ヴァンドーラ・サーカス団
降る雪がすべての音を吸収してしまうのか、このテントにはボールが手におさまる音すらないようなものだった。空中ブランコの高台に座ったキッティは頭の上の獣に似た耳をぴこぴこ動かし、赤と黒の衣装を着たピエロがもたらすそれに耳を澄ましていた。
ふと見上げた視線の先に、キッティは穴を見つけた。雪が数粒、自分のもとへとやってくる。肉球を上にして手を上げ、それを受け止める。ぴと、落ちてきたひと粒はじっくり見る間もなく溶けていく。そこにはただ、しずくが残るだけ。
「ねえ、ねえねえジョーカー?」キッティははるか下のステージでジャグリングを――否、浮遊魔法の練習をするピエロに呼びかける。「ジョーカーはどうしてそんなに美しいの?」
ジョーカーが考えるようなしぐさをすると同時、回っていたボールが動きを止める。ジャグリングの途中で時間が止まってしまったかのように、ボールは空中に浮かんだまま。ジョーカーの大きな目がキッティの方を向いて、しかしなにを言うこともなくその瞳は落ちていく。重力に従うボールのように。
「なにを言うんだい仔猫ちゃん 、ぼくは美しくなんてないだろう」
彼がそう言えば、キッティは座っていた高台から飛び降りる。四つ足でうまく着地したキッティは、後ろ足でしかと立つ。傷もケガも、どこにもない。それは彼女が魔女だからなのだろうか。
「何度だって言うけれど、それは危ないからやめてくれないかキッティ。ぼくにだって怖いものはあるんだ」
「でもあたしは無事よ。人間にとって危ないってだけで、あたしにはなんともないんだもの、いいでしょ?」
「そうだね、だってぼくがきみに浮遊の魔法をかけているんだから」
ジョーカーもまた魔女――性別問わず、人間離れのわざを使う者はそう呼ばれている――だった。ここはヴァンドーラ・サーカス団。取り返しのつかなくなった、ワケありの子どもたちが育つ場所。そう、魔女として村を追放された子どもたちが。
ジョーカーはその痩身をよじらせてキッティの方を向き、クラシックの指揮のように手を舞い上げる。するとキッティの体は地面から離れていく。自分ではなにもしていないのに。これこそジョーカーの得意とする魔法のひとつ、浮遊魔法だ。いつもはジャグリングやアクロバットを行うときにしか使わない魔法。
喜んだキッティは、その場で宙返りをする。獣に似た力を持つ彼女には、簡単なことだった。しかし宙に浮きながらするのははじめてのことだ。爪をしまった手を口元に持っていき、くすくす、と笑う。
「そうだったのね。ジョーカーのおかげであたし、なんてことなく着地できていたんだわ!」
うれしそうに叫んだキッティは、宙に浮いたまま飛び跳ねたり横に揺れたりしている。見ているだけではつまらなかったのか、ジョーカーも彼女のもとへと飛んで行った。それからキッティのもこもこの手を取り、口づけた。
「きゃっ」キッティが顔を赤くするのと同時、周りの灯りが落ちる。「きゃあっ」
辺りが暗くなる。瞬間、ジョーカーの視界は使い物にならなくなったが、そばには夜目のきくキッティがいる。彼女の手を強く握り、暗闇に慣れるまでじっと目を凝らす。
――ステージに取り付けられたスピーカーから、なにやら音が聞こえてくる。ざざっ、ざぁっ。無線が向こうの嵐をキャッチしたかのような音だった。実際、外にはつながっていないはずなのに。もしこの時間になにかが流れるとしたら、団長からの呼び出しだろうか。そう思ったふたりは続く団長の声を待っているが、いつまで経ってもその音は言葉になりそうにない。
いや、言葉にはなっていたのかもしれない。ただ、それが意味の通じるものではなかったというだけで。確かに団長に似ている声だったが、まったくもって似ても似つかない声だったとも言える。その声はただただ同じ音を繰り返しているようにも聞こえた。
「待って待って、ねえねえジョーカー、これってあなたの魔法よね?」
キッティの瞳には、ジョーカーの険しい表情が映った。それはまったく予期していなかったことが起きたときのそれと同じで、関与していないのは明白だった。つまり、これはジョーカーによるサプライズではないらしい。キッティは震えた。
「いっ、いやよそんなのっ! これってなんなの、ねえジョーカーったら!」
「ごめんね、キッティ」ジョーカーは静かに首を横に振った。
確かに、よく考えてみれば、ジョーカーが浮遊や炎以外の魔法を使っているところなど、見たことがない。灯りを消したり、電波をジャックしたりする魔法など、きっと彼は持っていないのだ。ということは、これはどういう現象なのか? ジョーカーは険しい顔のまま、自分たちの高度を下げていく。
たどり着いたステージ上には、白いスポットライトがあてられている。ステージ周囲のライトに電源が入っている様子はまったくないのに、なぜだかふたりはライトアップされている。ふと観客席に目を移せば、透明の客がいるように見えた。口を開いて、手を叩いてこちらを向いている。あれが人間でないことだけは、確かだった。
キッティは、さあっと血の気が引いていくのを感じている。立っているのもやっとだ。背中にあたたかな手を感じる。ジョーカーの支えがなければ、立っていられなかっただろう。キッティはジョーカーに縋り付いた。
「ねえ、ねえねえジョーカー、とっても怖いわ。あたしたち、なんともないのよね?」
ジョーカーの白い手袋が、キッティの頭を、耳のあたりを撫でる。安心する手の形に、しかし不安でならない状況に、キッティは縮こまった。
ぼっ、と音がしたかと思えば、辺りが赤く映し出される。キャンドルの炎を灯したかのような見え方に、ふたりは背後を振り返る。この時期特別に設置されているツリーが、見る影もなく真っ赤に燃えている。赤くなったツリーの頂点には、不敵な笑みを浮かべるスターが飾られている。いつもはにこやかに笑いかけてくれるはずなのに。
けれどこれは炎の魔法だ、ジョーカーが視界をクリアにするためにそうしてくれたのだろう。キッティはそう思ったが、当のジョーカーは怪訝そうにしている。というよりも、なにかに恐れを感じたような顔だった。
もしかして、そう思うと声が出ない。キッティは体に力を入れながら、これ以上ないほどジョーカーにくっついた。
「あぁ、きっとなんともないさ。きっとね」
足元に落ちていたボールが浮かぶ。それらはふたりの周りを楽しそうにゆらゆら揺れている。キッティは、これこそはジョーカーの魔法だと思った。思ったが、当のジョーカーはやはり苦い顔をしていて、それがキッティに不安を与える。
ねえ、ねえねえジョーカー? キッティの声が口から出ることはなかった。ボールだと思っていたものたちに口が浮かんだのだ。やつらは大口を開けて、けたたましく笑いはじめた。ぎゃはは、きゃはは、ふふふ、くすくす。公演中に聞ける快晴のそれではない。気味の悪い、甲高い笑い声。
どこからともなく聞こえてくるようにも思われたし、自分の内側から発されているようにも感じられた。ふたりは顔を見合わせて、しかし互いが笑っていないことを確認した。団員の誰とも似ていない笑い方、数の合わない重なり方。嫌な笑い声に包まれたキッティは、卒倒してしまいそうになった。
ふらっと力の抜けた体が、ジョーカーによって抱き留められる。頭が押し付けられ、視界が彼の胸でいっぱいになる。気づけば耳もジョーカーによってふさがれていて、キッティはくぐもった笑い声のみを聞くことになった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」ジョーカーの低い声が、思考を落ち着かせてくれる。「だいじょうぶだからね、キッティ。ぼくがいる」
なにが起きているのか、まったくわからなかった。
テントの外から足音が聞こえる。大きな足音。どすどす、雪を踏んでいるとは思えない。それから扉が叩かれる音。おーい。向こう側から男の声が響く。
「おーい」外側からまた声が聞こえる。これは、先ほどまでの現象と同じもの、だろうか。ふたりは顔を見合わせた。
「おーい、あなたたちまだ練習しているわけ?」美しいテノールに、甘い口調。これは確かに、いやきっと、団長の声だろう。ふたりは扉を見つめる。「入るわよ!」
どん、力任せに扉が開かれる。瞬間、すべてが元の通りに戻っていた。灯りは周囲を照らし、誰もいない観客席からもスポットライトの消えたステージ上にも笑い声はない。ボールも重力に従ってその場に落ち、背後のツリーも燃えていない。すべてがウソだったかのように、なんともなかったかのように、いつも通りだ。
向こうからやってきたのは、青く長い髪に真っ青なドレスを着たがたいのいい――というか太ったヒト。肩幅やそのテノールのおかげで、彼が彼 であることを強調している。メイクは落としてしまったのか、ほりの深い精悍な顔立ちがより際立っている。
「んもう、なんて時間までこんなところにいるのよ。おやすみはおやすみ、何度も言っているでしょう?」
彼はこのヴァンドーラ・サーカス団の団長であり、魔女の子たちの育ての親でもある。団長は、ただの人間だった。だから存在しない髪色に染め続け、珍しい人間――魔女に近い者であると主張するためにクイーンであり続ける。魔女である子どもたちと、似たような境遇になるために。
「だからって、……だからってこんなことしなくたっていいじゃないの、団長!」キッティは涙目になりながら主張する。団長がぽかんとしていることにも気づかずに。「そんなことより、団長も魔法が使えるなら早く言ってちょうだいよ!」
眉間にしわを寄せたジョーカーが、キッティの言葉を制する。もしかして。ジョーカーは言葉にするのさえためらいがちに、口を開く。
「もしかしてこれは、団長がやったわけではないのですか?」
「え、えぇと、僕にはなんの話だかわからないけれど、そうね、確かにあなたたちにサプライズはしようとしたわ」
「やっぱり!」キッティは叫ぶように言う。
「でも僕、魔法は使えないわよ? 忘れないでちょうだい、僕は魔女になりたいだけのただの人間だもの」
キッティは黙った。徐々に顔から感情が抜け落ちていき、最後には目も口も大きく開いたままなにも言えなくなってしまった。
「じゃあさっきのは――」
「ねえそんなことより、サプライズ失敗しちゃったのよ!」
ジョーカーの言葉をさえぎり、団長は走ってやってくる。何年も身に着けているはずなのにまだ慣れていないのか、ハイヒールでくじいたりドレスにつまづいたりしながら。
だからだろうか、彼の手にあった小さな――というか彼が大きすぎるだけなのだが――ケーキは、ぼろぼろになっていた。
「ほら、ね。昨日が、あなたたちの入団日だったでしょ。何年目かしらね、とにかく、ここに来てくれてありがとう」
斜めに刺されたろうそくに、ジョーカーが火をつける。彼はキッティと目を合わせたのち、一歩下がった。キッティはそれを、「火を消せ」だと判断した。ふう、と息を吹きかける。辺りの灯りも一緒に消えた。
「メリークリスマス」
ふと見上げた視線の先に、キッティは穴を見つけた。雪が数粒、自分のもとへとやってくる。肉球を上にして手を上げ、それを受け止める。ぴと、落ちてきたひと粒はじっくり見る間もなく溶けていく。そこにはただ、しずくが残るだけ。
「ねえ、ねえねえジョーカー?」キッティははるか下のステージでジャグリングを――否、浮遊魔法の練習をするピエロに呼びかける。「ジョーカーはどうしてそんなに美しいの?」
ジョーカーが考えるようなしぐさをすると同時、回っていたボールが動きを止める。ジャグリングの途中で時間が止まってしまったかのように、ボールは空中に浮かんだまま。ジョーカーの大きな目がキッティの方を向いて、しかしなにを言うこともなくその瞳は落ちていく。重力に従うボールのように。
「なにを言うんだい
彼がそう言えば、キッティは座っていた高台から飛び降りる。四つ足でうまく着地したキッティは、後ろ足でしかと立つ。傷もケガも、どこにもない。それは彼女が魔女だからなのだろうか。
「何度だって言うけれど、それは危ないからやめてくれないかキッティ。ぼくにだって怖いものはあるんだ」
「でもあたしは無事よ。人間にとって危ないってだけで、あたしにはなんともないんだもの、いいでしょ?」
「そうだね、だってぼくがきみに浮遊の魔法をかけているんだから」
ジョーカーもまた魔女――性別問わず、人間離れのわざを使う者はそう呼ばれている――だった。ここはヴァンドーラ・サーカス団。取り返しのつかなくなった、ワケありの子どもたちが育つ場所。そう、魔女として村を追放された子どもたちが。
ジョーカーはその痩身をよじらせてキッティの方を向き、クラシックの指揮のように手を舞い上げる。するとキッティの体は地面から離れていく。自分ではなにもしていないのに。これこそジョーカーの得意とする魔法のひとつ、浮遊魔法だ。いつもはジャグリングやアクロバットを行うときにしか使わない魔法。
喜んだキッティは、その場で宙返りをする。獣に似た力を持つ彼女には、簡単なことだった。しかし宙に浮きながらするのははじめてのことだ。爪をしまった手を口元に持っていき、くすくす、と笑う。
「そうだったのね。ジョーカーのおかげであたし、なんてことなく着地できていたんだわ!」
うれしそうに叫んだキッティは、宙に浮いたまま飛び跳ねたり横に揺れたりしている。見ているだけではつまらなかったのか、ジョーカーも彼女のもとへと飛んで行った。それからキッティのもこもこの手を取り、口づけた。
「きゃっ」キッティが顔を赤くするのと同時、周りの灯りが落ちる。「きゃあっ」
辺りが暗くなる。瞬間、ジョーカーの視界は使い物にならなくなったが、そばには夜目のきくキッティがいる。彼女の手を強く握り、暗闇に慣れるまでじっと目を凝らす。
――ステージに取り付けられたスピーカーから、なにやら音が聞こえてくる。ざざっ、ざぁっ。無線が向こうの嵐をキャッチしたかのような音だった。実際、外にはつながっていないはずなのに。もしこの時間になにかが流れるとしたら、団長からの呼び出しだろうか。そう思ったふたりは続く団長の声を待っているが、いつまで経ってもその音は言葉になりそうにない。
いや、言葉にはなっていたのかもしれない。ただ、それが意味の通じるものではなかったというだけで。確かに団長に似ている声だったが、まったくもって似ても似つかない声だったとも言える。その声はただただ同じ音を繰り返しているようにも聞こえた。
「待って待って、ねえねえジョーカー、これってあなたの魔法よね?」
キッティの瞳には、ジョーカーの険しい表情が映った。それはまったく予期していなかったことが起きたときのそれと同じで、関与していないのは明白だった。つまり、これはジョーカーによるサプライズではないらしい。キッティは震えた。
「いっ、いやよそんなのっ! これってなんなの、ねえジョーカーったら!」
「ごめんね、キッティ」ジョーカーは静かに首を横に振った。
確かに、よく考えてみれば、ジョーカーが浮遊や炎以外の魔法を使っているところなど、見たことがない。灯りを消したり、電波をジャックしたりする魔法など、きっと彼は持っていないのだ。ということは、これはどういう現象なのか? ジョーカーは険しい顔のまま、自分たちの高度を下げていく。
たどり着いたステージ上には、白いスポットライトがあてられている。ステージ周囲のライトに電源が入っている様子はまったくないのに、なぜだかふたりはライトアップされている。ふと観客席に目を移せば、透明の客がいるように見えた。口を開いて、手を叩いてこちらを向いている。あれが人間でないことだけは、確かだった。
キッティは、さあっと血の気が引いていくのを感じている。立っているのもやっとだ。背中にあたたかな手を感じる。ジョーカーの支えがなければ、立っていられなかっただろう。キッティはジョーカーに縋り付いた。
「ねえ、ねえねえジョーカー、とっても怖いわ。あたしたち、なんともないのよね?」
ジョーカーの白い手袋が、キッティの頭を、耳のあたりを撫でる。安心する手の形に、しかし不安でならない状況に、キッティは縮こまった。
ぼっ、と音がしたかと思えば、辺りが赤く映し出される。キャンドルの炎を灯したかのような見え方に、ふたりは背後を振り返る。この時期特別に設置されているツリーが、見る影もなく真っ赤に燃えている。赤くなったツリーの頂点には、不敵な笑みを浮かべるスターが飾られている。いつもはにこやかに笑いかけてくれるはずなのに。
けれどこれは炎の魔法だ、ジョーカーが視界をクリアにするためにそうしてくれたのだろう。キッティはそう思ったが、当のジョーカーは怪訝そうにしている。というよりも、なにかに恐れを感じたような顔だった。
もしかして、そう思うと声が出ない。キッティは体に力を入れながら、これ以上ないほどジョーカーにくっついた。
「あぁ、きっとなんともないさ。きっとね」
足元に落ちていたボールが浮かぶ。それらはふたりの周りを楽しそうにゆらゆら揺れている。キッティは、これこそはジョーカーの魔法だと思った。思ったが、当のジョーカーはやはり苦い顔をしていて、それがキッティに不安を与える。
ねえ、ねえねえジョーカー? キッティの声が口から出ることはなかった。ボールだと思っていたものたちに口が浮かんだのだ。やつらは大口を開けて、けたたましく笑いはじめた。ぎゃはは、きゃはは、ふふふ、くすくす。公演中に聞ける快晴のそれではない。気味の悪い、甲高い笑い声。
どこからともなく聞こえてくるようにも思われたし、自分の内側から発されているようにも感じられた。ふたりは顔を見合わせて、しかし互いが笑っていないことを確認した。団員の誰とも似ていない笑い方、数の合わない重なり方。嫌な笑い声に包まれたキッティは、卒倒してしまいそうになった。
ふらっと力の抜けた体が、ジョーカーによって抱き留められる。頭が押し付けられ、視界が彼の胸でいっぱいになる。気づけば耳もジョーカーによってふさがれていて、キッティはくぐもった笑い声のみを聞くことになった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」ジョーカーの低い声が、思考を落ち着かせてくれる。「だいじょうぶだからね、キッティ。ぼくがいる」
なにが起きているのか、まったくわからなかった。
テントの外から足音が聞こえる。大きな足音。どすどす、雪を踏んでいるとは思えない。それから扉が叩かれる音。おーい。向こう側から男の声が響く。
「おーい」外側からまた声が聞こえる。これは、先ほどまでの現象と同じもの、だろうか。ふたりは顔を見合わせた。
「おーい、あなたたちまだ練習しているわけ?」美しいテノールに、甘い口調。これは確かに、いやきっと、団長の声だろう。ふたりは扉を見つめる。「入るわよ!」
どん、力任せに扉が開かれる。瞬間、すべてが元の通りに戻っていた。灯りは周囲を照らし、誰もいない観客席からもスポットライトの消えたステージ上にも笑い声はない。ボールも重力に従ってその場に落ち、背後のツリーも燃えていない。すべてがウソだったかのように、なんともなかったかのように、いつも通りだ。
向こうからやってきたのは、青く長い髪に真っ青なドレスを着たがたいのいい――というか太ったヒト。肩幅やそのテノールのおかげで、彼が
「んもう、なんて時間までこんなところにいるのよ。おやすみはおやすみ、何度も言っているでしょう?」
彼はこのヴァンドーラ・サーカス団の団長であり、魔女の子たちの育ての親でもある。団長は、ただの人間だった。だから存在しない髪色に染め続け、珍しい人間――魔女に近い者であると主張するためにクイーンであり続ける。魔女である子どもたちと、似たような境遇になるために。
「だからって、……だからってこんなことしなくたっていいじゃないの、団長!」キッティは涙目になりながら主張する。団長がぽかんとしていることにも気づかずに。「そんなことより、団長も魔法が使えるなら早く言ってちょうだいよ!」
眉間にしわを寄せたジョーカーが、キッティの言葉を制する。もしかして。ジョーカーは言葉にするのさえためらいがちに、口を開く。
「もしかしてこれは、団長がやったわけではないのですか?」
「え、えぇと、僕にはなんの話だかわからないけれど、そうね、確かにあなたたちにサプライズはしようとしたわ」
「やっぱり!」キッティは叫ぶように言う。
「でも僕、魔法は使えないわよ? 忘れないでちょうだい、僕は魔女になりたいだけのただの人間だもの」
キッティは黙った。徐々に顔から感情が抜け落ちていき、最後には目も口も大きく開いたままなにも言えなくなってしまった。
「じゃあさっきのは――」
「ねえそんなことより、サプライズ失敗しちゃったのよ!」
ジョーカーの言葉をさえぎり、団長は走ってやってくる。何年も身に着けているはずなのにまだ慣れていないのか、ハイヒールでくじいたりドレスにつまづいたりしながら。
だからだろうか、彼の手にあった小さな――というか彼が大きすぎるだけなのだが――ケーキは、ぼろぼろになっていた。
「ほら、ね。昨日が、あなたたちの入団日だったでしょ。何年目かしらね、とにかく、ここに来てくれてありがとう」
斜めに刺されたろうそくに、ジョーカーが火をつける。彼はキッティと目を合わせたのち、一歩下がった。キッティはそれを、「火を消せ」だと判断した。ふう、と息を吹きかける。辺りの灯りも一緒に消えた。
「メリークリスマス」
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