四章
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差臼城に潜入することは容易かった。
彼の城は今、何より兵を欲している。
国中から人手を募り、その多くは農村からやって来た若者たち。
忍術学園はそこを狙った。
三郎と雷蔵は二人で農民を装い新規兵として志願した。
申請はあっさりと通り多くの若者と同様に訓練に参加することとなった。
集められたその中には、離れたところに他の忍たまの姿も確認できる。
彼らは少人数で組み、別の方法で潜入している教師の合図を持って一気に城の核へと近付く手筈だ。
先に潜入を果たした利吉たちが千姫を国外へ連れ出しているはず。
残され身代わりとなっている椿の安全を確保し、差臼普墺と話をつける。
一筋縄でいかないことはわかっている、だから内部から敵を抑え準備を整える必要があった。
動向を見張る必要があるのは樒の話によると差臼普墺、井頭、梨栗の三人。
差臼普墺に近付くのは容易ではない。
教師数名がそれを試みると話しているのを三郎は聞いていた。
一先ず自分たちの忍務は目の前にいる井頭の動きを把握すること。
兵士となって近付き、その隙を突く。
「……戦なんてしたくねぇけどな……」
すぐ側で聞こえた声に耳を傾ける。
中年の農民と思われる男が独り言を漏らしたようだった。
男の隣りにいた同じような身なりの別の男がそれに反応する。
「わかるけどもよ、ここでそれを口にするのは危ねぇぞ?殿様はおっかねぇって話だかんな。」
「俺はよ、畑耕していれば良かったんだ。普通に暮らせればそれでいい。だけど、かかぁが金貰えるから行けってよ。」
「俺のとこも同じようなもんだ。殿様よりかかぁの方がよっぽど怖いってな。」
さらに別の男も加わり、一帯は同調する空気で盛り上がっている。
何をさせられるかも知らず、呑気なものだと三郎は溜息を吐いた。
だがこれは逆に利用できる手となる。
完全に支配されていない農民たちは、少しの力で動きは逆転する。
今の彼らには他の選択肢がない。
だから道を示してやれば学園にとっての追い風となるかも知れない。
「そこ!何をごちゃごちゃ言っている!」
流石に気付いた井頭が声を上げた。
静まり返る男たち。
三郎、雷蔵も同じように緊張を走らせた。
「……」
「……!」
一瞬、目が合ったように感じた。
見透かされるような鋭い視線に汗が背中を流れる。
体が石のように硬い。
ゴクリ、と喉が鳴った。
「……三郎」
雷蔵が矢羽根を飛ばす。
「……いや、見破られたわけじゃない。まだ大丈夫だ。」
学園の生徒及び教師は全員、変装を施して潜入している。
樒が内通していたため、各々特徴などが井頭らに通っている可能性があるからだ。
井頭は集めた兵を二つに分けた。
兵助たちとは別になってしまったが、どうやらこれは部隊を編成されたらしい。
分散することは得ではない。が、どうやら残された三郎たちは井頭の下につくことになったようだ。
これはこれで運がいいと言うか……
「奴は差臼普墺への近道だ。このまま張り付いて必ず道を開いてやる。」
「ああ、そして終わらせよう。戦などという、馬鹿げた妄想を。」
ある意味では互いに欺き合うこの状況は合戦だ。
井頭、梨栗の技量は計り知れない。
だが、ただ使役されるだけの存在でもない。
樒の下に付きながらも逆に彼女を利用した。
彼らが欲しいのは手柄であることが、忍たまの目からも見て取れる。
だからそんな奴らにくれてなどやるものか。
「……椿さん……」
三郎は静かに彼女の名を口にし、聳え立つ差臼城を睨みつけた。
「おい、次はお前たちだ。」
井頭がこちらに視線を向けた。
槍に見立てた長い棒を受け取る。
短期間で兵を育てるために、実践形式で訓練を行うらしい。
「上手くやれよ?雷蔵」
「そっちこそ。」
怪しまれないように周りの農民に程度を合わせなければならない。
だがこの演技もあくまで計画の一部でしかない。
「さてと……食うか、食われるか。」
含みを持たせるような雷蔵の言葉に、三郎はフッと口角を上げる。
「食われてやるさ。だが釣り上げるのは俺達だ。」
ここは陽の光が一切入らない地の底。
今が昼なのか夜なのか、それすらわからない。
目の前には格子戸、それ以外の出入り口はなく周りは岩の壁だ。
申し訳程度に敷かれた茣蓙 、それすらも椿には冷たい思いしか与えてくれない。
格子の外には必ず一人見張りがいる。
が、こんな人気のない場所にいることも退屈なのであろう、時折船を漕いでいる姿が確認出来る。
食事は担当しているらしき下人が運んでくる。
出された粥のような簡単な食事、どうにも食欲が湧かない。
今頃、樒はどうなってしまっているのか。
連れ去られた彼女のことを考えると不安と後悔で胸が苦しい。
どうか無事でいて欲しい。
差臼普墺……
私が望みなら、早く会わせなさいよ……
こんなに早く正体がバレるとも想像つかなかったが、それならそれで早々に呼び出しがかかると思った。
奴の狙いが自分なら直接話す機会が必ずある。
椿はそれをただ待つしかない。
「交代の時間だ。」
外の兵が見張りの交代を告げた。
今までそこにいた兵は一度体を伸ばし、退屈から解放されたような晴々とした顔で去って行く。
今ここに来た兵も自分を呼びに来た訳ではなさそうで、椿は膝を抱えて顔を伏せる。
牢の中は再び静寂が訪れた。
…………椿
待ちわび過ぎて幻聴でも聞こえたのだろうか。
誰かに呼ばれた気がしたが、そんなことがあるはずもない。
忍術学園の皆は差臼城内に潜入を果たしているだろう。
だが椿に接触する手筈にはなっていない。
彼女が差臼普墺に近付くためにその周囲を固めてもらうだけのはずだ。
だから、ここに知った顔が現れることなどないのだ。
「…………………………椿」
反応しなかった椿に、少し怒気を含んだ声色が投げられる。
二度も聞こえた、これは幻聴ではないのか?
椿は不思議そうに顔を上げて、格子の外に目を向けた。
「!?」
その姿を確認すると、驚きと嬉しさが入り混じったように彼女の顔に赤みが差す。
「っ、尊奈門さん……!」
考えるより先に体が動く。
格子戸に張り付くようにして椿は尊奈門に近寄った。
差臼の兵士に変装をしている様子の尊奈門、どうやら忍術学園とは違う道で城に潜入したらしい。
彼も同じく格子に駆け寄り、二人は顔を合わせる。
尊奈門は人差し指を口の前にたて、静かにするように椿に言った。
ハッと口元に手を当てた彼女は小声で話を続ける。
「どうしてここへ?」
「お前を見守ることが私の仕事だ。悪いが後を付けさせてもらっていた。」
「仕事?雑渡さんも私を助けてくれたし、タソガレドキは一体何を考えているのですか?」
尊奈門なら、この状況下でなにか情報をくれるかも知れない。
そう思ったが彼の表情は曇る。
「それを言う訳にはいかない。だが心配するな。私はお前の敵ではない。今ここから出してやろう。」
尊奈門が閂を外そうとするのを椿は彼の手を握って止めた。
「ありがとう、でも違うんです。私がここから出る時は、差臼普墺に会う時です。それまでは大人しく従っていたいの。今城内には忍術学園の皆が忍び込んでいて、差臼の情報を集めてくれています。普墺と直接話をするためにも、騒ぎを起こしたくないのです。」
「……わかった。だがそれでも埒が明かない時もあるだろう。強行するなら私を頼れ。必要な時駆けつけられる様、お前のすぐ側にいる。」
「はい、ありがとうございます。」
弱りかけていた心に尊奈門という存在の大きさは、椿には嬉しい収穫だった。
本当ならば樒にその役目を願いたかったのだが、今彼女は差臼普墺に囚われている。
長い時間、樒が単独で戻らないとこを見ると、いまだに抜け出せずにいるのだろうか。
何をされているかなど、考えたくもない。
ただ待つしかない自分の無力さを呪いながら、それでも全てを収めるため我慢する時間も必要だと知っている。
今一番に願うことは、利吉が千姫を無事に堀殻へ届けてくれること。
それが、この作戦を成功させるために絶対に必要なのだ。
「……」
この状況で、どうしてそんなに綺麗に笑うことが出来るのか。
椿が他の者を信頼している証なのであろう。
そしてその中に恐らく自分は含まれていない。
頼れとは言ったものの、彼女は自分を頼ることなどないのであろう。
これが学園関係者や樒であったなら、結果は違ったかも知れない。
それが少しだけ尊奈門を寂しくさせた。
椿が繋いだ二人の手。
触れることなど叶わないと思っていたのに、なんとも素直な心で近付いてくるものだ。
「……冷たいな。」
「あ、すみませ」
尊奈門の視線が手元に移されていることに気付き、椿は手を引っ込めようとする。
離れまいとしてその手を繋ぎとめた。
自分の高まる熱を分けるように、彼女の冷えた手を包み込む。
「尊奈門さん?」
「こんな場所にいては、体が持たない。私にはしてやれることは少ないだろうが、せめて今は……」
「……」
きっと全身冷えてしまっているはずだ。
それを温めてやれたなら、少しは彼女の力になるはずなのに。
何も出来ないもどかしさ。
雑渡は差臼で再会すると言っていたが、その機会は未だ訪れない。
ただ待つしかない自分が歯痒くて、せめて椿の助けになれたらと願う。
彼女は件の重要人物であるのだから。
「あったかい……」
「!」
椿が嬉しそうに目を細める。
それは自分がもたらした笑顔という事実に、尊奈門は体温を上げた。
できることなら、手だけでなく……
「……椿」
「はい」
彼女の丸い瞳がこちらに向けられ、尊奈門は自分が声を発していたことに初めて気が付いた。
胸が痛い音を立て緊張から汗が噴き出す。
何かを言わなければならないのに、本音を言えるわけもなく適当な誤魔化しさえ出てこない。
「っ、あ、いや……その、」
「尊奈門さん?」
「だからその、わ、私は、」
言葉を待つように椿がじっと尊奈門を見つめる。
喉が音を立てて唾を飲み込んだ。
いや、ここで誤魔化す必要など……あるのであろうか?
この場に、他に誰もいない。
もしかするとこの先、こんな機会はないかも知れない。
握る手に力を入れて、意を決したように尊奈門は椿との距離を縮める。
「椿、私は……」
「はい」
「私は、お前のことが……」
微かな人の気配にハッとして言葉を止める。
注意深く後方へと視線を投げた。
不思議そうに声をかける椿に「静かに」と短く告げる。
厳しい顔付きのまま彼女から離れると、所定の位置に戻り気配に気づかない振りを決める。
足音と立てながらやって来たのは年配の女。
身なりから差臼城の世話係のようである。
「……椿様ですね?」
「……はい。あなたは?」
返事だけを聞くと女は尊奈門に閂を外すように告げる。
彼は堪らずに訳を聞いた。
「どういうことか?何も聞いていないが……」
「私も詳しいことは伺っておりません。ただ椿様が殿への謁見を許された、だから世話をしてやれとのことです。」
「それは本当ですか?」
差臼普墺への謁見が許された、それはついに事が動き出したということ。
全てを解決するために、必要なこと。
「ええ、ですから椿様にはまず身なりを整えて頂きませんと。どうやら食事にも手を付けられていないご様子。このままでは殿にお目通りさせる訳には参りません。」
「いつ会わせてもらえるのですか?」
女は表情を変えることなく、眉を一つ動かしただけだった。
「……まずは私の言う通りにしてください。早ければ二日後にでも叶うかと……」
「二日……」
話が早く出来るのであればそれに越したことはない。
だが二日後という短い時間、千姫を連れての移動はどう考えても足りない。
利吉の知らせを受ける前に差臼普墺と話をつけられるのだろうか。
……いや、信じよう。
利吉ならば必ず千姫を無事に堀殻へ届ける。
城内に忍び込んだ忍術学園の精鋭も、力になってくれる。
学園長、そして山田の言葉を椿は胸に抱いた。
ゆっくりと息を吐いて顔を上げる、その目には強い光が灯っている。
「わかりました。そちらの言う通りに致します。」
彼女の返事に尊奈門は声を出すことに堪えた。
女の言う通り閂を外し格子戸を開く。
この瞬間から最終決戦への扉が開かれたかのような、緊張が背中を走った。
椿はもう、食堂のおばちゃん見習いでも千姫の身代わりなどではない。
外に一歩踏み出たこの時より、彼女は”竹森椿”となる。
女の案内に付いて行く椿の姿を見送る。
すれ違う一瞬、彼女は尊奈門に一瞥をくれた。
信じろ。
尊奈門は真剣な眼差しで頷く。
椿は少しだけ目を開いたように表情を緩めると口角を上げて見せた。
信じています。
そう言ってくれたような気がして胸が温かくなる。
去り行く後ろ姿を送った後は彼もまた、その姿を完全に消したのだった。
彼の城は今、何より兵を欲している。
国中から人手を募り、その多くは農村からやって来た若者たち。
忍術学園はそこを狙った。
三郎と雷蔵は二人で農民を装い新規兵として志願した。
申請はあっさりと通り多くの若者と同様に訓練に参加することとなった。
集められたその中には、離れたところに他の忍たまの姿も確認できる。
彼らは少人数で組み、別の方法で潜入している教師の合図を持って一気に城の核へと近付く手筈だ。
先に潜入を果たした利吉たちが千姫を国外へ連れ出しているはず。
残され身代わりとなっている椿の安全を確保し、差臼普墺と話をつける。
一筋縄でいかないことはわかっている、だから内部から敵を抑え準備を整える必要があった。
動向を見張る必要があるのは樒の話によると差臼普墺、井頭、梨栗の三人。
差臼普墺に近付くのは容易ではない。
教師数名がそれを試みると話しているのを三郎は聞いていた。
一先ず自分たちの忍務は目の前にいる井頭の動きを把握すること。
兵士となって近付き、その隙を突く。
「……戦なんてしたくねぇけどな……」
すぐ側で聞こえた声に耳を傾ける。
中年の農民と思われる男が独り言を漏らしたようだった。
男の隣りにいた同じような身なりの別の男がそれに反応する。
「わかるけどもよ、ここでそれを口にするのは危ねぇぞ?殿様はおっかねぇって話だかんな。」
「俺はよ、畑耕していれば良かったんだ。普通に暮らせればそれでいい。だけど、かかぁが金貰えるから行けってよ。」
「俺のとこも同じようなもんだ。殿様よりかかぁの方がよっぽど怖いってな。」
さらに別の男も加わり、一帯は同調する空気で盛り上がっている。
何をさせられるかも知らず、呑気なものだと三郎は溜息を吐いた。
だがこれは逆に利用できる手となる。
完全に支配されていない農民たちは、少しの力で動きは逆転する。
今の彼らには他の選択肢がない。
だから道を示してやれば学園にとっての追い風となるかも知れない。
「そこ!何をごちゃごちゃ言っている!」
流石に気付いた井頭が声を上げた。
静まり返る男たち。
三郎、雷蔵も同じように緊張を走らせた。
「……」
「……!」
一瞬、目が合ったように感じた。
見透かされるような鋭い視線に汗が背中を流れる。
体が石のように硬い。
ゴクリ、と喉が鳴った。
「……三郎」
雷蔵が矢羽根を飛ばす。
「……いや、見破られたわけじゃない。まだ大丈夫だ。」
学園の生徒及び教師は全員、変装を施して潜入している。
樒が内通していたため、各々特徴などが井頭らに通っている可能性があるからだ。
井頭は集めた兵を二つに分けた。
兵助たちとは別になってしまったが、どうやらこれは部隊を編成されたらしい。
分散することは得ではない。が、どうやら残された三郎たちは井頭の下につくことになったようだ。
これはこれで運がいいと言うか……
「奴は差臼普墺への近道だ。このまま張り付いて必ず道を開いてやる。」
「ああ、そして終わらせよう。戦などという、馬鹿げた妄想を。」
ある意味では互いに欺き合うこの状況は合戦だ。
井頭、梨栗の技量は計り知れない。
だが、ただ使役されるだけの存在でもない。
樒の下に付きながらも逆に彼女を利用した。
彼らが欲しいのは手柄であることが、忍たまの目からも見て取れる。
だからそんな奴らにくれてなどやるものか。
「……椿さん……」
三郎は静かに彼女の名を口にし、聳え立つ差臼城を睨みつけた。
「おい、次はお前たちだ。」
井頭がこちらに視線を向けた。
槍に見立てた長い棒を受け取る。
短期間で兵を育てるために、実践形式で訓練を行うらしい。
「上手くやれよ?雷蔵」
「そっちこそ。」
怪しまれないように周りの農民に程度を合わせなければならない。
だがこの演技もあくまで計画の一部でしかない。
「さてと……食うか、食われるか。」
含みを持たせるような雷蔵の言葉に、三郎はフッと口角を上げる。
「食われてやるさ。だが釣り上げるのは俺達だ。」
ここは陽の光が一切入らない地の底。
今が昼なのか夜なのか、それすらわからない。
目の前には格子戸、それ以外の出入り口はなく周りは岩の壁だ。
申し訳程度に敷かれた
格子の外には必ず一人見張りがいる。
が、こんな人気のない場所にいることも退屈なのであろう、時折船を漕いでいる姿が確認出来る。
食事は担当しているらしき下人が運んでくる。
出された粥のような簡単な食事、どうにも食欲が湧かない。
今頃、樒はどうなってしまっているのか。
連れ去られた彼女のことを考えると不安と後悔で胸が苦しい。
どうか無事でいて欲しい。
差臼普墺……
私が望みなら、早く会わせなさいよ……
こんなに早く正体がバレるとも想像つかなかったが、それならそれで早々に呼び出しがかかると思った。
奴の狙いが自分なら直接話す機会が必ずある。
椿はそれをただ待つしかない。
「交代の時間だ。」
外の兵が見張りの交代を告げた。
今までそこにいた兵は一度体を伸ばし、退屈から解放されたような晴々とした顔で去って行く。
今ここに来た兵も自分を呼びに来た訳ではなさそうで、椿は膝を抱えて顔を伏せる。
牢の中は再び静寂が訪れた。
…………椿
待ちわび過ぎて幻聴でも聞こえたのだろうか。
誰かに呼ばれた気がしたが、そんなことがあるはずもない。
忍術学園の皆は差臼城内に潜入を果たしているだろう。
だが椿に接触する手筈にはなっていない。
彼女が差臼普墺に近付くためにその周囲を固めてもらうだけのはずだ。
だから、ここに知った顔が現れることなどないのだ。
「…………………………椿」
反応しなかった椿に、少し怒気を含んだ声色が投げられる。
二度も聞こえた、これは幻聴ではないのか?
椿は不思議そうに顔を上げて、格子の外に目を向けた。
「!?」
その姿を確認すると、驚きと嬉しさが入り混じったように彼女の顔に赤みが差す。
「っ、尊奈門さん……!」
考えるより先に体が動く。
格子戸に張り付くようにして椿は尊奈門に近寄った。
差臼の兵士に変装をしている様子の尊奈門、どうやら忍術学園とは違う道で城に潜入したらしい。
彼も同じく格子に駆け寄り、二人は顔を合わせる。
尊奈門は人差し指を口の前にたて、静かにするように椿に言った。
ハッと口元に手を当てた彼女は小声で話を続ける。
「どうしてここへ?」
「お前を見守ることが私の仕事だ。悪いが後を付けさせてもらっていた。」
「仕事?雑渡さんも私を助けてくれたし、タソガレドキは一体何を考えているのですか?」
尊奈門なら、この状況下でなにか情報をくれるかも知れない。
そう思ったが彼の表情は曇る。
「それを言う訳にはいかない。だが心配するな。私はお前の敵ではない。今ここから出してやろう。」
尊奈門が閂を外そうとするのを椿は彼の手を握って止めた。
「ありがとう、でも違うんです。私がここから出る時は、差臼普墺に会う時です。それまでは大人しく従っていたいの。今城内には忍術学園の皆が忍び込んでいて、差臼の情報を集めてくれています。普墺と直接話をするためにも、騒ぎを起こしたくないのです。」
「……わかった。だがそれでも埒が明かない時もあるだろう。強行するなら私を頼れ。必要な時駆けつけられる様、お前のすぐ側にいる。」
「はい、ありがとうございます。」
弱りかけていた心に尊奈門という存在の大きさは、椿には嬉しい収穫だった。
本当ならば樒にその役目を願いたかったのだが、今彼女は差臼普墺に囚われている。
長い時間、樒が単独で戻らないとこを見ると、いまだに抜け出せずにいるのだろうか。
何をされているかなど、考えたくもない。
ただ待つしかない自分の無力さを呪いながら、それでも全てを収めるため我慢する時間も必要だと知っている。
今一番に願うことは、利吉が千姫を無事に堀殻へ届けてくれること。
それが、この作戦を成功させるために絶対に必要なのだ。
「……」
この状況で、どうしてそんなに綺麗に笑うことが出来るのか。
椿が他の者を信頼している証なのであろう。
そしてその中に恐らく自分は含まれていない。
頼れとは言ったものの、彼女は自分を頼ることなどないのであろう。
これが学園関係者や樒であったなら、結果は違ったかも知れない。
それが少しだけ尊奈門を寂しくさせた。
椿が繋いだ二人の手。
触れることなど叶わないと思っていたのに、なんとも素直な心で近付いてくるものだ。
「……冷たいな。」
「あ、すみませ」
尊奈門の視線が手元に移されていることに気付き、椿は手を引っ込めようとする。
離れまいとしてその手を繋ぎとめた。
自分の高まる熱を分けるように、彼女の冷えた手を包み込む。
「尊奈門さん?」
「こんな場所にいては、体が持たない。私にはしてやれることは少ないだろうが、せめて今は……」
「……」
きっと全身冷えてしまっているはずだ。
それを温めてやれたなら、少しは彼女の力になるはずなのに。
何も出来ないもどかしさ。
雑渡は差臼で再会すると言っていたが、その機会は未だ訪れない。
ただ待つしかない自分が歯痒くて、せめて椿の助けになれたらと願う。
彼女は件の重要人物であるのだから。
「あったかい……」
「!」
椿が嬉しそうに目を細める。
それは自分がもたらした笑顔という事実に、尊奈門は体温を上げた。
できることなら、手だけでなく……
「……椿」
「はい」
彼女の丸い瞳がこちらに向けられ、尊奈門は自分が声を発していたことに初めて気が付いた。
胸が痛い音を立て緊張から汗が噴き出す。
何かを言わなければならないのに、本音を言えるわけもなく適当な誤魔化しさえ出てこない。
「っ、あ、いや……その、」
「尊奈門さん?」
「だからその、わ、私は、」
言葉を待つように椿がじっと尊奈門を見つめる。
喉が音を立てて唾を飲み込んだ。
いや、ここで誤魔化す必要など……あるのであろうか?
この場に、他に誰もいない。
もしかするとこの先、こんな機会はないかも知れない。
握る手に力を入れて、意を決したように尊奈門は椿との距離を縮める。
「椿、私は……」
「はい」
「私は、お前のことが……」
微かな人の気配にハッとして言葉を止める。
注意深く後方へと視線を投げた。
不思議そうに声をかける椿に「静かに」と短く告げる。
厳しい顔付きのまま彼女から離れると、所定の位置に戻り気配に気づかない振りを決める。
足音と立てながらやって来たのは年配の女。
身なりから差臼城の世話係のようである。
「……椿様ですね?」
「……はい。あなたは?」
返事だけを聞くと女は尊奈門に閂を外すように告げる。
彼は堪らずに訳を聞いた。
「どういうことか?何も聞いていないが……」
「私も詳しいことは伺っておりません。ただ椿様が殿への謁見を許された、だから世話をしてやれとのことです。」
「それは本当ですか?」
差臼普墺への謁見が許された、それはついに事が動き出したということ。
全てを解決するために、必要なこと。
「ええ、ですから椿様にはまず身なりを整えて頂きませんと。どうやら食事にも手を付けられていないご様子。このままでは殿にお目通りさせる訳には参りません。」
「いつ会わせてもらえるのですか?」
女は表情を変えることなく、眉を一つ動かしただけだった。
「……まずは私の言う通りにしてください。早ければ二日後にでも叶うかと……」
「二日……」
話が早く出来るのであればそれに越したことはない。
だが二日後という短い時間、千姫を連れての移動はどう考えても足りない。
利吉の知らせを受ける前に差臼普墺と話をつけられるのだろうか。
……いや、信じよう。
利吉ならば必ず千姫を無事に堀殻へ届ける。
城内に忍び込んだ忍術学園の精鋭も、力になってくれる。
学園長、そして山田の言葉を椿は胸に抱いた。
ゆっくりと息を吐いて顔を上げる、その目には強い光が灯っている。
「わかりました。そちらの言う通りに致します。」
彼女の返事に尊奈門は声を出すことに堪えた。
女の言う通り閂を外し格子戸を開く。
この瞬間から最終決戦への扉が開かれたかのような、緊張が背中を走った。
椿はもう、食堂のおばちゃん見習いでも千姫の身代わりなどではない。
外に一歩踏み出たこの時より、彼女は”竹森椿”となる。
女の案内に付いて行く椿の姿を見送る。
すれ違う一瞬、彼女は尊奈門に一瞥をくれた。
信じろ。
尊奈門は真剣な眼差しで頷く。
椿は少しだけ目を開いたように表情を緩めると口角を上げて見せた。
信じています。
そう言ってくれたような気がして胸が温かくなる。
去り行く後ろ姿を送った後は彼もまた、その姿を完全に消したのだった。