三章
あなたのお名前は?
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夜の帳が下りて辺りがすっかり闇に包まれた。
一人食堂に立っていたおばちゃんは、いつもより少ない人数分の食器を片付け終えたところで使われなかった食器に目をやり、彼らの姿を思い浮かべながら無事を祈る。
上級生と教師の数名は一連の出来事を解決するべく、外に出てしまっているのだった。
それに加え、傍らにいつも立っていた姿が今日はない。
彼女は学園に帰っては来たが食堂に顔を出すことはなかった。
その理由を忍たまたちからなんとなく聞いていて、おばちゃんは彼女が余程その人たちを大事に想っていたのだと胸を痛めた。
「こんな時は、せめて月が明るければいいのにね……」
光があれば、彼女の心も少しは晴れるかも知れないのに。
薄曇りに隠されてしまった月を見上げながら、おばちゃんは早く元気になるようにと祈った。
尊奈門と椿が連れ帰った土井は、すぐさま医務室へ運ばれた。
彼の容態を判断し厳しい表情を見せる新野に、彼女は樒から受け取った解毒剤の残りを手渡す。
症状や薬について詳しく話す椿に、新野は何かを言いかけてやめた。
「……椿さん、土井先生が落ち着いたら君と話がしたい。」
「……、はい……。」
新野は大丈夫だ、任せてくれと力強く頷いて医務室の障子を閉めた。
目の前で閉じられたそれは酷く無機質のように感じられる。
開かれれることのないそれを、椿はただ見つめていた。
障子から漏れる蝋燭の明かりに彼の無事を祈ることしか出来ない。
「お願い、します……」
誰にも届かない声は静まり返った闇に溶けた。
やがて彼女はフラフラと庭の方に歩き出す。
声をかけられずに、でもずっと見守っていた尊奈門が、どこに行くのかと聞くが返事はない。
自暴自棄にでもなられたらいけない。
結局放っておくことが出来ずに尊奈門は椿の後を追った。
今宵の月はその美しい姿を見せることはなかった。
いや、月を美しいなどと思ったことなどないのに、天上のそれはまるで椿のようだと尊奈門は思っていた。
それが今では、まるで彼女の心を表すように薄い雲に隠れてしまっている。
時折見せる輝きも、本来の美しさとはならずに弱々しい。
暗闇の中、椿は足取りも怪しく躓きそうになりながら歩き続ける。
誰もいない、静かな暗い庭をあてもなく……
そして足を止めると彼女はとても小さな声で何かを呟いた。
「私が、悪いんです……先生の迷惑になるようなことをするから。疑うことなく、樒ちゃんと仲良くなろうとしたのも私……自分の判断で学園を出たのも私……あの時、私が彼女に近付いたから、だから土井先生は……私を庇ってあんなことに……」
「……椿」
椿の声を尊奈門は聞いた。
小さな背中が震える。
彼女は後悔していた。
無理もない、こんな結果になるなんて思ってもみなかっただろう。
ただ自分に出来ることを模索して、ただ一つの望みに賭けた。
それだけだったのに。
「ただお友達になりたかっただけだった。どこの誰だとか、考えたこともなかった。毒を持ってることにも気づけなかった、ずっと、ずっと一緒にいたのに。土井先生……どうして私を庇ってくれたの?どうして、こんなことになってしまったの……?」
土井と樒、どちらも椿にとっては大切な存在、なんだろう。
だからこそ、自分の過失でその両方を失うことになるなんて……彼女の気持ちを想うと尊奈門の胸は痛んだ。
自分だって、こんな形で土井を討つ機会を失うかも知れないなんて……思ってもみない。
奴に一泡吹かせたい、負けましたの一言が聞きたい。
だから悔しい気持ちはよくわかる。よくわかるが……
「どうしよう、このまま先生が帰らなかったら……目を開けてくれなかったら……私、私のせいで……」
「椿、」
椿が壊れてしまったら、彼女を守った土井は救われない。
どうして庇ったかなんて……恐らく自分もそうしただろうなどとは彼女には言えない。
他にどうしようもなかった、それだけだ。
あの時踏み出した土井の気持ちが、今はわかるような気がした。
だから尊奈門は沈みそうな気持ちをグッと堪えて彼女を呼び続ける。
「もう、一年は組の皆にも、誰にも顔向け出来ない。何より先生に会えなくなるなんて……あの笑顔に、あの声に会えなくなるなんて……耐えられない……」
「もういい、やめろ……」
「私、が……私のせい、で……っ、土井先生は……」
「椿!!やめろ!!」
怒気を孕んだ声を上げ、椿の腕を無意識に掴んでいた。
力任せにそれを引き寄せると、背を向けていた彼女がこちらを向く。
涙
初めて見る涙だった。
あんなに明るく笑っていた椿の面影はどこにもない。
あるのは自責の念に押し潰されそうな哀れな女の姿。
自分が引き寄せて振り向かせたはずなのに、彼女の涙に尊奈門は動揺してしまった。
それも全て土井と樒のため、それはわかっている理解している。
だが彼の意識とは別に胸の奥が痛む、キシリと音を立てるのがわかり尊奈門を苛立たせる。
訳のわからない感情に流されまいと頭を振り椿を見る。
目が合った彼女は驚いたように目を大きく開けていた。
「もういい、自分を責めるな。誰かがお前を責めたか?忍たま連中がお前のせいだと言ったか?お前が軽率な行動をしたせいで、土井がこうなったと言ったのか?」
「……」
椿は答えずに顔を伏せて小さく首を横に振った。
その行動の意味もよくわかる。
彼女は自分で自分を責めている。自分が許せないだけなのだ。
だからこそ尊奈門は彼女の危うさを放っておくことが出来ない。
「私は……例え土井が戻らなくても、お前を責めたりしない。お前のせいだと言わない。ここの連中だってそんなことを言わないと、お前の方がわかっているだろう?」
「……」
「だからお前も、自分を責めるな。誰も……私も、それを望んでいない。」
「……尊奈門さん……」
「お前は自分を許せないかも知れない。だが私はそれを受け止めてやる。お前が道を踏み外すなら、いくらでも拾い上げてやる。土井が目を覚ましたら、お前にこんなに心配させたのだと後悔するくらいに、私があいつを一発殴ってやる。だからっ……!」
尊奈門は椿の腕を引き寄せて彼女の体を胸に閉じ込めた。
一瞬のことに椿は戸惑い、それでも包まれた温かさに触れるように抵抗することはなかった。
「!」
「だから、泣きたきゃ泣け。今は、今だけは……私が、お前を隠してやるから。」
月は泣くことが出来ない。
いつも人の目に晒されて、美しく輝くしかない。
それを求められていることを知っているから、この世界を優しく見守ることが自分の役目だと思っているから。
ならば自分は月を覆う雲になろう。
お前が泣きたい時にはその涙を誰にも見られないように、私がお前を隠してやろう。
「そん、なもん、さん……っ」
椿が尊奈門の装束を力いっぱい握り声を抑えることなく泣いた。
その震える背中を優しく撫でながら、彼女が自分の名前を呼んだこと、縋りつくように抱きついていることに気付き、尊奈門は顔が熱くなることを感じる。
鼓動が早く痛いくらいに胸を押す。
それがどうか椿に伝わることのないようにと願いを込める。
自分の変化に気付いたところでどうすることも出来ない。
今の状況を客観的に見て衝動的な行動だと恥じ、だが胸の中で泣く椿を離せることも出来ずひたすら彼女が落ち着くのを待つしかなかった。
しばらくの間、随分長かったような、あっという間だったような。
時間の感覚などわからなかった。
全てを吐き出し落ち着きを取り戻した椿は、少し冷静になったような顔を見せて尊奈門に礼を言う。
彼女はまだやることがあるからと言って彼の胸から離れる。
温もりが失われるのを少し寂しく思いながらも、椿がいつもの強い女に戻ったことを尊奈門は嬉しく思った。
大丈夫か、と声をかけるまでもない。
その顔は昼間見た彼女の顔。
食堂のおばちゃん見習いとは違う、尊奈門も初めて知った顔。
竹森城の椿姫。
離れて行く背中はもう彼の手を必要としていなかった。
尊奈門は喉まで出かけていた彼女の名前を出さずに飲み込む。
引き留めることは出来ない。
椿もまた、自分の運命と向き合わなくてはならないから。
だから一言”頑張れ”と、尊奈門は彼女の背中に贈った。
「尊奈門」
ふと上から聞こえた声に反応すると、忍術学園の塀の上に一人の影が座り込んでいた。
「……組頭」
月を覆っていた雲が切れて漏れ出した光がその人物を照らした。
雑渡は目を細めてからかうような声を出す。
「お前でもそういうことをするんだな。」
「なっ!?見ていたのですか!?」
その言葉に一連の自分の言動と椿の体の感触が蘇り、恥ずかしさから妙に大きい声を出してしまい、雑渡から煩いと叱りを受けた。
「そんなことより、計画が水の泡になるところだったが……お前のお陰で軌道が修正された。よくやったな。」
雑渡は尊奈門の行動を褒めた。
普通ならこれは喜ばしいことのはずなのに、自分の行動が関係していることに疑問が生まれる。
私はただ椿を監視していただけだ。
それを組頭が褒めてくださると言うことは……組頭の計画に椿が大きく関わっていることになる。
もしもあいつがこれ以上傷つくようなことがあったら……私はそれを望まない。
「どうした?」
黙ったままの尊奈門に雑渡が声をかける。
尊奈門は厳しい表情で彼を見つめた。
「組頭は……椿を巻き込もうとしているのですか?あいつが……っ、”竹森の美姫”だから……ですか?」
「だったら、何だと言う?」
雑渡は否定をしない。
それ以外何があるのかと、突き放すような冷たい声色に尊奈門は肝を冷やした。
だが、ここで引くことは出来なかった。
「これ以上椿を巻き込むことは賛同出来かねます!私はこの数日、ずっとあいつを見てきました。あれはもう竹森の姫君ではありません、ただの、食堂のおばちゃん見習いなんです。運命だとか使命だとか、そんなしがらみはもう……ないはずです、だからっ」
「尊奈門、お前……」
「え……?」
「惚れたな?」
「っ……!!」
詰まらせた言葉、それ以上何も言えなくなってしまった。
否定も肯定も出来ない、尊奈門は自分のことがよくわかっていなかった。
雑渡の言葉が頭の中を反復する。
そして自分に問いかけるのだ、椿に惚れたのか、と。
「わ、私は……!」
椿の笑った顔が、声が、自分にしか見せなかった弱い彼女が、一気に尊奈門を支配する。
鼓動が嫌なくらいに音を立てる。
そうなのか、そうじゃなのか、いやそんなことを話していたわけではないのに頭の中から椿が離れてくれない。
思考がぐるぐると渦を巻き、気持ちが悪い。
雑渡はそんな彼を見て笑った。
「お前の言うように椿は最早、ただの食堂のおばちゃん見習いだ。だが自ら背負ったものをどうするかは彼女次第。運命だとか使命だとかで動いているのではない、あれは彼女のやるべきこと、なんだろう。今回の問題は、差臼、馬印堂だけではない。竹森も大きく関わっている。それに気付いたからこそ、椿は自分のやるべきことをやろうとしている。同じように私は私のやるべきことをしているまでだ。」
雑渡の言うこともわからなくもない。
これは仕事だ。私情を挟むものではない。
「椿が、自分で選んだ道だと?」
「図らずもそうなっている。尊奈門。」
「はい……」
「彼女を巻き込むなと言うのはお前の私情だ。椿は自らの意思で選択している。身代わりを買って出た時も学園の外に出た時も、今こうしてお前の元を離れたのも、全て彼女の選択だ。お前はただ見ていただけに過ぎない。自惚れるな。椿を止めることは誰にも出来ないのだよ。」
悔しいが雑渡の言うことは的を得ていた。
椿を止める資格は自分にはない。
彼女は彼女の思う最善を選んで進むのだろう。
「尊奈門、お前は引き続き椿を見ていろ。あれも近くにいることだし都合がいい。」
「あれ、と言うのは?」
尊奈門の問いかけに雑渡は鼻で笑う。
「フッ……憐れな盗人、いや、裏切り者か……」
「……」
いまいち雑渡の言うことは掴めないが、このまま椿の側にいられるならそれで良いと尊奈門は思った。
土井のことも気になるが、彼女の危うさは放っておけない。
雑渡は近いうちに差臼で再会することを尊奈門に告げる。
彼はこの後、忍術学園や椿がどのような行動をするのか、すでに読んでいるようだった。
先を見通す力、先見の明。
雑渡の尊敬すべき点、尊奈門が憧れを抱く力。
いつか自分も雑渡のようになりたい、彼に少しでも近づきたい。
だから今は、雑渡が見る物を同じように見れるように、彼の言うことに従うしかない。
「……とりあえず私がすべきことはわかりました。ところで一つ、申し上げたいのですが……」
「ん?」
とても言いにくそうに尊奈門は口を開く。
「……組頭、足を揃えて座るの、やめて頂けませんか?」
真面目な話をしている中で、どうしてもそれに目が行ってしまうし、忍者隊の組頭ともあろう方が女性のように足を揃えて座るなど体裁を考えると我慢が効かない。
「なんで?」
「…………」
尊奈門は黙って頭を抱えた。
毎度繰り返されるこの問答も、はっきりと理由を言う覚悟がなく流れてしまうのが落ちだ。
雑渡も或いは、それを面白がっているのかも知れない。
月が映す人影は二つ、静まり返ったその場所からはやがて影は消えてしまった。
この場に留まる者はもういない。
一人食堂に立っていたおばちゃんは、いつもより少ない人数分の食器を片付け終えたところで使われなかった食器に目をやり、彼らの姿を思い浮かべながら無事を祈る。
上級生と教師の数名は一連の出来事を解決するべく、外に出てしまっているのだった。
それに加え、傍らにいつも立っていた姿が今日はない。
彼女は学園に帰っては来たが食堂に顔を出すことはなかった。
その理由を忍たまたちからなんとなく聞いていて、おばちゃんは彼女が余程その人たちを大事に想っていたのだと胸を痛めた。
「こんな時は、せめて月が明るければいいのにね……」
光があれば、彼女の心も少しは晴れるかも知れないのに。
薄曇りに隠されてしまった月を見上げながら、おばちゃんは早く元気になるようにと祈った。
尊奈門と椿が連れ帰った土井は、すぐさま医務室へ運ばれた。
彼の容態を判断し厳しい表情を見せる新野に、彼女は樒から受け取った解毒剤の残りを手渡す。
症状や薬について詳しく話す椿に、新野は何かを言いかけてやめた。
「……椿さん、土井先生が落ち着いたら君と話がしたい。」
「……、はい……。」
新野は大丈夫だ、任せてくれと力強く頷いて医務室の障子を閉めた。
目の前で閉じられたそれは酷く無機質のように感じられる。
開かれれることのないそれを、椿はただ見つめていた。
障子から漏れる蝋燭の明かりに彼の無事を祈ることしか出来ない。
「お願い、します……」
誰にも届かない声は静まり返った闇に溶けた。
やがて彼女はフラフラと庭の方に歩き出す。
声をかけられずに、でもずっと見守っていた尊奈門が、どこに行くのかと聞くが返事はない。
自暴自棄にでもなられたらいけない。
結局放っておくことが出来ずに尊奈門は椿の後を追った。
今宵の月はその美しい姿を見せることはなかった。
いや、月を美しいなどと思ったことなどないのに、天上のそれはまるで椿のようだと尊奈門は思っていた。
それが今では、まるで彼女の心を表すように薄い雲に隠れてしまっている。
時折見せる輝きも、本来の美しさとはならずに弱々しい。
暗闇の中、椿は足取りも怪しく躓きそうになりながら歩き続ける。
誰もいない、静かな暗い庭をあてもなく……
そして足を止めると彼女はとても小さな声で何かを呟いた。
「私が、悪いんです……先生の迷惑になるようなことをするから。疑うことなく、樒ちゃんと仲良くなろうとしたのも私……自分の判断で学園を出たのも私……あの時、私が彼女に近付いたから、だから土井先生は……私を庇ってあんなことに……」
「……椿」
椿の声を尊奈門は聞いた。
小さな背中が震える。
彼女は後悔していた。
無理もない、こんな結果になるなんて思ってもみなかっただろう。
ただ自分に出来ることを模索して、ただ一つの望みに賭けた。
それだけだったのに。
「ただお友達になりたかっただけだった。どこの誰だとか、考えたこともなかった。毒を持ってることにも気づけなかった、ずっと、ずっと一緒にいたのに。土井先生……どうして私を庇ってくれたの?どうして、こんなことになってしまったの……?」
土井と樒、どちらも椿にとっては大切な存在、なんだろう。
だからこそ、自分の過失でその両方を失うことになるなんて……彼女の気持ちを想うと尊奈門の胸は痛んだ。
自分だって、こんな形で土井を討つ機会を失うかも知れないなんて……思ってもみない。
奴に一泡吹かせたい、負けましたの一言が聞きたい。
だから悔しい気持ちはよくわかる。よくわかるが……
「どうしよう、このまま先生が帰らなかったら……目を開けてくれなかったら……私、私のせいで……」
「椿、」
椿が壊れてしまったら、彼女を守った土井は救われない。
どうして庇ったかなんて……恐らく自分もそうしただろうなどとは彼女には言えない。
他にどうしようもなかった、それだけだ。
あの時踏み出した土井の気持ちが、今はわかるような気がした。
だから尊奈門は沈みそうな気持ちをグッと堪えて彼女を呼び続ける。
「もう、一年は組の皆にも、誰にも顔向け出来ない。何より先生に会えなくなるなんて……あの笑顔に、あの声に会えなくなるなんて……耐えられない……」
「もういい、やめろ……」
「私、が……私のせい、で……っ、土井先生は……」
「椿!!やめろ!!」
怒気を孕んだ声を上げ、椿の腕を無意識に掴んでいた。
力任せにそれを引き寄せると、背を向けていた彼女がこちらを向く。
涙
初めて見る涙だった。
あんなに明るく笑っていた椿の面影はどこにもない。
あるのは自責の念に押し潰されそうな哀れな女の姿。
自分が引き寄せて振り向かせたはずなのに、彼女の涙に尊奈門は動揺してしまった。
それも全て土井と樒のため、それはわかっている理解している。
だが彼の意識とは別に胸の奥が痛む、キシリと音を立てるのがわかり尊奈門を苛立たせる。
訳のわからない感情に流されまいと頭を振り椿を見る。
目が合った彼女は驚いたように目を大きく開けていた。
「もういい、自分を責めるな。誰かがお前を責めたか?忍たま連中がお前のせいだと言ったか?お前が軽率な行動をしたせいで、土井がこうなったと言ったのか?」
「……」
椿は答えずに顔を伏せて小さく首を横に振った。
その行動の意味もよくわかる。
彼女は自分で自分を責めている。自分が許せないだけなのだ。
だからこそ尊奈門は彼女の危うさを放っておくことが出来ない。
「私は……例え土井が戻らなくても、お前を責めたりしない。お前のせいだと言わない。ここの連中だってそんなことを言わないと、お前の方がわかっているだろう?」
「……」
「だからお前も、自分を責めるな。誰も……私も、それを望んでいない。」
「……尊奈門さん……」
「お前は自分を許せないかも知れない。だが私はそれを受け止めてやる。お前が道を踏み外すなら、いくらでも拾い上げてやる。土井が目を覚ましたら、お前にこんなに心配させたのだと後悔するくらいに、私があいつを一発殴ってやる。だからっ……!」
尊奈門は椿の腕を引き寄せて彼女の体を胸に閉じ込めた。
一瞬のことに椿は戸惑い、それでも包まれた温かさに触れるように抵抗することはなかった。
「!」
「だから、泣きたきゃ泣け。今は、今だけは……私が、お前を隠してやるから。」
月は泣くことが出来ない。
いつも人の目に晒されて、美しく輝くしかない。
それを求められていることを知っているから、この世界を優しく見守ることが自分の役目だと思っているから。
ならば自分は月を覆う雲になろう。
お前が泣きたい時にはその涙を誰にも見られないように、私がお前を隠してやろう。
「そん、なもん、さん……っ」
椿が尊奈門の装束を力いっぱい握り声を抑えることなく泣いた。
その震える背中を優しく撫でながら、彼女が自分の名前を呼んだこと、縋りつくように抱きついていることに気付き、尊奈門は顔が熱くなることを感じる。
鼓動が早く痛いくらいに胸を押す。
それがどうか椿に伝わることのないようにと願いを込める。
自分の変化に気付いたところでどうすることも出来ない。
今の状況を客観的に見て衝動的な行動だと恥じ、だが胸の中で泣く椿を離せることも出来ずひたすら彼女が落ち着くのを待つしかなかった。
しばらくの間、随分長かったような、あっという間だったような。
時間の感覚などわからなかった。
全てを吐き出し落ち着きを取り戻した椿は、少し冷静になったような顔を見せて尊奈門に礼を言う。
彼女はまだやることがあるからと言って彼の胸から離れる。
温もりが失われるのを少し寂しく思いながらも、椿がいつもの強い女に戻ったことを尊奈門は嬉しく思った。
大丈夫か、と声をかけるまでもない。
その顔は昼間見た彼女の顔。
食堂のおばちゃん見習いとは違う、尊奈門も初めて知った顔。
竹森城の椿姫。
離れて行く背中はもう彼の手を必要としていなかった。
尊奈門は喉まで出かけていた彼女の名前を出さずに飲み込む。
引き留めることは出来ない。
椿もまた、自分の運命と向き合わなくてはならないから。
だから一言”頑張れ”と、尊奈門は彼女の背中に贈った。
「尊奈門」
ふと上から聞こえた声に反応すると、忍術学園の塀の上に一人の影が座り込んでいた。
「……組頭」
月を覆っていた雲が切れて漏れ出した光がその人物を照らした。
雑渡は目を細めてからかうような声を出す。
「お前でもそういうことをするんだな。」
「なっ!?見ていたのですか!?」
その言葉に一連の自分の言動と椿の体の感触が蘇り、恥ずかしさから妙に大きい声を出してしまい、雑渡から煩いと叱りを受けた。
「そんなことより、計画が水の泡になるところだったが……お前のお陰で軌道が修正された。よくやったな。」
雑渡は尊奈門の行動を褒めた。
普通ならこれは喜ばしいことのはずなのに、自分の行動が関係していることに疑問が生まれる。
私はただ椿を監視していただけだ。
それを組頭が褒めてくださると言うことは……組頭の計画に椿が大きく関わっていることになる。
もしもあいつがこれ以上傷つくようなことがあったら……私はそれを望まない。
「どうした?」
黙ったままの尊奈門に雑渡が声をかける。
尊奈門は厳しい表情で彼を見つめた。
「組頭は……椿を巻き込もうとしているのですか?あいつが……っ、”竹森の美姫”だから……ですか?」
「だったら、何だと言う?」
雑渡は否定をしない。
それ以外何があるのかと、突き放すような冷たい声色に尊奈門は肝を冷やした。
だが、ここで引くことは出来なかった。
「これ以上椿を巻き込むことは賛同出来かねます!私はこの数日、ずっとあいつを見てきました。あれはもう竹森の姫君ではありません、ただの、食堂のおばちゃん見習いなんです。運命だとか使命だとか、そんなしがらみはもう……ないはずです、だからっ」
「尊奈門、お前……」
「え……?」
「惚れたな?」
「っ……!!」
詰まらせた言葉、それ以上何も言えなくなってしまった。
否定も肯定も出来ない、尊奈門は自分のことがよくわかっていなかった。
雑渡の言葉が頭の中を反復する。
そして自分に問いかけるのだ、椿に惚れたのか、と。
「わ、私は……!」
椿の笑った顔が、声が、自分にしか見せなかった弱い彼女が、一気に尊奈門を支配する。
鼓動が嫌なくらいに音を立てる。
そうなのか、そうじゃなのか、いやそんなことを話していたわけではないのに頭の中から椿が離れてくれない。
思考がぐるぐると渦を巻き、気持ちが悪い。
雑渡はそんな彼を見て笑った。
「お前の言うように椿は最早、ただの食堂のおばちゃん見習いだ。だが自ら背負ったものをどうするかは彼女次第。運命だとか使命だとかで動いているのではない、あれは彼女のやるべきこと、なんだろう。今回の問題は、差臼、馬印堂だけではない。竹森も大きく関わっている。それに気付いたからこそ、椿は自分のやるべきことをやろうとしている。同じように私は私のやるべきことをしているまでだ。」
雑渡の言うこともわからなくもない。
これは仕事だ。私情を挟むものではない。
「椿が、自分で選んだ道だと?」
「図らずもそうなっている。尊奈門。」
「はい……」
「彼女を巻き込むなと言うのはお前の私情だ。椿は自らの意思で選択している。身代わりを買って出た時も学園の外に出た時も、今こうしてお前の元を離れたのも、全て彼女の選択だ。お前はただ見ていただけに過ぎない。自惚れるな。椿を止めることは誰にも出来ないのだよ。」
悔しいが雑渡の言うことは的を得ていた。
椿を止める資格は自分にはない。
彼女は彼女の思う最善を選んで進むのだろう。
「尊奈門、お前は引き続き椿を見ていろ。あれも近くにいることだし都合がいい。」
「あれ、と言うのは?」
尊奈門の問いかけに雑渡は鼻で笑う。
「フッ……憐れな盗人、いや、裏切り者か……」
「……」
いまいち雑渡の言うことは掴めないが、このまま椿の側にいられるならそれで良いと尊奈門は思った。
土井のことも気になるが、彼女の危うさは放っておけない。
雑渡は近いうちに差臼で再会することを尊奈門に告げる。
彼はこの後、忍術学園や椿がどのような行動をするのか、すでに読んでいるようだった。
先を見通す力、先見の明。
雑渡の尊敬すべき点、尊奈門が憧れを抱く力。
いつか自分も雑渡のようになりたい、彼に少しでも近づきたい。
だから今は、雑渡が見る物を同じように見れるように、彼の言うことに従うしかない。
「……とりあえず私がすべきことはわかりました。ところで一つ、申し上げたいのですが……」
「ん?」
とても言いにくそうに尊奈門は口を開く。
「……組頭、足を揃えて座るの、やめて頂けませんか?」
真面目な話をしている中で、どうしてもそれに目が行ってしまうし、忍者隊の組頭ともあろう方が女性のように足を揃えて座るなど体裁を考えると我慢が効かない。
「なんで?」
「…………」
尊奈門は黙って頭を抱えた。
毎度繰り返されるこの問答も、はっきりと理由を言う覚悟がなく流れてしまうのが落ちだ。
雑渡も或いは、それを面白がっているのかも知れない。
月が映す人影は二つ、静まり返ったその場所からはやがて影は消えてしまった。
この場に留まる者はもういない。