四章
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随分と長い道だった。
大人の男がやっと通れるくらいに狭く暗いその穴は、”緊急用”と樒が言っていた通り普段から使われている様子がなく歩きにくい。
時折足元に感じる生き物の気配に身の毛がよだつが、噛みつく蛇などではないと樒は言う。
土の匂い。
周りを土と石に囲まれた陽の光が届かないこの場所で、松明の明かりがなければ心が死んでしまいそうだ。
今はそれが唯一の希望。
先を行く樒の手元に灯るそれを見つめながら、椿は少しの不安と戦っていた。
しばらく進んだところで先頭の樒が足を止める。
松明に照らされた先は行き止まりのように見えた。
「……樒ちゃん?」
「……こちらです。」
樒は手にした松明を地面へと近づける。
行き止まりの壁に見えたそれは、地面に近いところに小さな穴が空いていた。
少々屈まなければ潜り抜けられない程の、小さな穴だった。
「ここより先は差臼城内部となります。見張りの者もいるはずですので、注意してください。」
「その前に、今一度確認させて欲しい。」
利吉の言葉に樒は頷いた。
それを見届けると彼は椿に目を向ける。
「椿さん。本当に、千姫と入れ替わるつもりですか?」
明らかに反対を滲ませた利吉の声色。
その心を椿はわかっている。
だが彼の気持ちに答えることが出来ない。
”あなたを連れ去りたい”と言った、その想いに答えることは出来なかった。
勝手を許して欲しいなど言える立場じゃない。
でも何かを犠牲にしないといけないのなら、誰かがやらなければならないのなら。
それは余所者である自分が望ましい。
学園に迷惑をかけた、心配をかけた、本来ならばいるはずのなかった人物、それが椿だ。
だからこの作戦を押し通すことで、彼女は忍術学園と縁を切っても良いと言ったのだ。
「利吉さんには何一つ約束を守ることが出来なくて申し訳ないと思っています。わかって欲しい、でも許されなくてもいいです。あなたを困らせたその罪を、私に背負わせてください。」
「椿様……」
元々椿自身に何の罪もない。
だがそれを受け入れる彼女の姿勢に樒は言葉を詰まらせた。
「あなたに背負わなければならない罪などありません。許す、許さないでもない。」
「利吉さん……」
「椿さん、今更何を言うでもありません。ただ、これ以外に方法がなかったものかと、悔いても悔やみきれません。あなたの言う作戦が最良なのはわかります。だけどそれに頼らなければならない自分が悔しいのです。」
自分の無力さを痛感する。
与えられた仕事を遂行する自分と、自ら道を作る彼女。
身分とか環境とか、そういったものを抜きにしても、考え方の差が大きい。
自分はあくまで”忍び”であり、椿は”それを使う者”であったのだ。
頭が上がらないのは、彼女の目的は他人のためであること。
多くの雇い主のように、自分の利になるようなことを椿は望まない。
だからこそ、この手で守りたいと願った。
椿が自分で自分を守ろうとしないから、その役目を担おうとしていたのに。
「忍びというのは、酷な仕事ですね。最善を尽くすために望まぬ仕事を引き受けなければならない。私情なんて挟めやしない。それがわかっていたはずなのに、私は初めて自身の心に抗おうとしています。」
結局のところ椿の犠牲なしでは何も守ることが出来ない。
椿と、そして樒が揃ってこそ、今回の作戦を実行することが出来るのだ。
椿は千姫を救うことに拘っていた。
だがそれは同時に、忍術学園や馬印堂、そして竹森を救うことにも繋がる。
彼女の行動が、差臼が手を出そうとしている全てを守ることに繋がるのだ。
私は結局、椿さんを守ることが出来ない。
なにより、彼女自身がそれを望んでくれない。
利吉の手が悔しさで震えている。
それに気が付いた椿はそっと彼の手を両手で包み込んだ。
「本当に、皆さんお優しい方ばかりです。こんな私を受け入れてくれてこの身を案じてくれるのですから……ありがとうございます。」
「……椿さん」
「ですから私、絶対に忍術学園に帰ります。じゃないと、また怒られてしまいますからね。」
椿は優しく笑った。
その笑顔に利吉は彼女の手を握り返す。
「絶対、ですよ?それだけは私の望みを聞いてくださいね?」
「ふふっ、はい。」
利吉の気も収まったように、場が和む。
二人の様子をじっと見ていた樒は、椿が言った約束を守らなければならないと思った。
そのために自分がいるのだ。
この先、利吉や学園の手は借りられない。
いつか椿が言った「樒も一緒に帰らなきゃ嫌だ」という言葉。
今も彼女は同じように言ってくれるだろうか。
いや、椿ならきっとそう言うだろう。
あの時感じなかった新しい感情が樒の中に広がる。
約束は守れないかも知れない、が、元よりそのつもりだ。
あの方を守るために、今はあの方の分身とも言える椿を守り抜くことが樒にとっては絶対だった。
椿に誓いを立てることは、あの方に誓うのと同じ価値がある。
「それで、入れ替わった後のことですが……」
「はい。千姫と入れ替わった後、利吉さんは姫を連れ出してください。そしてそのまま堀殻へ無事に送り届けてください。私と樒はここに残り差臼普墺を欺きます。馬印堂と堀殻のわだかまりさえ解かれれば、差臼が戦を仕掛けるのも難しくなるはず。それが結果的に忍術学園を危機から遠ざけることになります。ですからどうか、お願い致します。」
「わかりました。しかし、また私はあなたの側にいることを許されないのですね。」
利吉は少し残念そうに言った。
「違いますよ。利吉さんだからお願い出来るんです。私が側に入れない代わりに千姫を守って頂くってことは、利吉さんにしかお願い出来ませんから。」
「!」
彼女が千姫の安全を願うのなら、その言葉も嘘ではないのだろう。
そこまで頼ってくれているなど、言葉を覆せるはずもない。
とても椿らしく、そして自分の扱いをわかっている。
彼女には敵わない。
利吉は仕方がないな……と笑って了承した。
頃合いを見て樒が口を開く。
「では先に私が中に入って様子を見て参ります。」
「いや、それは駄目だ。君に対して完全に信頼を寄せたわけじゃない。万が一を考えると、君を単独で行動させることは避けたい。」
その言葉に椿は少し寂しい想いもしたが、利吉の言うことは間違いじゃない。
彼は危惧しているのだ。
樒が裏切る可能性を捨てきれない、差臼の者と連絡を取られたりなどしたら、一同は全滅である。
せめて千姫を連れ出すまでは、樒を一人にするべきではない。
それは彼女自身も納得したように頷く。
「樒ちゃん……」
「大丈夫です。ただ、全員で動くとなるとそれなりの危険が伴います。」
「それは問題ない。椿さんは私が守る。」
「……承知しました。椿様もそれでよろしいでしょうか?」
「うん」
「では、参りましょう。」
樒は明かりを消した。
城の内部へと潜入する。
先程の洞窟とは違って人の手が加えられ、木の柱や梁があることで幾分か安心感があった。
離れたところに見えるのは松明の火。
人が近くにいるであろう事実に、椿は緊張する。
先頭を行く樒が見張りの目を掻い潜りながら二人を誘導した。
地下自体は入り組んだ造りではなかった。
良く言えば迷うことがない、悪く言えば見つかりやすい。
いくつか並ぶ牢、その一つの扉の前で兵が一人立っているのが確認出来る。
「恐らくあそこが、千姫が囚われている牢でしょう。見張りをどうにかしなければ……」
「……椿さん、」
「はい」
振り返る彼女に利吉は真剣な目を向ける。
それが一種の覚悟のようで、椿の胸を締め付けた。
「あの兵は私がなんとかします。ですが千姫と話す時間は長くはないでしょう。出来るだけ手短に出来ますか?」
「……頑張ります!」
心強い返事に利吉は口元を緩めた。
彼は樒に二三告げると姿を消す。
少しすると遠くの方から呼びかける声が聞こえた。
「おーい!全員集合だ!中庭の方に来てくれ!」
それに反応した見張りの兵士は、不思議がりながらも声のした方へ駆けて行く。
牢の前から姿が消えるのを確認すると、樒は椿を連れて走り出した。
木枠で格子状に組まれたその牢の前に来ると、薄暗い部屋の中に人影が確認出来る。
「千姫様?」
椿が問いかけると人影は反応を示す。
「まさか……椿?」
「姫様!」
椿は思わず格子にしがみ付いた。
中の千姫も同様にこちらに駆け寄る。
「ご無事ですか!?今そちらへ行きます!」
樒が閂 を外し、格子戸を開いて椿は千姫と再会を果たした。
「ああ、椿っ……!」
「姫様、遅くなりすみません。」
「来てくれただけで良い。そんなことより、どうしてあなたが?」
椿はその訳を千姫に話した。
今の情勢、自分がここへ来た理由、そして、
「千姫様がお幸せになられることが、私の願いですから。」
「……」
そんなことで……と千姫は零す。
堀殻の城主のことは知っている。憧れを抱いたこともある。
だが、嫁いだところで大事にされるかはわからない。
所詮は父が決めた婚姻。
国と国のため、自分は一人で知らない土地へ行かなければならないのだ。
それを目の前にいる自分に似た顔の女は、”幸せのために”などと言う。
「……幸せになれる保障など、どこにもない。」
「姫様?」
今まで誰にも言えなかった、言えるはずがなかった。
この先誰にも言えるはずがない本音を、千姫はまるで鏡に独り言をぶつけるように椿に吐き出す。
「堀殻が私を欲しがった訳じゃない、父が馬印堂を守るために私を差し出した。だから向こうに行ったとして幸せになどなれない!堀殻の城主様は、私を求めていない!馬印堂が欲しいだけなの!堀殻と馬印堂が組めば、差臼に対抗出来るはずだから!私は国のために、馬印堂に行かなくてはならない!」
「……姫様」
「幸せって、何?国のために嫁ぐことが幸せなの?世継ぎを産むことが、幸せなの?だったら、私って一体なんなの?」
千姫の言葉は、椿には痛い程に良くわかる。
強要される未来、物として扱われる事実。
それを救ってくれたのは椿の母であった。
だが同時に大切なものも失った。
泥まみれになって傷だらけになって、食べる物にも困る日々。
生きることに精一杯だった日々。
今の千姫に全てを捨てる覚悟が、果たしてあるのだろうか。
「誰も私を見てくれない、私のこと考えてくれない!……だったらいっその事、差臼に捕らえられていた方がっ」
バシッと乾いた音が響いた。
何かに弾かれた衝撃だけを千姫は認識した。
続く言葉は遮られ、何が起きたのか、脳が処理するのが出遅れる。
左の頬が痛いくて熱い。
辛うじて瞳は椿を捉えていた。
彼女は酷く怒ったようにこちらを睨みつけている。
「いい加減にして!!」
「!?」
「私、私、って自分のことばかり!だったらあなたが幸せになるために何かを捨てることは出来るの?今の生活を捨てて泥にまみれることは出来る?草を食べたり兎を狩ることは出来るの!?出来ないでしょう?皆それくらい必死に生きているの!あなたが言ってることは甘えなのよ!幸せになりたい?だったら人に頼らないで自分で幸せになれる道を探しなさい!」
「椿様……」
樒は止めに入るかを迷った。
だがこれは自分が口を出すことではない。
全てを失った椿だからこそ、千姫に意見出来るというものだ。
「な、なんであなたにそんなこと言われないといけないの!?何がわかるって言うのよ!あんたになにが……っ!」
「わかるわよ。今の状況に不満があるなら変えるしかないもの。捨てる覚悟がなければ得られるものだってないのよ。」
「椿……あんた、一体……」
それは千姫の知る椿ではない。
忍術学園で無邪気に笑っていた、あのなんとも頼りない彼女ではない。
ただならぬ雰囲気に千姫は息を呑む。
「私はかつて、あなたと同じだった。いい着物を着ていい暮らしをしていた。あなたが感じているように、道具として使われる運命だった。でもそれを母が救ってくれたの。全てを失ったわ。それまでの生活も身分も、一番大切な母も失ってしまった。」
「そんな……嘘よ、私を丸め込もうとしているだけだわ。」
「嘘じゃない。私はね、大好きな人たちにもう二度と会うことは出来なくなってしまった。生きる道を自分で切り開かなければならなくなってしまった。でも、この道じゃなきゃ得られなかったものもある。毎日大変だけど私は今幸せだよ。だから今の暮らしを守りたいの。周りの人たちを守りたいと思うの。」
椿の言うことは千姫の予想の範疇を超えた。
咄嗟に樒に目線を移すが、彼女は目を伏せて肯定の意を示す。
「……千姫様、この方は竹森城の姫様であったお方。あなた様に一番近く、そのお立場を誰よりもご存知でいらっしゃるはずです。」
「そんな……」
自分にないものを持ち、自分より色んなことを経験した椿のことを恐ろしく感じる。
とても敵わない。
千姫は少し後退った。
「だ、だとしても、あなたの言うことはお父様と変わらないじゃない。結局私に、堀殻に嫁ぐ以外の選択肢を与えてくれないじゃない。良いように丸め込んで……守るって約束したのに……!」
「守りますよ?」
「は?」
「もし千姫様が堀殻へ行きたくないというなら、別の道を探します。でもそれはあなたが馬印堂を捨てる覚悟があるならば、です。仮に千姫様だけをお助けした場合、馬印堂は堀殻と差臼、どちらも敵に回すことになるでしょう。結果は、お分かり頂けますね?」
我儘を通せば、力のない馬印堂は全滅だ。
そんな未来を望んでいるはずがない。
父や母、自分を支えてくれる人たちのことは嫌いじゃない。
失いたくはない。
そんなことを想像すると体が震えだす。
結局のところ、堀殻へ行く以外の道はない。
馬印堂を救わなくては……
肩に触れる熱に千姫は顔を上げた。
目の前にいた椿は、まるで初めて出会った時のように優しく微笑む。
「あなたの選択は正しい。大丈夫、もしも外の世界に出たいと願うなら、私があなたと入れ替わります。私はずっと味方です。だから今だけ、どうかお力をお貸しください。先に解決すべきは差臼の問題です。今は千姫様のお力が必要なのです。」
「椿……」
そうか、これが……自分のやるべきこと。
差臼を牽制するために、堀殻に協力を要請する。
自分はその鍵なのだ。
「……本当に……なんとかしてくれるの?」
「はい、必ず。私は千姫様の強さを支持致します。」
堀殻に嫁がなければならないことが嫌だった。
どうして自分が犠牲にならなければならないのかと、運命を呪った。
それが椿との出会いで、それまでの考え方が変わった。
これは馬印堂を救うため。
架け橋になること、それが自分にしか出来ない役目。
ゾクゾクする。
馬印堂にとっても、堀殻にとっても、そして目の前の椿にとっても、差臼は脅威なのだ。
それを自分の行動次第で救うことが出来るかも知れない。
何より、自分と同じ境遇から抜け出した椿の、強さに惹かれた。
もしもこの件を乗り越えられたなら、自分も彼女と同じ地を踏めるかも知れない。
もっと、色んな世界を見たい。
「……わかった。けど約束よ?私のこと、忘れないでね?」
「はい!必ず……!」
二人が和み合うその時、近付く気配に樒は鋭い視線を牢の外へ投げた。
同時に二人を庇うように前に出る。
「椿さん!?」
「利吉さんっ」
飛んできたのは利吉であった。
彼は椿の姿を見つけると、まだいたのかと少し焦った様子を見せる。
椿は千姫に向き直り口早に告げる。
「姫様は利吉さんと堀殻へ向かってください。私のものですみませんが、上の着物を取り換えてください。ここは私に任せて。」
「大丈夫なの?」
襦袢姿になった椿は着物を千姫に差し出す。
突然の行動に利吉は思わず顔を逸らした。
不安そうに訊ねる千姫に、椿は強く頷いて見せる。
「はい、大丈夫です。」
「……」
「姫様、お急ぎください。」
樒が千姫の着替えを手伝い、そっくりな二人は入れ替わる。
今回は時間がなかったため、三郎ご自慢の付け毛はない。
髪が短くなった言い訳はなにか適当なものを考えておきますと、椿は笑った。
千姫はその笑顔を抱き締める。
「ありがとう。私も、私のするべきことを成し遂げて見せるわ。あなたに恥じることがないように。」
「はい。姫様、どうかご無事で……」
「……参りましょう。」
利吉の声かけに千姫は名残惜しそうに椿から離れた。
本当は彼女の側に居たかった。
いつも自分は裏に回らなくてはならない。
それが嫌だった。
だが配役を考えると、この役割は自分しかいなかった。
これも彼女が想定したことなのか。
利吉が椿に敵わないことを、逆手に取られているのだろうか。
使役する側、それが彼女であり、自分は駒でしかない。
そういう生き方しか、出来ないのだ。
「……っ」
最後に椿に視線を送り、彼もまた自分の成すべきことへと向かうのであった。
辺りが静けさに包まれる。
後は利吉が千姫を堀殻へ送ってくれることを祈るしかない。
彼の偽の声かけに応じた兵士も、時期に戻ってくるだろう。
「椿様」
樒が声をかける。
千姫の上質な着物を着た椿は、本当に竹森城の美姫に見えた。
「私は差臼普墺の元へ行こうと思います。こちらへ流せる情報を掴めるかも知れません。それに動きを警戒しておきたいのです。」
「うん、そうして。私は一人で大丈夫。樒ちゃんがここに居る方が変だものね。」
笑った彼女に樒の胸は軋む。
こんな暗い場所に一人残して行かなければならない。
千姫の代わりだと言っても、樒にとって椿は最早守るべき存在。
それを一人残して行くのはとても気が重い。
樒の心中を察したのか、椿は彼女に抱き着く。
「!?」
「大丈夫。少しの辛抱だよ。あなたの願いも私の願いも、これを乗り切れば叶うはず。大丈夫、頑張れる。一人じゃないから。」
「椿……様……」
一人が辛かった。
竹森の美姫をたった一人で探した。
大切な人、国を人質に取られながら必死だった。
面識のない、もう縁も切られていた竹森の姫君。
それがこんな自分を、御身を売ろうとしていた自分を守ってくださる。
一人じゃない。
その言葉がどれほど嬉しかったか。心強かったか。
今は流せない溢れる想いを、樒は必死に耐えた。
彼女の背に回した腕に力がこもる。
「っ、私は……!何が起きても椿様の味方であると、どうか信じてください。何があっても、もうあなた様を裏切ることは決してありません。例え偽りを述べたとしても、心は決して裏切ったりしません……!」
その想いに椿は答える。
優しく強く、樒を信じていると伝えるために。
「うん。信じてる。信じてるよ……ありがとう……」
「……椿様、これを。」
樒が手渡す小さな包みを受け取る。
それが何かを問うように樒を見上げると彼女は優しく微笑む。
「それは、最後の解毒剤です。私の持つ毒が誰に厄をもたらしても、椿様しか救うことは出来ません。私の命をあなた様に託します。」
「樒ちゃん……」
それは樒の覚悟の現れ。
彼女が何をしようとしているのかを想像すると椿は怖くなる。
樒の手を強く引きその瞳を覗き込む。
「駄目、だよ?」
「……はい。承知しております。」
椿が言おうとしていることが痛い程にわかる。
樒はどうか安心して欲しいと願いながら笑って見せた。
「私の帰る場所は、椿様の元ですから。」
「違う、隆光のところだよ。」
意外な答えに目を見開く。
それは願っても叶わないはずだった、だから口に出すことはないと思っていた。
椿は樒が手放していた想いを受け止めてくれている。
きっと彼女自身が願う幸せの形なのだろう。
どうしてこんなにも胸が締め付けられるのか。
そんなあなただからこそ、私はもうあなたを裏切ったりしない。
あなたを悲しませるようなことは、二度としない。
「はい……!」
素直な感情を出した樒は、椿が掴まえる手を上から包み込んだ。
やがて二人は離れ、樒は椿の残る牢を閉めその場から離れて行った。
どれ程の時間が経ったのだろう。
ここは地下。外を確かめる術もない。
牢の中には何もなかった。
地べたに座り、こんな冷たいところで千姫は耐えられなかっただろうと椿は思った。
灯された松明の火が消える前に、見張りの兵が戻ってきた。
その顔は納得がいっていないようで、確かに誰かが呼んだのにと独り言を繰り返している。
一度牢の中を覗き込まれドキリとしたが、人影を確認しただけでそれ以上の接近はなかった。
どうやら入れ替わったことに気付かれていないらしい。
このまま、やり過ごすことが出来るだろうか……
腹の空き具合から、既に陽が落ちているだろうと椿は思った。
そんな頃合いだった。
奥から地下内に響く声が聞こえる。
見張りの兵が不思議に思い声の方へ近づく。
と思ったら、彼は背筋を伸ばして直立した。
嫌な予感がした。
「!?」
「ほう、これはこれは……。想像以上だな。」
現れたのは大層な口ひげを蓄え、立派な着物を纏った男。
ギラギラと目を光らせていたが、歳の頃合いは山田と同じくらいだろう。
丁寧に結わえられた髷が品位の高さを物語る。
が、椿が驚いたのは男に対してではない。
男は樒の首に腕を回し、彼女が逃げられないように拘束した状態で椿の前に現れたのだ。
井頭でも梨栗でもない。
とすると恐らくこの男は……
「……差臼、普墺……」
それを聞いた男は満足そうにニヤリと笑う。
「流石に儂を知っていたようだな? ”竹森の美姫”よ。」
「っ!?」
何故それを言い当てられたのか。
動揺から声が漏れそうになるのを必死に隠す。
ここは慎重に冷静にならなくてはならない。
”急いては事を仕損じる”
新野の言葉を思い出す。
「……”竹森”?何のことでしょう?」
「惚けるな。こうしてシキビが帰ったことが何よりの証拠じゃないか。なあ、そうであろう?」
「!?」
普墺の言葉に椿は思わず樒を見る。
一体どういうことなのか。
身動きの取れない彼女はその視線を受け、必死に椿に訴える。
「違います!お願い、信じてください!私はっ」
「はっはっは!良い、シキビよ。流石は儂が見込んだ女。教えてやろう、椿姫よ。こやつにはお主を連れ帰るまで差臼の地を踏むなと言いつけてあったのだ。当然、それが成されなければ差臼が竹森へと攻め入る。泣ける話よ、竹森隆光を救うためにお主は生贄となったのだ。」
「やめろ!それ以上侮辱すると……!ッウ……!」
普墺は腕に力を入れて樒の首を絞めた。
苦しそうな彼女の表情に椿はハッと我に返る。
今すぐその腕を引きはがしたいが、格子に阻まれそれは叶わない。
「やめて!あなたの言い分は聞きます!だから樒を……解放してください!お願いです!」
「駄目、です……椿、様っ」
降伏したとも取れる椿の言葉に、普墺は満足そうに笑う。
そのまま牢の前まで進み出ると素早く格子の隙間から空いている手を伸ばし、椿の顎を捉えて上を向かせる。
「んっ」
「いい顔だ。長年探していた竹森の美姫、椿姫よ。お主は儂のものだ。」
「……」
決して屈しない。奴のものになるつもりは毛頭ない。
椿は普墺を睨みつける。
想定していたより事態は早まってしまった。
千姫を堀殻へ送り届け、馬印堂との結びつきを強める予定であったのに。
差臼普墺と直接対峙することになろうとは……
だがもし普墺と直接話ができるなら、解決に向けた別の糸口を発見出来るかも知れない。
焦っては、ダメだ。
「……、お願いです、樒を離してやってください。」
「そう焼餅を焼くな。お前はこれからいくらでも可愛がってやる。」
その顔に吐き気を覚えた。
普墺は少々乱暴に椿を突き放し、彼女は土の上に倒れこむ。
彼の触れたところが、その熱が気持ち悪くて椿は払うように手を当てた。
「それにこれは”樒”ではない。”シキビ”だ。こやつに嘘を付かれていたのか?信じていただろうにな?まあ、この結果を見ればわかることよ。」
「嘘……嘘だよね!?樒ちゃん!!」
「お願いっ……、信じ、て……」
「……樒……!」
「そうだ、今はこいつに褒美をやらなければいかん。ああ、躾の間違いであったかな。はっはっは。」
普墺は樒を掴む力を弱める。
咳き込む彼女は苦しさから涙が滲んでいた。
普墺が振り返り見せた背中に椿は焦る。
樒が連れていかれる。
格子から伸ばした手は何も掴むことが出来ない。
届くはずがないとわかっていた、それでもそうせずにはいられない。
「待って!樒ちゃん!」
「椿様……私は大丈夫、です……」
「樒!!」
遠ざかる二人の影にただ手を伸ばすことしか出来ない。
空しさが椿を襲う。
自分は何をしているのだろう、何をしに来たのだろう。
ああ、そうだ、千姫を逃がしてやることが最優先だった。
そうすれば堀殻と馬印堂、そして忍術学園がどうにかしてくれる。
でも……
差臼普墺はそれを見逃すはずがない。
椿を千姫ではないと見抜きながらも、余裕を崩さなかった。
堀殻と馬印堂、両者が敵になると言うのに。
争いを起こさないように、全てが丸く収まるように。
そう動いて来たつもりだった。
けれど、もしそれが裏目だったら?
樒は……
樒のことは信じていたい。
あの夜流した涙を、隆光を愛していると否定しなかった彼女を、椿は信じていたかった。
それが普墺の絶対的な態度に微かに心が揺らぐ。
信じている、信じていないと。
私が、樒ちゃんを信じないと。
でも誰かお願い、答えて。
迷いから自信を無くしつつある自分を慰めて。
あるいは、しっかりしなさいと叱って。
土井先生……
暗い牢の中、たった一人残された椿に頼れるものは現れなかった。
大人の男がやっと通れるくらいに狭く暗いその穴は、”緊急用”と樒が言っていた通り普段から使われている様子がなく歩きにくい。
時折足元に感じる生き物の気配に身の毛がよだつが、噛みつく蛇などではないと樒は言う。
土の匂い。
周りを土と石に囲まれた陽の光が届かないこの場所で、松明の明かりがなければ心が死んでしまいそうだ。
今はそれが唯一の希望。
先を行く樒の手元に灯るそれを見つめながら、椿は少しの不安と戦っていた。
しばらく進んだところで先頭の樒が足を止める。
松明に照らされた先は行き止まりのように見えた。
「……樒ちゃん?」
「……こちらです。」
樒は手にした松明を地面へと近づける。
行き止まりの壁に見えたそれは、地面に近いところに小さな穴が空いていた。
少々屈まなければ潜り抜けられない程の、小さな穴だった。
「ここより先は差臼城内部となります。見張りの者もいるはずですので、注意してください。」
「その前に、今一度確認させて欲しい。」
利吉の言葉に樒は頷いた。
それを見届けると彼は椿に目を向ける。
「椿さん。本当に、千姫と入れ替わるつもりですか?」
明らかに反対を滲ませた利吉の声色。
その心を椿はわかっている。
だが彼の気持ちに答えることが出来ない。
”あなたを連れ去りたい”と言った、その想いに答えることは出来なかった。
勝手を許して欲しいなど言える立場じゃない。
でも何かを犠牲にしないといけないのなら、誰かがやらなければならないのなら。
それは余所者である自分が望ましい。
学園に迷惑をかけた、心配をかけた、本来ならばいるはずのなかった人物、それが椿だ。
だからこの作戦を押し通すことで、彼女は忍術学園と縁を切っても良いと言ったのだ。
「利吉さんには何一つ約束を守ることが出来なくて申し訳ないと思っています。わかって欲しい、でも許されなくてもいいです。あなたを困らせたその罪を、私に背負わせてください。」
「椿様……」
元々椿自身に何の罪もない。
だがそれを受け入れる彼女の姿勢に樒は言葉を詰まらせた。
「あなたに背負わなければならない罪などありません。許す、許さないでもない。」
「利吉さん……」
「椿さん、今更何を言うでもありません。ただ、これ以外に方法がなかったものかと、悔いても悔やみきれません。あなたの言う作戦が最良なのはわかります。だけどそれに頼らなければならない自分が悔しいのです。」
自分の無力さを痛感する。
与えられた仕事を遂行する自分と、自ら道を作る彼女。
身分とか環境とか、そういったものを抜きにしても、考え方の差が大きい。
自分はあくまで”忍び”であり、椿は”それを使う者”であったのだ。
頭が上がらないのは、彼女の目的は他人のためであること。
多くの雇い主のように、自分の利になるようなことを椿は望まない。
だからこそ、この手で守りたいと願った。
椿が自分で自分を守ろうとしないから、その役目を担おうとしていたのに。
「忍びというのは、酷な仕事ですね。最善を尽くすために望まぬ仕事を引き受けなければならない。私情なんて挟めやしない。それがわかっていたはずなのに、私は初めて自身の心に抗おうとしています。」
結局のところ椿の犠牲なしでは何も守ることが出来ない。
椿と、そして樒が揃ってこそ、今回の作戦を実行することが出来るのだ。
椿は千姫を救うことに拘っていた。
だがそれは同時に、忍術学園や馬印堂、そして竹森を救うことにも繋がる。
彼女の行動が、差臼が手を出そうとしている全てを守ることに繋がるのだ。
私は結局、椿さんを守ることが出来ない。
なにより、彼女自身がそれを望んでくれない。
利吉の手が悔しさで震えている。
それに気が付いた椿はそっと彼の手を両手で包み込んだ。
「本当に、皆さんお優しい方ばかりです。こんな私を受け入れてくれてこの身を案じてくれるのですから……ありがとうございます。」
「……椿さん」
「ですから私、絶対に忍術学園に帰ります。じゃないと、また怒られてしまいますからね。」
椿は優しく笑った。
その笑顔に利吉は彼女の手を握り返す。
「絶対、ですよ?それだけは私の望みを聞いてくださいね?」
「ふふっ、はい。」
利吉の気も収まったように、場が和む。
二人の様子をじっと見ていた樒は、椿が言った約束を守らなければならないと思った。
そのために自分がいるのだ。
この先、利吉や学園の手は借りられない。
いつか椿が言った「樒も一緒に帰らなきゃ嫌だ」という言葉。
今も彼女は同じように言ってくれるだろうか。
いや、椿ならきっとそう言うだろう。
あの時感じなかった新しい感情が樒の中に広がる。
約束は守れないかも知れない、が、元よりそのつもりだ。
あの方を守るために、今はあの方の分身とも言える椿を守り抜くことが樒にとっては絶対だった。
椿に誓いを立てることは、あの方に誓うのと同じ価値がある。
「それで、入れ替わった後のことですが……」
「はい。千姫と入れ替わった後、利吉さんは姫を連れ出してください。そしてそのまま堀殻へ無事に送り届けてください。私と樒はここに残り差臼普墺を欺きます。馬印堂と堀殻のわだかまりさえ解かれれば、差臼が戦を仕掛けるのも難しくなるはず。それが結果的に忍術学園を危機から遠ざけることになります。ですからどうか、お願い致します。」
「わかりました。しかし、また私はあなたの側にいることを許されないのですね。」
利吉は少し残念そうに言った。
「違いますよ。利吉さんだからお願い出来るんです。私が側に入れない代わりに千姫を守って頂くってことは、利吉さんにしかお願い出来ませんから。」
「!」
彼女が千姫の安全を願うのなら、その言葉も嘘ではないのだろう。
そこまで頼ってくれているなど、言葉を覆せるはずもない。
とても椿らしく、そして自分の扱いをわかっている。
彼女には敵わない。
利吉は仕方がないな……と笑って了承した。
頃合いを見て樒が口を開く。
「では先に私が中に入って様子を見て参ります。」
「いや、それは駄目だ。君に対して完全に信頼を寄せたわけじゃない。万が一を考えると、君を単独で行動させることは避けたい。」
その言葉に椿は少し寂しい想いもしたが、利吉の言うことは間違いじゃない。
彼は危惧しているのだ。
樒が裏切る可能性を捨てきれない、差臼の者と連絡を取られたりなどしたら、一同は全滅である。
せめて千姫を連れ出すまでは、樒を一人にするべきではない。
それは彼女自身も納得したように頷く。
「樒ちゃん……」
「大丈夫です。ただ、全員で動くとなるとそれなりの危険が伴います。」
「それは問題ない。椿さんは私が守る。」
「……承知しました。椿様もそれでよろしいでしょうか?」
「うん」
「では、参りましょう。」
樒は明かりを消した。
城の内部へと潜入する。
先程の洞窟とは違って人の手が加えられ、木の柱や梁があることで幾分か安心感があった。
離れたところに見えるのは松明の火。
人が近くにいるであろう事実に、椿は緊張する。
先頭を行く樒が見張りの目を掻い潜りながら二人を誘導した。
地下自体は入り組んだ造りではなかった。
良く言えば迷うことがない、悪く言えば見つかりやすい。
いくつか並ぶ牢、その一つの扉の前で兵が一人立っているのが確認出来る。
「恐らくあそこが、千姫が囚われている牢でしょう。見張りをどうにかしなければ……」
「……椿さん、」
「はい」
振り返る彼女に利吉は真剣な目を向ける。
それが一種の覚悟のようで、椿の胸を締め付けた。
「あの兵は私がなんとかします。ですが千姫と話す時間は長くはないでしょう。出来るだけ手短に出来ますか?」
「……頑張ります!」
心強い返事に利吉は口元を緩めた。
彼は樒に二三告げると姿を消す。
少しすると遠くの方から呼びかける声が聞こえた。
「おーい!全員集合だ!中庭の方に来てくれ!」
それに反応した見張りの兵士は、不思議がりながらも声のした方へ駆けて行く。
牢の前から姿が消えるのを確認すると、樒は椿を連れて走り出した。
木枠で格子状に組まれたその牢の前に来ると、薄暗い部屋の中に人影が確認出来る。
「千姫様?」
椿が問いかけると人影は反応を示す。
「まさか……椿?」
「姫様!」
椿は思わず格子にしがみ付いた。
中の千姫も同様にこちらに駆け寄る。
「ご無事ですか!?今そちらへ行きます!」
樒が
「ああ、椿っ……!」
「姫様、遅くなりすみません。」
「来てくれただけで良い。そんなことより、どうしてあなたが?」
椿はその訳を千姫に話した。
今の情勢、自分がここへ来た理由、そして、
「千姫様がお幸せになられることが、私の願いですから。」
「……」
そんなことで……と千姫は零す。
堀殻の城主のことは知っている。憧れを抱いたこともある。
だが、嫁いだところで大事にされるかはわからない。
所詮は父が決めた婚姻。
国と国のため、自分は一人で知らない土地へ行かなければならないのだ。
それを目の前にいる自分に似た顔の女は、”幸せのために”などと言う。
「……幸せになれる保障など、どこにもない。」
「姫様?」
今まで誰にも言えなかった、言えるはずがなかった。
この先誰にも言えるはずがない本音を、千姫はまるで鏡に独り言をぶつけるように椿に吐き出す。
「堀殻が私を欲しがった訳じゃない、父が馬印堂を守るために私を差し出した。だから向こうに行ったとして幸せになどなれない!堀殻の城主様は、私を求めていない!馬印堂が欲しいだけなの!堀殻と馬印堂が組めば、差臼に対抗出来るはずだから!私は国のために、馬印堂に行かなくてはならない!」
「……姫様」
「幸せって、何?国のために嫁ぐことが幸せなの?世継ぎを産むことが、幸せなの?だったら、私って一体なんなの?」
千姫の言葉は、椿には痛い程に良くわかる。
強要される未来、物として扱われる事実。
それを救ってくれたのは椿の母であった。
だが同時に大切なものも失った。
泥まみれになって傷だらけになって、食べる物にも困る日々。
生きることに精一杯だった日々。
今の千姫に全てを捨てる覚悟が、果たしてあるのだろうか。
「誰も私を見てくれない、私のこと考えてくれない!……だったらいっその事、差臼に捕らえられていた方がっ」
バシッと乾いた音が響いた。
何かに弾かれた衝撃だけを千姫は認識した。
続く言葉は遮られ、何が起きたのか、脳が処理するのが出遅れる。
左の頬が痛いくて熱い。
辛うじて瞳は椿を捉えていた。
彼女は酷く怒ったようにこちらを睨みつけている。
「いい加減にして!!」
「!?」
「私、私、って自分のことばかり!だったらあなたが幸せになるために何かを捨てることは出来るの?今の生活を捨てて泥にまみれることは出来る?草を食べたり兎を狩ることは出来るの!?出来ないでしょう?皆それくらい必死に生きているの!あなたが言ってることは甘えなのよ!幸せになりたい?だったら人に頼らないで自分で幸せになれる道を探しなさい!」
「椿様……」
樒は止めに入るかを迷った。
だがこれは自分が口を出すことではない。
全てを失った椿だからこそ、千姫に意見出来るというものだ。
「な、なんであなたにそんなこと言われないといけないの!?何がわかるって言うのよ!あんたになにが……っ!」
「わかるわよ。今の状況に不満があるなら変えるしかないもの。捨てる覚悟がなければ得られるものだってないのよ。」
「椿……あんた、一体……」
それは千姫の知る椿ではない。
忍術学園で無邪気に笑っていた、あのなんとも頼りない彼女ではない。
ただならぬ雰囲気に千姫は息を呑む。
「私はかつて、あなたと同じだった。いい着物を着ていい暮らしをしていた。あなたが感じているように、道具として使われる運命だった。でもそれを母が救ってくれたの。全てを失ったわ。それまでの生活も身分も、一番大切な母も失ってしまった。」
「そんな……嘘よ、私を丸め込もうとしているだけだわ。」
「嘘じゃない。私はね、大好きな人たちにもう二度と会うことは出来なくなってしまった。生きる道を自分で切り開かなければならなくなってしまった。でも、この道じゃなきゃ得られなかったものもある。毎日大変だけど私は今幸せだよ。だから今の暮らしを守りたいの。周りの人たちを守りたいと思うの。」
椿の言うことは千姫の予想の範疇を超えた。
咄嗟に樒に目線を移すが、彼女は目を伏せて肯定の意を示す。
「……千姫様、この方は竹森城の姫様であったお方。あなた様に一番近く、そのお立場を誰よりもご存知でいらっしゃるはずです。」
「そんな……」
自分にないものを持ち、自分より色んなことを経験した椿のことを恐ろしく感じる。
とても敵わない。
千姫は少し後退った。
「だ、だとしても、あなたの言うことはお父様と変わらないじゃない。結局私に、堀殻に嫁ぐ以外の選択肢を与えてくれないじゃない。良いように丸め込んで……守るって約束したのに……!」
「守りますよ?」
「は?」
「もし千姫様が堀殻へ行きたくないというなら、別の道を探します。でもそれはあなたが馬印堂を捨てる覚悟があるならば、です。仮に千姫様だけをお助けした場合、馬印堂は堀殻と差臼、どちらも敵に回すことになるでしょう。結果は、お分かり頂けますね?」
我儘を通せば、力のない馬印堂は全滅だ。
そんな未来を望んでいるはずがない。
父や母、自分を支えてくれる人たちのことは嫌いじゃない。
失いたくはない。
そんなことを想像すると体が震えだす。
結局のところ、堀殻へ行く以外の道はない。
馬印堂を救わなくては……
肩に触れる熱に千姫は顔を上げた。
目の前にいた椿は、まるで初めて出会った時のように優しく微笑む。
「あなたの選択は正しい。大丈夫、もしも外の世界に出たいと願うなら、私があなたと入れ替わります。私はずっと味方です。だから今だけ、どうかお力をお貸しください。先に解決すべきは差臼の問題です。今は千姫様のお力が必要なのです。」
「椿……」
そうか、これが……自分のやるべきこと。
差臼を牽制するために、堀殻に協力を要請する。
自分はその鍵なのだ。
「……本当に……なんとかしてくれるの?」
「はい、必ず。私は千姫様の強さを支持致します。」
堀殻に嫁がなければならないことが嫌だった。
どうして自分が犠牲にならなければならないのかと、運命を呪った。
それが椿との出会いで、それまでの考え方が変わった。
これは馬印堂を救うため。
架け橋になること、それが自分にしか出来ない役目。
ゾクゾクする。
馬印堂にとっても、堀殻にとっても、そして目の前の椿にとっても、差臼は脅威なのだ。
それを自分の行動次第で救うことが出来るかも知れない。
何より、自分と同じ境遇から抜け出した椿の、強さに惹かれた。
もしもこの件を乗り越えられたなら、自分も彼女と同じ地を踏めるかも知れない。
もっと、色んな世界を見たい。
「……わかった。けど約束よ?私のこと、忘れないでね?」
「はい!必ず……!」
二人が和み合うその時、近付く気配に樒は鋭い視線を牢の外へ投げた。
同時に二人を庇うように前に出る。
「椿さん!?」
「利吉さんっ」
飛んできたのは利吉であった。
彼は椿の姿を見つけると、まだいたのかと少し焦った様子を見せる。
椿は千姫に向き直り口早に告げる。
「姫様は利吉さんと堀殻へ向かってください。私のものですみませんが、上の着物を取り換えてください。ここは私に任せて。」
「大丈夫なの?」
襦袢姿になった椿は着物を千姫に差し出す。
突然の行動に利吉は思わず顔を逸らした。
不安そうに訊ねる千姫に、椿は強く頷いて見せる。
「はい、大丈夫です。」
「……」
「姫様、お急ぎください。」
樒が千姫の着替えを手伝い、そっくりな二人は入れ替わる。
今回は時間がなかったため、三郎ご自慢の付け毛はない。
髪が短くなった言い訳はなにか適当なものを考えておきますと、椿は笑った。
千姫はその笑顔を抱き締める。
「ありがとう。私も、私のするべきことを成し遂げて見せるわ。あなたに恥じることがないように。」
「はい。姫様、どうかご無事で……」
「……参りましょう。」
利吉の声かけに千姫は名残惜しそうに椿から離れた。
本当は彼女の側に居たかった。
いつも自分は裏に回らなくてはならない。
それが嫌だった。
だが配役を考えると、この役割は自分しかいなかった。
これも彼女が想定したことなのか。
利吉が椿に敵わないことを、逆手に取られているのだろうか。
使役する側、それが彼女であり、自分は駒でしかない。
そういう生き方しか、出来ないのだ。
「……っ」
最後に椿に視線を送り、彼もまた自分の成すべきことへと向かうのであった。
辺りが静けさに包まれる。
後は利吉が千姫を堀殻へ送ってくれることを祈るしかない。
彼の偽の声かけに応じた兵士も、時期に戻ってくるだろう。
「椿様」
樒が声をかける。
千姫の上質な着物を着た椿は、本当に竹森城の美姫に見えた。
「私は差臼普墺の元へ行こうと思います。こちらへ流せる情報を掴めるかも知れません。それに動きを警戒しておきたいのです。」
「うん、そうして。私は一人で大丈夫。樒ちゃんがここに居る方が変だものね。」
笑った彼女に樒の胸は軋む。
こんな暗い場所に一人残して行かなければならない。
千姫の代わりだと言っても、樒にとって椿は最早守るべき存在。
それを一人残して行くのはとても気が重い。
樒の心中を察したのか、椿は彼女に抱き着く。
「!?」
「大丈夫。少しの辛抱だよ。あなたの願いも私の願いも、これを乗り切れば叶うはず。大丈夫、頑張れる。一人じゃないから。」
「椿……様……」
一人が辛かった。
竹森の美姫をたった一人で探した。
大切な人、国を人質に取られながら必死だった。
面識のない、もう縁も切られていた竹森の姫君。
それがこんな自分を、御身を売ろうとしていた自分を守ってくださる。
一人じゃない。
その言葉がどれほど嬉しかったか。心強かったか。
今は流せない溢れる想いを、樒は必死に耐えた。
彼女の背に回した腕に力がこもる。
「っ、私は……!何が起きても椿様の味方であると、どうか信じてください。何があっても、もうあなた様を裏切ることは決してありません。例え偽りを述べたとしても、心は決して裏切ったりしません……!」
その想いに椿は答える。
優しく強く、樒を信じていると伝えるために。
「うん。信じてる。信じてるよ……ありがとう……」
「……椿様、これを。」
樒が手渡す小さな包みを受け取る。
それが何かを問うように樒を見上げると彼女は優しく微笑む。
「それは、最後の解毒剤です。私の持つ毒が誰に厄をもたらしても、椿様しか救うことは出来ません。私の命をあなた様に託します。」
「樒ちゃん……」
それは樒の覚悟の現れ。
彼女が何をしようとしているのかを想像すると椿は怖くなる。
樒の手を強く引きその瞳を覗き込む。
「駄目、だよ?」
「……はい。承知しております。」
椿が言おうとしていることが痛い程にわかる。
樒はどうか安心して欲しいと願いながら笑って見せた。
「私の帰る場所は、椿様の元ですから。」
「違う、隆光のところだよ。」
意外な答えに目を見開く。
それは願っても叶わないはずだった、だから口に出すことはないと思っていた。
椿は樒が手放していた想いを受け止めてくれている。
きっと彼女自身が願う幸せの形なのだろう。
どうしてこんなにも胸が締め付けられるのか。
そんなあなただからこそ、私はもうあなたを裏切ったりしない。
あなたを悲しませるようなことは、二度としない。
「はい……!」
素直な感情を出した樒は、椿が掴まえる手を上から包み込んだ。
やがて二人は離れ、樒は椿の残る牢を閉めその場から離れて行った。
どれ程の時間が経ったのだろう。
ここは地下。外を確かめる術もない。
牢の中には何もなかった。
地べたに座り、こんな冷たいところで千姫は耐えられなかっただろうと椿は思った。
灯された松明の火が消える前に、見張りの兵が戻ってきた。
その顔は納得がいっていないようで、確かに誰かが呼んだのにと独り言を繰り返している。
一度牢の中を覗き込まれドキリとしたが、人影を確認しただけでそれ以上の接近はなかった。
どうやら入れ替わったことに気付かれていないらしい。
このまま、やり過ごすことが出来るだろうか……
腹の空き具合から、既に陽が落ちているだろうと椿は思った。
そんな頃合いだった。
奥から地下内に響く声が聞こえる。
見張りの兵が不思議に思い声の方へ近づく。
と思ったら、彼は背筋を伸ばして直立した。
嫌な予感がした。
「!?」
「ほう、これはこれは……。想像以上だな。」
現れたのは大層な口ひげを蓄え、立派な着物を纏った男。
ギラギラと目を光らせていたが、歳の頃合いは山田と同じくらいだろう。
丁寧に結わえられた髷が品位の高さを物語る。
が、椿が驚いたのは男に対してではない。
男は樒の首に腕を回し、彼女が逃げられないように拘束した状態で椿の前に現れたのだ。
井頭でも梨栗でもない。
とすると恐らくこの男は……
「……差臼、普墺……」
それを聞いた男は満足そうにニヤリと笑う。
「流石に儂を知っていたようだな? ”竹森の美姫”よ。」
「っ!?」
何故それを言い当てられたのか。
動揺から声が漏れそうになるのを必死に隠す。
ここは慎重に冷静にならなくてはならない。
”急いては事を仕損じる”
新野の言葉を思い出す。
「……”竹森”?何のことでしょう?」
「惚けるな。こうしてシキビが帰ったことが何よりの証拠じゃないか。なあ、そうであろう?」
「!?」
普墺の言葉に椿は思わず樒を見る。
一体どういうことなのか。
身動きの取れない彼女はその視線を受け、必死に椿に訴える。
「違います!お願い、信じてください!私はっ」
「はっはっは!良い、シキビよ。流石は儂が見込んだ女。教えてやろう、椿姫よ。こやつにはお主を連れ帰るまで差臼の地を踏むなと言いつけてあったのだ。当然、それが成されなければ差臼が竹森へと攻め入る。泣ける話よ、竹森隆光を救うためにお主は生贄となったのだ。」
「やめろ!それ以上侮辱すると……!ッウ……!」
普墺は腕に力を入れて樒の首を絞めた。
苦しそうな彼女の表情に椿はハッと我に返る。
今すぐその腕を引きはがしたいが、格子に阻まれそれは叶わない。
「やめて!あなたの言い分は聞きます!だから樒を……解放してください!お願いです!」
「駄目、です……椿、様っ」
降伏したとも取れる椿の言葉に、普墺は満足そうに笑う。
そのまま牢の前まで進み出ると素早く格子の隙間から空いている手を伸ばし、椿の顎を捉えて上を向かせる。
「んっ」
「いい顔だ。長年探していた竹森の美姫、椿姫よ。お主は儂のものだ。」
「……」
決して屈しない。奴のものになるつもりは毛頭ない。
椿は普墺を睨みつける。
想定していたより事態は早まってしまった。
千姫を堀殻へ送り届け、馬印堂との結びつきを強める予定であったのに。
差臼普墺と直接対峙することになろうとは……
だがもし普墺と直接話ができるなら、解決に向けた別の糸口を発見出来るかも知れない。
焦っては、ダメだ。
「……、お願いです、樒を離してやってください。」
「そう焼餅を焼くな。お前はこれからいくらでも可愛がってやる。」
その顔に吐き気を覚えた。
普墺は少々乱暴に椿を突き放し、彼女は土の上に倒れこむ。
彼の触れたところが、その熱が気持ち悪くて椿は払うように手を当てた。
「それにこれは”樒”ではない。”シキビ”だ。こやつに嘘を付かれていたのか?信じていただろうにな?まあ、この結果を見ればわかることよ。」
「嘘……嘘だよね!?樒ちゃん!!」
「お願いっ……、信じ、て……」
「……樒……!」
「そうだ、今はこいつに褒美をやらなければいかん。ああ、躾の間違いであったかな。はっはっは。」
普墺は樒を掴む力を弱める。
咳き込む彼女は苦しさから涙が滲んでいた。
普墺が振り返り見せた背中に椿は焦る。
樒が連れていかれる。
格子から伸ばした手は何も掴むことが出来ない。
届くはずがないとわかっていた、それでもそうせずにはいられない。
「待って!樒ちゃん!」
「椿様……私は大丈夫、です……」
「樒!!」
遠ざかる二人の影にただ手を伸ばすことしか出来ない。
空しさが椿を襲う。
自分は何をしているのだろう、何をしに来たのだろう。
ああ、そうだ、千姫を逃がしてやることが最優先だった。
そうすれば堀殻と馬印堂、そして忍術学園がどうにかしてくれる。
でも……
差臼普墺はそれを見逃すはずがない。
椿を千姫ではないと見抜きながらも、余裕を崩さなかった。
堀殻と馬印堂、両者が敵になると言うのに。
争いを起こさないように、全てが丸く収まるように。
そう動いて来たつもりだった。
けれど、もしそれが裏目だったら?
樒は……
樒のことは信じていたい。
あの夜流した涙を、隆光を愛していると否定しなかった彼女を、椿は信じていたかった。
それが普墺の絶対的な態度に微かに心が揺らぐ。
信じている、信じていないと。
私が、樒ちゃんを信じないと。
でも誰かお願い、答えて。
迷いから自信を無くしつつある自分を慰めて。
あるいは、しっかりしなさいと叱って。
土井先生……
暗い牢の中、たった一人残された椿に頼れるものは現れなかった。