鬼さんどちら
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※モブ目線
男は二年前に定年を迎えた
そこからの楽しみは山の中にある人気のない池での釣りだった。ここは男の少年時代によく来ていた場所で、とにかく人が来ない穴場スポットだった。魚がよく釣れる、という意味ではなく人がいないという意味合いが強い。空気が澄んでいて喧騒が存在しない空間が男は好きだったのだ。
ここに来るには隠れ道と言っても言い存在感の薄い道を通らなければならない。初めてこの道を発見したとにはとにかく興奮したものだ。草木を掻き分けて二股に割れた大樹を目印に右へ、幾多の細い枝がある木を見たら左へ。いつも通りいくつかの目印を通って池までやってきた。そしてそこで一番に目にしたのはいつも通りの静閑とした光景ではなく、ひとりの少女の姿だった。
ぱちりと瞬きをしていると少女がこちらを振り返った。どこにでもいるような黒い髪が何故か強く印象に残った。
「……こんにちは?」
「こ、こんにちは」
疑問符のついた挨拶に男は少し動揺しながら返した。だって仕方ないだろう。ここで人に会ったのは初めてだったんだと心のなかで言い訳をし、少女から三メートルほど離れた場所に腰を下ろした。
釣りの準備をしつつ僅かに視線を少女に向ける。少女の格好は白いシャツにズボンというこの場に似つかわしくない格好をしていた。しかし手元には釣り竿を持っており、木で出来た手作り感満載のものだったが、造りはしっかりしているようだった。膝にはクリーム色の布がかけてあり、男と同じようにこの場所に長居するつもりのようだ。
「…………」
「…………」
どちらも会話はなく、ポイを投げる音と竿を引く音だけがその空間を占めていた。
ふと、男は思った。この子、学校はどうしたのだろうと。
今日は平日だ。仕事を辞めた男はともかく少女は確実に学校に通っている年頃だった。高校に通っていないのか、と考えたが少女の顔の面立ちはまだ義務教育中の子どものそれだった。
「……、」
一瞬声をかけようかと思ったが、男は口を噤んだ。誰にでも事情があるのだ。初対面の、しかもこんなおじさんにとやかく言われたくないだろう。こんな山の中にひとりでいることが気にならないわけではなかったが、少女の落ちついた雰囲気から危ないことをやる質でもなさそうだと判断し、そのまま静観することにした。
「……ここ、なにかいるんですか?」
一時間ほど経って、口を開いたのは少女だった。何もついていない釣り竿の先を見つめながらの言葉だった。急に話しかけられたことに内心驚きながら男はありきたりな魚の名前を挙げる。少女はうんうん頷きながら「たくさん釣れるんですね。ナマズも釣れるなら餌を買っておけばよかったです」と返した。挙げた魚の中で何故ナマズにだけ反応したのか分からなかったが「ナマズなら夕方以降の方がよく釣れるよ」とアドバイスした。何気ない会話だったがここで人と会話を交わしたのは初めてだったこともあり、僅かに気分が高揚した。静閑な空間を好んでいたはずなのになぁと同時に思った。
「『夕方』はあまりよくないですね」
「?」
不思議な物言いに一瞬疑問符が浮かんだが、門限かなにかだろうとすぐに疑問を流した。
「ああ、そういえば。ここには大きなナマズがいたんだよ。きっとここの主だったんじゃないかな」
「出会ったことがあるんですか?」
「子どものときにね。ふふ今思えばきっと見間違いだろうけど、そのナマズが綺麗な銀色に見えたことがあってね。あれは本当に美しかった」
少年時代の思い出に心の弾ませていると少女が池の真ん中にじっと視線を向けていることに気がついた。その様子につまらない話をしてしまったかと思ったが「最近は見ていないんですか?」と少し食い気味に質問してきたのでほっとしつつ口を開いた。
「ここに再び来るようになったのは二年ほど前からだからね。さすがにもう生きていないだろう」
「……そう……ですね」
少女の声が何故か沈んだ。再び池の真ん中を見ていたので男も視線をそちらに向けたがそこには何もなかった。
「……捕まえようとは思わなかったんですか?」
「最初はね。でもあんまりにも綺麗だからそんな気はすぐに消えていったよ」
造形はお世辞にも綺麗とは言えないそれに子どもながらに思ったのだ。あのナマズはここにいるのが一番いいのだろうと。
すると男の側の水面が緩やかに揺れた。何かいるかと少し前のめりになって覗いたが、何の影もなかった。稚魚でもいたのだろうか。
「……もう一度、みえたらどうしますか?」
少女はぽつりとそう呟いた。耳を傾けていなければ聞こえないような小さな声だった。みえたら、という言い方に少しとっかかりを覚えた。会えたら、の間違いじゃないか。しかしそれ以上に少女のおぼろげで哀しげな表情が気になった。何故かそれらを指摘したらいけない気がして、男はそっと口を開く。
「そうだね。できることならまた見てみたいね」
綺麗なあの魚を。そう言うと何故か少女はほっとしたように、嬉しさを噛み締めるように笑った。あまりにも嬉しそうに笑うので、男も釣られて笑みがこぼれた。
それに呼応するかのように水面がぽちゃんと優しく揺れた。
─約束通りに追っ払いましたよ。もう夢に出てくるのは止めてくださいね
──ああ、感謝する。審神者。アレに危害を加える前に祓っておきたかったのだ
─……どういうお知り合いですか?
──知り合いなどではない。名も知らぬし、言葉を交わしたこともない。
……ただ、幼い頃のアレがワタシを見て、笑ったのだ。池のヌシだのなんだの大騒ぎして、はしゃぎ回って、ワタシを捕まえると鼻息を荒くしてな。その姿が滑稽で浅ましくて、なかなか記憶から離れていかないのだ。