三章
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学園長室で繰り広げられた会議も終わり、翌日には早速作戦を開始する手筈となった。
椿は一刻も早く、できることなら今すぐにでも始めたい想いを打ち明けていた。
だが本作戦の中心人物は椿本人。
彼女の心的疲労を学園長は口に出さずも理解し考慮した結果、少しの休息を言い渡す。
差臼城に入った後は、何が起こるかわからない。
勿論、安全の保障などない。
誰かが言ったように、椿自身を失う危険性もあるのだ。
かつて忍びであった学園長始め、この場にいる教師たちと違って椿は長期的苦痛に耐える訓練をしていない。
彼女の気持ちは汲んだとしても、それを承諾する者はいなかった。
椿を動かしているもの、それは竹森城が関わったことによる責任が大きい。
樒の業、そして椿の竹森を救いたいと願う心。
間接的に巻き込まれた身でありながら”姫”としての責務を果たそうとする姿勢に、心を打たれた者もいた。
要は皆、椿が心配であったのだ。
彼女を失いたくない、その一心だった。
山田はこの場に居ない土井の分まで、彼女のことを気にかけていた。
学園長は少しでも休むように彼女を説得したが、山田は学園を発つ前に土井に会うようにと椿に助言をした。
それが少しでも、彼女の身を守る力になればと思ったのだ。
自身も常々感じていること、待っていてくれる人がいる心強さを椿に伝えたかったのだ。
他のことは心配するなと言う、教師一同の心強い顔を見回しながら感謝を伝えたのはつい先刻のこと。
一足先に休むようにと言われた椿がここに足を運んだのは、彼のことがあったから。
山田に言われたということもある、でも椿自身も心残りに思うことがあったのだ。
確かに今になってわかる、自分は疲れている。
でも、どうしてもここに立ち寄らずにはいられなかった。
足を止めた部屋の前。
先程の慌ただしい様子もなく、今はただ中の蝋燭の火が静かに揺らめいているのがわかる。
会ったところでどうしたらいいの?
顔を見れたら満足するの?
でも、一言、謝りたい。
これが最後、かも知れないから……
医務室、その障子を開けるのを彼女は迷っていた。
「どうぞ。」
中から聞こえた声にハッとする。
自分の迷いを見透かされたと感じたが、招き入れるように優しい声色で促すそれに少し心が軽くなった。
恐る恐る障子に手をかけ、中の人物に声をかけると椿はそっと戸を滑らせた。
「ああ、椿さん。」
室内に新野の姿があった。
彼はいつもと変わらない柔らかい笑みで彼女を迎えた。
新野の顔にも疲れが出ているようで椿はそれを心配する。
「新野先生、お疲れ様です。失礼します。」
中に入り障子を閉めたところで、部屋の隅に横たわる人物に目をくれる。
土井先生……
意識がなく寝かされた状態の土井。
今は容態が落ち着いているようで、昼間よりも血色がいい。
「土井先生なら大丈夫ですよ。君が持ってきてくれた薬が効いたようだね。ありがとうございます。」
「そんな……ただ必死だっただけです。」
新野は何も聞かずとも、彼女がここへ来た理由を理解したようだった。
彼の言葉に安心する。
とは言え、完全に毒が消えたわけではない。
新野は医療を志す者として、この見たこともない毒について彼女に尋ねた。
椿は惜しげもなく語りだす。
「これは私の……竹森にしかない毒です。発熱、体の痛み、五感を狂わせ苦しみながら……死に至ります。お渡しした解毒剤でしか消すことは出来ないと言われています。意識がある状態では毒性が強く出るので、紫斑が消えるまではなるべく寝かせておいた方が良いかと思います。」
「……成程、その情報は助かります。詳しいのだね。」
「私も、幼い頃に一度誤ってその毒に触れてしまいまして……辛かった記憶がありますから。」
「それは大変だったね。でも椿さんの経験があってこそ、土井先生を救えると言うものですよ。」
新野は椿から得たものを早速紙に書き起こしていた。
彼女はもう一度土井を見る。
もしかすると、こうやって会えるのは今夜が最後になるかも知れない。
こんなことになってしまって、直接詫びの一つも出来ずに学園を出るのは悔しいが仕方がないことだ。
寂しい。
ちゃんと向き合って、ごめんなさいと一言言いたかった。
その腕の中で土井の存在を確かめたかった。
もう一度、名前を呼んで微笑んで欲しかった。
それが叶わないなら、せめてあなた自身に約束をしよう。
必ず、ここに戻ってくると。
そうしたらその時は、温かく迎え入れて欲しいと願う。
私はずっと、土井先生のことを……
「椿さん」
「はいっ」
考え事をしていた椿は新野の呼びかけに驚いたように反応した。
それを少し気にしたような新野が申し訳なさそうに眉根を下げ、彼女と目を合わせて問う。
「……行くのかい?」
「……」
「お節介かも知れないけど、土井先生の側にいた方が君にとっては良いのかと思って……」
新野は何か、感じるものがあったのだろうか。
それ以上深い話をしないのは彼の優しさなのだろう。
その優しさに返す言葉もないことに少しだけ罪悪感を抱きながら、椿は言葉を発する代わりに首を横に振った。
やがて小さな声で絞り出すように彼女は言う。
「……本当は、こんな状態の土井先生を置いてなんて行けません。土井先生が目を覚ますまで、側にいたいです……伝えたいことだってある……でも……、私は……、守ると約束した私を信じて待っていてくれる人がいるから……。その人だけじゃない、私に助けを求めた樒ちゃん、彼女が救いたかった人たち、それに……忍術学園の皆を、争いに巻き込むことは避けなければいけません。皆のことが好きだから……だから、救いたいんです……」
彼女の膝に置かれた両手に力が込められ震えだす。
自分が頑張らなければと、追い込むような椿の姿勢に新野は心を痛める。
だがそれも、彼女が”竹森椿”たる所以。
椿の想いを受け取るように、新野は短く相槌を打つように返事をした。
「あ……ごめんなさい、救うだなんて大それたことを……。ただ力になりたくて、私に出来ることがあるなら少しでも助けになりたいと思っただけなんです。」
椿は恥ずかしそうに手で溢れる涙を拭う。
「いや、君は”救う”と言うだけの力を持っていると思います。勿論、この学園を一度救ってくれた事実もあるが……それだけじゃない。彼にとっても君の存在が救いになっていると私は思うよ。」
新野はチラリと土井を見て、それにつられる形で椿も彼を目に写す。
私が……土井先生の救いに……?
胸が音を立てて震えた。
もしそうだったら、どんなに心強いことか。
そして伝えたい、自分も同じだと。
あなたの存在が私を強くする。
あなたと、あなたが大切にしているものを守りたい。
だから、どうか……愚かな私を許してください。
「ただ、急ぐことのないように願います。急いては事を仕損じる。椿さんはこの学園にとってもかけがえのない薬だ。私なんかでは癒すことの出来ない唯一の薬なんです。だから必ず戻って来てください。これは学園皆の願いですよ。」
「新野先生……、ありがとうございます。」
椿は頭を下げて礼を言った。
学園に戻って来たい、必ず。
それを受け入れて待っていてくれる人たちがここにもいたことに、椿は感謝せずにはいられなかった。
「……さて、そろそろ土井先生が目を覚ます頃。彼とも話をしておいた方がいいでしょう。私は少し退席させてもらいますね。」
新野は薬棚から取り出したものを椿に渡す。
これは?と問う椿に、新野はただの睡眠薬だと伝えた。
「苦しむといけませんから、もし辛そうだったら飲ませてあげてください。」
「はい、わかりました。」
静かに閉じられる戸を見送る。
この小さな空間に残された椿と土井。
急に静まり返った室内に少しだけ緊張する。
自分の着物が擦れる音にさえ気を使いながら、彼女はそっと彼に近付いた。
意識のない土井の無防備な姿、その寝顔は穏やかで体を毒に蝕まれているとは感じられない程だ。
普段目にすることのない長い髪。
よくタカ丸に怒られている姿を見たなと思い出し、そっとその髪に触れてみる。
硬めでごわつきがある手触りが、手入れをしていない男の人という感じがして可愛らしいと思ってしまう。
最後にこうして穏やかな時間を過ごせたことは感謝でしかなかった。
「…………先生……」
そっと彼の頬を撫でると、土井の体がピクリと動く。
はっとして、小さく呻きながらゆっくりと開かれる瞼を覗き込む。
「土井先生?」
今度は呼び覚ますように、はっきりとその名を呼んだ。
今のこの状況、狭い部屋に二人きりという事実が椿を緊張させるが、叶うことなら一目彼に会いたいと思いながら。
誰かに呼ばれた気がした。
その声、とても懐かしい。
柔らかく自分を呼ぶ声、愛しい声。
ぼんやりと天井を写す瞳が、その声の持ち主を追うように人影を探して目を泳がせる。
「……椿、さん?」
「はい。お加減いかがですか?」
土井は現状を掴めず、しばらく記憶を辿るように瞳をちらつかせ、不意に思い出したように目を見開くとガバッと体を起こした。
「っ、無事か!?……、くっ……」
「先生、まだ動かないでください。毒が抜けきっていませんので。」
痛むのだろうか、体を強張らせる土井を椿が支える。
彼の体温は高くまだ調子が悪いだろうに、開口一番に自分のことを心配してくれたことに椿は嬉しさを感じずにはいられない。
「……毒……?そうだ、あの時……、君は?」
「私はこの通り大丈夫です。土井先生が、守ってくださいましたから。」
「……そうか……それなら、良かった……」
微笑む彼女の顔に張り詰めた気が解けていく。
徐々に状況を掴みだした土井は、ここが安全な場所”忍術学園”であることも理解した。
部屋の明るさから現在が夜であることも、部屋の中に自分と彼女しかいない状況も、ぼやけが残る頭が答えを割り出す。
安心して穏やかになったのもつかの間、土井は真剣な顔に戻ると椿に聞く。
「椿さん、教えて欲しい。一体何が起こっているのかを。」
彼の想いを受け止めた椿は話し始めた。
差臼が堀殻と馬印堂を仲違いさせようとしたこと、そのために千姫を攫ったこと、そしてあわよくば馬印堂を飲み込もうとしたこと。
だが本当の目的は竹森の姫だったこと、椿を探すために竹森の忍びである樒を捕らえ、自らの駒として使っていたこと。
樒は椿を探し出す手段として彼女にとっての形見である葵の扇を持ち出し、それをタソガレドキに渡して彼女を探し当てたこと。
竹森に対して裏切り行為を働いた樒の本心は、隆光を救いたいと言うこと。
差臼普墺が樒を使役させるために竹森に攻め込むと彼女を脅していたこと。
それらを全て吐き出した樒は、もう差臼ではなく竹森の人間として、忍術学園に協力すると誓ったこと。
忍術学園としては千姫を取り戻し堀殻に無事に届けるため、差臼の企み通りに事が進むよう、堀殻と馬印堂には戦の準備をしている振る舞いをしてもらっていること。
その時間の中で秘密裏に差臼へ潜入し、千姫を連れ出す作戦であること。
土井は厳しい顔のまま椿の話を聞いていた。
樒のことは衝撃を受けたように、時折彼女の名前を呟いていた。
椿は樒の代わりに、土井に毒を盛ったことを謝った。
頭を下げる彼女に、彼は気にしないでくれと声をかける。
こんな形での謝罪は椿自身が納得してはいないが、土井の優しさに触れ静かに感謝の意を伝えた。
そして、
「明日、千姫を救うために差臼に向かうとのことです。」
そう告げた。
だが土井の反応がなく不思議に思って顔を上げると、椿の顔をじっと見ていた彼と目が合う。
まるで何かを見透かすような視線、だが逸らすことは出来なかった。
どうしよう、読まれる……
全てを話さぬように気を付けたつもりだった。
彼に余計な心配をかけぬよう、今は自分の体を第一に考えて欲しいと願った。
だが無言で見つめる土井にそう直感した椿は、彼の気を逸らせようと試みるが、
「……先生、お体に障りますから。横になってくださ」
「椿さん」
遮った声は強く、椿は黙るしかなかった。
痛む体を気にもしないように、前のめりになりながら椿の瞳を覗き込む。
何も聞かないで、今は体を治すことだけ考えて。
彼女はただ、そう言いたかったのに。
「椿さん、まさか……君はまた……」
絶望を映したような土井の瞳が揺れる。
なんと答えたらいいのだろう。
何を言っても嘘だと見透かされてしまいそうだ。
椿を見つめる土井から伝わるのは心配する気持ち。
ずるい、そんなの、何も言えなくなってしまう。
「……先生、どうか聞いて」
「答えてくれ椿さん!頼む……っ」
「……」
彼女は困ったような、泣きそうな顔で、ただ微笑む。
それが答えだと悟った瞬間、頭の中が真っ白になる。
心配をかけたくない、でも嘘もつきたくない。
本当に彼女らしい、答えだった。
それはわかっている、椿ならそう答えると思っている、だが……その選択をして欲しいとは思わなかった。
君はまた、一人で背負い込もうとするのか……!
引き留めたい想いが先走り、椿の手を少し強引に掴んだ。
「駄目だ!行かせるわけにはいかない!君がその責を負う必要なんてない!危険に自ら足を踏み入れる必要なんてないじゃないか!」
竹森の名が出た時から感じていた。
彼女はもう捨てたその名を再び背負おうとしている。
もう十分なはずだ。
もう君の居場所はここのはずだ。
行かせてはいけない、それに今は自分が彼女を守ることが出来ない。
土井は必死に食い下がった。
「……先生……」
掴まれた手が痛い。
体中に毒が回って苦しいはずなのに、まだこんなにも力が出せるものなのか。
そこから伝わる土井の想いが嬉しくて苦しい。
「……椿さんっ!」
たたみかけるように繋がる手を引かれ、彼の腕の中に閉じ込められる。
力強く、椿を包む大きな腕。
伝わる高い体温と、土井の鼓動。
「頼む……行くな。行かないでくれ……っ」
懇願するように、自分の想いを伝えるように、土井は椿を抱きしめる。
その華奢な背中に手を回し、そしてあることに気が付いた。
骨、とはまた違う硬い感触。
滑らかな女の肌と言うには、少し凹凸があるような、不思議な感触だった。
これは……!
その正体に気付いた時、触れていいものかと迷いが生じる。
手の震えをきつく握り、土井は一層の力を腕に込めて抱き寄せる。
実際に目にしたわけじゃない、でもこれは、椿が学園を守った証。
あの時の彼女の姿が脳裏を過り、手のひらについた鮮血を今でも思い出す。
悔しかった。
何も出来ない自分が、そして罪のない椿がこんな目に遭うことが悔しくて溜まらなかった。
もっと早く追いかけていれば、彼女を引き留められたのならと、もうそんな後悔はしたくはない。
だから、どんなに椿が強情であったとしても、この手を離してはならないのだ。
「……せんせ……」
何度こうして欲しいと願ったのだろう。
それが叶ったはずなのに、待っていたのは苦しみであった。
あんなに強く皆を救いたいと思っていたのに、彼のたった一つの行動でここまで心を揺さぶられるなどと想像出来なかった。
あなたの側に居たい、そう言えたならどんなに楽であったのか。
そんなこと言えるはずもないのに耐えるだけの苦しみから解放されたくなる。
包まれる安心感。
身も心も彼に満たされ、その心地良さに全てを投げだしてしまいたい。
抱きしめ返せたなら、自分の気持ちに素直になれたなら。
自分を甘やかして、彼に甘えて、ただ穏やかな時間を過ごしたいと願ってしまう。
でも、彼の背に手を回すことが椿には出来ない。
そうしてしまうと、自分の誓いも砕けてしまいそうだからだ。
あなたさえいればいいと、甘えたくなる自分を必死に拭い去る。
負けてはいけない、でもこれが最後と思いながらも、その僅かな希望を捨て去ることが出来ない。
吐き出したい想いを必死に抑えて、椿は声を絞り出す。
「先生は、私と一年は組の皆を天秤に掛けられたら……どちらを選びますか?」
彼女は震える声で、静かにそう言った。
耳元で聞こえた問い、その真意を探るべく土井は椿と目を合わせる。
「何を言っているんだ、そんなの……選べるはずがない。君もは組も、どちらも選びたいさ。」
必死だった。
ただ、彼女自身も自分には大事であると伝えたかった。
だから行かないでくれと、言いたかっただけなのに。
「私も同じです。私も両方選びたい。」
椿が何を言っているのかわからなかったが、ここでようやくその言葉の意味を理解する。
彼女の言う両方、その片方に忍術学園あるいは土井が含まれていることは確かだ。
気付いた時には焦りとなって、全身から汗が噴き出ていた。
「だからと言って……!」
「安心してください。土井先生が起きられるまで……ここに居ます。ずっと、あなたの側におります、から……」
「椿さん、私は……っ!」
「これ以上言わないで!……言わないで、ください。お願い……っ」
顔を伏せて土井が掴んだ手を押しのけ、聞きたくない姿勢を見せる。
言わせてくれ、君が私の元を離れると言うのなら。
この想いを、例え拒絶されたとしても、君を引き留める足枷となるのならば!
そう思っていた。
だが全身で土井の言葉を拒絶する椿に、声を絞り出せなくなる。
これはただの利己的考えではないのだろうか。
どうしたらいい?どうしたら彼女は行くのをやめてくれるのだろう?
考えても無駄なことは椿の性格を考慮すると導かれる答えであった。
それが彼女の強さであり、自分が惹かれた彼女の魅力でもある。
だがだからと言って引き下がれる訳がないと、依然として繋がる手に力を込めたまま土井は気持ちを断ち切れない。
この手を放してはいけない。
彼女を行かせてはいけない。
椿の身の安全を保障するものは、何もないのだ。
土井の気持ちが、優しさが、椿の決意を鈍らせてしまう。
そうなっては千姫を助けることも、竹森を守ることも、忍術学園の平穏を約束することも、出来なくなってしまう。
だから……
椿は新野が置いて行った薬を素早く手に取ると、それを水と共に口に含む。
そのまま土井に近付いた彼女は、両手で土井の顔をすくいとると彼の唇に自分のそれを押し当てた。
親鳥が雛に餌をやるように、上から土井の唇を捕らえる。
「!?」
まだ上手く体を動かせない土井は、椿の突然の行為を避けられず安易に受け入れてしまった。
繋がった口から流れ込んでくる液体を容易く喉に通して鳴らす。
重ねた唇の隙間を水が流れるのがわかったが、どうすることも出来ない。
驚いたように開かれた目を徐々に閉じて、震える手は辛うじて彼女の手に添えられる。
椿、さんっ……!
こんな形で彼女と繋がることは望まなかった。
だが、ここまでしなければならないという椿の想いに打ち勝つことが出来ず、土井の顔をしっかり包むその手を引きはがすことは出来ない。
お願い……わかって……っ
口内に広がる薬の香りが鼻から抜ける。
これが彼女の想いなのだ、彼女の願いなのだ。
受け取りたいのに、受け取りたくない。
彼女の願いを叶えるために、彼女の死を望みたくはない。
なのに何故、体が動かないのだろう。
最後の一滴を彼が飲み干すのがわかったのか、椿はゆっくりと唇を離した。
「っ、椿、さん……!」
至近距離で彼女と目が合い、吐息が互いに吹きかかる。
このまま離れたくない。
そう思いながら土井は椿を再度引き寄せようとする。
が、途端に世界が反転したようにぐらりと頭が揺れ、彼女の顔を確認することで精一杯だった。
自分を見つめるその瞳、流れ落ちるものが涙だとわかり手を伸ばそうとするが、自分の意思に反し離れて行く体。
腕が酷く重い。
意識を正常に保つことが出来ない。
すぐ近くにいるのに、掴むことがこんなに難しいなんて。
零れた涙が土井の頬を濡らす。
それを拭ってやることも出来ず、ただ沈んで行く自分に腹立たしささえ覚える。
「……っ、行く、な……っ、椿、さ……」
もう目を開けることも叶わない、意識を失いかけた体。
最後に感じられたのは自分を支えようとした彼女の温もり。
ああ、そんな華奢な体で私を支えようと言うのか……
何を飲まされたかなど、もうどうでもいい。
ただ椿が一人で涙する時に、それを慰めてやれないなんて悔しくてたまらなかった。
意識を手放した土井の体を支えながら布団に寝かせる。
こうしていれば少しは、体の苦痛も感じなくなるから。
彼の口から零れた水を優しく拭き取り、土井の頬をそっと撫でる。
「……先生……」
通じ合わせることが出来なかった想い。
伝えることが出来なかった想い。
学園の皆は椿が無事に戻って来ることを祈ってくれる。
必ず戻ると誓った心に嘘偽りはない。
でもその約束を守れる自信は、ない。
だから土井に自分の気持ちを伝えることも、彼の気持ちを聞くことも拒んだ。
未練になってはいけないと、思った。
もしも自分が戻らなかった時に、彼に前を向いて欲しいと願った。
「……土井先生、ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
零れた涙が、彼女の震える拳を濡らす。
重ねた唇の温かさ、それを胸にしまい込むように椿は土井に別れを告げた。
椿は一刻も早く、できることなら今すぐにでも始めたい想いを打ち明けていた。
だが本作戦の中心人物は椿本人。
彼女の心的疲労を学園長は口に出さずも理解し考慮した結果、少しの休息を言い渡す。
差臼城に入った後は、何が起こるかわからない。
勿論、安全の保障などない。
誰かが言ったように、椿自身を失う危険性もあるのだ。
かつて忍びであった学園長始め、この場にいる教師たちと違って椿は長期的苦痛に耐える訓練をしていない。
彼女の気持ちは汲んだとしても、それを承諾する者はいなかった。
椿を動かしているもの、それは竹森城が関わったことによる責任が大きい。
樒の業、そして椿の竹森を救いたいと願う心。
間接的に巻き込まれた身でありながら”姫”としての責務を果たそうとする姿勢に、心を打たれた者もいた。
要は皆、椿が心配であったのだ。
彼女を失いたくない、その一心だった。
山田はこの場に居ない土井の分まで、彼女のことを気にかけていた。
学園長は少しでも休むように彼女を説得したが、山田は学園を発つ前に土井に会うようにと椿に助言をした。
それが少しでも、彼女の身を守る力になればと思ったのだ。
自身も常々感じていること、待っていてくれる人がいる心強さを椿に伝えたかったのだ。
他のことは心配するなと言う、教師一同の心強い顔を見回しながら感謝を伝えたのはつい先刻のこと。
一足先に休むようにと言われた椿がここに足を運んだのは、彼のことがあったから。
山田に言われたということもある、でも椿自身も心残りに思うことがあったのだ。
確かに今になってわかる、自分は疲れている。
でも、どうしてもここに立ち寄らずにはいられなかった。
足を止めた部屋の前。
先程の慌ただしい様子もなく、今はただ中の蝋燭の火が静かに揺らめいているのがわかる。
会ったところでどうしたらいいの?
顔を見れたら満足するの?
でも、一言、謝りたい。
これが最後、かも知れないから……
医務室、その障子を開けるのを彼女は迷っていた。
「どうぞ。」
中から聞こえた声にハッとする。
自分の迷いを見透かされたと感じたが、招き入れるように優しい声色で促すそれに少し心が軽くなった。
恐る恐る障子に手をかけ、中の人物に声をかけると椿はそっと戸を滑らせた。
「ああ、椿さん。」
室内に新野の姿があった。
彼はいつもと変わらない柔らかい笑みで彼女を迎えた。
新野の顔にも疲れが出ているようで椿はそれを心配する。
「新野先生、お疲れ様です。失礼します。」
中に入り障子を閉めたところで、部屋の隅に横たわる人物に目をくれる。
土井先生……
意識がなく寝かされた状態の土井。
今は容態が落ち着いているようで、昼間よりも血色がいい。
「土井先生なら大丈夫ですよ。君が持ってきてくれた薬が効いたようだね。ありがとうございます。」
「そんな……ただ必死だっただけです。」
新野は何も聞かずとも、彼女がここへ来た理由を理解したようだった。
彼の言葉に安心する。
とは言え、完全に毒が消えたわけではない。
新野は医療を志す者として、この見たこともない毒について彼女に尋ねた。
椿は惜しげもなく語りだす。
「これは私の……竹森にしかない毒です。発熱、体の痛み、五感を狂わせ苦しみながら……死に至ります。お渡しした解毒剤でしか消すことは出来ないと言われています。意識がある状態では毒性が強く出るので、紫斑が消えるまではなるべく寝かせておいた方が良いかと思います。」
「……成程、その情報は助かります。詳しいのだね。」
「私も、幼い頃に一度誤ってその毒に触れてしまいまして……辛かった記憶がありますから。」
「それは大変だったね。でも椿さんの経験があってこそ、土井先生を救えると言うものですよ。」
新野は椿から得たものを早速紙に書き起こしていた。
彼女はもう一度土井を見る。
もしかすると、こうやって会えるのは今夜が最後になるかも知れない。
こんなことになってしまって、直接詫びの一つも出来ずに学園を出るのは悔しいが仕方がないことだ。
寂しい。
ちゃんと向き合って、ごめんなさいと一言言いたかった。
その腕の中で土井の存在を確かめたかった。
もう一度、名前を呼んで微笑んで欲しかった。
それが叶わないなら、せめてあなた自身に約束をしよう。
必ず、ここに戻ってくると。
そうしたらその時は、温かく迎え入れて欲しいと願う。
私はずっと、土井先生のことを……
「椿さん」
「はいっ」
考え事をしていた椿は新野の呼びかけに驚いたように反応した。
それを少し気にしたような新野が申し訳なさそうに眉根を下げ、彼女と目を合わせて問う。
「……行くのかい?」
「……」
「お節介かも知れないけど、土井先生の側にいた方が君にとっては良いのかと思って……」
新野は何か、感じるものがあったのだろうか。
それ以上深い話をしないのは彼の優しさなのだろう。
その優しさに返す言葉もないことに少しだけ罪悪感を抱きながら、椿は言葉を発する代わりに首を横に振った。
やがて小さな声で絞り出すように彼女は言う。
「……本当は、こんな状態の土井先生を置いてなんて行けません。土井先生が目を覚ますまで、側にいたいです……伝えたいことだってある……でも……、私は……、守ると約束した私を信じて待っていてくれる人がいるから……。その人だけじゃない、私に助けを求めた樒ちゃん、彼女が救いたかった人たち、それに……忍術学園の皆を、争いに巻き込むことは避けなければいけません。皆のことが好きだから……だから、救いたいんです……」
彼女の膝に置かれた両手に力が込められ震えだす。
自分が頑張らなければと、追い込むような椿の姿勢に新野は心を痛める。
だがそれも、彼女が”竹森椿”たる所以。
椿の想いを受け取るように、新野は短く相槌を打つように返事をした。
「あ……ごめんなさい、救うだなんて大それたことを……。ただ力になりたくて、私に出来ることがあるなら少しでも助けになりたいと思っただけなんです。」
椿は恥ずかしそうに手で溢れる涙を拭う。
「いや、君は”救う”と言うだけの力を持っていると思います。勿論、この学園を一度救ってくれた事実もあるが……それだけじゃない。彼にとっても君の存在が救いになっていると私は思うよ。」
新野はチラリと土井を見て、それにつられる形で椿も彼を目に写す。
私が……土井先生の救いに……?
胸が音を立てて震えた。
もしそうだったら、どんなに心強いことか。
そして伝えたい、自分も同じだと。
あなたの存在が私を強くする。
あなたと、あなたが大切にしているものを守りたい。
だから、どうか……愚かな私を許してください。
「ただ、急ぐことのないように願います。急いては事を仕損じる。椿さんはこの学園にとってもかけがえのない薬だ。私なんかでは癒すことの出来ない唯一の薬なんです。だから必ず戻って来てください。これは学園皆の願いですよ。」
「新野先生……、ありがとうございます。」
椿は頭を下げて礼を言った。
学園に戻って来たい、必ず。
それを受け入れて待っていてくれる人たちがここにもいたことに、椿は感謝せずにはいられなかった。
「……さて、そろそろ土井先生が目を覚ます頃。彼とも話をしておいた方がいいでしょう。私は少し退席させてもらいますね。」
新野は薬棚から取り出したものを椿に渡す。
これは?と問う椿に、新野はただの睡眠薬だと伝えた。
「苦しむといけませんから、もし辛そうだったら飲ませてあげてください。」
「はい、わかりました。」
静かに閉じられる戸を見送る。
この小さな空間に残された椿と土井。
急に静まり返った室内に少しだけ緊張する。
自分の着物が擦れる音にさえ気を使いながら、彼女はそっと彼に近付いた。
意識のない土井の無防備な姿、その寝顔は穏やかで体を毒に蝕まれているとは感じられない程だ。
普段目にすることのない長い髪。
よくタカ丸に怒られている姿を見たなと思い出し、そっとその髪に触れてみる。
硬めでごわつきがある手触りが、手入れをしていない男の人という感じがして可愛らしいと思ってしまう。
最後にこうして穏やかな時間を過ごせたことは感謝でしかなかった。
「…………先生……」
そっと彼の頬を撫でると、土井の体がピクリと動く。
はっとして、小さく呻きながらゆっくりと開かれる瞼を覗き込む。
「土井先生?」
今度は呼び覚ますように、はっきりとその名を呼んだ。
今のこの状況、狭い部屋に二人きりという事実が椿を緊張させるが、叶うことなら一目彼に会いたいと思いながら。
誰かに呼ばれた気がした。
その声、とても懐かしい。
柔らかく自分を呼ぶ声、愛しい声。
ぼんやりと天井を写す瞳が、その声の持ち主を追うように人影を探して目を泳がせる。
「……椿、さん?」
「はい。お加減いかがですか?」
土井は現状を掴めず、しばらく記憶を辿るように瞳をちらつかせ、不意に思い出したように目を見開くとガバッと体を起こした。
「っ、無事か!?……、くっ……」
「先生、まだ動かないでください。毒が抜けきっていませんので。」
痛むのだろうか、体を強張らせる土井を椿が支える。
彼の体温は高くまだ調子が悪いだろうに、開口一番に自分のことを心配してくれたことに椿は嬉しさを感じずにはいられない。
「……毒……?そうだ、あの時……、君は?」
「私はこの通り大丈夫です。土井先生が、守ってくださいましたから。」
「……そうか……それなら、良かった……」
微笑む彼女の顔に張り詰めた気が解けていく。
徐々に状況を掴みだした土井は、ここが安全な場所”忍術学園”であることも理解した。
部屋の明るさから現在が夜であることも、部屋の中に自分と彼女しかいない状況も、ぼやけが残る頭が答えを割り出す。
安心して穏やかになったのもつかの間、土井は真剣な顔に戻ると椿に聞く。
「椿さん、教えて欲しい。一体何が起こっているのかを。」
彼の想いを受け止めた椿は話し始めた。
差臼が堀殻と馬印堂を仲違いさせようとしたこと、そのために千姫を攫ったこと、そしてあわよくば馬印堂を飲み込もうとしたこと。
だが本当の目的は竹森の姫だったこと、椿を探すために竹森の忍びである樒を捕らえ、自らの駒として使っていたこと。
樒は椿を探し出す手段として彼女にとっての形見である葵の扇を持ち出し、それをタソガレドキに渡して彼女を探し当てたこと。
竹森に対して裏切り行為を働いた樒の本心は、隆光を救いたいと言うこと。
差臼普墺が樒を使役させるために竹森に攻め込むと彼女を脅していたこと。
それらを全て吐き出した樒は、もう差臼ではなく竹森の人間として、忍術学園に協力すると誓ったこと。
忍術学園としては千姫を取り戻し堀殻に無事に届けるため、差臼の企み通りに事が進むよう、堀殻と馬印堂には戦の準備をしている振る舞いをしてもらっていること。
その時間の中で秘密裏に差臼へ潜入し、千姫を連れ出す作戦であること。
土井は厳しい顔のまま椿の話を聞いていた。
樒のことは衝撃を受けたように、時折彼女の名前を呟いていた。
椿は樒の代わりに、土井に毒を盛ったことを謝った。
頭を下げる彼女に、彼は気にしないでくれと声をかける。
こんな形での謝罪は椿自身が納得してはいないが、土井の優しさに触れ静かに感謝の意を伝えた。
そして、
「明日、千姫を救うために差臼に向かうとのことです。」
そう告げた。
だが土井の反応がなく不思議に思って顔を上げると、椿の顔をじっと見ていた彼と目が合う。
まるで何かを見透かすような視線、だが逸らすことは出来なかった。
どうしよう、読まれる……
全てを話さぬように気を付けたつもりだった。
彼に余計な心配をかけぬよう、今は自分の体を第一に考えて欲しいと願った。
だが無言で見つめる土井にそう直感した椿は、彼の気を逸らせようと試みるが、
「……先生、お体に障りますから。横になってくださ」
「椿さん」
遮った声は強く、椿は黙るしかなかった。
痛む体を気にもしないように、前のめりになりながら椿の瞳を覗き込む。
何も聞かないで、今は体を治すことだけ考えて。
彼女はただ、そう言いたかったのに。
「椿さん、まさか……君はまた……」
絶望を映したような土井の瞳が揺れる。
なんと答えたらいいのだろう。
何を言っても嘘だと見透かされてしまいそうだ。
椿を見つめる土井から伝わるのは心配する気持ち。
ずるい、そんなの、何も言えなくなってしまう。
「……先生、どうか聞いて」
「答えてくれ椿さん!頼む……っ」
「……」
彼女は困ったような、泣きそうな顔で、ただ微笑む。
それが答えだと悟った瞬間、頭の中が真っ白になる。
心配をかけたくない、でも嘘もつきたくない。
本当に彼女らしい、答えだった。
それはわかっている、椿ならそう答えると思っている、だが……その選択をして欲しいとは思わなかった。
君はまた、一人で背負い込もうとするのか……!
引き留めたい想いが先走り、椿の手を少し強引に掴んだ。
「駄目だ!行かせるわけにはいかない!君がその責を負う必要なんてない!危険に自ら足を踏み入れる必要なんてないじゃないか!」
竹森の名が出た時から感じていた。
彼女はもう捨てたその名を再び背負おうとしている。
もう十分なはずだ。
もう君の居場所はここのはずだ。
行かせてはいけない、それに今は自分が彼女を守ることが出来ない。
土井は必死に食い下がった。
「……先生……」
掴まれた手が痛い。
体中に毒が回って苦しいはずなのに、まだこんなにも力が出せるものなのか。
そこから伝わる土井の想いが嬉しくて苦しい。
「……椿さんっ!」
たたみかけるように繋がる手を引かれ、彼の腕の中に閉じ込められる。
力強く、椿を包む大きな腕。
伝わる高い体温と、土井の鼓動。
「頼む……行くな。行かないでくれ……っ」
懇願するように、自分の想いを伝えるように、土井は椿を抱きしめる。
その華奢な背中に手を回し、そしてあることに気が付いた。
骨、とはまた違う硬い感触。
滑らかな女の肌と言うには、少し凹凸があるような、不思議な感触だった。
これは……!
その正体に気付いた時、触れていいものかと迷いが生じる。
手の震えをきつく握り、土井は一層の力を腕に込めて抱き寄せる。
実際に目にしたわけじゃない、でもこれは、椿が学園を守った証。
あの時の彼女の姿が脳裏を過り、手のひらについた鮮血を今でも思い出す。
悔しかった。
何も出来ない自分が、そして罪のない椿がこんな目に遭うことが悔しくて溜まらなかった。
もっと早く追いかけていれば、彼女を引き留められたのならと、もうそんな後悔はしたくはない。
だから、どんなに椿が強情であったとしても、この手を離してはならないのだ。
「……せんせ……」
何度こうして欲しいと願ったのだろう。
それが叶ったはずなのに、待っていたのは苦しみであった。
あんなに強く皆を救いたいと思っていたのに、彼のたった一つの行動でここまで心を揺さぶられるなどと想像出来なかった。
あなたの側に居たい、そう言えたならどんなに楽であったのか。
そんなこと言えるはずもないのに耐えるだけの苦しみから解放されたくなる。
包まれる安心感。
身も心も彼に満たされ、その心地良さに全てを投げだしてしまいたい。
抱きしめ返せたなら、自分の気持ちに素直になれたなら。
自分を甘やかして、彼に甘えて、ただ穏やかな時間を過ごしたいと願ってしまう。
でも、彼の背に手を回すことが椿には出来ない。
そうしてしまうと、自分の誓いも砕けてしまいそうだからだ。
あなたさえいればいいと、甘えたくなる自分を必死に拭い去る。
負けてはいけない、でもこれが最後と思いながらも、その僅かな希望を捨て去ることが出来ない。
吐き出したい想いを必死に抑えて、椿は声を絞り出す。
「先生は、私と一年は組の皆を天秤に掛けられたら……どちらを選びますか?」
彼女は震える声で、静かにそう言った。
耳元で聞こえた問い、その真意を探るべく土井は椿と目を合わせる。
「何を言っているんだ、そんなの……選べるはずがない。君もは組も、どちらも選びたいさ。」
必死だった。
ただ、彼女自身も自分には大事であると伝えたかった。
だから行かないでくれと、言いたかっただけなのに。
「私も同じです。私も両方選びたい。」
椿が何を言っているのかわからなかったが、ここでようやくその言葉の意味を理解する。
彼女の言う両方、その片方に忍術学園あるいは土井が含まれていることは確かだ。
気付いた時には焦りとなって、全身から汗が噴き出ていた。
「だからと言って……!」
「安心してください。土井先生が起きられるまで……ここに居ます。ずっと、あなたの側におります、から……」
「椿さん、私は……っ!」
「これ以上言わないで!……言わないで、ください。お願い……っ」
顔を伏せて土井が掴んだ手を押しのけ、聞きたくない姿勢を見せる。
言わせてくれ、君が私の元を離れると言うのなら。
この想いを、例え拒絶されたとしても、君を引き留める足枷となるのならば!
そう思っていた。
だが全身で土井の言葉を拒絶する椿に、声を絞り出せなくなる。
これはただの利己的考えではないのだろうか。
どうしたらいい?どうしたら彼女は行くのをやめてくれるのだろう?
考えても無駄なことは椿の性格を考慮すると導かれる答えであった。
それが彼女の強さであり、自分が惹かれた彼女の魅力でもある。
だがだからと言って引き下がれる訳がないと、依然として繋がる手に力を込めたまま土井は気持ちを断ち切れない。
この手を放してはいけない。
彼女を行かせてはいけない。
椿の身の安全を保障するものは、何もないのだ。
土井の気持ちが、優しさが、椿の決意を鈍らせてしまう。
そうなっては千姫を助けることも、竹森を守ることも、忍術学園の平穏を約束することも、出来なくなってしまう。
だから……
椿は新野が置いて行った薬を素早く手に取ると、それを水と共に口に含む。
そのまま土井に近付いた彼女は、両手で土井の顔をすくいとると彼の唇に自分のそれを押し当てた。
親鳥が雛に餌をやるように、上から土井の唇を捕らえる。
「!?」
まだ上手く体を動かせない土井は、椿の突然の行為を避けられず安易に受け入れてしまった。
繋がった口から流れ込んでくる液体を容易く喉に通して鳴らす。
重ねた唇の隙間を水が流れるのがわかったが、どうすることも出来ない。
驚いたように開かれた目を徐々に閉じて、震える手は辛うじて彼女の手に添えられる。
椿、さんっ……!
こんな形で彼女と繋がることは望まなかった。
だが、ここまでしなければならないという椿の想いに打ち勝つことが出来ず、土井の顔をしっかり包むその手を引きはがすことは出来ない。
お願い……わかって……っ
口内に広がる薬の香りが鼻から抜ける。
これが彼女の想いなのだ、彼女の願いなのだ。
受け取りたいのに、受け取りたくない。
彼女の願いを叶えるために、彼女の死を望みたくはない。
なのに何故、体が動かないのだろう。
最後の一滴を彼が飲み干すのがわかったのか、椿はゆっくりと唇を離した。
「っ、椿、さん……!」
至近距離で彼女と目が合い、吐息が互いに吹きかかる。
このまま離れたくない。
そう思いながら土井は椿を再度引き寄せようとする。
が、途端に世界が反転したようにぐらりと頭が揺れ、彼女の顔を確認することで精一杯だった。
自分を見つめるその瞳、流れ落ちるものが涙だとわかり手を伸ばそうとするが、自分の意思に反し離れて行く体。
腕が酷く重い。
意識を正常に保つことが出来ない。
すぐ近くにいるのに、掴むことがこんなに難しいなんて。
零れた涙が土井の頬を濡らす。
それを拭ってやることも出来ず、ただ沈んで行く自分に腹立たしささえ覚える。
「……っ、行く、な……っ、椿、さ……」
もう目を開けることも叶わない、意識を失いかけた体。
最後に感じられたのは自分を支えようとした彼女の温もり。
ああ、そんな華奢な体で私を支えようと言うのか……
何を飲まされたかなど、もうどうでもいい。
ただ椿が一人で涙する時に、それを慰めてやれないなんて悔しくてたまらなかった。
意識を手放した土井の体を支えながら布団に寝かせる。
こうしていれば少しは、体の苦痛も感じなくなるから。
彼の口から零れた水を優しく拭き取り、土井の頬をそっと撫でる。
「……先生……」
通じ合わせることが出来なかった想い。
伝えることが出来なかった想い。
学園の皆は椿が無事に戻って来ることを祈ってくれる。
必ず戻ると誓った心に嘘偽りはない。
でもその約束を守れる自信は、ない。
だから土井に自分の気持ちを伝えることも、彼の気持ちを聞くことも拒んだ。
未練になってはいけないと、思った。
もしも自分が戻らなかった時に、彼に前を向いて欲しいと願った。
「……土井先生、ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
零れた涙が、彼女の震える拳を濡らす。
重ねた唇の温かさ、それを胸にしまい込むように椿は土井に別れを告げた。