一章
あなたのお名前は?
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
遠くで何かが聴こえる。
ただの音なのか声なのか、またそれは本当に聴こえているものなのか。
脳がそうだと思いこんでいるだけかも知れない。
なぜならここは深い闇の中。
目は開いているはずなのに何も見えない、何も触れない。
走るように泳ぐように何かを探すようにもがく。
苦しい……
光を求めて彷徨う。
だがそんなものは見つからない、自分には救いがない。
救いとは何か、それすらわからない。
この世界に自分は不釣り合いな気がしてくる。
右腕が動かない、何かに掴まれているような圧迫感。
振り払おうとして後ろを振り返る。
そこにあった光、だがギラついた炎のような光。
映し出された顔は知っている。
こちらを見て嫌な笑いを浮かべる。
やめろ!離せ!
奴の笑いから逃れられなくて恐怖に支配される。
その顔面に一発蹴りでも入れてやりたいのに、体の震えが止まらない動かない。
声も、出ない。
「諦めろ。お前も、お前の大切なものも全て儂のものだ。」
!!
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
誰か、誰か、助けて………………
助けを求めて伸ばされた左手、それを包んだ光に目を奪われる。
闇の中で小さくも温かく灯る蛍のような光。
大丈夫、私がいるよ
知らない声、だけど不思議と心が浄化されていくのを感じる。
掴む手に力を込める。
願うように、祈るように、導かれるように……
最初に動かせたのは瞼、次に眼球が焦点を合わせ始める。
板張りの、天井……?
見えたものに思考を巡らすと、脳が次に感知したのは耳からの情報。
「あ、目を開けられました!」
人の声、それも………子供?
ゆっくりと声の方へ目を動かす。
写ったのは自分を見つめる複数の瞳、知らない連中に怪訝な顔をした。
「大丈夫ですか?」
今度は反対側から聴こえた。
重い頭を動かしてそちらも確かめる。
自分と同じ歳くらいの女だ。
心配そうに見つめる瞳、少し気分が悪い。
「……あ、ああ……」
渇いて痛みを感じる喉から声を絞り出す。
「……良かった。」
女は少し安心したように笑った。
それと同時に左手に伝わる温もりと、掴まれている力の情報を感知する。
…………光?
女に左手を握られていた。
先程自分を救い上げた光、この女が?まさか……
ただの夢だ、そんなことがある訳がない、一瞬巡った考えを振り払う。
それより……
「……………ここは?」
情報が足りない。
一体自分の身に何が起こっているのか、なぜここにいるのか。
緑色の装束を着た男、恐らく年長と思われる人物が人の良さそうな顔で答えた。
「ここは忍術学園の医務室です。あなたは道の真ん中で倒れていたのですよ。」
………忍術、学園?
よくわからない。わからないが、目の前の少年たちの装束を見るに、彼らは忍者という存在らしい。
どうやら自分は助けられようだ。
「外傷は見られないですが、どこか痛むところはありますか?」
助けられたとしたら、そうなった原因があるはず。
眉根を寄せて体を動かそうと試みる。
「……っ!」
左側頭部、鈍い痛みが走った。
反射的に手が頭を抑えると場がざわつく。
「伊作先輩!」
「うん、やはり頭を強打したようだね。しばらく動かない方がいいです。」
眼鏡の少年に答えた緑色の装束の男は、私を覗き込みそう言った。
確かに、この状態で動くのは好ましくない。
仕方がないがこのままで情報を得るしかなかった。
「話は出来そうですか?」
「ああ。」
「ではまず、あなたのことを教えてくれますか?名前とか。」
「名前は……」
そこで初めて気がついた。
私は、名前以外の自分の情報を、何も覚えていない。
なぜだ………?
「……覚えていませんか?」
まるで想定内だとでも言うように落ち着いた口調で、緑色の装束の男は悲しげな顔をする。
「…………いや、名前は、わかる。私の名は、樒。しきみ、だ。」
「しきみ、さん……他には?」
「……………わからない………」
「…………」
「伊作」
女が声をかける。
そういえばこの女は忍装束ではないようだ。
装束を着た少年たちと、どこか違う空気を纏う女。
「少し時間を置いた方が……」
「そうだね。今日はこちらでお休みください。そして回復されたらまたお話を聞かせてください。」
これ以上聞かれても何も出てきそうにないが、時間を置けば何か思い出すかも知れない。
今は、彼らに従うしかないのだろう。
私がそれを承諾すると、男は青い装束の少年に何か指示を出していた。
ぼんやりとそれを見ていると女が私に話しかける。
「どうか、安心してください。あなたに危害を加えることはありませんから。今は少しでも体を休めてくださいね。」
微笑む女を無言で見つめる。
不思議な感じだ、懐かしいような、心が安らぐような。
女はそこにいる少年たちを部屋の外へ追いやると障子を閉める。
「お休みなさい。」
それを最後に辺りは静かになった。
人の気配もない。
私は頭部の痛みを忘れるために、瞼を閉じた。
医務室を後にした保健委員の面々は学園長の元へ集う。
左近と椿の姿はない。伊作が左近に指示したことを、彼女も一緒に手伝いに行ったのだ。
部屋の中には土井、山田も座っていた。
学園長の前に全員が座ると伊作が報告を始める。
「学園長先生、ご報告致します。土井先生と椿さんが連れてきた例の女性ですが、左側頭部に何かしらの強い衝撃を受けて失神。一時的に記憶障害が発生し、『樒』という自分の名前以外のことは覚えていないようです。」
「気を失って倒れた際に頭を打ったとかではないのか?」
「いえ、椿さんから聞いた女性発見時の状態を見るに、それはありません。倒れた際に出来る擦り傷のでき方からも、彼女が左からの衝撃により倒れた、または吹き飛んだと思われます。それと倒れた程度では記憶を失う程の衝撃にはなりません。」
「ふむ。では彼女に衝撃を与えたのは何かということが重要じゃな。」
「学園長、近頃噂になっている山賊の類、もっとも考えられるのはその線だと思います。彼女の周りを囲むように複数の不自然な足跡を確認しております。」
土井が発言をした。
「ただ、それが偽物である可能性も残されております。また彼女自身が賊であることも考えられます。それでも連れ帰ったのは、噂の真相を確かめるべきだと判断したからです。」
忍たまくらいの子供が狙われている、それには椿も対象に含まれるかも知れない。
彼女が手にした自由を、こんなことで奪われたくない。
土井の想いに山田は賛同する。
「学園長、捨て置けぬ問題です。土井先生の言うこともあり得ますが、いずれにせよ、普通の状態ではない彼女から得られる情報はあると思います。」
「……土井先生、山田先生…」
学園長が静かに口を開いた。
その物々しい雰囲気に一同は口を噤む。
「記憶を失くしたなどと嘘かもわからぬ危険因子を、わしがこの学園に入れるとでも?」
…………………
重い沈黙。
嘘かも知れない。もしも彼女が賊で学園内部から何かをしようと企んでいたなら嘘も簡単につくだろう。
それを証明することは誰にも出来ない。
張り詰めた空気に乱太郎と伏木蔵は喉の渇きと足の痺れを忘れた。
「許可する!」
「…………………………………え?」
今の空気感は何であったのか、場を壊すように学園長は大声で言った。
「え?ではない!許可すると言ったんじゃ!」
「あ、あの学園長、危険因子と仰られましたが…」
「だからこそ、学園全体で見守れば良かろう。椿君の時と同じじゃ。これから学園に居てもらうのじゃから、全員でこれを共有することとする。」
つまり彼女の記憶が戻るか身元が判明するまで、学園内に置き全員でその様子を見守る……学園長はこういう言い方をしたが、その動向には気を張らなければならない。
「善法寺伊作、」
「はい」
「新野先生不在の中、怪我人の診察ご苦労であった。」
「はい、ありがとうございます。」
「名は、樒と言ったかの。しきみ……シキミ……」
「何か心当たりがあるのですか?」
「…………いや、そんな名の恋人はいなかったと思ってな。」
もの凄くどうでもいい学園長の発言に一同はひっくり返った。
別行動を取っていた左近と椿は食堂にてお粥の準備をしていた。
左近の手際の良さに椿は感動していたが、これくらいなら誰でも作れますよと言う一言が心に刺さった。
自分は簡単なお粥一つも満足に作ることが出来ない。
現在椿が作れる料理は、おにぎりくらいだった。
「……そうよね、お粥くらい作れないとダメだよね…」
「あ……!あの、大丈夫ですよ!簡単ですし、今度は一緒に作ってみましょう。」
凹んだ様子の椿に左近が慌てて励ます。
その姿がまるで弟のようで椿は可愛らしく思った。
「ありがとう。ごめんね、頼りにならないお姉さんで。」
「そんなことないです。椿さんが頑張っているのは皆知っていることですし。毎日椿さんが食堂に居てくれるから僕は………、皆も頑張れるんだと思います。」
目を逸らす左近の頬が少し赤い。
きっとこれが彼の本音の部分なんだろう。
乱太郎たちは二年生が意地悪だと言っていたが、この子たちも本当は優しい部分があって不器用で素直じゃなくて、だけど本当の気持ちは言える子。
忍術学園の生徒たちは皆本当に、いい子ばかりで椿は嬉しくなった。
「それはね、左近君。私も同じ。皆が一生懸命だから私も皆の姿に力を貰ってるの。」
「椿さん」
「だから苦手なことからも逃げていられないの。お粥の作り方、教えてね。」
「はい!」
二人の心が温まったところで、火にかけていた土鍋が熱い息を吐いた。
出来上がったお粥を持って医務室に戻る。
声をかけてから静かに障子を開けると樒が目を開けた。
「起こしちゃいました?」
「いや……」
樒が匂いに気付いたように目線を左近の腕の中で止める。
「良かったら、お粥作って来ましたので召し上がりませんか?」
「え……?」
「お腹空いてるんじゃないかと思いまして…」
「私は、別に……」
否定した彼女の口とは裏腹に、匂いに釣られて出てきた空腹を告げる音。
慌てて腹を押さえるも二人にはばっちり聞かれてしまい顔を染める。
側に座った左近が土鍋の蓋を開けると待ってましたとばかりに飛び出す湯気。
食欲をそそる匂いが部屋に行き渡って気にしない振りをしても脳がそれを求めてしまって仕方がない。
「起きるの手伝いますね。」
椿が樒の体を支えてゆっくり起き上がらせる。
「いや、だから私は…!」
「どうぞ。」
差し出された茶碗の中につやつやと光る米。
目の前の左近もにこにこと子供らしい笑顔を見せる。
「もしかしてそれもお手伝いした方がいいかな?」
椿がそう言って左近から茶碗を受け取ろうとするが、流石にそれは恥ずかしくて樒は素早く茶碗を奪い取る。
「そ、それくらい、自分で出来る。」
二人は驚いた顔で互いに目を合わせたが、すぐに笑って樒を見る。
熱いから気をつけてと言うより先に、彼女は茶碗をかきこんでいた。
「……ご馳走様。」
「はい、お粗末様でした。」
ものの数分で平らげた樒は、最後に手を合わせて感謝を告げた。
彼女の顔色が少し良くなったところで椿は樒に話しかける。
「あの、樒さんは……何か覚えていることはないのですか?住んでいた場所とか、ご家族とか…」
「……すまないが、名前以外のことはまだ……思い出せない。」
「じゃあ……帰るところがわからないですね…」
椿が沈んだ顔をしたのが樒には不思議だった。
他人の事情をそのように受け止めることが理解出来ない。
「何故お前が、そんな顔をする?」
「私と似てるなって……私の場合、わからないじゃなくて帰る場所がない、なのですけどね。」
「………」
「何言ってるんですか、椿さんの帰る場所はここですよ。」
左近の声に気付かされたように椿は笑った。
「そうだね、ありがとう左近君。………そうだ!」
「?」
「あのね、樒さんも思い出すまでここに置いて貰うのはどうかな?ご家族には心配かけちゃうと思うけど、私も探すし思い出せるよう協力するよ!」
「え……いや、それは…」
「学園長先生にお願いしてみる!」
「いやだから、そんな急に…」
「大丈夫!きっと説得してみせる!ところで樒さん、歳はいくつなのかな?」
目を輝かせながらグイグイと迫る椿に樒は圧倒される。
「え……えぇ?」
「そっか、覚えてないんだった。うーん、見た感じ私と同じくらいかなとは思うんだけど、左近君どう思う?」
「そうですね、雰囲気が大人っぽい感じがするので椿さんより少しお姉さんって感じですかね。」
「あらぁ、私は子供っぽいってこと?」
「いや違いますって!樒さんが大人っぽい感じがするって言ったじゃないですか。」
「ふふ、冗談よ。でも確かに、ちょっとお姉さんって感じかな。」
「あのなぁ…」
容姿をジロジロ見られて勝手に進む話に付き合いきれなくなる。
「じゃあこれから樒ちゃんって呼んでもいい?いいよね!決定ー!」
「おい、」
「私は椿。竹森椿だよ。」
「僕は川西左近です。樒さん、よろしくお願いします。」
「……お前たちな…」
助けられてお粥までご馳走になった恩もある。
それに二人の満面の笑みを見ていると反論するのも馬鹿馬鹿しく思えて、樒はそれを放棄した。
「……勝手にしてくれ…」
「やった!じゃあ早速学園長先生にお願いしてくるね。」
椿が立ち上がり医務室を出ようとしたところで障子が開かれる。
「あ、椿ちゃん」
「伊作、あのね今、学園長先生に、」
「そのことなんだけど…」
椿の言葉を遮った伊作は、彼女を押し戻して医務室に入る。
戸惑う椿が伊作の後ろを見るとぞろぞろと続く人影。
その最後に黒い装束が二つ見える。
「土井先生、山田先生?」
知らない顔の大人が増えたことで樒が少し警戒しているのが感じられる。
全員が腰を落ち着かせると土井は樒に話しかけた。
「気分はどうですか?」
「……大事ない。」
「それは良かった。我々はこの学園の教師です。あなたのことはここにいる善法寺から聞いています。それで、聞いて欲しいことがあるんだが…」
「記憶を失くしているとのことだが、ならば頼る宛もないのだろう。どうかね、ここにしばらく居るというのは。」
「え!」
土井と山田の提案に驚いた声を上げたのは椿だった。
「私もそれを学園長先生にお許し頂こうかと思っておりました。」
「それじゃあもう話は済んでいるということか。」
大勢で押しかけることでもなかったかと、山田は安心したように言ったが張本人である樒は黙って成り行きを見守っている。
「良かったね、樒ちゃん。」
「もうそんな仲良くなったのかい?」
「はい!」
土井の問いかけに椿の嬉しそうに答えた。
そんな訳ないと樒は思ったが口には出さずに思い切り顔に出す。
それに気付いたのは椿を除くこの場の全員。
女二人の温度差に苦笑いを浮かべるが、一番浮かれている椿はとにかく良かったと口にする。
そんな素直なところが彼女の良いところでもあるのだが、二人の気持ちがすれ違いを生まないことだけを土井は願った。
「……と、とにかく、君が安定するまではここにいるといい。何か困り事があれば誰でも相談してくれて構わないから。」
「……はい。」
山田が話を締めるように言い、部屋をどうするかと土井と相談し始める。
「あの、私の部屋が空いてます。」
「え」
「今一人で使わせて貰ってますし、女同士で問題ないですよね?」
身を乗り出す椿に顔を見合わせて困る教師二人。
彼女ならそう言うのもわかる、ただ、樒の素性もわからないまま椿と同室にして良いものか迷う。
「私は一人で構わない。問題なければこのままここでも…」
「ダメです。」
樒の言葉をあっさりと椿は否定した。
怪訝な顔で椿を睨む樒、頑なに意見を通そうとする椿。
もうこれは何を言っても聞かないなと土井と山田はため息をついた。
「まだ学園の中を知らないでしょう?一人で動くのは危険だし、そもそも起き上がるのだって難しいのに。」
「お前は……何故私にそこまで構う?」
「言ったでしょう?あなたは私と似ている。だから、」
「………」
「お友達に、なりたいの。」
「………」
自分を真剣な眼差しで見つめる椿とこの場の空気、樒は変に噛み付くことは無駄な足掻きだと悟った。
面倒だが何を言っても更に上から被せてくるのだろう、この椿と言う娘は。
目線を泳がせて教師二人をちらりと見るが、その表情にも諦めが見られる。
「……………」
「樒ちゃん」
「……………、好きにしろ…」
「ありがとう!」
椿は嬉しそうに笑った。
多分これが、この女の心からの笑顔なんだろうな。
自分にはない、本当の顔。
………?
自分の、本当の顔?
ふと浮かんだ言葉に樒は疑問を持つ。
これは、何か思い出せそうな、そうじゃないような……
樒がそんなことを思っているなど、この場の誰が気付こうか。
押し切る椿と諦めの教師たち、彼女は言い出したらこうだからと笑う少年たち。
あんな顔をしているが、どうせ歓迎などされていない。
なぜなら彼らは忍。
本当のことを隠して生きる存在。
ただ唯一、
「どうしたの?」
この女を覗いて、の話だ。
彼女からは何も感じない。
ありのままの真っ直ぐさが自分には辛い。
「何か思い出せそうですか?」
黙る樒の様子に伊作が口を開いたが、彼女はそれを否定した。
「いや……違う。ただ、厄介をかけることになると…」
「私たちも君から得られるものは無駄じゃないと考えている。また改めて話を聞かせてもらうよ。あまり気にしないでくれ。」
土井が安心させるように笑って言った。
樒はそれに素直に頭を下げた。
椿が半ば強引に樒との同室を決めたことに心配は尽きないのだが、彼女が学園内で騒ぎを起こすということは考えにくい。
例え山賊の類だったとしてもこの忍術学園のど真ん中で、言わば周りを忍に囲まれた状態で何か騒ぎを起こすというのは意味を成さない。
可能性があるとすれば、外部との連絡、単独での学園内捜索だろうか、とにかく一人きりにしてしまう方がまずいのだ。
椿のあの様子ならば、しばらくは樒にべったりになるだろう。
彼女が目を離すとしても学園の教師が交代で警戒にあたる。
それに夜間ならばこちらの得意とするところ、女一人を逃しはしない。
「あ、土井先生」
夕食の後、食堂を離れようとした土井を椿が呼び止めた。
「椿さん」
「バタバタしちゃって言えてなかったのですが、今日は一日お付き合いしてくださりありがとうございました。」
「ああ、こちらこそ。少し気分転換になったし、君の手伝いが出来て良かったよ。」
実際は邪魔が入ったりもしたのだが、彼女と二人で出かけることが出来たし、少しだけ彼女の本質を覗く事が出来た。
自分に取っては収穫のある一日だった、目の前の笑顔が何よりの証拠だ。
「土井先生」
「ん?」
椿が何かを言いかける。その続きに期待を寄せるが、彼女は口元を手で隠して中々続きが出てこない。
「………やっぱり、なんでもないです。お休みなさい。」
「椿さん…」
バタバタと食堂に戻る彼女、その顔は心なしか赤い気がした。
いや、まさか、思い過ごしだ。
開きかけた扉に土井は自ら鍵をかける。
今はまだ、駄目だ。
今日得られたものは椿に対するものだけではない。
樒という女性、その素性はわからず警戒を解くことが難しい。
本当に賊に襲われたのか、また賊の仲間なのか、そうではない一般人なのか……
伊作の話から自然に、または自ら倒れたとは考えにくい。
いずれにせよ彼女が手の内にいるというのは何かしらの情報を学園にもたらすに違いない。
それと尊奈門の存在。
彼が何の目的で周辺をうろついているのか、また椿の扇に反応を示していたことは見過ごせない。
それが先日の雑渡とどう繋がるのか、というより連携がされていないようでちぐはぐなのが少し気になる。
椿に接触してきた、これが意味するところはなんなのか。
また彼女は何かに巻き込まれるのか。
そうであるなら守り抜きたい。
彼女はもう、普通の生活を手に入れたはずだ。
もう、誰もそれを侵すことなど許されない。
せめてそれらが解決するまで、この扉を開くことはないだろう。
大切にしまったものを胸に、土井は食堂に背を向けた。
ただの音なのか声なのか、またそれは本当に聴こえているものなのか。
脳がそうだと思いこんでいるだけかも知れない。
なぜならここは深い闇の中。
目は開いているはずなのに何も見えない、何も触れない。
走るように泳ぐように何かを探すようにもがく。
苦しい……
光を求めて彷徨う。
だがそんなものは見つからない、自分には救いがない。
救いとは何か、それすらわからない。
この世界に自分は不釣り合いな気がしてくる。
右腕が動かない、何かに掴まれているような圧迫感。
振り払おうとして後ろを振り返る。
そこにあった光、だがギラついた炎のような光。
映し出された顔は知っている。
こちらを見て嫌な笑いを浮かべる。
やめろ!離せ!
奴の笑いから逃れられなくて恐怖に支配される。
その顔面に一発蹴りでも入れてやりたいのに、体の震えが止まらない動かない。
声も、出ない。
「諦めろ。お前も、お前の大切なものも全て儂のものだ。」
!!
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
誰か、誰か、助けて………………
助けを求めて伸ばされた左手、それを包んだ光に目を奪われる。
闇の中で小さくも温かく灯る蛍のような光。
大丈夫、私がいるよ
知らない声、だけど不思議と心が浄化されていくのを感じる。
掴む手に力を込める。
願うように、祈るように、導かれるように……
最初に動かせたのは瞼、次に眼球が焦点を合わせ始める。
板張りの、天井……?
見えたものに思考を巡らすと、脳が次に感知したのは耳からの情報。
「あ、目を開けられました!」
人の声、それも………子供?
ゆっくりと声の方へ目を動かす。
写ったのは自分を見つめる複数の瞳、知らない連中に怪訝な顔をした。
「大丈夫ですか?」
今度は反対側から聴こえた。
重い頭を動かしてそちらも確かめる。
自分と同じ歳くらいの女だ。
心配そうに見つめる瞳、少し気分が悪い。
「……あ、ああ……」
渇いて痛みを感じる喉から声を絞り出す。
「……良かった。」
女は少し安心したように笑った。
それと同時に左手に伝わる温もりと、掴まれている力の情報を感知する。
…………光?
女に左手を握られていた。
先程自分を救い上げた光、この女が?まさか……
ただの夢だ、そんなことがある訳がない、一瞬巡った考えを振り払う。
それより……
「……………ここは?」
情報が足りない。
一体自分の身に何が起こっているのか、なぜここにいるのか。
緑色の装束を着た男、恐らく年長と思われる人物が人の良さそうな顔で答えた。
「ここは忍術学園の医務室です。あなたは道の真ん中で倒れていたのですよ。」
………忍術、学園?
よくわからない。わからないが、目の前の少年たちの装束を見るに、彼らは忍者という存在らしい。
どうやら自分は助けられようだ。
「外傷は見られないですが、どこか痛むところはありますか?」
助けられたとしたら、そうなった原因があるはず。
眉根を寄せて体を動かそうと試みる。
「……っ!」
左側頭部、鈍い痛みが走った。
反射的に手が頭を抑えると場がざわつく。
「伊作先輩!」
「うん、やはり頭を強打したようだね。しばらく動かない方がいいです。」
眼鏡の少年に答えた緑色の装束の男は、私を覗き込みそう言った。
確かに、この状態で動くのは好ましくない。
仕方がないがこのままで情報を得るしかなかった。
「話は出来そうですか?」
「ああ。」
「ではまず、あなたのことを教えてくれますか?名前とか。」
「名前は……」
そこで初めて気がついた。
私は、名前以外の自分の情報を、何も覚えていない。
なぜだ………?
「……覚えていませんか?」
まるで想定内だとでも言うように落ち着いた口調で、緑色の装束の男は悲しげな顔をする。
「…………いや、名前は、わかる。私の名は、樒。しきみ、だ。」
「しきみ、さん……他には?」
「……………わからない………」
「…………」
「伊作」
女が声をかける。
そういえばこの女は忍装束ではないようだ。
装束を着た少年たちと、どこか違う空気を纏う女。
「少し時間を置いた方が……」
「そうだね。今日はこちらでお休みください。そして回復されたらまたお話を聞かせてください。」
これ以上聞かれても何も出てきそうにないが、時間を置けば何か思い出すかも知れない。
今は、彼らに従うしかないのだろう。
私がそれを承諾すると、男は青い装束の少年に何か指示を出していた。
ぼんやりとそれを見ていると女が私に話しかける。
「どうか、安心してください。あなたに危害を加えることはありませんから。今は少しでも体を休めてくださいね。」
微笑む女を無言で見つめる。
不思議な感じだ、懐かしいような、心が安らぐような。
女はそこにいる少年たちを部屋の外へ追いやると障子を閉める。
「お休みなさい。」
それを最後に辺りは静かになった。
人の気配もない。
私は頭部の痛みを忘れるために、瞼を閉じた。
医務室を後にした保健委員の面々は学園長の元へ集う。
左近と椿の姿はない。伊作が左近に指示したことを、彼女も一緒に手伝いに行ったのだ。
部屋の中には土井、山田も座っていた。
学園長の前に全員が座ると伊作が報告を始める。
「学園長先生、ご報告致します。土井先生と椿さんが連れてきた例の女性ですが、左側頭部に何かしらの強い衝撃を受けて失神。一時的に記憶障害が発生し、『樒』という自分の名前以外のことは覚えていないようです。」
「気を失って倒れた際に頭を打ったとかではないのか?」
「いえ、椿さんから聞いた女性発見時の状態を見るに、それはありません。倒れた際に出来る擦り傷のでき方からも、彼女が左からの衝撃により倒れた、または吹き飛んだと思われます。それと倒れた程度では記憶を失う程の衝撃にはなりません。」
「ふむ。では彼女に衝撃を与えたのは何かということが重要じゃな。」
「学園長、近頃噂になっている山賊の類、もっとも考えられるのはその線だと思います。彼女の周りを囲むように複数の不自然な足跡を確認しております。」
土井が発言をした。
「ただ、それが偽物である可能性も残されております。また彼女自身が賊であることも考えられます。それでも連れ帰ったのは、噂の真相を確かめるべきだと判断したからです。」
忍たまくらいの子供が狙われている、それには椿も対象に含まれるかも知れない。
彼女が手にした自由を、こんなことで奪われたくない。
土井の想いに山田は賛同する。
「学園長、捨て置けぬ問題です。土井先生の言うこともあり得ますが、いずれにせよ、普通の状態ではない彼女から得られる情報はあると思います。」
「……土井先生、山田先生…」
学園長が静かに口を開いた。
その物々しい雰囲気に一同は口を噤む。
「記憶を失くしたなどと嘘かもわからぬ危険因子を、わしがこの学園に入れるとでも?」
…………………
重い沈黙。
嘘かも知れない。もしも彼女が賊で学園内部から何かをしようと企んでいたなら嘘も簡単につくだろう。
それを証明することは誰にも出来ない。
張り詰めた空気に乱太郎と伏木蔵は喉の渇きと足の痺れを忘れた。
「許可する!」
「…………………………………え?」
今の空気感は何であったのか、場を壊すように学園長は大声で言った。
「え?ではない!許可すると言ったんじゃ!」
「あ、あの学園長、危険因子と仰られましたが…」
「だからこそ、学園全体で見守れば良かろう。椿君の時と同じじゃ。これから学園に居てもらうのじゃから、全員でこれを共有することとする。」
つまり彼女の記憶が戻るか身元が判明するまで、学園内に置き全員でその様子を見守る……学園長はこういう言い方をしたが、その動向には気を張らなければならない。
「善法寺伊作、」
「はい」
「新野先生不在の中、怪我人の診察ご苦労であった。」
「はい、ありがとうございます。」
「名は、樒と言ったかの。しきみ……シキミ……」
「何か心当たりがあるのですか?」
「…………いや、そんな名の恋人はいなかったと思ってな。」
もの凄くどうでもいい学園長の発言に一同はひっくり返った。
別行動を取っていた左近と椿は食堂にてお粥の準備をしていた。
左近の手際の良さに椿は感動していたが、これくらいなら誰でも作れますよと言う一言が心に刺さった。
自分は簡単なお粥一つも満足に作ることが出来ない。
現在椿が作れる料理は、おにぎりくらいだった。
「……そうよね、お粥くらい作れないとダメだよね…」
「あ……!あの、大丈夫ですよ!簡単ですし、今度は一緒に作ってみましょう。」
凹んだ様子の椿に左近が慌てて励ます。
その姿がまるで弟のようで椿は可愛らしく思った。
「ありがとう。ごめんね、頼りにならないお姉さんで。」
「そんなことないです。椿さんが頑張っているのは皆知っていることですし。毎日椿さんが食堂に居てくれるから僕は………、皆も頑張れるんだと思います。」
目を逸らす左近の頬が少し赤い。
きっとこれが彼の本音の部分なんだろう。
乱太郎たちは二年生が意地悪だと言っていたが、この子たちも本当は優しい部分があって不器用で素直じゃなくて、だけど本当の気持ちは言える子。
忍術学園の生徒たちは皆本当に、いい子ばかりで椿は嬉しくなった。
「それはね、左近君。私も同じ。皆が一生懸命だから私も皆の姿に力を貰ってるの。」
「椿さん」
「だから苦手なことからも逃げていられないの。お粥の作り方、教えてね。」
「はい!」
二人の心が温まったところで、火にかけていた土鍋が熱い息を吐いた。
出来上がったお粥を持って医務室に戻る。
声をかけてから静かに障子を開けると樒が目を開けた。
「起こしちゃいました?」
「いや……」
樒が匂いに気付いたように目線を左近の腕の中で止める。
「良かったら、お粥作って来ましたので召し上がりませんか?」
「え……?」
「お腹空いてるんじゃないかと思いまして…」
「私は、別に……」
否定した彼女の口とは裏腹に、匂いに釣られて出てきた空腹を告げる音。
慌てて腹を押さえるも二人にはばっちり聞かれてしまい顔を染める。
側に座った左近が土鍋の蓋を開けると待ってましたとばかりに飛び出す湯気。
食欲をそそる匂いが部屋に行き渡って気にしない振りをしても脳がそれを求めてしまって仕方がない。
「起きるの手伝いますね。」
椿が樒の体を支えてゆっくり起き上がらせる。
「いや、だから私は…!」
「どうぞ。」
差し出された茶碗の中につやつやと光る米。
目の前の左近もにこにこと子供らしい笑顔を見せる。
「もしかしてそれもお手伝いした方がいいかな?」
椿がそう言って左近から茶碗を受け取ろうとするが、流石にそれは恥ずかしくて樒は素早く茶碗を奪い取る。
「そ、それくらい、自分で出来る。」
二人は驚いた顔で互いに目を合わせたが、すぐに笑って樒を見る。
熱いから気をつけてと言うより先に、彼女は茶碗をかきこんでいた。
「……ご馳走様。」
「はい、お粗末様でした。」
ものの数分で平らげた樒は、最後に手を合わせて感謝を告げた。
彼女の顔色が少し良くなったところで椿は樒に話しかける。
「あの、樒さんは……何か覚えていることはないのですか?住んでいた場所とか、ご家族とか…」
「……すまないが、名前以外のことはまだ……思い出せない。」
「じゃあ……帰るところがわからないですね…」
椿が沈んだ顔をしたのが樒には不思議だった。
他人の事情をそのように受け止めることが理解出来ない。
「何故お前が、そんな顔をする?」
「私と似てるなって……私の場合、わからないじゃなくて帰る場所がない、なのですけどね。」
「………」
「何言ってるんですか、椿さんの帰る場所はここですよ。」
左近の声に気付かされたように椿は笑った。
「そうだね、ありがとう左近君。………そうだ!」
「?」
「あのね、樒さんも思い出すまでここに置いて貰うのはどうかな?ご家族には心配かけちゃうと思うけど、私も探すし思い出せるよう協力するよ!」
「え……いや、それは…」
「学園長先生にお願いしてみる!」
「いやだから、そんな急に…」
「大丈夫!きっと説得してみせる!ところで樒さん、歳はいくつなのかな?」
目を輝かせながらグイグイと迫る椿に樒は圧倒される。
「え……えぇ?」
「そっか、覚えてないんだった。うーん、見た感じ私と同じくらいかなとは思うんだけど、左近君どう思う?」
「そうですね、雰囲気が大人っぽい感じがするので椿さんより少しお姉さんって感じですかね。」
「あらぁ、私は子供っぽいってこと?」
「いや違いますって!樒さんが大人っぽい感じがするって言ったじゃないですか。」
「ふふ、冗談よ。でも確かに、ちょっとお姉さんって感じかな。」
「あのなぁ…」
容姿をジロジロ見られて勝手に進む話に付き合いきれなくなる。
「じゃあこれから樒ちゃんって呼んでもいい?いいよね!決定ー!」
「おい、」
「私は椿。竹森椿だよ。」
「僕は川西左近です。樒さん、よろしくお願いします。」
「……お前たちな…」
助けられてお粥までご馳走になった恩もある。
それに二人の満面の笑みを見ていると反論するのも馬鹿馬鹿しく思えて、樒はそれを放棄した。
「……勝手にしてくれ…」
「やった!じゃあ早速学園長先生にお願いしてくるね。」
椿が立ち上がり医務室を出ようとしたところで障子が開かれる。
「あ、椿ちゃん」
「伊作、あのね今、学園長先生に、」
「そのことなんだけど…」
椿の言葉を遮った伊作は、彼女を押し戻して医務室に入る。
戸惑う椿が伊作の後ろを見るとぞろぞろと続く人影。
その最後に黒い装束が二つ見える。
「土井先生、山田先生?」
知らない顔の大人が増えたことで樒が少し警戒しているのが感じられる。
全員が腰を落ち着かせると土井は樒に話しかけた。
「気分はどうですか?」
「……大事ない。」
「それは良かった。我々はこの学園の教師です。あなたのことはここにいる善法寺から聞いています。それで、聞いて欲しいことがあるんだが…」
「記憶を失くしているとのことだが、ならば頼る宛もないのだろう。どうかね、ここにしばらく居るというのは。」
「え!」
土井と山田の提案に驚いた声を上げたのは椿だった。
「私もそれを学園長先生にお許し頂こうかと思っておりました。」
「それじゃあもう話は済んでいるということか。」
大勢で押しかけることでもなかったかと、山田は安心したように言ったが張本人である樒は黙って成り行きを見守っている。
「良かったね、樒ちゃん。」
「もうそんな仲良くなったのかい?」
「はい!」
土井の問いかけに椿の嬉しそうに答えた。
そんな訳ないと樒は思ったが口には出さずに思い切り顔に出す。
それに気付いたのは椿を除くこの場の全員。
女二人の温度差に苦笑いを浮かべるが、一番浮かれている椿はとにかく良かったと口にする。
そんな素直なところが彼女の良いところでもあるのだが、二人の気持ちがすれ違いを生まないことだけを土井は願った。
「……と、とにかく、君が安定するまではここにいるといい。何か困り事があれば誰でも相談してくれて構わないから。」
「……はい。」
山田が話を締めるように言い、部屋をどうするかと土井と相談し始める。
「あの、私の部屋が空いてます。」
「え」
「今一人で使わせて貰ってますし、女同士で問題ないですよね?」
身を乗り出す椿に顔を見合わせて困る教師二人。
彼女ならそう言うのもわかる、ただ、樒の素性もわからないまま椿と同室にして良いものか迷う。
「私は一人で構わない。問題なければこのままここでも…」
「ダメです。」
樒の言葉をあっさりと椿は否定した。
怪訝な顔で椿を睨む樒、頑なに意見を通そうとする椿。
もうこれは何を言っても聞かないなと土井と山田はため息をついた。
「まだ学園の中を知らないでしょう?一人で動くのは危険だし、そもそも起き上がるのだって難しいのに。」
「お前は……何故私にそこまで構う?」
「言ったでしょう?あなたは私と似ている。だから、」
「………」
「お友達に、なりたいの。」
「………」
自分を真剣な眼差しで見つめる椿とこの場の空気、樒は変に噛み付くことは無駄な足掻きだと悟った。
面倒だが何を言っても更に上から被せてくるのだろう、この椿と言う娘は。
目線を泳がせて教師二人をちらりと見るが、その表情にも諦めが見られる。
「……………」
「樒ちゃん」
「……………、好きにしろ…」
「ありがとう!」
椿は嬉しそうに笑った。
多分これが、この女の心からの笑顔なんだろうな。
自分にはない、本当の顔。
………?
自分の、本当の顔?
ふと浮かんだ言葉に樒は疑問を持つ。
これは、何か思い出せそうな、そうじゃないような……
樒がそんなことを思っているなど、この場の誰が気付こうか。
押し切る椿と諦めの教師たち、彼女は言い出したらこうだからと笑う少年たち。
あんな顔をしているが、どうせ歓迎などされていない。
なぜなら彼らは忍。
本当のことを隠して生きる存在。
ただ唯一、
「どうしたの?」
この女を覗いて、の話だ。
彼女からは何も感じない。
ありのままの真っ直ぐさが自分には辛い。
「何か思い出せそうですか?」
黙る樒の様子に伊作が口を開いたが、彼女はそれを否定した。
「いや……違う。ただ、厄介をかけることになると…」
「私たちも君から得られるものは無駄じゃないと考えている。また改めて話を聞かせてもらうよ。あまり気にしないでくれ。」
土井が安心させるように笑って言った。
樒はそれに素直に頭を下げた。
椿が半ば強引に樒との同室を決めたことに心配は尽きないのだが、彼女が学園内で騒ぎを起こすということは考えにくい。
例え山賊の類だったとしてもこの忍術学園のど真ん中で、言わば周りを忍に囲まれた状態で何か騒ぎを起こすというのは意味を成さない。
可能性があるとすれば、外部との連絡、単独での学園内捜索だろうか、とにかく一人きりにしてしまう方がまずいのだ。
椿のあの様子ならば、しばらくは樒にべったりになるだろう。
彼女が目を離すとしても学園の教師が交代で警戒にあたる。
それに夜間ならばこちらの得意とするところ、女一人を逃しはしない。
「あ、土井先生」
夕食の後、食堂を離れようとした土井を椿が呼び止めた。
「椿さん」
「バタバタしちゃって言えてなかったのですが、今日は一日お付き合いしてくださりありがとうございました。」
「ああ、こちらこそ。少し気分転換になったし、君の手伝いが出来て良かったよ。」
実際は邪魔が入ったりもしたのだが、彼女と二人で出かけることが出来たし、少しだけ彼女の本質を覗く事が出来た。
自分に取っては収穫のある一日だった、目の前の笑顔が何よりの証拠だ。
「土井先生」
「ん?」
椿が何かを言いかける。その続きに期待を寄せるが、彼女は口元を手で隠して中々続きが出てこない。
「………やっぱり、なんでもないです。お休みなさい。」
「椿さん…」
バタバタと食堂に戻る彼女、その顔は心なしか赤い気がした。
いや、まさか、思い過ごしだ。
開きかけた扉に土井は自ら鍵をかける。
今はまだ、駄目だ。
今日得られたものは椿に対するものだけではない。
樒という女性、その素性はわからず警戒を解くことが難しい。
本当に賊に襲われたのか、また賊の仲間なのか、そうではない一般人なのか……
伊作の話から自然に、または自ら倒れたとは考えにくい。
いずれにせよ彼女が手の内にいるというのは何かしらの情報を学園にもたらすに違いない。
それと尊奈門の存在。
彼が何の目的で周辺をうろついているのか、また椿の扇に反応を示していたことは見過ごせない。
それが先日の雑渡とどう繋がるのか、というより連携がされていないようでちぐはぐなのが少し気になる。
椿に接触してきた、これが意味するところはなんなのか。
また彼女は何かに巻き込まれるのか。
そうであるなら守り抜きたい。
彼女はもう、普通の生活を手に入れたはずだ。
もう、誰もそれを侵すことなど許されない。
せめてそれらが解決するまで、この扉を開くことはないだろう。
大切にしまったものを胸に、土井は食堂に背を向けた。