二章
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忍術学園に戻った椿と利吉を迎えたのは小松田だった。
それ自体は予測のつくことで、何も変わったことはない。
ただ違ったのは、彼のいつもと違う慌てようだった。
「あっ、椿ちゃん!」
「小松田君?どうしたの?」
「どうしたもこうしたも、とにかく学園長室に!」
よくわからないがそう言われたので向かおうとする椿の腕を利吉が掴んで引き留めた。
彼女が振り返り見上げるが、彼は小松田に目を向けたまま真剣な表情をする。
「小松田君、来客か?」
「そうですけど、」
「馬印堂 ……と言っていなかったかい?」
利吉の言葉に小松田は考えるような仕草の後でそれを肯定した。
眉間に皺が刻まれると同時に独り言を零す。
「……随分早いな……」
「利吉さん…?」
心配そうに見つめる椿、彼女の瞳を正面から見据えて利吉は言った。
「椿さん、行くのは止めてください。」
「え?」
「利吉さん、どうしたんですか?椿ちゃんに行ってもらわないと困るんですけど。」
「それは小松田君が何とかしたまえ。椿さん、先程言っていた者が来ているようです。あなたが行くと確実に巻き込まれる。どうか言うことを聞いてください。」
腕を掴まれる力強さに心が騒めく。
彼は単に巻き込まれるからと椿を行かせたくない訳じゃない、心配してくれているのだ。
それが椿にもわかるから、最善がなんなのかわからなくなり迷いが出てしまう。
「何とかと言われても、僕じゃどうにもならなかったからお願いしてるんですけど。」
「小松田君、どういうこと?」
「樒さんが帰って来ないんです。椿ちゃんの代わりにお茶を出しに行ったっきり。部屋の中からは言い争う声が聞こえるし、僕なんか門前払いだったんだよ。」
「樒ちゃんが!?」
樒の名を聞いた途端に椿の目の色が変わる。
利吉がしまったと思った時には遅かった。
彼女は揺るがない瞳で彼を見つめる。
「利吉さんお願いします、行かせてください。」
「椿さんっ…!」
「樒ちゃんが巻き込まれてしまっているようです。それが私の代わりであるならば見過ごせません。」
「あなたが行ったところで事態が好転するとは考えられない。」
「でもどの道、学園に何かが起こるなら、少なくとも樒ちゃんは関係ないはずです。」
「確かにそれはそうです。ですが、それであなたが何かを負うと言うのですか?避けられる災厄を自ら受けると?」
「……利吉さんさっき言ってくれたじゃないですか。私を守ってくださるって。でもそれは、私も同じなんです。今は樒ちゃんを助けたい。できることならしたいんです。」
椿の真っ直ぐな瞳、気を抜くと押し負けてしまいそうな強い意志。
彼女を掴む手に力が入って震える。
顔が歪み奥歯を噛みしめる。
これ以上、どう引き留めて良いのかわからない。
なんて強い……これが竹森の姫君なのか、まるで覚悟が違う。
静かな時間、どれ程経ったのだろう。
やがて利吉は椿の瞳から逃れるように目を伏せて力を抜いた。
彼女は利吉の手が完全に離されるのを待ってから礼を言う。
「……ありがとうございます…」
遠ざかる足音、彼女のその背にもう一度手を伸ばせたなら……
だがそうすることで己の弱さが露見してしまいそうになるのは許せない。
椿の強さに適わないなら、その輝きを守り抜くしかない。
避けられない、これが運命ならば……
運命?
彼女が辿って来た軌跡も、ここにいる事実も、止められなかった自分も、全て運命だと言うのか?
そんな不確かなものに振り回されるのは癪だ。
例え道が決まっていたものだとしても、彼女は自分でそれを選んだ。
無謀とも言えるかも知れない、いや、そんな話をしたら椿は笑い飛ばすのだろう。
「できることなら、したい……か。」
恐らく根本的な考えが違うのだ。
請け負った仕事を損害を出さずに遂行する自分と、何かのために己の犠牲を厭わない彼女とでは。
お互いを理解し合うのは難しい、でもそれもまた、人が生きる上で必要なことかもしれない。
少しだけ椿のことがわかった気がして利吉はため息を吐きながら口角を上げた。
「椿ちゃん、上手くいくといいですね。」
「……そう、だな…」
隣りで呟く小松田に、小さくそう返してただただ祈るしかなかった。
足早に学園長室に近づくと部屋の外にヘムヘムがいるのが見えた。
部屋の中からは確かに何かを言い合う声が聞こえてくる。
心配そうに行ったり来たりしてたヘムヘムが椿に気づくと立ち塞がり彼女の足を止める。
「ヘムっ!ヘムっ!」
「ヘムヘム、樒ちゃんが中にいるの?」
「ヘム!」
身振り手振りで説明しようとするヘムヘム。
全てを理解することは出来なかったが、樒が中にいること、彼が椿を足止めしようとしていることはわかる。
椿は腰を落としてヘムヘムに目線を合わせた。
「ヘムヘム、お願い。通して。」
「ヘムヘム!」
首を振って何かを訴える。
きっと学園長に言われたのだろう、ヘムヘムはそれを守ろうとしてる。
重要な話なのだろうか、だとしても樒を帰さない理由がわからない。
彼女が何か思い出したのか、もしくは迎えが来たのか?
そうだとしたら踏み込む訳にはいかないが。
ヘムヘムにそれを確認すると彼は首を振って否定した。
少し安心して、それならばとヘムヘムを安心させるように優しく語りかける。
「ヘムヘム、何が起きているかわからないけれど、樒ちゃんは学園に関係がないよね。私は樒ちゃんを助けたいだけなの。お願い、中に通して。」
「ヘムぅ…」
「大丈夫、あなたに責任がいかないようにするから。ね、お願い。」
椿はそっとヘムヘムを抱き寄せる。
全身に不安と心配をまとわせた彼から、それを取り除くために。
暖かい……
ヘムヘムを安心させるためにそうしたはずなのに、逆に椿自身の気持ちを落ち着かせられていることに気付く。
ヘムヘムは椿の腕の中で徐々に緊張を解していった。
目を合わせて微笑むと、ヘムヘムは迷いながらも止めることはもうなかった。
「ありがとう。」
椿はさっと立ち上がり、ついに学園長室の障子に手をかけた。
この空気はなんだ?
室内に留まっていた樒、正確には早々に退出したかったのだが見知らぬ客人に足止めされてしまい、今に至る。
学園長とその客人、初老の男を筆頭に大柄の男と目つきのキツい男が何やら話し合っていた。
わかる範囲で整理すると、その客人からの依頼を一度は受けた学園長がどうやら破棄しようとしているらしい。
その依頼の中身は知らない、自分が茶を運び部屋に入る前の話だったため、何のことを言っているかはわからなかった。
ただ、学園長の態度が一変したのはどうやら樒がきっかけらしい。
初老の男、名は戸津 と言った。
戸津が樒を見た途端に発した言葉、それが学園長の態度を変えさせた。
戸津の後ろに控える男二人の視線も嫌な感じがしたが、学園長と戸津の言い争いとも取れる話にその場を去るきっかけを逃した。
このまま平行線なのだろうか、学園の教師でも来てくれたなら場を収められそうなのだが。
樒が話し合いにうんざりした頃、彼女はやってきた。
「失礼致します。」
椿だ。
彼女の姿を見て驚いた学園長が、小さくヘムヘムの名を零し悪態をついた。
椿は一度客人に向けて頭を下げると学園長に言う。
「お話し中申し訳ございません。学園長先生、樒さんを…」
「あ、あなたはっ……!」
椿の言葉に割り込んだのは戸津だった。
その顔は驚愕している。
「忍術学園の方ですか!?」
「……?、はい。」
興奮したような口調の戸津に椿は困惑した。
彼女は何が起こっているかわかっていない、樒も疑問符を浮かべる中、学園長が厳しい口調で入り込む。
「戸津殿!彼女は駄目じゃ!!」
「しかしながら大川殿、この方はとても良く似ておられる!他にはない適材ではないですか!」
「ならん!ならん!!彼女は全く関係ない!!」
話が読めない椿が学園長に目を向ける。
彼は樒とともに椿をも部屋から出るように促す。
「お待ちください!どうか手を貸してくださいませんか!?この通りです!」
戸津は畳に額を擦り付けるくらいに頭を下げた。
それが少し気になった椿が足を止める。
「だから、彼女たちは駄目なんじゃ!」
「先程は手を貸すと仰ってくださったではないですか!」
「確かに助太刀はすると言った。だが、何度も言うが彼女たちは駄目なんじゃ!」
「何故ですか!?学園の方であると仰られたのに!」
「学園長先生、」
椿が学園長に向き直る。
「訳を聞かせてくれませんか?どうやらお困りのご様子、私がお力になれるのなら…」
「いいや!君たちをそんな目に遭わすわけにはっ」
「このままでは忍術学園も大変なことになるのですぞ!?」
「戸津殿!」
学園長の言葉を遮るように入り込んだ戸津の忠告。
椿の耳を塞ぐことが叶わず、既に手遅れだった。
戸津の前に座り込み話を聞こうとする彼女。
学園長の苛ついた様子を横目で気にしながらも樒も椿に倣って腰を落とした。
「実は、私たちはここより東にある馬印堂 城に仕える者です。この度、我が城の千 姫様が西の国、堀殻 城へお輿入れされることが決まりました。しかしながら堀殻と馬印堂が結ばれることを快く思わない国がありました。差臼 城と言いまして昔から堀殻城と因縁のある国でございます。」
戸津の話を椿は黙って聞いていた。
樒はその話に何故自分が巻き込まれそうになったのか全く見当がつかない。
ただ、戸津の後ろに控える二人の男、彼らの視線は戸津や椿よりも自分に向けられている気がして気持ちが悪い。
当然ながら、彼らのことは知らない。
知らないが、無意識に体が拒否反応を示しているということは、記憶を失う以前に何かしらあったのだろうか?
自分が?馬印堂と関係あると??まさか……
いずれにせよ、今は戸津と椿の動向を見守ることにする。
「我が城の城主様は争いは好みませんが、差臼が馬印堂を手に入れたいと考えていると知って堀殻と手を組むことをお考えになったのです。……もし姫様のお輿入れが失敗すれば堀殻の怒りを買うことになり、両国に挟まれたこの忍術学園も戦場と化すことでしょう……」
「……差臼というところは、そんなにも酷いところなのですか?」
「はい、城主である差臼普墺 は残虐で冷酷、欲しいものを手に入れるために手段は選ばない人物です。差臼に飲み込まれた城は数知れず、殿はそんなところに姫様を行かせるわけにはいかないと躍起になっておられるのです。」
「……」
「ここからが本題です。お見受けしたところ、あなたは千姫様に瓜二つ。そこで姫様がお輿入れされる同時刻に差臼の目を誤魔化して頂けないかとのご相談にございます。」
「それって、」
「椿君、もういいじゃろ。」
学園長の止める言葉に椿は振り返る。
いつになく厳しい表情、突然の思い付きで学園内を引っ掻き回す学園長とは違う。
「戸津殿、貴殿のご依頼はお引き受けしよう。ただ彼女たちは学園とは無関係、ご容赦いただきたい。」
「大川殿……」
「でもそうしたら私たちの代わりは誰が務めるのですか?」
椿は引き下がらない。例え学園長の言うことだとしても、依頼人が自分を適任と言ったことが気になる。
「くのいち教室の子ですか?それとも六年生?」
「それは……」
「戸津さんが仰っておりましたが、千姫様は私にそっくりなんですよね?」
「ええ、お顔も背格好もそっくりでございます。」
「学園長先生、先程戸津さんは”差臼の目を誤魔化す”と仰っておりました。それというのは、差臼城に千姫様の容姿は知られているということですよ、仮に誰かが姫様の振りをしたとして、偽物だとわかったらどうなるか……私の言いたいことがわかりますか?」
差臼が噂通りのところなら、偽物に容赦はしないだろう。
この学園の長として、大切な生徒をそんな危険に晒すことなど避けなければならない。
それは椿にも言えることなのだが……
「しかしじゃな、」
「見た目がそっくりな私なら、多少は敵の目を欺くことも可能でしょう。すぐにどうこうということはないと思います。それに、」
学園長に近づくとそっと耳打ちをする。
「……本物であった私なら、何があってもこなせると思います。」
それは確かにそうなのだ。
くのいち教室で作法を教えているとはいえ、姫君の所作などは完璧にこなせる者がいるかどうか、怪しいところである。
姿格好が似ていて作法も完璧にこなす椿は、これ以上ない存在であった。
ぐうの音も出ずに黙り込む学園長、椿はその手に自分のそれをそっと重ねる。
利吉さん、ごめんなさい……!
一瞬、利吉の顔が脳に過ったが彼女は心の中で彼に詫びを入れた。
「学園長先生が私達を守ろうとしてくれていることはわかります。感謝しております。だからこそ私も学園のために何かしたい、それだけです。それに万が一の時は、学園長先生ご自慢の優秀な先生や生徒たちがきっと助けてくれますから。信じています。」
椿がそう発した後のしばしの沈黙。
戸津や樒はその動向を見守った。
やがて拳を強く握りしめていた学園長は、小さくわかった…と零したのだった。
「ありがとうございました。本当にありがとうございました。」
見送りの際、戸津は何度も椿にそう言った。
そんなに恐縮しなくていいと彼女は言ったが、どうも千姫に見えてしまって腰を低くしてしまうらしい。
それを聞いた椿が笑うと、戸津も控えめに笑って見せた。
樒は椿たちを遠巻きに眺めていた。
その時後ろから強い衝撃が当たり、前に倒れてしまう。
何が起こったのか、振り返り確認するとそこにいたのは戸津の後ろに控えていた大柄の男だ。
「……すみませんでした。お怪我は?」
腰を落として樒と目線を合わせ、手を差し出す。
ぶつかったのだと理解した彼女は差し出された手を取ろうとして男と目を合わせた。
ドクン
男の目に感情はなかった。そればかりか見られていると感じた瞬間、恐怖に襲われる。
男の後ろに巨大な双眼が現れ、自分を捕らえて離さない。
得体の知らないものに飲み込まれる感覚、汗が吹き出し何かを拒絶するように男の手を取ることができない。
「どうしましたか?大丈夫ですか?」
「……だ、大丈夫、です……一人で、立てます……」
「……」
体が震える。なんだこれは?
自分が分離するような、もしくは引き戻されるような感覚。
胸の音が煩い。
あ……私、は……………………
「樒ちゃん!?大丈夫!?」
こちらに気付いた椿が駆け寄るのが見える。
彼女に手伝ってもらって立ち上がると、樒はすまない…と一言漏らしてふらふらと離れて行った。
椿が心配そうに見送ると男は弁解をする。
「申し訳ない。ただぶつかってしまっただけなのですが、大丈夫だと仰るので。」
「そう、ですか…」
顔色が悪かったのが気になるが、歩けているようなので一先ず客人を見送ることにした。
「……これはつまり、どういうことだ?」
「どうもこうも、椿ちゃんが上手く解決してくれたってことじゃないですか?」
「椿が?あんなに抜けてそうな女が、か?」
「尊奈門さん、そんな言い方ないですよ。椿ちゃんは結構しっかりした子ですよ?」
「……結構、ね。君が言うことじゃないな、小松田君。」
忍術学園の塀の上、覗き込もうとした尊奈門を察知した小松田が入門表を彼に押し付けていた。
先程椿を見送った利吉も話の行方を見守るため、学園長室から出て来た彼女を見つけると遠目に観察をしている。
尊奈門の存在が気になったというのもあるが、この塀の上で男三人並ぶことになったのは何か妙な気がする。
先程彼女にあれ程お願いしたのに、やはりというか然るべきというか、椿らしい道に進むことになったようだ。
最早何も言うまい、なってしまったものは仕方がない。
惚れた弱みもあるのかも知れない、望まぬ結果になったがそれで椿を責めるつもりもない。
結局、そんな彼女が好きなのだ。好きになったのだ。
あとは、こちら側が最悪を招かぬよう努めるだけ……
「で、尊奈門さんはどうして彼女をつけているのです?」
利吉が敵視するように厳しい視線を投げる。
彼がタソガレドキ城の忍者であること、椿を監視するようにつきまとっていること。
彼女とのデートの時から薄々感づいてはいたのだがこうして現れたということが何よりの証拠、彼個人の意思で動くとは思えないが歳が近い分幾らか気になって仕方がない。
「好きでつけているのではない、これも仕事だ。」
「そうですか、彼女につきまとう仕事とはなんなのか非常に気になりますね。」
「ふん、だからと言ってこの場で漏らすと思うのか?お前の方こそ椿にしつこいくらいつきまとっているではないか、山田利吉。」
「ええそうですよ?私は彼女が好きですからね。本当なら安全な場所に隠してしまいたいくらいです。……あなたの目の届かないところに。」
「……」
「それに先程から気になっていたのですが、椿さんを呼び捨てにするの、やめて頂けませんかね?癇に障るので。」
厳しい視線はやがて冷たい視線に変わり、刺すように尊奈門に向けられた。
その空気を察したが彼は至極冷静に言葉を返す。
「勘違いするなよ、これは仕事だと言ったはずだ。タソガレドキとしては忍術学園と争う気はない。それだけは言っておく。ただ、」
「……」
「あいつを”椿”と呼ぶことに変わりはない。お前にどうこう言われる筋合いなどないからな。」
タソガレドキとして争う気はないが、尊奈門個人としては別の話だ。
利吉の言葉の意味を理解はするが承諾するつもりはない。
自分の言動に釘を刺すこの男に苛立ちを覚える。
人前で堂々と彼女か好きだと言った利吉に驚きはしたが、それ以上も以下も感想はない。ただ、
あいつは、土井の女……ではないのか?
利吉程の男がそれを見逃すとは到底思えない。
見えていないのか見ぬ振りをしているのか、それとも実際は違うのか……
一瞬、椿の顔が頭に浮かんだが、何故自分がそのようなことを考えねばならないのかと急いで消した。
椿は監視対象、ただそれだけだと。
どちらかが少しでも動けば何かが始まってしまう、そんな空気を察したのだろうか、珍しく小松田が間に入り込んだ。
「お二人とも、忍術学園の塀の上で喧嘩することは禁じられていますので。」
利吉も尊奈門も、こんなことで争うつもりは毛頭なかった。
そんなことをしてもどうにもならないことはわかっていた。
ただ一つだけ、わかったことがある。
”こいつ”は見過ごせない相手、だということだ。
それ自体は予測のつくことで、何も変わったことはない。
ただ違ったのは、彼のいつもと違う慌てようだった。
「あっ、椿ちゃん!」
「小松田君?どうしたの?」
「どうしたもこうしたも、とにかく学園長室に!」
よくわからないがそう言われたので向かおうとする椿の腕を利吉が掴んで引き留めた。
彼女が振り返り見上げるが、彼は小松田に目を向けたまま真剣な表情をする。
「小松田君、来客か?」
「そうですけど、」
「
利吉の言葉に小松田は考えるような仕草の後でそれを肯定した。
眉間に皺が刻まれると同時に独り言を零す。
「……随分早いな……」
「利吉さん…?」
心配そうに見つめる椿、彼女の瞳を正面から見据えて利吉は言った。
「椿さん、行くのは止めてください。」
「え?」
「利吉さん、どうしたんですか?椿ちゃんに行ってもらわないと困るんですけど。」
「それは小松田君が何とかしたまえ。椿さん、先程言っていた者が来ているようです。あなたが行くと確実に巻き込まれる。どうか言うことを聞いてください。」
腕を掴まれる力強さに心が騒めく。
彼は単に巻き込まれるからと椿を行かせたくない訳じゃない、心配してくれているのだ。
それが椿にもわかるから、最善がなんなのかわからなくなり迷いが出てしまう。
「何とかと言われても、僕じゃどうにもならなかったからお願いしてるんですけど。」
「小松田君、どういうこと?」
「樒さんが帰って来ないんです。椿ちゃんの代わりにお茶を出しに行ったっきり。部屋の中からは言い争う声が聞こえるし、僕なんか門前払いだったんだよ。」
「樒ちゃんが!?」
樒の名を聞いた途端に椿の目の色が変わる。
利吉がしまったと思った時には遅かった。
彼女は揺るがない瞳で彼を見つめる。
「利吉さんお願いします、行かせてください。」
「椿さんっ…!」
「樒ちゃんが巻き込まれてしまっているようです。それが私の代わりであるならば見過ごせません。」
「あなたが行ったところで事態が好転するとは考えられない。」
「でもどの道、学園に何かが起こるなら、少なくとも樒ちゃんは関係ないはずです。」
「確かにそれはそうです。ですが、それであなたが何かを負うと言うのですか?避けられる災厄を自ら受けると?」
「……利吉さんさっき言ってくれたじゃないですか。私を守ってくださるって。でもそれは、私も同じなんです。今は樒ちゃんを助けたい。できることならしたいんです。」
椿の真っ直ぐな瞳、気を抜くと押し負けてしまいそうな強い意志。
彼女を掴む手に力が入って震える。
顔が歪み奥歯を噛みしめる。
これ以上、どう引き留めて良いのかわからない。
なんて強い……これが竹森の姫君なのか、まるで覚悟が違う。
静かな時間、どれ程経ったのだろう。
やがて利吉は椿の瞳から逃れるように目を伏せて力を抜いた。
彼女は利吉の手が完全に離されるのを待ってから礼を言う。
「……ありがとうございます…」
遠ざかる足音、彼女のその背にもう一度手を伸ばせたなら……
だがそうすることで己の弱さが露見してしまいそうになるのは許せない。
椿の強さに適わないなら、その輝きを守り抜くしかない。
避けられない、これが運命ならば……
運命?
彼女が辿って来た軌跡も、ここにいる事実も、止められなかった自分も、全て運命だと言うのか?
そんな不確かなものに振り回されるのは癪だ。
例え道が決まっていたものだとしても、彼女は自分でそれを選んだ。
無謀とも言えるかも知れない、いや、そんな話をしたら椿は笑い飛ばすのだろう。
「できることなら、したい……か。」
恐らく根本的な考えが違うのだ。
請け負った仕事を損害を出さずに遂行する自分と、何かのために己の犠牲を厭わない彼女とでは。
お互いを理解し合うのは難しい、でもそれもまた、人が生きる上で必要なことかもしれない。
少しだけ椿のことがわかった気がして利吉はため息を吐きながら口角を上げた。
「椿ちゃん、上手くいくといいですね。」
「……そう、だな…」
隣りで呟く小松田に、小さくそう返してただただ祈るしかなかった。
足早に学園長室に近づくと部屋の外にヘムヘムがいるのが見えた。
部屋の中からは確かに何かを言い合う声が聞こえてくる。
心配そうに行ったり来たりしてたヘムヘムが椿に気づくと立ち塞がり彼女の足を止める。
「ヘムっ!ヘムっ!」
「ヘムヘム、樒ちゃんが中にいるの?」
「ヘム!」
身振り手振りで説明しようとするヘムヘム。
全てを理解することは出来なかったが、樒が中にいること、彼が椿を足止めしようとしていることはわかる。
椿は腰を落としてヘムヘムに目線を合わせた。
「ヘムヘム、お願い。通して。」
「ヘムヘム!」
首を振って何かを訴える。
きっと学園長に言われたのだろう、ヘムヘムはそれを守ろうとしてる。
重要な話なのだろうか、だとしても樒を帰さない理由がわからない。
彼女が何か思い出したのか、もしくは迎えが来たのか?
そうだとしたら踏み込む訳にはいかないが。
ヘムヘムにそれを確認すると彼は首を振って否定した。
少し安心して、それならばとヘムヘムを安心させるように優しく語りかける。
「ヘムヘム、何が起きているかわからないけれど、樒ちゃんは学園に関係がないよね。私は樒ちゃんを助けたいだけなの。お願い、中に通して。」
「ヘムぅ…」
「大丈夫、あなたに責任がいかないようにするから。ね、お願い。」
椿はそっとヘムヘムを抱き寄せる。
全身に不安と心配をまとわせた彼から、それを取り除くために。
暖かい……
ヘムヘムを安心させるためにそうしたはずなのに、逆に椿自身の気持ちを落ち着かせられていることに気付く。
ヘムヘムは椿の腕の中で徐々に緊張を解していった。
目を合わせて微笑むと、ヘムヘムは迷いながらも止めることはもうなかった。
「ありがとう。」
椿はさっと立ち上がり、ついに学園長室の障子に手をかけた。
この空気はなんだ?
室内に留まっていた樒、正確には早々に退出したかったのだが見知らぬ客人に足止めされてしまい、今に至る。
学園長とその客人、初老の男を筆頭に大柄の男と目つきのキツい男が何やら話し合っていた。
わかる範囲で整理すると、その客人からの依頼を一度は受けた学園長がどうやら破棄しようとしているらしい。
その依頼の中身は知らない、自分が茶を運び部屋に入る前の話だったため、何のことを言っているかはわからなかった。
ただ、学園長の態度が一変したのはどうやら樒がきっかけらしい。
初老の男、名は
戸津が樒を見た途端に発した言葉、それが学園長の態度を変えさせた。
戸津の後ろに控える男二人の視線も嫌な感じがしたが、学園長と戸津の言い争いとも取れる話にその場を去るきっかけを逃した。
このまま平行線なのだろうか、学園の教師でも来てくれたなら場を収められそうなのだが。
樒が話し合いにうんざりした頃、彼女はやってきた。
「失礼致します。」
椿だ。
彼女の姿を見て驚いた学園長が、小さくヘムヘムの名を零し悪態をついた。
椿は一度客人に向けて頭を下げると学園長に言う。
「お話し中申し訳ございません。学園長先生、樒さんを…」
「あ、あなたはっ……!」
椿の言葉に割り込んだのは戸津だった。
その顔は驚愕している。
「忍術学園の方ですか!?」
「……?、はい。」
興奮したような口調の戸津に椿は困惑した。
彼女は何が起こっているかわかっていない、樒も疑問符を浮かべる中、学園長が厳しい口調で入り込む。
「戸津殿!彼女は駄目じゃ!!」
「しかしながら大川殿、この方はとても良く似ておられる!他にはない適材ではないですか!」
「ならん!ならん!!彼女は全く関係ない!!」
話が読めない椿が学園長に目を向ける。
彼は樒とともに椿をも部屋から出るように促す。
「お待ちください!どうか手を貸してくださいませんか!?この通りです!」
戸津は畳に額を擦り付けるくらいに頭を下げた。
それが少し気になった椿が足を止める。
「だから、彼女たちは駄目なんじゃ!」
「先程は手を貸すと仰ってくださったではないですか!」
「確かに助太刀はすると言った。だが、何度も言うが彼女たちは駄目なんじゃ!」
「何故ですか!?学園の方であると仰られたのに!」
「学園長先生、」
椿が学園長に向き直る。
「訳を聞かせてくれませんか?どうやらお困りのご様子、私がお力になれるのなら…」
「いいや!君たちをそんな目に遭わすわけにはっ」
「このままでは忍術学園も大変なことになるのですぞ!?」
「戸津殿!」
学園長の言葉を遮るように入り込んだ戸津の忠告。
椿の耳を塞ぐことが叶わず、既に手遅れだった。
戸津の前に座り込み話を聞こうとする彼女。
学園長の苛ついた様子を横目で気にしながらも樒も椿に倣って腰を落とした。
「実は、私たちはここより東にある
戸津の話を椿は黙って聞いていた。
樒はその話に何故自分が巻き込まれそうになったのか全く見当がつかない。
ただ、戸津の後ろに控える二人の男、彼らの視線は戸津や椿よりも自分に向けられている気がして気持ちが悪い。
当然ながら、彼らのことは知らない。
知らないが、無意識に体が拒否反応を示しているということは、記憶を失う以前に何かしらあったのだろうか?
自分が?馬印堂と関係あると??まさか……
いずれにせよ、今は戸津と椿の動向を見守ることにする。
「我が城の城主様は争いは好みませんが、差臼が馬印堂を手に入れたいと考えていると知って堀殻と手を組むことをお考えになったのです。……もし姫様のお輿入れが失敗すれば堀殻の怒りを買うことになり、両国に挟まれたこの忍術学園も戦場と化すことでしょう……」
「……差臼というところは、そんなにも酷いところなのですか?」
「はい、城主である
「……」
「ここからが本題です。お見受けしたところ、あなたは千姫様に瓜二つ。そこで姫様がお輿入れされる同時刻に差臼の目を誤魔化して頂けないかとのご相談にございます。」
「それって、」
「椿君、もういいじゃろ。」
学園長の止める言葉に椿は振り返る。
いつになく厳しい表情、突然の思い付きで学園内を引っ掻き回す学園長とは違う。
「戸津殿、貴殿のご依頼はお引き受けしよう。ただ彼女たちは学園とは無関係、ご容赦いただきたい。」
「大川殿……」
「でもそうしたら私たちの代わりは誰が務めるのですか?」
椿は引き下がらない。例え学園長の言うことだとしても、依頼人が自分を適任と言ったことが気になる。
「くのいち教室の子ですか?それとも六年生?」
「それは……」
「戸津さんが仰っておりましたが、千姫様は私にそっくりなんですよね?」
「ええ、お顔も背格好もそっくりでございます。」
「学園長先生、先程戸津さんは”差臼の目を誤魔化す”と仰っておりました。それというのは、差臼城に千姫様の容姿は知られているということですよ、仮に誰かが姫様の振りをしたとして、偽物だとわかったらどうなるか……私の言いたいことがわかりますか?」
差臼が噂通りのところなら、偽物に容赦はしないだろう。
この学園の長として、大切な生徒をそんな危険に晒すことなど避けなければならない。
それは椿にも言えることなのだが……
「しかしじゃな、」
「見た目がそっくりな私なら、多少は敵の目を欺くことも可能でしょう。すぐにどうこうということはないと思います。それに、」
学園長に近づくとそっと耳打ちをする。
「……本物であった私なら、何があってもこなせると思います。」
それは確かにそうなのだ。
くのいち教室で作法を教えているとはいえ、姫君の所作などは完璧にこなせる者がいるかどうか、怪しいところである。
姿格好が似ていて作法も完璧にこなす椿は、これ以上ない存在であった。
ぐうの音も出ずに黙り込む学園長、椿はその手に自分のそれをそっと重ねる。
利吉さん、ごめんなさい……!
一瞬、利吉の顔が脳に過ったが彼女は心の中で彼に詫びを入れた。
「学園長先生が私達を守ろうとしてくれていることはわかります。感謝しております。だからこそ私も学園のために何かしたい、それだけです。それに万が一の時は、学園長先生ご自慢の優秀な先生や生徒たちがきっと助けてくれますから。信じています。」
椿がそう発した後のしばしの沈黙。
戸津や樒はその動向を見守った。
やがて拳を強く握りしめていた学園長は、小さくわかった…と零したのだった。
「ありがとうございました。本当にありがとうございました。」
見送りの際、戸津は何度も椿にそう言った。
そんなに恐縮しなくていいと彼女は言ったが、どうも千姫に見えてしまって腰を低くしてしまうらしい。
それを聞いた椿が笑うと、戸津も控えめに笑って見せた。
樒は椿たちを遠巻きに眺めていた。
その時後ろから強い衝撃が当たり、前に倒れてしまう。
何が起こったのか、振り返り確認するとそこにいたのは戸津の後ろに控えていた大柄の男だ。
「……すみませんでした。お怪我は?」
腰を落として樒と目線を合わせ、手を差し出す。
ぶつかったのだと理解した彼女は差し出された手を取ろうとして男と目を合わせた。
ドクン
男の目に感情はなかった。そればかりか見られていると感じた瞬間、恐怖に襲われる。
男の後ろに巨大な双眼が現れ、自分を捕らえて離さない。
得体の知らないものに飲み込まれる感覚、汗が吹き出し何かを拒絶するように男の手を取ることができない。
「どうしましたか?大丈夫ですか?」
「……だ、大丈夫、です……一人で、立てます……」
「……」
体が震える。なんだこれは?
自分が分離するような、もしくは引き戻されるような感覚。
胸の音が煩い。
あ……私、は……………………
「樒ちゃん!?大丈夫!?」
こちらに気付いた椿が駆け寄るのが見える。
彼女に手伝ってもらって立ち上がると、樒はすまない…と一言漏らしてふらふらと離れて行った。
椿が心配そうに見送ると男は弁解をする。
「申し訳ない。ただぶつかってしまっただけなのですが、大丈夫だと仰るので。」
「そう、ですか…」
顔色が悪かったのが気になるが、歩けているようなので一先ず客人を見送ることにした。
「……これはつまり、どういうことだ?」
「どうもこうも、椿ちゃんが上手く解決してくれたってことじゃないですか?」
「椿が?あんなに抜けてそうな女が、か?」
「尊奈門さん、そんな言い方ないですよ。椿ちゃんは結構しっかりした子ですよ?」
「……結構、ね。君が言うことじゃないな、小松田君。」
忍術学園の塀の上、覗き込もうとした尊奈門を察知した小松田が入門表を彼に押し付けていた。
先程椿を見送った利吉も話の行方を見守るため、学園長室から出て来た彼女を見つけると遠目に観察をしている。
尊奈門の存在が気になったというのもあるが、この塀の上で男三人並ぶことになったのは何か妙な気がする。
先程彼女にあれ程お願いしたのに、やはりというか然るべきというか、椿らしい道に進むことになったようだ。
最早何も言うまい、なってしまったものは仕方がない。
惚れた弱みもあるのかも知れない、望まぬ結果になったがそれで椿を責めるつもりもない。
結局、そんな彼女が好きなのだ。好きになったのだ。
あとは、こちら側が最悪を招かぬよう努めるだけ……
「で、尊奈門さんはどうして彼女をつけているのです?」
利吉が敵視するように厳しい視線を投げる。
彼がタソガレドキ城の忍者であること、椿を監視するようにつきまとっていること。
彼女とのデートの時から薄々感づいてはいたのだがこうして現れたということが何よりの証拠、彼個人の意思で動くとは思えないが歳が近い分幾らか気になって仕方がない。
「好きでつけているのではない、これも仕事だ。」
「そうですか、彼女につきまとう仕事とはなんなのか非常に気になりますね。」
「ふん、だからと言ってこの場で漏らすと思うのか?お前の方こそ椿にしつこいくらいつきまとっているではないか、山田利吉。」
「ええそうですよ?私は彼女が好きですからね。本当なら安全な場所に隠してしまいたいくらいです。……あなたの目の届かないところに。」
「……」
「それに先程から気になっていたのですが、椿さんを呼び捨てにするの、やめて頂けませんかね?癇に障るので。」
厳しい視線はやがて冷たい視線に変わり、刺すように尊奈門に向けられた。
その空気を察したが彼は至極冷静に言葉を返す。
「勘違いするなよ、これは仕事だと言ったはずだ。タソガレドキとしては忍術学園と争う気はない。それだけは言っておく。ただ、」
「……」
「あいつを”椿”と呼ぶことに変わりはない。お前にどうこう言われる筋合いなどないからな。」
タソガレドキとして争う気はないが、尊奈門個人としては別の話だ。
利吉の言葉の意味を理解はするが承諾するつもりはない。
自分の言動に釘を刺すこの男に苛立ちを覚える。
人前で堂々と彼女か好きだと言った利吉に驚きはしたが、それ以上も以下も感想はない。ただ、
あいつは、土井の女……ではないのか?
利吉程の男がそれを見逃すとは到底思えない。
見えていないのか見ぬ振りをしているのか、それとも実際は違うのか……
一瞬、椿の顔が頭に浮かんだが、何故自分がそのようなことを考えねばならないのかと急いで消した。
椿は監視対象、ただそれだけだと。
どちらかが少しでも動けば何かが始まってしまう、そんな空気を察したのだろうか、珍しく小松田が間に入り込んだ。
「お二人とも、忍術学園の塀の上で喧嘩することは禁じられていますので。」
利吉も尊奈門も、こんなことで争うつもりは毛頭なかった。
そんなことをしてもどうにもならないことはわかっていた。
ただ一つだけ、わかったことがある。
”こいつ”は見過ごせない相手、だということだ。