三章
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生物委員会が管理している生き物小屋、その周りに集まった五年生たち。
彼らの影が闇の中に伸びる。
昼間六年ろ組と共に偵察に出た五年生は、樒の一報を聞き全員が学園に戻って来ていた。
樒に対する思いはそれぞれであった。
信じていた者、裏切られたと感じる者、初めから疑っていた者。
だが皆共通して思っていたのは、椿の樒に対する気持ちを救えなかったということ。
彼女が今どんな気持ちでいるのかを思うと、三郎は怒りが込み上げてくる。
勘右衛門はその気持ちを汲むように、生き物小屋に厳しい目を向ける三郎をなだめた。
「ん?」
近付いて来る足音に気付き振り返った雷蔵は、そこにいた人物に驚きを隠せなかった。
「っ、椿さんっ?」
他の五年生も彼女に気付き驚いたように声を漏らす。
彼らは勿論、土井のことも聞いていた。
だからその場に居合わせた椿がどういう状況なのかも察しがついていたし、とても外に出られる状態じゃないことも理解していた。
それなのに現れた彼女、だが持前の明るさはなく表情は硬い。
何と声をかけて良いのか誰もわからず、雷蔵と八左ヱ門は道を開けて彼女を輪の中に入れた。
……………………
「……、椿さん……」
辛うじて兵助が彼女の名を呼んだ。
椿は視線を動かして全員の目を見る。
「……皆、ごめんね。」
「え?」
「今回の件、私は深く関わってしまった。それに皆を巻き込んでしまった。……怪我をさせてしまった人もいる。だけど、私は逃げるわけにはいかない。最後までしっかり見定めなければならない。」
「……」
「椿さん……」
「あなたが謝る必要なんてない。」
発言したのは三郎だ。
全員の注目を浴びる中、彼は椿を見据えて語りかける。
「巻き込まれたなんて思っていない。少なくとも、俺は。初めから仕組まれた道筋なんてない。あなたがそれを作ったとも思えない。俺たちよりも椿さんの方が苦しいのに、それを自分のせいだとか詫びるとか、する必要はない。」
「三郎君……」
雷蔵が椿に振り向き笑って見せる。
「三郎は、椿さんが前を向けたことを喜んでいるんですよ。」
「おいっ雷蔵、」
三郎の言葉を遮るように割って入ったのは勘右衛門の明るい声。
「そうそう、元凶は他にあるんですから。椿さんが一人で背負う必要なんてないんですよ。」
「椿さんには食堂で笑っていて貰わないと困りますから。」
五年生全員を見回す。
誰一人嫌な顔をせずに椿に向き合ってくれている。
そんな彼らに椿は感謝を伝えた。
「ところで、どうしてここに?」
八左ヱ門の言葉に彼女は目の前の生き物小屋に視線を送る。
「彼女が、ここにいると聞いたから。」
「……」
彼女、というのは勿論、樒のことだ。
山田と木下に連れられて帰ってきた樒は、手足を拘束されたまま生き物小屋の中に囚われている。
処遇はまだ、決まっていない。
「話がしたいの。」
「でも椿さん、先生方の許可が出ていません。」
「許可なら貰っている。」
その声は五年生のものではない。
皆が一斉に振り向くと現れたのは長次だった。
「中在家先輩。」
「……椿、学園長先生からの許可は貰った。ただし話をするだけだ。拘束を解くことは出来ない。」
「わかってる。ありがとう長次。」
椿が改めて五年生たちに願い出ると、彼らは少し戸惑いながらも顔を見合わせて頷いた。
八左ヱ門が小屋の扉の鍵を外す。
狭い室内、籠に入れられた沢山の毒虫たち、その中心に彼女は転がされていた。
兵助と勘右衛門が用心しながら近付く。
樒は疲れ切った表情でその瞳に生気が感じられない。
「……椿さんが話がしたいそうだ。触りますよ。」
兵助はそう言うと勘右衛門と協力して彼女を立たせ、小屋の外へ連れ出した。
月の光の中、外の空気が澄んでいるように感じられる。
樒の目に映ったのは椿の姿。
数刻振りの再会、だがどちらにとっても喜ばしいことではない。
樒が思い切り目を逸らしたところで、彼女は地面に座らされた。
万が一を考え、五年生が彼女の周りを取り囲む。
椿が一歩近づいたが、長次が彼女の前に手を出して止める。
万が一があってはいけない、なるべく近付かないようにと長次は言葉なくもそう言っているようだった。
彼と目を合わせた椿は小さく頷いた。
沈黙が時を溶かしていく。
「……樒ちゃん。」
意を決したように椿は口を開いた。
「あなたとお話がしたい。ううん、聞いてもらうだけでもいい。私はあなたを責める気はない。今、その口の布を取ってもらうけど、滅多なことはしないで。お願い。」
「……」
樒は椿の方を見ようともせず、その言葉に反応することもなく、ただそこに座っているだけだった。
椿が雷蔵と目を合わせて小さく頷くと、彼も無言のままそっと樒の口を解放した。
それを見届けた椿は続ける。
「どうしてあなたがここにいるのかわからない。でもきっと事情があるのだと思う。あなたに協力したい。きっとそれは私の身内のためにもなるだろうから。」
「!?」
樒は驚いたように目を見開いて椿を見た。
「樒ちゃんあなた……竹森の人間だね?」
「え!?」
ざわつく五年生。
樒は喉に渇きを覚え、苦しそうに声を絞り出す。
「……何故、それを……?」
「あなたが使った毒、あれはこの辺では見ない、竹森の周辺にしか咲かない花の毒。即効性があり、少量で人を苦しめることができるもの。」
「……」
「私も幼い頃にその毒を誤って受けてしまったことがある。土井先生の傷口に現れた特徴的な紫斑、これは竹森の毒だという証拠。だから気付いたの。あなたが本当は竹森から来たということを。」
樒は声が出せない。
椿がその毒を知っていたことは完全に誤算だった。
竹森城で育てられた姫君、だが椿が城を去った後に配属された樒は、彼女の幼い頃のことなど知らない。
「だけど、どうしてあなたが差臼と関わりがあるのか、わからない。でも気になることがあるの。樒ちゃんが”救いたい”と願う人、それってもしかして……」
「椿、お連れしたぞ。」
無遠慮に割り込んだ声。
だが椿には都合が良かった。
「ありがとう、小平太。」
椿の視線を追うように樒も小平太に目をやる。
そこで彼女は絶句した。
いるはずがない、ここにいるはずのない人物の姿に目を見開く。
「……あ……」
小平太の後ろに控える二つの影。
その二人に椿が近付き、親しそうに言葉を交わすと樒に向き直る。
月の光を背に、大きな影と小さな影が樒を見ている。
こちらを向いた椿の、優しい顔。
焦点が定まらない。
心臓が痛い。
明らかに樒は狼狽えていた。
「そん、な……まさか、どうして……」
「樒ちゃん、あなたが救いたいのは、隆光、だね?」
「隆光、様……!神室さんっ……!」
その名を椿が言った瞬間、樒はその場で頭を垂れた。
彼女の瞳から溢れる大粒の涙がとめどなく流れ地面を濡らす。
その様子を見ていた五年生は小声で会話を交わす。
「……あれって、左門と木下先生、だよな?」
「あ、ああ。いつもと違う恰好だし丁度影になってて良く見えないけど……」
「左門と木下先生……何故?」
静かに近づいた長次が補足する。
「これは椿の作戦だ。樒を素直にさせるには彼女が強く想う相手が必要だろうとのこと。若君については知らないが、神室さんなら会ったことがあるだろう?」
兵助、雷蔵、三郎は前回の作戦の際に神室に会っていた。
なので三人は納得したような声を出した。
勘右衛門と八左ヱ門は知らないことなので、蚊帳の外であることが少々悔しい。
「確かに竹森の人間であれば、若様と神室さんを知っているはず。」
「でも、神室さんって……そんなに木下先生に似ていましたっけ?」
雷蔵の言葉に兵助も三郎も唸りを上げる。
正直なところ、似て……はいなかったかも知れない。
だがこの暗闇の中、それなりの恰好をすればそう錯覚してしまうのだろう。
木下は全身を黒装束で包み、頭部は目だけを除いて黒い布で覆ってしまっている。
恰好と共に元々の体格が似ているような気がした。
左門は恐らく作法委員会の物を使用したのだろう、煌びやかな模様の入った鮮やかな青い紋付袴。
頑張って閉じているのだろう、いつも開きがちな大きな口は真一文字に結ばれている。
それになにより、
「……椿がそう言うのだから、そうなのだろう。」
長次も自信はないが、椿が似ていると豪語していたので信じるしかなかった。
そして上手い具合に樒にはそれが効いている。
「可愛いでしょう?本当、隆光の幼い頃にそっくり。純粋な目をキラキラさせていつも私について来てたなぁ。」
椿が樒に見せつけるようにして左門を抱き寄せる。
彼は十二歳、隆光の年齢より二つ下のはずだが椿にはそれより小さい時の記憶しかなく、左門を幼い隆光として見ているようだった。
果たして似せられているのかとこの場の誰もが心配したが、木下と左門を目にした瞬間から樒の様子がおかしい。
彼女は震えながら泣いていた。
「隆光様っ……!」
泣き続ける樒の口からは隆光の名と懺悔が溢れて止まらない。
竹森を救うことが出来なかった、申し訳ない、彼女はしきりにそう言い続けて自分を責める。
それを見た椿は困ったように目を細めた。
彼女が樒に近付こうとするのを小平太が前に出て進路を塞ぐ。
「椿、」
「小平太、大丈夫。もう大丈夫だよ。」
そう言って彼女が少し微笑む。
これ以上引き留める術を持たず、小平太は椿の前の道を開けた。
樒の目の前に歩を進めると彼女はその場にすっかりしゃがみ込み、震える肩に手を置いた。
樒と目線を合わせるように覗き込むと、今度は樒が想いを吐き出す。
「助けて……、お願いします……!助けてくださいっ!隆光様を……お助けくださいっ!お願い、しますっ……!」
「うん……わかった。じゃあまず、樒ちゃんのこと教えて?どうして差臼にいたのかを。」
樒はその経緯を話し出す。
竹森の忍びとして差臼の調査に出た彼女は、敵の策略に落ちて捕らえられてしまった。
取引の材料にされるくらいなら自ら命を絶つ覚悟であったが、差臼普墺が提案したのは樒が差臼の駒となることだった。
差臼は堀殻と敵対している。
その堀殻が馬印堂と組もうとしているのが気に喰わない。
ならばそれを邪魔して差臼が馬印堂を手中に収めようと考えていた。
樒はその諜報員として選ばれ、もし失敗すれば差臼が竹森を落とすと告げられる。
言い換えれば、樒の働き次第で竹森の安全が保障されるということだ。
現城主、竹森隆光は争いを好まない。
もし戦などを仕掛けられたら、竹森にはその戦力が乏しい。
彼女は自分のことなどどうなっても構わなかったが、竹森が危機に陥れられることだけは避けなければならなかった。
竹森には、守らなければならない人がいたのだ。
「馬印堂を手に入れるために千姫が必要でした。だから井頭と梨栗を使って護送作戦を展開させました。千姫が差臼に渡れば馬印堂を強請ることにも、堀殻に戦を仕掛けることにも使えるからです。しかし……差臼の本当の狙いは別にありました。」
「別?それは何?」
緊張が走る。
樒の言うことが未だ本当のことであるか、判断は出来ない。
木下は密かに顔をしかめ、忍たまたちはその行く末を静かに見守る。
樒がゆっくりと椿を見つめた。
「椿様、あなたです。」
驚きから場がざわついた。
思わず声を漏らす者、狼狽える者、眉間に皺を寄せる者。
真っ直ぐ瞳を捉えられた椿は、樒から目を逸らすことが出来ない。
「えっ……私?……ど、どうして?」
椿自身も寝耳に水で戸惑いを隠せない。
「竹森の美姫の噂は数百里離れた各国にまで知れ渡っていたと言います。ところが四年前、それがぱたりと消えました。差臼普墺は竹森が姫を隠したのだと思い、自らの物にするため探し出したのです。私を生かしたのも、竹森の者だから姫の行方を見つけられるだろうという理由です。差臼普墺は言いました、『竹森の美姫を探し出せたなら、それ以外の者に手を出さないと約束しよう』と。だから、私は……護送作戦の表と裏、どちらの姫君も連れ去る計画を立てました。椿様が自ら志願されたことは想定外でしたが、結果的には思っていた通りの展開であったのです。」
「お前、椿さんを取引の材料にしようとしたわけか!」
声を荒げたのは三郎だ。
椿を差し出せば竹森に手は出さないという差臼普墺の提案を、樒が受け入れたことに腹を立てた。
今にも飛びかかりそうな三郎を、雷蔵が複雑な気持ちで押さえつける。
「三郎、」
「差臼に連れて行って、そこで椿さんがどうなるかもわかっていただろう!?自分の望みのために人を犠牲にするのか!結局、保身のためじゃないのか!」
「保身などではない!私はっ……!」
「やめて!」
遮った声は椿だった。
三郎も樒も口を噤んで彼女に目をくれる。
椿は三郎と目を合わせて、少し泣きそうに微笑む。
「三郎君、ありがとう。私は大丈夫だよ。」
「っ……椿さん……」
「樒ちゃん、」
「っ、はい。」
「あなたの言う『責務を果たせ』っていうのは、そういうことだったんだね。」
「!……申し訳ありません……」
「ううん、いいの。そっか……そうだったんだ……」
何かに納得したように穏やかな表情を見せる椿。
それを見た樒は少しだけ心が軽くなるのを感じる。
周りを囲む忍たまたちは、口々に疑問を投げかけた。
椿は優しく樒に語りかける。
「樒ちゃん、隆光を愛してくれているのね。」
「!!」
「ありがとう。あなたがそのためにやろうとしたこと、とても良くわかるよ。あなたの気持ちも、今ならわかる。私もあなたを助けたい。きっと別の、いいやり方があるはず。だから力になって欲しい。」
「椿、様……!」
全てを暴かれた。
樒にはもう、隠すものもない、その必要もない。
今はもう違っているが、この方は間違いなく竹森の姫君。
竹森椿、その人だ。
樒が最も敬愛する人物が愛した人、決して失ってはならない人。
私はこの方を悲しませた。
この方の大切な人を傷付けた。
それなのに、この私を救おうとする慈悲深いお心。
胸に痛み入る。
「樒」
低音が彼女の名を呼んだ。
顔を上げた樒の目が声の持ち主を写して震える。
「か……神室、さん……」
勿論、神室がここにいるわけではない。
彼に扮装した木下が声をかけたのだ。
それでも今の樒には自分の上司である神室の姿が目に写り、恐縮してしまう。
「どうやって椿を見つけた?」
その疑問に忍たまたちもハッとする。
竹森城の姫君、彼女がここにいる事情を知る人物は忍術学園関係者以外にいない。
だがこうして簡単に見つけられてしまった、それは外部に情報が伝わったことを示す。
もしも椿を欲しがる輩がいたとしたら、これは由々しき問題なのだ。
「……姫様が既に竹森から離れていることは明白でした。私が城仕えをして以降、姫様のことを見聞きした事実はございません。それも差臼に囚われて初めて知ったことにございます。」
そこで樒は椿を探すために竹森を徹底的に調査し、遂に葵の扇を盗み出したのだ。
椿に繋がる、形見の品を。
「私はそれを元手に情報屋へ依頼しました。彼らからの情報で、私は椿様へ近づいたのです。」
「そんな……あれは樒ちゃんが持ち出したの……?」
今は手元にある葵の扇、それはどのようにして椿に渡ったのかを思い出す。
彼女の様子に木下は顔をしかめた。
「椿、受け取っているのか?」
「はい……でも私に渡してくださったのは雑渡さんで……」
「……」
出て来た名前に木下は黙り込んだ。
椿もそうなった経緯を考えるように考え込む。
兵助が疑問を口にした。
「椿さんがあなたを連れて来た時、気を失っていましたね。それはどういう説明をされるのですか?」
「あれは、井頭にわざと殴らせたのです。忍術学園に自然に潜入するために、学園関係者が通るのを待ち伏せしていました。」
一連の賊騒動も彼らの仕業だと言う。
若者が襲われると言う噂を流せば該当する者は警戒を露わにして逆に悪目立ちするのではないか、と考えたそうだ。
結果的に情報屋が椿を見つけ出したため、噂は噂のまま消えたということだ。
「記憶を失っていたのも演技だったのですか?」
「いいえ、それは本当に誤算でした。私から連絡がないことを不審に思った井頭らは、馬印堂の従者に化けてここに来たということです。」
「じゃあいつ記憶が戻ったんだ?」
「井頭と接触した時です。奴とぶつかった際に差臼普墺の存在を思い出しました。そして私が何故ここにいるのかも……」
樒が具合悪そうに立ち去った姿を椿は思い出していた。
あの時既に樒は敵になっていたということか。
彼女が動揺する様子に、木下はため息を吐いた。
「……これで、はっきりしたな。」
「木下先生、」
「椿、タソガレドキはお前のことを掴んでいる。」
「……っ!」
尊奈門が学園をうろついていることも、雑渡が椿に接触してきたことも、彼女の正体がバレているとしたら合点がいく。
雑渡が『椿姫』と呼んでいたそれも、千姫の身代わりを揶揄して言ったのではなく、椿本人のことを指していたのだとしたら弁解の余地はない。
ここで椿が雑渡の言葉、『我々は忍術学園の敵ではない』を唱えたところで聴衆が納得するわけもない。
椿自身はタソガレドキを敵だと思いたくない。
尊奈門や雑渡、彼らが何かを企んでいるとは思えなかった。
思いたくなかった。
そんな想いを口に出すことも出来ず、ただ木下に目で訴えるが彼はそれを冷めたように見つめるのだった。
「その情報屋というのも、タソガレドキなのだろう。事態は思ったよりも複雑だ。」
木下が頭を抱えると誘われて出て来たかのように影が忍び寄る。
「もし?今、タソガレドキと仰いましたか?」
全員が声の主を見て驚いた。
そこにいたのは部屋に籠りっぱなしだった戸津。
そして学園長、さらに教師たちが姿を現す。
「戸津さん、学園長先生……」
椿と目が合った戸津が彼女と木下を交互に見る。
「タソガレドキが、今回の件に関与していると、言うのですか?」
「あ、あの……」
返答に困り学園長と目を合わせる。
「ふむ、話は聞かせてもらった。戸津殿、タソガレドキをご存じのようだが、そのように驚かれる訳をお聞かせ願えないじゃろうか。」
「はい。……実はタソガレドキ城と差臼城は、互いに牽制し合っていると聞いています。ですから、もしタソガレドキが忍術学園側に付いているなら、或いは……と思ったのですが……」
つまり戸津は、タソガレドキが味方ならば心強い存在になるのではと胸を躍らせたのだ。
だが、
「残念ですが、今の話の内容ではタソガレドキが関与しているのは椿さんについてのようです。今回の差臼の件とは別物のようです。」
山田が戸津に告げる。
それを聞いた彼は少し落胆する様子だったが、すぐに態度を切り替えて椿に近付いた。
「それは残念なことです……。ところで、あなたは本当に、あの”竹森城の美姫、椿姫”だと仰るのですか?」
「え、と……」
はっきりそうだとも言えない椿。
だが否定をしない彼女に戸津の中で確信があったようで、彼はその場に膝をついて懇願する。
「やはり……!そうでしたか!」
「戸津さんっ」
「椿姫様!どうか、千姫様をお救いください!私にはもう、姫様が無事でいてくれることしか望むものはありません!どうか……!どうかっ!!」
両手を地面について、戸津は椿に頭を下げた。
彼の姿を見下ろしながら、その必死な姿勢に言葉を詰まらせる。
戸津はまるで、彼女が訳あって忍術学園に隠れていると読んだようだった。
そうではないと、学園長が間に入ろうとしたが、椿はこれを利用した。
彼の前にしゃがみこみ、顔を上げるように優しく諭す。
「戸津さん、大丈夫です。私に考えがあります。必ず、千姫様を堀殻城へお連れすると誓いましょう。」
「!?」
「椿君!?」
「本当にございますか!!ありがとうございます!!ありがとうございます!!」
そう戸津に言い切ってしまった椿を止められる者はいない。
彼女はすっと立ち上がると学園長の前に進み出て口を開いた。
「学園長先生、皆さん、勝手をお許しください。そして出来ることなら、手をお貸しください。これは、”竹森椿”としての願いでございます。この件が終わりましたら、如何なる処分もお受け致します。どうか、お願いします。」
「まさか……そんな……」
誰がそう呟いたのか、どこからともなく聞こえた声は絶望を映していた。
彼女が”竹森椿”と名乗った、それは彼女自身が最も望まぬ姿であった。
それ程までに覚悟を決めているということなのだろう。
目の前で土井が倒れた精神的衝撃を受けたばかりだと言うのに、彼女に科せられるその名の重さに一同は心痛を感じずにはいられない。
樒は椿の背中を見た。
堂々とした佇まい、全ての責任を負う覚悟、まるで隆光のように皆を説得する様は城主にも劣らぬ迫力がある。
そして思う、これが本当の竹森の姫君なのだと。
自分が仕えるべき人物なのだと。
「……どうされるおつもりですか?」
学園長が代表として、彼女の考えを窺った。
厳しい表情の教師たちを前に、椿は己の考えを示す。
「私が、囚われている千姫様と入れ替わります。差臼がそれに気づかぬうちに千姫様を堀殻へ送り届けてください。そして堀殻と馬印堂に生じたわだかまりを解いてください。」
「なんですと……!?」
驚愕する教師たちに椿は至極落ち着いた表情で淡々と述べる。
「大丈夫です。幸い、千姫様と私は瓜二つ。差臼普墺に気付かれぬよう努めることは可能です。」
口々に飛んでくるのは反対する声。
それらが落ち着くのを待って椿は答える。
「では他に良案がございますか?千姫様を救い出し、且つ誰も傷付くことがないように事が運べる方法が?」
「っ……」
口を噤む一同。
仮に千姫だけを連れ出したとして差臼が気付くのもそう時間はかからない。
追手を搔い潜り堀殻に送り届けたところで、差臼が馬印堂に攻め入ると三者間の争いは避けられない。
ならば差臼が気付かぬ水面下で堀殻と馬印堂に手を組ませ、差臼に対抗できる力を示す必要があるのではないだろうか。
そうするためには時間が必要だ。
千姫が入れ替わったことに気付かれぬよう、全てを準備する時間が。
椿は彼らを安心させるように少し微笑んで見せた。
「大丈夫です。堀殻と馬印堂、両者の準備が整うまで、私が差臼を足止めして見せます。」
「椿さんっ」
「君にそんなことをさせるわけには……!」
「私には差臼のことを知っている樒がいます。全てが終わったら、彼女と共に必ず学園に戻って参ります。」
「その女を信用していいものか。」
教師たちは椿の作戦に樒を同行させるのを不安がった。
勿論、まだ彼女に対する疑心は解けていない。
「樒は竹森の者です。私の友人です。もし途中で失敗したとしても、学園にご迷惑をかけることはありません。」
「馬鹿な!?君という存在を失うかも知れないんだぞ!?」
「迷惑をかけるとかかけないとか、そういう問題ではない。」
「タソガレドキのこともある。今あなたが外に出ることは得策ではない。」
反対の声が響く。
この場にいる忍たまたちも不安そうな顔で椿を見ていた。
そんな中、山田は少し悲し気に彼女に声をかける。
「椿さん、今この場に土井先生がいたら……きっと反対していたと思うよ。」
土井の名を聞いて椿の顔が変わる。
彼の顔が思い出される。
優しく笑うあの顔。
心配そうに見つめる顔。
時に叱られたこともあった。
山田の言うように、ここに土井がいたら、もしかすると椿の心は揺れていたかも知れない。
だからある意味では、彼がここに居合わせなかったのは良かったのだろう。
揺れる瞳を一度きつく閉じ、再び顔を上げた彼女は皆が知るいつもの彼女ではなかった。
「これは竹森の人間として果たさなければならない責務です。身内が犯した罪は解決しなければなりません。」
「椿様……」
樒は自分の手引きで椿と千姫を危機に晒したことを悔いた。
どうしようもなかった、周りに味方のいない樒にとっては差臼に従うしか方法がなかった。
そして自分の過ちを、椿が拭おうとしていることに樒は己を責めずにいられない。
「もしお許し頂けないのでしたら、忍術学園とは縁を切っても構いません。その方が、皆様が動きやすいと仰るのでしたらそれでも構いません。どうか、我儘をお許しください。お願いします。」
深々と頭を下げる椿。
誰も声を発しないまま、月が不安そうに見守っている。
学園長がため息を吐くと、皆の視線が集まった。
長い沈黙の後、学園長が持つ杖がコトリと音を出した。
「顔を上げなさい、椿君。」
ゆっくりと椿が起き上がり真っ直ぐに学園長を見つめる。
「君の気持ちはよくわかった。しかしながら、許可は出来ない。」
「……」
安藤が納得したように頷き、日向は肩の力を抜き、野村は眼鏡を指で押し上げた。
椿の表情は変わらない。
ただ少しだけ、握る拳に力が加わった。
学園長は続ける。
「言ったはずじゃ、椿君。君もこの忍術学園の大切な一員。君が学園のために体を張ると言うなら、君を守るために学園全員が体を張る。」
「……え?」
「誰一人傷付くことがないように、勿論それには椿君、君も含まれていると儂は思っているが?」
「学園長!?」
教師たちは思っていた答えと違うものが学園長の口から出たことに驚いた。
彼はまさか、彼女の提案を受け入れるというのか。
抗議する教師たちを学園長が一喝する。
「ええい!もう決めたのじゃ!!学園全体で今回の件を早期解決を目指す!先生方、椿君一人に覚悟させてしまっていいのかね!?」
「それは……」
最早、反論できる者はいない。
学園全員で自分を助けてくれる、そう言った学園長の言葉に椿は夢でも見ているかのように錯覚した。
たった一言で場の空気を変えてしまう人物、それがこの学園の長、大川平次渦正なのだろう。
竹森椿には出来ないことをやってしまう。
本当に凄くて尊敬に値する。
「……致し方ありませんな。」
「突然の思い付きでも止められないのに、椿さんが関わっているなら尚更です。」
次々に受け入れる教師を目にし、その空気が忍たまにも伝わる。
「ま、椿さん一人に背負わせる訳にいかないしな。」
「関わったなら最後まで、だ。」
「細かいことは気にするな。要は差臼を黙らせればいいんだろ?」
「……モソ。」
「椿」
木下に呼ばれ椿は彼に振り向く。
「学園長がそう決められた。だが元はお前の案だ。だから思うようにやってみろ。儂らはお前をちゃんと支えてやる。タソガレドキの心配もするな。ここの連中を信じろ。」
「木下先生……、はい!」
いい顔を見せる椿に木下も口角を上げた。
学園長に向き直った彼女は再度頭を下げる。
「学園長先生、皆様、ありがとうございます!」
顔を上げた彼女の笑顔、それに会うのが随分久しぶりな気がして山田は嬉しかった。
そうと決まれば話は早い。
早速彼女を交えて作戦を練ろうと、学園長室に集合がかかった。
勿論椿もその中に加わることになる。その前に、
「……椿様、」
椿は今一度、樒と目線を合わせるためにしゃがみ込む。
「樒ちゃん、あなたの望みのためにも、私に力を貸してくれない?」
「はい、勿論です。……あの、」
「?」
「……土井先生は……どうなりましたか?」
土井の安否を気に掛ける樒に、椿はただ悲しく微笑むだけだった。
「申し訳ありませんでした。あなた様の大切な方を傷付けてしまいました。どのような罰でも謹んでお受け致します。」
「うん……。あのね、あなたに罰とかそういうことはしたくないんだ。だけど千姫を助けること、今度こそ手伝ってくれたら嬉しい。」
「っ、はい!微力ながら、必ずお役に立つことをお約束致します!」
樒の答えを聞いて椿は安心した顔をする。
このまま職員会議に行く彼女は、忍たまたちに樒を任せてその場を去った。
樒はまた生物小屋に戻されることになった。
彼女はそれを受け入れているようで、大人しく従っていた。
忍たまたちも解散となり、それぞれが散って行く中で木下は三郎と雷蔵、八左ヱ門を呼び止める。
「お前たち、椿班だったな。」
木下が言う”椿班”とは、千姫を堀殻に送る際、偽物側である椿を護送していた組と言うことだ。
三人は木下に返事をする。
少しの間の後、木下はため息を吐くように言った。
「あの時、お前たちを襲ったのはタソガレドキ、そうであったな。」
「はい、六年生の先輩方がタソガレドキ忍軍を目撃しています。」
三郎がそう答えたところで三人は顔を見合わせて先程の樒の話、そして木下が発したタソガレドキの言葉に何かを導き出す。
「ん?待てよ、と言うことは……」
「木下先生、樒さんは……」
「気付いたか。恐らくあの時、椿を攫うのはタソガレドキの役目であったのだろう。樒が奴らと通じていたなら納得出来る。」
あの時、千姫を攫ったのは井頭と梨栗だった。
樒がどちらの姫も連れ去る計画だというのであれば、椿を攫う手筈であったのは誰であったのか。
状況を整理すると見えてくる本質を、木下は三人に気付かせたかった。
「しかし結果として、雑渡昆奈門は椿さんを助けただけです。」
「土井先生が対峙をして、椿さんを取り戻したのかも知れない。あの時俺たちは少し出遅れたから。」
「でも今はそれを確認することが出来ません。彼女ならば或いは……」
木下は椿が雑渡に助けられたと言うのを聞いている。
助けられた、と言うことは力を行使されなかったと言うこと。
少なくとも、無理矢理何かをされたわけではないのではないだろうか。
雑渡と樒の間に、何が結ばれていたのか。
または樒の思惑に反して、雑渡は別の考えがあったのか。
それを知る術はない。
だから、
「答えを知るのは当事者だけだ。だからお前たちがこれからどんな忍務に就こうとも、警戒心を忘れるな。それだけだ。」
「はい」
また必ず接触があるはずだと、木下は三人に告げ学園長室へと急ぎ消えて行く。
「攫う予定が崩れた、のだろうか。」
「そもそも、樒さんの下にタソガレドキが付いていたということが疑り深い。」
「俺はまだ、あいつのことを許した訳じゃないけどな。」
三郎が悪態をついた。
樒に対して思うことがあるのだろう。
雷蔵は彼の感情をどうすることも出来ないが、気持ちだけは三郎に寄り添おうとしていた。
「俺たちだけで抱える問題じゃない。可能な限り認識を広めておいた方がいいかもな。」
八左ヱ門の言うことに雷蔵と三郎は頷き、三人は部屋へと戻って行った。
彼らの影が闇の中に伸びる。
昼間六年ろ組と共に偵察に出た五年生は、樒の一報を聞き全員が学園に戻って来ていた。
樒に対する思いはそれぞれであった。
信じていた者、裏切られたと感じる者、初めから疑っていた者。
だが皆共通して思っていたのは、椿の樒に対する気持ちを救えなかったということ。
彼女が今どんな気持ちでいるのかを思うと、三郎は怒りが込み上げてくる。
勘右衛門はその気持ちを汲むように、生き物小屋に厳しい目を向ける三郎をなだめた。
「ん?」
近付いて来る足音に気付き振り返った雷蔵は、そこにいた人物に驚きを隠せなかった。
「っ、椿さんっ?」
他の五年生も彼女に気付き驚いたように声を漏らす。
彼らは勿論、土井のことも聞いていた。
だからその場に居合わせた椿がどういう状況なのかも察しがついていたし、とても外に出られる状態じゃないことも理解していた。
それなのに現れた彼女、だが持前の明るさはなく表情は硬い。
何と声をかけて良いのか誰もわからず、雷蔵と八左ヱ門は道を開けて彼女を輪の中に入れた。
……………………
「……、椿さん……」
辛うじて兵助が彼女の名を呼んだ。
椿は視線を動かして全員の目を見る。
「……皆、ごめんね。」
「え?」
「今回の件、私は深く関わってしまった。それに皆を巻き込んでしまった。……怪我をさせてしまった人もいる。だけど、私は逃げるわけにはいかない。最後までしっかり見定めなければならない。」
「……」
「椿さん……」
「あなたが謝る必要なんてない。」
発言したのは三郎だ。
全員の注目を浴びる中、彼は椿を見据えて語りかける。
「巻き込まれたなんて思っていない。少なくとも、俺は。初めから仕組まれた道筋なんてない。あなたがそれを作ったとも思えない。俺たちよりも椿さんの方が苦しいのに、それを自分のせいだとか詫びるとか、する必要はない。」
「三郎君……」
雷蔵が椿に振り向き笑って見せる。
「三郎は、椿さんが前を向けたことを喜んでいるんですよ。」
「おいっ雷蔵、」
三郎の言葉を遮るように割って入ったのは勘右衛門の明るい声。
「そうそう、元凶は他にあるんですから。椿さんが一人で背負う必要なんてないんですよ。」
「椿さんには食堂で笑っていて貰わないと困りますから。」
五年生全員を見回す。
誰一人嫌な顔をせずに椿に向き合ってくれている。
そんな彼らに椿は感謝を伝えた。
「ところで、どうしてここに?」
八左ヱ門の言葉に彼女は目の前の生き物小屋に視線を送る。
「彼女が、ここにいると聞いたから。」
「……」
彼女、というのは勿論、樒のことだ。
山田と木下に連れられて帰ってきた樒は、手足を拘束されたまま生き物小屋の中に囚われている。
処遇はまだ、決まっていない。
「話がしたいの。」
「でも椿さん、先生方の許可が出ていません。」
「許可なら貰っている。」
その声は五年生のものではない。
皆が一斉に振り向くと現れたのは長次だった。
「中在家先輩。」
「……椿、学園長先生からの許可は貰った。ただし話をするだけだ。拘束を解くことは出来ない。」
「わかってる。ありがとう長次。」
椿が改めて五年生たちに願い出ると、彼らは少し戸惑いながらも顔を見合わせて頷いた。
八左ヱ門が小屋の扉の鍵を外す。
狭い室内、籠に入れられた沢山の毒虫たち、その中心に彼女は転がされていた。
兵助と勘右衛門が用心しながら近付く。
樒は疲れ切った表情でその瞳に生気が感じられない。
「……椿さんが話がしたいそうだ。触りますよ。」
兵助はそう言うと勘右衛門と協力して彼女を立たせ、小屋の外へ連れ出した。
月の光の中、外の空気が澄んでいるように感じられる。
樒の目に映ったのは椿の姿。
数刻振りの再会、だがどちらにとっても喜ばしいことではない。
樒が思い切り目を逸らしたところで、彼女は地面に座らされた。
万が一を考え、五年生が彼女の周りを取り囲む。
椿が一歩近づいたが、長次が彼女の前に手を出して止める。
万が一があってはいけない、なるべく近付かないようにと長次は言葉なくもそう言っているようだった。
彼と目を合わせた椿は小さく頷いた。
沈黙が時を溶かしていく。
「……樒ちゃん。」
意を決したように椿は口を開いた。
「あなたとお話がしたい。ううん、聞いてもらうだけでもいい。私はあなたを責める気はない。今、その口の布を取ってもらうけど、滅多なことはしないで。お願い。」
「……」
樒は椿の方を見ようともせず、その言葉に反応することもなく、ただそこに座っているだけだった。
椿が雷蔵と目を合わせて小さく頷くと、彼も無言のままそっと樒の口を解放した。
それを見届けた椿は続ける。
「どうしてあなたがここにいるのかわからない。でもきっと事情があるのだと思う。あなたに協力したい。きっとそれは私の身内のためにもなるだろうから。」
「!?」
樒は驚いたように目を見開いて椿を見た。
「樒ちゃんあなた……竹森の人間だね?」
「え!?」
ざわつく五年生。
樒は喉に渇きを覚え、苦しそうに声を絞り出す。
「……何故、それを……?」
「あなたが使った毒、あれはこの辺では見ない、竹森の周辺にしか咲かない花の毒。即効性があり、少量で人を苦しめることができるもの。」
「……」
「私も幼い頃にその毒を誤って受けてしまったことがある。土井先生の傷口に現れた特徴的な紫斑、これは竹森の毒だという証拠。だから気付いたの。あなたが本当は竹森から来たということを。」
樒は声が出せない。
椿がその毒を知っていたことは完全に誤算だった。
竹森城で育てられた姫君、だが椿が城を去った後に配属された樒は、彼女の幼い頃のことなど知らない。
「だけど、どうしてあなたが差臼と関わりがあるのか、わからない。でも気になることがあるの。樒ちゃんが”救いたい”と願う人、それってもしかして……」
「椿、お連れしたぞ。」
無遠慮に割り込んだ声。
だが椿には都合が良かった。
「ありがとう、小平太。」
椿の視線を追うように樒も小平太に目をやる。
そこで彼女は絶句した。
いるはずがない、ここにいるはずのない人物の姿に目を見開く。
「……あ……」
小平太の後ろに控える二つの影。
その二人に椿が近付き、親しそうに言葉を交わすと樒に向き直る。
月の光を背に、大きな影と小さな影が樒を見ている。
こちらを向いた椿の、優しい顔。
焦点が定まらない。
心臓が痛い。
明らかに樒は狼狽えていた。
「そん、な……まさか、どうして……」
「樒ちゃん、あなたが救いたいのは、隆光、だね?」
「隆光、様……!神室さんっ……!」
その名を椿が言った瞬間、樒はその場で頭を垂れた。
彼女の瞳から溢れる大粒の涙がとめどなく流れ地面を濡らす。
その様子を見ていた五年生は小声で会話を交わす。
「……あれって、左門と木下先生、だよな?」
「あ、ああ。いつもと違う恰好だし丁度影になってて良く見えないけど……」
「左門と木下先生……何故?」
静かに近づいた長次が補足する。
「これは椿の作戦だ。樒を素直にさせるには彼女が強く想う相手が必要だろうとのこと。若君については知らないが、神室さんなら会ったことがあるだろう?」
兵助、雷蔵、三郎は前回の作戦の際に神室に会っていた。
なので三人は納得したような声を出した。
勘右衛門と八左ヱ門は知らないことなので、蚊帳の外であることが少々悔しい。
「確かに竹森の人間であれば、若様と神室さんを知っているはず。」
「でも、神室さんって……そんなに木下先生に似ていましたっけ?」
雷蔵の言葉に兵助も三郎も唸りを上げる。
正直なところ、似て……はいなかったかも知れない。
だがこの暗闇の中、それなりの恰好をすればそう錯覚してしまうのだろう。
木下は全身を黒装束で包み、頭部は目だけを除いて黒い布で覆ってしまっている。
恰好と共に元々の体格が似ているような気がした。
左門は恐らく作法委員会の物を使用したのだろう、煌びやかな模様の入った鮮やかな青い紋付袴。
頑張って閉じているのだろう、いつも開きがちな大きな口は真一文字に結ばれている。
それになにより、
「……椿がそう言うのだから、そうなのだろう。」
長次も自信はないが、椿が似ていると豪語していたので信じるしかなかった。
そして上手い具合に樒にはそれが効いている。
「可愛いでしょう?本当、隆光の幼い頃にそっくり。純粋な目をキラキラさせていつも私について来てたなぁ。」
椿が樒に見せつけるようにして左門を抱き寄せる。
彼は十二歳、隆光の年齢より二つ下のはずだが椿にはそれより小さい時の記憶しかなく、左門を幼い隆光として見ているようだった。
果たして似せられているのかとこの場の誰もが心配したが、木下と左門を目にした瞬間から樒の様子がおかしい。
彼女は震えながら泣いていた。
「隆光様っ……!」
泣き続ける樒の口からは隆光の名と懺悔が溢れて止まらない。
竹森を救うことが出来なかった、申し訳ない、彼女はしきりにそう言い続けて自分を責める。
それを見た椿は困ったように目を細めた。
彼女が樒に近付こうとするのを小平太が前に出て進路を塞ぐ。
「椿、」
「小平太、大丈夫。もう大丈夫だよ。」
そう言って彼女が少し微笑む。
これ以上引き留める術を持たず、小平太は椿の前の道を開けた。
樒の目の前に歩を進めると彼女はその場にすっかりしゃがみ込み、震える肩に手を置いた。
樒と目線を合わせるように覗き込むと、今度は樒が想いを吐き出す。
「助けて……、お願いします……!助けてくださいっ!隆光様を……お助けくださいっ!お願い、しますっ……!」
「うん……わかった。じゃあまず、樒ちゃんのこと教えて?どうして差臼にいたのかを。」
樒はその経緯を話し出す。
竹森の忍びとして差臼の調査に出た彼女は、敵の策略に落ちて捕らえられてしまった。
取引の材料にされるくらいなら自ら命を絶つ覚悟であったが、差臼普墺が提案したのは樒が差臼の駒となることだった。
差臼は堀殻と敵対している。
その堀殻が馬印堂と組もうとしているのが気に喰わない。
ならばそれを邪魔して差臼が馬印堂を手中に収めようと考えていた。
樒はその諜報員として選ばれ、もし失敗すれば差臼が竹森を落とすと告げられる。
言い換えれば、樒の働き次第で竹森の安全が保障されるということだ。
現城主、竹森隆光は争いを好まない。
もし戦などを仕掛けられたら、竹森にはその戦力が乏しい。
彼女は自分のことなどどうなっても構わなかったが、竹森が危機に陥れられることだけは避けなければならなかった。
竹森には、守らなければならない人がいたのだ。
「馬印堂を手に入れるために千姫が必要でした。だから井頭と梨栗を使って護送作戦を展開させました。千姫が差臼に渡れば馬印堂を強請ることにも、堀殻に戦を仕掛けることにも使えるからです。しかし……差臼の本当の狙いは別にありました。」
「別?それは何?」
緊張が走る。
樒の言うことが未だ本当のことであるか、判断は出来ない。
木下は密かに顔をしかめ、忍たまたちはその行く末を静かに見守る。
樒がゆっくりと椿を見つめた。
「椿様、あなたです。」
驚きから場がざわついた。
思わず声を漏らす者、狼狽える者、眉間に皺を寄せる者。
真っ直ぐ瞳を捉えられた椿は、樒から目を逸らすことが出来ない。
「えっ……私?……ど、どうして?」
椿自身も寝耳に水で戸惑いを隠せない。
「竹森の美姫の噂は数百里離れた各国にまで知れ渡っていたと言います。ところが四年前、それがぱたりと消えました。差臼普墺は竹森が姫を隠したのだと思い、自らの物にするため探し出したのです。私を生かしたのも、竹森の者だから姫の行方を見つけられるだろうという理由です。差臼普墺は言いました、『竹森の美姫を探し出せたなら、それ以外の者に手を出さないと約束しよう』と。だから、私は……護送作戦の表と裏、どちらの姫君も連れ去る計画を立てました。椿様が自ら志願されたことは想定外でしたが、結果的には思っていた通りの展開であったのです。」
「お前、椿さんを取引の材料にしようとしたわけか!」
声を荒げたのは三郎だ。
椿を差し出せば竹森に手は出さないという差臼普墺の提案を、樒が受け入れたことに腹を立てた。
今にも飛びかかりそうな三郎を、雷蔵が複雑な気持ちで押さえつける。
「三郎、」
「差臼に連れて行って、そこで椿さんがどうなるかもわかっていただろう!?自分の望みのために人を犠牲にするのか!結局、保身のためじゃないのか!」
「保身などではない!私はっ……!」
「やめて!」
遮った声は椿だった。
三郎も樒も口を噤んで彼女に目をくれる。
椿は三郎と目を合わせて、少し泣きそうに微笑む。
「三郎君、ありがとう。私は大丈夫だよ。」
「っ……椿さん……」
「樒ちゃん、」
「っ、はい。」
「あなたの言う『責務を果たせ』っていうのは、そういうことだったんだね。」
「!……申し訳ありません……」
「ううん、いいの。そっか……そうだったんだ……」
何かに納得したように穏やかな表情を見せる椿。
それを見た樒は少しだけ心が軽くなるのを感じる。
周りを囲む忍たまたちは、口々に疑問を投げかけた。
椿は優しく樒に語りかける。
「樒ちゃん、隆光を愛してくれているのね。」
「!!」
「ありがとう。あなたがそのためにやろうとしたこと、とても良くわかるよ。あなたの気持ちも、今ならわかる。私もあなたを助けたい。きっと別の、いいやり方があるはず。だから力になって欲しい。」
「椿、様……!」
全てを暴かれた。
樒にはもう、隠すものもない、その必要もない。
今はもう違っているが、この方は間違いなく竹森の姫君。
竹森椿、その人だ。
樒が最も敬愛する人物が愛した人、決して失ってはならない人。
私はこの方を悲しませた。
この方の大切な人を傷付けた。
それなのに、この私を救おうとする慈悲深いお心。
胸に痛み入る。
「樒」
低音が彼女の名を呼んだ。
顔を上げた樒の目が声の持ち主を写して震える。
「か……神室、さん……」
勿論、神室がここにいるわけではない。
彼に扮装した木下が声をかけたのだ。
それでも今の樒には自分の上司である神室の姿が目に写り、恐縮してしまう。
「どうやって椿を見つけた?」
その疑問に忍たまたちもハッとする。
竹森城の姫君、彼女がここにいる事情を知る人物は忍術学園関係者以外にいない。
だがこうして簡単に見つけられてしまった、それは外部に情報が伝わったことを示す。
もしも椿を欲しがる輩がいたとしたら、これは由々しき問題なのだ。
「……姫様が既に竹森から離れていることは明白でした。私が城仕えをして以降、姫様のことを見聞きした事実はございません。それも差臼に囚われて初めて知ったことにございます。」
そこで樒は椿を探すために竹森を徹底的に調査し、遂に葵の扇を盗み出したのだ。
椿に繋がる、形見の品を。
「私はそれを元手に情報屋へ依頼しました。彼らからの情報で、私は椿様へ近づいたのです。」
「そんな……あれは樒ちゃんが持ち出したの……?」
今は手元にある葵の扇、それはどのようにして椿に渡ったのかを思い出す。
彼女の様子に木下は顔をしかめた。
「椿、受け取っているのか?」
「はい……でも私に渡してくださったのは雑渡さんで……」
「……」
出て来た名前に木下は黙り込んだ。
椿もそうなった経緯を考えるように考え込む。
兵助が疑問を口にした。
「椿さんがあなたを連れて来た時、気を失っていましたね。それはどういう説明をされるのですか?」
「あれは、井頭にわざと殴らせたのです。忍術学園に自然に潜入するために、学園関係者が通るのを待ち伏せしていました。」
一連の賊騒動も彼らの仕業だと言う。
若者が襲われると言う噂を流せば該当する者は警戒を露わにして逆に悪目立ちするのではないか、と考えたそうだ。
結果的に情報屋が椿を見つけ出したため、噂は噂のまま消えたということだ。
「記憶を失っていたのも演技だったのですか?」
「いいえ、それは本当に誤算でした。私から連絡がないことを不審に思った井頭らは、馬印堂の従者に化けてここに来たということです。」
「じゃあいつ記憶が戻ったんだ?」
「井頭と接触した時です。奴とぶつかった際に差臼普墺の存在を思い出しました。そして私が何故ここにいるのかも……」
樒が具合悪そうに立ち去った姿を椿は思い出していた。
あの時既に樒は敵になっていたということか。
彼女が動揺する様子に、木下はため息を吐いた。
「……これで、はっきりしたな。」
「木下先生、」
「椿、タソガレドキはお前のことを掴んでいる。」
「……っ!」
尊奈門が学園をうろついていることも、雑渡が椿に接触してきたことも、彼女の正体がバレているとしたら合点がいく。
雑渡が『椿姫』と呼んでいたそれも、千姫の身代わりを揶揄して言ったのではなく、椿本人のことを指していたのだとしたら弁解の余地はない。
ここで椿が雑渡の言葉、『我々は忍術学園の敵ではない』を唱えたところで聴衆が納得するわけもない。
椿自身はタソガレドキを敵だと思いたくない。
尊奈門や雑渡、彼らが何かを企んでいるとは思えなかった。
思いたくなかった。
そんな想いを口に出すことも出来ず、ただ木下に目で訴えるが彼はそれを冷めたように見つめるのだった。
「その情報屋というのも、タソガレドキなのだろう。事態は思ったよりも複雑だ。」
木下が頭を抱えると誘われて出て来たかのように影が忍び寄る。
「もし?今、タソガレドキと仰いましたか?」
全員が声の主を見て驚いた。
そこにいたのは部屋に籠りっぱなしだった戸津。
そして学園長、さらに教師たちが姿を現す。
「戸津さん、学園長先生……」
椿と目が合った戸津が彼女と木下を交互に見る。
「タソガレドキが、今回の件に関与していると、言うのですか?」
「あ、あの……」
返答に困り学園長と目を合わせる。
「ふむ、話は聞かせてもらった。戸津殿、タソガレドキをご存じのようだが、そのように驚かれる訳をお聞かせ願えないじゃろうか。」
「はい。……実はタソガレドキ城と差臼城は、互いに牽制し合っていると聞いています。ですから、もしタソガレドキが忍術学園側に付いているなら、或いは……と思ったのですが……」
つまり戸津は、タソガレドキが味方ならば心強い存在になるのではと胸を躍らせたのだ。
だが、
「残念ですが、今の話の内容ではタソガレドキが関与しているのは椿さんについてのようです。今回の差臼の件とは別物のようです。」
山田が戸津に告げる。
それを聞いた彼は少し落胆する様子だったが、すぐに態度を切り替えて椿に近付いた。
「それは残念なことです……。ところで、あなたは本当に、あの”竹森城の美姫、椿姫”だと仰るのですか?」
「え、と……」
はっきりそうだとも言えない椿。
だが否定をしない彼女に戸津の中で確信があったようで、彼はその場に膝をついて懇願する。
「やはり……!そうでしたか!」
「戸津さんっ」
「椿姫様!どうか、千姫様をお救いください!私にはもう、姫様が無事でいてくれることしか望むものはありません!どうか……!どうかっ!!」
両手を地面について、戸津は椿に頭を下げた。
彼の姿を見下ろしながら、その必死な姿勢に言葉を詰まらせる。
戸津はまるで、彼女が訳あって忍術学園に隠れていると読んだようだった。
そうではないと、学園長が間に入ろうとしたが、椿はこれを利用した。
彼の前にしゃがみこみ、顔を上げるように優しく諭す。
「戸津さん、大丈夫です。私に考えがあります。必ず、千姫様を堀殻城へお連れすると誓いましょう。」
「!?」
「椿君!?」
「本当にございますか!!ありがとうございます!!ありがとうございます!!」
そう戸津に言い切ってしまった椿を止められる者はいない。
彼女はすっと立ち上がると学園長の前に進み出て口を開いた。
「学園長先生、皆さん、勝手をお許しください。そして出来ることなら、手をお貸しください。これは、”竹森椿”としての願いでございます。この件が終わりましたら、如何なる処分もお受け致します。どうか、お願いします。」
「まさか……そんな……」
誰がそう呟いたのか、どこからともなく聞こえた声は絶望を映していた。
彼女が”竹森椿”と名乗った、それは彼女自身が最も望まぬ姿であった。
それ程までに覚悟を決めているということなのだろう。
目の前で土井が倒れた精神的衝撃を受けたばかりだと言うのに、彼女に科せられるその名の重さに一同は心痛を感じずにはいられない。
樒は椿の背中を見た。
堂々とした佇まい、全ての責任を負う覚悟、まるで隆光のように皆を説得する様は城主にも劣らぬ迫力がある。
そして思う、これが本当の竹森の姫君なのだと。
自分が仕えるべき人物なのだと。
「……どうされるおつもりですか?」
学園長が代表として、彼女の考えを窺った。
厳しい表情の教師たちを前に、椿は己の考えを示す。
「私が、囚われている千姫様と入れ替わります。差臼がそれに気づかぬうちに千姫様を堀殻へ送り届けてください。そして堀殻と馬印堂に生じたわだかまりを解いてください。」
「なんですと……!?」
驚愕する教師たちに椿は至極落ち着いた表情で淡々と述べる。
「大丈夫です。幸い、千姫様と私は瓜二つ。差臼普墺に気付かれぬよう努めることは可能です。」
口々に飛んでくるのは反対する声。
それらが落ち着くのを待って椿は答える。
「では他に良案がございますか?千姫様を救い出し、且つ誰も傷付くことがないように事が運べる方法が?」
「っ……」
口を噤む一同。
仮に千姫だけを連れ出したとして差臼が気付くのもそう時間はかからない。
追手を搔い潜り堀殻に送り届けたところで、差臼が馬印堂に攻め入ると三者間の争いは避けられない。
ならば差臼が気付かぬ水面下で堀殻と馬印堂に手を組ませ、差臼に対抗できる力を示す必要があるのではないだろうか。
そうするためには時間が必要だ。
千姫が入れ替わったことに気付かれぬよう、全てを準備する時間が。
椿は彼らを安心させるように少し微笑んで見せた。
「大丈夫です。堀殻と馬印堂、両者の準備が整うまで、私が差臼を足止めして見せます。」
「椿さんっ」
「君にそんなことをさせるわけには……!」
「私には差臼のことを知っている樒がいます。全てが終わったら、彼女と共に必ず学園に戻って参ります。」
「その女を信用していいものか。」
教師たちは椿の作戦に樒を同行させるのを不安がった。
勿論、まだ彼女に対する疑心は解けていない。
「樒は竹森の者です。私の友人です。もし途中で失敗したとしても、学園にご迷惑をかけることはありません。」
「馬鹿な!?君という存在を失うかも知れないんだぞ!?」
「迷惑をかけるとかかけないとか、そういう問題ではない。」
「タソガレドキのこともある。今あなたが外に出ることは得策ではない。」
反対の声が響く。
この場にいる忍たまたちも不安そうな顔で椿を見ていた。
そんな中、山田は少し悲し気に彼女に声をかける。
「椿さん、今この場に土井先生がいたら……きっと反対していたと思うよ。」
土井の名を聞いて椿の顔が変わる。
彼の顔が思い出される。
優しく笑うあの顔。
心配そうに見つめる顔。
時に叱られたこともあった。
山田の言うように、ここに土井がいたら、もしかすると椿の心は揺れていたかも知れない。
だからある意味では、彼がここに居合わせなかったのは良かったのだろう。
揺れる瞳を一度きつく閉じ、再び顔を上げた彼女は皆が知るいつもの彼女ではなかった。
「これは竹森の人間として果たさなければならない責務です。身内が犯した罪は解決しなければなりません。」
「椿様……」
樒は自分の手引きで椿と千姫を危機に晒したことを悔いた。
どうしようもなかった、周りに味方のいない樒にとっては差臼に従うしか方法がなかった。
そして自分の過ちを、椿が拭おうとしていることに樒は己を責めずにいられない。
「もしお許し頂けないのでしたら、忍術学園とは縁を切っても構いません。その方が、皆様が動きやすいと仰るのでしたらそれでも構いません。どうか、我儘をお許しください。お願いします。」
深々と頭を下げる椿。
誰も声を発しないまま、月が不安そうに見守っている。
学園長がため息を吐くと、皆の視線が集まった。
長い沈黙の後、学園長が持つ杖がコトリと音を出した。
「顔を上げなさい、椿君。」
ゆっくりと椿が起き上がり真っ直ぐに学園長を見つめる。
「君の気持ちはよくわかった。しかしながら、許可は出来ない。」
「……」
安藤が納得したように頷き、日向は肩の力を抜き、野村は眼鏡を指で押し上げた。
椿の表情は変わらない。
ただ少しだけ、握る拳に力が加わった。
学園長は続ける。
「言ったはずじゃ、椿君。君もこの忍術学園の大切な一員。君が学園のために体を張ると言うなら、君を守るために学園全員が体を張る。」
「……え?」
「誰一人傷付くことがないように、勿論それには椿君、君も含まれていると儂は思っているが?」
「学園長!?」
教師たちは思っていた答えと違うものが学園長の口から出たことに驚いた。
彼はまさか、彼女の提案を受け入れるというのか。
抗議する教師たちを学園長が一喝する。
「ええい!もう決めたのじゃ!!学園全体で今回の件を早期解決を目指す!先生方、椿君一人に覚悟させてしまっていいのかね!?」
「それは……」
最早、反論できる者はいない。
学園全員で自分を助けてくれる、そう言った学園長の言葉に椿は夢でも見ているかのように錯覚した。
たった一言で場の空気を変えてしまう人物、それがこの学園の長、大川平次渦正なのだろう。
竹森椿には出来ないことをやってしまう。
本当に凄くて尊敬に値する。
「……致し方ありませんな。」
「突然の思い付きでも止められないのに、椿さんが関わっているなら尚更です。」
次々に受け入れる教師を目にし、その空気が忍たまにも伝わる。
「ま、椿さん一人に背負わせる訳にいかないしな。」
「関わったなら最後まで、だ。」
「細かいことは気にするな。要は差臼を黙らせればいいんだろ?」
「……モソ。」
「椿」
木下に呼ばれ椿は彼に振り向く。
「学園長がそう決められた。だが元はお前の案だ。だから思うようにやってみろ。儂らはお前をちゃんと支えてやる。タソガレドキの心配もするな。ここの連中を信じろ。」
「木下先生……、はい!」
いい顔を見せる椿に木下も口角を上げた。
学園長に向き直った彼女は再度頭を下げる。
「学園長先生、皆様、ありがとうございます!」
顔を上げた彼女の笑顔、それに会うのが随分久しぶりな気がして山田は嬉しかった。
そうと決まれば話は早い。
早速彼女を交えて作戦を練ろうと、学園長室に集合がかかった。
勿論椿もその中に加わることになる。その前に、
「……椿様、」
椿は今一度、樒と目線を合わせるためにしゃがみ込む。
「樒ちゃん、あなたの望みのためにも、私に力を貸してくれない?」
「はい、勿論です。……あの、」
「?」
「……土井先生は……どうなりましたか?」
土井の安否を気に掛ける樒に、椿はただ悲しく微笑むだけだった。
「申し訳ありませんでした。あなた様の大切な方を傷付けてしまいました。どのような罰でも謹んでお受け致します。」
「うん……。あのね、あなたに罰とかそういうことはしたくないんだ。だけど千姫を助けること、今度こそ手伝ってくれたら嬉しい。」
「っ、はい!微力ながら、必ずお役に立つことをお約束致します!」
樒の答えを聞いて椿は安心した顔をする。
このまま職員会議に行く彼女は、忍たまたちに樒を任せてその場を去った。
樒はまた生物小屋に戻されることになった。
彼女はそれを受け入れているようで、大人しく従っていた。
忍たまたちも解散となり、それぞれが散って行く中で木下は三郎と雷蔵、八左ヱ門を呼び止める。
「お前たち、椿班だったな。」
木下が言う”椿班”とは、千姫を堀殻に送る際、偽物側である椿を護送していた組と言うことだ。
三人は木下に返事をする。
少しの間の後、木下はため息を吐くように言った。
「あの時、お前たちを襲ったのはタソガレドキ、そうであったな。」
「はい、六年生の先輩方がタソガレドキ忍軍を目撃しています。」
三郎がそう答えたところで三人は顔を見合わせて先程の樒の話、そして木下が発したタソガレドキの言葉に何かを導き出す。
「ん?待てよ、と言うことは……」
「木下先生、樒さんは……」
「気付いたか。恐らくあの時、椿を攫うのはタソガレドキの役目であったのだろう。樒が奴らと通じていたなら納得出来る。」
あの時、千姫を攫ったのは井頭と梨栗だった。
樒がどちらの姫も連れ去る計画だというのであれば、椿を攫う手筈であったのは誰であったのか。
状況を整理すると見えてくる本質を、木下は三人に気付かせたかった。
「しかし結果として、雑渡昆奈門は椿さんを助けただけです。」
「土井先生が対峙をして、椿さんを取り戻したのかも知れない。あの時俺たちは少し出遅れたから。」
「でも今はそれを確認することが出来ません。彼女ならば或いは……」
木下は椿が雑渡に助けられたと言うのを聞いている。
助けられた、と言うことは力を行使されなかったと言うこと。
少なくとも、無理矢理何かをされたわけではないのではないだろうか。
雑渡と樒の間に、何が結ばれていたのか。
または樒の思惑に反して、雑渡は別の考えがあったのか。
それを知る術はない。
だから、
「答えを知るのは当事者だけだ。だからお前たちがこれからどんな忍務に就こうとも、警戒心を忘れるな。それだけだ。」
「はい」
また必ず接触があるはずだと、木下は三人に告げ学園長室へと急ぎ消えて行く。
「攫う予定が崩れた、のだろうか。」
「そもそも、樒さんの下にタソガレドキが付いていたということが疑り深い。」
「俺はまだ、あいつのことを許した訳じゃないけどな。」
三郎が悪態をついた。
樒に対して思うことがあるのだろう。
雷蔵は彼の感情をどうすることも出来ないが、気持ちだけは三郎に寄り添おうとしていた。
「俺たちだけで抱える問題じゃない。可能な限り認識を広めておいた方がいいかもな。」
八左ヱ門の言うことに雷蔵と三郎は頷き、三人は部屋へと戻って行った。