寂雷さんと呼ぶ(恋人になった後)
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注意書き
・8/13~8/20にかけてDLサイトに載せていたものになります
・(寝ている間の)夢の世界の話
・夢主の名前出ません
・余儀は無い私は揺るがない筈の先生が揺らぐ?感じです
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マイクの調子が悪いのか、ノイズが聞こえる。神宮寺寂雷は顔を上げ、目を開いた。辺りは暗く、肌寒い。夏の夜は、蒸し暑いものだ。
やがて目が慣れると、そこが森だということに気が付く。木々は鬱蒼として空を隠し、明かりという明かりは無く、自分の行く末を記すのはかかとを押す様に流れる湧き水だけだ。この湧き水は緩やかだが、すぐ近くからは本流と思わしき水の音が聞こえている。先ほど聞いたマイクのノイズと思わしき音は、川が流れる音だったようだ。
川。
寂雷は内ポケットにあるマイクの存在を忘れ、水の流れのまま足を進めていく。その川の流れはまるで背を押すようで、進めや進めとかさを増やしていった。どこへ向かおうと、何が待ち構えて居ようと、寂雷は恐れない。立ち止まっていられるほど疑問を抱いているわけでもない。行くべきところへ行くための川だ。
進め。
やがて寂雷の脚の半分も濡れる頃、がしりと足が掴まれる。少し立ち止まればそれは満足したように離れていった。一歩進めば、がしり。もう一歩進めばまた、がしり。最初は気に留めていなかった寂雷も、強く掴むわりには簡単に離れていく気配に溜息をつくこともあった。それが一歩進まないまでも、ふたつみっつと増えていく。逃げ出すことはない。走る必要は無い。掴みたいのなら掴み、引き留めたいなら気が済むまで付き合おう。
川とは下流になるほど流れが緩やかになる筈だ。嫌な予感を覚えた寂雷は流れが急に強くなったのを感じた。歩みを進める足はまだ掴まれ、離され、また掴まれながら冷たい水に打たれる。腰まで水に浸かるかと思った矢先、足元を掬われた。
苦しい! 口にも目にも水は入り、鼻の奥がツンとした。先ほどまで自分を引き留めていた腕が視界を流れていく。あれらに触れなければ。全てに触れていかなければ。寂雷は頭の先まで水流に包まれ、もがくようにして留まろうとするが、全ての腕には触れられず、土壁の向こうにはそのまま死んでいった腕が埋まっていく。ただ無念。痛ましい。彼らは生きていたかったと土に、空に、どこかに離散していく。腕たちが持っている目がこちらを見ている。何を訴えかけるでもなく。
精一杯に寂雷はもがく。ただ流されてなるものか。出来ることをするのだ。息継ぎなど必要ない。触れたいなら触れればいい。見たいのなら見ればいい。今の私の姿を見てくれ。理想でも幻想でも妄想でもない、この私の姿。髪を乱し、流れに逆らいきれず、それでも見過ごすことはしない。この体が裂けても本望だと、体の中心に血が通っている。
(これはいつまでも続くのだ)
やがて微睡みが肌を撫でる。息をつくと、月明かりが水面を通り越して深い場所へと差し込んできていた。光へ手を伸ばすと、肺に空気が入ってきた。寂雷はもう一度水面へと顔をつけ、髪をかき上げながら顔を出す。森は遠い。何者も自分を引きずり込まない、月が反射する海へと辿り着いていた。
やっと一息。穏やかな波に揺られながら、長い髪とぷかぷか浮かぶ。空はシンジュクでは見られないほど星々が輝き、ひときわ大きな満月が見守っている。自分一人が見守られているのではなく、月が世界全体を見守っているのだと感じる。
(川上で、月は私の周囲を照らしていなかった。でも今は、世界がよく見える。その優しい光のままに、あの腕たちの苦しみにも一筋の光を与えてほしい。しかし、月は月だ)
ゆりかごのような波が、寂雷を突然ひっくり返した。転覆した体は海に沈み、慌てさせた。どぼんと音を立てた世界は青く、美しい。岩陰に魚が潜んでいる。砂の中に何かがいる。ひときわ目を引いたのは、大きな二枚貝だった。その貝は、薄目を開いたようにこちらを伺っている。
「こんにちは」
寂雷がそう声を掛けると、少し貝が開く。人の形が見えた。それはとても衰弱して今にも息絶えそうである。
「私は医者です。具合が悪いのですね、外に出てきなさい」
どう呼び掛けても、それが出てくる気配はない。
このままではいけないと、寂雷は陸を目指す。
「生きなさい。簡単に命を諦めてはいけない」
波が砂浜へと寂雷と貝を運ぶ。貝は月を眺めながら塩水を流している。ふしゅふしゅ、ごぽりと泡を吹く。溺れているのだ。
「生きなさい。生きなさい」
寂雷が言い聞かせるが、貝はぴたりと閉じて黙り込む。逆さにしてみても、振っても、黙り込んでしまった貝。こじ開けようと爪の先を割り込ませようとするものの、まるで隙が無い。
殻を割るために叩き付けては中身が死んでしまう。しかし殻を閉じたままでも死んでしまうだろう。どうすればいいのだ、砂浜を振り返ってもそれらしい道具の一つも見つかりはしないし、自分の爪先も海にふやけて役に立たない。
「閉じこもって、どうするつもりだい。そのまま、死んでしまうのかい」
死なせはしないと強く訴えかける。次第に命の息吹は消えていく。流れ出ていくものが塩水ではなくなり、助からない、助からないと確信を強くしていく。誰かこの子を助けられる者はいないか。私ではだめなのだ。川の流れよ、月の光よ、浜辺よ、波よ、私の力不足か。
風が吹いた。抱えていた貝が大きなものによって奪い去られる。
「待ちなさい」
それは狼だった。体は並外れて大きく、月に照らされた毛並みは野性的でない艶めきがある。駆け寄る寂雷よりずっと早く距離を取ると、貝へと牙を突き立てた。
がちん。
月の光が牙を光らせた。それから、貝から溢れ出した光が牙を濡らしていく。血だ。泣いている。狼は涙を食い散らかすと、それを無理矢理に引き摺りながら空へと昇っていく。
「どこへ」
貝の中から腕が伸び、伸ばしかけていた寂雷の手を引くと、月の光より強く温かい光が二本の腕を包み込んだ。目が眩む。
「どこへ、行こうとしているのかな」
「いつか辿り着く場所に」
それはどこなんだ。
バキリ、と音を立ててオーロラ色をした貝の内側が足元へ落ちていく。トロトロとした蜂蜜のような光がこぼれ落ちていく。
「ああ」
いくら掬おうとしても、指の間をすり抜けていった。いいや、落ちていったのではない。私が、二人が、とてつもない速さで上へと昇っているのだ。全てを置き去りにして。
(行くべきではない筈だろう。私を必要としている人が沢山いるのだから)
どう考えようと、体は宙に浮かぶ。やがて雲を突き破ると、周囲をいくつもの月が囲んでいた。そのどれにも影が反射していて、寂雷と蜂蜜とを示していた。
周囲には腕も目も無い。あるのはただ甘く暖かな光だけだ。自我が溶けていく。足元が確かでなく、頼りになる感覚は蜂蜜の君だけだった。
「舐めたらきっと甘いのだろうね」
「栄養豊富ですよ」
どうぞと差し出された首筋に噛み付く。耐え難い幸福の香りが伝わった。生命の味がする。舌先が痺れるほどに次が欲しくなった。とろけている目が視界に入り、蜜を啜れば幸福そうに歪んだ。それが幸せで、その喉を食い潰すようにさらに顎の力を強めると、蜂蜜は私の鼻筋と耳を撫でた。
貴方と幸せになりたい。
それが夢の終わりに聞こえた言葉だった。
・
・
・
隣で眠る恋人の首筋に歯型がついている。昨晩寂雷が、つけてみてほしいとせがまれて、しょうがないと言いながらつけた、うっすらとした歯型だ。
(狼はどこへ行ったのだろう)
夢の途中でいつの間にか消えてしまった狼の事を、寂雷は思い出していた。麻天狼というチームを率いているリーダーが、狼の夢を見るのはなんだか嬉しいことだった。大きな狼なのだから、本来は危険である筈の存在だ。鋭い牙を持っていたにも関わらず、それはこちらを襲ったりはしなかった。むしろなんだか近しい生き物のように思えた。
そして夢の中で撫でられた感触がまだ残っているのが、未だにくすぐったい。頭の上に、あるはずのない感覚。人間にはあり得ない高すぎる鼻。それがもしかしたら、狼の耳や鼻骨の辺りなのだろうと想像すると腑に落ちた。
(牙を突き立ててまで、『ハニー』に目を覚まして欲しかった……なんてね)
寂雷は眠る恋人の髪を除けようと頬に手を添えた。すやすやと寝息を立てていた恋人は、その感触に声を漏らして瞼を持ち上げる。
「……寂雷さん?」
蜂蜜色ではないにせよ、あくびをした後の目は涙をこぼしてとろけた。起こすつもりは無かった寂雷だが、夢で見たような隙だらけの表情に満足する。
なるべく刺激を与えないように配慮された「ごめんね」に、安眠から揺り起こされたばかりの恋人は答えることが出来ない。代わりに、髪に触れた手を取り、頬に寄せた。寂雷が頬を撫でるので、恋人はゆっくりと言葉を探すことが出来た。
「夢でも、見ましたか」
寂雷の表情には笑みが浮かぶ。その脈絡が分からずにいる恋人には、それが愛情なのか、何かを隠しているのかがまるで分からない。ただ、頬を撫でる手は温かく、優しかった。
「狼になってしまう夢を見たよ」
静かに、楽し気に伝えられた言葉の内容は、耳に珍しく可愛らしい。野を駆けまわったのだろうか。遠吠えをしたのだろうか。普段から大人しい人ほどそういう欲求があるのかもしれないなと恋人は微睡みながら考える。
「狼になって、君を食べてしまう夢だった」
昨晩つけられた歯型に指先が滑る。普段恋人らしいことをしない人に我儘を言ってみれば、想像以上に綺麗に歯型をつけられたのだった。
「これをつけたからですか?」
「そうかもしれない。私も、大概男だったということかな」
男は狼だと言うからね。と、薄い歯型を付けた張本人が言う。その言葉通りなら、随分理性的な狼だと笑みが零れた。
「幸せですか」
不意に寂雷がそんな質問をするので、恋人は戸惑った。幸せでないわけがない。断言出来るほど素晴らしい日々を送っている。でもそれを訊くということは、幸せかどうか、不安を感じているということだと察した。夢の中で何かがあったのだろう。目を閉じかけている寂雷の表情からはヒントが得られない。「勿論」と一言返事をしようと口を開くと、同じタイミングで寂雷も口を開いた。
「恋人らしいことを君に手解きされるたびに、その悦びを思い知らされます。きっと君は私以上にそういうことに詳しいのでしょう。だからこそ、君が私で満足出来るのかが不安です。それとも、けだもののように君を喰らうのが正しいのか」
首筋を噛む行為も、けして知らなかったわけではない。理由が分からなかったからだ。どうしてそんなことをするのか?
「恋人らしいことを、私は自発的にはしてあげられないでしょう。頭の中に浮かんでこないものは、どうやっても出来ません。でもそれが、今の私にとっては寂しいことで……君が今のままで幸せなら、それでもいいと思っていますが」
重そうな瞼がゆっくりと開けば、綺麗な薄青色がこちらを見つめた。「勿論」という言葉を恋人は飲み込んだ。「それでもいい」わけでは無かったからだ。
驚いてしまうようなことでも、大好きな人にされれば嬉しいことというのは多い。不意打ちや、少し痛みを伴うこと、計画外のこと。それは二人が一人一人の人間であるから許容できること。狼と人では、加減を違えてしまえること。
恋人として寂雷が好きだ。髪を撫でたい。頬を撫でたい。首筋を嗅ぎたい。長い手足に閉じ込められてしまいたい。それ以外の触れ合いも、探りながら経験してきた。そのどれもが想像通りでは無いにせよ、現実の感触があった。それは二人の現状を確かにし、支え合っている実感として残った。その実感があれば、時に遠くへ離れても、やるべきことを成せるのだ。
「好きだからという理由で、君を傷つけたくはないのですよ」
寂雷は『人生の唯一の意義は人のために生きることである』と心に誓っている。だからこそ自分のため、不用意には他人に触れない。その恋人はそれを知っているからこそ、大きな手に頬を摺り寄せ、手を重ねる。
「寂雷さんはいつも忙しいでしょう。私は貴方が休める場所になりたい。だから私を相手にするときは、自然に過ごしてほしいです」
愛とは一体なんなのか。人それぞれに解釈が違うからこそ、思い思いの方向へと求めて彷徨う。衝突することもあれば、平行線を辿ってどうにもならないことだってある。互いに引き寄せられて絡み合ったからこそ離れ難く、変化を恐れる。しかし、二人が出会ってしまった時には、この夜はきっと約束されていた。
どうして人は共に夜を過ごしたくなってしまうのだろう。
「もしも嫌になったら『待て』と言います。貴方が心に飼っている狼を、私も愛しましょう。それさえ覚えていてもらえたなら、私は貴方を嫌うことはありませんよ。ほら、」
大きな手を頬から離し、器のようにした手の平に乗せた。
「お手」
そういって悪戯っぽく笑う恋人に、寂雷はかっと頬を熱くする。恥ずかしいのだ。自分は確かに幸せを感じているのに、その幸せを疑ったこと。年下の恋人に不安を打ち明けてしまったこと。眠りから覚めかけている己の中の獣も、その恋人は愛すると言ってくれたことへの、嬉しさも。
恋人が「今よりもっと好きになるかどうかは、わかりませんけれど」と思い出したように付け足した。寂雷は歪みかけた口を、手で覆い隠す様にあくびをした。
「もう一睡しましょう」
手の平から狼の手が無くなってしまったのが、恋人には少し寂しい。朝はまだ遠いですからと言葉を繋げた寂雷に、『自然に』過ごしてほしいなと口を尖らせる。
「あくびを手で隠すのは癖ですか」
不満げな恋人の目を見て、寂雷は自分の頬を撫でる。あくびをするのは人も狼も同じことだ。しかし人でありたい寂雷にとっては、それは見せるようなものではない。
「いくら恋人の前とはいえ、はしたない振る舞いはしたくありませんからね」
恋人が不満気に納得する表情に変わるのを愛おしく思う。寂雷は子供のようにあくびをする恋人の横顔を見て、その後のほんのりと照れた顔を見て、どこか暖かい気持ちになることを知っていた。
だからこそ見せない。いつまでも、この関係を崩したくないのだ。
「私も気を付けます」
そう言って慣れないそぶりで恋人はあくびを手で覆う。変わることは簡単だと、恋人は寂雷に示す。そしてそれに同意するように、寂雷はベッドの上に戻った手に大きな手を重ねた。目と目が合えば互いにそれを探り合う。変化に目を凝らす。お互い、こんなことでは相手を嫌いになれそうもないと笑い、眠りに落ちた。
注意書き
・8/13~8/20にかけてDLサイトに載せていたものになります
・(寝ている間の)夢の世界の話
・夢主の名前出ません
・余儀は無い私は揺るがない筈の先生が揺らぐ?感じです
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マイクの調子が悪いのか、ノイズが聞こえる。神宮寺寂雷は顔を上げ、目を開いた。辺りは暗く、肌寒い。夏の夜は、蒸し暑いものだ。
やがて目が慣れると、そこが森だということに気が付く。木々は鬱蒼として空を隠し、明かりという明かりは無く、自分の行く末を記すのはかかとを押す様に流れる湧き水だけだ。この湧き水は緩やかだが、すぐ近くからは本流と思わしき水の音が聞こえている。先ほど聞いたマイクのノイズと思わしき音は、川が流れる音だったようだ。
川。
寂雷は内ポケットにあるマイクの存在を忘れ、水の流れのまま足を進めていく。その川の流れはまるで背を押すようで、進めや進めとかさを増やしていった。どこへ向かおうと、何が待ち構えて居ようと、寂雷は恐れない。立ち止まっていられるほど疑問を抱いているわけでもない。行くべきところへ行くための川だ。
進め。
やがて寂雷の脚の半分も濡れる頃、がしりと足が掴まれる。少し立ち止まればそれは満足したように離れていった。一歩進めば、がしり。もう一歩進めばまた、がしり。最初は気に留めていなかった寂雷も、強く掴むわりには簡単に離れていく気配に溜息をつくこともあった。それが一歩進まないまでも、ふたつみっつと増えていく。逃げ出すことはない。走る必要は無い。掴みたいのなら掴み、引き留めたいなら気が済むまで付き合おう。
川とは下流になるほど流れが緩やかになる筈だ。嫌な予感を覚えた寂雷は流れが急に強くなったのを感じた。歩みを進める足はまだ掴まれ、離され、また掴まれながら冷たい水に打たれる。腰まで水に浸かるかと思った矢先、足元を掬われた。
苦しい! 口にも目にも水は入り、鼻の奥がツンとした。先ほどまで自分を引き留めていた腕が視界を流れていく。あれらに触れなければ。全てに触れていかなければ。寂雷は頭の先まで水流に包まれ、もがくようにして留まろうとするが、全ての腕には触れられず、土壁の向こうにはそのまま死んでいった腕が埋まっていく。ただ無念。痛ましい。彼らは生きていたかったと土に、空に、どこかに離散していく。腕たちが持っている目がこちらを見ている。何を訴えかけるでもなく。
精一杯に寂雷はもがく。ただ流されてなるものか。出来ることをするのだ。息継ぎなど必要ない。触れたいなら触れればいい。見たいのなら見ればいい。今の私の姿を見てくれ。理想でも幻想でも妄想でもない、この私の姿。髪を乱し、流れに逆らいきれず、それでも見過ごすことはしない。この体が裂けても本望だと、体の中心に血が通っている。
(これはいつまでも続くのだ)
やがて微睡みが肌を撫でる。息をつくと、月明かりが水面を通り越して深い場所へと差し込んできていた。光へ手を伸ばすと、肺に空気が入ってきた。寂雷はもう一度水面へと顔をつけ、髪をかき上げながら顔を出す。森は遠い。何者も自分を引きずり込まない、月が反射する海へと辿り着いていた。
やっと一息。穏やかな波に揺られながら、長い髪とぷかぷか浮かぶ。空はシンジュクでは見られないほど星々が輝き、ひときわ大きな満月が見守っている。自分一人が見守られているのではなく、月が世界全体を見守っているのだと感じる。
(川上で、月は私の周囲を照らしていなかった。でも今は、世界がよく見える。その優しい光のままに、あの腕たちの苦しみにも一筋の光を与えてほしい。しかし、月は月だ)
ゆりかごのような波が、寂雷を突然ひっくり返した。転覆した体は海に沈み、慌てさせた。どぼんと音を立てた世界は青く、美しい。岩陰に魚が潜んでいる。砂の中に何かがいる。ひときわ目を引いたのは、大きな二枚貝だった。その貝は、薄目を開いたようにこちらを伺っている。
「こんにちは」
寂雷がそう声を掛けると、少し貝が開く。人の形が見えた。それはとても衰弱して今にも息絶えそうである。
「私は医者です。具合が悪いのですね、外に出てきなさい」
どう呼び掛けても、それが出てくる気配はない。
このままではいけないと、寂雷は陸を目指す。
「生きなさい。簡単に命を諦めてはいけない」
波が砂浜へと寂雷と貝を運ぶ。貝は月を眺めながら塩水を流している。ふしゅふしゅ、ごぽりと泡を吹く。溺れているのだ。
「生きなさい。生きなさい」
寂雷が言い聞かせるが、貝はぴたりと閉じて黙り込む。逆さにしてみても、振っても、黙り込んでしまった貝。こじ開けようと爪の先を割り込ませようとするものの、まるで隙が無い。
殻を割るために叩き付けては中身が死んでしまう。しかし殻を閉じたままでも死んでしまうだろう。どうすればいいのだ、砂浜を振り返ってもそれらしい道具の一つも見つかりはしないし、自分の爪先も海にふやけて役に立たない。
「閉じこもって、どうするつもりだい。そのまま、死んでしまうのかい」
死なせはしないと強く訴えかける。次第に命の息吹は消えていく。流れ出ていくものが塩水ではなくなり、助からない、助からないと確信を強くしていく。誰かこの子を助けられる者はいないか。私ではだめなのだ。川の流れよ、月の光よ、浜辺よ、波よ、私の力不足か。
風が吹いた。抱えていた貝が大きなものによって奪い去られる。
「待ちなさい」
それは狼だった。体は並外れて大きく、月に照らされた毛並みは野性的でない艶めきがある。駆け寄る寂雷よりずっと早く距離を取ると、貝へと牙を突き立てた。
がちん。
月の光が牙を光らせた。それから、貝から溢れ出した光が牙を濡らしていく。血だ。泣いている。狼は涙を食い散らかすと、それを無理矢理に引き摺りながら空へと昇っていく。
「どこへ」
貝の中から腕が伸び、伸ばしかけていた寂雷の手を引くと、月の光より強く温かい光が二本の腕を包み込んだ。目が眩む。
「どこへ、行こうとしているのかな」
「いつか辿り着く場所に」
それはどこなんだ。
バキリ、と音を立ててオーロラ色をした貝の内側が足元へ落ちていく。トロトロとした蜂蜜のような光がこぼれ落ちていく。
「ああ」
いくら掬おうとしても、指の間をすり抜けていった。いいや、落ちていったのではない。私が、二人が、とてつもない速さで上へと昇っているのだ。全てを置き去りにして。
(行くべきではない筈だろう。私を必要としている人が沢山いるのだから)
どう考えようと、体は宙に浮かぶ。やがて雲を突き破ると、周囲をいくつもの月が囲んでいた。そのどれにも影が反射していて、寂雷と蜂蜜とを示していた。
周囲には腕も目も無い。あるのはただ甘く暖かな光だけだ。自我が溶けていく。足元が確かでなく、頼りになる感覚は蜂蜜の君だけだった。
「舐めたらきっと甘いのだろうね」
「栄養豊富ですよ」
どうぞと差し出された首筋に噛み付く。耐え難い幸福の香りが伝わった。生命の味がする。舌先が痺れるほどに次が欲しくなった。とろけている目が視界に入り、蜜を啜れば幸福そうに歪んだ。それが幸せで、その喉を食い潰すようにさらに顎の力を強めると、蜂蜜は私の鼻筋と耳を撫でた。
貴方と幸せになりたい。
それが夢の終わりに聞こえた言葉だった。
・
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隣で眠る恋人の首筋に歯型がついている。昨晩寂雷が、つけてみてほしいとせがまれて、しょうがないと言いながらつけた、うっすらとした歯型だ。
(狼はどこへ行ったのだろう)
夢の途中でいつの間にか消えてしまった狼の事を、寂雷は思い出していた。麻天狼というチームを率いているリーダーが、狼の夢を見るのはなんだか嬉しいことだった。大きな狼なのだから、本来は危険である筈の存在だ。鋭い牙を持っていたにも関わらず、それはこちらを襲ったりはしなかった。むしろなんだか近しい生き物のように思えた。
そして夢の中で撫でられた感触がまだ残っているのが、未だにくすぐったい。頭の上に、あるはずのない感覚。人間にはあり得ない高すぎる鼻。それがもしかしたら、狼の耳や鼻骨の辺りなのだろうと想像すると腑に落ちた。
(牙を突き立ててまで、『ハニー』に目を覚まして欲しかった……なんてね)
寂雷は眠る恋人の髪を除けようと頬に手を添えた。すやすやと寝息を立てていた恋人は、その感触に声を漏らして瞼を持ち上げる。
「……寂雷さん?」
蜂蜜色ではないにせよ、あくびをした後の目は涙をこぼしてとろけた。起こすつもりは無かった寂雷だが、夢で見たような隙だらけの表情に満足する。
なるべく刺激を与えないように配慮された「ごめんね」に、安眠から揺り起こされたばかりの恋人は答えることが出来ない。代わりに、髪に触れた手を取り、頬に寄せた。寂雷が頬を撫でるので、恋人はゆっくりと言葉を探すことが出来た。
「夢でも、見ましたか」
寂雷の表情には笑みが浮かぶ。その脈絡が分からずにいる恋人には、それが愛情なのか、何かを隠しているのかがまるで分からない。ただ、頬を撫でる手は温かく、優しかった。
「狼になってしまう夢を見たよ」
静かに、楽し気に伝えられた言葉の内容は、耳に珍しく可愛らしい。野を駆けまわったのだろうか。遠吠えをしたのだろうか。普段から大人しい人ほどそういう欲求があるのかもしれないなと恋人は微睡みながら考える。
「狼になって、君を食べてしまう夢だった」
昨晩つけられた歯型に指先が滑る。普段恋人らしいことをしない人に我儘を言ってみれば、想像以上に綺麗に歯型をつけられたのだった。
「これをつけたからですか?」
「そうかもしれない。私も、大概男だったということかな」
男は狼だと言うからね。と、薄い歯型を付けた張本人が言う。その言葉通りなら、随分理性的な狼だと笑みが零れた。
「幸せですか」
不意に寂雷がそんな質問をするので、恋人は戸惑った。幸せでないわけがない。断言出来るほど素晴らしい日々を送っている。でもそれを訊くということは、幸せかどうか、不安を感じているということだと察した。夢の中で何かがあったのだろう。目を閉じかけている寂雷の表情からはヒントが得られない。「勿論」と一言返事をしようと口を開くと、同じタイミングで寂雷も口を開いた。
「恋人らしいことを君に手解きされるたびに、その悦びを思い知らされます。きっと君は私以上にそういうことに詳しいのでしょう。だからこそ、君が私で満足出来るのかが不安です。それとも、けだもののように君を喰らうのが正しいのか」
首筋を噛む行為も、けして知らなかったわけではない。理由が分からなかったからだ。どうしてそんなことをするのか?
「恋人らしいことを、私は自発的にはしてあげられないでしょう。頭の中に浮かんでこないものは、どうやっても出来ません。でもそれが、今の私にとっては寂しいことで……君が今のままで幸せなら、それでもいいと思っていますが」
重そうな瞼がゆっくりと開けば、綺麗な薄青色がこちらを見つめた。「勿論」という言葉を恋人は飲み込んだ。「それでもいい」わけでは無かったからだ。
驚いてしまうようなことでも、大好きな人にされれば嬉しいことというのは多い。不意打ちや、少し痛みを伴うこと、計画外のこと。それは二人が一人一人の人間であるから許容できること。狼と人では、加減を違えてしまえること。
恋人として寂雷が好きだ。髪を撫でたい。頬を撫でたい。首筋を嗅ぎたい。長い手足に閉じ込められてしまいたい。それ以外の触れ合いも、探りながら経験してきた。そのどれもが想像通りでは無いにせよ、現実の感触があった。それは二人の現状を確かにし、支え合っている実感として残った。その実感があれば、時に遠くへ離れても、やるべきことを成せるのだ。
「好きだからという理由で、君を傷つけたくはないのですよ」
寂雷は『人生の唯一の意義は人のために生きることである』と心に誓っている。だからこそ自分のため、不用意には他人に触れない。その恋人はそれを知っているからこそ、大きな手に頬を摺り寄せ、手を重ねる。
「寂雷さんはいつも忙しいでしょう。私は貴方が休める場所になりたい。だから私を相手にするときは、自然に過ごしてほしいです」
愛とは一体なんなのか。人それぞれに解釈が違うからこそ、思い思いの方向へと求めて彷徨う。衝突することもあれば、平行線を辿ってどうにもならないことだってある。互いに引き寄せられて絡み合ったからこそ離れ難く、変化を恐れる。しかし、二人が出会ってしまった時には、この夜はきっと約束されていた。
どうして人は共に夜を過ごしたくなってしまうのだろう。
「もしも嫌になったら『待て』と言います。貴方が心に飼っている狼を、私も愛しましょう。それさえ覚えていてもらえたなら、私は貴方を嫌うことはありませんよ。ほら、」
大きな手を頬から離し、器のようにした手の平に乗せた。
「お手」
そういって悪戯っぽく笑う恋人に、寂雷はかっと頬を熱くする。恥ずかしいのだ。自分は確かに幸せを感じているのに、その幸せを疑ったこと。年下の恋人に不安を打ち明けてしまったこと。眠りから覚めかけている己の中の獣も、その恋人は愛すると言ってくれたことへの、嬉しさも。
恋人が「今よりもっと好きになるかどうかは、わかりませんけれど」と思い出したように付け足した。寂雷は歪みかけた口を、手で覆い隠す様にあくびをした。
「もう一睡しましょう」
手の平から狼の手が無くなってしまったのが、恋人には少し寂しい。朝はまだ遠いですからと言葉を繋げた寂雷に、『自然に』過ごしてほしいなと口を尖らせる。
「あくびを手で隠すのは癖ですか」
不満げな恋人の目を見て、寂雷は自分の頬を撫でる。あくびをするのは人も狼も同じことだ。しかし人でありたい寂雷にとっては、それは見せるようなものではない。
「いくら恋人の前とはいえ、はしたない振る舞いはしたくありませんからね」
恋人が不満気に納得する表情に変わるのを愛おしく思う。寂雷は子供のようにあくびをする恋人の横顔を見て、その後のほんのりと照れた顔を見て、どこか暖かい気持ちになることを知っていた。
だからこそ見せない。いつまでも、この関係を崩したくないのだ。
「私も気を付けます」
そう言って慣れないそぶりで恋人はあくびを手で覆う。変わることは簡単だと、恋人は寂雷に示す。そしてそれに同意するように、寂雷はベッドの上に戻った手に大きな手を重ねた。目と目が合えば互いにそれを探り合う。変化に目を凝らす。お互い、こんなことでは相手を嫌いになれそうもないと笑い、眠りに落ちた。