2026年

 その夜は雨が降っていた。降り止む気配すらどこにも見つけられない、ひどい雨。こんな夜は彼がここに来るのが待ち遠しい。あの人はいつも雨の夜にしかやってこないから。
 時計を眺めてから、シスターは告解室へと移動する。待ち合わせはいつもあの部屋だ――いや、待ち合わせているわけではないが。
 彼は海に舟を浮かべて、太陽を追いかけているらしい。以前の懺悔ではそう話してくれたのを覚えている。懺悔と称してなんともない雑談をすることもままあるが、彼の罪が深いものであろうことは、シスターにはわかっていた。いつも話す「あの子」に対して捨てることも償うこともできないなにかを背負っていることは、今までの会話から察することができた。
 告解室へ行くと、すでに壁の向こうには誰かがいるようだった。こんな時間に告解室を開けていると知っているのは、彼しかいない。あの旅人しか。
「こんばんは、今日も来てくれたんだねシスター」
「ええ、もちろん。あなたはこんな夜にしか来てくださいませんからね」
 壁の向こうで愉快そうに笑うのが聞こえる。シスターは壁に手を触れる。そうしていることで、彼と手を合わせられるとでも思っているかのように。
 シスターは恋をしていた。
「それで、今日はどんなお話をしてくださるんです?」
「その言い方だと、きみをただの話し相手として見ているみたいじゃないか。ぼくはちゃんと、懺悔をしに来ているんだよ」
 そう。シスターは小さくうなずきながら彼に話の続きをうながす。
「今まで話したことのない、許されるべくもない罪の話をしようと思ってね」
 雨がばたばたと窓を叩いている。彼の浮かべた舟はどこに避難しているのだろう。それとも、明日にでも沈んでしまえばいいと、そのまま雨を積んでいるのだろうか。シスターは手を組み、祈るような姿勢をとった。
「聞きましょう」
 ありがとう。言ってから旅人は自分の話をはじめた。
 ――いつのことだか思い出せないほどの昔、自分が幼い少年だったころの話。旅人が旅をはじめるに至ったまでの物語。
 森に囲まれ、他の町とほとんど交流のない小さな村で彼は育った。村には大人ばかりで、彼を含め、子どもはふたりきりだった。それもどちらも孤児だった。
 彼はうまれてすぐ、村近くの森に捨てられていたのを発見されたらしい。村の大人から聞いただけだから真偽はわからないが、みんな自らの子どものように世話してくれたので本当のことなのかもしれない。親と呼べる特定のふたりは、いなかった。
 もうひとりの子ども――少女は、よそからやってきた。彼が五歳になるころだった。少女はぼろぼろの布をまとって、傷だらけだった。森を走り抜けてきたと言うが、それだけではないのは確かだった。例えば誰かに暴力を振るわれたとか、そういった類のケガを負っていた。
 少女は不愛想だった。村の誰が親切にしても感謝を言うこともなく、ただただされるがまま。表情も乏しく、いつも無表情だった。笑顔を見たことがあるのは、きっと彼だけだ。
 ある日、森の中で遊んでいた彼は、少女が歩いているのを見つけた。その後を追ったのがはじまりだった。彼女は木をどんどんのぼっていったかと思えば、空をのぞいて、それからふわりと降りた。まるで人間とは思えない身軽さ。彼女は魔女だったのだ。
 そうか、彼は納得した。だから村に来たときの少女はぼろぼろで――育った場所で迫害されていたのだろう――、どうしても村人のことを信用する気配すらない。だからだったのだ、人間を嫌っている魔女だったから。
 彼は思わず声をかけた。「きみは魔女なんだね、魔法を使えるんだ!」大きな声で言ってしまってから、彼は口を閉ざした。こんなこと、誰かに知られてはまずいのに。少女はそんな彼を見て、はじめてほほえんだ。そうだよ、答える声は小さかった。
「魔法でぜんぶ壊してここまで来たの」凍えるような笑みを浮かべた彼女に、彼の目は奪われた。
 以来、彼はずっと少女と一緒にいるようになった。その様子を見てか、村人は少年への対応を変えはじめた。素性も知らない、怪しい少女にたぶらかされた。村人はそう考えたらしい。つまり少女は悪、異端、魔女である。村人の結論は極刑だった。
 魔女を火あぶりにしろ! 彼が夜中に目を覚ましたのは、そんな叫び声を聞いたからだった。聞き慣れた、いつもは穏やかなはずの村長の声。なにを言っているのかはじめはわからなかったが、外に出てみて理解した。広場には磔にするための道具が並び、大きな火を灯したたいまつを持つ村人が何人も待機している。近くで大柄な男に羽交い絞めにされた少女が見えた。
 魔女は焼き殺されるらしい。前に少女からそう聞いた。当時の彼はそんなわけないと笑い飛ばしたが、事実、そうであったらしい。彼は走り出した。今考えれば少女のことを幸せにしたいと思っていたのかもしれない、彼は小さく笑って話を続ける。
 大男に体当たりをし、持っていた枝を男の目に向かって突き出した。うめき声をあげた男は、その場にうずくまる。今が機会だ。彼は少女の手を引いて走りだした。
 どこまでも、どこまでも走り続けた。森をくぐり抜け、崖に出た。背後からは木々のざわめきと大人の怒鳴り声が聞こえた。崖の下には大きな川が流れていた。このままでは囲まれてしまう。それなら水に落ちた方がいいだろう。隣には魔女もいる、きっと魔法でどうにかなるはずだ。彼はそう思っていた、信じていた。
 少女は振り返り、大人の来る方向を見た。「そうか」彼は声に出していた。「魔女だから、あいつらを一網打尽にできるんだ」少女は彼に、悲しそうな瞳を向けた。今にも泣きだしてしまいそうなのが、彼には理解できなかった。
 声が近づいてくる。もしかすると大人たちはたいまつだけでなく、武器も持っているかもしれなかった。いつもは農作業に使うようなクワやオノ、それから家の奥にしまい込まれている銃のようなもの。想像するだけで彼は震えあがった。けれど隣には少女がいる、なにものにも負けない魔女の少女が。
「ねえ」話しかけようとしたときだった。少女は彼の背に手を乗せ、それからぐいと押した。彼の軽すぎる体は簡単に押し出される。少女に向けていた顔を、正面に向ける。足元には、なにもなかった。
「さよなら」
 最後に聞こえた声は、自分が言ったのか、それとも少女の声だったのか。今でも判別がつかない。ただ、少女がほほえんでいたことだけは確かだった。語る彼はため息を吐いた。
「それで、その少女はどうなったのですか?」シスターの透き通った声が、旅人を現在へと連れ戻す。
「……ぼくにはわからないんだ」
 壁に遮られていても、彼がうなだれているのがわかる。きっと束ねた長い髪をさらさらといじりながら、泣き出してしまいそうなのに口角を上げているのだろう。シスターはうっとりと両手で頬を包んだ。
「生きていると、いいですね」
「きっと生きている、と信じたい。どちらにせよ、ぼくのことなんか忘れているだろうけどね」
 旅人が立ち上がる気配がした。窓の外では月が高らかに歌っている。まだ夜は終わらない。
 待って。シスターは考えるよりも先に口に出していた。壁の向こうで気配が止まる。どうしたの、そう問う彼の声は耳に心地よい。
「わたしも魔女と疑われた身でしたから、その、少女と自分を重ねてしまって……」
 がたがたと動く音がして、彼がまた席に着いたことがわかる。シスターの話を聞こうとしているのか、それとも罪悪感を覚えたのか、それはわからなかった。
「けれどわたしは魔女ではなかった。魔法もなにも使えないのに、何度も殺されそうになりました」これではシスターが旅人に懺悔しているみたいではないか、思うが止められなかった。「なにを言っても信じてくれないみんなが嫌いでした。なにをしても魔女だと迫害してくる人間が憎かった」
 向こうに旅人がいるかどうかは、もはや問題ではなかった。口から出てきた過去をすべて出し切る、それがシスターを支配していた。
「一度、逃げようとしたことがありました。友人の手を借りて」シスターはそのときに祈りをささげるかのように、指を組んだ。「けれど失敗しました。追い詰められて、どうにもならなくて。だからわたしは、人を殺した」
 向こう側で息を飲むのが聞こえる。人殺しの聖職者であるシスターに恐怖をなしたのだろうか。それでもシスターは語るのをやめない。
「魔女ではないから、血なまぐさい方法で人を殺しました。彼らの持っていた武器を奪って頭を殴り、破壊しました。腕に刃物を刺し込んで、抜けなくなったから別の武器を求めて。あぁ、その姿こそ魔女だったのかもしれません」
 シスターは、うっとりするように壁に手を当てる。愛する者の近くに、少しでも近くにいられるように。けれどきっと旅人は距離を取っているのだろう、ぎぎ、と椅子の引くような音が聞こえた。
「友人を助けることはできましたが、わたしはまたひとりきり。逃げてきた先にこの教会を見つけました。こんな魔女でも受け入れてくれる、寛大な教会です」
「それじゃあ」彼の声は、ひどく焦っているように聞こえた。あのときも、大人たちに囲まれたときもそんな声出さなかったのに。「また来るよ、シスター。よい夜を」
「ええ、よい夜を」
 彼の走り去る音を聞きながら、窓を見つめる。彼の舟が月を背負っているように見えた。もしかすると彼は月を連れてまた旅に出るのかもしれない。二度と帰らない旅をはじめるのかもしれない。
 もう雨は降っていなかった。
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