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神宮寺さんと呼ぶ(恋人になる前)

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寂雷先生に呼ばれたい名前欄です。

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注意書き


寂雷先生が朝ごはんを食べない主義というのは私の妄想です。
お昼と夜、しっかり沢山食べます。

ちっともラブラブではないです。一定の距離があります。友人オチです。

そのほか、ハマりたてですので心の広い方のみお進みください。

途中でオリ主視点に切り替わります。


三行で

身を削る意味を履き違えた女が
寂雷先生と引き止められて
一緒に暮らすまでの話

見どころ

・隠れた名店が好きな先生
・カードしか持たない先生
・足がとにかく長い先生
・足がすごく早い先生
・釣りの最中雑念まみれの先生
・てやんでいを笑う先生
・一本の釣り竿をみんなで引っ張る麻天狼
・先生の釣り竿が強い
・エイはおいしいです
・先生に言及する独歩
・先生マイク使います
・朝ごはん用意してくれる先生

******************************/









遺産というのはこうもあっけなく無くなるものだろうかと、空にした通帳を閉じた。
中王区周辺に向かうために必要な準備は整った。これ以外に自分のためのものなどもう無い。
丸々と太ったリュックサックを背負い、原付に乗る。
どこか遠い場所で、食い扶持を稼がなければならなくなるなんて。

(ばあちゃん。アタシは大人だけど、一人じゃ生きていけないよ。でも誰が私なんかを救ってくれるっていうんだろう。)

女を乗せたバイクは田や畑を背景にを走り出す。遠い場所へと向かって。









「中華の隠れた名店を見つけたの! 駅の近くなんだけど、とても美味しくて」

「見かけたことあるかも! あの鬱蒼とした所じゃない?」

「そう! 今度行きましょう」

(隠れた名店……か。興味深い)

昼休みが始まった直後、ナースの会話が神宮寺寂雷の耳に届いた。珍しく午前の診察があまり押さず、そこそこの余裕があったため、寂雷は長い脚で思い当たる中華屋まで向かった。
しかし神宮寺寂雷が嬉々として入った中華屋は、キャッシュオンリーの店だったのである。

「ウチ、現金だけなんで」

「それは、困ったな……」

ぱくぱくと数枚の皿を平らげ、非常に機嫌が良い時に限ってこういうことがある。
午後の診察時間が迫っている。すぐ近くにATMはあっただろうかとカードを睨む店主に聞こうとした時、それは店先から顔を出した。

「あれ? お久しぶりです寂雷さん」

寂雷を『寂雷さん』と呼び、人懐っこそうな表情をし、軽快な拍子で出入口のマットを踏んだ女はリュックサックのサイドポケットから財布を取り出した。

「あ、私が払います。こちらで足りますか?」

財布から万札を1枚引き抜くと、「フン」と鼻を鳴らした店主がレジスターを開く。

「え、君。そんな、悪いよ」

「この前の借りを返したいんです。払わせてください」

女は店主から数枚の札とつり銭を受け取る。「ありがとうございます」と言いながら。
呆然と立ちっ放しになっている寂雷には『この前の借り』など思い当たる節が無い。患者だっただろうか、それなら払わせてしまったのは良くないことだ。
寂雷が制止するより先に女は食べてもいないのに「ごちそうさまでした」を言って、店を出た。それを追いかけるように寂雷も「ごちそうさまでした」と言って外へ出た。
駅の近くだが、人通りの少ない裏路地だ。すぐに大きなリュックサックを背負った後ろ姿を見つけ、寂雷は後を追い、リュックサックに手を掛ける。それでも歩くことをやめない横顔に向かって、寂雷は話し掛けた。

「失礼だけど、君とはどこかで会ったことがあるかな?」

「いや、無いです。私の方から情報媒体越しに少し、ですね」

情報媒体越しに……つまり、赤の他人だ。寂雷はその素っ気なさに「ありがとう」の一言を出せず戸惑う。
店主に事情を説明し、少し走ってコンビニにでも行き金を引き出して戻る。そう考えていたのが全て強制的に中断されてしまった。
それどころか話がややこしくなってしまった。金を渡そうにもレシートを受け取っていないことに気が付くと、そっくりそのまま返すことも出来なくなった。

「すみません。なんとなく急いでる感じがしたので」

不意に寂雷を見上げて立ち止まった女は、ばつの悪そうな表情で謝った。二度も先手を打たれ、きょとんとしてしまう。確かに急いで病院へ戻らなくてはならないが、赤の他人に助けられるほどではない。しかし先に謝られてしまえば、どんな顔をすればいいのか分からなくなっていた。

「これを機に友達になれたら嬉しいですねなんて、ill-DOCに言ったら失礼ですかね?」

女は貼り付けたような笑みを浮かべた。「冗談です。失礼します」と歩く速度を上げた女に寂雷は興味を抱く。
嘘だらけだが悪くない。最初から逃げるつもりなら手を差し伸べなければいい。もしも気を引きたいつもりなら、惹かれようじゃないか。
一度止まりかけた足を大股に進めれば、すぐにそれには追いついた。

「君が言い出したんだ。是非、私と友達になってくれるかな?」

「……しっ、失礼しました。私『が』急ぎますので」

しかしそれはついに顔に拒絶の青を浮かべ、人の多い、駅の改札がある方面へと走っていった。
連絡先。どこに行けば会えるのか。次はどこで会おうか。お礼は。
寂雷はついに『ありがとう』と伝えることが出来なかったが、その背を無理に追うのは時計の針が許さなかった。








休日。麻天狼のメンバーは防波堤に釣りに来ている。昨晩から降り続いた雨は今朝方止み、快晴の下でする釣りは清々しい。
魚がルアーに食いつくのを待ちながら、つい一昨々日の出会いと別れを、寂雷は伊弉冉一二三と観音坂独歩に話していた。

「中華屋に行っただろうナースが私に言ったんだ。『情けは人の為ならずですね』と」

「チョーウケっし!」

「財布を忘れたらどうすればいいんだ……」

独歩が携帯で『財布 忘れた』と検索し「ツケか……」と呟く。
寂雷も『神宮寺寂雷はカードしか持たない』などという噂よりはマシだと思うと、やはり感謝せずにはいられない。
重い荷物を背負った後ろ姿。

「しかし、何故逃げられたのか……」

自分が有名であることを承知している寂雷は、自分と関わることの厄介さも理解しているつもりだ。しかしそれで『だから仕方ない』などと思うにも、彼女のエゴまみれの救済が心に引っかかってしまっていた。

「ビビッちゃったんスかね!」

「一二三。相手は先生なんだからビビる要素が無いだろ」

一二三は自分が会ったら怖いなと話半分。独歩も珍しい人だなと思うくらいで、今は自分のバケツが空な事の方が重要に思えた。
きっと出会うことはないだろうと誰もが思っている。だからこそ寂雷も、数枚の紙幣を持ち歩くようになった。
不完全燃焼的な気持ちでいるならあの日もこうしていれば良かったと、青い空を見上げる。

「お礼がしたいのだけど、探してもらうにも私自身が覚えている特徴が少なくてね」

「どんな人だったんスか~? もしかしたら、俺っち見たことあるかも!」

「とても大きなリュックサックを背負っていたことしか思い出せないんだ……もしかしたら遠くから来ていたのかもしれない」

「例えば、あんな感じのですか?」

寂雷は独歩が指差した方向を目で追う。大きなリュックサックを背負った女がテトラポットの上に立っている。
息をつくより先に、「一二三くん」と持っていた竿を一二三に押しつけ、髪を靡かせて走った。

「センセはっえ~!」

「あんなに走る先生、初めて見た……俺のせい? あっ、先生の竿が」

「俺っちにお任せ!」

一二三の手にした寂雷の釣り針に、大きな魚影が喰らい付いた。








堤防からテトラポットの上へと降りる。雨に乾ききっていない足場は危険だと知りながら、寂雷は自分から目を逸らして海を眺めたその人の隣へと辿り着いた。
何度ももう一度会えた時のことを考えたが、そのどの想像も現実には及ばない。

「まさか海で君に会えるとは思っていなかったよ」

「アタシもそう思うってばよ」

「フフ、なんだい? その口調」

「……てやんでい」

「可笑しな人だね」

馴れ馴れしい言葉を吐く割にはちっとも笑わないことに、寂雷はまるで古くからの知り合いのような錯覚を起こす。
(しかしこれで会うのは二度目だ。随分と警戒されているようだ)と寂雷は黙りその横顔を観察した。
『ありがとう』とだけ伝えるには思うところが多すぎる。
さて、どう切り出していくかと寂雷は悩む。普通に接していては前回のように逃げられかねない。
ラップバトルでも作戦を練るべきである、屈曲した人物……レア者を相手にするのだ。その厄介さはよく知っていた。

そして海の音に耐えられなくなったのか、口火を切ったのは兼ねてから逃げていた方だった。

「覚えていたんですね」

ぼーっとした横顔に覚えていないはずがないと言い返しそうになる。「袖振り合うも他生の縁」などと独り言を言うのにも、「袖の下だよね」などと言い返しそうにもなった。
寂雷自身、相手のペースに飲まれていると自覚することは簡単だった。

「また君に出会えて本当に嬉しいよ」
「こちらこそ。声を掛けていただいた上、俊足を拝見させていただきました」

半分は本心の笑みを浮かべる寂雷と、それを目にしながらも表情を凍らせた女。
潮風が胸に深く入り込む頃には、自分とそれとの温度差に気付き、冷静な思考を取り戻す。

(どうも、様子がおかしい……)

すこぶる機嫌が悪そうな顔に見えた。言葉の丁寧さとは相反する、児童のようなぶすっとした顔。
焦点は合っているだろうかとその顔を覗き込もうとした寂雷だったが、同じタイミングで女は何かを聞きつけ振り返った。

「ああ、君!」

行かないで。
ふらりと体を傾けた女の腕を寂雷は掴んだが、その女の方も寂雷の腕を掴み引っ張る。
テトラポットの上でバランスを崩すわけにも行かなかった四本の足は、より意思の強い方へと傾いた。








「一二三、絶ッ対に離すなよ。先生のお気に入りのルアーだぞ!」
「わ~ってるって!」

一二三と独歩の二人は自分たちの釣り針を一旦引き上げ、一本の釣り竿を手放すまいと獅子奮迅している。
巨大な魚影は二人を恐怖させるのに易く、しかしそれが喰らい付いている物の価値を良く知っているからこそ色々な意味で戦々恐々としていた。

「おっ~と、引きつよっくねえ~……!?」
「これが釣れないのも俺のせい俺のせい……!」

大の大人が二人で釣り竿に引っ張られている光景を、寂雷も見つけた。腕を引かれ走り出した理由が分かれば、自分を引っ張る腕より前へと走り出す。
そういうことなら、力を貸そう。
波が寄り返すより速く、防波堤を駆けた。

「全く、どうして竿を離さないんだい。危なかったよ」
「先生!」
「ヒェッッッッ」

一二三が恐怖から開きかけた手と、魚影に持っていかれそうになった独歩の手を寂雷は両手で包む。水面から大きく飛び上がる獲物。
西日を大きく遮った影を、女が手にしたタモが捕らえた。

寂雷は独歩の手をぎゅっと握る。釣り竿は仲間に任せ、攫われそうになっているか弱い人間の……リュックサックを抱き留めた。

「ふんばりなさいっ……!」

てこの原理とはいつでも傍にあるもので、寂雷はリュックサックを横に薙ぐことによって、獲物も人間も両方防波堤に乗せたのである。
一メートルは越したであろう円盤型の獲物だった。長い尾が付き、それは防波堤に投げられた女の頭上でびたんびたんと陸に尾を鞭打った。

「アカエイだね……とても大きい」
「「ヒッ」」
「一二三は分かるが、アンタは何で怯えるんだ」
「毒針がついていますゆえ」

大きなリュックをどかりと尾の先に降ろすと、白いエイ腹は無防備になった。
寂雷はサバイバルナイフを取り出すとその尾を切断する。

「意外な大物が釣れてしまったね」
「アッ、アアア、せせせせ先生」
「一二三、スーツは車だ。先生、アカエイって食べられるんですか……?」
「美味しいよ。そうだ。私が捌くから、皆で頂こう」

日が暮れようとしている海岸で、ぐるる、と狼が唸るような音が響いた。

「君も一緒においで。あの日のお礼をさせてほしい」

お腹が空いていたんだね。と寂雷は笑った。








寂雷が捌き、一二三が調理する。「これがレバー」と寂雷が手に取ったエイ肉を、独歩が写真に撮った。
神宮寺宅へ招かれた女は邪魔にならないように観葉植物の隣で空気と化しているつもりだったが、時折一二三と目が合っては怯えられたので地味にシュンとしていた。
理由は分からないがそういうこともあると自分を納得させるのに忙しい。
それを見兼ねた独歩が視界の隔たりとなるよう、観葉植物の隣に三角座りをする。やることといえば写真を撮るくらいしかなかったのだ。

「俺は独歩と言います。リーマンで、あの金髪の幼馴染で」

「知ってますよ。病める街、新宿代表の麻天狼」

「どうも。あなたは、どうして先生に声を掛けたんですか?」

コホン、と寂雷が恥ずかし気に咳払いをした。

「それは食べながら話さないか。本当に美味しい刺身だから」


エイヒレ。エイの唐揚げ。刺身。その他釣れた魚たちを調理したもの。
ジャケットを着た一二三を独歩が牽制しながら、いただきますと手を合わせた。

「うん。美味しいね」(気に入ってくれただろうか)と寂雷。
「とても美味しいです。初めて食べました」(捌き方を先生に教わりたい)と一二三。
「俺も初めて食べました」(酒が欲しいけど、前みたいなことが起こるから我慢だ)と独歩。
「おいしいです」(はじめてたべた)と、招かれた客。

皆が一口目を楽しみ、それぞれに感想を言い合うと唯一の部外者に目を向けた。

「子猫ちゃんのこと、教えてほしいな」

一二三の言葉を口切りに、女は話した。

幼い頃から育ててくれた祖母が亡くなり、遺産相続の取り決めの際に土地を売られ、成人していることもあって田舎から都に出てきたこと。道行く人を助けていたら無事に東京まで来られたが、東京で仕事を探そうにも住所不定で困ってしまったこと。バッテリーの充電もままならず、夜の店に入る自信も無く、それでも目に付く人々を助けて居たらついに原付を売った金すら尽きていたこと。そして海に辿り着いたこと。

「子猫ちゃんは大変な苦労をしたんだね」
「はい。その残金の200円もついに80円になっちゃって」
「ジュースでも買ったのかな?」
「イグザクトリー」
「かなり狂っている……」
「でもお陰様でこうして美味しいアカエイも堪能出来て、幸せです」

その目に微かな光を宿して、女は「ごちそうさまでした」と言った。
あの中華屋でもそうだったと、寂雷は思い出す。「お皿くらい、洗わせてください」と言って足早に去ろうとするのに、焦りを感じた。

「それより私と話をしてくれるかな」

寂雷の声色が少し強張ったのに、一二三と独歩は目を合わせる。

「一二三、ジャケット脱がないと袖濡れるぞ」
「子猫ちゃん。私たちのことは気にせず」

でも、と戸惑う女を二人は押し止めた。

「先生はアンタと話したがってます。そっちの方が重要ですよ」

うらやましい。と独歩はぽつりと呟く。一二三はキッチンで息をつく。
そんなチームの連携を知らないまま、女はまた観葉植物を盾にして、寂雷はそのすぐ傍に立った。
寂雷は話を聞いてから、ほんの少しその女のことを理解した気がしていた。

「助けてもらったのはつい三日前だったね。あの時君は気前良くお金を出していたけれど、もしかしてその時点で、私を助けている場合では無かったのではないかな」
「アハハ」

ギクリと体が反射したのを隠すように女は肩をいからせて笑う。
図星だ。その分かりやすさに寂雷は含み笑いをした。
視線を迷わせた目は寂雷の方を見ず、やがて窓の外の景色を見つめ、やっと語りだした。

「……いえ、その時は光明が見えたとすら思いました。有名人が困っていたわけですから、直ぐのチップがないにせよ明日の昼食くらいは、って。でもほんの些細なプライドが囁くんですよね。『借りを作るために助けたわけではない』と」

取り繕うように笑う女に興味は湧かない。
ただ、礼を貰うことはきちんと考えていたことに安堵し、そして心根の良い子だと感心した。
その瞳はシンジュクを眺めている。ここに何人も彼女に救われた人々がいる。

「でもお腹は空きます。お風呂も入れず雨風はろくに凌げず、盗みを働く勇気も無く。そしたら海が見えたので……」

盗みを働く勇気。
今まで培った感覚は、その娘がひどく儚く、脆く、もう限界そうだと寂雷の頭の中に警笛を鳴らしている。
そして海が見えたので、なんてまるで『死に場所』でも探しているかのように聞こえた。

「……道具が無いのに魚なんて取れませんよ」
「いや、ただ海を見れば救われるかと思って。生きるために死ぬか、死ぬために生きるか。私は前者を選ぶ人間だったんですよね……なんて、言うのは簡単ですね」

やっと己を見て笑った女その表情に、思わず眉をひそめる。

「この自分の馬鹿さが好きなんです。厄介だとも思ってますが」

馬鹿な子だ。寂雷は軽蔑にも似た感情を持つ。
自分を貫き通せば助からないと知っていて、お腹を空かせているのが好きだなんて。
そのあまりに自分を信じ、貫き通せる純粋さにキッチンの独歩も「眩し……」と呟いた。
その声が聞こえたからか、寂雷はまた自分の状態を認知することが出来た。
知らず知らずのうちに、自らの感情に操られそうになっていたことを。

「そう。で、君は明日はどこに行くつもりかな」

「そうですね……住み込みで働ける場所があればと思ってここまで来ましたが……海の家とか、リゾートホテルとか。門前払いを食うかもしれませんがその時はまた旅人かぶれの生活です」

「そうですか」

「はい」

確信めいたものを寂雷は持った。
その頃独歩は、先生なら、一晩泊っていきなさいとさらりと言うと思っていた。
しかし寂雷はマイクに電源を入れた。――ヒプノシスマイクに。


「話をしよう、伝えよう。君をここに連れてきたその訳を」


軽く脚韻を踏んだだけで、女の体は崩れた。
言葉を紡いだ口からマイクが外されてもなお、女にはまるで今まで自分を操っていた筈の糸が断ち切られたような感覚が襲って来る。「ほんの少し、回復しただけだよ」と安心させるような声が遠くに聞こえている。

「格好つけずに言ってごらん。『一晩泊めてくれ』と」

「…………」

膝をついたのはいつぶりだろう。理性が現状を認識しようとする中で、は、と肺の深い所から息が漏れ出した。
それが言えたなら苦労しない。だからあの夜雨に打たれたのだと怒りが湧いた。
いや、本来ならばこの怒りは自分自身に向けるべきものだ。この恥ずべき命に。
頭の中が自分を刃物で突き刺すような思考で埋め尽くされていく。

「っ、先生、僭越ながらそれは強要するものでは無いかと、思うのですが……」

「少し見ていてくれないか、独歩くん」

「しっ、失礼しましたッ!」

麻天狼の会話が蜃気楼の向こうがわで揺れている。
長い髪がこのぐにゃりとした視界を包み込むようにこちらへ向いた。

「君ははるばる遠くからここまで来た。そして目に付く人々を助けてきた。
 だが君は見返りを得ない。時には、余計なお世話と言われたかもしれないそれは、強迫行為。
 そうして辿り着く場所は母なる海。今いるここは病める街。
 世界は君がたった一人で生き残れるほど甘いものではないと痛感した筈だ。
 わかるかい。
 病院に来ない者を医者は診断することが出来ないように、助けを乞わない者を助けるほど、世間は優しくない」

他でもない私に向けられた言葉だ。

「今も、私が言い出すのを待っているね。『泊っていきなさい』と」

強く目を見開いた。
ばれているのだ。私の人生。私の性質。私の命の価値。
目の前の大きな男が、その全てを断罪しに来た。本能に抗えず、体は痺れていく。
とどめに、またその存在は口元にマイクを近づけた。


「誰かに助けを乞う勇気を持ちなさい。君が振りまく愛想笑い以上に」


なんで叱られてるんだろう。良いことをしてきた筈なのに。それが迷惑であっても、相手は確かに困っていた筈なのに。
でも分かることもあった。何度も金を使った。何度も人を困惑させた。不安にさせた。
私には全てが無い。だから何も与えられない。誰も助けられない。
誰にも助けられない。
そうやって怒りや空虚や絶望を訴えかけても、目の前の存在にはかすり傷ひとつ付けられない。

それが解かると、立つことも出来なくなっていた。

女は正座に足を組み替え、長く沈黙した。
震える声で、「……ill-DOC」と呟く。その力の無さを、寂雷は挫いた。

「私は神宮寺寂雷。だがなんとでも呼んでいい」

決して見下しているのではなかった。ただ見つめていた。そして今も待っている。
目の前のあまりにも小さな人間が、助けを乞う時を。

この歯がガチリと鳴った。この背はどっと重くなり、この足に力は入らず、この体はヘドロのように溶けていく。

「……神宮寺、さん」

女は愛想笑いを浮かべる。

「アタシ、神宮寺さんの友達になりたい」

精いっぱいに格好つけた。自分の限界まで。

「そんで、炊事でも洗濯でも……なんでもするからさ。……だからさ、その」

だめだ。だめだだめだ。だめだだめだだめだ。
次のことばを吐いてはだめだ。

「ひ、……」

ひとばんだけ。
乞えと言われたのだ、乞えばいいじゃないか。
それでも出ないものは出ない。
出せない出すことはできない。

「ぃ……!」

顎をこわばらせて息を止める。
俯いている女が今も待つ寂雷の気配を読んだわけではない。根底にある相反する温度の思考が、その首を絞めていく。
(ひとばんだけなんていやだ。だれかにずっとかくまってほしい。まもってほしい)
生ぬるい考えが頭をよぎる。
ずっと一人で歩いてきた。
(一晩泊めてもらう? なんて浅ましい。こんなに綺麗な部屋に? それも男の? せめて小綺麗になってからものを言え。押しつけがましいお節介をして得をしようなんて、人間性を疑う)
命を削るような熱を持った考えが頭の中を埋め尽くす。

その天から声が聞こえるまでの、とても長い間。


「人に頼み事をする時は、相手の顔を見るものだよ」


見下していたその眼は絶対零度より静止して見えた。揺れていた頭がぐわんと上向くと、胃が大きくうねる。思わず口を手で塞いだ。
吐く。
吐くな。
人前で吐くなんて。
お前のせいで床が汚れる。

『たかが一言言わないだけで』。


ごくり。


女はとても早口で「ひとばんだけ、わたしをとめてください」と言い、「と、といれお借りします」と手首に強烈な臭いを発する透明な液体を伝わらせて走り去った。
部屋に残された三名はその小さな声を聞き、なお沈黙を続けた。
寂雷は己のスタンドマイクに口を寄せ、静かに電源を落とした。そうして、やっと独歩と一二三に思考が戻ってくる。

(先生は、怒っていたのか?)

まさか先生がマイクを出すとは。独歩は最後の皿を一二三から受け取り、ジャケットを持って行った一二三の背を見送る。

「……すごいものを見た気がします」

やり取りを見ていた独歩に寂雷は笑う。

「以前、一二三君のストーカーをしていた女性がいたよね。治療にマイクを使わないことは前提としてあるけれど、あの時彼女は飛び降りた。独歩君がいてくれなかったらと思うと、反省せずにはいられない」
「それならあの人、病気なんですか」
「いや。あれは性格が尖ってしまったものだ。だからこそ厄介だ。矯正というのは、必ずしも良い結果を生むわけではないからね」
「じゃあ、先生の友達になりたいなんてわざわざ言うのは」
「一晩ここに泊るわけだからね。私との一夜の関係を恐れたんだろう。あるいは、助けてほしいという私へのサインかな」

いつもの柔らかな雰囲気に戻った寂雷に、独歩はほっと息を吐いた。

「『ほんの些細なプライド』を捨てきれず、それでいて生きることに手を伸ばさずにいられない。なんて不器用なんだろうね」

「まるで俺とは正反対の人みたいだ

「そうでもないかもしれないよ。……問題は、彼女は人を頼ることがとても苦手なところだ。自分が救われる可能性を引き当てるために、誰かを助けているに過ぎない……とは言い難い。典型的なその身を削る人間だね」

女を追った一二三が廊下から顔を出した。

「先生。彼女、意識を失いました」
「おや、それはいけないね……」

寂雷は七分袖を肘までまくり、一二三を追う。

「先生……よっぽど興味深かったんだな……」

独歩は濡れタオルを用意するために洗面所へと向かった。








目が覚めた。知らない天井とは言い難い、昨夜見上げた人の向こうにあったような天井が目に入った。
ふかふかとした枕に頭を沈めている。マットレスは日の光を反射して白金に輝き、軽い羽毛布団は湿気を含まずに温かい。そしてかつて寝たことが無いほど、大きなベッドだった。
身をよじる。軽いガウンに巻かれていることに気が付き、昨晩あったことを思い出した。

(一晩、泊めてくれた)

顔や身体が比較的清潔な気がする。しかし風呂に入った記憶は無い。

(そうだ。確か吐いて、でもトイレでは吐けなくて……?)

そこから記憶が無い。
医者であれば見慣れているだろう身体を、見られてしまっただろうことは容易に察せられた。おそらくは病人にするように、体を拭ってくれたのだろう。
なんて迷惑をかけてしまったんだろう。それに休日の、仲間との交流にお邪魔させてもらってまで。
謝礼をするにも、何も無かった。早く出ていくことが最上の償いだと思えるほどに。
時計の針は7時半を指している。ベッドから出て、さも何もいなかったようにベッドメイキングをしていれば部屋の扉が開いた。

「おや、お目覚めかな」
「おは、おはよう、ございます……」

どうしたらいいか分からない。恥ずかしいのは体だけではない。我が人生までもだと思うと、体が硬直した。

「綺麗に直すなんて律儀だね。朝食を作ったから、おいで」









「いただきます」

目の前で食事風景を眺める寂雷はペットボトルの水に口を付けている。
もう朝食を終えたのかと疑ったが、どうやら食パンの袋は開封したばかりらしい。
サラダ、ヨーグルトとりんごジュース。

「とても美味しいです。バターなんて何年ぶりだろう」

感想を伝えれば、目の前の男はこちらを見つめることを止めず、しかし口角だけを上げた。

「何も聞かないのかな。着替えのこととか」
「……その、昨晩は大変ご迷惑をお掛けしたようで」
「そうじゃない。意識の無い君を着替えさせたのは私だけだけど、健康診断も兼ねたと思ってもらえればそれでいいから」

上手く明文化出来ずとも、それは問題ではないかと思う気持ちは目の前の男の優雅さに打ち消されている。

「貧血気味だけれど、おおむね健康的だ。傷の無い体を大切にしなさい」

それはどうも……ありがとうございます、と言えばいいのだろうか。
どうお礼を言おう。そしてどう言って出ていこう。強迫的な思考に囚われ、面白そうに見つめられながら食事をすれば、味など感じられるはずもなかった。

「君を雇うことにしたよ」

俯きかけていた顔を上げる。耳を疑う。

「三食昼寝付きの家事手伝い。他にも要望があれば聞こうか」
「そんな、どうして」
「君を気に入ったからではいけないかな。職を探しているんだろう? あの日君が掴んだチャンスだ」

あの日私が掴んだチャンスは、一宿一飯の筈ではなかったのだろうか。
……現在食べているものも含め二飯か。

「それともこう言い換えたほうがいいかな」

混乱する頭の中に、もう何も詰め込まないでほしいのに。
もう何も食べなくても、この世に失うものなどなかったのに。

「君は私の患者だ。君の病は極度に人を頼れないこと。その病状が回復するまでの期間、私の監視下に入ってもらう」

回復するまで。監視。
そういうプレイかと思えたが、麻天狼の主が言うと冗談だろうと笑えない。
どうやら気に入られたのは間違いないらしい。都合がよすぎる。

「君が働きやすいようにいくらかの我儘は聞くよ。まずは……好き嫌いから聞こうか」

ちら、と食卓に視線が向いた。
そのプチトマトは、まだ食べていないだけだ。
ただ、今は何を食べても吐きそうだ。

「好きな食べ物は?」
「あ、」
「嫌いな食べ物は?」
「わ、たし、その」

ご迷惑をお掛けするわけには。
チャンスを手放すな。

(でも)

どうして私なんかを。
ここにいろと言われている。

(私は)

生きている価値など無いというのに。
この人なら私を助けてくれる。

(一人では生きていけない)

頭の中が真っ白になると同時に、涙腺は決壊し両目からはぽろぽろと涙が零れて行く。
私がひとつひとつを呟くたび、目の前の男は頷いた。

「私、」

「朝食を、摂らない主義なんです」

「実は刺身の美味しさも分かりません。安いマーガリンでなくバターを選ぶ必要性も。だから好き嫌いは分かりません」

「それと、家政婦として働いたことはありません。料理はしますがお口に合うかどうかわかりません」

「至って庶民的な環境で育ちましたので、お役に立てるかどうかも、」

正直すぎた。昨日今日で自身の全てを話したと言っても過言ではなかった。
しかし好奇の色を纏った瞳は笑った。

「奇遇だね」

涙の向こう側で笑うその声はとても遠いが、頭の中に直接響いてくるようだった。

「実は私も、朝は食べないんだ」

ほんわかと笑うその表情に、祖母の面影を見た。

この頬は高架下で過ごした雨の日のように濡れているが、ちっとも寒くはない。
胸の奥の深い所で、どうしても溶けなかったものが融かされるようだった。
いつかこの人とは別れる日が来るのだろう。
でもそれまでの間、胸の奥に隠されていた心を捧げたい。

そう強く思った。

「なんでもします。働かせてください。……なんなりとお申し付けください」
「君と私は"友達"だろう。細かいことは今日、私の仕事が終わってから決めよう」

差し伸べられた手は、確かに友愛を示している。

「これからよろしく」
「……ありがとうございます。神宮寺さん」
「私も言っていなかったね。どうもありがとう」











・・・・・
・おまけ・
・・・・・


「ただいま」

「おかえりなさい。あの、リュックサックのことで……」

「早速だけど、給料の話をしていなかったね。君のリハビリになるように、欲しいものは私にねだりなさい」

「は、」

「生活必需品は必ず私に言わないといけないよ。食べたいものがあるなら私も誘ってね。おしゃれがしたいなんてのはとてもいい傾向だから躊躇わず言いなさい」

「え?」

「あのリュックサックの中身を見たけど、どれも随分古そうな服だったから捨てておいたよ。だから私に給料を前借しないとここで暮らすことは出来ない」

「な……なんてことを」

「給料を前借するということは、一ヵ月は最低でも居てもらうからそのつもりで。生活費は気にしないで」

「いやそれはまずいのでは……金を借りる重みをご存じですか?」

「君がそれを言うのかい? そうだ、外も出歩けないだろうから、明日の夜までに通販で見つけておくこと。それが届くまで外には出さないし、君も下着を付けないまま外に出たくはないだろう?」

「私に拒否権は無いのですか?」

「ごめんね。そうだ携帯持っているよね。私に連絡先を教えなさい。それから……」

(た、大変な人の世話になることが確定してしまった)



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