君と歩む

 太陽が笑顔を向けているうちに彼に会うのは、違和感を覚える。夜は見えないものが、はっきりと見えるからだろう。彼の持ち物や服装、表情が。ただひとつ、真実を除いて。
 それに、いつもは黒いロングコート一択の彼がなんと、スーツを着ているではないか。そして手にはタクシー運転手のような白い手袋。このいつもとは全く違う二点セットが、さらに胸の中で踊る変な感じを加速させている。
 かく言う私も、新品の洒落しゃれた服を至急用意したのだが。
「今日は、スーツなんだ」
「まぁ、よそに行けるような服なんてこれしかなかったしね」
 彼はいつもこんな微笑みを浮かべているのか。
「じゃあ行こうか」
 私が誘ったが、美術品というものをこれほど近くに寄って見る機会は今までになかった。
 何となく荘厳そうごんな、王宮のようなイメージをしていたが、そんなに近づきがたいものではないようだ。
 ぽつりぽつりと作品が展示されている。そのひとつひとつが全く違うものをモチーフにして描かれているらしい。人間の心の中に入れたなら、こんな風に感情が展示されているのだろうか。神秘的で美しいものもあれば、シンプルなのに人生を物語っているものもある。より深い場所には厳重な警備がされている、誰にも見せられないものがあるのだろう。
 なかなか興味深い、などと思っていると、彼がさっさと先の方へ進んでいたことに気づかなかった。
 それは、ナポレオン戦争についての絵画だった。
 中心に描かれている馬に乗った男は剣を振りかざし、目の前の人間たちは逃げようと必死になっている。周りには血を流して動かなくなった死体の山。それをより大きくしようと殺到している男たち。圧倒的な死の量、死の圧。
 呼吸器を直接握られているかのような、涙を流せと脳に命令されているかのような、そんな気持ちになる。苦しくてたまらない。こんなことが本当にあったというのか。
 息を吸うばかりで吐くことができなくなった私は、とっさに目を背けた。
 しかし、彼はそれを見つめ続けていた。どんな表情をしているのか、どんな瞳を向けているのか、それは私からは見えない。彼の思考なんて、ひとつも覗くことはできないのだ。
 この時代の生活はどうだったのだろうか。人を大量に殺すことがめられるような、敵の首をかかげれば英雄だとされるような、この時代は。今では考えることのできない、すさまじい時代だったのだろう。
 もし、もしも彼がこの絵のような時代に生まれていたら。苦しむことは、なかったのだろうか。
 この頬を一筋の涙が伝う。
 この絵に感銘を受けたから? それだけではない。彼という存在がそうさせた。
「泣いてるの?」
 いつの間にか私の方を向いていた彼がそう言った。以前に聞いた言葉であるはずなのに、全く違う響き、全く違うものが含まれているような気がする。もしかすると彼は。
 涙を拭うこともできず、彼を見つめる。
「何でもない、何でもないんだよ」
「ごめんね、もう帰ろうか」
 彼が、私を気遣っている。肩を撫でながら、優しい声色で。
「いいの、まだ見ていたいでしょう?」
 あぁ、そうか。きっと彼は──

 その日の夜、彼は私の前に現れなかった。いつもいるはずのあの場所に、いなかったのだ。
 私は勝手に共依存のようなものだと思っていたけれど、そうでもなかったらしい。彼に寄りかかっていたのは私の方だった。それは一方的なもので、彼は私の支えなんて、必要なかったのだろう。
 ただ、そんなことを考えてみても、何も感じないことに気付いてしまった。私も依存していたという訳ではないのかもしれない。
 近くに咲いていた花をつみ、一枚一枚花弁をちぎっていく。
「あぁ、きっと、彼はね、どうでもいいんだよ、私なんて」
 呟いてから、自分の声が揺れていることに気付く。
 何も思っていないなんて、そんなことはなかったようだ。感情を殺してしまっているだけで。昔のように、全てを失った時と同じように。
 ボロボロと崩れていく私を、元の形に戻してくれる人はもういない。家に帰っても、夜の散歩も、私はひとり。
 あの日の契約、彼は本当に覚えているのだろうか。私の生きる意味となった、あの契約を。
「私が作家になれなかったら、どうか、私とともに心中してくれませんか」
 私がそう言ったときの彼の顔は忘れられない。いつだって怪しい微笑みを貼り付けているか、もしくは真顔だった彼が、そのときだけははっきりと驚愕きょうがくを示したのだから。
 今考えてみれば、それはあたり前の反応だろう。だって、恋人でもなければ友人でもない、出会ってから七日目の全く知らない人間だったのだから。
 それでも、この発言は後悔していない。むしろあの日の私に感謝すらしている。ここまで生きていられたのは、これのおかげだから。
 別に死に方にこだわりなんてない。どう死んだって構わない。そう思っていたけれど、何故だろうか。彼となら死んでもいいと思った。私を殺して、そのあとに彼が死んでくれるならいいと。それなら幸せだろうと。愛なんて要らない。ただ、私の人生に終止符を打ってくれる人が、綺麗な幕を下ろしてくれる人が欲しかった。
 それなら、彼が適役だ。
 泣いてるの、と私をなぐさめてくれたあのときのことを、私は理解してしまった。左手の青い薔薇ばらは、造花だった。花言葉は、不可能、存在しない。
 契約を持ちかけるまでの数日間、私たちは色んな話をした。
「生だとか死だとか、愛だとか。何が美しいのか僕にはわからない」
 彼はそう言った。本心からの言葉だろう。
「ただ、これだけはわかる。僕は永遠に世間に馴染めないってこと」
 いつも持ち歩いていたナイフは街灯の光を反射させ、見つめる彼は見たこともない、少年のような輝きを放っていた。きっと血を浴びたりは、していないのだろう。
 そういえば、あのときに契約が承諾された訳ではなかった。彼はちゃんとした答えはくれなかったのだ。ただひとつ、「もしそうなったら、そうしたら考えるよ」と呟いただけで。
 うつむきながら、尽きそうな電力でかろうじて光をくれる街灯を見つけた。

 彼がいなくなってから、三ヶ月が経つ。
 作家になるというタスクを、ようやく成し遂げたのだ。外に出ることなど一度もなく。
 ただ、嬉しさが舞い踊るはずだったその場所に、ぽっかりと空いている穴を見つけてしまった。これはきっとそうなんだろう。
 打ち合わせをしていたら帰路につくのがすっかり遅くなってしまった。
「今日は帰ってから、次の長編の準備をして、それから……」
 道の影から、黒い長身の男が現れた。その左手にはナイフを携えて。
 あれは、ただの不審者なんかじゃない。彼だ。空いていた穴を埋めてくれるはずの、彼なのだ。
 会話をしようとゆっくり彼の方へ近づいて行く。
 そういえば。
 私は作家になった。だったら、心中の約束はなくなるだろう。私はそれでいい。そういう契約だったから。しかし、彼はどうだ。彼が望んでいるのは、どちらなのだろうか。
「私ね、作家になれたよ」
 もし彼が心中を決行しようとここに現れたのであれば、どうしたらいいのか。
 いや、そんなことは考えるだけ無駄だ。彼が私と死をともにしようと言うのなら従おう。彼のおかげで私は作家になれたのだから。彼がいたからこそ叶えられた。私は彼に救われたのだ。
「あ、そうだ、名前聞いてなかったよね」
 宙に浮かんだままの彼を、居場所をなくしてしまった彼を救えるのなら、私は喜んでそれを受け入れる。
「僕、決めたよ」
 彼は私の言葉など聞かずに、同じ速度で近づいてくる。
 恐怖はない。殺されても、生かされても、私は私を見つけられたから。彼も自分を理解できるなら、何をされたって構わない。きっとそれが彼の正解だから。
 目の前に来たとき、彼はフードを払った。
「もう決めたから」
 その表情は初めて見る、まぶしいくらいの本物の笑顔で。
 あなたは本当に素敵だよ。
 彼は左手をすっと上げると、ナイフを投げ捨てた。
「やめるんだ、こんなことは」
「……そうだね、それがいいよ」
「あとね、もうひとつ」
 彼はひとつ呼吸をしてから、右手を私に差し出す。
「僕、この世界を何も知らないんだ。だからさ、君が僕に教えてよ」
 その手を取って、私は彼をエスコートする。丁寧に、教えるのだ。この世界は美しいものだと。
2/2ページ
スキ