夏の歌

 案の定、母は怒鳴った。その感情にまかせて怒鳴り散らして、僕に暴力を振るい尽くした。目の前で夕食を捨てられ、それから僕は家の外に出された。
 「私の気が済むまでそこで反省してなさい」なんて言葉を吐いたけど、どうせ今日も僕を追い出したことを忘れるのだろう。そして父が帰ってきたときにけろっと「どうしてそんなところにいるの、早く入りなさい、汚い」とか何とか言うのだ。それも父の変化には一ミリも気付かずに。
 はあ、無意識にため息を吐く。こんな人生、生きていて何の意味があるというのだろう。僕という存在に意味はあるのだろうか。
 以前、両親に夢を語ったとき「お前にはそんなことできやしない」と一蹴されたことを思い出した。
「お前にはそんな才能なんていないのだから、せめて公務員として普通に働いてくれ」
 なんて言って、本当はたったひとりの息子が夢を追いかけることで自分らの収入が減ることを案じているだけだ。普通の家庭はどうなのかわからないが、母は僕が就職したら最低でも毎月一万寄越せと言ってきた。母曰く「お前を育ててやった分を返せ」だとか。
 もう一度思い切りため息をついてから、僕は立ち上がった。たぶんこんな家にいたら僕も腐ってしまうから。それなら家出でもして有意義に時間を使う方が良いだろう。
 夏とは言え、少し寒い夜を歩き出す。目的地はない。どこでも良かった。僕が僕でいられる場所なら、どこでも良かったのだ。
 気付けば僕は、放課後に来たあの古びた小屋に来ていた。
「あれ、早かったな。いやこの場合は早いじゃないか、何て言うかな……」
 そこにはあの男子高校生がいた。机の前に座り込んで、あのノートを読んでいたようだ。彼も僕と似たような境遇きょうぐうなのだろうか。
「——君はさ、どうしてここにいるの」
 僕は思いきって聞くことにした。きっとこの人とはこの先も仲良くできるような気がしていたから。こんなに僕たちは違っているけど、きっとわかり合えると思ったから。
「どうしてって……これまた難しいことを聞くなぁ」
 彼は持っていたノートをパサッと机に戻し、考えるように腕を組んだ。
「ここが好きだから、かな」
「家族は……家族は君のこと、心配してないの」
「あぁ、家族なんていないんだ。みんな、死んじゃったから」
 彼は微笑みを崩さずにそう言ってのけた。
 きっと僕なんかと違って、親に愛されていたのだろうし、それに彼も世界で一番愛していたのだろう。それなのに、そんなに大切な人たちを失っているのに、どうしてそんな笑顔でいられるのだろう。
「……ごめん」
「良いよ、別に。それより、君こそ家族が心配してるんじゃないの?」
「ううん、大丈夫だよ。あの人たちは僕の心配なんてしないから」
 納得できていない様子だったが、彼は不思議そうな顔をしながら「そうか」と言った。
「――あ、そうだ。さっき聴かせてくれなかったしさ、もう一回何か歌ってみせてくれよ」
「嫌だよ。何でそんなこと……」
「ふふ、俺が聴きたいから」
 何度か誤魔化したり、話を逸らしたりしてみたが、どうしてもと言って聞かないので、結局僕が折れる形になった。
 歌、か。あの日、親に否定されて以来あまり気が進まなくて、鼻歌すらしていなかった。夕方のあれは、何故か、勝手に口が紡ぎ出したのであって、僕の意思ではない。
 どうして歌ったりなんてしたのだろう。それさえなければこの人にこんなに言われることもなかったのに。でも同時に、あれがなかったら彼に会えていなかったような気もしている。運命、なんて二文字が脳に浮かんだ。
「仕方ないな」
 ため息交じりにそう言ってから、ゆっくりと息を吸い込んだ。歌うのは何にしようか、どんな風に歌おうか、そんなことは何一つ考えずに、心から出てくるメロディを奏でていく。ひとつひとつの言葉を大切に、一音一音を意識して。
 目を閉じればたくさんの笑顔があって、そこには母も父も、それから彼もいる。僕の世界の幸せが詰まっている。スポットライトが僕を照らし出して、熱いくらいの視線を浴びる。みんなが僕の歌声に聴き入っている。歌い終えるとパラパラと拍手が聞こえてきて、それが段々と大きな音へ変わっていく。
 ――目を開くと、そこには彼しかいない。けれど夢のステージで歌い上げたような気分は続いていた。
「すごい、かっこいいじゃん!」
「いや、そんなことは……」
「君さ、もっと自信持って良いと思うよ。俺は君の歌声好きだな」
 彼はふわりと笑った。何だかそれがもう届かないようで、透き通っていくようで。もう二度と会えないかもしれないと、予感さえした。
「ねえ君は――」
「俺はね、夢を叶えられなかった。だから君には叶えて欲しいんだ。応援してるからさ」
「……うん、ありがとう」
「じゃあ、俺行くね。また次の夏には来るよ」
 彼はひらひらと手を振って、笑顔を悲しそうにゆがめた。
 あぁ、そういうことか。僕は開け放たれた扉に向かって、応援歌を歌った。彼の背中を押すために。そうだ、きっと彼は誰かからのエールが欲しかったのだ。
「きっと僕も、来年の今日ここに来るから」
 手を伸ばしても捕まえることはできない。彼はもう行ってしまった。
 何故だか胸が締め付けられるような思いがした。
2/2ページ
スキ