「雨…」

厚い雲のかかった灰色の空を眺めながらぼけーっと雨音を聞く。
薄暗い部屋には雨音と、思わず漏れた自分の独り言だけ。

読もうと思った文庫本と共にベランダのガラス戸の前にぺたりと座ったが、文庫本のページを捲ることはしなかった。

雨の音は落ち着くから好きだ。

目を閉じるとだんだんと眠気がやってくる。

心地よさに身を委ねていると、大嫌いな音が私の幸福な時間に終わりを告げた。

ヴーヴー…ヴーヴー


電話はとても苦手。
なんでかけてくるの…。

恐る恐る通話ボタンを押す。

「もしも…」
『あのさ、れなからのLINE2日も無視するってどういうつもり?』

ピッ…

怖すぎて手が勝手に通話終了ボタンを押していた。

すぐにまた電話がかかってくる。

「ごめ」
『れなのこと馬鹿にしてる?』

電話の相手は守屋麗奈。
大学1年の時に知り合ったからもう5年の付き合いになるのかな。
唯一の親友、といってもいいくらいの存在。
向こうがそう思ってるか分からないから本人には言わない。


「ごめん、びっくりして切っちゃった」
『電話嫌いなのは分かるけどさぁ…またスマホ見てなかったんでしょ』
「うん、2日見てない」
『ほんとに23歳?』

仕事が休みの2日間は全くスマホを見ない。
これでも学生時代はしっかりスマホ依存症だった。
SNSもやってたし、暇さえあればスマホを見てた。

でも、もう疲れた。

「それで?」
『幸阪ちゃんって覚えてる?』
「えーと、覚えてるよ、あのおとなしい子だよね?」

覚えてる。
幸阪…まりのだったっけな。
私が大学4年生の時に入ってきた同じサークルの1年生。
4年だったから就活でほとんどサークルには顔を出せていなかった。
追いコンで少し話したから何とか覚えていた。

『そ!幸阪ちゃんが玲ちゃんの連絡先知りたいみたいなんだけど、教えていい?』
「え、嫌だ」

電話の向こうから大きなため息が聞こえてきた。
隠すつもりもないらしい。

『ねぇ…もういい加減新しい人間関係頭ごなしに拒絶するのやめなよ。3個も下の後輩だよ?』

麗奈ちゃんの言葉のナイフが突き刺さる。

「うぇえ、だってぇ」
『幸阪ちゃんにLINE教えとくから』
「待っ…て」
『ほんとに怖かったられなに言って。れなが責任持つから』

電話が切れたあと、1時間くらい後に知らないアイコンからLINEが届いた。


【大園さん、お久しぶりです!
幸阪です。
覚えてますか?🙇‍♀️】


もちろん覚えてるよ!
逆に覚えてくれてて嬉しいよ☺️
どうした?


返信はすぐに返ってきた。

【こないだの突然の土砂降りの日覚えていますか?
大園さんがハンカチ落とされてて、たまたま私が見かけて拾ったんです。
お時間ある時に返したいんですけど、都合どうでしょうか🤔】


無くしたと思ってたハンカチ
落としてたんだ。
そりゃ見つからないわけだ。

返して欲しいけど
ほとんど話した事ない後輩と会うのか…
嫌だ、すごく嫌だ。
ああ…でも大して話した事ない人のハンカチずっと持ってる方が嫌だよね…
いっその事捨ててもらう?
でも時間作って返そうとしてくれてるから
会いたくないですって言ってるようなもんだと思われないかな…
それは傷つくよな…


ずっと前に麗奈ちゃんに指摘されたことがある。
玲ちゃんは人に優しすぎると。
人の機嫌を過剰に伺ってしまう性格と、たまたま勉強ができた事が重なり、主席だった私に近づいてくる人は単位を取るために私を利用しようとする人ばかりだった。

また、麗奈ちゃん曰く私は人を見る目がないらしい。
初めてできた恋人には、優しすぎてつまらないと浮気され、信頼していた教授には不倫を持ちかけられ、仲良くしたいと近寄る人は麗奈ちゃんが目的だったり私の書くノートが目的だった。


みんな私の向こう側しか見てない。
それに気づくと全てが嫌になった。
人との関係を断ち始めたらすごく楽になった。


幸阪ちゃんからの連絡が来て1時間葛藤している。
一周回ってイライラしてきた。
何でこんなに悩まないといけないんだ。
せっかくいい雨音の日なのに。
ああ…私がハンカチ落としたからだ…
イライラしてごめんなさい。幸阪ちゃん。


ありがとう!
そしたら今度の土曜日はどうかな?

【大丈夫です!😆】

あっという間に予定が決まってしまった。


集合場所は最寄駅。
今日も雨が降りそうだ。
最近本当に雨が多い。

駅に着いて少し待っていると
「大園さーん」

幸阪ちゃんが小走りでやって来た。

「すみません!お待たせしました」
「ううん、私もさっき来た、ハンカチごめんね」
「いえ!」

綺麗に畳まれた私のハンカチを鞄から取り出し、渡してくれた。
洗濯してくれたんだ。

「ありがとう。どこで落としてた?」
「ほんとにここの近くです!高校生かな、制服の子に傘貸してましたよね?その後大園さん走ってる時に鞄からぽろっと」
「ええ!…声かけてよ!」
「ちょっと距離あったんで…でもかっこよかったです。まりのには出来ないから」


仕事帰りに突然土砂降りの雨が降ってきた。
駅で困ってる女の子がいたから傘を貸してあげた。
見られてたみたいだ。

「あの、時間作ってくれてありがとうございました!」
「あ、うん、ほんとにありがとう」

幸阪ちゃんが元来た道を戻ろうとした時

「あ、雨や」

とうとう降り出した。

「降ってきたね、傘は?」
「まりの持ってません。でも近いんで走って帰ります!それじゃ!」

走り出そうとする幸阪ちゃん
流石に私は腕を掴んだ。

「私んちで傘貸すから」

「え!ほんまですか!」


ーーーーー

私が持ってた傘に幸阪ちゃんを招く。
私の家はここから10分くらいだから、家まで一緒に来てもらうことになった。

「家この辺だったんだね、ご近所じゃん。駅からどれくらいなの?」
「歩いて25分くらいです」
「待ってその距離走ろうとしたの?この雨で?」

大人しい子だと思っていたのに、こんなに野生児だとは…
人は見た目によらないな…

「大園さん肩ビショビショ、まりのに傾けすぎです」
「幸阪ちゃん濡れちゃう」
「まりのが持ちますよ?」
「私の腰が砕けちゃうよ」
「遠回しにチビって言いました?」
「言ってない言ってない!」

たわいもない話をしながら家まで歩く。

向かいからすごい速さで走って来る車。
危ないな…

「うわ!!!」

悲鳴が聞こえた時には車が水たまりを思い切り跳ね上げ、幸阪ちゃんだけが頭から水を被ってしまった。

「大丈夫!?」
「ぺっぺっ、きたな、口に入った…」

慌てて今日返してもらったハンカチで幸阪ちゃんの顔を拭く。

「うわあずぶ濡れだ、うちでシャワー浴びてきな。服も貸すよ」
「うう…ありがとうございます…」
「もう着くから、急ごう。風邪ひいちゃう」
「大園さん、
もうここまで濡れたら雨に打たれようが変わらないですよね!」

幸阪ちゃんはそう言い、傘から飛び出した。

「ふおぉ…泥水よりはましかも…」

両手を広げ、大粒の雨を受け止める。

なぜだかはさっぱり分からないけど、その光景が眩しく感じた。


「ふふっ…風邪引くよ!」
「大園さんも浴びます?」
「ううん、いい」
「えーん」


ーーーーーー


「そのままひねればお湯出るから」
『ありがとうございます!』

幸阪ちゃんの服を洗濯機に放り込む。
パンツは無事だったみたい。

Tシャツと半ズボンのジャージを置き、脱衣所を出る。

「つかれた」

思わず漏れてしまった。
休みの日にこんなに人と話すことはないから。

普段の自分を取り戻すように、雨の日の定位置。
ベランダの入り口のガラス戸の前に体育座りをして空を見上げる。
まだまだ止みそうにないな。

雨音を聴き入ろうと目を閉じる、が
幸阪ちゃんのシャワーの音しか聞こえない。
耳がそっちばかり受け取ってしまう。
人がいるとこんなに物音がするんだなぁ。

ぼけーっとしていると、お風呂のドアが開く音がした。
ペタペタと足音がする。

「シャワーありがとうございました!」
「お疲れ様。洗面所にドライヤーあるから」
「はい!ありがとうございます!」

あ、洗濯終わったみたい。
幸阪ちゃんが髪を乾かしている洗面所に入り、洗濯物を干し、浴室乾燥をかける。

「服ありがとうございます」
「え!?」
「服ありがとうございます!!!」
「うん、気にしないで」
「なんて言いました!?」
「気にしないで!!!」

このやり取りが面白くて笑ってしまったじゃないか。

幸阪ちゃん面白い子だ。

しばらくしてから髪を乾かし終わった幸阪ちゃんが部屋に来た。

「大園さん、本当にありがとうございます」
「ううんー」
「隣ええですか?」
「いやいや、あっち行こ、おしり痛くなるよ」


私はフローリングに直に体育座りをするのが好きだから座っていたけど、さすがにお客さんにさせるわけにはいかない。
だからせめて場所をカーペットの上に変えようとした。

「大園さんの今の場所の隣がいいです」
「…よくわかんないけど、どうぞ」

薄暗い部屋
テレビもつけずに2人でフローリングに体育座りして雨を眺める

何この時間

「洗濯物あと4時間くらいで乾くと思うけど、服貸すからすぐ帰れるよ」
「そしたら4時間いていいですか?」
「え、うん」
「えへへ、ありがとうございます」


多分20分くらいかな
無言で雨を眺めてた。
音は雨音だけ。
隣に人はいるけど、やっと気持ちが落ち着いてきた。

「大園さんは雨の日はこうしとるんですか?」

あ、キモいって思われてたのかも
暗いとか?
暗いのは自覚あるけど。

「うん、雨の音が落ち着くから好きで」
「そうなんですね、まりのこんなにちゃんと雨の音聴くの初めてです。なんか癒されますね」

その会話から1時間後、幸阪ちゃんがまた口を開いた。

「あの、大園さん、これからすごいこと言うんですけど、キモいって思ったらすぐ言ってくださいね」

「そんなこと言わないよぉ」


「まりの、大園さんが好きです」

「えっ!?」

思わず幸阪ちゃんの方を向く。
真っ赤な顔をした幸阪ちゃんとばっちり目が合った。

反射的に
「あ、ありがとう」と言葉が出た。

「本気にしてませんね」

私が咄嗟に顔を背けたから、その言葉を口に出す幸阪ちゃんの表情は分からなかった。

「えと、そんなことない…です」
「なんで敬語やねん」
「いつからでしょうか…」
「大学入学した時からです」

全く気が付かなかった。

「ごめん、私ひとが怖くて、だから」
「まりのにもチャンスください」
「でもね」
「大園さんを人嫌いにしたのはまりのじゃないです。まりのと会う前に会った人です。やから平等じゃないです。まりのにだけチャンスないのおかしい…ん?何言うてんねやろ」
「何となく言いたいことは分かる」
「大園さん、目見てください」
「はいっ」

この子、目がすごく大きいんだな。
茶色くて綺麗。

「またここに来てもいいですか、いっぱい来てもいいですか?」
「いっぱいは嫌だ」
「じゃあ分かりました。雨の日だけ!雨の日だけ来ます」
「でも私スマホ全然見ないし予定たてられない」
「じゃあピンポンします。直接来ます」
「…わ、わかったよぉ」

幸阪ちゃんに押されて変な約束をしてしまった。

こんなにまっすぐ好きを伝えられたのは初めてだった。

それから幸阪ちゃんはうちに来るようになった。
本当に雨の日だけ。
最近雨が多かったから、連続で来る日もあれば1週間空くこともあった。

2人で並んで座り、雨を眺める。
幸阪ちゃんがうとうとして隣で居眠りしてた事もあったし、ドーナツをたくさん買ってきてくれたこともあったな。
雨の中電線に止まってる鳥を見たり、突然雷が落ちてびっくりしたこともあった。

全然喋らない日もあれば、ぽつぽつとたわいもない話をする日もあった。
人といるのに心が落ち着いていたし、楽しかった。


「大園さん」
「はい」
「好きです」
「ありがとうございます」


幸阪ちゃんは必ず好きを伝えてくれた。

今日も雨。
隣には幸阪ちゃんが座っている。


「大園さん」
「はい」
「好きです」
「ありがとう」
「あ、ちょっと動かないでもらっていいですか?」
「え、うん」


ゴミでも付いてたのかな


「ん」

ほっぺたに柔らかいものが触れた。

それが唇だって気付くのに、3秒くらいかかった。

「えっ!?ええっ!?」

幸阪ちゃんは、何か問題でも?とでも言いたげな少し生意気な表情。

「やって、本気やって伝わってない気がしたから」

「こ」

「こ?」

「こんな事しちゃいけないんだよぉ…」

思わず体育座りで組んだ腕に顔を埋めてしまった。
ドキドキしすぎて、心臓痛い。

腕の隙間から幸阪ちゃんの顔を盗み見ると、「ふへへ、大園さん耳赤い」と笑っていた。
幸阪ちゃんの顔も真っ赤だった。
可愛い、と思ってしまった。


「来週から晴れるみたいですよ」

幸阪ちゃんが空を見上げながら教えてくれた。

「そっ…か」

ずっと雨でいいのに
そう思った。


天気予報は見事に当たり、晴れの日が続いた。
1ヶ月は雨が降っていない。

以前と比べてだけど、スマホを見るようになった。
「玲ちゃんからこんなに早く返事が来るなんて雹でも降るかも!」と麗奈ちゃんに褒められた。
雨がいいのに。

幸阪ちゃんに何度か連絡をしようとしたけど
勇気が出なかった。
LINEを開くと、手が震えた。
なんて意気地なしなんだろう
自分が嫌になった。

雨が降って欲しい。
そう願うようになった。


今日は土曜日で仕事が休み。

朝、目を覚ます。
ザーザーと雨が降っていた。

幸阪ちゃん、来てくれるかな。

一度思ってしまうとなかなか落ち着かないもので、ずっと頭の片隅に幸阪ちゃんがいた。

夕方、インターホンの音がする。
幸阪ちゃんじゃなかったら
これから玄関を開けることになる少し未来の自分が傷つかないために、テンションを抑えて玄関へ向かう。

「…はい」
『大園さん!開けてください!寒い!』

ドアを開けると、ずぶ濡れの幸阪ちゃん。

「なんで?」
「風で傘ひっくり返って骨だけになりました!」

手にさっきまで傘の役割をしていたものが握られていた。

ーーーーーー

なんであの子はこんなに雨に降られるんだろう。
ベランダのガラス戸の前に体育座りをし、雨を眺める。

耳にはシャワーの音。
頭の中はなぜ幸阪はこんなに雨に降られるのか。

雨音を楽しむ余裕なんてなかった。

しばらくしてから「ありがとうございます…」と幸阪ちゃんが戻ってきて
当たり前のように私の隣のフローリングにぺたりと座ってくれた。

「久しぶり?」
「1ヶ月ぶりくらいですかね」
「そ、だね」
「えぇ!?大園さん会ってない期間に仲良しリセットされちゃうタイプですか!?」
「ちがうよ」
「ああ良かった。今日は声が枯れるまで好きって言わなあかんのかと思いました」
「ふふ」
「あ、笑ってくれた」

よしっとガッツポーズをしている。
そんなやり取りも嬉しい。
この時間がずっと続けばいいのに。
ずっと雨が降ればいいのに。


…気付かないふりをしていたけど
わたし幸阪ちゃんのこと好きだ。
うん、分かってた。
完全に好きになってた。
認めますよ。大人なんで。

勇気も…出しますよ
大人ですから


「幸阪ちゃん」
「はい?」
「まだ私のこと好きでいてくれてますか」
「当たり前じゃないですか。え、とうとう出禁ですか!?」
「ちがう」
「よかった」

「雨の日に来てくれてるじゃないですか」
「はい」
「あの…雨の日以外にも…会いたくて…」
「へ!?晴れてても来ていいんですか!?」
「いや、その、ちがくて」
「はい?」
「天気関係なく、その、会いたい気持ちがあって…雨が降って欲しくて…」
「全然わかんないです、なんですか?」

「好きです」

「ありがとうございます?」

「うわ、それ私のやつ」


幸阪ちゃんのただでさえおっきい目がだんだん大きく見開かれた。
ありがとうございますは反射で出たらしい。


「え、待って、今頭が混乱してます。ちゃんと言ってください」

「こ、幸阪ちゃんのことが好きです」

「もっかい」

「幸阪ちゃんが好きです」

「下の名前にしてもらってええですか」

「茉里乃ちゃんのことが好きです…って何回言わせんの!」


幸阪ちゃんは「ああやばい、ほんとに嬉しい」と涙をポロポロとこぼしていた。

なぜか私ももらい泣きをして、しばらく2人で泣いた。

「…」
「…」

腫れた目の私たちは、泣き疲れて体育座りでいつもの定位置に落ち着く。

「なんで大園さんが泣くんですか」
「ごめん」
「…」
「…」
「あ、雨止みましたね」
「ほんとだ」

厚い厚い雲からほんの少し太陽が覗き始めた。

「ねえ、今まりの雨降ってないのに大園さんの隣にいますよ」
「雨に感謝だねぇ…ずっと隣にいてください」
「ねえほんまにサラッとかっこええこと言わんで?」


顔を赤くしてる幸阪ちゃんに改めてお付き合いしてくださいと告白した。
可愛い彼女ができた。
この子になら何されてもいいやと思える存在になった。
もう人も電話も怖くない。
茉里乃のおかげだ。


今日も雨。
茉里乃を家に送り届けるため、相合傘をしている。
イチャイチャしたいからではない。
茉里乃が電車の中に傘を忘れてきたからだ。
雨が降ってるのに何で傘を置いてくるのか理解できない。
重要なことだから2回言うが、イチャイチャしたいから相合傘をしてる訳ではない。


「そういえばさ、あの時なんで雨の日だけ来るって言ったの?1週間に何回とか決めればよかったじゃん」

「懐かしいな。それは思ってんけどな、玲ちゃん雨好きやろ?やから落ち着いてる時に会えるかなーとか思って」

「そうだったんだ。雨ぜんぜん降らなかったら会えないー嫌だーとか思わなかったんだ」

「それに関しては何も心配しやんかった」

「なんで」

「まりのめっちゃ雨女やねん」


茉里乃はふへへ、と笑った。
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