鬼さんどちら
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木の天井が歪んで見えた
二、三回、目を瞬かせると雫が頬へ零れ落ちた。涙のせいで天井が曲がって見えていたらしい。流れた涙を拭うこともなくそのままぼうっと天井を見る。
『──、──。なぜ名を呼ばぬ』
『忘れてしまったのか、──。』
『ああ、なぜ、なぜこんなにも─』
夢をみた。姿形は見えず、誰かが誰かを呼ぶ声のみが女の夢に現れた。怒りや憎悪といった負の感情が渦巻き、夢に入った女を呑み込んだ。なんとも居心地の悪い夢だった。もうみたくはない。だって、あの夢は、あまりにも……
「………」
もう二度とみたくない。
そう思ったとき、障子の向こう側から声がかかった。
「あるじさま、おきていますか? きょうのきんじはぼくですよ」
力強く言われた後半の台詞に笑みをこぼしつつ「起きてるよ。おはよう」と返すと障子がゆっくりと開かれた。柔らかく弧を描いていた赤い瞳と目が合う。が、その瞳は眉と共に哀しげに下げられた。
「あるじさま、ないています。どこかいたむのですか……?」
「ああ……これは違うよ。大丈夫、どこも痛くない」
「でも……ぼくやげんをよんできます!」
「ああっ本当に! 本当に大丈夫だから!」
今にも飛び出して行きそうな本日の近侍を止め、部屋へ連れ込む。不安そうな表情を浮かべる短刀の頭に手を乗せ、そっと笑みを作った。
「本当に何でもないよ。ただね─少し哀しい夢をみたの」
あの声の持ち主は気づいていたのだろうか。なぜ何度も相手の名を呼んでいたのか。怒りの中に違う感情が込められていたことに、その感情が何なのか、気づいていたのだろうか。
「今剣」
短刀の名を呼ぶ。それだけで自然と笑みが浮かんだ。
「……はい。なんですか、あるじさま」
不安げな表情がなくなり、目の前の刀にも笑みが生まれた。頬を赤らめ、目は柔らかく孤を描いた。名前は特別なのだ。女にとっても、この刀にとっても──きっと、あの声の持ち主にとっても。
名前は相手を縛る最も短い呪いだ。人と妖怪が主従を結ぶにあたって仮名をつけるのは、本名を縛るということはそのモノの魂まで縛ることになるからだ。
女─審神者は祓い者と違い、仮名をつけることはしない。出来ないというのが正しいが、それを嫌悪する祓い者も一定数いる。守り人などと言われているが、審神者と祓い屋との間には深い溝があるのだ。──アレを祓えるのは審神者だけ。それだけが審神者と祓い屋たちの溝を埋めるただ一つの理由だった。
それほど“名前”というものは重要で、尊いものだ。
「今剣」
再び刀の名を呼ぶ。刀は顔全体に喜びの感情を浮かべ「はい、あるじさま」と返す。女が喚んだ刀達は皆、女に名を呼ばれこの世におりてくる。そして自ら名を告げて女と主従を結ぶのだ。そのせいかどの刀も名を呼ばれるのを好む。中には自分の名に不満を持つモノもいるが、女に名を呼ばれると今剣のように歓喜の桜を浮かべて、幸せそうに笑みを返すのだ。
あの声の持ち主が呼んでいた相手は知らなかったのだろうか。愛するものの名前を呼ぶことも、呼ばれることもこんなにも心が満ちる行為だということを。知らなかったとしたらそれは本当に、哀しいことだ。
あの夢がただの“夢”であればいい。女は心からそう思った。