君と歩む
「ねぇ」
少し前を歩く彼は、私の方を振り向くことなく呼びかける。
全身は黒で統一された、いかにも怪しい危険そうな男だ。髪はのびきっていて、しかし、それでいて清潔感は損なわれていない。
本当だったら、何もなければ、彼はこの輝く道を歩めただろうに。
「今日はさ、何のために生きたの」
その声から感情は読めない。
いつもそうだ。彼とともに夜を歩くようになってからだいぶ経つが、最初から今まで、彼はずっと心を表に出そうとはしてくれない。
「そうだなぁ、何のためなんだろうね」
見上げながら言葉を
急に振り向いた彼の瞳の奥にも、星に似た何かが見えたような気がした。
ただ、これでも彼は少し変わったのだ。最初は、真っ黒な彼を覗いてみても真実は見えなかった。それが今では頬を緩めてみたり、目に色をのせてみたり。彼が本当に人間なんだと、信じられるようになった。
と言っても、私と彼が出会ったのは二週間前だから、私の勘違いや思い込みなのかもしれないけれど。
そうか、二週間。彼に会ってから、まだそれしか経っていないことに驚く。
あの日は
私の全てを注ぎ込んで描いた世界は、編集者の「うん、面白くないね」なんて一言で
傘をさせるような気力もなかった。なんとなくこの雨にうたれて、ついでに私も流してくれればいいとかなんとか思っていた。街ゆく人たちに何度も見られたけれど、世界の隅っこで隠れるようにして生きているこんな女の涙なんて、本当は誰も見たくないだろう。
私を洗ってくれる雨に感謝しながら、あの男を恨みながら、人生を
見知らぬ公園についたとき、全部がどうでも良くなった。
こんなことなら、ちゃんと死んでおくんだった。未練もなく
雨に濡れたベンチの上に座る。
久しぶりに声を出して泣いた。
父が全てを捨てて逃げたときも、母を病気で亡くしたときも、初めて手首を切ったときも、泣かなかったのに。生まれたときから私の中には涙なんてなかったのに。
「ねぇ、僕と遊ぼうよ」
いつの間にか近づいてきていた黒いレインコートの青年は、
「泣いてるの? 悲しいことがあったんだね」
彼は、不気味なほどのその笑みを崩さずに、うつむいている私をのぞき込む。
放っておいてよ。言葉は浮かぶのに、口からは出て行ってくれない。代わりに出たのは意味のない文字の
「僕が忘れさせてあげる」
彼はポケットに隠していた左手を出そうとした。
あぁ、私の描く世界だったら、こんなときどう曲がっていくのかな。主人公はきっと素敵な女の子で、私とは全く違う考え方を持っているんだ。だったら、雨の中泣いているあなたを
そう考えていると、無意識のうちに身体が動いていた。
彼の
「な、何すんだよ?」
唇を拭う彼の顔は赤面しているようで。
私は今、何をした? まさか、まさかね。
「は、初めてだったのに……」
「ごめんなさい、でも無意識で」
ちゃんと声を出しているつもりなのに、私の耳に届いてくるのは涙に濡れていて。
「もう辛くてたまらないの、意味もないこの人生を生きるのが」
一度
「ねぇ、どうしたらあなたみたいに微笑むことができるの。どうしたらこの運命を楽しめるの。私を殺してよ、もう死んでしまいたいの。そうでないなら、生きる意味を、どうか私に、生きる意味を」
彼は
「僕が君の生きる意味になれって? 面白いこと言うね」
鼻で笑ってから、ポケットにあった左手を引き抜いた。
「なってあげるよ、興味深いからさ」
その手には、青い
あの日から私たち二人は、毎晩一緒に散歩するようになった。
最初は生きるということについて、次は死、そして愛のことを話した。それらを難しい話題だと思わなかったのは、私たちの中に熱く、確かに存在していたから。
そうして話したいことも尽きてしまってからは、お互いの一日のことを報告するようになっていった。
そうだ、そのあたりだったはずだ。私が彼にあの契約を持ちかけたのは。
「作家になるため、って即答するかと思ったけど」
彼の声が聞こえて、自分の世界から戻ってくる。
今、私が考えていたことを言ったら、彼は何て言うかな。くだらないとか、どうでもいいとか、もしかしたら懐かしいねなんて、言ってくれるかな。
視界の端に、彼が蹴り損ねた小石が見えた。
「うん、それもあるよ。ちゃんとね」
今、私が上手に笑えているかなんてわからないけど、それでも笑顔を作れるようになったのは事実だ。そしてそれが彼のおかげだということも。
ただ、自分がいちばんわかっている。この物語がいともたやすくハッピーエンドに辿り着くことなんてないということを。
街灯が照らす道、光と影がはっきりと分かれている。きっと、私に何かを訴えているんだ。光は彼で、影が私。いや、もしかしたら反対かもしれない。でも、そんなこと、今はどうだっていい。
彼が言ったように、私の人生最大のタスクは作家になることだ。現在は彼が生きる意味となってくれているけど、それがいつまで続けられるのか。本当に作家になんてなれるのか。
「でもあなたに会うことだって、今日を生きた意味になるね」
振り向いた彼の顔は、深くかぶったフードのせいで見えない。でも、あのときと同じ微笑みが浮かんでいたなら。
前を向いたまま彼はピタリと止まる。しかし望みに反して、私の言葉に返事をしそうもない。
別に、期待なんてしていなかったけれど。
「ねぇ、明日って
「まぁね。僕にはやることなんてひとつもないから」
「じゃあさ、一緒に美術館に行こうよ。いつもこの道を歩くだけなんて、つまらないでしょ。たまには違うところ行ってみよ?」
「ふーん、まぁ、いいんじゃない」
バッグから出したチケットを彼に手渡す。いつもの黒い革の手袋。体温なんて感じない。
「本当に君って変なヤツだよ」
その言葉は、笑っているような気がした。
1/2ページ
