束の間●逃避行

 わたしは、空から落ちてくる真っ白な雪をじいっと見つめていた。あれはどこから来るんだろ? だって空が落としものしてるようにしか見えない。先輩にそんなことを言ったら、「きみは不思議なことを言うんだね」とかって笑われそうだから、わたしはただ黙って先輩のことを見つめていた。
 こんなに寒いのに、わたしたちふたりは汗をかいている。そりゃそうだ、だってこんな山奥にまでやってきたんだもん。
「ふう、ここらへんでいいかな?」先輩はおでこの汗を手のこうで拭いながら言った。メガネがずり落ちている。
「そうだね、ここなら日の出もきれいに見えると思う」
 先輩の顔に手を伸ばすと、彼はびっくりしながらわたしの手を受け入れた。別にいたずら書きしようと思ったわけでもないんだから、そんなにこわばらなくたっていいのに。わたしはほっぺの片方に空気を入れながら、先輩のメガネの位置を直した。
「な、なんだ、メガネくらいどうでもいいよ」
「でもちゃんとかけてないと前が見えないんでしょ?」
「なんてこと言うんだ。ぼくの視力を甘く見ないでくれ、メガネがなくたってきみの顔のパーツくらいふんわりとわかる」
「全然見えてないじゃん」
 わたしは小さく笑うけど、先輩はまじめな顔をしている。これって冗談じゃないの? 先輩ってわかりにくい、いっつも真剣な顔で変なことを言うんだもん。
「ほら、こんなにきれいな景色なのに、見えなかったら悲しいじゃん」
「ぼくは悲しくなんて――」
「なに言ってんの、先輩が悲しいんじゃないよ。わたしとこの景色が悲しむの」
 町をきれいに見渡せる位置まで来て、振り返ってそんなことを言ってみた。セーラー服のスカートがふわりと揺れる。こんな冬――というか元日に生脚出してていいわけなかったな、と反省しながら。
 だってめちゃくちゃ寒い。こんなの耐えられない。たまの登校で見る短いソックスの同級生って、脚の感覚はもうないってことなのかな? じゃないとこんなの毎日やってらんない。まじで意味わかんない、見てるだけで凍えそうになる。先輩は学ランだからむしろ夏見ると暑苦しいけど。ってか夏はジャケットなしの半袖か、じゃあなんでもないや。
 くせなのか知らないけど、わたしがせっかく直してあげたのにメガネをくいっとやってる先輩が見えた。わたしはなんとなくおもしろくなくて、町を見下ろす。
 でも。背後から先輩の声が聞こえる。さあっと風が吹いていって、乾いたように木々が鳴く。葉っぱがないだけでこんなに寂しそうな声になるんだなぁなんて思ってみる。「でもほんとうに驚いたな、きみときょうだいだったなんて」
 きょうだいだって知らなかったら、きっとこんなふうに一緒に日の出を見ることはなかったろうね。先輩は言う。寂しいことを淡々と言ってみせる。嫌な先輩だな。きょうだいだってわかってなくても、わたしたちはもとから仲良かったのに、そんな言い方ない。家族じゃなければこんなことしなかったみたいな言い方、嫌だな。まあ、先輩の言うことは確かにそうかもしれないんだけど。
「わたしはわりと昔から知ってたよ、小学……五年生くらいかな」
「えっ!?」
「だからだよ、先輩にずっとくっついてたでしょ、わたし」
「純粋に好いてくれているのかと思ってた、悔しいなそれ」
 先輩はわたしの方に歩み寄ろうとして失敗した――というのも、彼は昔からのドジだ。すぐになにかにつまづいて転ぶし、サッカーボールのすぐ横を蹴るし、バスケットボールは怖くてパスを受け取れないし、リレーでも必ずと言っていいほどバトンを落とした。先輩のそういうかっこ悪くて愛らしいところは小学生のときから見慣れているけど、兄ちゃんとして見るとダサすぎる。
 ずっこけて雪だらけになった先輩は、立ち上がってもそれを払おうとはせず、そのままわたしの方に歩み寄る。先輩がこけたところだけ、どうやら深かったらしい。沈み込んだ足跡が見えた。
「こんなドジ兄ちゃん、好いてるわけないじゃん」
「なんてこと言うんだよ、ドジの方がかわいいだろうが」
「ドジがかわいいのはちびっこまでかフィクション内だけだよ」
「わかった、じゃあぼくのことはフィクションとして見てくれ」
 なんだそれ。思わずふきだしてしまった。やっぱり先輩は変な人だ。たぶん、そんな先輩が大好きなわたしも、変な人なんだろうな。
 じゃあ、わたしたちもフィクションだったらよかったね。言ってみようかと思ったけど、そんなわけないからやめた。だってフィクションだったらここで終わりだ。これ以上の展開はない。きっとわたしたちは、日の出を見て誰かしらに見つかって、逃げることもできなくなる。もしくはフィクションだからこそ、逃げ切ることができるエンディングもあるのかもしれないけれど。どっちでもいいや、だってここはノンフィクションだ。
 あっ。声は雪に吸収された。頭を出した太陽は、こちらを見てほほえんでいるような気がした。慈悲を持ってわたしたちを見てくれているように感じられた。きっと、わたしたちの犯した罪は、こうして浄化されていく。
 日の出を見たのははじめてのことだった。いつもはそんな余裕ないし、そんなに気にならないし、みんなが騒ぐほどの価値があるとも思っていなかった。けどこれは見た人にしかわからない、なるほどなぁ。
「きれいだね」
 じんわりと町が終わりを迎えるかのように見えた。日の出ってこんなにも美しく神のようでありながら、けれど破壊を思わせるものなんだな。わたしはついつい手を組んでいた。祈りを捧げるようにして、目を閉じる。なにを祈るのかは、決まっていた。
「きれいだな」先輩はつぶやくように言う。「くそみたいなこの世にも、きれいなものって存在するんだ」
 ほんとうだよ。町を歩くだけでこの世界の汚さはいくらでも見つけられる。ポイ捨てとか落書きとか小さなものから、いじめや暴力、殺人みたいな大きなものまで。
 袖をまくり上げた。もはやかわいいとすら思える青あざがいくつも見える。これはわたしの一部だ。いじめられていたから、親に暴力を受けていたからあるんじゃない。わたしがわたしであるために必要な要素なのだ。そう思っていないとやってられない。
「え、押していい?」先輩はわたしの許可を待つことなく、日の出という神の前でわたしのあざを押した。「せーの、ぎゅっ」
「いたっ! えっ、まじでサイアクなんですけど。あんた人間?」
「人間だね、どこからどう見ても。ちなみに言うと五個上の実のお兄ちゃんです」
「うざすぎ、半分しか血つながってないくせに」
「ちぇっ。お母さんも同じだったらどうだったって言うんだよ、変わんないだろ」
 先輩の幸せを日の出に祈ったわたしがばかみたいだ。けどわかってる、先輩がこういう人間じゃなかったらわたしは今回のことを持ちかけてない。
 変わんないだろうね。変わんないよ、どんな家庭環境で育ってようが、先輩は先輩だった。なにがあっても先輩は変わらずそのままの先輩なんだよ。わたしには確信めいたなにかがある。
「先輩はさ、ママのこと好き?」
「うーん、そうだなぁ。好きってよりかは大好きかな」
「ただのマザコンじゃん、キモ」
「おい、思春期なのにここまで素直な男子はいないぞ、感謝したまえ」
「感謝するのわたしじゃなくて先輩のママでしょ」
 きみは? と聞いてくる先輩の声を、無視しようかぎりぎりまで迷っていた。ら、先輩がめちゃくちゃ催促してきたから、仕方なく答えることにした。
「ママのこと別に嫌いじゃないけど、好きでもないかな。パパのことは大嫌いだけど」
 まあそうだよなぁ。隣でわかったふうにうなずく先輩が、とてつもなくうれしい。実際の様子を知らないくせに、わかろうとしてくれるのがうれしい。いや違うかも、先輩が一緒にいてくれるからうれしいのかもしれない。だってわたし、たぶん小学生のころから、お兄ちゃんがいるって知ったその瞬間からブラコンだ。
「ママはね、料理が苦手なんだよ。だから毎日朝昼晩ぜんぶ冷食。ま、わたしがずっといるのも悪いかもだけど」
「中学校くらい、行かなくたってなんとでもなるよ」
 そうかなぁ。返す言葉が小さかったのは、自覚している。少しだけ自信がないからだ、これからの自分について。
「でもママにはいいところもたくさんある。機嫌がいいときはわたしとお買い物行ってくれるし、いいことあったら楽しそうにそのお話してくれるし、そういうときはなんかかわいいなって思う」
「お母さんにかわいいって思うことあるんだ」あるでしょうが、ってにらんでやったら怯んでた。うける。
「でもさぁ、機嫌悪いと怖いんだよね。暴力こそ振るってこないけど、パパの悪口とかヒスったり泣いたり怒鳴ったり、ほんと、病んじゃってるって感じで。支えになりたい気持ちもあるけど、近寄りがたいかな」
「そりゃかわいくないね」
「そう、かわいくないの」
 先輩はそういうことないの、と聞いたけど先輩は首を捻ってうなるだけで、それ以上の応えはくれなかった。どうやらパパによって壊された家庭は、時間さえあれば修復できたらしい。もうそんなこと言ってられないけど。
 先輩の家族は今やお母さんだけでなく、新しいお父さんと弟がいる。けれど先輩には居場所のないように感じられるらしい。確かに、前の配偶者との子どもなんて、忌まわしいものに見えても仕方ないのかもしれない。新しいお父さんは先輩をいないものみたいに扱うらしい。それをお母さんは知らんぷりしている。それでもママが大好きなんて言える先輩が好きだ。そんなママよりわたしの方が先輩のことを愛せる。わたしに親権をくれ。
 弟は弟で優秀すぎてめんどうらしい。別にどうでもいいと思っている、なんて先輩は言うけど、きっとだいぶ気にしてる。たくさん勉強した勲章としてのメガネは、レンズが汚れたままになっていた。わたしはひとつため息を吐いた。白くなって霧散する。こうやって嫌なことぜんぶ白くなって消えればいいのに。
「あ」先輩が一文字もらすからなにかと思ったら、「日の出、もう出きってるんじゃない」とか言いはじめた。視線を町の方に戻したら、もうまんまるな太陽が見えていた。「日の出が終わってるってそんな、――ほんまや!」
「その西のお笑いみたいなの、やめなよ。かわいくない」
「お笑いはかわいいとかでやってないの」
 ひとしきり笑ってから、ふたりで同時に背後に目をやった。そこにあるものが、これからの未来を左右する。めんどうではあるけれど、これをどうにかしないと最悪の場合わたしたちはふたりでお縄だ。つまり完全犯罪を目指さなくちゃならない、もしくは完全隠蔽?
「ねえ、この人――っていうかパパだったもの、どうしようか」
「パパだったものって、たぶん戸籍上は今でも一応パパでしょ」
「キモすぎー! なんでこんな人間がパパなの!?」
 しーっ! 先輩は口に人差し指を当てる。すみません、騒ぎすぎました。
「でもこんな人間でも感謝してるよ」
「する瞬間とかなくない? 先輩もキモの民ってこと」
 先輩は怒ったように、違うよ、と言ってから、ひとつ息を吐いた。「きみがぼくの隣にいるのは、少なくともこいつのおかげでもあるから」
「確かに……?」
「え、伝わってないとか言わないよね」
「言わない言わない」
「ならいいけど」
 とりあえず。先輩はパパだった肉塊をもう一度そりに乗せ直し、それをぐいと引っ張る。「もう少し奥まで行こうか。地図が正しければ、池だか湖だかがあるはずだ。そこに遺棄しよう。こんな山奥の、しかも水中に落ちてる死体なんて、大捜索でもしない限り見つからないだろう」
「だね」
 わたしは先輩の引くそりを見ながら、ぜんぶ先輩にやらせてしまっていることを思い出す。ナイフで刺したのも、ひもで首を絞めたのも、ここまで運ぶための運転も、そりで死体を運ぶのも、ぜんぶ先輩がやってくれた。わたしはといえば、確実に死んだとわかってから何度か刺したり、下半身を切り落したり、髪を引きちぎったり、それくらいなものだ。致命的なことはぜんぶ、先輩が代わってくれた。
 どうして異母きょうだいってだけなのにわたしのことを助けてくれるんだろう、救ってくれたんだろう。思うことはあっても聞くことはしない。先輩には先輩の事情があるんだろう。わたしのことがはちゃめちゃに大好きすぎるとか、わたしのことを死ぬほど愛しているとか、そういう事情が。
「そういえばさ」先輩がそりを引くためにとんでもない前傾姿勢になりながら、ずり落ちるメガネを直した。「日の出になんか祈ってた?」
「うん、先輩もでしょ? わたし、目だけはいいんだよ」
 ばれてたか。つぶやく先輩の息は、もう上がっていた。まったく、やっぱり先輩には体力がない。勉強ができても体育をちゃんとやってないと死体遺棄のときにこうなるって、誰も教えてくれなかったのかな。わたしは教えなかったけど。
「じゃあさ、なに祈ってたのか、せーので言おうよ」
「いいよ、せーのっ」
「先輩のハッピー」
「きみの幸せ」
 やっぱり。わたしはわかってたけど、先輩には予想もつかなかったみたい。一瞬びっくりしたような顔を見せてから、破顔して声を上げて笑った。わたしも一緒に。だから言ってやった、口の前に指を持ってきて――。
「しーっ!」
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