季語外れな秋津
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「さて、大谷さんの羽織を濡らしちゃったから洗い直して干さなきゃ」
正午も過ぎ昼餉も終えた頃、神子はパタパタと屋敷の濡れ縁を小走りで移動していた。
手元には赤色の無地に金色の蝶々を刺繍されている羽織がありとても大事そうな様子で抱えている。
これは自らが特注で拵え夫の大谷吉継へ贈り物として手渡したものだ。
まだ時が朝旦だった際の事だが絶えぬ日差しが注がれ夏特有の暑さを少しでも抑え様と神子は住まいの屋敷内中庭で打ち水を行う事にした。
その一方で打ち水を実施する理由の一つとも言える大谷は飼い鳥の桜ブンチョウ・幸(なお彼は頑なに不幸と呼ぶ)の鳥籠を清掃すると言い張り渋々折れた妻は夫へ任せる事にした。
双方滞りなく作業を進め鳥籠の掃除が一足先に終わり水撒きは後一回か二回程で完結する寸前だった。
しかし幸によって驚かされた神子は誤って転んでしまい残りの水を頭から被る羽目になってしまったのだ。
駆け付ける間も無く発生してしまった出来事に珍しく目を見開いた大谷が妻を助け起こすと己が纏っていた羽織を脱ぎ神子に着せた。
屋敷内ではその羽織の下に包帯だけを巻いている夫の身を心配して遠慮しようにも春ながら風邪をひいた前科がある為、脱がせて貰えなかった。
いつもの問答が起きそうになったがそこへ居合わせた最上義光によって一時硬直したものの特に大事も無く終わった。
大谷から急かされ羽織を肩から掛けたまま神子は屋敷へ戻り濡れた体を拭いてから着替えて整えると代わりの新たな羽織を持って夫の元にとんぼ返りした。
黒の無地に白色で刺繍された蝶々の羽織を携え走れば中庭には大谷と幸しか残って居なかった。
すべき事は済んだので腕を引かれてから屋敷内へ戻り昼餉の準備をしながら最上と言う名の珍客について聞けば用事を思い出して帰ったと返されたのだった。
こうして神子は自分の所為で洗濯が必要となった夫の羽織を持って移動している訳だ。
昼餉を終えると幸が構って欲しいのか綺麗になった鳥籠内で鳴き出したので食器を片付けながら神子が大谷へ頼み込んだ。
最初は妻の手伝いを思考していたが恐らく申し出たとしても一人でやると言い張る事が夫婦としての付き合いで察せられるので頼まれた通り飼い鳥を優先する事に。
その隙に手早く洗い物を済ませると先程、濡らしてしまった羽織について語り動き出す神子へ少しは休息を取ってからで良いのではないかと幸を指に留まらせた大谷から言われたがまだ太陽が出ている内に済ませたいと言い残しその場から退出した。
「よしっ。この天気なら夕方までには乾いてくれるかな」
水と専用の洗剤を使い擦らず軽く押し洗いし乾いたタオルで水気を充分に拭き取ると中庭の地面で固定された竿竹へ通した。
軽い風が吹いて靡く羽織を見つめ神子が満足げに一人呟く。
赤色の無地がやけに映えて見え金色の蝶々の刺繍は頭上から注ぐ太陽の光で反射しキラキラと光っていた。
それをのんびりと眺めていた彼女は羽織に関する思い出を回顧し始める。
まだ大谷と夫婦の契りを結ぶ前の恋人関係だった頃。
贈り物として彼を連想する蝶々を刺繍で縫わせた羽織を手渡した。
今までは本当に高質ながら無地で何も無い良くある代物を羽織っているだけであったのも相俟ってか大谷は好んでそれを纏い始めた。
好む余り洗濯を終えまだ乾き切ってないにも関わらず身に着け様とするので親友である石田三成や他同居人達から静止されても恋人から贈られた物だからと取り合わなかった。
困り果てた三成達が大谷の事を神子へ伝えると彼女は新たな羽織を二着拵えて再び彼に贈り物として手渡したのだ。
黒の布地に白い刺繍と白の地で赤色の刺繍で縫われた蝶々の代物を。
懇意な関係とは言え躊躇の無い行動に大谷繋がりで顔馴染みとなった三成の恋人から「神子さんは刑部さんに甘過ぎです!こんな事したら有頂天になって何をし出すか分からないですよっ!」とお叱りを受けてしまったが。
それでも神子は緩んでしまう頬を微笑ましさから止められなかった。
確かに恋人とは言え羽織の様な着物を贈り物(しかも三着)として選ぶのはなかなかでもしかしたら心内では好意的に取られない可能性もあり得た。
だが大谷の事となると迷いも躊躇も最初から存在しない様に霧散してしまう。
先述の話を耳にすれば嬉しさも生まれて幸せな感情で包まれた。
「あら、あなた随分と大きなとんぼさんね」
ふと視界へ入る存在へ気付くと神子はニコニコと穏やかな笑みを浮かべながら語りかけた。
羽織が干された竿竹の先で留まる一匹の大きな虫に。
黒色の体色に黄色の模様が混じったオニヤンマと呼ばれるとんぼだった。
その大きさと鮮やかな色合いから目を見張る存在だが彼女は落ち着いて見つめていた。
虫は種類にもよるのだが少々一歩引いてしまう距離感があるものの幼い頃から今は亡き祖父に『一寸の虫にも五分の魂って言葉がある。私達と同じ命を持っているのだから面白半分に奪ってはいけないんだよ』と聞かされていたので神子は不用意に手を出さず見守る形を貫いていた。
それでも現夫の影響か否か蝶々だけは心を惹かれ無意識ながらその姿を好ましく思う自分が居る。
話を戻し今目の前で羽休みのつもりか留まったままで動かないオニヤンマと向き合っている現状。
今日の様な暑い夏の日にちらほらこの中庭で一直線に飛び去る光景を何度か見かけた事があるもここまでまじまじと観察出来る機会は初めてだ。
「そんなに大きいと沢山飛んでたら疲れるでしょうね、今はゆっくり休んでいって」
そう穏やかに優しく語りかける神子だが誰か(それでこそ大谷)にこの光景を見られてしまえば揶揄い等の対象とされてしまう気がして苦笑いが浮かぶ。
しかし飼い鳥へついつい話し掛ける癖が出来てしまったので(コレも大谷にも言える事だが)似た様な行動を取ってしまう。
どちらにせよ今この場所に居るのは神子本人だけなのだから注意される様な謂れはないのだが。
彼女が一人で考えている間も我に返って再度その姿を確認した時もオオヤンマは留まっている竿竹から動かなかった。
珍しいなと不思議がった神子は思わず駄目元ながら指を近付けてみた。
そーっとゆっくり人差し指を近付けてみれば眼前に現れた人のものに驚き飛び上がった。
予想に入れていたとは言えその大きさ故、動く姿へびっくりする彼女が身を小さく震わせる。
「ご、ごめんね驚いたよね…でもあなた、結構人慣れしてるのかな?」
てっきりそのまま飛び去るかと思えば何故かまた留まっていた先に戻った。
再び答えのない問い掛けの独り言を溢してしまうが神子はこのオニヤンマが気になって仕方がなかった。
もう一度指で距離を詰めてゆけば飛ぶ動作処か身動ぎ一つしない。
ドキドキと胸を高鳴らせてついにオニヤンマの眼前まで到達すれば信じられない事に指先へ乗ってきた。
目を見開きながら声が出そうなのをもう一方の手で押さえ少しだけ自分の方へ寄せてみた。
それでもオニヤンマは彼女の指に留まったまま羽を休めている。
「そう言えばお祖父様もこうやって指に留まらせてたっけ…」
体長から虫にしてはずっしりとした感覚に驚きつつ神子はぼんやりと思い出していた。
似た様な屋敷の中庭で生前の祖父にくっ付きながら周りで集まる虫達を見上げていた。
見た目通りの好好爺らしく人だけでなくその他生き物にも好かれていた祖父は蜂にすら群がられその光景に驚いた神子の父親が大焦りで駆け寄って来たのも懐かしい。
差し出した指先に留まるオニヤンマを祖父はオオヤンマと呼ぶので幼い神子が『オニヤンマだよ』と訂正すれば『そうだったね』と笑った。
『ほら見てごらん神子、こんなにも大きいとんぼさんが居るんだ』
と指先で留まる大きなとんぼを孫娘へ見やすい様に近付きかけたがギュッと着物を掴みながら自分の後ろに姿を隠してしまった。
困り顔で眉を下げながら『ごめんよやっぱり驚いちゃったか』と優しく語りかけ彼女の頭を撫でて指先からオニヤンマを飛び立つ様に催促する。
『神子には蝶々さんがぴったりかな』
オニヤンマが飛び去った指先へ新たに羽休みを始める大きな紫色の蝶、オオムラサキが留まる様子からポツリと呟いた祖父を神子は黙って見つめていた。
今思い返してみればもしかすると、祖父は大谷の事を予知していたのではないか。
確かめてみたくも故人の者へ尋ねる術は無くて神子はそれをちょっぴり心残りに思っていた。
懐かしさと寂しさの入り混じった顔付きになるが祖父との思い出と関連のあるオニヤンマの存在に笑みを取り戻した刹那。
甲高い鳴き声と共に視界へ入って来る存在は羽毛の翼を羽ばたかせて現れた。
「わあっ、びっくりした…幸どうしたのいきなり」
『ピイィーッ!』
「ほら落ち着いて…オニヤンマが飛んで行っちゃった」
それは飼い鳥の幸に間違いなく鳴き声を上げてオニヤンマを追い払うなり飼い主の手の平へと収まった。
「危うい所であったな神子よ」
「大谷さん」
突然の出来事に驚きつつ飛び立ったとんぼに向かって鳴き声を上げ続ける幸の頭を撫でて宥めれば自分の名を語尾に繋げて大谷も姿を見せる。
「いくら幸が大丈夫でも安易に外で飛ばせたら駄目ですよ」
「それはすまなんだ。しかしあの秋津 にぬしの肉を食い千切られるのは許せんのでな」
「食い千切るって大袈裟な…」
濡れ縁からこちらを真っ直ぐに見つめながら淡々と告げてくるが言葉からして穏便なものではなかった。
しかし神子は軽く流せる訳もなく危ういのはどちらかと言えば飼い鳥の方で下手をしたら中庭から屋敷外へ飛び去ってしまう可能性があったと言うのに夫は悪びれる様子も見せない。
「再度見かけても相手にはせぬ事よ」
「でも…さっきの子は何もしませんでしたよ。それ処か指に乗ってくれたいい子です」
「ぬしは人にも虫にも甘過ぎる」
鋭い目線をまだ離れずに居るオニヤンマへ向け警告の如き言葉を続ける大谷へ負けじと言い返すがぴしゃりと即言い切られた。
「その内に口から糖が出る程の甘さよな」
「何ですかもう…とんぼ相手に…」
言いたいだけ言い切って気が済んだのか踵を返して歩み出しながら「きやれ不幸」と呼べば手元から幸が飛び立って大谷の差し出していた指に留まった。
そのまま飼い鳥を連れて立ち去る夫の後を追おうと踏み出した神子は後ろ髪を引かれる思いからか一度だけオニヤンマへ振り向くと前に向き直して屋敷に戻って行った。
『おお帰参しよったか。我の当てが外れるとは』
『私の帰る場所はあなたの巣の筈ですが』
背後から耳へ届いた足音に振り向けば数刻前に出した命通り戻って来た。
刀を携えて現れた姿は体のあちこちに傷が出来ていた。
『帰らない時があればそれは私の命が尽きた時です』
『縁起でも無い事を申すな。ぬしにはまだ不幸を招く役がある』
包帯に包まれた握り拳を顎へ添えてまじまじと見れば顔色を変えず発言し出すので眉を顰めて返した。
『何を笑っている』
『いえ、大変申し訳ございません。あなた様がその様な事を申されるのが珍しく、』
『可笑しいか』
『滅相もございません。いつだか夫婦 のお二人から謝意を受けた際の事を思い出しまして』
小さくだが手で覆い隠した口許で笑っているらしく声色を変えれば頭 を垂れて詫びを示した。
指を曲げ周りに漂わせていた玉で顎の下から上と上げさせ己を直視させた。
『余り舌を回さぬ方がかしこい選択よ。羽を折られたくなければなァ』
『承知致しました、お……に様』
瞼を上げると暗がりながら天井の木目が視界に広がった。
僅かに掛かる前髪を包帯が包み隠す指で払い深く息を吐く。
まだ夜半の真っ只中 である事は身を起こさずとも分かるが生憎と先程の夢見で即座に再び眠りへと戻る気になれなかった。
どうすべきかと上の空な感覚でぼんやりとしながら横を見れば己に密着している妻の存在を目の当たりにして思い出した。
共に一組の布団で肌を寄せ合っているとは言え肌着さえ身に付けていない姿へ呆れかけるがそうさせたのは己自身と記憶を蘇らせる。
昼間の出来事で大袈裟かも知れないが神子がまた風邪に倒れる事をどうしてでも避けたいが為、湯治の最中 で湯に浸かったまま抱擁し暖を取らせた。
それが理由となったかは分からないが今宵は大人しく床に就こうとするも妻から己との交接を遠回しながら望んでいた事を羞恥心混じりで伝えられた。
所望されているのならば応えなければならないと迫れば即了承されるとも思っていなかった神子が困惑しながら取りやめ様と焦り出した。
しかし普段から妻を受け入れる心組は万全が故、思う存分に愛惜し尽くしたのだった。
最初は拒むばかりだった神子も結局の所、己とのふれあいを心底からは好み求めているので双方共に満たされて終着した。
事が済むと存分に愛でられた疲労から意識を手放して眠りへと落ちてしまった妻を丁寧な手付きで横にしてやり己自身も寄り添いながら床へ就いた。
そして今に至る訳だが数刻前に行った交わりを思い返せば少しずつ気が治ってゆく。
大谷の包帯で隠された胸元で身を委ね寝息を立てる神子の背中へ手を伸ばす。
地肌が露出された背部をゆっくりと優しく撫でるその手付きはまるで傷口へふれ労わる様な動作が垣間見えた。
しばし一人で繰り返せば睡魔がじわじわと生まれてきて大谷は背中に回したままの手を使い神子を抱き寄せた。
空いていた一方の手で頭部を守るかの如く包み妻から感じるぬくもりを得ながら再び眠りへと就いた。
「大谷さん、おはようございます」
耳に届いた声で目を開けばそこにはうっすらと頬を赤く染めて恥ずかしそうでも笑む神子。
まだ寝ぼけ眼ながらそんな妻を見つめて大谷は己には似合わなそうな盛運を受容する事にした
,
正午も過ぎ昼餉も終えた頃、神子はパタパタと屋敷の濡れ縁を小走りで移動していた。
手元には赤色の無地に金色の蝶々を刺繍されている羽織がありとても大事そうな様子で抱えている。
これは自らが特注で拵え夫の大谷吉継へ贈り物として手渡したものだ。
まだ時が朝旦だった際の事だが絶えぬ日差しが注がれ夏特有の暑さを少しでも抑え様と神子は住まいの屋敷内中庭で打ち水を行う事にした。
その一方で打ち水を実施する理由の一つとも言える大谷は飼い鳥の桜ブンチョウ・幸(なお彼は頑なに不幸と呼ぶ)の鳥籠を清掃すると言い張り渋々折れた妻は夫へ任せる事にした。
双方滞りなく作業を進め鳥籠の掃除が一足先に終わり水撒きは後一回か二回程で完結する寸前だった。
しかし幸によって驚かされた神子は誤って転んでしまい残りの水を頭から被る羽目になってしまったのだ。
駆け付ける間も無く発生してしまった出来事に珍しく目を見開いた大谷が妻を助け起こすと己が纏っていた羽織を脱ぎ神子に着せた。
屋敷内ではその羽織の下に包帯だけを巻いている夫の身を心配して遠慮しようにも春ながら風邪をひいた前科がある為、脱がせて貰えなかった。
いつもの問答が起きそうになったがそこへ居合わせた最上義光によって一時硬直したものの特に大事も無く終わった。
大谷から急かされ羽織を肩から掛けたまま神子は屋敷へ戻り濡れた体を拭いてから着替えて整えると代わりの新たな羽織を持って夫の元にとんぼ返りした。
黒の無地に白色で刺繍された蝶々の羽織を携え走れば中庭には大谷と幸しか残って居なかった。
すべき事は済んだので腕を引かれてから屋敷内へ戻り昼餉の準備をしながら最上と言う名の珍客について聞けば用事を思い出して帰ったと返されたのだった。
こうして神子は自分の所為で洗濯が必要となった夫の羽織を持って移動している訳だ。
昼餉を終えると幸が構って欲しいのか綺麗になった鳥籠内で鳴き出したので食器を片付けながら神子が大谷へ頼み込んだ。
最初は妻の手伝いを思考していたが恐らく申し出たとしても一人でやると言い張る事が夫婦としての付き合いで察せられるので頼まれた通り飼い鳥を優先する事に。
その隙に手早く洗い物を済ませると先程、濡らしてしまった羽織について語り動き出す神子へ少しは休息を取ってからで良いのではないかと幸を指に留まらせた大谷から言われたがまだ太陽が出ている内に済ませたいと言い残しその場から退出した。
「よしっ。この天気なら夕方までには乾いてくれるかな」
水と専用の洗剤を使い擦らず軽く押し洗いし乾いたタオルで水気を充分に拭き取ると中庭の地面で固定された竿竹へ通した。
軽い風が吹いて靡く羽織を見つめ神子が満足げに一人呟く。
赤色の無地がやけに映えて見え金色の蝶々の刺繍は頭上から注ぐ太陽の光で反射しキラキラと光っていた。
それをのんびりと眺めていた彼女は羽織に関する思い出を回顧し始める。
まだ大谷と夫婦の契りを結ぶ前の恋人関係だった頃。
贈り物として彼を連想する蝶々を刺繍で縫わせた羽織を手渡した。
今までは本当に高質ながら無地で何も無い良くある代物を羽織っているだけであったのも相俟ってか大谷は好んでそれを纏い始めた。
好む余り洗濯を終えまだ乾き切ってないにも関わらず身に着け様とするので親友である石田三成や他同居人達から静止されても恋人から贈られた物だからと取り合わなかった。
困り果てた三成達が大谷の事を神子へ伝えると彼女は新たな羽織を二着拵えて再び彼に贈り物として手渡したのだ。
黒の布地に白い刺繍と白の地で赤色の刺繍で縫われた蝶々の代物を。
懇意な関係とは言え躊躇の無い行動に大谷繋がりで顔馴染みとなった三成の恋人から「神子さんは刑部さんに甘過ぎです!こんな事したら有頂天になって何をし出すか分からないですよっ!」とお叱りを受けてしまったが。
それでも神子は緩んでしまう頬を微笑ましさから止められなかった。
確かに恋人とは言え羽織の様な着物を贈り物(しかも三着)として選ぶのはなかなかでもしかしたら心内では好意的に取られない可能性もあり得た。
だが大谷の事となると迷いも躊躇も最初から存在しない様に霧散してしまう。
先述の話を耳にすれば嬉しさも生まれて幸せな感情で包まれた。
「あら、あなた随分と大きなとんぼさんね」
ふと視界へ入る存在へ気付くと神子はニコニコと穏やかな笑みを浮かべながら語りかけた。
羽織が干された竿竹の先で留まる一匹の大きな虫に。
黒色の体色に黄色の模様が混じったオニヤンマと呼ばれるとんぼだった。
その大きさと鮮やかな色合いから目を見張る存在だが彼女は落ち着いて見つめていた。
虫は種類にもよるのだが少々一歩引いてしまう距離感があるものの幼い頃から今は亡き祖父に『一寸の虫にも五分の魂って言葉がある。私達と同じ命を持っているのだから面白半分に奪ってはいけないんだよ』と聞かされていたので神子は不用意に手を出さず見守る形を貫いていた。
それでも現夫の影響か否か蝶々だけは心を惹かれ無意識ながらその姿を好ましく思う自分が居る。
話を戻し今目の前で羽休みのつもりか留まったままで動かないオニヤンマと向き合っている現状。
今日の様な暑い夏の日にちらほらこの中庭で一直線に飛び去る光景を何度か見かけた事があるもここまでまじまじと観察出来る機会は初めてだ。
「そんなに大きいと沢山飛んでたら疲れるでしょうね、今はゆっくり休んでいって」
そう穏やかに優しく語りかける神子だが誰か(それでこそ大谷)にこの光景を見られてしまえば揶揄い等の対象とされてしまう気がして苦笑いが浮かぶ。
しかし飼い鳥へついつい話し掛ける癖が出来てしまったので(コレも大谷にも言える事だが)似た様な行動を取ってしまう。
どちらにせよ今この場所に居るのは神子本人だけなのだから注意される様な謂れはないのだが。
彼女が一人で考えている間も我に返って再度その姿を確認した時もオオヤンマは留まっている竿竹から動かなかった。
珍しいなと不思議がった神子は思わず駄目元ながら指を近付けてみた。
そーっとゆっくり人差し指を近付けてみれば眼前に現れた人のものに驚き飛び上がった。
予想に入れていたとは言えその大きさ故、動く姿へびっくりする彼女が身を小さく震わせる。
「ご、ごめんね驚いたよね…でもあなた、結構人慣れしてるのかな?」
てっきりそのまま飛び去るかと思えば何故かまた留まっていた先に戻った。
再び答えのない問い掛けの独り言を溢してしまうが神子はこのオニヤンマが気になって仕方がなかった。
もう一度指で距離を詰めてゆけば飛ぶ動作処か身動ぎ一つしない。
ドキドキと胸を高鳴らせてついにオニヤンマの眼前まで到達すれば信じられない事に指先へ乗ってきた。
目を見開きながら声が出そうなのをもう一方の手で押さえ少しだけ自分の方へ寄せてみた。
それでもオニヤンマは彼女の指に留まったまま羽を休めている。
「そう言えばお祖父様もこうやって指に留まらせてたっけ…」
体長から虫にしてはずっしりとした感覚に驚きつつ神子はぼんやりと思い出していた。
似た様な屋敷の中庭で生前の祖父にくっ付きながら周りで集まる虫達を見上げていた。
見た目通りの好好爺らしく人だけでなくその他生き物にも好かれていた祖父は蜂にすら群がられその光景に驚いた神子の父親が大焦りで駆け寄って来たのも懐かしい。
差し出した指先に留まるオニヤンマを祖父はオオヤンマと呼ぶので幼い神子が『オニヤンマだよ』と訂正すれば『そうだったね』と笑った。
『ほら見てごらん神子、こんなにも大きいとんぼさんが居るんだ』
と指先で留まる大きなとんぼを孫娘へ見やすい様に近付きかけたがギュッと着物を掴みながら自分の後ろに姿を隠してしまった。
困り顔で眉を下げながら『ごめんよやっぱり驚いちゃったか』と優しく語りかけ彼女の頭を撫でて指先からオニヤンマを飛び立つ様に催促する。
『神子には蝶々さんがぴったりかな』
オニヤンマが飛び去った指先へ新たに羽休みを始める大きな紫色の蝶、オオムラサキが留まる様子からポツリと呟いた祖父を神子は黙って見つめていた。
今思い返してみればもしかすると、祖父は大谷の事を予知していたのではないか。
確かめてみたくも故人の者へ尋ねる術は無くて神子はそれをちょっぴり心残りに思っていた。
懐かしさと寂しさの入り混じった顔付きになるが祖父との思い出と関連のあるオニヤンマの存在に笑みを取り戻した刹那。
甲高い鳴き声と共に視界へ入って来る存在は羽毛の翼を羽ばたかせて現れた。
「わあっ、びっくりした…幸どうしたのいきなり」
『ピイィーッ!』
「ほら落ち着いて…オニヤンマが飛んで行っちゃった」
それは飼い鳥の幸に間違いなく鳴き声を上げてオニヤンマを追い払うなり飼い主の手の平へと収まった。
「危うい所であったな神子よ」
「大谷さん」
突然の出来事に驚きつつ飛び立ったとんぼに向かって鳴き声を上げ続ける幸の頭を撫でて宥めれば自分の名を語尾に繋げて大谷も姿を見せる。
「いくら幸が大丈夫でも安易に外で飛ばせたら駄目ですよ」
「それはすまなんだ。しかしあの
「食い千切るって大袈裟な…」
濡れ縁からこちらを真っ直ぐに見つめながら淡々と告げてくるが言葉からして穏便なものではなかった。
しかし神子は軽く流せる訳もなく危ういのはどちらかと言えば飼い鳥の方で下手をしたら中庭から屋敷外へ飛び去ってしまう可能性があったと言うのに夫は悪びれる様子も見せない。
「再度見かけても相手にはせぬ事よ」
「でも…さっきの子は何もしませんでしたよ。それ処か指に乗ってくれたいい子です」
「ぬしは人にも虫にも甘過ぎる」
鋭い目線をまだ離れずに居るオニヤンマへ向け警告の如き言葉を続ける大谷へ負けじと言い返すがぴしゃりと即言い切られた。
「その内に口から糖が出る程の甘さよな」
「何ですかもう…とんぼ相手に…」
言いたいだけ言い切って気が済んだのか踵を返して歩み出しながら「きやれ不幸」と呼べば手元から幸が飛び立って大谷の差し出していた指に留まった。
そのまま飼い鳥を連れて立ち去る夫の後を追おうと踏み出した神子は後ろ髪を引かれる思いからか一度だけオニヤンマへ振り向くと前に向き直して屋敷に戻って行った。
『おお帰参しよったか。我の当てが外れるとは』
『私の帰る場所はあなたの巣の筈ですが』
背後から耳へ届いた足音に振り向けば数刻前に出した命通り戻って来た。
刀を携えて現れた姿は体のあちこちに傷が出来ていた。
『帰らない時があればそれは私の命が尽きた時です』
『縁起でも無い事を申すな。ぬしにはまだ不幸を招く役がある』
包帯に包まれた握り拳を顎へ添えてまじまじと見れば顔色を変えず発言し出すので眉を顰めて返した。
『何を笑っている』
『いえ、大変申し訳ございません。あなた様がその様な事を申されるのが珍しく、』
『可笑しいか』
『滅相もございません。いつだか
小さくだが手で覆い隠した口許で笑っているらしく声色を変えれば
指を曲げ周りに漂わせていた玉で顎の下から上と上げさせ己を直視させた。
『余り舌を回さぬ方がかしこい選択よ。羽を折られたくなければなァ』
『承知致しました、お……に様』
瞼を上げると暗がりながら天井の木目が視界に広がった。
僅かに掛かる前髪を包帯が包み隠す指で払い深く息を吐く。
まだ夜半の真っ
どうすべきかと上の空な感覚でぼんやりとしながら横を見れば己に密着している妻の存在を目の当たりにして思い出した。
共に一組の布団で肌を寄せ合っているとは言え肌着さえ身に付けていない姿へ呆れかけるがそうさせたのは己自身と記憶を蘇らせる。
昼間の出来事で大袈裟かも知れないが神子がまた風邪に倒れる事をどうしてでも避けたいが為、湯治の
それが理由となったかは分からないが今宵は大人しく床に就こうとするも妻から己との交接を遠回しながら望んでいた事を羞恥心混じりで伝えられた。
所望されているのならば応えなければならないと迫れば即了承されるとも思っていなかった神子が困惑しながら取りやめ様と焦り出した。
しかし普段から妻を受け入れる心組は万全が故、思う存分に愛惜し尽くしたのだった。
最初は拒むばかりだった神子も結局の所、己とのふれあいを心底からは好み求めているので双方共に満たされて終着した。
事が済むと存分に愛でられた疲労から意識を手放して眠りへと落ちてしまった妻を丁寧な手付きで横にしてやり己自身も寄り添いながら床へ就いた。
そして今に至る訳だが数刻前に行った交わりを思い返せば少しずつ気が治ってゆく。
大谷の包帯で隠された胸元で身を委ね寝息を立てる神子の背中へ手を伸ばす。
地肌が露出された背部をゆっくりと優しく撫でるその手付きはまるで傷口へふれ労わる様な動作が垣間見えた。
しばし一人で繰り返せば睡魔がじわじわと生まれてきて大谷は背中に回したままの手を使い神子を抱き寄せた。
空いていた一方の手で頭部を守るかの如く包み妻から感じるぬくもりを得ながら再び眠りへと就いた。
「大谷さん、おはようございます」
耳に届いた声で目を開けばそこにはうっすらと頬を赤く染めて恥ずかしそうでも笑む神子。
まだ寝ぼけ眼ながらそんな妻を見つめて大谷は己には似合わなそうな盛運を受容する事にした
,