かべたままこちらを見ている。
あれ……私の台詞待ちとかじゃない、よね? 立ってるだけって言ってたもんね。
しかし立ってるだけとはいえ、こうやって見られているのはかなり緊張するんだけど……ん?
確かに蔵馬は彼らしい優しげな微笑みを浮かべていたけれど、向こうは向こうで何か緊張しているような雰囲気もある。
見られているというよりは観察されているような……
あれ、これってもしかして腹の探り合い的な?
私は慌てて目を伏せる。
くっそ、ヒロインちゃん、蔵馬と心理戦なんてするほど彼女スキル上げてたとは……
「夏希?」
蔵馬の声が聞こえ、視界に彼の上履きの先が入り込む。
ひぃ! 来た!
観念して顔を上げると、目の前に翡翠色の瞳があった。
近い! 近い! 心臓に悪い!
とはいえ恋人設定とあらば、ここで目を逸らすのは負けだ私!
私は踏ん張るようにして顔の位置を固定する。
けれどもう先ほどの探るような光はその眼にはなかった。
まるで丁寧に整えたかのような美しいラインを描いた眉がほんの少しだけ寄ってそこに心配げな影を落としている。
……本当に、この人はヒロインのことが可愛くて、大事で、どうにもならないくらい好きなんだろうな……いいなあ……
『すみません、ヒロインは夏希さんです』
見るに見かねたのか、唐突に先ほどの声が脳内に響き、顔が瞬間的に赤くなる。
やめて! そこ考えないようにしてたんだから!
「ごめん……」
蔵馬は思い詰めたような表情で私の眼を覗き込む。
その美貌は無情にもさらに近付き、まつ毛の一本一本まで観察できるほどなのに、アラのひとつも見つけられない。
毛穴とかヒゲとかどうなってんだコレ。
迂闊にも観察してしまったのが運の尽き。
こうなってしまうとまばたきすらも憚られ、ただ目を見開いたまま息を殺すくらいしかできないほどに追い詰められてしまった。
「もしかして、不安にさせた?」
はい、激しく不安を掻き立てられております。
鼻息掛かったらどうしようとか、鼻に脂浮いてたらどうしようとか、鼻の毛穴見られたらどうしようとか、鼻毛出てたらどうしようとか、鼻血吹いたらどうしようとか……
『夏希さん、鼻のことは忘れてください。これは夢なんです。いいですか? 夢の中でパイロットになろうが総理大臣になろうがウルトラマンになろうが誰もバカにしないし、誰に迷惑も掛かりません。蔵馬の最愛の恋人になってもです。せっかくそんな素敵な恋人といるのに酔わないなんてもったいないです。鼻が邪魔なら取ったらいいんです』
こ……恋人……こんな物凄いのの恋人になっても誰も怒らない……。
むしろこれの恋人にならないと、今に限っては怒られる……という据え膳……。
私は目の前の麗しの微笑みを見てゴクッと息を飲む。
そう、そうだ夏希! おまえには鼻がないじゃないかっ!!
心の中で叫んだ瞬間だった。
たぶん、ほんの数ミリも動いてはいないと思う。
ただちょっとだけさっきより深く息を吸ったか吐いたか程度だろうと思うんだけど、わずかに蔵馬の頬の角度が変わり、私はそれだけで飛び跳ねそうになるほど焦って汗をにじませた。
……むしろバカにして欲しいんですが……笑って欲しいんですが……怒って邪魔して止めて欲しいんですが……。
自分の恋人、つまり同次元の生き物などと思うとなおさらあり得ない。美しすぎる。
蔵馬の髪と瞳は黒であると主張する原作派と、あのサイケデリックなカラーリングのアニメ支持派と、両方の感情を逆撫でしないようにと知恵を絞り、ギリギリまで彩度を押さえたに違いない、深い深い暗緑色の瞳や赤墨色の髪は、その色であると確信を持つためにはこのくらい近付く必要があった。
要するに普通の人にとっては目の錯覚や光の加減で片付けられてしまうこの色を、はっきり緑だの赤だのと言えてしまうこと自体が、このサイトにおいてはごくごく親しい人間の証明であり、先ほどこれを『翡翠色の瞳』などと鮮やかに描写してしまっていた自分にすくみ上る。
本当にいいんでしょうか……役得で済ませてもらえるんでしょうか……?
実際この身長差だけでもかなり無様な絵柄だと思うんですが……。
なんかもう視線の高さを合わせるために明らかに腰曲げてるんですが、この『彼氏』……。
……と思ったそのとき、彼氏様が急に身体を起こし、私は思わず身構えた。
中途半端に浮いたこの両手を、彼氏殿下の手がそっと包み込む。
なんですとぉぉぉー!?
思わず絶叫しそうになったが何とか堪えて目を伏せる。
ダメ! ダメ! お触り禁止! 踊り夢主に手を触れないでください!
しかし彼氏閣下は容赦なくシナリオを消化しているようだった。
ゆっくりと四つの手が上昇を始める。
意外と大きいその手に鎮座した私の手は、ちょっと見たら大きさの対比のお陰でいい感じに見えた。
けれどやっぱりよくよく見たら残念ポイントに次々にスポットが当たって私の気分を落ち込ませる。
それも結局は彼氏猊下の手との比較によって顕わになるのが皮肉だった。
くそう。こいつ顔だけじゃなくて手までべっぴんだ……。
ピアニストですかよと聞きたくなるような長い指の先には潔癖に切り揃えられた爪がツヤツヤとタテジワのひとつも見当たらない。
けれどこちらから伸びている短い指にはご丁寧にささくれが発生していた。
人差指の脇には紙で切った細いカサブタがくっついているし、爪の形も妙に丸い。しかも深爪。
何より私を落ち込ませたのは男の色気をぷんぷん漂わせるその絶妙な骨感!
対して私のこれは少々肉付きが良すぎた。なんでこんなところに肉が付くんだ……。
『夏希さん、考えたら負けです』
再び響いてきた声に私は覚悟を決めて深く息を吸い込んだ。
そう、そうだ、ド○えもん! おまえには指がないじゃないかっ!!
私が唇を引き結ぶと、蔵馬は少し屈んで目を伏せた。
恐ろしく長いまつ毛や切り込んだような目頭のラインを息を飲んで観察していた私は、次の瞬間大悲鳴を上げそうになり、慌てて息を止める。
ド○えもんが、彼氏陛下のその清潔感溢れる美しいラインを描いた唇に吸い付……逆だ! その魅惑の唇がドラ……間違えた、私の手にそっと押し付けられ……本当か?
自分が信じられなくなってきた……もしかして夢の中で夢を見てるだけかもしれない。夢っていうか妄想?
『そして蔵馬はそっと私の指先に口づけた』
修正された……しかもひと言で終ってた……。
それでも私は脱力することもできずに、目玉がぽろっと落ちるんじゃないかと危ぶまれるほど見開いた目で蔵馬を眺めるしかできなかった。
これだけヒロインが挙動不審になっていたらさすがにアドリブを入れてもいいんじゃないかと思うんだけど、蔵馬は動揺ひとつ見せずにゆっくりと目を上げる。
俯いた拍子にこぼれた前髪が影を落とし、黒い瞳が月下の湖のように幻惑的な輝きを湛える。
うん、だからね。これは仕方ないんです。
女という生き物がこれにぽーっとなるのは脊椎反射とかそういう類の反応なんです。
私はおかしくない! みんなこうなる! そう、私だけじゃない!
どうせ蔵馬にとってはどんなヒロインが来ようとも名前が違うくらいのものなんですよ!
ヨダレたらそうが失神しようが目がハート形になろうがきっと彼には見えていない!
蔵馬にとって私というヒロインは、星の数ほどいるヒロインの中の、実にありきたりな反応を示すひとりに過ぎない!
……なんか考えてたら悲しくなってきたけど、悲しんでいる場合じゃない。
鼻の下伸ばして見とれてもオーケーだっていうんだったら、ここはあれこれ考えずに骨の髄まで堪能するのが正しい乙女道!
と、ようやく心の中で折り合いがつき、こみ上げてくるニヤニヤを隠しもせずに堂々と蔵馬に向き直る。
彼は私の手から唇を離し、ゆっくりと目を上げる。
「……オレが好きなのは、夏希だけだよ」
ファッ!?
心の中を読んでいたとしか思えない言葉にうろたえながら、ふとその前の台詞を思い出す。
『莉花ちゃんだけど、夏希が心配するようなことは何もないよ』から『オレが好きなのは夏希だけ』と来るなら、それはつまり私が心配していたというのはその子の身の安全とかではなく、三角関係?
あー、言われてみたらそんな話だったかも……。
ペットのヒロインってぼたんちゃんとか、ぼたんちゃんはともかく黄泉→蔵馬←ヒロインの三角関係をナチュラルに受け入れるほど実は意外とヤキモチ焼きな一面があった……とは思ったんだけど、案外違うのかもなあ……。
私は目の前にある、彫刻のように美しさを追求し尽した美貌を眺める。
これが彼氏って言われたって「は? 私? 私でいいんスか?」ってなるよ……。
いちいち私みたいにパニクってたら話が進まないから書き飛ばされちゃってるだけで、実際は物凄い葛藤と戦ってるのかもしれない。
これだけ容赦なく自分の凡人っぷりを思い知らされ続けていたら、そう思ってしまうのも仕方ないよなあ。
自分に自信が持てなくて、いつ嫌われてしまうか、飽きられてしまうかって怯えて。
罪な男ですねえ、蔵馬さんも……。
呆れ半分にその眼を見ながら、それでも胸が締め付けられるように苦しくなっていく。
ここのヒロインはよく瞳に感情が浮かぶという表現をしている。
でも瞳は瞳だ。色が変わるわけでも形が変わるわけでも文字が浮かぶわけでもない。
だからきっと、本当はその他のパーツが動いて作られる表情や影がそう見せているだけなんだろう。
そうだとしても……。
どれだけ胸を痛めているか、どれだけ目の前の私を愛しく思っているか、どれだけ神経を払って私を気遣っているか、言葉に出せないものをどれだけ抱えて苦しんでいるか、ただ見つめるだけで伝わってしまうのは、やっぱりこの不思議な色の瞳は彼の心という部屋の小窓なのかもしれないなんて思ってしまう。
そうでなければ催眠術でも掛けられているのかもしれない。
どちらにしたってこの眼を覗き込んだら最後、否応なく彼と、彼の見せる夢に引き込まれてしまう罠なのだ。
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