四章
あなたのお名前は?
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出会った時のことを今でも覚えている。
教え子のことを嬉しそうに話すあなた。
柔らかい雰囲気を纏い、落ち着いた大人を感じた。
私の正体を知っても、変わらず接してくれた。
何かあった時にはいつも一番に駆けつけてくれる。
誰かを守ろうとする強い心も知っているけれど、練り物を前にした時の弱さも知ってる。
その違いに気付いた時、なんだか可笑しくて愛しくて、笑っちゃったな。
あなたは少し恥ずかしそうにするけれど、私は色んなあなたを知れて嬉しかった。
だんだんと、あなたの前で素直になれる自分に気が付いたの。
今のこの気持ちをなんと言ったらいいだろう。
ごめんなさい。
ありがとう。
愛しています。
ああ、世界はこんなにも美しいのですね。
刀を持つ手の感覚がない。
視界は閉じられ暗闇の中。
周りの音も、聴こえない。
私、死んだのかな……?
死への恐怖がないわけではない。
だけど守りたい存在がいる、それだけで人はこんなにも心穏やかになれるものなのだと知った。
今の椿は自分の愛する者たちへの想いで溢れている。
愛には実体がない。
だからこそ、永遠のものとなるのだろう。
椿の母が椿の中で生き続けたように。
体が朽ちても意思は消えない。
この気持ちは椿だけのもの。
永遠に変わらない、不変の愛。
母上……
あなたもこんな気持ちだったのでしょうか?
最期まで愛する者を想う心。
その幸せが今の椿にはわかる気がする。
五感を失ったと、そう思っていた。
気付かないほどの時間の中で、体は魂を失ったのだと。
そう思った。
だけど……
たった一つ、終わらない音。
生きている音。
これは、誰のもの?
熱を感じる……?
自分ではない、なにかの熱。
それは力強く椿の冷たい手を包んでいる。
?????
これは、夢、なんだろうか……?
体に少し力を入れてみる。
瞼が反応を示した。
動かせる……?
ゆっくりと視界を開く。
眩しいほどの白い世界、でも、なにかがそこにある。
まだ私は、何かを感じることができるの……?
白い世界に大きな影。
遠くにあるのか、手を伸ばせば届くのか、わからない。
ぼやけた視界が色を取り戻して行く。
大きな、闇夜を映す色の影。
いや、それは意外な程すぐ側にあった。
それは人の形を成していた。
誰かの、背中。
誰……?
……ううん、違う……私はこれを……この背中を、知っている。
視界が一気に広がる。
正体を知りたいと思った瞬間、椿は己の目がそれを認識していることを知る。
まるで雲の中にいるように白く霞む世界。
風の流れが椿の頬を撫でる。
だが彼女が見えるものはその背中だけ。
先程まで自分を囲んでいた大勢の男たち、その誰一人として見当たらない。
樒も三郎、雷蔵も、いない。
ただ一人、目の前の人物だけが彼女が認識できる世界の全て。
「……っ」
体が自然と反応し、深く息を吸い込んだ。
熱に包まれた手は、徐々に体温を取り戻して行く。
「どう、して……」
声が出せたことに驚いた。
だがそれだけではない。
椿の声にその背中は反応を返した。
耳が感じ取る、優しい声色。
まだこの世界にも音は存在していた。
「言ったはずだろう?」
「?」
「これ以上、君に傷は付けさせないって。」
「ぁ……」
かつて、自分を庇い倒れた姿が脳に蘇る。
まだ完全に回復していないはずなのに、そんな体で、こんなところまで……
自分がした約束を守ろうと、こんなところにまで来てくれている。
手元に視線を移す。
小刀を握る彼女の手を彼の手がしっかりと包み、その刃が肌を貫くことを許さない。
椿を守る大きな手。
その事実が、必死に保ってきた鉄の心を打ち砕く。
椿が力を抜き小刀が軽い音を立てて床に落ちた。
「どい、せんせっ……」
あなたに会いたい。
その願いが成就されたかのように、土井は椿の前に姿を現した。
振り返る表情はいつもの土井で、それは彼女の好きな顔。
柔らかく優しく微笑んでくれている。
流れ落ちる涙。
その熱さに気付いたが最後、溢れるものを止めることは出来ない。
「本当に、君には驚かされてばかりだな。」
「っ、土井先生!」
駆け寄って、あなたに触れて、これが夢じゃないって、どうか証明して。
触れる布越しの大きな胸、背中に回された逞しい腕、髪にかかる吐息と優しい声。
しっかりと抱きとめてくれるそれは、夢でも幻でもない。
「遅くなってすまない。私はいつも、君に追いつくのが遅れてしまうな。」
その胸に顔を埋めて、首を横に振るしか出来ない。
勝手な行動をして謝らなければならないのはこちらなのに、彼のその言葉だけで自分が許されているのだと知る。
「ごめんな、さい……ごめんなさい……」
「うん……」
落ち着かせるように背中をポンポンと叩く。
それはもう大丈夫だと静かに教えてくれている。
「椿さん、よく頑張ったね。」
「っ、はい……」
彼女が落ち着く様子に安心すると、土井は椿から視線を外し前方を睨みつける。
二人を包んでいた白い靄が徐々に薄れ、彼が見据える先にいたのは差臼普墺の怒りの顔。
そうだった、私は今、差臼城の中心にいる。
そして樒ちゃんを助けようとして……
椿も本来の使命を思い出す。
土井が助けに来てくれたことに甘えてしまいそうな自分を奮い立たせる。
また彼に救われてしまった。
そう感謝をする暇もなく、今は現状の問題を解決しなければならない。
差臼普墺は突然現れた土井に焦りと怒りを隠せないように見える。
「なんだ貴様は!?これは一体、どうなっておる!?」
同じように椿も周りの様子を確認しようと、すぐさま辺りを見渡した。
が、広間の様子は先程までと打って変わっていた。
差臼の精鋭たちは皆、地に伏せるように組み敷かれ、それを支配していたのはまだ若い顔、そして見知った大人たち。
捕らわれていた三郎と雷蔵は八左ヱ門に支えられ、井頭を抑え込んでいるのは木下である。
雷蔵が嬉しそうに声を出す。
「八左ヱ門!木下先生!」
「おう、遅くなって悪かったな。」
「お前たち、よくぞ耐えた。」
木下は顔に痣を作ることになった三郎たちを憂う。
三郎と雷蔵は顔を合わせて互いの無事を喜んだ。
彼らだけではない。
良く見ると忍務に出かけたまま会えていなかった、六年い組、は組の姿も確認できる。
「みんな……!」
来てくれた……!
その表情はいつもの椿で、今のこの瞬間だけは彼女は食堂のおばちゃん見習いに戻っている。
そう感じた一行は安心から顔を綻ばせた。
「椿、私たちが留守の間にこんなことになっていたとはな……」
「ああ……、ったく、世話の焼けるお姫様だよなお前は。」
「よーし!あとはあいつをぶっ飛ばせばいいんだな!?」
「……モソ……椿、無事でなによりだ。」
「遅くなってごめんね椿ちゃん、でも間に合って良かった……!」
「椿、お前の居場所はここじゃない、忍術学園だ。すぐに片を付けて帰るぞ。」
「……うん、……うんっ!」
先程まで、一人で戦わなければと思っていた。
借りられる手などないのだと、ただ大切なものを守るためにこうするしかないのだと。
自分に言い聞かせて、妙に納得もして受け入れて。
でも彼が、彼らが、まだ救いがあると示してくれた。
必ず助けると皆の顔がそう言っている。
忍たまの皆、教師たち。
まだ諦めるな、そう言う彼らの存在は心強い。
闇に囚われた椿の心は、すっかりと光に浄化されていく。
土井と、そして忍術学園の面々が樒を安心させた。
椿を救ってくれた、この場に来てくれた、それだけで十分だった。
これでもう、椿が危険に晒されることはない。
信頼できる仲間、その存在がどれだけ大きく頼もしいことか。
竹森の仲間たちを思い出す。
神室、愁、そして隆光。
自分にとっての彼らが、椿にとっては忍術学園そのものなんだ。
ありがとう……
もう、大丈夫だ
しっかりと椿の手を握る土井の姿に、樒は小さく呟いた。
広間の中央では土井と椿が差臼普墺と向き合っている。
土井は高らかに宣言する。
「貴殿を差臼普墺殿とお見受けする。この場は忍術学園が制した。抵抗されることなく、貴殿の投降を求める。私は忍術学園の一教師、土井半助。そしてこの方を慕う、ただの男だ。」
「ど、土井先生っ」
土井は椿を引き寄せ、そう言い放った。
騒めいたのは可笑しくも、六年生を中心とした忍術学園の連中だ。
皆がいる前で、そんなことを宣言する必要はないのに。
彼女は顔が赤くなるのを抑えられない。
「……言ったよ。」
「言ったな……」
「まったく、長引かせおって……」
そんな声が椿の耳にも届いた。
何故だか恥ずかしくて皆の顔が見れない。振り返られない。
そっと彼を見上げる。
周りの声など耳に入っていないように、ただ真っ直ぐと差臼普墺を見つめる土井の視線。
なんとも綺麗な横顔に、見とれてしまう。
「最早抗うことに意味はない。我々の望みは貴殿が起こそうとしている戦から手を引いてもらうこと。そして貴殿に奪われた者の解放だ。」
「……ふざけるな。」
「!!」
差臼普墺は素早い動きで梨栗を突き飛ばし、樒を捕らえると彼女の喉に刃を当てた。
「近付くなよ?こいつがどうなっても知らぬぞ?」
差臼普墺は椿の弱みが樒だと感づいていた。
彼女は樒を解放することを一番に望んだ、ならば樒が死ぬことは最も避けたいはず。
相手が忍術学園だけだったなら迷いなく樒は捨てられただろう。
だがそれを望まない椿は彼女の命を乞う。
起死回生の一手だと、そう思った。
だが、
「……」
椿は沈黙した。
慌てるどころか、妙に落ち着いている。
憐れむような視線を向けられ、差臼普墺は違和感と焦りを拭えない。
なんだ、その目は!?
もっと慌てふためけ!貴様にとっての大事な命を儂は握っているのだぞ!?
「……は、はははははっ」
突然樒が笑った。
差臼普墺が少しでも力加減を間違えれば、自分が死ぬかも知れないこの状況の中、彼女は笑った。
「な、なにがおかしい!?」
完全に想定外の出来事に、差臼普墺は冷静さを保つことができない。
樒は喉元に当てられた刃の冷たさを感じないのか、そのまま差臼普墺に言葉を吐き捨てる。
「もう、お止めください。わかりませんか?私を人質に取ったつもりでしょうが、あの方にはもう通じませんよ。」
「なんだと!?」
「甘く見ないでいただきたい。あの方は私の……、私がお仕えする竹森椿様なのですから。」
「貴様……!」
差臼普墺の目論見は外れた。
樒は椿を信じて疑わない。
彼女を殺すことは差臼普墺には簡単だった、だがそうしてしまうと彼に降り注ぐ難を逃れる術はない。
部下たちを忍たまたちに抑えられ、井頭、梨栗も使い物にならない現状、差臼普墺に差し伸べられる手はどこにも存在しない。
「差臼様」
「!!」
椿が前へ進み出る。
落ちぶれた姫だと、ただの小娘だと思っていたのに……!
彼女が纏うものは本物の姫君のそれであり、忍術学園という兵を引き連れたその姿はまさに、戦場を颯爽と駆け抜ける白馬の如し。
眩さに目が眩む。
「堀殻、馬印堂、両城から手を引いてください。」
「来るな!!……お前、これが見えないのか!?この女が死ぬぞ!?」
椿に樒を見せつけるように前に押し出す。
樒は抵抗することもなく、また椿も表情を変えることはなかった。
死というものを恐れる姿勢を見せない彼女らが、差臼普墺にとってはとても恐ろしいものにさえ思える。
「差臼殿」
差臼普墺と椿、その中間に突然現れた影。
土井は咄嗟に彼女を守る姿勢を取る。
様子を見守っていた忍術学園の面々も、驚愕の表情を見せる。
差臼普墺は、これは機が再び訪れたと口角を上げた。
「須黙!今までどこにいたのだ!いや、この際そんなことはどうでも良い!早くこの場を収めろ!お前の部下たちに、この連中を捕らえさせろ!!」
須黙と呼ばれた大きな男は何も答えず椿をチラリと見た。
須黙……!
得体の知れないこの男の登場に樒は焦り始める。
もしも須黙の部隊がこの場に現れたなら、戦況は覆されるかも知れない。
だが彼女とは違い忍術学園側から感じられるのは困惑のみ。
樒にはそれがなぜかわからず、ただ目を見開いて見守ることしか出せない。
命礼を聞いたにも関わらず、動く様子のない須黙に差臼普墺は苛立つ。
「何をしている!!早く、その女を捕らえろ!!」
須黙は椿と見つめ合ったまま、何もしなかった。
驚きを隠せない顔で彼女はそっと声をかける。
「……どういうことですか?…………雑渡さん……」
「何!?ざ、雑渡、だと……!?」
その名を、差臼普墺も聞いたことがあった。
宿敵タソガレドキ城の、凄腕の忍び。
椿の問いに答えを出さない須黙。
差臼普墺は戸惑いながらもまだ、彼女の言葉がデタラメであると信じようとした。
雑渡……!?
椿様は……忍術学園は奴と面識があるのか?
同じくして樒にも訳が分からない。
彼が敵なのか味方なのか、そこから出される言葉次第で手の内にある竹森の毒を使うかが決まる。
緊張が背中を駆け抜けた。
須黙は溜息を吐いたように一度瞳を閉じた。そして椿に向かい人差し指を口の前に立てる。
何も話すな、見ていろ、そう言っているようだった。
「な、なにを馬鹿なことを言っている!?タソガレドキの人間が、この場にいるはずがなかろう!?」
「果たしてそう言いきれるものだろうか?」
「なんだと!?」
「話ならば、私が彼女の代わりに引き受けましょう。差臼殿。」
開き直ったようなその態度に、差臼普墺の中での確たる意思は崩れ始めた。
須黙という人物は初めからいなかった、目の前にいるのはタソガレドキ忍軍の雑渡昆奈門。
全てを手に入れるはずであった差臼普墺は、その事実を認めたくはない。
「お前は一体、何者なんだ!?……タソガレドキだと!?儂を、騙していたのか!?」
「騙す、とは?私はただ、私の仕事をしていただけに過ぎない。便宜を図るため別の名を使ったりはしたが……。私にとっては貴殿の都合など、関係ないのだよ。」
それを”騙す”と言うんじゃないのか……?
土井は雑渡の背中にツッコミを入れつつ、少し涙目になりながら雑渡を追って来た様子の尊奈門に目をやった。
彼は何故か椿の隣りに立ち、二人はこそこそと会話を始めるのだが、土井はそれが気になって仕方がない。
「尊奈門さん、どういうことなんですか?」
「私だって全てを聞かされたわけじゃない。ただ、私もお前も、そして差臼普墺も、組頭が任された忍務の一部に組み込まれた駒でしかないということだ。」
「駒……?」
「我々の忍務は初めから差臼の動向を把握し、その進撃を止めること。そのために椿、お前や樒とかいう娘を使う算段だったという話だ。」
「尊奈門君……もっと早く言ってくれればいいのに……」
「だからっ、私も詳細はさっきまで知らされていなかったんだ!それに、なんでお前に言わなきゃならないんだっ土井半助!」
尊奈門の残念っぷりが露見し、土井は少しだけ同情した。
雑渡は懐から書簡を取り出した。
それを広げ、差臼普墺の目前に突き出す。
「これはタソガレドキ城、堀殻城、そして馬印堂城による協定書である。これらの城は全て、差臼城の如何なる侵害、侵略行為をも認めない。これらが侵された時、両城は直ちに武力を行使する。」
「!?」
「簡単に言えば、皆仲良くなったからいじめには制裁食らわすよ、ってこと。既に全ての城主からサインは貰ってある。あとはこれに貴殿がサインをすれば全て終わる。」
「馬鹿な!堀殻が馬印堂などと手を組む訳がなかろう!?」
「ところがそうでもない。」
話に入って来たのは山田だった。
雑渡は静かに彼の言葉を待つ。
「千姫の存在をお忘れか?貴殿が椿さんに
「デタラメを申すな!堀殻が馬印堂を取り込みさえすれど、手を組む利益などあるはずがない!」
「ではそれを証明すれば納得いただけるだろうか。」
山田の隣りに影が降り立つ。
「利吉さん!」
それは千姫を堀殻へ送りに出た利吉の姿。
この短期間で堀殻と差臼を往復したというのか?
千姫を連れていたのだから、それはあまりにも無理に思えた。
「私が千姫を堀殻へ送り届けた。そしてここに、堀殻城城主直筆の書簡がある。立花君。」
「はい」
仙蔵は懐から取り出したそれを、差臼普墺に見えるように広げた。
「これには、”千姫を迎えた暁には、馬印堂と友好な関係を築くこと。互いの国を尊重し、助け合う。”と、記されている。ご覧のように城主の署名も書かれており、これは正当なものと認められる。」
どうして仙蔵が……
そう考えた椿はハッとする。
目が合った仙蔵は微かに笑い、その表情からは自信が溢れ出ていた。
これは、千姫を引き渡した際に受け取ったものではない。
少し前に仙蔵と文次郎、そして留三郎と伊作が忍務で学園を出ていた。
恐らくその時に城主から預かったものだろう。
忍術学園が仲介する形で千姫を送り届ける、その約束を先にし、堀殻城城主にこれを書かせたのだ。
あとはその約束を果たせばいい。
本物、ではあると思う。
だが利吉の戻りが早いことの説明は付かない。
「馬印堂城もそれと同じ意思を示しています。これがその証明です。」
前に出たのは伊作だ。
彼が見せる書簡は堀殻のものと同じ内容が書かれており、末尾には馬印堂城城主の名で締められている。
忍術学園の働きに雑渡は目を細めた。
「と、言うことだ。貴殿は千姫のことなど露ほども気にしていなかったようだが堀殻、馬印堂は手を組み、そして我々タソガレドキも付いている。忍術学園が椿姫を取り戻したことにより、四方を囲まれた貴殿に得られるものは何一つなくなったわけだ。」
「そんなものを交わしたところで儂に勝てるとでも思っておるのか!?それさえなければ、お前たちには何も出来まい!」
差臼普墺は樒に当てていた刃を雑渡に向け振りかざした。
彼はその動きを読んでいたが敢えてその場を動かない。
視界の端に、樒の目が光ったのを見逃さなかったからだ。
自分から注意が逸れた隙をつき、樒は差臼普墺が刀を持つ手を蹴り払う。
「なっ!?」
刃が空中を回転しながら飛び、離れた床に突き刺さる。
雑渡は表情を変えることなく、それを見ていた。
タソガレドキ忍軍が差臼普墺の背後に回り彼を拘束する。
「……まだわからないのか。既にこの城の中は我がタソガレドキが制した。私の合図一つでどうとでもなると言うものだよ?」
「貴様……!!」
「樒ちゃん!」
「!」
椿の呼びかけに答えるように、樒は素早く椿の側に駆け寄った。
差し出された手を取り力を込める。
良かったと安心から表情が和らぐ椿を見て、樒は頭を垂れた。
「ああ、そうそう言い忘れていた。君、」
「?」
雑渡は樒を指差し言葉を続ける。
「今、私の危機を救ったね?その御礼に、竹森城もここに加えることにしよう。」
「……え?」
そう言って指示したのは協定書。
「それから椿姫、」
「!……はい!」
「君は腹ペコの私を救ってくれた。忍術学園もここに加えることにする。」
「えっと……?」
救われているのはこちらばかりで、雑渡を救った記憶などない。
椿の迷いを見透かすように雑渡は言う。
「君は間違いなく私を救ったよ、あの卵雑炊でね。」
「……あ」
あれを”救った”とするならば、雑渡はこうなることを見越していたのではないだろうか。
”救われた”という口実を作るために、雑炊を要求した気がしてならない。
これも雑渡が椿を”駒”として使ったうちの一つの工程なのだろう。
だが、三国の協定書に雑渡が手を加えることが出来るというのが理解できない。
「ですが、何故あなたが勝手に書き加えることが出来るのですか?」
発言したのは土井だった。
先程、樒が差臼普墺の手を払ったのは偶然のようにも見えた。
だが恐らくそれも、雑渡の計算の内だったのだろう。
仮にそうだと考えると、彼は樒を知っていることになる……?
「我が主、黄昏甚兵衛様より、現場の判断は全て私に一任されている。タソガレドキとしては、差臼を不能にすることだけが狙いだ。そこに忍術学園や竹森城が加わることなど大きな問題ではない。」
「そんな無茶苦茶な……」
逆に考えれば、それ程までにも差臼はタソガレドキにとって警戒すべき相手だったのだ。
今回の協定、主導権を握るのはタソガレドキなのだろう。
だからこそ、雑渡がこんなにも権限を振るうことが出来るのだ。
「さて、いい加減終わりにしよう。」
雑渡は差臼普墺と目線を合わせて、今一度協定書にサインを求めた。
「言っておくが、貴殿にこれを拒否する権利はない。既に三国は手を取った。差臼が可笑しな真似をすれば即刻これが行使されると思え。だからただ、認知したと、言えばいい。」
「……っ、気に喰わぬ。」
「……?」
「お前の話が事実だったとしてもだ。竹森を加える理由は適当なこじつけではないか!堀殻、馬印堂とも関係ないはずだ!」
差臼普墺はどうしても竹森を諦める気はないらしい。
樒は狂いそうなくらいの怒りが込み上げてきて、今にも飛び掛かってしまいそうだった。
「関係……?あるよ?」
「なに!?」
さらりと言う雑渡、これには樒も椿も驚いた。
竹森がタソガレドキとどのような関係にあるのか、二人は聞いたこともない。
尚も雑渡は淡々と続ける。
「タソガレドキはこの度、竹森城の姫君を迎え入れる手筈であった。だがおかしなことに、その姫君はここ差臼城に囚われていた。もし貴殿が横取りしたとなると、さあどうだろうか?」
そう言うと彼は椿を見た。
果たしてその姫君はどのような反応を示しているのか興味があった。
だが彼女は凛として差臼普墺を目に写したまま動じない。
大した気を持つお姫様だ。
感心を持った雑渡は隠した布の下で笑う。
「我らが黄昏甚兵衛様のことを知らぬはずがあるまい。あの方を怒らせるとどうなるか、お分かりいただけますね?」
雑渡の脅しとも取れる言葉に差臼普墺は息を詰まらせた。
「差臼様」
それまで静かにしていた椿が前に出てくる。
「これはお願いです。いえ、今聞いていただけるなら”お願い”で済ませます。どうかサインをお願いします。そうすればタソガレドキ城はあなたに手を出すこともありません。」
椿は雑渡の目をじっと見つめる。
強い意志を感じ雑渡は何も言わず同意を示した。
タソガレドキ、そして忍術学園に囲まれたこの場で、差臼普墺が難を逃れるためには方法は一つしかなかった。
…………………………
「……確かに。これで貴殿は何処にも手を出すことは出来なくなった。が、同時に勝手に貴殿に手を出す者もいないという訳だ。互いに干渉しない、それこそが貴殿の身を保障するものとなるだろう。」
墨が引かれた紙を見つめ、雑渡は安心したように言う。
「ここにはまだ残された者はいる。自国により良い暮らしをもたらすために、貴殿にはやらなければいけないことは多々あるはず。……だからまずは、余所者である我々はここを去ることとしよう。」
「雑渡さん……」
タソガレドキには言わなければいけないことがある。
雑渡は椿が何を言おうとしているのか察し、全員が無事に学園に帰れた時に聞こうと約束をする。
「ああ、また忘れるところだった。椿姫、」
「はい」
「先程君は私に”タソガレドキ城は差臼に手を出さない”と念を押したな?」
「ええ、それは……」
「案ずるな。約束通り、我々は手は出さない。だが彼女の場合は違う。」
「え?」
雑渡が指さす先には樒の姿。
彼女も椿も、何のことだか良くわかっていない。
雑渡は樒に向かって言う。
「例えば君の、敬愛する者に寄って来る虫を潰したところで、君の主人は君の罪を罰するなんてことはしないのではないかな?やるかやらないかは、君次第、だけどね。」
「!」
言葉の意味を理解した樒は椿に目を向ける。
彼女は少し困ったように曖昧な笑顔を見せるが、結果として樒に任せると言った。
許可を得た樒は礼を言い、差臼普墺に向けて冷たい視線を向ける。
「ひぃ!?」
情けない声を出した彼は樒に今までのことを詫びた。
それは物凄い早口であったが、樒は一切聞き入れることはない。
「待て!悪かった!今までのことは全て詫びる!は、話し合おう!何を差し出せばいい!?シキビお前の、いや、そ、そなたの言うことは何でも……!」
「うるさい」
声が早かったか、手が早かったのか……
彼女が言い終わるか否か、差臼普墺は左頬に強烈な一撃を喰らい、体ごと吹っ飛んでいた。
なにか物凄く大きな音を聴いたかも知れない、ただ目の前の光景が圧倒的すぎて空耳だったのかもしれない。
樒の行動にその場のほとんどの者は度肝を抜かれ、雑渡は楽しそうに笑っていた。
「私は、樒だ!」
「……!?」
「今後一切、椿様にも隆光様にも関わるな。次はこんなものでは済まさない。」
「……は、はひ……」
差臼普墺は完全に戦意喪失な様子で立ち上がることはなかった。
樒は井頭や梨栗にも目を向けたが、二人ともすっかり縮こまってしまいその顔色は悪い。
この二人も、もう出来ることは何もないだろう。
雑渡が高坂に目配せをする。
彼は外に向かい何かを合図した。
すると聞こえてきたのは歓声とも取れる大勢の声。
「俺たちが国を作るぞー!!」
「畑を耕せ!!稲を植えろ!!」
「戦なんてクソくらえ!!」
少し不安そうに椿は土井を見た。
「大丈夫だ。これは……」
外では兵助と勘右衛門が兵たちに発破をかけている。
高坂の合図により、差臼普墺が落ちたことを知った民衆が望まぬ戦に反対の声を上げ始めたのだ。
「あいつら……」
三郎が嬉しそうに口角を上げる。
土井は差臼普墺に声をかけた。
「聞こえるか?これが民の声だ。彼らは争いを望んでなどいない。ただ自分たちの生活を守りたいだけなんだ。これからは彼らと手を組んで国を育てていくことだな。」
樒にふっ飛ばされ返事がない普墺に代わり、井頭と梨栗がガクッと頭を垂れた。
やった、ついにやった……
彼女なりの復讐を果たした樒は体の力を抜いて立ち尽くす。
散々な目に遭った、それも全て隆光、そして椿のためと思って耐えて来た。
だがそれも終わりを告げる。
とても気分がいい。
小袖の裾をツンと引かれる。
それにつられるようにして後ろを振り返った。
「樒ちゃん、帰ろう。」
明るい顔の椿がそこにいた。
それだけで樒の心は洗われる。
「はいっ」
自然と笑顔が咲いた。
二人を囲む忍術学園の誰もが、笑顔で迎え入れてくれた。
この時の繋いだ手の温もり、それはいつまでも消えることはない。