終章
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なにも失わずにいられるとは思わなかった。
なにも失わずに同じ道を辿れるなどと、数日前の自分には想像も付かないことだった。
もしかしたらこの体では帰ることなどないのかも知れないと。
以前の自分はそれ程の覚悟を持って、この道を歩いていた。
だが今は違う。
しっかりと繋いだ手。その温もり。
もう決して離れることはないと願いを込めた。
椿はその手に少し力を加える。
それに気付いた樒がこちらを向き目が合った。
二人は笑った。
それは全てを解決できたという安堵の顔。
大切なものを守り通すことが出来たという顔。
隣りにあなたがいてくれて良かった。
一緒にこうして歩くことが出来て良かった。
それだけで二人は満たされていた。
忍術学園が朱に染まる。
残されていた下級生の声が、学園の西から見えた影を学園長に告げる。
多くの教師たちと上級生たちの姿。
彼らの中心に見られた影。
「土井先生!」
「椿さん!」
「お帰りになられたぞ!」
迎えてくれたのは一年は組だった。
心配であっただろう、涙を浮かべながら出迎える姿に胸が打たれる。
大袈裟だな、と土井は言った。
だがそれも仕方のないこと、まだ年端も行かない子供たちだ。
彼らにとって絶対的な存在である土井が倒れ、そして消えた。
無理をして学園を飛び出したことを皆知っている。
その理由も、なんとなくわかる気がする。
縋りついた土井の隣りには椿がいた。
「皆、ごめんね。」
彼女は心配をかけたことを詫びる。
そして落ち着かせるように一人一人を抱き締めた。
これはまるであの時と同じ。
ありがとう、そして心配かけてごめんなさい。
一年は組は椿に理解を示した。
どのような形であろうとも、彼女はまたここに帰ってきた。
それだけで皆、満足であった。
「よくぞ無事に戻られました。」
声の方へ目を向ける。
群がっていた忍たまたちが道を開けるように下がり、そこに現れたのは学園長。
「学園長先生……」
「一度ならず二度までも、本当に君には驚かされてばかりじゃ。」
椿がこうして学園に戻って来た、それも笑顔で。
たったそれだけのことで、彼らが何も失うことなく誰一人欠けることなく、平穏無事に帰って来たことを証明していた。
「学園長先生、信じてくださりありがとうございました。先生方も、そして忍たまのみんなも利吉さんも、力を貸してくれてありがとうございます。皆さんが居てくれたからこそ、私も樒もこうして生きて帰ることができるのだと、感謝しています。でも……」
言葉を詰まらせる椿に忍たまたちは緊張を走らせる。
「私は無理を押し通してしまいました。三郎君や雷蔵君を危険に晒してしまった原因は私にあります。如何なる処分もお受け致します。」
「そんな!椿さん!」
「学園長先生……!」
竹森椿を名乗った、その時点で覚悟は決めていた。
自分はどうなっても構わない、例えここを追い出されることになったとしても。
三郎と雷蔵が必死に弁解をする。
忍たまたちの不安そうな視線を受けた学園長は長い息を吐くと彼女に声をかける。
「椿君、儂は言ったはずじゃ。君も、この忍術学園の一員だと。」
「……っ」
「無事に戻って来てくれてこんなに喜ばしいことはない。儂は初めから、椿君の帰る場所はここじゃと思っている。学園の一員である君を助けるために我々は共にいる。違うかね?」
「学園長先生……」
学園長は初めからその言葉をくれている。
それはわかる、わかるからこそ、自分の勝手を椿自身が許せなかっただけなのだ。
三郎や雷蔵、他の皆を見渡す。
そのどれもが椿に真摯な眼差しを向け、反対の声を上げる者などいない。
「儂だけではない。ここにいる全員が君を取り戻したい、その一心であることを覚えておいて欲しい。なあ、そうじゃろう?土井先生。」
「え!あ、はい。その通りです。」
名指しされた土井は学園長に心の内を見透かされている気がして心臓を鳴らした。
上ずった声に周りの教師たちは笑い声を上げる。
土井が目を覚ました時、彼女の姿はなかった。
学園長から全てを聞き、どうしても行かなければならないと直談判をしたのはつい先日のこと。
重い体を引きずるようにして目指した差臼城、本当に間に合って良かった。
椿がどんな顔をしているのか気になり横目で窺うが、隣りに立つ樒がこちらを見ながらフッと笑っているのに気が付いて、慌てて目を逸らした。
「じゃから、これまでと変わらず君にはここに、”食堂のおばちゃん見習い”としていてもらいたい。」
「学園長先生、皆さん……ありがとうございますっ……ありがとうございますっ!」
深々と頭を下げる椿に学園長が満足そうな顔をする。
忍たまたちは歓声と安堵に包まれた。
その中、椿を優しく見つめる樒に、学園長は向き直ると声をかけた。
「決別は、できたようじゃな?」
彼女はそれに真っ直ぐに答える。
「はい、全て皆様のお陰です。本当にありがとうございました。椿様にも多大なご慈悲を頂き感謝致します。竹森はこれでもう、脅威に晒されることはありません。」
「それは良かった。それで、君はこれからどうするつもりかな?」
「……結果として竹森の危機を回避することができました。しかしそれまでに私は多くの裏切りを働きました。今更帰れる場所など、私には残されていません。」
「樒ちゃんっ」
驚いたように椿が樒を見る。
「それは全部竹森を救うためにやったことでしょう?隆光も神室も、ちゃんと説明すればわかってくれるよ!?」
「椿様、ですが……」
「言ったじゃない、あなたの帰る場所は隆光のところだって。樒ちゃんは言わないけれど、本当は竹森に帰りたいんだって、私知ってるわかるもの。」
「っ」
できることならそうしたい。
椿の言葉が、力強い彼女の瞳が、「私がなんとかする」と言わんばかりの気持ちが、樒の閉ざされた扉を叩く音がする。
けど、甘えてしまう訳にはいかない。
これは自分が始めたこと、己の始末は己がやらなければならない。
興奮気味の椿の肩にそっと手を乗せ、土井が彼女を落ち着かせる。
樒が必死に隠そうとしている震えた手を学園長は見逃さなかった。
「相分かった。こうなってしまってはもう、当事者同士で話し合うしかあるまい。椿君、」
「はい」
「君に、君と樒君に合わせたい御方がここに来ておられる。」
学園長はそう言うと手を前に差し出し、皆の視線を後方へと促した。
不思議に思いながらも後ろを振り向いた椿、沈みかけた陽の光を背負う二つの影。
それらが近付くにつれ見えて来たその顔に、彼女は信じられないと言葉を失う。
もう会うことはないと思っていた。
願っても叶わないと思っていた。
だからせめてその無事を祈り続けた。
「お久しぶりです。お元気そうですね、姉上。」
「……隆光……!」
「ええ!?」
椿と共に驚きの声を上げたのは多くの忍たまたち。
彼らは現れた人物が誰であるのかを知らない。ただ椿の反応がその人物の正体を物語っていた。
竹森隆光、その人は確かにこの場に存在していた。
生き別れた四年前、彼はまだ十歳だった。
それが今では椿の背丈を越してしまう程に成長している。
幼い顔付きだった弟はすっかり男の顔となり、一国を背負う主としての気品と態度も身に着けているようだった。
精悍な顔つきの隆光、彼の身なりにくノ一教室の子たちが色めき立つ。
まさか再び会えることなどないと、ただ無事であることを祈るしかないと、そう思っていたのに。
目の前に現れた青年から彼女は目が離せない。
「ど、どうしてここに……?」
「大川殿より早馬をもらったのです。姉上の危機という知らせを受け馳せ参じた次第です。」
椿は学園長に確認の視線を向ける。
彼女が竹森を名乗ったその夜、学園長はいざという時のために竹森へ遣いを出したというのだ。
「隆光様っ……」
樒の声にハッと気付き、椿は地にひれ伏す。
樒もそれに倣うように身を低くした。
隆光は今や竹森城城主、比べ自分は竹森を捨てて生きたただの平民。
身分が違いすぎる。
彼女の行動に驚いたのは忍術学園の面々。
土井が静かに椿の名を零した。
隆光はしゃがみ込み、椿の肩にそっと手を置く。
「顔を上げてください。あなたがそんなことをする必要はありません。」
「ですがっ」
「私は姉上がそのように振る舞うことを望みません。”私はもう竹森の人間ではないから”とか、”隆光に合わせる顔がない”とか、そんなつまらないことを仰るつもりでしたら流石に怒りますよ?」
「っ……」
「どうか昔のように、私を振り回して困らせたり泣かせたりしていた、あの頃の姉上と同じように接してください。」
「た、隆光っ」
隆光はさらりと椿の過去を暴露した。
今の彼女からは想像も出来ないが、幼い頃の椿はお転婆であったことが伺える。
椿に集まる視線に彼女は顔を赤くする。
それに満足したように隆光はククッと笑い、控えていた神室と学園長に目を向けた。
「大川殿、どうか今ひとたび、姉と二人で話す時間を頂けないでしょうか?」
「それはもちろん。折角の機会です、どうぞ心行くまで時間をお使いください。」
「感謝致します。」
その言葉を合図に学園長を始めその場にいた教師、忍たま、神室らはさっと姿を消す。
遅れた一年生を土井が抱えて連れて行く瞬間、椿と目が合った。
複雑に思うことはあるけれど、今は姉弟が話をする時間を少しでも邪魔しないようにとその場を去った。
風が二人の髪を撫でる。
隆光は差し出した手で椿のそれをしっかり掴むと、彼女が立ち上がる手助けをする。
茜色に染まる椿、揺れる彼女の瞳、そのどれも隆光の胸を焦がすには十分だ。
生きていた、それだけで満足なはずなのに、いざ目の前にすると己の欲が沸き立ってくるのを隆光は感じる。
「隆光……」
「姉上、生きていてくれて良かった……」
少し表情を崩した隆光、それを落ち着かせるように椿は昔のように彼の頬に触れる。
「当たり前です。私を誰だと思っているの?そんなことより……ご立派になられましたね。もうすっかり城主様の顔をしておられますよ。」
「姉上に恥じない人生をと、今まで頑張って参りました。私がこの地位に就くことで、遠く離れた姉上を少しでも安心させられ、またなにかの時にはすぐに駆け付けられると思いましたから。……姉上、」
「うん?」
「あなたに、触れても構いませんか?」
城主の顔になったとはいえ、隆光はまだ齢十四。
普段接する忍たまたちと、そう変わらない年齢。
椿は優しく微笑み、そっと手を広げる。
「ええ、もちろん。」
「っ、姉上!」
隆光は壊れ物に触れるように、そっと椿を抱き締めた。
その瞬間、彼は少年だった頃に戻る。
今となっては自分より少し小さい姉の体。
触れたいと願ったその熱を隆光は愛おしく思う。
「ずっと、あなたの無事を願っておりました。会うことは叶わなくても、竹森を離れたとしても、姉上はずっと私の姉上であると、そう思っていました。姉上がいた頃の夢をよく見ます。あの頃に戻れたらどんなにいいかと……。姉上が一緒にいてくださったあの時の記憶が、私にとっては何よりの宝物なのです。」
隆光の震える体を椿も抱きしめ答える。
「私も……隆光と一緒にいた日々はなににも代えられない宝物です。いつでもあなたの無事を祈っておりましたよ。こうして再び会うことができて、あなたの成長を感じられて、姉としてあなたを誇りに思います。」
「姉上……」
「私たちの道は分かたれてしまいました。でもこれで良いのです。あなたは竹森をこれからも守っていってください。」
隆光は驚いたように椿から体を離し彼女の顔を覗き込む。
「姉上は……?」
「私はここで。忍術学園で自分の居場所を見つけましたから。」
「竹森には戻られないのですか?姉上が望むなら私は……っ」
それはある種、懇願のようなものだった。
また元の生活に戻れたなら、あの頃のように……いや、今の自分にはそれを叶える力がある。
望むものは、手に入れたいものはただ一つ、彼女だけだった。
椿さえ、頷いてくれていたのなら……
だが隆光の想いも空しく、椿は静かに首を横に振って答える。
「もう知っているはずですよ? ”竹森椿は死んだ”のです。戻ることはありません。私は今はもう、ただの”食堂のおばちゃん見習い”なのです。でも決して、あなたや竹森が嫌いで言っている訳ではないことは、わかってくださいね?」
彼女は清々しい程に綺麗に微笑んだ。
頬に触れる温かな手、それを握り返して隆光は姉の想いを受け取る。
これを覆せることなど出来ぬと、理解している。
もうずっと、前から……
「……わかりました……」
「隆光、いつでもあなたを想います。あなたが守る竹森が、これからも平和でありますように。そしてあなた自身も幸せを掴めますように。」
「私も、ずっと、姉上の無事と平和を祈り続けましょう。遠く離れていても、ずっと……あなたは私の姉上、それに変わりはありません。」
「はい……!」
秘めた願いは成就されることはなかった。
だがそれは彼女が望んだことであった。
意に反することは隆光の望むそれではない。
だから、これでいいのだ。
姉が幸せであるならば、これ以上望むことは許されない。
我儘を通して困らせたくはない。
「……ふっ」
隆光は自嘲するように笑った。
椿が不思議そうに首を傾げる。
「姉上を、ずっと、お慕いしております。」
嘘ではない。
彼女の動作があまりにも可愛らしくてそんなことを口走った。
嘘、ではない。
ただ、真意でもない。
始めから隆光は正解を言うつもりなどない。
小さな嘘を付いてきた、だから今まで通りその嘘を付き続ける。
ただそれだけだ。
椿も同じ言葉を返した。
それは彼女の本当、であるのだろう。
だから今一度、その言葉に隆光は霞をかける。
これ以上望みを膨らませないように。
「あのね、隆光。一つだけお願いが……」
「……なあ作兵衛」
「……なんだ三之助」
椿たちから離れた場所で三年生の二人は密かに言葉を交わす。
「ちょっとは、似ていたな。」
「まあ確かに、少しは似ていたかも知んねぇ。」
「サラッとした髪とか背格好とか?」
「笑った時の顔とかも似ていたかも知んねぇな。だけど、」
「「左門はあんなに美少年じゃない!」」
作兵衛と三之助は声を揃えた。
二人が話していたのは隆光のことだった。
以前椿が隆光に似ていると抜擢した左門、そして現れた本物を目にし、二人は同じことを思っていた。
「おーい、二人とも!なんの話をしているんだ?」
都合よく現れる左門。
二人は冷ややかな視線を送った。
それに気付かないのか、左門は構わず話続ける。
「なあなあそれより、あの殿様、僕にそっくりだったな?椿さんが言ってた通りだな。」
「んなわけあるか!あくまで、幼少期の隆光様に似てるってだけだろ!?」
「ん?じゃあ僕も成長すれば……」
「あのなあ、あの人とお前は一つしか歳が違わないんだぞ?きっと椿さんの思い込みとか、弟に対する美化が入っているとかに違いねぇんだ。」
「いいか左門、夢は見るな。」
諭すような作兵衛と三之助。
二人の様子を読み解いた左門は、やや冷ややかな視線を送った。
「……二人とも、嫉妬は良いものじゃないぞ?」
「「誰がするか、そんなもん!」」
「……神室さん」
樒は緊張した面持ちで声をかける。
神室は彼女にとっては上司であった。
長い間竹森を離れてしまった、きっと捜索もされていたのだろう。
最悪の場合、始末されてしまうこともあったのかも知れない。
神室が自分に対してどう対処するのか、いや今更逃げも隠れもしない。
椿が樒を庇ってくれた、隆光を救うことが出来た、それだけで樒は十分だった。
神室はしばらくの間沈黙し、やがて口を開く。
「……よくやった、な?」
「……え?」
予想もしないその一言。
見上げた先、神室の表情は穏やかなものだった。
「椿様が笑っておられた。それだけでわかる。……お前が何をしてきたかまでは知らない、だがお前があの方の笑顔を守ったことだけはわかる。」
「……」
「私たちは単に雇われた身ではない。主と定めた御方に尽くし共に生きる存在だ。少なくとも私は部下にはそう指導している。」
「神室さん、私はっ」
「樒、私はあの方に二度救われている。」
「え……?」
神室の言葉に樒は踏みとどまる。
それは神室の過去に関する興味であったのかも知れない。
椿の慈悲深い一面を知りたかったからかも知れない。
或いは語り出した神室の真意を知りたかったから、かも知れない。
「一度目は椿様が幼少の頃、私は誤ってあの方の命を危機に晒した。処罰を当然と思っていた私をあの方はなにもせずお許しくださった。当時の城主である隆影様に掛け合ってくださったのだ。二度目は桧山の企みを暴いた時、椿様の体に癒えぬ傷を付けた原因である私に、あの方は『生きろ』と言ってくださった。」
「……」
「あの方は罪を罰することを望んでいない。罰を下すよりも許すことの方が難しいはずだ、だがそれで生まれるものの大きさを椿様はわかっていらっしゃるんだろう。」
「生まれる、もの?」
「お前は椿様に許された時、なにを思った?『この方のために自分は存在する』と、『なにに変えてもこの方をお守りしなければ』と、そう思わなかったか?」
その通りだ。
樒の罪を許してくれた時、共に竹森を救う力になってくれた時、椿が自分の主君であると樒は心に刻んだ。
「椿様も隆光様も、我々をただの駒だと思っていない。共に生きる人として認めてくださっている。ならば我らのするべきこととはなんなのか。駒として働くこと?違うな、人として主人の心を支えることだ。」
「こころ……」
「それが時には正さなければならないこともあるだろう。だがそうやってお互いに成長し合えるものだと私は思う。さっきも言ったが椿様が穏やかに笑っていらしたことが、お前があの方の心を守ったのだと私は理解している。だからこれ以上、お前になにかを強いることは私があの方に背くことになるんだよ。」
「神室さん……」
「”生きろ”、樒。お前の罪に罰を与えるとしたなら、椿様はそう仰るに違いない。」
”勝手は許さない”
守るべき者のため己に刃を突き立てた樒は、そう彼女に言われたことを思い出す。
ああ、そうか、もうこの時既に椿は樒に罰を与えてくれていたのだ。
「神室さん」
二人の間に入り込んだ声。樒は振り向き、小さく息を漏らす。
そこにいた土井の姿に神室は懐かしむ言葉をかける。
「土井殿、お久しぶりです。この度は部下がご迷惑をおかけしたようで……」
「いえ、顔を上げてください。結果的にこちらも助けられたようなものですので。樒さん、君が差臼へ潜入する手助けをしてくれたと聞いたよ。ありがとう。」
「いえ、私はただ……椿様が私を信じてくださったから……」
「それがどんなに椿さんにとっての助けになったことか。私は彼女と君が良い関係を築けたらと願っていた。それも君の歩み寄りがあってこそ叶ったというもの。本当にありがとう。」
「ん……」
礼を言われ慣れていない樒はこれ以上何も言えず、土井から向けられる笑顔も直視出来ず、顔を赤らめて視線を逸らした。
彼女の様子に土井は微笑み、神室に向かい直ると言葉を続ける。
「それに神室さん、若君、お二人が忍術学園にお越しくださって良かった。できることならもう一度、椿さんに会わせてあげたいと思っていましたから。」
「はい、それは私も同じ想いです。あんなに嬉しそうな隆光様は久しぶりに拝見しました。」
椿が隆光と神室をどう想っているのかを土井は知っている。
不本意な別れ方をしてしまったと未練を残す彼女に二人が元気な姿を見せることができたなら、きっと椿も納得するだろう。
自身が竹森の地を踏むことは二度とない、だから早馬を出した学園長にも、駆けつけた二人にも土井は感謝を示した。
それは神室も同じ想いで、姉を想う隆光の願いを叶えたいと思っていた。
椿を見つめる隆光の目に、神室は今回の訪問を心から喜んでいた。
「あの……土井、先生……」
声をかけたのは樒だった。
その表情は一転して暗く、少し心配になるくらいである。
彼女は精一杯、言葉を紡いでいるようにも見えた。
「その……か、体の方は……?」
「うん、君の解毒剤が効いてくれたらしい。もう大丈夫だよ。」
「っ……、申し訳ありませんでした!」
樒は頭を下げて詫びた。
それは毒を盛ったことを意味するのだろう。
だが今となっては、土井には彼女の行動を責める気はない。
仮に同じ立場であったなら、自分も同じことをしたに違いないからだ。
「君は、君の思うことを成し遂げたかった。ただそれだけだろう?私に君を責める気はないよ。君の行動は理解できる。大切な人を守りたい、ただそれだけだったのだからね。」
「っ、……はい……」
「それに、私も同じさ。守りたい者のためなら、どんなことでも出来る。」
土井が目に写すのは椿と一年は組。
皆を見つめるその瞳はとても優しい。
「守りたい者がいる人間は強くなる。それが例え間違った道であっても、その大切な人が自分の過ちを気付かせてくれる。それって、とてもありがたいことだと思うよ。お互いに支え合うってことだからね。」
それは樒のとっての隆光や椿であり、土井にとっては椿であるということなのだろうか。
彼女が誤った道を選ぼうとした時、土井はそれを正しに来た。
今ならわかる、彼の行動に樒は感謝を告げた。
「……ありがとう、ございました。」
土井が椿を救うという行為が、結果として樒と竹森をも救った。
このことは隆光の耳にも入れるべきことであろう。
そして、椿と土井が互いを想う気持ちも、同時に隆光を安心させる要素なのかも知れない。
樒は心からの礼を示し、その胸を撫で下ろした。
土井はそれを受けて、擽ったそうに笑った。
「やはりあなたは私が見込んだ御方であった。」
それまで黙って話を聞いていた神室が目を輝かせる。
「神室さん?」
「椿様のことをそのように想ってくださっているとは……土井殿、これからは私に変わり椿様をお支えくださるのですね?」
「え!?いやあの、」
「みなまで言わずともこの神室、理解しております。安心致しました。あなたになら椿様をお任せできると言うもの。椿様のお幸せこそが私の悲願でございます。」
熱く語る神室に押され土井は何も言えなくなってしまう。
樒も神室の側で何度も頷き同調を示した。
椿への想いは誰にも言っていないし、樒はともかく神室の前でわかるように表に出したつもりもない。
それなのに久々に会った神室にそう指摘されると、今まで隠せていたのかどうか急に自信がなくなった。
恥ずかしさとこれ以上話を広げないようにしなければとの緊張から、背中を嫌な汗が流れる。
「土井殿、どうかこれからも椿様をよろしくお願い致します!」
「わ、わかりましたからっ。あまり大きな声で言わな……」
「なんのお話ですか?」
割り込んできた明るい声、椿であった。
彼女の登場に土井の心臓は飛び出る。
神室が何か言おうとしたのを土井は必死に制した。
「なななんでもありません!!」
「土井先生に椿様をお願いしますという」
「樒さんっ!!」
「?」
樒の口まで塞ぐ余裕はなかった。
彼女がそんなことを言うとも考えにくかったのだが、椿絡みのことには樒自身も気付かない程に暴走してしまうようだった。
土井の苦し紛れの苦笑いに椿は小首を傾げたようだったが、彼女は彼女で何か用があったらしい。
「あのね、樒ちゃん」
「はい」
「あなたを竹森に帰すと約束したこと、叶うみたいだよ。」
「え?」
「隆光にお願いしたの、あなたを再び竹森に受け入れて欲しいって。」
椿の隣りに隆光が進み出る。
樒は驚きを隠せない顔で彼を見る。
「元より私はお前を捨てたりはしないよ。戻って来い、樒。ただ……」
「隆光?」
「なにもないというのもお前自身が納得しないであろう。だからこれはお前への罰だ。生きろ、樒。生きて私の支えとなれ。」
「隆光様……!」
隆光は”生きろ”と言った。
それは椿の罰そのもの。
瞬間、樒は隆光への誓いを立てる。
生きて、彼を支えること。自ら死を望まないこと。
隆光と、椿の罰を樒は深く胸に刻んだ。
隆光の言葉に安心したように椿は笑う。
「神室もいいよね?」
「異存はございません。私は隆光様と椿様の御意思を尊重いたします。」
「うん!」
樒に注がれる視線はどれも温かい。
こんなことが起こりうるなど、誰が予想出来たであろう?
二度と帰れないと思っていた、竹森が無事ならば自分はどうなっても構わないと思っていた。
樒個人の願いなど誰も拾いはしないのだと、諦めていたのに。
椿はそれを当然のことのように受け入れる。
感謝という言葉では言い表せない程の想いが樒の中に膨らむ。
胸が苦しい。
「ありがとうございます……隆光様、椿様……ありがとうございます……」
「あなたは友達だから。私の大切なお友達。だからまた前みたいに”椿”って呼んで欲しいな。」
椿の発言に神室が焦ったように反応する。
「椿様っ、それはさすがに……!」
「私はもう、そう呼ばれるような人じゃないの。神室だって普通に呼んでくれていいんだよ?」
「いえ!私にとっては今までもこれからも”椿様”ですので!」
神室の頭の固さに椿は頬を膨らます。
隆光や土井が笑いながら神室を茶化しているところで、椿は樒にだけこっそりと耳打ちをする。
「ね、お願い。」
それにくすぐったくなりながらも、樒は椿の希望に答えようとした。
彼女を欺き嘘で固められた自分を、なおも友として見てくれている。
椿は隆光と同様の守るべき存在、ならばその心を支えることができるとしたら、樒の取るべき行動は決まっている。
高ぶる感情は抑えが効かず、顔はぐしゃぐしゃである。
「っ……、椿」
「うんっ!」
椿は樒に抱き着く。
ギュッと強く、離れない絆を結ぶように。
「ずっとお友達だよ。樒ちゃん。」
「うん……!」
「土井先生」「土井半助」
同時に顔を出した利吉と尊奈門に土井は思わず後退る。
問い詰めるようにじっとこちらを睨みつける目に、土井は少し心当たりがあった。
「説明していただけるのでしょうね?」
「差臼での発言、聞き捨てならないな?」
「待ってくれ、二人とも、落ち着いて話そう?」
利吉のことは知っていたがそれに尊奈門も加わるとは予想外だった。
彼女の魅力を考えたら無理もないことではある。
厄介なのは当の本人がこの騒ぎに入って来てしまうこと。
まだ自分は彼女自身に打ち明けてはいない。
利吉を見つけ嬉しそうに声をかける椿に、男同士の会話を聞かれたくはないと思ってしまう。が、
「利吉さん」
「椿さ」
「千姫を無事に送り届けてくださったのですね!ありがとうございました!でもお戻りが随分お早かったので驚いてしまいました。」
興奮した様子で彼女が捲し立てるものだから、利吉は土井との真相を聞くきっかけを逃し、土井は難を逃れたと胸を撫で下ろす。
恐らくそれは利吉らにとっても想定外のことのようで。
「あ、ええ……それはですね、」
「これはこれは皆さん、出迎え感謝致します!」
突然割って入った声は皆の注目を集めることは容易かった。
目を向けると、紫の装束の集団が派手に帰還を告げている。
「容姿端麗にして教科も実技も学年一、学園のスター平滝夜叉丸、千姫様を無事に堀殻城へとお連れし、ただいま戻って参りましたぞ!」
「滝夜叉丸!さも自分だけの功績のように語るな!アイドルと言ったらこの私!田村三木エも」
「あ、四年生戻りましたぁ~。」
滝夜叉丸と三木エ門の争う声を気にする素振りも見せず、喜八郎がなんとも間の抜けた声で場を収める。
気になるのは千姫を堀殻に連れて行ったという点。
椿は利吉を見上げ説明を求めた。
「つまりですね私が千姫を連れ出た後、立花君と潮江君、そして四年生たちに合流。四年生たちに千姫を引き渡し、六年生の二人と共に再び差臼に戻ったという訳です。」
仙蔵が会話に入り込む。
「四年生には千姫を堀殻城へ連れて行ってもらっていたのだ。私と文次郎は堀殻城主より予め密書を受け取っていた。先程、差臼普墺に突き出したあれだ。」
「だから利吉さんの戻りが早かったのですね。だけど……予め密書をしたためるなんて、堀殻城城主様がよくそんな仮約束を信じてくださいましたね?」
「その点においても心配はない、椿姫」
少し離れたところから雑渡が声をかける。
彼の元に一人、タソガレドキ忍軍が寄る姿が見えた。
「堀殻には我々が先に話をつけてあった。協定書を結ぶにあたりこの後訪れるであろう忍術学園のことを信じて欲しい、と。ご苦労だったな、山本。」
「はい。堀殻城よりただいま戻りました。」
なにもかも雑渡の計画通りに事が動いていたことを知る。
雑渡という男、味方に付けばこれ程頼もしいこともないが、敵に回せばどれ程に恐ろしいことだろう。
学園長とは違う意味で尊敬に値すると椿は感じた。
山本と呼ばれた男はこちらを見ると懐かしむような、少し嬉しそうな表情を見せた。
「お、元気だったか、兄さん。いや、今はもう違うか。」
「?」
視線が交わったのは樒だった。
だが彼女も山本に対しての反応は薄い。
知り合いなのかと聞く椿に樒は否定を零す。
それに残念そうな声を漏らす山本。
「なんだ覚えてないのか?兄さん。」
「??…………………………! お前は!」
山本から読み取れる少ない情報、目元と声色、それで樒は思い出す。
椿を探していた頃、港町で出会った凄腕の情報屋、それがこの山本という男だった。
彼女から依頼を受ける素振りを見せつつその実、彼女自身を操作していた。
情報屋と交信する時はいつも互いに声のみの接触であった。
だから樒はこの情報屋がどこの誰なのかは知らない。
ただ、差臼城で須黙、雑渡に会った時、彼は何故か樒を知っている風だった。
それが唯一引っ掛かってはいたのだが、まさか全ての黒幕はタソガレドキ忍軍であったとは。
樒は知らずの内にタソガレドキの駒となって動かされていたのだ。
彼女の反応に山本の目元は弧を描く。
「あんた、やっぱりそっちの方が似合ってるよ。男装も様になっていたけどな。」
「だ、黙れ!何も言うな!」
「樒ちゃんが男装?」
「なんでもない!」
恥ずかしがるようにムキになる樒と意外にも優しく笑う山本。
雑渡は山本に口説くなと釘を刺した。
土井は雑渡に向き直る。
「雑渡さん、あなたは椿さんが差臼に行くようにわざと仕向けた。樒さんを泳がせ、彼女たちを差臼に潜り込ませることが初めからの目的だった。そうですね?」
「土井先生、どういうことですか?」
「タソガレドキがいくら差臼と不仲と言っても、戦以外で決着を付けるのは難しい。だからタソガレドキが迎えるはずだった姫君を差臼に奪わせる必要があったのさ。そうすればタソガレドキが姫君を取り返すという口実が生まれるからね。戦を起こすには十分な理由だ。」
タソガレドキは差臼を大人しくさせたい。
調査の結果、周辺の国々も差臼に対して同じような考えであった。
彼らはそれを利用した。
タソガレドキが率先して今回の協定を結ぶことによって、自分たちの思うように事を進めることも可能となる。
馬印堂は元より、堀殻も武力にばかり頼る国でもなかった。
タソガレドキが、自分たちに全てを任せてくれるなら穏便に済ませよう、とでも提案したのであろう。
「でも雑渡さん、竹森の姫はもう存在していませんのに、どうしてそのようなお話が出来たのですか?」
竹森の姫君をタソガレドキに迎え入れる、雑渡は確かにそう言った。
だがそれは椿のことに他ならない。
自分以外に竹森の姫など、いないはずであった。
あるいは知らないところで存在していたのかと、隆光と顔を合わせ確認しようとするが、彼もまた否定を口にする。
雑渡はそんな二人を見て目を細めた。
「ああ、それね。それ、ハッタリだから。」
「え!?」
「タソガレドキが竹森の美姫を迎えるなんてハッタリに決まってるでしょ。既に姫は存在していないのだから。だがこれを利用させてもらった。差臼普墺が竹森の美姫を欲していることはこちらの耳にも入っていたことだったのでね。」
「ハッタリ……」
「差臼普墺が我々と竹森の関係をこじつけだと言うものだから、私も少し……意地になってしまったようだ。」
まさかの回答に拍子抜けする。
複雑な考えがあったのかと思いきや、ただの博打であった。
……まあ、彼らは忍び。時には堂々と嘘を付くこともあるのだろう。
結果としてその脅しが効いたのだから良かったと雑渡は零していた。
樒は雑渡に問う。
「私が差臼に使われていたことも、始めから知っていたと?」
「勿論だ。ただ、君からの情報じゃない。井頭、梨栗は以前から警戒していた相手。奴らが新たに加わった君のことを零していたことを我々は知っている。その君が椿姫を探していたとなると、答えは一つ。君が竹森の人間であるということだ。君が堺の港で接触したこの山本、そうなるように仕向けたのも我々だ。」
「……」
「君にこちらの存在を知られてはいけない。だから千姫護送の際は君の指示に従う振りをした。君たち差臼側が本物を攫う裏で、我々は椿姫の回収に失敗しなければならなかったのだよ。差臼の準備を遅らせるようにするため、そして忍術学園がこの真相に気付く時間を稼ぐためにね。」
「あ……」
だから雑渡は椿を助けてくれたのだ。
差臼普墺に近付くため、諸国と連携を結ぶため、そして忍術学園に敵ではないと知らせるために。
牛車を襲ったのも樒を信じ込ませる芝居だったということだ。
椿を差臼に送り込むことなど造作もない。
放っておいてもやがては樒が直接連れ出すだろう。
焦り苛立ち、それが生じた人間は本来の力を発揮出来はしない。
どこかに隙が生じる、そこがタソガレドキの攻め処という訳だ。
やっぱり雑渡さんは敵じゃなかった。
そして尊奈門さんも。
彼らを疑うことのなかった椿の心が癒される。
情報収集のため、差臼と直接の接触を避けるために椿に尊奈門を付けていたが、それは役不足だったかなと漏らす雑渡。
必死に釈明を施す尊奈門に椿の温かい微笑みが贈られる。
それに気付いた彼は顔を真っ赤にして高坂に揶揄われていた。
雑渡の隙のない回答。
相手を利用していたはずの自分が、まさか相手に利用される側だったなど寝耳に水だった。
何も言えない樒に神室は、まだまだだなと言う。
「……だがハッタリをかました理由は二つある。一つは土井先生の言うように戦をちらつかせることで、圧倒的な戦力差を見せつけ差臼を組み敷くため。もう一つは……」
言葉を止めた雑渡は椿をじっと見つめる。
「?」
「君の覚悟を見るため、かな。」
「私……?」
「あの場で初めて明かした覚えのない事実、それを目の当たりにした君がどう出るか。とても興味があった。」
彼女の凛とした態度は雑渡を喜ばせた。
竹森と縁を切ったとは言え、彼女はやはり竹森の人間なのだ。
奥底に眠る誇りは失われてはいない。
皆の注目を集める椿は顔を赤くしながら恥ずかしそうに言う。
「あ、だって……雑渡さんが嘘を言うとは思っていなかったですし、竹森を名乗った以上の覚悟というか……こ、心構えみたいなものがあったというか……」
「ふ~ん?嬉しいね、私のことを信じてくれていた訳だ?」
「それは、だって、雑渡さんも私を信じてくれたじゃないですか。雑炊、食べてくれたから……だから信じたいって思ったんです。」
こちらが仕掛けるために彼女を利用した雑炊。
それを彼女もまた、自分を信じる理由として捉えていた訳だ。
「でも、良かった……ハッタリだったんですね。」
タソガレドキに呼ばれていたわけではない事実に椿はホッと胸を撫で下ろす。
「なんなら、本当に来るかい?」
「え?」
「嘘も真になるというもの。君なら歓迎するよ。なにより君のこと、気に入っちゃったからね。」
恭しく手を差し出す雑渡。
それを阻止しようと幾重にも声が重なり降り注ぐ。
「雑渡さん!」「組頭!」
その数の多さに驚きながらも納得するのは彼女の人柄によるものだろう。
尊奈門に『惚れたな』などと言いながら自分も惹かれているところがあるなど、軽々しく言えない。
「お気持ちは、嬉しいです。でも私、一緒には行けません。この忍術学園が私の帰る場所なんです。」
「椿さん……」
「だから、またぜひ遊びに来てくださいね。皆さんも。」
「ふられましたな、組頭。」
「煩いよ山本。」
笑いが起こり場が和む。
本気、だったんだけどなぁ……
雑渡は誰にも悟られないように、憂いを帯びた瞳をそっと椿に向けていた。
「さて、全て解決したじゃろうか。」
学園長が姿を見せた。
戸津や多くの忍たまもぞろぞろと姿を見せる。
「学園長先生」
「竹森城城主様、ご足労頂き誠にありがとうございました。ささやかではありますが、どうか忍術学園らしいおもてなしをさせて頂きたいと存じます。」
学園長は乱太郎ら一年生に目を向ける。
「さあ、こちらへどうぞ!忍術学園自慢、食堂のおばちゃんの手料理を用意してあります!」
「僕たちもお手伝いしました!」
一年生全員が声を揃える。
丁度陽も暮れ腹も空いてくる頃、椿は隆光の手を引いて輪の中に誘う。
「行こう!隆光!」
「あ、姉上っ!?」
「ほら、樒ちゃんも!」
同じ年頃の子供たちと接する機会の少なかった隆光。
だから少しでも良い経験となればと椿は学園のもてなしを嬉しく思った。
神室や戸津、そしてタソガレドキ忍軍にも忍たまたちが群がり食事の場へと誘う。
学園長室の前の開けた場所、そこに敷物を敷いたりどこからか持ち寄ったもので簡単な腰掛も用意してあった。
様々な料理が出揃い、美味しそうな香りが腹の音を誘う。
元々大人数であった忍術学園だが、今宵はさらに人を増やしまさに大宴会といってもいい形となっていた。
忍たまたちは椿を始め全員が無事に戻ってこれたことを喜び、教師たちはその働きを褒めた。
土井は先程の続きのように、またしても利吉と尊奈門から詰め寄られていたようだが、神室を間に挟んだことにより事態は面白いーーいや、ややこしい方向へと向かっていた。
戸津は雑渡とともに両国についての意見交換をしているようだった。
山本や押都、学園長らも加わりまさに大人の会話を醸し出している。
「ん?……あ!キジコ!」
三次郎が日が傾いた空を指さす。
一つの影が羽音をたてて舞い降り、生物委員の面々はそれを嬉しそうに囲った。
「キジコ、よく帰ってきたな!」
「キジコ~、勝手に出て行ったらダメじゃないか。」
熱烈な歓迎を受けながらも当のキジコは、地面にこぼれた飯に夢中な様子で啄んでいる。
「良かった、これで全て元通りだな。」
八左ヱ門の言葉に皆が安心したように笑った。
全て元通り、何一つ欠けることなく、忍術学園は本来の形を取り戻していた。
椿は隆光と樒から離れなかった。
彼らとこのように過ごす夜はもうない。
それをわかっていたから、この瞬間を胸に刻みたいと願った。
黙っていても明日はやって来る。
それぞれが違う道を歩む明日は来る。
きっと今日という日の記憶がいつの日か、心を支える力になる。
別れることはつらい、でも、これは前に進むための別れ。
歩む道は違うけれど、共に過ごした時間を糧として再び己が道を向くことが出来るだろう。
彼らなら、自分なら、そう出来ると信じている。
繋いだ手の温もりを忘れない。
距離は離れていても、心はすぐ側にある。
そう願いを込めて椿は笑顔を咲かせた。
なにも失わずに同じ道を辿れるなどと、数日前の自分には想像も付かないことだった。
もしかしたらこの体では帰ることなどないのかも知れないと。
以前の自分はそれ程の覚悟を持って、この道を歩いていた。
だが今は違う。
しっかりと繋いだ手。その温もり。
もう決して離れることはないと願いを込めた。
椿はその手に少し力を加える。
それに気付いた樒がこちらを向き目が合った。
二人は笑った。
それは全てを解決できたという安堵の顔。
大切なものを守り通すことが出来たという顔。
隣りにあなたがいてくれて良かった。
一緒にこうして歩くことが出来て良かった。
それだけで二人は満たされていた。
忍術学園が朱に染まる。
残されていた下級生の声が、学園の西から見えた影を学園長に告げる。
多くの教師たちと上級生たちの姿。
彼らの中心に見られた影。
「土井先生!」
「椿さん!」
「お帰りになられたぞ!」
迎えてくれたのは一年は組だった。
心配であっただろう、涙を浮かべながら出迎える姿に胸が打たれる。
大袈裟だな、と土井は言った。
だがそれも仕方のないこと、まだ年端も行かない子供たちだ。
彼らにとって絶対的な存在である土井が倒れ、そして消えた。
無理をして学園を飛び出したことを皆知っている。
その理由も、なんとなくわかる気がする。
縋りついた土井の隣りには椿がいた。
「皆、ごめんね。」
彼女は心配をかけたことを詫びる。
そして落ち着かせるように一人一人を抱き締めた。
これはまるであの時と同じ。
ありがとう、そして心配かけてごめんなさい。
一年は組は椿に理解を示した。
どのような形であろうとも、彼女はまたここに帰ってきた。
それだけで皆、満足であった。
「よくぞ無事に戻られました。」
声の方へ目を向ける。
群がっていた忍たまたちが道を開けるように下がり、そこに現れたのは学園長。
「学園長先生……」
「一度ならず二度までも、本当に君には驚かされてばかりじゃ。」
椿がこうして学園に戻って来た、それも笑顔で。
たったそれだけのことで、彼らが何も失うことなく誰一人欠けることなく、平穏無事に帰って来たことを証明していた。
「学園長先生、信じてくださりありがとうございました。先生方も、そして忍たまのみんなも利吉さんも、力を貸してくれてありがとうございます。皆さんが居てくれたからこそ、私も樒もこうして生きて帰ることができるのだと、感謝しています。でも……」
言葉を詰まらせる椿に忍たまたちは緊張を走らせる。
「私は無理を押し通してしまいました。三郎君や雷蔵君を危険に晒してしまった原因は私にあります。如何なる処分もお受け致します。」
「そんな!椿さん!」
「学園長先生……!」
竹森椿を名乗った、その時点で覚悟は決めていた。
自分はどうなっても構わない、例えここを追い出されることになったとしても。
三郎と雷蔵が必死に弁解をする。
忍たまたちの不安そうな視線を受けた学園長は長い息を吐くと彼女に声をかける。
「椿君、儂は言ったはずじゃ。君も、この忍術学園の一員だと。」
「……っ」
「無事に戻って来てくれてこんなに喜ばしいことはない。儂は初めから、椿君の帰る場所はここじゃと思っている。学園の一員である君を助けるために我々は共にいる。違うかね?」
「学園長先生……」
学園長は初めからその言葉をくれている。
それはわかる、わかるからこそ、自分の勝手を椿自身が許せなかっただけなのだ。
三郎や雷蔵、他の皆を見渡す。
そのどれもが椿に真摯な眼差しを向け、反対の声を上げる者などいない。
「儂だけではない。ここにいる全員が君を取り戻したい、その一心であることを覚えておいて欲しい。なあ、そうじゃろう?土井先生。」
「え!あ、はい。その通りです。」
名指しされた土井は学園長に心の内を見透かされている気がして心臓を鳴らした。
上ずった声に周りの教師たちは笑い声を上げる。
土井が目を覚ました時、彼女の姿はなかった。
学園長から全てを聞き、どうしても行かなければならないと直談判をしたのはつい先日のこと。
重い体を引きずるようにして目指した差臼城、本当に間に合って良かった。
椿がどんな顔をしているのか気になり横目で窺うが、隣りに立つ樒がこちらを見ながらフッと笑っているのに気が付いて、慌てて目を逸らした。
「じゃから、これまでと変わらず君にはここに、”食堂のおばちゃん見習い”としていてもらいたい。」
「学園長先生、皆さん……ありがとうございますっ……ありがとうございますっ!」
深々と頭を下げる椿に学園長が満足そうな顔をする。
忍たまたちは歓声と安堵に包まれた。
その中、椿を優しく見つめる樒に、学園長は向き直ると声をかけた。
「決別は、できたようじゃな?」
彼女はそれに真っ直ぐに答える。
「はい、全て皆様のお陰です。本当にありがとうございました。椿様にも多大なご慈悲を頂き感謝致します。竹森はこれでもう、脅威に晒されることはありません。」
「それは良かった。それで、君はこれからどうするつもりかな?」
「……結果として竹森の危機を回避することができました。しかしそれまでに私は多くの裏切りを働きました。今更帰れる場所など、私には残されていません。」
「樒ちゃんっ」
驚いたように椿が樒を見る。
「それは全部竹森を救うためにやったことでしょう?隆光も神室も、ちゃんと説明すればわかってくれるよ!?」
「椿様、ですが……」
「言ったじゃない、あなたの帰る場所は隆光のところだって。樒ちゃんは言わないけれど、本当は竹森に帰りたいんだって、私知ってるわかるもの。」
「っ」
できることならそうしたい。
椿の言葉が、力強い彼女の瞳が、「私がなんとかする」と言わんばかりの気持ちが、樒の閉ざされた扉を叩く音がする。
けど、甘えてしまう訳にはいかない。
これは自分が始めたこと、己の始末は己がやらなければならない。
興奮気味の椿の肩にそっと手を乗せ、土井が彼女を落ち着かせる。
樒が必死に隠そうとしている震えた手を学園長は見逃さなかった。
「相分かった。こうなってしまってはもう、当事者同士で話し合うしかあるまい。椿君、」
「はい」
「君に、君と樒君に合わせたい御方がここに来ておられる。」
学園長はそう言うと手を前に差し出し、皆の視線を後方へと促した。
不思議に思いながらも後ろを振り向いた椿、沈みかけた陽の光を背負う二つの影。
それらが近付くにつれ見えて来たその顔に、彼女は信じられないと言葉を失う。
もう会うことはないと思っていた。
願っても叶わないと思っていた。
だからせめてその無事を祈り続けた。
「お久しぶりです。お元気そうですね、姉上。」
「……隆光……!」
「ええ!?」
椿と共に驚きの声を上げたのは多くの忍たまたち。
彼らは現れた人物が誰であるのかを知らない。ただ椿の反応がその人物の正体を物語っていた。
竹森隆光、その人は確かにこの場に存在していた。
生き別れた四年前、彼はまだ十歳だった。
それが今では椿の背丈を越してしまう程に成長している。
幼い顔付きだった弟はすっかり男の顔となり、一国を背負う主としての気品と態度も身に着けているようだった。
精悍な顔つきの隆光、彼の身なりにくノ一教室の子たちが色めき立つ。
まさか再び会えることなどないと、ただ無事であることを祈るしかないと、そう思っていたのに。
目の前に現れた青年から彼女は目が離せない。
「ど、どうしてここに……?」
「大川殿より早馬をもらったのです。姉上の危機という知らせを受け馳せ参じた次第です。」
椿は学園長に確認の視線を向ける。
彼女が竹森を名乗ったその夜、学園長はいざという時のために竹森へ遣いを出したというのだ。
「隆光様っ……」
樒の声にハッと気付き、椿は地にひれ伏す。
樒もそれに倣うように身を低くした。
隆光は今や竹森城城主、比べ自分は竹森を捨てて生きたただの平民。
身分が違いすぎる。
彼女の行動に驚いたのは忍術学園の面々。
土井が静かに椿の名を零した。
隆光はしゃがみ込み、椿の肩にそっと手を置く。
「顔を上げてください。あなたがそんなことをする必要はありません。」
「ですがっ」
「私は姉上がそのように振る舞うことを望みません。”私はもう竹森の人間ではないから”とか、”隆光に合わせる顔がない”とか、そんなつまらないことを仰るつもりでしたら流石に怒りますよ?」
「っ……」
「どうか昔のように、私を振り回して困らせたり泣かせたりしていた、あの頃の姉上と同じように接してください。」
「た、隆光っ」
隆光はさらりと椿の過去を暴露した。
今の彼女からは想像も出来ないが、幼い頃の椿はお転婆であったことが伺える。
椿に集まる視線に彼女は顔を赤くする。
それに満足したように隆光はククッと笑い、控えていた神室と学園長に目を向けた。
「大川殿、どうか今ひとたび、姉と二人で話す時間を頂けないでしょうか?」
「それはもちろん。折角の機会です、どうぞ心行くまで時間をお使いください。」
「感謝致します。」
その言葉を合図に学園長を始めその場にいた教師、忍たま、神室らはさっと姿を消す。
遅れた一年生を土井が抱えて連れて行く瞬間、椿と目が合った。
複雑に思うことはあるけれど、今は姉弟が話をする時間を少しでも邪魔しないようにとその場を去った。
風が二人の髪を撫でる。
隆光は差し出した手で椿のそれをしっかり掴むと、彼女が立ち上がる手助けをする。
茜色に染まる椿、揺れる彼女の瞳、そのどれも隆光の胸を焦がすには十分だ。
生きていた、それだけで満足なはずなのに、いざ目の前にすると己の欲が沸き立ってくるのを隆光は感じる。
「隆光……」
「姉上、生きていてくれて良かった……」
少し表情を崩した隆光、それを落ち着かせるように椿は昔のように彼の頬に触れる。
「当たり前です。私を誰だと思っているの?そんなことより……ご立派になられましたね。もうすっかり城主様の顔をしておられますよ。」
「姉上に恥じない人生をと、今まで頑張って参りました。私がこの地位に就くことで、遠く離れた姉上を少しでも安心させられ、またなにかの時にはすぐに駆け付けられると思いましたから。……姉上、」
「うん?」
「あなたに、触れても構いませんか?」
城主の顔になったとはいえ、隆光はまだ齢十四。
普段接する忍たまたちと、そう変わらない年齢。
椿は優しく微笑み、そっと手を広げる。
「ええ、もちろん。」
「っ、姉上!」
隆光は壊れ物に触れるように、そっと椿を抱き締めた。
その瞬間、彼は少年だった頃に戻る。
今となっては自分より少し小さい姉の体。
触れたいと願ったその熱を隆光は愛おしく思う。
「ずっと、あなたの無事を願っておりました。会うことは叶わなくても、竹森を離れたとしても、姉上はずっと私の姉上であると、そう思っていました。姉上がいた頃の夢をよく見ます。あの頃に戻れたらどんなにいいかと……。姉上が一緒にいてくださったあの時の記憶が、私にとっては何よりの宝物なのです。」
隆光の震える体を椿も抱きしめ答える。
「私も……隆光と一緒にいた日々はなににも代えられない宝物です。いつでもあなたの無事を祈っておりましたよ。こうして再び会うことができて、あなたの成長を感じられて、姉としてあなたを誇りに思います。」
「姉上……」
「私たちの道は分かたれてしまいました。でもこれで良いのです。あなたは竹森をこれからも守っていってください。」
隆光は驚いたように椿から体を離し彼女の顔を覗き込む。
「姉上は……?」
「私はここで。忍術学園で自分の居場所を見つけましたから。」
「竹森には戻られないのですか?姉上が望むなら私は……っ」
それはある種、懇願のようなものだった。
また元の生活に戻れたなら、あの頃のように……いや、今の自分にはそれを叶える力がある。
望むものは、手に入れたいものはただ一つ、彼女だけだった。
椿さえ、頷いてくれていたのなら……
だが隆光の想いも空しく、椿は静かに首を横に振って答える。
「もう知っているはずですよ? ”竹森椿は死んだ”のです。戻ることはありません。私は今はもう、ただの”食堂のおばちゃん見習い”なのです。でも決して、あなたや竹森が嫌いで言っている訳ではないことは、わかってくださいね?」
彼女は清々しい程に綺麗に微笑んだ。
頬に触れる温かな手、それを握り返して隆光は姉の想いを受け取る。
これを覆せることなど出来ぬと、理解している。
もうずっと、前から……
「……わかりました……」
「隆光、いつでもあなたを想います。あなたが守る竹森が、これからも平和でありますように。そしてあなた自身も幸せを掴めますように。」
「私も、ずっと、姉上の無事と平和を祈り続けましょう。遠く離れていても、ずっと……あなたは私の姉上、それに変わりはありません。」
「はい……!」
秘めた願いは成就されることはなかった。
だがそれは彼女が望んだことであった。
意に反することは隆光の望むそれではない。
だから、これでいいのだ。
姉が幸せであるならば、これ以上望むことは許されない。
我儘を通して困らせたくはない。
「……ふっ」
隆光は自嘲するように笑った。
椿が不思議そうに首を傾げる。
「姉上を、ずっと、お慕いしております。」
嘘ではない。
彼女の動作があまりにも可愛らしくてそんなことを口走った。
嘘、ではない。
ただ、真意でもない。
始めから隆光は正解を言うつもりなどない。
小さな嘘を付いてきた、だから今まで通りその嘘を付き続ける。
ただそれだけだ。
椿も同じ言葉を返した。
それは彼女の本当、であるのだろう。
だから今一度、その言葉に隆光は霞をかける。
これ以上望みを膨らませないように。
「あのね、隆光。一つだけお願いが……」
「……なあ作兵衛」
「……なんだ三之助」
椿たちから離れた場所で三年生の二人は密かに言葉を交わす。
「ちょっとは、似ていたな。」
「まあ確かに、少しは似ていたかも知んねぇ。」
「サラッとした髪とか背格好とか?」
「笑った時の顔とかも似ていたかも知んねぇな。だけど、」
「「左門はあんなに美少年じゃない!」」
作兵衛と三之助は声を揃えた。
二人が話していたのは隆光のことだった。
以前椿が隆光に似ていると抜擢した左門、そして現れた本物を目にし、二人は同じことを思っていた。
「おーい、二人とも!なんの話をしているんだ?」
都合よく現れる左門。
二人は冷ややかな視線を送った。
それに気付かないのか、左門は構わず話続ける。
「なあなあそれより、あの殿様、僕にそっくりだったな?椿さんが言ってた通りだな。」
「んなわけあるか!あくまで、幼少期の隆光様に似てるってだけだろ!?」
「ん?じゃあ僕も成長すれば……」
「あのなあ、あの人とお前は一つしか歳が違わないんだぞ?きっと椿さんの思い込みとか、弟に対する美化が入っているとかに違いねぇんだ。」
「いいか左門、夢は見るな。」
諭すような作兵衛と三之助。
二人の様子を読み解いた左門は、やや冷ややかな視線を送った。
「……二人とも、嫉妬は良いものじゃないぞ?」
「「誰がするか、そんなもん!」」
「……神室さん」
樒は緊張した面持ちで声をかける。
神室は彼女にとっては上司であった。
長い間竹森を離れてしまった、きっと捜索もされていたのだろう。
最悪の場合、始末されてしまうこともあったのかも知れない。
神室が自分に対してどう対処するのか、いや今更逃げも隠れもしない。
椿が樒を庇ってくれた、隆光を救うことが出来た、それだけで樒は十分だった。
神室はしばらくの間沈黙し、やがて口を開く。
「……よくやった、な?」
「……え?」
予想もしないその一言。
見上げた先、神室の表情は穏やかなものだった。
「椿様が笑っておられた。それだけでわかる。……お前が何をしてきたかまでは知らない、だがお前があの方の笑顔を守ったことだけはわかる。」
「……」
「私たちは単に雇われた身ではない。主と定めた御方に尽くし共に生きる存在だ。少なくとも私は部下にはそう指導している。」
「神室さん、私はっ」
「樒、私はあの方に二度救われている。」
「え……?」
神室の言葉に樒は踏みとどまる。
それは神室の過去に関する興味であったのかも知れない。
椿の慈悲深い一面を知りたかったからかも知れない。
或いは語り出した神室の真意を知りたかったから、かも知れない。
「一度目は椿様が幼少の頃、私は誤ってあの方の命を危機に晒した。処罰を当然と思っていた私をあの方はなにもせずお許しくださった。当時の城主である隆影様に掛け合ってくださったのだ。二度目は桧山の企みを暴いた時、椿様の体に癒えぬ傷を付けた原因である私に、あの方は『生きろ』と言ってくださった。」
「……」
「あの方は罪を罰することを望んでいない。罰を下すよりも許すことの方が難しいはずだ、だがそれで生まれるものの大きさを椿様はわかっていらっしゃるんだろう。」
「生まれる、もの?」
「お前は椿様に許された時、なにを思った?『この方のために自分は存在する』と、『なにに変えてもこの方をお守りしなければ』と、そう思わなかったか?」
その通りだ。
樒の罪を許してくれた時、共に竹森を救う力になってくれた時、椿が自分の主君であると樒は心に刻んだ。
「椿様も隆光様も、我々をただの駒だと思っていない。共に生きる人として認めてくださっている。ならば我らのするべきこととはなんなのか。駒として働くこと?違うな、人として主人の心を支えることだ。」
「こころ……」
「それが時には正さなければならないこともあるだろう。だがそうやってお互いに成長し合えるものだと私は思う。さっきも言ったが椿様が穏やかに笑っていらしたことが、お前があの方の心を守ったのだと私は理解している。だからこれ以上、お前になにかを強いることは私があの方に背くことになるんだよ。」
「神室さん……」
「”生きろ”、樒。お前の罪に罰を与えるとしたなら、椿様はそう仰るに違いない。」
”勝手は許さない”
守るべき者のため己に刃を突き立てた樒は、そう彼女に言われたことを思い出す。
ああ、そうか、もうこの時既に椿は樒に罰を与えてくれていたのだ。
「神室さん」
二人の間に入り込んだ声。樒は振り向き、小さく息を漏らす。
そこにいた土井の姿に神室は懐かしむ言葉をかける。
「土井殿、お久しぶりです。この度は部下がご迷惑をおかけしたようで……」
「いえ、顔を上げてください。結果的にこちらも助けられたようなものですので。樒さん、君が差臼へ潜入する手助けをしてくれたと聞いたよ。ありがとう。」
「いえ、私はただ……椿様が私を信じてくださったから……」
「それがどんなに椿さんにとっての助けになったことか。私は彼女と君が良い関係を築けたらと願っていた。それも君の歩み寄りがあってこそ叶ったというもの。本当にありがとう。」
「ん……」
礼を言われ慣れていない樒はこれ以上何も言えず、土井から向けられる笑顔も直視出来ず、顔を赤らめて視線を逸らした。
彼女の様子に土井は微笑み、神室に向かい直ると言葉を続ける。
「それに神室さん、若君、お二人が忍術学園にお越しくださって良かった。できることならもう一度、椿さんに会わせてあげたいと思っていましたから。」
「はい、それは私も同じ想いです。あんなに嬉しそうな隆光様は久しぶりに拝見しました。」
椿が隆光と神室をどう想っているのかを土井は知っている。
不本意な別れ方をしてしまったと未練を残す彼女に二人が元気な姿を見せることができたなら、きっと椿も納得するだろう。
自身が竹森の地を踏むことは二度とない、だから早馬を出した学園長にも、駆けつけた二人にも土井は感謝を示した。
それは神室も同じ想いで、姉を想う隆光の願いを叶えたいと思っていた。
椿を見つめる隆光の目に、神室は今回の訪問を心から喜んでいた。
「あの……土井、先生……」
声をかけたのは樒だった。
その表情は一転して暗く、少し心配になるくらいである。
彼女は精一杯、言葉を紡いでいるようにも見えた。
「その……か、体の方は……?」
「うん、君の解毒剤が効いてくれたらしい。もう大丈夫だよ。」
「っ……、申し訳ありませんでした!」
樒は頭を下げて詫びた。
それは毒を盛ったことを意味するのだろう。
だが今となっては、土井には彼女の行動を責める気はない。
仮に同じ立場であったなら、自分も同じことをしたに違いないからだ。
「君は、君の思うことを成し遂げたかった。ただそれだけだろう?私に君を責める気はないよ。君の行動は理解できる。大切な人を守りたい、ただそれだけだったのだからね。」
「っ、……はい……」
「それに、私も同じさ。守りたい者のためなら、どんなことでも出来る。」
土井が目に写すのは椿と一年は組。
皆を見つめるその瞳はとても優しい。
「守りたい者がいる人間は強くなる。それが例え間違った道であっても、その大切な人が自分の過ちを気付かせてくれる。それって、とてもありがたいことだと思うよ。お互いに支え合うってことだからね。」
それは樒のとっての隆光や椿であり、土井にとっては椿であるということなのだろうか。
彼女が誤った道を選ぼうとした時、土井はそれを正しに来た。
今ならわかる、彼の行動に樒は感謝を告げた。
「……ありがとう、ございました。」
土井が椿を救うという行為が、結果として樒と竹森をも救った。
このことは隆光の耳にも入れるべきことであろう。
そして、椿と土井が互いを想う気持ちも、同時に隆光を安心させる要素なのかも知れない。
樒は心からの礼を示し、その胸を撫で下ろした。
土井はそれを受けて、擽ったそうに笑った。
「やはりあなたは私が見込んだ御方であった。」
それまで黙って話を聞いていた神室が目を輝かせる。
「神室さん?」
「椿様のことをそのように想ってくださっているとは……土井殿、これからは私に変わり椿様をお支えくださるのですね?」
「え!?いやあの、」
「みなまで言わずともこの神室、理解しております。安心致しました。あなたになら椿様をお任せできると言うもの。椿様のお幸せこそが私の悲願でございます。」
熱く語る神室に押され土井は何も言えなくなってしまう。
樒も神室の側で何度も頷き同調を示した。
椿への想いは誰にも言っていないし、樒はともかく神室の前でわかるように表に出したつもりもない。
それなのに久々に会った神室にそう指摘されると、今まで隠せていたのかどうか急に自信がなくなった。
恥ずかしさとこれ以上話を広げないようにしなければとの緊張から、背中を嫌な汗が流れる。
「土井殿、どうかこれからも椿様をよろしくお願い致します!」
「わ、わかりましたからっ。あまり大きな声で言わな……」
「なんのお話ですか?」
割り込んできた明るい声、椿であった。
彼女の登場に土井の心臓は飛び出る。
神室が何か言おうとしたのを土井は必死に制した。
「なななんでもありません!!」
「土井先生に椿様をお願いしますという」
「樒さんっ!!」
「?」
樒の口まで塞ぐ余裕はなかった。
彼女がそんなことを言うとも考えにくかったのだが、椿絡みのことには樒自身も気付かない程に暴走してしまうようだった。
土井の苦し紛れの苦笑いに椿は小首を傾げたようだったが、彼女は彼女で何か用があったらしい。
「あのね、樒ちゃん」
「はい」
「あなたを竹森に帰すと約束したこと、叶うみたいだよ。」
「え?」
「隆光にお願いしたの、あなたを再び竹森に受け入れて欲しいって。」
椿の隣りに隆光が進み出る。
樒は驚きを隠せない顔で彼を見る。
「元より私はお前を捨てたりはしないよ。戻って来い、樒。ただ……」
「隆光?」
「なにもないというのもお前自身が納得しないであろう。だからこれはお前への罰だ。生きろ、樒。生きて私の支えとなれ。」
「隆光様……!」
隆光は”生きろ”と言った。
それは椿の罰そのもの。
瞬間、樒は隆光への誓いを立てる。
生きて、彼を支えること。自ら死を望まないこと。
隆光と、椿の罰を樒は深く胸に刻んだ。
隆光の言葉に安心したように椿は笑う。
「神室もいいよね?」
「異存はございません。私は隆光様と椿様の御意思を尊重いたします。」
「うん!」
樒に注がれる視線はどれも温かい。
こんなことが起こりうるなど、誰が予想出来たであろう?
二度と帰れないと思っていた、竹森が無事ならば自分はどうなっても構わないと思っていた。
樒個人の願いなど誰も拾いはしないのだと、諦めていたのに。
椿はそれを当然のことのように受け入れる。
感謝という言葉では言い表せない程の想いが樒の中に膨らむ。
胸が苦しい。
「ありがとうございます……隆光様、椿様……ありがとうございます……」
「あなたは友達だから。私の大切なお友達。だからまた前みたいに”椿”って呼んで欲しいな。」
椿の発言に神室が焦ったように反応する。
「椿様っ、それはさすがに……!」
「私はもう、そう呼ばれるような人じゃないの。神室だって普通に呼んでくれていいんだよ?」
「いえ!私にとっては今までもこれからも”椿様”ですので!」
神室の頭の固さに椿は頬を膨らます。
隆光や土井が笑いながら神室を茶化しているところで、椿は樒にだけこっそりと耳打ちをする。
「ね、お願い。」
それにくすぐったくなりながらも、樒は椿の希望に答えようとした。
彼女を欺き嘘で固められた自分を、なおも友として見てくれている。
椿は隆光と同様の守るべき存在、ならばその心を支えることができるとしたら、樒の取るべき行動は決まっている。
高ぶる感情は抑えが効かず、顔はぐしゃぐしゃである。
「っ……、椿」
「うんっ!」
椿は樒に抱き着く。
ギュッと強く、離れない絆を結ぶように。
「ずっとお友達だよ。樒ちゃん。」
「うん……!」
「土井先生」「土井半助」
同時に顔を出した利吉と尊奈門に土井は思わず後退る。
問い詰めるようにじっとこちらを睨みつける目に、土井は少し心当たりがあった。
「説明していただけるのでしょうね?」
「差臼での発言、聞き捨てならないな?」
「待ってくれ、二人とも、落ち着いて話そう?」
利吉のことは知っていたがそれに尊奈門も加わるとは予想外だった。
彼女の魅力を考えたら無理もないことではある。
厄介なのは当の本人がこの騒ぎに入って来てしまうこと。
まだ自分は彼女自身に打ち明けてはいない。
利吉を見つけ嬉しそうに声をかける椿に、男同士の会話を聞かれたくはないと思ってしまう。が、
「利吉さん」
「椿さ」
「千姫を無事に送り届けてくださったのですね!ありがとうございました!でもお戻りが随分お早かったので驚いてしまいました。」
興奮した様子で彼女が捲し立てるものだから、利吉は土井との真相を聞くきっかけを逃し、土井は難を逃れたと胸を撫で下ろす。
恐らくそれは利吉らにとっても想定外のことのようで。
「あ、ええ……それはですね、」
「これはこれは皆さん、出迎え感謝致します!」
突然割って入った声は皆の注目を集めることは容易かった。
目を向けると、紫の装束の集団が派手に帰還を告げている。
「容姿端麗にして教科も実技も学年一、学園のスター平滝夜叉丸、千姫様を無事に堀殻城へとお連れし、ただいま戻って参りましたぞ!」
「滝夜叉丸!さも自分だけの功績のように語るな!アイドルと言ったらこの私!田村三木エも」
「あ、四年生戻りましたぁ~。」
滝夜叉丸と三木エ門の争う声を気にする素振りも見せず、喜八郎がなんとも間の抜けた声で場を収める。
気になるのは千姫を堀殻に連れて行ったという点。
椿は利吉を見上げ説明を求めた。
「つまりですね私が千姫を連れ出た後、立花君と潮江君、そして四年生たちに合流。四年生たちに千姫を引き渡し、六年生の二人と共に再び差臼に戻ったという訳です。」
仙蔵が会話に入り込む。
「四年生には千姫を堀殻城へ連れて行ってもらっていたのだ。私と文次郎は堀殻城主より予め密書を受け取っていた。先程、差臼普墺に突き出したあれだ。」
「だから利吉さんの戻りが早かったのですね。だけど……予め密書をしたためるなんて、堀殻城城主様がよくそんな仮約束を信じてくださいましたね?」
「その点においても心配はない、椿姫」
少し離れたところから雑渡が声をかける。
彼の元に一人、タソガレドキ忍軍が寄る姿が見えた。
「堀殻には我々が先に話をつけてあった。協定書を結ぶにあたりこの後訪れるであろう忍術学園のことを信じて欲しい、と。ご苦労だったな、山本。」
「はい。堀殻城よりただいま戻りました。」
なにもかも雑渡の計画通りに事が動いていたことを知る。
雑渡という男、味方に付けばこれ程頼もしいこともないが、敵に回せばどれ程に恐ろしいことだろう。
学園長とは違う意味で尊敬に値すると椿は感じた。
山本と呼ばれた男はこちらを見ると懐かしむような、少し嬉しそうな表情を見せた。
「お、元気だったか、兄さん。いや、今はもう違うか。」
「?」
視線が交わったのは樒だった。
だが彼女も山本に対しての反応は薄い。
知り合いなのかと聞く椿に樒は否定を零す。
それに残念そうな声を漏らす山本。
「なんだ覚えてないのか?兄さん。」
「??…………………………! お前は!」
山本から読み取れる少ない情報、目元と声色、それで樒は思い出す。
椿を探していた頃、港町で出会った凄腕の情報屋、それがこの山本という男だった。
彼女から依頼を受ける素振りを見せつつその実、彼女自身を操作していた。
情報屋と交信する時はいつも互いに声のみの接触であった。
だから樒はこの情報屋がどこの誰なのかは知らない。
ただ、差臼城で須黙、雑渡に会った時、彼は何故か樒を知っている風だった。
それが唯一引っ掛かってはいたのだが、まさか全ての黒幕はタソガレドキ忍軍であったとは。
樒は知らずの内にタソガレドキの駒となって動かされていたのだ。
彼女の反応に山本の目元は弧を描く。
「あんた、やっぱりそっちの方が似合ってるよ。男装も様になっていたけどな。」
「だ、黙れ!何も言うな!」
「樒ちゃんが男装?」
「なんでもない!」
恥ずかしがるようにムキになる樒と意外にも優しく笑う山本。
雑渡は山本に口説くなと釘を刺した。
土井は雑渡に向き直る。
「雑渡さん、あなたは椿さんが差臼に行くようにわざと仕向けた。樒さんを泳がせ、彼女たちを差臼に潜り込ませることが初めからの目的だった。そうですね?」
「土井先生、どういうことですか?」
「タソガレドキがいくら差臼と不仲と言っても、戦以外で決着を付けるのは難しい。だからタソガレドキが迎えるはずだった姫君を差臼に奪わせる必要があったのさ。そうすればタソガレドキが姫君を取り返すという口実が生まれるからね。戦を起こすには十分な理由だ。」
タソガレドキは差臼を大人しくさせたい。
調査の結果、周辺の国々も差臼に対して同じような考えであった。
彼らはそれを利用した。
タソガレドキが率先して今回の協定を結ぶことによって、自分たちの思うように事を進めることも可能となる。
馬印堂は元より、堀殻も武力にばかり頼る国でもなかった。
タソガレドキが、自分たちに全てを任せてくれるなら穏便に済ませよう、とでも提案したのであろう。
「でも雑渡さん、竹森の姫はもう存在していませんのに、どうしてそのようなお話が出来たのですか?」
竹森の姫君をタソガレドキに迎え入れる、雑渡は確かにそう言った。
だがそれは椿のことに他ならない。
自分以外に竹森の姫など、いないはずであった。
あるいは知らないところで存在していたのかと、隆光と顔を合わせ確認しようとするが、彼もまた否定を口にする。
雑渡はそんな二人を見て目を細めた。
「ああ、それね。それ、ハッタリだから。」
「え!?」
「タソガレドキが竹森の美姫を迎えるなんてハッタリに決まってるでしょ。既に姫は存在していないのだから。だがこれを利用させてもらった。差臼普墺が竹森の美姫を欲していることはこちらの耳にも入っていたことだったのでね。」
「ハッタリ……」
「差臼普墺が我々と竹森の関係をこじつけだと言うものだから、私も少し……意地になってしまったようだ。」
まさかの回答に拍子抜けする。
複雑な考えがあったのかと思いきや、ただの博打であった。
……まあ、彼らは忍び。時には堂々と嘘を付くこともあるのだろう。
結果としてその脅しが効いたのだから良かったと雑渡は零していた。
樒は雑渡に問う。
「私が差臼に使われていたことも、始めから知っていたと?」
「勿論だ。ただ、君からの情報じゃない。井頭、梨栗は以前から警戒していた相手。奴らが新たに加わった君のことを零していたことを我々は知っている。その君が椿姫を探していたとなると、答えは一つ。君が竹森の人間であるということだ。君が堺の港で接触したこの山本、そうなるように仕向けたのも我々だ。」
「……」
「君にこちらの存在を知られてはいけない。だから千姫護送の際は君の指示に従う振りをした。君たち差臼側が本物を攫う裏で、我々は椿姫の回収に失敗しなければならなかったのだよ。差臼の準備を遅らせるようにするため、そして忍術学園がこの真相に気付く時間を稼ぐためにね。」
「あ……」
だから雑渡は椿を助けてくれたのだ。
差臼普墺に近付くため、諸国と連携を結ぶため、そして忍術学園に敵ではないと知らせるために。
牛車を襲ったのも樒を信じ込ませる芝居だったということだ。
椿を差臼に送り込むことなど造作もない。
放っておいてもやがては樒が直接連れ出すだろう。
焦り苛立ち、それが生じた人間は本来の力を発揮出来はしない。
どこかに隙が生じる、そこがタソガレドキの攻め処という訳だ。
やっぱり雑渡さんは敵じゃなかった。
そして尊奈門さんも。
彼らを疑うことのなかった椿の心が癒される。
情報収集のため、差臼と直接の接触を避けるために椿に尊奈門を付けていたが、それは役不足だったかなと漏らす雑渡。
必死に釈明を施す尊奈門に椿の温かい微笑みが贈られる。
それに気付いた彼は顔を真っ赤にして高坂に揶揄われていた。
雑渡の隙のない回答。
相手を利用していたはずの自分が、まさか相手に利用される側だったなど寝耳に水だった。
何も言えない樒に神室は、まだまだだなと言う。
「……だがハッタリをかました理由は二つある。一つは土井先生の言うように戦をちらつかせることで、圧倒的な戦力差を見せつけ差臼を組み敷くため。もう一つは……」
言葉を止めた雑渡は椿をじっと見つめる。
「?」
「君の覚悟を見るため、かな。」
「私……?」
「あの場で初めて明かした覚えのない事実、それを目の当たりにした君がどう出るか。とても興味があった。」
彼女の凛とした態度は雑渡を喜ばせた。
竹森と縁を切ったとは言え、彼女はやはり竹森の人間なのだ。
奥底に眠る誇りは失われてはいない。
皆の注目を集める椿は顔を赤くしながら恥ずかしそうに言う。
「あ、だって……雑渡さんが嘘を言うとは思っていなかったですし、竹森を名乗った以上の覚悟というか……こ、心構えみたいなものがあったというか……」
「ふ~ん?嬉しいね、私のことを信じてくれていた訳だ?」
「それは、だって、雑渡さんも私を信じてくれたじゃないですか。雑炊、食べてくれたから……だから信じたいって思ったんです。」
こちらが仕掛けるために彼女を利用した雑炊。
それを彼女もまた、自分を信じる理由として捉えていた訳だ。
「でも、良かった……ハッタリだったんですね。」
タソガレドキに呼ばれていたわけではない事実に椿はホッと胸を撫で下ろす。
「なんなら、本当に来るかい?」
「え?」
「嘘も真になるというもの。君なら歓迎するよ。なにより君のこと、気に入っちゃったからね。」
恭しく手を差し出す雑渡。
それを阻止しようと幾重にも声が重なり降り注ぐ。
「雑渡さん!」「組頭!」
その数の多さに驚きながらも納得するのは彼女の人柄によるものだろう。
尊奈門に『惚れたな』などと言いながら自分も惹かれているところがあるなど、軽々しく言えない。
「お気持ちは、嬉しいです。でも私、一緒には行けません。この忍術学園が私の帰る場所なんです。」
「椿さん……」
「だから、またぜひ遊びに来てくださいね。皆さんも。」
「ふられましたな、組頭。」
「煩いよ山本。」
笑いが起こり場が和む。
本気、だったんだけどなぁ……
雑渡は誰にも悟られないように、憂いを帯びた瞳をそっと椿に向けていた。
「さて、全て解決したじゃろうか。」
学園長が姿を見せた。
戸津や多くの忍たまもぞろぞろと姿を見せる。
「学園長先生」
「竹森城城主様、ご足労頂き誠にありがとうございました。ささやかではありますが、どうか忍術学園らしいおもてなしをさせて頂きたいと存じます。」
学園長は乱太郎ら一年生に目を向ける。
「さあ、こちらへどうぞ!忍術学園自慢、食堂のおばちゃんの手料理を用意してあります!」
「僕たちもお手伝いしました!」
一年生全員が声を揃える。
丁度陽も暮れ腹も空いてくる頃、椿は隆光の手を引いて輪の中に誘う。
「行こう!隆光!」
「あ、姉上っ!?」
「ほら、樒ちゃんも!」
同じ年頃の子供たちと接する機会の少なかった隆光。
だから少しでも良い経験となればと椿は学園のもてなしを嬉しく思った。
神室や戸津、そしてタソガレドキ忍軍にも忍たまたちが群がり食事の場へと誘う。
学園長室の前の開けた場所、そこに敷物を敷いたりどこからか持ち寄ったもので簡単な腰掛も用意してあった。
様々な料理が出揃い、美味しそうな香りが腹の音を誘う。
元々大人数であった忍術学園だが、今宵はさらに人を増やしまさに大宴会といってもいい形となっていた。
忍たまたちは椿を始め全員が無事に戻ってこれたことを喜び、教師たちはその働きを褒めた。
土井は先程の続きのように、またしても利吉と尊奈門から詰め寄られていたようだが、神室を間に挟んだことにより事態は面白いーーいや、ややこしい方向へと向かっていた。
戸津は雑渡とともに両国についての意見交換をしているようだった。
山本や押都、学園長らも加わりまさに大人の会話を醸し出している。
「ん?……あ!キジコ!」
三次郎が日が傾いた空を指さす。
一つの影が羽音をたてて舞い降り、生物委員の面々はそれを嬉しそうに囲った。
「キジコ、よく帰ってきたな!」
「キジコ~、勝手に出て行ったらダメじゃないか。」
熱烈な歓迎を受けながらも当のキジコは、地面にこぼれた飯に夢中な様子で啄んでいる。
「良かった、これで全て元通りだな。」
八左ヱ門の言葉に皆が安心したように笑った。
全て元通り、何一つ欠けることなく、忍術学園は本来の形を取り戻していた。
椿は隆光と樒から離れなかった。
彼らとこのように過ごす夜はもうない。
それをわかっていたから、この瞬間を胸に刻みたいと願った。
黙っていても明日はやって来る。
それぞれが違う道を歩む明日は来る。
きっと今日という日の記憶がいつの日か、心を支える力になる。
別れることはつらい、でも、これは前に進むための別れ。
歩む道は違うけれど、共に過ごした時間を糧として再び己が道を向くことが出来るだろう。
彼らなら、自分なら、そう出来ると信じている。
繋いだ手の温もりを忘れない。
距離は離れていても、心はすぐ側にある。
そう願いを込めて椿は笑顔を咲かせた。