一章
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特別なことなど何もないはずなのに。
いつも通りの道なはずなのに。
心が軽く、浮足立ってしまうのはなぜなのか。
頼まれごとをしたから、だからここへ参った、というのは建前で本音を言えば彼女に会いに来たというのがそれに当たるのだろう。
彼女が現れてからこの場所を訪れる楽しみが増えて用がなくても足を運びたくなる。
それが何故であるのか、自分でわかっていた。
彼女に会いたい、顔を見たい、声を聞きたい、自分に笑いかけて欲しい。
そして利吉は忍術学園の門をくぐった。
いつもなら鬱陶しいくらいに寄ってくる小松田が姿を見せない。
なんだ、いないのか?
小松田のことなど正直どうでもいいのだが、この仕事に命をかけているように見える彼の姿がないことに少しばかり心配になってしまう。
留守ならばいいのだが…
そう思いながら歩を進めると話し声が聞こえ、小松田と思わしきそれに顔をしかめた。
普段どんな侵入者にもすぐに反応するくせに、今日は寄ってくる気配がないことを怠慢だと感じたのもあるかも知れない。
だが覗き見た小松田の話し相手が利吉の想い人であったのだから、良く思わなかった理由はそれだったかも知れない、いやそれであったのだろう。
「椿ちゃん、それ本当?」
「うん、ずっと考えていたの……だめ、かな?」
小松田を前にしてどこか緊張した様子の椿。
胸の前で握られた拳は力が入っているように見える。
「だめだなんてそんなこと!僕は大歓迎だよ。」
大歓迎…?
一体彼女は何を提案したのか?
「本当?良かった!……なんだか照れるね。」
「えへへ。そうかも。」
嬉しそうに微笑む彼女と小松田、二人のこの雰囲気はただの会話には思えない。
まるで春が来たかのように花が咲くその空気は、錯覚だとわかっていても消えてくれることがない。
これは、そう……考えたくはないが、ひょっとして…
「椿さん!」
「あ、利吉さん。こんにちは。」
居ても立ってもいられず飛び出した利吉に椿は軽く返事をする。
それが妙に思えて拍子抜けしてしまいそうだったが、今の利吉にそんなことを気にする余裕はない。
入門票を取り出す小松田を捨て置いて椿に詰め寄った。
「椿さん、小松田君で良いのですか!?こんなへっぽこ事務員で!?」
「む、へっぽことは何ですか!」
「え?あの…」
「いや、あなたが選んだ道ならば私も受け入れざるを得ないでしょう。しかし、早急に答えを出さなければならないことでもないはずです。どうか、もう一度考えて直してください。」
利吉の真剣な眼差しに椿は戸惑った。
なにより、彼が小松田でいいのかと言った意味はわからない。
わからないが、利吉に反対されていることだけはわかる。
「利吉さん、酷いじゃないですか〜!僕にだって自尊心と言うものがありますよ。」
「小松田君、私が学園に入ったというのに姿を現さないで……しかも椿さんといい感じになっていたりして……よくも自尊心がだなんて言えたなこの口が。だいたい君は…前作でほぼ出番がなかったくせに、いつの間に椿さんと…………そんな関係になったんだ!」
「何言ってるんですか?」
「あの、利吉さん…」
「はい。」
小松田に食ってかかる利吉に椿が言葉を挟む。
困惑のような悲愴のような彼女の表情に利吉の心が少し痛む。
彼女の気持ちを改めるように自分の考えを押し付けたのだから、こうなることはわかっていたはずだ。
「利吉さんは、反対なのですね…」
「はい」
何を言われようが彼女が残念に思おうが、小松田を選ぶことだけはどうしても避けたい。避けて欲しい。
自分を選ばずとも、この小松田を選ばれることこそが利吉の自尊心を傷付けることになる。
譲れない。
「……この忍装束の方が良い……でしょうか?」
「はい」
「………」
「………………え?」
途端に話を見失い、非常に間抜けな疑問符を口にして椿を見る。
忍、装束……?
一体、なんのことか?
椿は身につけている鈍色の忍装束に目を落としている。
これは学園に転がり込んだ椿が手荷物の一つも持たなかったため、借りているものだと聞いている。
面白くないことに小松田のそれと同じものだった。
「そう…ですよね。やっぱり私なんかが普通の着物を着る資格なんか、ない…ですよね。ここに居させて貰えるだけで十分なはずなのに、そんな贅沢を…」
「ちょっ、ちょっと待ってください。椿さん、あの…なんの話を…?」
「ですから〜、椿ちゃんが普通の着物で生活したいって話ですよ〜。利吉さんこそ何の話をしてるんですか?」
割って入った間の抜けた声に、聞いたのは君じゃないんだよという意味を込めて睨みつける。
小松田にそれが通じるはずもなかったのだが…
利吉は素早く椿に向き直り詫びを入れる。
「椿さんすみません。話を見失いました。訳を聞いても良いでしょうか?」
「はい……実は、食堂のおばちゃんから着物のお古を頂いたのです。今着ている物は学園から借りていた物ですし、自分の着物を着た方が良いかなと思いまして……」
どうやら完全なる勘違いだったようだが、それは決して顔に出さずに彼女に話の続きを促す。
「そのことと小松田君と、何の繋がりがあるのですか?」
「椿ちゃんと僕がお揃いだったから、気を使ってくれたんですよ。」
再び口を挟んだ小松田に、利吉は今度こそは声を上げた。
「君には聞いていないんだよ!」
「いっ、痛いですよー!やめてくださいー!」
感情に任せて小松田の両頬を思い切り引っ張った。
自分の勘違いに気付いて恥ずかしい思いもあったが、小松田が口を挟むのでそれを隠すように感情を怒りに変換させた。
完全に逆ギレ、である。
「り、利吉さん、そのへんで……私このままでいますから!」
何かを勘違いしたらしい彼女が小松田を庇うように言うのだから、これは面白くない。
小松田を捨てるように手を離すと利吉は椿に向き直る。
「いえ!ぜひその着物姿を見せてください。」
「でも…」
「言ったではないですか、私は椿さんの選択を支持すると。」
「それってなんだか違う気がしますけどぉ…」
涙目になりながら赤くなった頬を撫でる小松田、口を挟んだ彼の足を椿にバレないように思い切り踏みつける。
「いだっ!!」
「椿さん、よりにもよってこの小松田君とお揃いだなんて……憐れ過ぎる!どうか私のためにも着物を着てください。そうするべきです。」
いつの間にか両手を包むように握られ、利吉の熱弁に圧倒されるように椿は短く返事をした。
彼女の答えに心底安心したように表情を緩める利吉は、楽しみにしていますと一言付け足す。
「ところで利吉さん、今日は随分早くからいらしたのですね?」
「ああ……はい。実は明日から一週間程帰らないので父にその報告をと思いまして。」
「お仕事ですか?」
「はい。ご安心ください、危険なものではありません。ただ、あなたの着替えた姿を見るのは少しの間お預けになるのが残念です。」
「利吉さん……」
「……どうでもいいですけど、入門票書いてくださいね。」
小松田が恨みがましく利吉を見ながら割り込んできた。
邪魔が入ったことに抗議しようとしたが椿が思い出したように小松田の心配をしたので、何も言えずにサインを殴り書いた。
「利吉さん、山田先生なら自室にいらっしゃると思います。今お茶お持ちしますね。」
椿はそう言って食堂へ向かう。
後ろ姿に利吉は声をかけた。
「ありがとうございます。」
「あ、椿ちゃん、お茶なら僕が…」
「小松田君、君はこっち。」
入門票を小松田に押し付ける。
せっかく彼女が茶を運んでくれると言うのに、何故小松田に持ってきてもらわねばならんのだ。
「……利吉さん、さっきから僕の邪魔してませんか?」
「その言葉、そのまま返すよ。」
そう言い捨てると利吉は山田の元へ向かった。
残された小松田は不満顔で利吉の姿を目で追った。
「一体、何だって言うんだろ…」
いつものように声をかけると中から返事が返ってくる。
利吉が引き戸を開けて山田の姿を確認すると、そこには土井の姿もあった。
挨拶もそこそこに利吉が山田の前に静かに座る。
「なんだ利吉、今日は随分早いな。」
「ええ、まあ。実は仕事が入りまして、こちらにはしばらく顔を出せないと思ったので…」
それを聞いた土井は立ち上がり部屋を後にしようとする。
「土井先生?」
「火薬委員会の仕事があったので少し外してきます。」
せっかくなので親子水入らずでどうぞと言って戸を閉めた土井に対し、山田はいらん気を使いやがってと零す。
「あ、土井先生。」
引き戸を閉めて廊下に出た土井に声をかけたのは椿だった。
「椿さん」
彼女は茶を持って来たのだろう。
手に持つ盆には湯気を立てた湯呑みが三つ、山田と利吉、残りの一つは恐らく土井の分だろう。
「お出かけですか?」
「あ、いや、利吉君が来ているので、山田先生と二人にしてあげた方が良いかと思って。」
「そうですね、利吉さん忙しくなるみたいでしたし…、山田先生、失礼します。」
土井に軽く会釈をすると椿は部屋の中へ入って行った。
微かに聞こえる会話、一言二言交わすと彼女はすぐに出てきた。
そこに土井の姿があったことに彼女は少し驚いた表情を見せながら引き戸を閉める。
「あれ?土井先生?」
「せっかくですから……お茶を頂こうかと思いまして。」
委員会の仕事はあくまで口実だった。
椿が自分のために入れた茶を捨てることは出来ずに、どうせなら空いた時間を彼女と過ごしたい。
盆の上に残った湯呑みに目をやるとそれに気づいた椿は、パッと顔を明るくさせた。
「では食堂へどうぞ。」
「はい。」
彼女の見せた笑顔につられてしまう。
ああ、なんて穏やかで心地良い瞬間だろう。
そんなことを考えながら土井は椿の隣りを歩いた。
食堂に入るとそこには斜堂の姿があり、彼もまた茶で一息ついているところだった。
土井が声をかけてその向かいの席に腰を落ち着ける。
椿が茶を入れ直そうとしたので、ちょうどいい頃合いだからとそのまま盆の湯呑みを貰った。
彼女は二人にごゆっくりと声をかけると奥へ引っ込んでしまう。
その後ろ姿を少しだけ寂しい気持ちで見送ると、斜堂が話しかけてきた。
「土井先生もご休憩ですか?」
「ええ、今利吉君が来ているので、山田先生と二人にしてあげたほうが落ち着けるかと思いまして。」
「そうでしたか、利吉君も忙しそうですからね。」
「またしばらく顔を出せないかもと言っていましたから。」
「最近はまた物騒になってきましたからね。そういえば知っていますか?近頃、学園の周辺にも賊が出るそうなんです。」
斜堂の言葉に土井は表情を固くする。
最近新たに現れたという山賊の類、その行動範囲は聞く度に広がっていてとうとうこの忍術学園の近場にも現れるようになったらしい。
「ええ、聞いています。生徒には十分気をつけるように言っていますが。」
「そうですね、ただ普通の賊とはちょっと毛色が違う感じがしますがね。」
「と、言いますと?」
「私が聞いた話ですと、奴らは金品を奪うことは稀だそうです。しかも狙われるのは若い人ばかり。我々より上の人間には手を出して来ないらしいですよ。」
「金品を奪わないのですか?それは聞いたことがない、妙な話ですね。一体何の目的で…」
「ちょっと、先生方。」
土井と斜堂の話に入って来たのは食堂のおばちゃんだった。
厨房内で二人の話を聞いていたらしく、心配そうな顔をして食卓の近くまで来ていた。
「今の話聞こえちゃったんだけど、それ知ってるわ。若い人って言うのも限定的で、上級生くらいの歳の子たちがよく被害に遭ってるみたいよ。ちょうど、椿ちゃんくらいの、ね。」
おばちゃんの話に土井は密かに拳を握った。
もし椿が襲われるなんてことが起こったら……想像などしたくはない。
賊の話が落ち着くまで、彼女の行動に注意を払わなければならなそうだ。
学園の中にいたとしても、確実に安全だとは言えない。
「何をされるかなんて考えたくもないけど、当分の間、外出は控えた方が良さそうね。」
「そうですね、やむを得なく出るとしたら誰かが一緒に行った方が良さそうです。」
「そうよね、ということでよろしくね、土井先生。」
「…………はい?」
名指しされた土井は面を食らった。
「明日椿ちゃんがどうしても行きたいところがあるらしくて、私が一緒に行こうと思ってたんだけど、いざって時に何も出来ないでしょう?土井先生が一緒ならあの子を守ることくらい造作もないじゃない。そうよ、その方が安心だわ。」
「…………」
おばちゃんの満面の笑みに土井は謀られた気がした。
自分が密かに彼女を想っているなど、誰にも悟らせないようにしていたのに。
これが女性の勘というものだろうか。
いや、まだそうだと決まったわけではない。
たまたま自分がここにいて、おばちゃんの目にはちょうど良い人材に写っただけかも知れない。
いや、では斜堂ではなく自分を名指しした理由はなんなのか。
「……なっ」
何故私を指名するのか……と言いかけて止めた。
言ってしまったら返ってくる言葉を聞くのが恐ろしい。
付き添うと言うならいざというときのために生徒よりも先生の方がいい。
ちょうど今、話を聞いた先生が都合が良い。
斜堂は天気の良い日は動けないし、ならば土井しか適任はいない。
それになにより土井は椿のことを……
!!
おばちゃんが土井の心を知っているかもわからないのに、有無を言わさぬ笑顔に押し黙るしかなかった。
この場に斜堂も居るし、彼女も厨房にいるのだろう。
今の話を聞いているに違いない。
知られる訳にはいかない。
こんなところで玉砕などごめんだ。
おばちゃんが下手に口を開くのを阻止するしかない。
それにはおばちゃんの提案をおとなしく受けるしか道がなかった。
「……わ、わかりました。」
「あら良かった!じゃあ椿ちゃんには先生から伝えておいてくださいね。」
「え、椿さんはそこに居るんじゃ?」
「さっき保健委員の子たちに呼ばれて行っちゃったのよ。だから土井先生、よろしくね。」
「あ……………はい……」
てっきり彼女がすぐ近くにいて今の会話を聞いているものだと思ったが、そうではなかったようだ。
少し安堵したように体の力を抜いた。
その様子をじっと見ていた斜堂が、大変ですねと声をかけ茶を啜った。
「戻りましたー。」
そう言いながら医務室の戸を乱太郎が開ける。
椿は乱太郎と伏木蔵に連れられて医務室に来ていた。
合わせたい人がいるとのことだった。
少し緊張した椿の様子を察したのか、伏木蔵が声をかける。
「椿さん、大丈夫ですよ。」
「う、うん。」
二人に促されて医務室を覗く。
伊作が温かい笑顔で椿を迎え入れたが、その奥に座る人物に目を奪われることになる。
体の大きさからして大人の男性、黒い装束を身に纏い片眼を除いて布で覆われた顔からは表情を読むことができない。
その唯一情報を読み取ることができる片眼の周りも、皮膚が荒れている様子がわかる。
浅黒く変色し、よれて固まったように見えるそれは椿に恐ろしささえ与えた。
全く知らない、大人の男。
それだけでもすくみ上がるのに交わった視線の先で男の目が細められたのが見えた。
椿は声も出せずに体を固くする。
「椿ちゃん、こちら雑渡昆奈門さん。大丈夫、悪い人じゃない。」
伊作の言葉を聞いて保健委員を見回せば、皆可愛らしい笑顔を見せている。
彼らの様子に張っていた緊張を少し緩める。
忍たまたちの信頼を得ているようで椿も信じてみようという気になった。
「こなもんさんは曲者さんなんですけど、優しい人なんですよ。」
「伏木蔵君、"昆奈門"だよ。」
伏木蔵の間違いを訂正して発した低すぎない低音、それに思っていたよりも優しい口調だった。
雑渡は立ち上がるとゆっくりと椿に近づいた。
近くで見上げると、その身長の高さに少しだけドキリとする。
「初めまして。雑渡昆奈門だ。君が、最近忍術学園に来たという…」
「あ、はい。竹森椿です。」
「竹森……椿……」
彼女の名を噛みしめるように雑渡は呟く。
椿の頭の先から爪先までを流し見て口布の奥で口角を上げた。
「……あ、あの…?」
「ああ、すまない。知っている人に似ていると思っただけだ。ジロジロ見るような真似をして女性に対して失礼をした。」
「いえ、大丈夫です。」
「雑渡さん、彼女に何か用でしたか?」
伊作が口を挟んだ。
雑渡が忍術学園に新しく入ったお手伝いさんに会いに来たと言うから椿を呼んだのだが、正直に言うとあまりいい気はしていない。
自分から彼女のことを話したことはなかったので、伊作の知らないところで乱太郎か伏木蔵あたりが雑渡に漏らしてしまったのだろう。
彼女は普通の人ではない。
自分たち忍びを志す者とも違うし、身近な農民、商人とも違う。
少なくとも伊作がこれまでの人生で関わることなど恐れ多くもなかった人だ。
彼女自身はその事実を隠してきたし、これからも普通の生活を望むのだろう。
雑渡が彼女の何に興味を持ったのか知らない。
ただの興味本位で近づいたにしろ、探るように見られるのは嫌だと思った。
伊作の意を読み解いた雑渡は目を伏せる。
「大丈夫だよ伊作君。ただ食堂のお手伝いさんと聞いて今後世話になるかも知れないと思っただけだ。」
「……」
「私が何かお力になれるようなことがあるのでしょうか?」
「ああ。たまにこちらで雑炊を分けてもらっていたので、君と顔見知りになっていた方が都合がいいと思ったのでね。」
雑渡の言葉に納得したのか、椿はふわりと微笑んで見せた。
「そうでしたか。そういうことならいつでもお声がけください。」
「……ああ、ありがとう。伊作君、今日はこれで失礼するよ。」
「はい。」
雑渡はそのまま椿とすれ違って医務室の外に出た。
保健委員が見送る視線を送ると中庭でふと思い出したように立ち止まる。
「そうだ、忘れるところだった。」
踵を返して椿の前まで進み出ると懐から細長い箱を取り出した。
「これは先日貰った品なんだが、私には必要ないものなので君にこれを挨拶代わりに。」
「え?私に?」
雑渡が差し出した箱を両手でそっと受け取る。
両端にいる乱太郎と伏木蔵が興味津々な様子で覗き込んでいた。
「開けて見ても?」
「どうぞ。」
蓋を開け物が包まれている布を開くと、乱太郎と伏木蔵は目を輝かせ感嘆を零した。
「わー綺麗!」
「素敵ですね!」
対照的に椿は困惑したような顔を見せた。
中に入っていたのは扇であった。
ただし、庶民が使うそれとは明らかな違いが見られる。
扇骨は全て金色に塗られ、親骨には職人が手彫りした華やかな模様。
乱太郎に急かされて恐る恐る扇を開いてみる。
白い和紙に描かれていたのは、堂々とした力強い美しさが見られる鮮やかな桃色の花。
「……っ!」
椿は声を抑えるように手で口元を隠す。
扇を持つ手は震えているようだった。
恐らく乱太郎と伏木蔵は物珍しい扇に目を奪われて、彼女の様子には気付いていないだろう。
雑渡はそれを黙って見ていた。
「……あの、これっ!」
「それは私が持つより君に似合うと思う。だからあげる。」
「これを、……これをどこで手に入れたのですか?」
「教えられない。」
椿が雑渡に詰め寄る。
「雑渡さん!お願いします、教えて下さい!」
「…………」
彼女の瞳に映る自分、悪くはないなと思った。
だが堪能している時間も惜しくなる程、時の流れは無情だ。
「……それは、顔も素性も知らない人物から譲り受けた物だ。私はたまたま受け取っただけなんだよ、だから教えられない。」
「……………………そう、ですか…」
椿は落胆を隠せなかった。
手の中の扇を大切そうに抱きしめる。
心臓が苦しいくらいに鳴っているのを感じる。
一息つくと椿は顔を上げて雑渡を見つめた。
「雑渡さん、ありがとうございました。」
「ん、気に入って貰えて良かった。ではまた。」
雑渡は一瞬にして姿を消した。
椿は彼がいた場所を見つめたまま動かない。
「それ、凄く高価な物なんでしょうね。」
「金色に光ってて見たことないですよね。」
「うん、そうだね。」
乱太郎と伏木蔵の言葉にも、どこか上の空に答えた。
「椿ちゃん」
それまで見守っていた伊作が傍らに立つ。
彼を見上げると心配そうな瞳がこちらを見ている。
「大丈夫?」
「伊作…」
その瞬間に思い出す。
彼は心配し過ぎなキライがあった。
また変に誤解させてしまうことは忍びない。
「うん、大丈夫。ありがとう。」
「……うん。……それは?」
椿が大事そうに抱えるそれ、金色の扇。
あんなに必死に出処を探ろうとしていた彼女に一抹の不安が過ぎったのは嘘ではない。
自分の知らない彼女の素顔が露見している感覚に陥り、居ても立っても居られない。
椿も伊作の考えがわかっていた。
一年生もいる前で不安にさせるような態度を取ったのは反省に値する。
ただ、あの時は、どうしても自分を制御出来なかった。
「これはね……」
黒の中に溶け込むようにして身を沈めた。
言葉も少なく雑渡を迎え入れた黒い男たち。
その全ての視線を受けながら雑渡は涼しい目をしてその中の一人に指示を出す。
「奴に伝えろ。」
男が小さく頷くとその気配はなくなった。
「組頭」
一番若い顔の男が雑渡に声をかける。
「そちらの方はどうするんです?」
「お前に任せるよ、尊奈門。」
尊奈門と呼ばれた若い男は雑渡の言葉に頷いた。
ただし、と雑渡が付け足す。
「土井先生とばかり遊ぶことのないように。」
「あ、遊んでなどおりません!私はいつだって本気で…!」
「返り討ちに遭っている、と。」
「ちょっと、高坂さん!」
黒い男たちが笑った。
尊奈門だけは眉間に皺を寄せて何か言いたそうに口を尖らせる。
雑渡は忍術学園の方向を振り返ると、目を細めて呟く。
「月は隠れていても、その輝きは隠せないものだな。」
いつも通りの道なはずなのに。
心が軽く、浮足立ってしまうのはなぜなのか。
頼まれごとをしたから、だからここへ参った、というのは建前で本音を言えば彼女に会いに来たというのがそれに当たるのだろう。
彼女が現れてからこの場所を訪れる楽しみが増えて用がなくても足を運びたくなる。
それが何故であるのか、自分でわかっていた。
彼女に会いたい、顔を見たい、声を聞きたい、自分に笑いかけて欲しい。
そして利吉は忍術学園の門をくぐった。
いつもなら鬱陶しいくらいに寄ってくる小松田が姿を見せない。
なんだ、いないのか?
小松田のことなど正直どうでもいいのだが、この仕事に命をかけているように見える彼の姿がないことに少しばかり心配になってしまう。
留守ならばいいのだが…
そう思いながら歩を進めると話し声が聞こえ、小松田と思わしきそれに顔をしかめた。
普段どんな侵入者にもすぐに反応するくせに、今日は寄ってくる気配がないことを怠慢だと感じたのもあるかも知れない。
だが覗き見た小松田の話し相手が利吉の想い人であったのだから、良く思わなかった理由はそれだったかも知れない、いやそれであったのだろう。
「椿ちゃん、それ本当?」
「うん、ずっと考えていたの……だめ、かな?」
小松田を前にしてどこか緊張した様子の椿。
胸の前で握られた拳は力が入っているように見える。
「だめだなんてそんなこと!僕は大歓迎だよ。」
大歓迎…?
一体彼女は何を提案したのか?
「本当?良かった!……なんだか照れるね。」
「えへへ。そうかも。」
嬉しそうに微笑む彼女と小松田、二人のこの雰囲気はただの会話には思えない。
まるで春が来たかのように花が咲くその空気は、錯覚だとわかっていても消えてくれることがない。
これは、そう……考えたくはないが、ひょっとして…
「椿さん!」
「あ、利吉さん。こんにちは。」
居ても立ってもいられず飛び出した利吉に椿は軽く返事をする。
それが妙に思えて拍子抜けしてしまいそうだったが、今の利吉にそんなことを気にする余裕はない。
入門票を取り出す小松田を捨て置いて椿に詰め寄った。
「椿さん、小松田君で良いのですか!?こんなへっぽこ事務員で!?」
「む、へっぽことは何ですか!」
「え?あの…」
「いや、あなたが選んだ道ならば私も受け入れざるを得ないでしょう。しかし、早急に答えを出さなければならないことでもないはずです。どうか、もう一度考えて直してください。」
利吉の真剣な眼差しに椿は戸惑った。
なにより、彼が小松田でいいのかと言った意味はわからない。
わからないが、利吉に反対されていることだけはわかる。
「利吉さん、酷いじゃないですか〜!僕にだって自尊心と言うものがありますよ。」
「小松田君、私が学園に入ったというのに姿を現さないで……しかも椿さんといい感じになっていたりして……よくも自尊心がだなんて言えたなこの口が。だいたい君は…前作でほぼ出番がなかったくせに、いつの間に椿さんと…………そんな関係になったんだ!」
「何言ってるんですか?」
「あの、利吉さん…」
「はい。」
小松田に食ってかかる利吉に椿が言葉を挟む。
困惑のような悲愴のような彼女の表情に利吉の心が少し痛む。
彼女の気持ちを改めるように自分の考えを押し付けたのだから、こうなることはわかっていたはずだ。
「利吉さんは、反対なのですね…」
「はい」
何を言われようが彼女が残念に思おうが、小松田を選ぶことだけはどうしても避けたい。避けて欲しい。
自分を選ばずとも、この小松田を選ばれることこそが利吉の自尊心を傷付けることになる。
譲れない。
「……この忍装束の方が良い……でしょうか?」
「はい」
「………」
「………………え?」
途端に話を見失い、非常に間抜けな疑問符を口にして椿を見る。
忍、装束……?
一体、なんのことか?
椿は身につけている鈍色の忍装束に目を落としている。
これは学園に転がり込んだ椿が手荷物の一つも持たなかったため、借りているものだと聞いている。
面白くないことに小松田のそれと同じものだった。
「そう…ですよね。やっぱり私なんかが普通の着物を着る資格なんか、ない…ですよね。ここに居させて貰えるだけで十分なはずなのに、そんな贅沢を…」
「ちょっ、ちょっと待ってください。椿さん、あの…なんの話を…?」
「ですから〜、椿ちゃんが普通の着物で生活したいって話ですよ〜。利吉さんこそ何の話をしてるんですか?」
割って入った間の抜けた声に、聞いたのは君じゃないんだよという意味を込めて睨みつける。
小松田にそれが通じるはずもなかったのだが…
利吉は素早く椿に向き直り詫びを入れる。
「椿さんすみません。話を見失いました。訳を聞いても良いでしょうか?」
「はい……実は、食堂のおばちゃんから着物のお古を頂いたのです。今着ている物は学園から借りていた物ですし、自分の着物を着た方が良いかなと思いまして……」
どうやら完全なる勘違いだったようだが、それは決して顔に出さずに彼女に話の続きを促す。
「そのことと小松田君と、何の繋がりがあるのですか?」
「椿ちゃんと僕がお揃いだったから、気を使ってくれたんですよ。」
再び口を挟んだ小松田に、利吉は今度こそは声を上げた。
「君には聞いていないんだよ!」
「いっ、痛いですよー!やめてくださいー!」
感情に任せて小松田の両頬を思い切り引っ張った。
自分の勘違いに気付いて恥ずかしい思いもあったが、小松田が口を挟むのでそれを隠すように感情を怒りに変換させた。
完全に逆ギレ、である。
「り、利吉さん、そのへんで……私このままでいますから!」
何かを勘違いしたらしい彼女が小松田を庇うように言うのだから、これは面白くない。
小松田を捨てるように手を離すと利吉は椿に向き直る。
「いえ!ぜひその着物姿を見せてください。」
「でも…」
「言ったではないですか、私は椿さんの選択を支持すると。」
「それってなんだか違う気がしますけどぉ…」
涙目になりながら赤くなった頬を撫でる小松田、口を挟んだ彼の足を椿にバレないように思い切り踏みつける。
「いだっ!!」
「椿さん、よりにもよってこの小松田君とお揃いだなんて……憐れ過ぎる!どうか私のためにも着物を着てください。そうするべきです。」
いつの間にか両手を包むように握られ、利吉の熱弁に圧倒されるように椿は短く返事をした。
彼女の答えに心底安心したように表情を緩める利吉は、楽しみにしていますと一言付け足す。
「ところで利吉さん、今日は随分早くからいらしたのですね?」
「ああ……はい。実は明日から一週間程帰らないので父にその報告をと思いまして。」
「お仕事ですか?」
「はい。ご安心ください、危険なものではありません。ただ、あなたの着替えた姿を見るのは少しの間お預けになるのが残念です。」
「利吉さん……」
「……どうでもいいですけど、入門票書いてくださいね。」
小松田が恨みがましく利吉を見ながら割り込んできた。
邪魔が入ったことに抗議しようとしたが椿が思い出したように小松田の心配をしたので、何も言えずにサインを殴り書いた。
「利吉さん、山田先生なら自室にいらっしゃると思います。今お茶お持ちしますね。」
椿はそう言って食堂へ向かう。
後ろ姿に利吉は声をかけた。
「ありがとうございます。」
「あ、椿ちゃん、お茶なら僕が…」
「小松田君、君はこっち。」
入門票を小松田に押し付ける。
せっかく彼女が茶を運んでくれると言うのに、何故小松田に持ってきてもらわねばならんのだ。
「……利吉さん、さっきから僕の邪魔してませんか?」
「その言葉、そのまま返すよ。」
そう言い捨てると利吉は山田の元へ向かった。
残された小松田は不満顔で利吉の姿を目で追った。
「一体、何だって言うんだろ…」
いつものように声をかけると中から返事が返ってくる。
利吉が引き戸を開けて山田の姿を確認すると、そこには土井の姿もあった。
挨拶もそこそこに利吉が山田の前に静かに座る。
「なんだ利吉、今日は随分早いな。」
「ええ、まあ。実は仕事が入りまして、こちらにはしばらく顔を出せないと思ったので…」
それを聞いた土井は立ち上がり部屋を後にしようとする。
「土井先生?」
「火薬委員会の仕事があったので少し外してきます。」
せっかくなので親子水入らずでどうぞと言って戸を閉めた土井に対し、山田はいらん気を使いやがってと零す。
「あ、土井先生。」
引き戸を閉めて廊下に出た土井に声をかけたのは椿だった。
「椿さん」
彼女は茶を持って来たのだろう。
手に持つ盆には湯気を立てた湯呑みが三つ、山田と利吉、残りの一つは恐らく土井の分だろう。
「お出かけですか?」
「あ、いや、利吉君が来ているので、山田先生と二人にしてあげた方が良いかと思って。」
「そうですね、利吉さん忙しくなるみたいでしたし…、山田先生、失礼します。」
土井に軽く会釈をすると椿は部屋の中へ入って行った。
微かに聞こえる会話、一言二言交わすと彼女はすぐに出てきた。
そこに土井の姿があったことに彼女は少し驚いた表情を見せながら引き戸を閉める。
「あれ?土井先生?」
「せっかくですから……お茶を頂こうかと思いまして。」
委員会の仕事はあくまで口実だった。
椿が自分のために入れた茶を捨てることは出来ずに、どうせなら空いた時間を彼女と過ごしたい。
盆の上に残った湯呑みに目をやるとそれに気づいた椿は、パッと顔を明るくさせた。
「では食堂へどうぞ。」
「はい。」
彼女の見せた笑顔につられてしまう。
ああ、なんて穏やかで心地良い瞬間だろう。
そんなことを考えながら土井は椿の隣りを歩いた。
食堂に入るとそこには斜堂の姿があり、彼もまた茶で一息ついているところだった。
土井が声をかけてその向かいの席に腰を落ち着ける。
椿が茶を入れ直そうとしたので、ちょうどいい頃合いだからとそのまま盆の湯呑みを貰った。
彼女は二人にごゆっくりと声をかけると奥へ引っ込んでしまう。
その後ろ姿を少しだけ寂しい気持ちで見送ると、斜堂が話しかけてきた。
「土井先生もご休憩ですか?」
「ええ、今利吉君が来ているので、山田先生と二人にしてあげたほうが落ち着けるかと思いまして。」
「そうでしたか、利吉君も忙しそうですからね。」
「またしばらく顔を出せないかもと言っていましたから。」
「最近はまた物騒になってきましたからね。そういえば知っていますか?近頃、学園の周辺にも賊が出るそうなんです。」
斜堂の言葉に土井は表情を固くする。
最近新たに現れたという山賊の類、その行動範囲は聞く度に広がっていてとうとうこの忍術学園の近場にも現れるようになったらしい。
「ええ、聞いています。生徒には十分気をつけるように言っていますが。」
「そうですね、ただ普通の賊とはちょっと毛色が違う感じがしますがね。」
「と、言いますと?」
「私が聞いた話ですと、奴らは金品を奪うことは稀だそうです。しかも狙われるのは若い人ばかり。我々より上の人間には手を出して来ないらしいですよ。」
「金品を奪わないのですか?それは聞いたことがない、妙な話ですね。一体何の目的で…」
「ちょっと、先生方。」
土井と斜堂の話に入って来たのは食堂のおばちゃんだった。
厨房内で二人の話を聞いていたらしく、心配そうな顔をして食卓の近くまで来ていた。
「今の話聞こえちゃったんだけど、それ知ってるわ。若い人って言うのも限定的で、上級生くらいの歳の子たちがよく被害に遭ってるみたいよ。ちょうど、椿ちゃんくらいの、ね。」
おばちゃんの話に土井は密かに拳を握った。
もし椿が襲われるなんてことが起こったら……想像などしたくはない。
賊の話が落ち着くまで、彼女の行動に注意を払わなければならなそうだ。
学園の中にいたとしても、確実に安全だとは言えない。
「何をされるかなんて考えたくもないけど、当分の間、外出は控えた方が良さそうね。」
「そうですね、やむを得なく出るとしたら誰かが一緒に行った方が良さそうです。」
「そうよね、ということでよろしくね、土井先生。」
「…………はい?」
名指しされた土井は面を食らった。
「明日椿ちゃんがどうしても行きたいところがあるらしくて、私が一緒に行こうと思ってたんだけど、いざって時に何も出来ないでしょう?土井先生が一緒ならあの子を守ることくらい造作もないじゃない。そうよ、その方が安心だわ。」
「…………」
おばちゃんの満面の笑みに土井は謀られた気がした。
自分が密かに彼女を想っているなど、誰にも悟らせないようにしていたのに。
これが女性の勘というものだろうか。
いや、まだそうだと決まったわけではない。
たまたま自分がここにいて、おばちゃんの目にはちょうど良い人材に写っただけかも知れない。
いや、では斜堂ではなく自分を名指しした理由はなんなのか。
「……なっ」
何故私を指名するのか……と言いかけて止めた。
言ってしまったら返ってくる言葉を聞くのが恐ろしい。
付き添うと言うならいざというときのために生徒よりも先生の方がいい。
ちょうど今、話を聞いた先生が都合が良い。
斜堂は天気の良い日は動けないし、ならば土井しか適任はいない。
それになにより土井は椿のことを……
!!
おばちゃんが土井の心を知っているかもわからないのに、有無を言わさぬ笑顔に押し黙るしかなかった。
この場に斜堂も居るし、彼女も厨房にいるのだろう。
今の話を聞いているに違いない。
知られる訳にはいかない。
こんなところで玉砕などごめんだ。
おばちゃんが下手に口を開くのを阻止するしかない。
それにはおばちゃんの提案をおとなしく受けるしか道がなかった。
「……わ、わかりました。」
「あら良かった!じゃあ椿ちゃんには先生から伝えておいてくださいね。」
「え、椿さんはそこに居るんじゃ?」
「さっき保健委員の子たちに呼ばれて行っちゃったのよ。だから土井先生、よろしくね。」
「あ……………はい……」
てっきり彼女がすぐ近くにいて今の会話を聞いているものだと思ったが、そうではなかったようだ。
少し安堵したように体の力を抜いた。
その様子をじっと見ていた斜堂が、大変ですねと声をかけ茶を啜った。
「戻りましたー。」
そう言いながら医務室の戸を乱太郎が開ける。
椿は乱太郎と伏木蔵に連れられて医務室に来ていた。
合わせたい人がいるとのことだった。
少し緊張した椿の様子を察したのか、伏木蔵が声をかける。
「椿さん、大丈夫ですよ。」
「う、うん。」
二人に促されて医務室を覗く。
伊作が温かい笑顔で椿を迎え入れたが、その奥に座る人物に目を奪われることになる。
体の大きさからして大人の男性、黒い装束を身に纏い片眼を除いて布で覆われた顔からは表情を読むことができない。
その唯一情報を読み取ることができる片眼の周りも、皮膚が荒れている様子がわかる。
浅黒く変色し、よれて固まったように見えるそれは椿に恐ろしささえ与えた。
全く知らない、大人の男。
それだけでもすくみ上がるのに交わった視線の先で男の目が細められたのが見えた。
椿は声も出せずに体を固くする。
「椿ちゃん、こちら雑渡昆奈門さん。大丈夫、悪い人じゃない。」
伊作の言葉を聞いて保健委員を見回せば、皆可愛らしい笑顔を見せている。
彼らの様子に張っていた緊張を少し緩める。
忍たまたちの信頼を得ているようで椿も信じてみようという気になった。
「こなもんさんは曲者さんなんですけど、優しい人なんですよ。」
「伏木蔵君、"昆奈門"だよ。」
伏木蔵の間違いを訂正して発した低すぎない低音、それに思っていたよりも優しい口調だった。
雑渡は立ち上がるとゆっくりと椿に近づいた。
近くで見上げると、その身長の高さに少しだけドキリとする。
「初めまして。雑渡昆奈門だ。君が、最近忍術学園に来たという…」
「あ、はい。竹森椿です。」
「竹森……椿……」
彼女の名を噛みしめるように雑渡は呟く。
椿の頭の先から爪先までを流し見て口布の奥で口角を上げた。
「……あ、あの…?」
「ああ、すまない。知っている人に似ていると思っただけだ。ジロジロ見るような真似をして女性に対して失礼をした。」
「いえ、大丈夫です。」
「雑渡さん、彼女に何か用でしたか?」
伊作が口を挟んだ。
雑渡が忍術学園に新しく入ったお手伝いさんに会いに来たと言うから椿を呼んだのだが、正直に言うとあまりいい気はしていない。
自分から彼女のことを話したことはなかったので、伊作の知らないところで乱太郎か伏木蔵あたりが雑渡に漏らしてしまったのだろう。
彼女は普通の人ではない。
自分たち忍びを志す者とも違うし、身近な農民、商人とも違う。
少なくとも伊作がこれまでの人生で関わることなど恐れ多くもなかった人だ。
彼女自身はその事実を隠してきたし、これからも普通の生活を望むのだろう。
雑渡が彼女の何に興味を持ったのか知らない。
ただの興味本位で近づいたにしろ、探るように見られるのは嫌だと思った。
伊作の意を読み解いた雑渡は目を伏せる。
「大丈夫だよ伊作君。ただ食堂のお手伝いさんと聞いて今後世話になるかも知れないと思っただけだ。」
「……」
「私が何かお力になれるようなことがあるのでしょうか?」
「ああ。たまにこちらで雑炊を分けてもらっていたので、君と顔見知りになっていた方が都合がいいと思ったのでね。」
雑渡の言葉に納得したのか、椿はふわりと微笑んで見せた。
「そうでしたか。そういうことならいつでもお声がけください。」
「……ああ、ありがとう。伊作君、今日はこれで失礼するよ。」
「はい。」
雑渡はそのまま椿とすれ違って医務室の外に出た。
保健委員が見送る視線を送ると中庭でふと思い出したように立ち止まる。
「そうだ、忘れるところだった。」
踵を返して椿の前まで進み出ると懐から細長い箱を取り出した。
「これは先日貰った品なんだが、私には必要ないものなので君にこれを挨拶代わりに。」
「え?私に?」
雑渡が差し出した箱を両手でそっと受け取る。
両端にいる乱太郎と伏木蔵が興味津々な様子で覗き込んでいた。
「開けて見ても?」
「どうぞ。」
蓋を開け物が包まれている布を開くと、乱太郎と伏木蔵は目を輝かせ感嘆を零した。
「わー綺麗!」
「素敵ですね!」
対照的に椿は困惑したような顔を見せた。
中に入っていたのは扇であった。
ただし、庶民が使うそれとは明らかな違いが見られる。
扇骨は全て金色に塗られ、親骨には職人が手彫りした華やかな模様。
乱太郎に急かされて恐る恐る扇を開いてみる。
白い和紙に描かれていたのは、堂々とした力強い美しさが見られる鮮やかな桃色の花。
「……っ!」
椿は声を抑えるように手で口元を隠す。
扇を持つ手は震えているようだった。
恐らく乱太郎と伏木蔵は物珍しい扇に目を奪われて、彼女の様子には気付いていないだろう。
雑渡はそれを黙って見ていた。
「……あの、これっ!」
「それは私が持つより君に似合うと思う。だからあげる。」
「これを、……これをどこで手に入れたのですか?」
「教えられない。」
椿が雑渡に詰め寄る。
「雑渡さん!お願いします、教えて下さい!」
「…………」
彼女の瞳に映る自分、悪くはないなと思った。
だが堪能している時間も惜しくなる程、時の流れは無情だ。
「……それは、顔も素性も知らない人物から譲り受けた物だ。私はたまたま受け取っただけなんだよ、だから教えられない。」
「……………………そう、ですか…」
椿は落胆を隠せなかった。
手の中の扇を大切そうに抱きしめる。
心臓が苦しいくらいに鳴っているのを感じる。
一息つくと椿は顔を上げて雑渡を見つめた。
「雑渡さん、ありがとうございました。」
「ん、気に入って貰えて良かった。ではまた。」
雑渡は一瞬にして姿を消した。
椿は彼がいた場所を見つめたまま動かない。
「それ、凄く高価な物なんでしょうね。」
「金色に光ってて見たことないですよね。」
「うん、そうだね。」
乱太郎と伏木蔵の言葉にも、どこか上の空に答えた。
「椿ちゃん」
それまで見守っていた伊作が傍らに立つ。
彼を見上げると心配そうな瞳がこちらを見ている。
「大丈夫?」
「伊作…」
その瞬間に思い出す。
彼は心配し過ぎなキライがあった。
また変に誤解させてしまうことは忍びない。
「うん、大丈夫。ありがとう。」
「……うん。……それは?」
椿が大事そうに抱えるそれ、金色の扇。
あんなに必死に出処を探ろうとしていた彼女に一抹の不安が過ぎったのは嘘ではない。
自分の知らない彼女の素顔が露見している感覚に陥り、居ても立っても居られない。
椿も伊作の考えがわかっていた。
一年生もいる前で不安にさせるような態度を取ったのは反省に値する。
ただ、あの時は、どうしても自分を制御出来なかった。
「これはね……」
黒の中に溶け込むようにして身を沈めた。
言葉も少なく雑渡を迎え入れた黒い男たち。
その全ての視線を受けながら雑渡は涼しい目をしてその中の一人に指示を出す。
「奴に伝えろ。」
男が小さく頷くとその気配はなくなった。
「組頭」
一番若い顔の男が雑渡に声をかける。
「そちらの方はどうするんです?」
「お前に任せるよ、尊奈門。」
尊奈門と呼ばれた若い男は雑渡の言葉に頷いた。
ただし、と雑渡が付け足す。
「土井先生とばかり遊ぶことのないように。」
「あ、遊んでなどおりません!私はいつだって本気で…!」
「返り討ちに遭っている、と。」
「ちょっと、高坂さん!」
黒い男たちが笑った。
尊奈門だけは眉間に皺を寄せて何か言いたそうに口を尖らせる。
雑渡は忍術学園の方向を振り返ると、目を細めて呟く。
「月は隠れていても、その輝きは隠せないものだな。」