一章
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透き通るくらいに薄く漉かれた和紙。
そこに描かれた上品な色合いの花。
その花の名前を思い出すように椿はそっと指でなぞる。
雑渡が去った後、自室に戻りおばちゃんのお古の着物に着替えた。
淡い黄色で淡黄といい、古くから使われてきた色だ。
おばちゃんが若い時に拵えたものだがあまり使っていなかったらしい。
若い椿なら似合いそうだとわざわざ家から持ってきたのだった。
もちろん椿はそれをありがたく頂いた。
彼女はここへ来るために全てを失っていたからだ。
おばちゃんの心遣いが嬉しかった。
その姿はもう竹森の美姫ではない。
忍装束姿の椿ももういない。
ここにいるのは食堂のおばちゃん見習い、竹森椿ただその人だ。
着替えただけなのに、正式に学園の人間になれたような、新しい気持ちになった。
忍術学園の敷地内、今は彼女の他に人影はいない。
先程伊作に告げたこの扇の真実、それを今再び確かめるためにゆっくりと持ち上げる。
陽の光に和紙を透かすと浮き上がるその名。
やはり、紛れもなく、これは…
何故これが持ち出されたのか、何故雑渡の手に渡ったのか、何もわからない。
ただ、自分の元へ帰って来てくれたような感覚に胸を締め付けられる。
目を閉じれば蘇るその美しい姿。
憧れた、そうなりたいと願った。
もう、叶わないと、思っていた、諦めていた。
「……」
要を親指で挟むように持つ。
左手で右の袂を抑えるようにして腕を伸ばせば、自然と体が動き出す。
足元は小さな円を描き、膝を折れば流れるように扇が舞った。
ひらひらと扇ぐように振れば、金色の扇骨が光を反射する。
見る者がいたなら心も奪ってしまうようなその光景、残念ながら観客はいない。
それでも止められない。
今彼女は、一人で踊っている訳ではないからだ。
タン…
音楽など一切ないのに、まるでそう聴こえるかのように椿は動きをぴたりと止めた。
パチパチパチ
不意に聴こえた拍手の音、驚いてその先を辿ると目に写った姿に椿はドキリと胸を鳴らす。
「え!?ど、土井先生!?」
「噂には聞いていたけど、本当に踊りが上手いんだな。」
知らないところで見られていたなんて、恥ずかしくて松千代の気持ちが良くわかった。
手にした扇で赤くなる顔を隠す。
「隠れて見るような真似をしてすまない。だけど君の踊る姿を止めたくなかったんだ。」
「あ……いえ、いいんです。」
止めたくなかった、本音だった。
君が普段見せない顔、姿、それを今だけ独り占めできるような気がしたから。
私が姿を見せれば、君がそうやって赤く染まることもわかっていた。
だけどそれさえも自分のものにしたいだなんて、少し我儘過ぎるだろうか。
まだ知らない君を知りたい。
そう思ってしまうのは、君に、私の心が奪われてしまうからなのだがね。
「その扇は初めて見るけど…?」
「あ、これは……母の、形見です。」
「え…!」
「先程、雑渡さんが持ってきてくれました。」
「雑渡さんが?何故?」
「わかりません。ただこれを手に入れたからと、私にくださいました。」
「君の…お母さんの物だと、知っていたのか?」
「いえ、それはなさそうでした。これが母の物であることも、私があの城の者だとも、知らないご様子でした。」
「……」
「私は、母の物を何も持っていません。いきなり城の外に出されたので準備なんて出来なくて……そうでなくとも望んだことではなかったから。だから、この扇が今手の中にあることが信じられない思いです。」
「椿さん…」
雑渡が彼女に渡したのだと言う、彼女の母親の形見。
本当に、知らなかったのか…?
偶然にしては出来すぎている。
「それがお母さんの形見であると、どうしてわかるんだい?」
「根拠はいくつかあります。まずこの金色に塗られた扇骨、中でも親骨に掘られた装飾に覚えがあります。そして面に描かれている花、タチアオイの花です。」
「うん、そうだね。」
「極めつけはこれです。」
椿は扇を陽に透かす。
土井に見るように言い、それに従って覗くと透けた和紙に文字が浮かび上がった。
「……これは…」
「母の名、葵と書かれています。二つと無い、母のために作られた扇です。」
椿がはっきりと自身の記憶と照らし合わせたように存在する扇。
どうやら、本物のようであった。
これが偽物だったなら、彼女の心を搔き乱すこともなかっただろうに。
だが、椿がとても大切そうに抱える扇が、彼女の元に届いて良かったという思いも嘘ではない。
問題なのは、それを雑渡が持ってきたということ。
ただ手に入れたからと言って、それを何故椿に渡したのか。
何故、渡す必要があったのか。
見れば大変高価な代物、タソガレドキの殿様が欲しがりそうな物なのに。
彼女が竹森の姫君であったことも、扇の持ち主が椿の母であったことも、雑渡が知っているはずがない。
何かが…動き出している…?
まさか。もう竹森との縁は切れたはずだ。
考えすぎだ…と信じたい。
「……土井先生?」
難しい顔をしていた土井を椿が不思議そうに仰ぎ見る。
「ああ、いや。なんでもない。……見せてもらってもいいかい?」
「はい。」
土井に手渡すとそれをまじまじと見つめ、綺麗だねと言うと椿は嬉しそうにはいと答えた。
いつもとどこか違うように見えるのは、彼女が忍装束を脱いだせいかも知れない、母親の形見を手にしたからかも知れない、だから…
「ほら、君に良く似合う。とても綺麗だ。」
「せ、先生…」
そんなことが口を割って出てしまう。
困らせただろうか、だけど本当にそう思ったのだ。
「ありがとうございます。」
「……うん。」
ああ、私は本当に…
彼女のその笑顔に気持ちが溢れ出てしまいそうになる。
意識して抑えないと、胸の早鐘に押されて体が勝手に動いてしまいそうだ。
ぐっと拳を握って自制する。そうだ、おばちゃんに頼まれたことがあったではないか、それを伝えるために彼女を探していたのに。
「……椿さん、」
「はい。」
「明日、出かけると聞いたのだけど…」
「はい、おばちゃんと一緒に、」
「それ私が行ってもいいかな?」
「え?」
「近頃良くない噂が出回っていて、君とおばちゃんでは危険かもしれないから、代わりに私が同行する……のはダメだろうか?」
椿が一瞬顔をしかめる。
「良くない噂……ですか?」
「ああ、山賊の類が出るらしくて、君くらいの歳の子が被害に遭うらしい。」
「……」
「だからその、私が一緒に行けば何かあった時にどうにかしてあげられるかと思うんだけど…」
考えるような椿の仕草に、少しだけ自信がぐらつく。
不安になりながら彼女の答えを待っていると椿が真剣な瞳をこちらに向ける。
「土井先生、お願いしてもいいですか?」
「もちろん。」
「どうしても……明日じゃなきゃ駄目なんです。明日じゃなきゃ…」
椿は扇をぎゅっと抱いた。
何か事情があるに違いなかったが、聞かずとも明日わかることだろう。
それよりも彼女が安心出来るように努める、自分に出来るのはそれだ。
「大丈夫、私が側にいる。任せてくれ。」
「はい。ありがとうございます。」
椿は笑って見せた。
その顔には土井への信頼があるような気がして心が温まる。
明日、椿と出かけるという事実が土井の中に擽りを生じさせた。
朝のいつもの光景。
食堂のカウンターに立つ椿はその顔を見つけると一層の笑顔で迎える。
「おはよう!左門君!」
「おはようございます椿さん。」
これは今に始まったことじゃない、実は彼女がここに来た当初からこれは続いていたことなのだが…
「どうして左門に、あんなニコニコしてるんだろうな?」
「ん?別に普通じゃないのか?」
「いやお前は当事者だから気付いていないかも知れないが、明らかに俺たちとは違う反応だよ。」
三之助と作兵衛に挟まれた左門は良くわからないと答えた。
そんなに自分に笑いかけているとも感じないし、特別な扱いを受けているとも感じない。
三之助と作兵衛の勘違いや思いすごしであって、実は二人も同じ扱いを受けているのではないか。
いや二人だけじゃなく、学園全体に対して彼女はあのように笑いかけているではないか。
そう言うと二人はやっぱり、お前はわかっていないと言うのだ。
「僕だけじゃないと思うぞ。だってあれ、」
席について朝食に手を出した二人は左門の指差す方を見た。
カウンターに立つ椿、先程と同じ笑顔を向けた人物がいた。
こちらに背を向けているがあの装束の色と体格、それは…
「……木下先生?」
「僕を特別扱いしてるとしたら、木下先生もそうなんじゃないのか?」
「確かに。椿さんがあんなにニコニコしている。」
朝食を受け取って席に向かう木下の背中に視線を送る椿。
嬉しそうな様子の彼女が三人の視線に気付いてこちらに手を振れば、左門はそれに答えて手を振り返した。
「左門」
「ん?」
「抜け駆けは許さないぞ。」
「なんのことだ?」
三之助と作兵衛は間に挟んだ左門を疑うように見ながら白米を掻き込んだ。
忍術学園を見張っていると早速動きがあった。
あれは、土井半助。それがまさか女人と出かけるなんて。
そんな姿など見たくはなかった。
なんなんだあれは、見るからにへらへらしてだらしがない。
仮にも忍術学園の教師であるはずだろう。
隣りを歩く女、見たことがないな。
歳はまだ若い、もしかするとくノ一の生徒か?
にしては土井の接する態度はそれとは違う気がする。
二人はどこへ行くのか?
気になってこっそり後をつける。
町へ向かった二人は、店で花を買ったり団子を食べたりなんとも羨まし……ではなかった、けしからん行動をする。
ついて来たのが間違いであったのか、見ているこっちが馬鹿らしく思えてきた。
次はどこへ行くのか。忍術学園……ではなさそうだ。
町を出て街道を進む土井の足が止まる。
警戒心がぐっと高まる中、奴が口を開いた。
「そろそろ出てきたらどうなんだ?」
やはり気づかれていたか。
そうでなくては倒しがいがない。
私が姿を見せると、女は驚いた顔をした。
「気づかれていたとはな、土井半助。」
「いつ出てくるのかと思っていたよ。」
まるで最初から気づいていたと言わんばかりの態度に腹が立つ。
「あの、土井先生?」
「大丈夫、彼は……えーと、何だっけ?しょせんそんなもん君だったかな?」
「諸泉尊奈門だ!」
「……しょせん、さん?」
「話を聞け!諸泉だと言っている!」
この女、少し抜けていそうな顔だと思っていたらやはり話をよく聞いていないらしい。
土井も土井だ。学園の先生のくせに、人の名前すら覚えられないなんて。
断固として、ショックだったわけではない。それだけは言っておこう。
「で?尊奈門君は悪い趣味を持っているようだが、私に何か用でも?」
「悪い趣味とはなんだ!?趣味などではない!だがバレていたのなら仕方がない。土井半助!ここでお前を討つ!」
「土井先生…!」
構えを取る尊奈門に驚いて椿が土井を見る。
彼女を背に隠すようにすると安心させるように穏やかに声をかけた。
「椿さん大丈夫だ。少し離れていてくれ。」
「はい…!」
椿がそこから離れるのを確認すると土井は尊奈門に向き直る。
「君のことだから私のことを付け回していたのかも知れないが、こんな時にまでついて来られるといい感じはしないな。」
「お前がどう思おうが勝手だが、こちらも闇雲に見張っている訳ではない。」
「ふぅん、それってどういう目的があるんだい?」
「だからっ…!」
いけない、このままでは口車に乗せられてしまう。
また高坂さんにどやされる。あくまで冷静に、土井に悟られることのないように。
「お前には関係ない。だがここで会ったが百年目。土井!今日こそはお前を倒す!」
「そっちが勝手について来たんじゃないか。それにこんなところでやるって言うのかい?」
「煩い!問答無用!」
尊奈門は刀を引き抜くと前方に体重をかけて踏み込んだ。
斬りかかる刀を軽々と土井は避ける。
遊んでいるかのような態度が尊奈門をイラつかせる。
「おい、真面目に戦え!」
「だから、戦う理由がこちらにはないんだよ。それに今日は君に構っている暇はないんだ。」
「なにぃ!」
頭に血が上った尊奈門は土井のペースに巻き込まれていることに気が付かない。
先程、言葉に乗せられないようにと自分に言い聞かせたばかりなのに。
変に力が入った刀を振り下ろすが殺気だらけのそれは動きが読まれやすく土井は踊るように避けていた。
「悪いが今日はここまでだ。」
そう言って懐から取り出した出席簿が尊奈門の頭上に振り落とされる。
脳天に響く鈍い音に刀を手放した。
「っ〜〜〜!!」
声なき声で土井を睨みつける。
好敵手は出席簿をしまうと涼しい顔を見せていて、それがまた腹の立つこと。
いつもならこれで終わり。タソガレドキへかえるところだが今は忍務の真っ最中、そういう訳には行かないのだ。
「大丈夫ですか!?」
忘れていた、土井の連れである女の声が聞こえた。
土井を心配したのだろう、その声を聞くのも嫌な気持ちになった。
ところが目の前に現れた影に意表を突かれて見ると、その女の顔が近くにあった。
「あの、大丈夫ですか?」
「なっ…!?」
彼女がこちらに手を伸ばすがそれを避けるように距離を取る。
なんだ?この女、何を考えている?
斬りかかったのはこちらなのだ、言ってみれば敵であるはずの自分に向けられた視線。
理解が出来ない。
「椿さん、彼なら大丈夫だ。石頭だからね。」
「誰が石頭だと!」
私の様子に安堵したように女はほっと息をつく。
「あの、私達これから行くところがあるのですが、一緒に行かれますか?」
「はぁ?」
「椿さん、放っておきなさい。」
女の提案に慌てたような声を出す土井。
大方二人だけの雰囲気を壊されたくはないのであろう。
土井が不本意ならばこちらとしては都合が良い。
「何故私が一緒に行くと?」
「あなたがずっと私達の後を付けて来ていたようなので、これから行くところにも付いて来られるなら一緒に行くのも変わりないかと。」
この女、やはり抜けているようだ。
一緒に行ったとして、私が土井に不意を打たないわけがないだろう。
もちろんそう簡単に行くはずもないことは承知の上だが、女が一緒なら土井の油断も突きやすい。
「……いいだろう、行ってやる。」
そう言うと女は嬉しそうに笑った。
「わあ!良かった!」
「椿さん!」
「土井先生、旅は道連れって言うじゃないですか。」
「いやそれはちょっと違うんじゃ…」
仮にも土井の命を狙った相手に対し警戒も何もない。
少しだけ土井が不憫に思ったが決して態度には出さない。
「じゃあ、よろしくお願いします。尊奈門さん」
「そ、ん……!?」
まさか名を呼ばれるとは予想外だった。だが土井の方もまさかという顔を見せていて、その理由にピンと来た。
勝った……と思った。
いや別に、こんなことで勝ちたいわけではないが、瞬間的に勝ったと思うと涙が滲んだ。
二人に悟られぬよう、素早く拭う。
女、名は椿と土井が言っていたか。
まるで警戒心のない人懐っこい笑顔を向けてくる。
そんなものに惑わされる私ではない。土井とは違うのだ。
「それで、一体どこへ向かうと言うのだ?」
長く伸びる石段を上がりきると立派な門構えが出迎える。
ここは、
「金楽寺?」
こんなところに何の用事が?
ああ、そう言えば忍術学園の連中はよくここを訪れていたな。
確か、学園長のおつかい、だとか聞いたことがある。
なんだ、たかがおつかいに大人を二人も寄越すなど、余程暇があるのだろう。
黙って様子を見ていると椿が金楽寺の和尚と何やら話始めた。
隣りの土井は和尚と簡単に挨拶を交わした後、ただその光景を見守っている。
椿が手紙のようなものを取り出して和尚に手渡した。
あれが学園長の……と然程興味もなく眺めていたが、少し様子がおかしい。
「和尚様、実はこれが……」
そう言って椿が取り出した箱に見覚えがある。
彼女が中を開いて見せると、現れたその金色に思わず声が出た。
「それはっ……!」
自分の声に重なる声、聴こえた方に目をやるとこちらを見ている土井の顔。
何故こいつと声が重なるのか。
「あれが何か、知っているのか?」
土井が険しい顔で聞いてくる。
しまった。
椿があれを持っていることに驚いて思わず声を漏らしてしまったが、それを知られることは非常にまずい。
「お前には、関係ない。」
それよりもこいつの方こそ、あれが何であるかを知っている口だ。
ということは、組頭の読みは当たっているということ。
私が監視すべき対象は、この女。
………それにしても、あの人も人が悪い。
たまたま土井をつけて来たからわかったものの。
対象くらい教えておいてくれたらいいのに………
「タソガレドキが何を企んでいるのか知らないが、もしもの時はそれなりの対応をさせてもらうよ?」
「忍術学園と争う気はない。だがこちらにも事情がある。使えるものは、使うまでだ。」
「………」
一触即発、そんな空気を壊したのは和尚だった。
「二人とも、この場で争うことは許しませぬぞ。」
「……すみません、和尚。」
戒めるように言う和尚に土井が態度を改める。
「今日は静かにすることだ。少なくとも、今ここでは……」
「あの…………一体、なにを……?」
ん?土井はここに来た目的を知らないのか?
そういえば、あれを取り出した椿に驚いた様子ではあったな。
土井の問いかけに和尚の視線は椿に向けられた。
彼女はゆっくりとこちらを振り向くと、どこか寂しげな顔でこう言った。
「……今日は………母の、命日なんです。」
「彼女の母親がどのように埋葬されたかわからない以上本来なら出来ることではないのだが、椿君の熱意に負けて許可したんじゃ。故人の御霊を慰めることは出来ないが、その魂が行き着く浄土で安らかに過ごせるようにと祈るくらいなら、お釈迦様も許してくださるだろう。」
「……そうですね……」
金楽寺の庭に小さく設けられた祭壇、そこに椿が持ってきた扇を供えて彼女は祈りを捧げている。
その背中を見ながら土井は和尚から今回の経緯を聞いていた。
彼女にとって大切な繋がりだった母親、だからこそこの日でなくてはダメなのだと、椿は譲らなかったのだ。
その気持ちは、恐らく自分は理解できる。気がする。
小さな背中が揺れて彼女が振り向いた。
「……お待たせしました。」
「椿さん」
「はい」
それは自然に出てきた言葉。
誰のためとか己の中にある感情とか、そんなものは抜きにしてただ単純に、土井自身がそうしたいと感じたままに口を割って出てきた言葉だ。
「私も……お祈りしていいかい?」
「土井先生……。はい、ありがとうございます。」
椿は意外そうな顔をしたがすぐに微笑んで見せた。
土井は彼女の隣りに進み出て扇に目を落とす。
それでこれを持ってきたのか。
母親の物を何一つ持っていなかった彼女。
それを偶然……と言っていいのかまだわからないが、雑渡から譲り受けたこの扇は母を映し出すものなのだろう。
手を合わせようとすると視界に影が入り込む。
「……尊奈門君」
「この場に居合わせたのも何かの縁。見過ごす程、私は人間ができていない訳ではない。」
そう言って尊奈門は合掌をして目を瞑った。
彼のその姿勢に土井は少し表情を緩めると同じように手を合わせる。
静寂の後、顔を上げると椿が声をかけた。
「お二人とも、ありがとうございました。きっと母も喜んでくれています。」
「……そうだね、きっと…」
「……はい」
椿は和尚に向き直り礼を言う。
「和尚様、無理を言って申し訳ありませんでした。」
「心は晴れたかい?」
「はい。ありがとうございました。」
「君のその気持ちが、御母上にとって何よりの喜びになることだろう。……その扇はどうされるか?」
和尚が指した扇に目をくれる。
先日受け取ったばかりの、たった一つの遺品。
「これは……」
「椿君が持っていたらいいんじゃないかね?」
「え?」
「供養という手もあるが……まあ、焦ることはない。偶然でも、せっかく手に戻った物なのだろう?君が持っていた方が良いような気がするが?」
「いいのですか?」
「ああ、勿論。」
「ありがとうございます!和尚様!」
金楽寺を出た後、忍術学園への帰路を椿と土井の後からついて行く。
三人で肩を並べるのも何かおかしい気がして距離を取っていたが、椿は土井と会話をしながらもちらちらと私を気にしている。
本当ならばこちらに背を向ける奴に一太刀浴びせたいところだが、全く隙が見つからない。
「……土井先生、あれは……!」
椿が前方に何かを発見した。
見るとこの道のど真ん中に人が倒れている。
身なりからして女だ。
なにか、面倒な予感がした。
土井が駆け寄り無事を確かめる。
椿もそれに倣おうとしたところで私は声をかけた。
「椿」
「?……はい、」
「私はここまでだ。……気をつけろ。」
「尊奈門さん?」
それだけを告げて彼女の前から姿を消した。
戸惑う椿を土井が呼ぶ声が聞こえる。
………………気を、つけろ??
一体、なぜ……そんな言葉が口を割って出た?
何の情があってそんなことを言ったのか、全くわからない。
椿とは今日初めて会って、人の話を聞かないような抜けた女であって、見張るべき対象で、それに、土井の、女……なのだろう。
私が気にかける程の者ではない。
ただ、この先起こるだろう災厄を案じただけ。それだけだ。
「土井先生」
「……とりあえず息はあるようだ。」
「そうですか、良かった。」
土井は尊奈門の姿がないことに気付いたが、今はそれを気にしているバヤイではない。
おおかた、姿を消した振りをしてまだその辺にいるのだろう。
彼も何か、仕事をしているようだったから。
ほっと安心した様子の椿は倒れている女の側に寄って声をかけた。
少し揺すってもみたが目覚める気配はない。
「どうしましょう、このまま放っておけません。」
土井はじっと女を観察する。
着衣に乱れなし、外傷見える範囲になし、呼吸安定、熱はなし。
荷物は……ないのか?
周囲を見渡す。
散乱したものも特にない、が、
足跡……複数あり……
女の周りには彼女が履いている草鞋とは大きさの違う跡が残されている。
物盗り、例の山賊の類だろうか……ただ、
襲われたにしても、声掛けに応じない。それが気がかりだ。
目に見えないだけで頭を強打したのかも知れない。
また、囮なのかも知れない。
判断材料は少ないが土井はなにより、心配する椿を放っておけない。
「学園に連れて帰りましょう。」
「はい。」
本当に重症だったら大変だし、悪い予感の方だったとしても解決の糸口になるかも知れない。
忍たまや椿が安心して外を出歩けるよう、山賊の噂はいずれ解決しなければならない案件だ。
女を背負い少し足早に、椿と土井は忍術学園へ足を向けた。
そこに描かれた上品な色合いの花。
その花の名前を思い出すように椿はそっと指でなぞる。
雑渡が去った後、自室に戻りおばちゃんのお古の着物に着替えた。
淡い黄色で淡黄といい、古くから使われてきた色だ。
おばちゃんが若い時に拵えたものだがあまり使っていなかったらしい。
若い椿なら似合いそうだとわざわざ家から持ってきたのだった。
もちろん椿はそれをありがたく頂いた。
彼女はここへ来るために全てを失っていたからだ。
おばちゃんの心遣いが嬉しかった。
その姿はもう竹森の美姫ではない。
忍装束姿の椿ももういない。
ここにいるのは食堂のおばちゃん見習い、竹森椿ただその人だ。
着替えただけなのに、正式に学園の人間になれたような、新しい気持ちになった。
忍術学園の敷地内、今は彼女の他に人影はいない。
先程伊作に告げたこの扇の真実、それを今再び確かめるためにゆっくりと持ち上げる。
陽の光に和紙を透かすと浮き上がるその名。
やはり、紛れもなく、これは…
何故これが持ち出されたのか、何故雑渡の手に渡ったのか、何もわからない。
ただ、自分の元へ帰って来てくれたような感覚に胸を締め付けられる。
目を閉じれば蘇るその美しい姿。
憧れた、そうなりたいと願った。
もう、叶わないと、思っていた、諦めていた。
「……」
要を親指で挟むように持つ。
左手で右の袂を抑えるようにして腕を伸ばせば、自然と体が動き出す。
足元は小さな円を描き、膝を折れば流れるように扇が舞った。
ひらひらと扇ぐように振れば、金色の扇骨が光を反射する。
見る者がいたなら心も奪ってしまうようなその光景、残念ながら観客はいない。
それでも止められない。
今彼女は、一人で踊っている訳ではないからだ。
タン…
音楽など一切ないのに、まるでそう聴こえるかのように椿は動きをぴたりと止めた。
パチパチパチ
不意に聴こえた拍手の音、驚いてその先を辿ると目に写った姿に椿はドキリと胸を鳴らす。
「え!?ど、土井先生!?」
「噂には聞いていたけど、本当に踊りが上手いんだな。」
知らないところで見られていたなんて、恥ずかしくて松千代の気持ちが良くわかった。
手にした扇で赤くなる顔を隠す。
「隠れて見るような真似をしてすまない。だけど君の踊る姿を止めたくなかったんだ。」
「あ……いえ、いいんです。」
止めたくなかった、本音だった。
君が普段見せない顔、姿、それを今だけ独り占めできるような気がしたから。
私が姿を見せれば、君がそうやって赤く染まることもわかっていた。
だけどそれさえも自分のものにしたいだなんて、少し我儘過ぎるだろうか。
まだ知らない君を知りたい。
そう思ってしまうのは、君に、私の心が奪われてしまうからなのだがね。
「その扇は初めて見るけど…?」
「あ、これは……母の、形見です。」
「え…!」
「先程、雑渡さんが持ってきてくれました。」
「雑渡さんが?何故?」
「わかりません。ただこれを手に入れたからと、私にくださいました。」
「君の…お母さんの物だと、知っていたのか?」
「いえ、それはなさそうでした。これが母の物であることも、私があの城の者だとも、知らないご様子でした。」
「……」
「私は、母の物を何も持っていません。いきなり城の外に出されたので準備なんて出来なくて……そうでなくとも望んだことではなかったから。だから、この扇が今手の中にあることが信じられない思いです。」
「椿さん…」
雑渡が彼女に渡したのだと言う、彼女の母親の形見。
本当に、知らなかったのか…?
偶然にしては出来すぎている。
「それがお母さんの形見であると、どうしてわかるんだい?」
「根拠はいくつかあります。まずこの金色に塗られた扇骨、中でも親骨に掘られた装飾に覚えがあります。そして面に描かれている花、タチアオイの花です。」
「うん、そうだね。」
「極めつけはこれです。」
椿は扇を陽に透かす。
土井に見るように言い、それに従って覗くと透けた和紙に文字が浮かび上がった。
「……これは…」
「母の名、葵と書かれています。二つと無い、母のために作られた扇です。」
椿がはっきりと自身の記憶と照らし合わせたように存在する扇。
どうやら、本物のようであった。
これが偽物だったなら、彼女の心を搔き乱すこともなかっただろうに。
だが、椿がとても大切そうに抱える扇が、彼女の元に届いて良かったという思いも嘘ではない。
問題なのは、それを雑渡が持ってきたということ。
ただ手に入れたからと言って、それを何故椿に渡したのか。
何故、渡す必要があったのか。
見れば大変高価な代物、タソガレドキの殿様が欲しがりそうな物なのに。
彼女が竹森の姫君であったことも、扇の持ち主が椿の母であったことも、雑渡が知っているはずがない。
何かが…動き出している…?
まさか。もう竹森との縁は切れたはずだ。
考えすぎだ…と信じたい。
「……土井先生?」
難しい顔をしていた土井を椿が不思議そうに仰ぎ見る。
「ああ、いや。なんでもない。……見せてもらってもいいかい?」
「はい。」
土井に手渡すとそれをまじまじと見つめ、綺麗だねと言うと椿は嬉しそうにはいと答えた。
いつもとどこか違うように見えるのは、彼女が忍装束を脱いだせいかも知れない、母親の形見を手にしたからかも知れない、だから…
「ほら、君に良く似合う。とても綺麗だ。」
「せ、先生…」
そんなことが口を割って出てしまう。
困らせただろうか、だけど本当にそう思ったのだ。
「ありがとうございます。」
「……うん。」
ああ、私は本当に…
彼女のその笑顔に気持ちが溢れ出てしまいそうになる。
意識して抑えないと、胸の早鐘に押されて体が勝手に動いてしまいそうだ。
ぐっと拳を握って自制する。そうだ、おばちゃんに頼まれたことがあったではないか、それを伝えるために彼女を探していたのに。
「……椿さん、」
「はい。」
「明日、出かけると聞いたのだけど…」
「はい、おばちゃんと一緒に、」
「それ私が行ってもいいかな?」
「え?」
「近頃良くない噂が出回っていて、君とおばちゃんでは危険かもしれないから、代わりに私が同行する……のはダメだろうか?」
椿が一瞬顔をしかめる。
「良くない噂……ですか?」
「ああ、山賊の類が出るらしくて、君くらいの歳の子が被害に遭うらしい。」
「……」
「だからその、私が一緒に行けば何かあった時にどうにかしてあげられるかと思うんだけど…」
考えるような椿の仕草に、少しだけ自信がぐらつく。
不安になりながら彼女の答えを待っていると椿が真剣な瞳をこちらに向ける。
「土井先生、お願いしてもいいですか?」
「もちろん。」
「どうしても……明日じゃなきゃ駄目なんです。明日じゃなきゃ…」
椿は扇をぎゅっと抱いた。
何か事情があるに違いなかったが、聞かずとも明日わかることだろう。
それよりも彼女が安心出来るように努める、自分に出来るのはそれだ。
「大丈夫、私が側にいる。任せてくれ。」
「はい。ありがとうございます。」
椿は笑って見せた。
その顔には土井への信頼があるような気がして心が温まる。
明日、椿と出かけるという事実が土井の中に擽りを生じさせた。
朝のいつもの光景。
食堂のカウンターに立つ椿はその顔を見つけると一層の笑顔で迎える。
「おはよう!左門君!」
「おはようございます椿さん。」
これは今に始まったことじゃない、実は彼女がここに来た当初からこれは続いていたことなのだが…
「どうして左門に、あんなニコニコしてるんだろうな?」
「ん?別に普通じゃないのか?」
「いやお前は当事者だから気付いていないかも知れないが、明らかに俺たちとは違う反応だよ。」
三之助と作兵衛に挟まれた左門は良くわからないと答えた。
そんなに自分に笑いかけているとも感じないし、特別な扱いを受けているとも感じない。
三之助と作兵衛の勘違いや思いすごしであって、実は二人も同じ扱いを受けているのではないか。
いや二人だけじゃなく、学園全体に対して彼女はあのように笑いかけているではないか。
そう言うと二人はやっぱり、お前はわかっていないと言うのだ。
「僕だけじゃないと思うぞ。だってあれ、」
席について朝食に手を出した二人は左門の指差す方を見た。
カウンターに立つ椿、先程と同じ笑顔を向けた人物がいた。
こちらに背を向けているがあの装束の色と体格、それは…
「……木下先生?」
「僕を特別扱いしてるとしたら、木下先生もそうなんじゃないのか?」
「確かに。椿さんがあんなにニコニコしている。」
朝食を受け取って席に向かう木下の背中に視線を送る椿。
嬉しそうな様子の彼女が三人の視線に気付いてこちらに手を振れば、左門はそれに答えて手を振り返した。
「左門」
「ん?」
「抜け駆けは許さないぞ。」
「なんのことだ?」
三之助と作兵衛は間に挟んだ左門を疑うように見ながら白米を掻き込んだ。
忍術学園を見張っていると早速動きがあった。
あれは、土井半助。それがまさか女人と出かけるなんて。
そんな姿など見たくはなかった。
なんなんだあれは、見るからにへらへらしてだらしがない。
仮にも忍術学園の教師であるはずだろう。
隣りを歩く女、見たことがないな。
歳はまだ若い、もしかするとくノ一の生徒か?
にしては土井の接する態度はそれとは違う気がする。
二人はどこへ行くのか?
気になってこっそり後をつける。
町へ向かった二人は、店で花を買ったり団子を食べたりなんとも羨まし……ではなかった、けしからん行動をする。
ついて来たのが間違いであったのか、見ているこっちが馬鹿らしく思えてきた。
次はどこへ行くのか。忍術学園……ではなさそうだ。
町を出て街道を進む土井の足が止まる。
警戒心がぐっと高まる中、奴が口を開いた。
「そろそろ出てきたらどうなんだ?」
やはり気づかれていたか。
そうでなくては倒しがいがない。
私が姿を見せると、女は驚いた顔をした。
「気づかれていたとはな、土井半助。」
「いつ出てくるのかと思っていたよ。」
まるで最初から気づいていたと言わんばかりの態度に腹が立つ。
「あの、土井先生?」
「大丈夫、彼は……えーと、何だっけ?しょせんそんなもん君だったかな?」
「諸泉尊奈門だ!」
「……しょせん、さん?」
「話を聞け!諸泉だと言っている!」
この女、少し抜けていそうな顔だと思っていたらやはり話をよく聞いていないらしい。
土井も土井だ。学園の先生のくせに、人の名前すら覚えられないなんて。
断固として、ショックだったわけではない。それだけは言っておこう。
「で?尊奈門君は悪い趣味を持っているようだが、私に何か用でも?」
「悪い趣味とはなんだ!?趣味などではない!だがバレていたのなら仕方がない。土井半助!ここでお前を討つ!」
「土井先生…!」
構えを取る尊奈門に驚いて椿が土井を見る。
彼女を背に隠すようにすると安心させるように穏やかに声をかけた。
「椿さん大丈夫だ。少し離れていてくれ。」
「はい…!」
椿がそこから離れるのを確認すると土井は尊奈門に向き直る。
「君のことだから私のことを付け回していたのかも知れないが、こんな時にまでついて来られるといい感じはしないな。」
「お前がどう思おうが勝手だが、こちらも闇雲に見張っている訳ではない。」
「ふぅん、それってどういう目的があるんだい?」
「だからっ…!」
いけない、このままでは口車に乗せられてしまう。
また高坂さんにどやされる。あくまで冷静に、土井に悟られることのないように。
「お前には関係ない。だがここで会ったが百年目。土井!今日こそはお前を倒す!」
「そっちが勝手について来たんじゃないか。それにこんなところでやるって言うのかい?」
「煩い!問答無用!」
尊奈門は刀を引き抜くと前方に体重をかけて踏み込んだ。
斬りかかる刀を軽々と土井は避ける。
遊んでいるかのような態度が尊奈門をイラつかせる。
「おい、真面目に戦え!」
「だから、戦う理由がこちらにはないんだよ。それに今日は君に構っている暇はないんだ。」
「なにぃ!」
頭に血が上った尊奈門は土井のペースに巻き込まれていることに気が付かない。
先程、言葉に乗せられないようにと自分に言い聞かせたばかりなのに。
変に力が入った刀を振り下ろすが殺気だらけのそれは動きが読まれやすく土井は踊るように避けていた。
「悪いが今日はここまでだ。」
そう言って懐から取り出した出席簿が尊奈門の頭上に振り落とされる。
脳天に響く鈍い音に刀を手放した。
「っ〜〜〜!!」
声なき声で土井を睨みつける。
好敵手は出席簿をしまうと涼しい顔を見せていて、それがまた腹の立つこと。
いつもならこれで終わり。タソガレドキへかえるところだが今は忍務の真っ最中、そういう訳には行かないのだ。
「大丈夫ですか!?」
忘れていた、土井の連れである女の声が聞こえた。
土井を心配したのだろう、その声を聞くのも嫌な気持ちになった。
ところが目の前に現れた影に意表を突かれて見ると、その女の顔が近くにあった。
「あの、大丈夫ですか?」
「なっ…!?」
彼女がこちらに手を伸ばすがそれを避けるように距離を取る。
なんだ?この女、何を考えている?
斬りかかったのはこちらなのだ、言ってみれば敵であるはずの自分に向けられた視線。
理解が出来ない。
「椿さん、彼なら大丈夫だ。石頭だからね。」
「誰が石頭だと!」
私の様子に安堵したように女はほっと息をつく。
「あの、私達これから行くところがあるのですが、一緒に行かれますか?」
「はぁ?」
「椿さん、放っておきなさい。」
女の提案に慌てたような声を出す土井。
大方二人だけの雰囲気を壊されたくはないのであろう。
土井が不本意ならばこちらとしては都合が良い。
「何故私が一緒に行くと?」
「あなたがずっと私達の後を付けて来ていたようなので、これから行くところにも付いて来られるなら一緒に行くのも変わりないかと。」
この女、やはり抜けているようだ。
一緒に行ったとして、私が土井に不意を打たないわけがないだろう。
もちろんそう簡単に行くはずもないことは承知の上だが、女が一緒なら土井の油断も突きやすい。
「……いいだろう、行ってやる。」
そう言うと女は嬉しそうに笑った。
「わあ!良かった!」
「椿さん!」
「土井先生、旅は道連れって言うじゃないですか。」
「いやそれはちょっと違うんじゃ…」
仮にも土井の命を狙った相手に対し警戒も何もない。
少しだけ土井が不憫に思ったが決して態度には出さない。
「じゃあ、よろしくお願いします。尊奈門さん」
「そ、ん……!?」
まさか名を呼ばれるとは予想外だった。だが土井の方もまさかという顔を見せていて、その理由にピンと来た。
勝った……と思った。
いや別に、こんなことで勝ちたいわけではないが、瞬間的に勝ったと思うと涙が滲んだ。
二人に悟られぬよう、素早く拭う。
女、名は椿と土井が言っていたか。
まるで警戒心のない人懐っこい笑顔を向けてくる。
そんなものに惑わされる私ではない。土井とは違うのだ。
「それで、一体どこへ向かうと言うのだ?」
長く伸びる石段を上がりきると立派な門構えが出迎える。
ここは、
「金楽寺?」
こんなところに何の用事が?
ああ、そう言えば忍術学園の連中はよくここを訪れていたな。
確か、学園長のおつかい、だとか聞いたことがある。
なんだ、たかがおつかいに大人を二人も寄越すなど、余程暇があるのだろう。
黙って様子を見ていると椿が金楽寺の和尚と何やら話始めた。
隣りの土井は和尚と簡単に挨拶を交わした後、ただその光景を見守っている。
椿が手紙のようなものを取り出して和尚に手渡した。
あれが学園長の……と然程興味もなく眺めていたが、少し様子がおかしい。
「和尚様、実はこれが……」
そう言って椿が取り出した箱に見覚えがある。
彼女が中を開いて見せると、現れたその金色に思わず声が出た。
「それはっ……!」
自分の声に重なる声、聴こえた方に目をやるとこちらを見ている土井の顔。
何故こいつと声が重なるのか。
「あれが何か、知っているのか?」
土井が険しい顔で聞いてくる。
しまった。
椿があれを持っていることに驚いて思わず声を漏らしてしまったが、それを知られることは非常にまずい。
「お前には、関係ない。」
それよりもこいつの方こそ、あれが何であるかを知っている口だ。
ということは、組頭の読みは当たっているということ。
私が監視すべき対象は、この女。
………それにしても、あの人も人が悪い。
たまたま土井をつけて来たからわかったものの。
対象くらい教えておいてくれたらいいのに………
「タソガレドキが何を企んでいるのか知らないが、もしもの時はそれなりの対応をさせてもらうよ?」
「忍術学園と争う気はない。だがこちらにも事情がある。使えるものは、使うまでだ。」
「………」
一触即発、そんな空気を壊したのは和尚だった。
「二人とも、この場で争うことは許しませぬぞ。」
「……すみません、和尚。」
戒めるように言う和尚に土井が態度を改める。
「今日は静かにすることだ。少なくとも、今ここでは……」
「あの…………一体、なにを……?」
ん?土井はここに来た目的を知らないのか?
そういえば、あれを取り出した椿に驚いた様子ではあったな。
土井の問いかけに和尚の視線は椿に向けられた。
彼女はゆっくりとこちらを振り向くと、どこか寂しげな顔でこう言った。
「……今日は………母の、命日なんです。」
「彼女の母親がどのように埋葬されたかわからない以上本来なら出来ることではないのだが、椿君の熱意に負けて許可したんじゃ。故人の御霊を慰めることは出来ないが、その魂が行き着く浄土で安らかに過ごせるようにと祈るくらいなら、お釈迦様も許してくださるだろう。」
「……そうですね……」
金楽寺の庭に小さく設けられた祭壇、そこに椿が持ってきた扇を供えて彼女は祈りを捧げている。
その背中を見ながら土井は和尚から今回の経緯を聞いていた。
彼女にとって大切な繋がりだった母親、だからこそこの日でなくてはダメなのだと、椿は譲らなかったのだ。
その気持ちは、恐らく自分は理解できる。気がする。
小さな背中が揺れて彼女が振り向いた。
「……お待たせしました。」
「椿さん」
「はい」
それは自然に出てきた言葉。
誰のためとか己の中にある感情とか、そんなものは抜きにしてただ単純に、土井自身がそうしたいと感じたままに口を割って出てきた言葉だ。
「私も……お祈りしていいかい?」
「土井先生……。はい、ありがとうございます。」
椿は意外そうな顔をしたがすぐに微笑んで見せた。
土井は彼女の隣りに進み出て扇に目を落とす。
それでこれを持ってきたのか。
母親の物を何一つ持っていなかった彼女。
それを偶然……と言っていいのかまだわからないが、雑渡から譲り受けたこの扇は母を映し出すものなのだろう。
手を合わせようとすると視界に影が入り込む。
「……尊奈門君」
「この場に居合わせたのも何かの縁。見過ごす程、私は人間ができていない訳ではない。」
そう言って尊奈門は合掌をして目を瞑った。
彼のその姿勢に土井は少し表情を緩めると同じように手を合わせる。
静寂の後、顔を上げると椿が声をかけた。
「お二人とも、ありがとうございました。きっと母も喜んでくれています。」
「……そうだね、きっと…」
「……はい」
椿は和尚に向き直り礼を言う。
「和尚様、無理を言って申し訳ありませんでした。」
「心は晴れたかい?」
「はい。ありがとうございました。」
「君のその気持ちが、御母上にとって何よりの喜びになることだろう。……その扇はどうされるか?」
和尚が指した扇に目をくれる。
先日受け取ったばかりの、たった一つの遺品。
「これは……」
「椿君が持っていたらいいんじゃないかね?」
「え?」
「供養という手もあるが……まあ、焦ることはない。偶然でも、せっかく手に戻った物なのだろう?君が持っていた方が良いような気がするが?」
「いいのですか?」
「ああ、勿論。」
「ありがとうございます!和尚様!」
金楽寺を出た後、忍術学園への帰路を椿と土井の後からついて行く。
三人で肩を並べるのも何かおかしい気がして距離を取っていたが、椿は土井と会話をしながらもちらちらと私を気にしている。
本当ならばこちらに背を向ける奴に一太刀浴びせたいところだが、全く隙が見つからない。
「……土井先生、あれは……!」
椿が前方に何かを発見した。
見るとこの道のど真ん中に人が倒れている。
身なりからして女だ。
なにか、面倒な予感がした。
土井が駆け寄り無事を確かめる。
椿もそれに倣おうとしたところで私は声をかけた。
「椿」
「?……はい、」
「私はここまでだ。……気をつけろ。」
「尊奈門さん?」
それだけを告げて彼女の前から姿を消した。
戸惑う椿を土井が呼ぶ声が聞こえる。
………………気を、つけろ??
一体、なぜ……そんな言葉が口を割って出た?
何の情があってそんなことを言ったのか、全くわからない。
椿とは今日初めて会って、人の話を聞かないような抜けた女であって、見張るべき対象で、それに、土井の、女……なのだろう。
私が気にかける程の者ではない。
ただ、この先起こるだろう災厄を案じただけ。それだけだ。
「土井先生」
「……とりあえず息はあるようだ。」
「そうですか、良かった。」
土井は尊奈門の姿がないことに気付いたが、今はそれを気にしているバヤイではない。
おおかた、姿を消した振りをしてまだその辺にいるのだろう。
彼も何か、仕事をしているようだったから。
ほっと安心した様子の椿は倒れている女の側に寄って声をかけた。
少し揺すってもみたが目覚める気配はない。
「どうしましょう、このまま放っておけません。」
土井はじっと女を観察する。
着衣に乱れなし、外傷見える範囲になし、呼吸安定、熱はなし。
荷物は……ないのか?
周囲を見渡す。
散乱したものも特にない、が、
足跡……複数あり……
女の周りには彼女が履いている草鞋とは大きさの違う跡が残されている。
物盗り、例の山賊の類だろうか……ただ、
襲われたにしても、声掛けに応じない。それが気がかりだ。
目に見えないだけで頭を強打したのかも知れない。
また、囮なのかも知れない。
判断材料は少ないが土井はなにより、心配する椿を放っておけない。
「学園に連れて帰りましょう。」
「はい。」
本当に重症だったら大変だし、悪い予感の方だったとしても解決の糸口になるかも知れない。
忍たまや椿が安心して外を出歩けるよう、山賊の噂はいずれ解決しなければならない案件だ。
女を背負い少し足早に、椿と土井は忍術学園へ足を向けた。