三章
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「山田先生、よろしいでしょうか?」
六年生がそれぞれの地へ立ったことを学園長に報告し終えた山田の元に、厳しい顔で現れたのは木下だった。
彼は極力声を落として山田に耳打ちする。
それを聞いた山田は声を出さずに眉間に皺を寄せた。
「山田先生」
別の声が彼を呼ぶ。
やってきたのは土井だった。
土井は山田と木下に小声で何かを言った。
木下が山田の考えを求めるように彼を見る。
「まさかこんな結果になろうとはな。」
山田は独り言のように呟いた。
土井は彼の言った意味が痛いほどによくわかる。
そうでなければいいと願った。
彼女がどんな顔をするのか、それを考えるだけで胸が張り裂けそうだ。
「私も同行します。恐らく単独での行動ではないでしょう。連絡を取った相手が必ず接触してくるはずです。」
木下の発言に山田と土井は頷いた。
「くれぐれも慎重に。木下先生、土井先生、行きましょう。」
忍術学園内は本当に静かだった。
五年六年がそれぞれの忍務で出ているとは言え、他の生徒の姿も見えない。
話し声も聞こえない。
だが逆に好都合だった。
人目に付くことは避けたかった。
自分たちがこれから行うことを考えると当然の心理だった。
それでもなるべく目立たないように注意しながら、捕まえた小松田に外出許可証を手渡す。
彼のポンコツをこれ程までに感謝したことはない。
許可証を出しただけで特に行先などは聞かれずに済んだからだ。
椿と樒は易々と忍術学園の門をくぐることが出来た。
外に出られたからと言って油断は出来ない。
素早く草むらの中に身を隠す。
これからは誰にも会うことがないようにしなければならない。
二人で差臼城に向かい、樒の言う通りにして千姫を連れ出すのだ。
樒は城の中に隠された道があると言う。
千姫が捕らえられている場所も見当がつくと。
椿は樒を信じるしかない。
最後に彼の顔を見られなかったことは心残りではあったが、振り返り小さく「ごめんなさい」とだけ零す。
そして忍術学園に後ろ髪を引かれる想いながら、背を向けて走り出した。
こうして草をかき分けながら走っていると、忍術学園に来る以前のことを思い出す。
神室が学園の存在を教えてくれて、国を出て一人で生きて来た。
それだけじゃない、神室には色々な生きる術を教えて貰った。
食べる物の見分けやそれの取り方、椿は買い物の仕方や金銭の流通も知らなかったのだ。
本当に彼には感謝している。
今頃は隆光を支えながら竹森に貢献してくれているに違いない。
隆光ならば、きっと良い国にしてくれる。
そう信じている。
樒の選ぶ道は少し歩くにくく、凸凹の地面に体力を持っていかれる。
それでも前を行く彼女に追いつこうと、息を切らしながら椿は歩いた。
「ねえ、樒ちゃん。」
樒が立ち止まり無言で振り返った。
「もし千姫を助け出せたら、帰りは違う道の方がいいかも。」
きっと姫の足ではこのような険しい道を歩くことも困難であろう。
椿はそう案じたのだ。
「……そうだな。」
樒の返しに、安心した椿は頬を緩めた。
それが、彼女が零した最後の笑みだった。
「ならばお前は同じ姫としては、こんな道でも歩けている方なんだろうな。」
「え?」
樒の言ったことが上手く理解出来ずその心理を問うが、樒がこちらに向ける視線は先程までと違っていた。
冷たい、蔑むようなその瞳。
棘のあるような声色。
その変化に椿は戸惑い、心臓が掴まれるように痛い。
「樒、ちゃん……?」
「まさかこんなところに逃げ隠れていたとはな。忍術学園に匿われて一人のうのうと生きていたわけだ。」
彼女が言っていることが少しも理解できない。
ただ何か、危険を知らせる何かが椿に中に鳴り響く。
「恥をさらして生きるくらいなら、自分の責務を果たしなさい。」
「……」
「ねえ?……竹森の美姫、椿姫さん。」
「!?」
今、何と言ったのか……?
何故、彼女がそれを知りうるのか?
椿には何一つ、真相がわからない。
ただ、目の前の女は、さっきまで知っていた顔ではない。
樒は椿の前にその本性を現したのだ。
「どうして、それを……?」
「わからないのなら、わからないままで構わないわ。私、あなたに髪の毛程も興味がないの。」
口調さえも違っている。
本当に別人になってしまった樒を見つめる椿。
最早、気力で立っているのが精一杯である。
それでもわかるのは、彼女が突然変わってしまったわけではないということ。
言葉のない椿を樒が笑う。
「驚いて声も出ないのかしら。でもどちらでもいいわ。あんたを差臼に渡せば、私の目的は果たせるから。」
「!?……目的って?樒ちゃん、私を騙していたの?」
樒はその問いに答えない。
話し合いなど必要としないように、彼女は椿自身を見てはいなかった。
「もうすぐ迎えが来る。このまま大人しく付いて来なさい。でなければ……!」
「樒ちゃん、答えて!」
「煩いわね!」
「!!」
樒は椿の手首を掴んだ。
そしてそのまま自分の方へ引き寄せようとする。
「…!?離して!」
椿も負けじと掴まれた手を解こうとするが、樒が掴む手は強く簡単に払えない。
樒が空いた手で懐から何かを取り出そうとしたその時、彼女を制する声が頭上から聞こえた。
「そこまでだ!」
声の主を確かめる前に近くに落ちてくる影一つ。
聞き覚えのあるその声に椿は少しばかり安堵する。
降り立ったのは山田だった。
彼の登場にも樒の反応は薄い。ただ口元だけがキュッと結ばれる。
「……山田先生!」
「ここまでボロを出さないとは……君は相当優秀な忍びらしいな。」
忍び……その言葉を椿は受け入れられなかった。
信じられない想いで樒に振り向く。
彼女は山田を視界に捉えたまま動かない。
樒を土井と共に連れ帰った日のこと、その後彼女と過ごした日々、学園内を案内したこともある、一緒に食堂に立ったことを思い出す。
それが全て、偽りだった言うのか。
全て、この日のために、彼女が仕組んだことだと言うのか。
初めから、騙されていたと言うのか……!
平気で嘘をつかれて、それを受け入れろと?
騙された方が悪いのだと?
椿の中で崩れ落ちるもの、それを必死に繋ぎとめようとして震える体に力を入れる。
樒は山田を見て笑った。
「あら、やっと気付いたのかしら。忍術学園というところも、随分のんびりしているのね。」
この状況で余裕そうに笑う樒に違和感を覚える。
彼女は取り出しかけていたものをゆっくりと引き抜いた。
苦無だった。
「!?」
樒は椿の不意をついて背後に回り込み、刃先を彼女の喉元に突きつける。
「どうでもいいけど、私急いでいるの。邪魔しないでくださいね、先生。」
彼女が武器を持っているはずがない。
常に一緒に行動していたのだ、学園に連れて帰った際も荷物などなかったはずなのに。
椿には理解できないことだったが、山田は動揺を見せない。
「やめなさい樒さん。あなたにはそれ以上は出来ないだろう?」
「ええ、そうね。だからそこから動かない方がいいわよ?驚いて手が滑るかも知れないわ。椿に傷を付けたくはないでしょう?」
「なぜ椿さんなんだ?」
「あんたたちも知ってるでしょう?この子は竹森城の元姫君。果たさなければならない責任があるのよ!」
そう言った樒は突然、苦無を持つ手を自分の背後に向かって切り付けた。
後ろに引かれる力で椿は体の軸を乱す。
樒の動きが止まり不思議に思って彼女の視線を追うと、そこにいた人物に驚きと希望を見出した。
土井先生……!
彼がいつの間にか樒の背後に立ち、彼女の苦無を持つ手を掴んで受け止めていた。
攻撃の手を封じられた樒は苦い顔をする。
「これで君に出来ることはなくなった。椿さんを放しなさい。」
「はあ?寝ぼけたこと言わないで欲しいわね。」
樒は一度椿から手を放しそれを彼女の肩に置くと体重をかけるようにして飛び上がり、土井に向かって蹴りつける。
一瞬のことであったが土井にはそれを防御することなど難しくはない。
体に衝撃が行かぬように樒の足を受け止める。
ただ彼女の着物の裾がひらりと舞って覗いたしなやかな足の眩しさに怯んでしまい、掴んでいた手を放してしまった。
「っ…!」
自由になった苦無を樒がすかさず振り回す。
それを避けながら一度彼女と距離を取った。
拘束は出来なかったが、とりあえずの目的は達した。
樒が手を放し重心を崩した椿を、山田がその場から引きはがしていたのだ。
彼女の身の安全を確保できたことに土井は安堵した。
椿が近くにいなくなったことに気付いた樒はため息を吐く。
「……小賢しい真似を…」
「その苦無は学園からくすねたものか?大方、キジバトの網を破ったのもそれであろう?」
「え…」
山田の言葉に驚いて椿は目を見張る。
離れていた土井も合流して彼女の前に壁を作った。
「流石に気付いたのね。そう、私がやったわ。」
「それで外部と連絡を取ったという訳だな?」
「だとしても、今頃気付いたところで遅いのよ。さあ、そこの娘を寄越しなさい。そうすれば、忍術学園だけは助けてあげる。」
彼女の口ぶりから差臼が何かを企んでいることが垣間見える。
忍術学園もそれに巻き込むつもりであったことはわかった。
だからと言って素直に言うことを聞き入れる訳がない。
差臼普墺は目的のために手段を選ばない。
戸津の言葉を彼らは思い出していた。
椿なら、自分を投げ売って学園を守ろうとするだろう。
樒がわざわざ椿がいるこの場で忍術学園を見逃すを提案したのは、彼女の性格をよくわかっているからだった。
だからこそ、樒が椿を深く知っているからこそ、土井はこの状況をとても悔やんだ。
「私が行けば……?」
「樒さん、君はそれでいいのか?」
「土井先生……」
椿の言葉を遮るように土井は樒に問う。
彼女はもう忍術学園の関係者であり、皆の笑顔の元であり、自分にとってもなくてはならない存在。
守る理由は十分ある。
樒が椿をわかっているなら、彼女が見て来たこの半月は何も得られるものがなかったのだろうか。
人として、感じるものはなかったのだろうか。
「私にとって何よりも優先すべきはあの方のみ。あの方を救うためなら何がどうなろうと関係ない。お前たちとて、例外ではないわ。」
あの方、と言うのは差臼普墺のことであろうか。
だが……
「救う、というのは……?」
その一言が引っ掛かった。
樒が椿を連れて行くことが差臼の救いになると言うのか?
戸津から聞いていた差臼普墺の人物像と、樒の発した”救う”という言葉がどうも結びつかない。
彼女は一瞬にして表情を冷たくすると先程の余裕は消え失せたように吐き捨てる。
「お前たちには関係ない!そこをどきなさい!」
「!」
苦無が空を斬る音。
踏み込んだ足は真っ直ぐに椿に向かって来る。
一足早く飛び出したのは土井だった。
樒の苦無を、懐から取り出したそれで受け止める。
「樒さん!椿さんが君を受け入れ理解し、信頼していたことは知っているだろう!?わかるだろう!?それなのに、どうして……!!」
こんな結果、にはしたくなかった。
椿が樒を慕っていた、その心を救いたかった。
例え彼女が最初から敵であったとしても、椿の良心に付け込むようなことはして欲しくないと、取り消して欲しいと、そう願った。
樒の顔に迷いはなかった。
いや、彼女はそれを打ち消すように決死の形相を見せる。
受けた苦無からはギリギリと音を立てるように彼女の力が伝わってくる。
女性にしては強い……それ程までの想いが乗せてあるのだろう。
土井は樒の名を呼び続けた。
元の彼女を取り戻すために。
「樒さん!」
「……っ、あんた……甘いのよ!!」
「!」
渾身の力を込めて土井の苦無を弾き飛ばした。
まさかそんな力が出せるなんてと彼が驚いたその一瞬で、樒は土井から距離を取る。
「椿が私を信じていた?だから何だと言うの?それを利用するのが私達じゃないの?あんた達だって、それを教えているのでしょう?ふざけないで!私に説教垂れる資格なんて、あんたにはない!」
樒は肩で息をしながら土井から視線を動かして椿を見る。
「椿、私を信じていたのよね?だったら助けて。こっちに来て助けてよ。」
「樒ちゃん…」
「友達になりたいんでしょ?私もそう思ってるわ、だからお願い、こっちに来て。私を助けて。」
樒の光のない瞳が大きく開かれ椿を映す。
震える声で手を差し出す彼女からは狂気じみた気が発せられていた。
樒が発した”助けて”という言葉。
椿にはそれが彼女の本当に思えてならなかった。
制する山田の腕越しに身を乗り出して樒に問う。
「あなたは、何を恐れているの?」
「!?」
僅かに樒の顔色が変わった。
「もしあなたが恐れているのが差臼普墺だとして、私がそこに行くことであなたが救われることにはならないと思う。だって、救いたいのは差臼普墺ではないのでしょう?」
椿の言葉に山田、土井は驚いたように彼女を見る。
何かを掴んだかのような彼女の強い眼差しに、山田はこれ以上椿を引き留めることが出来ない。
彼女は一歩ずつ、ゆっくりと樒に近づいて行く。
「私はただ、千姫を救いたいだけ。だからあなたの気持ちは少しはわかるつもりでいるよ。でもだからと言って人を傷つけてはいけない。力になれるなら、協力したいの。お願い、戻ってきて。樒ちゃん。」
椿は樒に向かって手を差し出した。
攻撃するつもりがないこと、和解を求めていることを彼女に伝えたかった。
山田は密かに土井と目配せをする。
樒が苦無を下したら二人は飛び出すつもりだった。
一方で樒は苦しんでいた。
この女、何を言っている?
私を分かろうとしているのか?自分を騙していた私をか?
分かるはずがない!お前に私のことなど、理解することが出来るはずもない!
お前と私では、抱えているものが違うのだ!
己の運命を捨てた者に、従うしかない者の苦しみなど理解出来るはずがない!
これが運命だと言うなら、受け入れるしかないのだ。
だから私は逃がさない。
本当に必要な人のため、犠牲となるなら仕方ないことなんだ。
お前も、私も、だ!
樒は苛立っていた。
早くこの場を収めて椿を連れ出したいのに、あの男が姿を現さない。
伝えたはずだ、なのに何をしている!?
自分を救おうとしている目の前の女も、それを取り巻く邪魔者も、樒にとってはどれも目障りでしかない。
苛立ちから苦無を握る手に力が込められ、奥歯を痛いほどに噛みしめる。
下ろしかけた苦無、あと少しそれが早かったなら……
「私が救われる道は、お前を差臼に差し出す以外にない!!」
「!!」
樒が椿に鋭い視線を投げたのを土井は見逃さなかった。
まずい…と思った瞬間には既に体は前方へと踏み込んでいた。
「椿さん!!」
彼女を庇うように包み込み、踏み込んだ勢いのまま樒の進路から外れるように押し込んだ。
交差する瞬間、視界に捉えた樒は狂気に満ちた表情で椿を見ていた。
彼女が持っていた苦無を払ったのがわかったのと同時に、チリっとした痛みを覚える。
椿と共に地面に倒れこむ。
彼女を気遣う余裕はなかった。樒が第二派を繰り出す警戒をしなければならなかった。
土井の前に影が入った。山田だ。
樒の苦無を受け止め、力で彼女を制圧する。
ここで樒を抑え込まなければ。今の彼女は何を言っても聞き入れないだろう。
山田に加勢しようと、土井は立ち上がろうとした。
「!?」
視界がぐらついた。
脚に力が入らなく、何をしたわけでもないのに汗が止まらない。
息をするのも苦しく、目を開けていることが難しい。
自分の身に何が起こったのか理解することが出来ない。
「土井先生!!」
呼ばれていることに気付いてやっとの想いでそちらを振り向く。
瞳に映ったのは椿だった。土井が守りたいと願った者だ。
「大丈夫か、椿さん。」
「はい、私は大丈夫です。」
付き飛ばす形となってしまったが、どうやら無事のようで安心する。
「でも先生が……!」
「私は平気だ。君にはこれ以上、傷を付けさせないから。」
腕が痛む。そうか、切られたのか。
体の異変を隠すように土井は椿に笑いかけた。
そして今度こそ立ち上がろうと試みるも、
「っ!」
力の入らない膝は言うことを聞かない。
ガクンと崩れ落ちる土井を、椿の華奢な手が支えた。
「土井先生!」
「……少し眩暈がしただけだから。」
動こうとする体を彼女が必死に抑え込む。
山田が樒と対峙している様子が感じられる。
早く加勢しなければ。
「離してくれ椿さん。早く樒さんを抑えないと。」
「待って、動いちゃダメです!」
そう言うと彼女は土井の左袖を捲り上げる。
何を?と口を挟む余裕はなかった。
霞む視界の中で、椿の表情は青ざめていった。
何が彼女を不安にさせたのか、それを取り除いてあげたいと思いつつも、土井はここからの記憶を持つことはなかった。
「椿さ……」
ドサリと倒れこむ彼を支える術もなく、ただ呼び続けるしかできなかった。
土井の左腕は先程椿を庇った際に樒に切り付けられただろう傷が確認できる。
それがただの切り傷ではないことが椿にはわかった。
傷口を中心にして現れたのは紫斑。
蛇が這うようなその特徴的な形を彼女は知っていた。
もちろん、それがもたらす意味も……
「土井先生!!土井先生!!」
呼びかけに彼は答えない。
荒い呼吸を繰り返し力なく横たわる体を前に、絶望が椿を支配する。
つい先ほどまで側にいたのに、自分に笑いかけてくれたのに。
それが戻らない恐怖に手が震えた。
「お願い!先生、起きて!!」
しっかりしなさい椿!
土井先生を救えるのはあなただけなんだから!
ここでただ悲しんでいていいの?
それでは何も変わらない、変えないと!
この状況を変えるのよ!
必死に自分に言い聞かせ、奮い立たせた。
後ろから聞こえてくる樒の声。
椿は土井が手放した苦無に目を向けると、震える手をそれに伸ばした。
「半助!?どうしたんだ!?」
向かってくる樒を抑えながら、後ろの異常に山田が振り向く。
その隙を樒は逃さなかった。
山田の苦無を力づくで薙ぎ払う。
手から苦無が離れると、そのまま彼の喉元目掛けて樒は苦無を突き立てる。
「待て!!!!!!」
刃が皮膚に入り込む直前でその動きを止めた。
樒は一瞬だけ思ってしまった。
ここにいるはずがないあの方が、自分を止めてくれたのだと錯覚した。
振り向いた樒が見たもの、それは初めて見る椿の姿。
彼女を語る上で欠かせない、鬱陶しい程の笑顔はもうそこにはない。
あるのは己の感情を殺した支配者の瞳。
樒が恐れる、あの瞳だ。
あの方じゃない、これはあの男の眼。
思わず山田に突きつけた苦無を引っ込める。
気を抜くと謝罪が口を割って出そうになるが、あれは椿だ、恐れる必要はないと自分を鼓舞した。
椿は足早に樒に近付いて来る。
その雰囲気の異常さに思わず足が後退した。
「く、来るな!」
刃を彼女に向けた。
樒はそこで初めて気が付く。
私が、震えているだと……?
椿の射貫くような冷たい視線、その強さを目の当たりにして彼女があの方と重なる。
刃を向けていい相手じゃない、でも違う、他人だ。
あの方でもあの男でもない、目の前にいるのは椿、わかっているのに……!
頭では理解していても、体は今にも膝から崩れそうである。
カチカチと揺れる刃先。
椿はその前まで歩み寄ると苦無を持つ樒の手首を掴んだ。
「あっ……」
凄い力だった。
普段のお人好しな彼女からは想像もつかないくらいの力で捻りあげられた。
椿の瞳は樒を捕らえて離さない。
力でなら負けないのに、彼女の瞳の奥底にあるものが樒の心を乱す。
それは怒りという感情。人間が持つ中で最も強い感情。
樒の手から苦無が滑り落ちた。
「解毒剤はどこ?出しなさい。」
離れたところで見守っていた山田が息を呑む。
椿に捕まれたままの手が痛んだ。
彼女が土井を傷つけられた怒りに支配されていると言うなら、こちらは救わなければならない人物がいる。
あの方のためならば、恐れるものなどありはしない。
椿にだって、負けはしない。
「嫌だ、と言ったら?」
「あなたを殺してでも手に入れます。」
「ふっ、お姫様にそんなこと出来るのかしら?」
今の椿は解毒剤を手に入れることしか頭にない。
怒りの感情を自分に集中させることでどこかに隙が出来ると、それを狙った。
あの男が来るための時間も稼がなくてはならない。
それにしても遅い、遅すぎる。
樒を見る椿の視線は動かない。
依然として掴まれた手は振りほどけない。
「私はもう、姫ではない。それにそんなことはどうでもいい。早く出しなさい。」
「お生憎様、持ち合わせていないわ。」
動かせる左手を椿に悟られないようにゆっくり後ろに忍ばせる。
その時喉に感じた冷たい感触。
「!?」
「出しなさい。これ以上時間を無駄にするなら…」
「……何?」
「…野うさぎを捌くようにあなたの皮を剥ぐだけです…!」
喉元に当てられていたのは苦無だと知った。
それが皮膚にめり込むように押し付けられる。
何故彼女がそれを持っているのか?
ああ、土井のものを使ったのか。
触ったことすらないはずなのに、その重さを感じさせることなく椿は軽やかに苦無を持ち上げている。
後方に倒れている彼が目に入る。
どうやら念のために塗り込んでいた毒が回ったらしい。
彼の敵討ちをしようと言うのか、椿の眼は本気だった。
見開かれたそれに喰われそうな感覚に陥る。
もし樒が少しでも動いたなら瞬時に切り裂かれる。
恐怖。
死が怖いわけじゃない、ただ樒にはまだやらなければならないことがある。
あの方のために、今死ぬわけにはいかない。
それ程の強い意志を持っていても椿の気迫に押されてしまう。
忍ばせた左手を何者かに取られた。
はっと気づくと、背後に山田が回っていて樒を拘束する。
「早く出した方がいい。今の椿さんは私には止められん。」
山田は椿が手を染めることを望んでいないはずだ。
だが彼の言葉に微塵も救いが感じられない。
あの男も姿を現さない。
現状不利と見て捨てたのか。
つくづく捨てられ続ける運命だなと、樒は内心で己を嘲笑う。
手が痛い、喉が痛い、上手く唾が呑み込めない。
死ねない、死ぬわけにはいかない。
私はまだ、あの方に……
短い息を吐いて樒は小さな声を漏らした。
「…………耳の、後ろ……」
掴まれていた手が解放される。
椿が樒の髪に手を差し入れ、そこに結んであった小さな袋を取り出した。
きつく結んでいたため上手く外せなかった椿は、仕方なしに苦無で絡まる髪を切る。
その瞬間に見せた泣きそうな苦しそうな顔。
彼女が少しだけ見せた、樒への慈悲。
なんでそんな顔をするんだ。
お前に優しくされる権利など、私にはないのに。
椿は小袋を大事そうに胸に抱えると土井の元へと走り出した。
あまりにも無防備な背中、彼女が離れて行くことで樒の中に虚無感が生まれた。
椿を手に入れることが出来ず、あの方を救う手段ももうない。
「……う、……………あ…………あぁ……………、」
もう終わりだ、何も出来ずに終わる。
なんて役立たずなのだろうか。
ただ、守りたかっただけなのに。
私の存在意義とは、なんだったのだろう?
生きている意味とは、なんなのだろう?
何も出来ない。
誰も救えない。
ごめんなさい。
そう呟いた声は誰にも届かない。
目の前が暗くなる。立っていられない。
椿の背中を見ながら樒は意識を手放した。
「!」
山田は崩れる樒の体を支えた。
彼女は完全に気を失っているようで少しも動かない。
山田には計り知れない絶望が彼女を襲ったのだろう。
流れ落ちる涙を目にし、この子もまた何かしらの被害者なのだろうと山田は考えた。
舌を嚙み切って自害されなかったことが救いだ。
懐から紐を取り出すと一つは樒に咥えさせ、もう一つで彼女の両手を縛りあげる。
とにかく学園へ連れて帰らないと。
そして土井の方に目を向けた。
状況を完全に把握したわけではないが、恐らく毒を盛られたのだろう。
椿が樒から取った解毒剤が効けばいいが……
彼女がそれを飲ませて土井の名を呼んでいた。
二人を連れて帰るには人手が足りない。
山田は周りに気を巡らせ声を出した。
「タソガレドキの、いるんだろ?手を貸してくれないか。」
頭上の木から葉が舞った。
「……なんだ?」
「見ていただろう?半助を学園に連れ帰る。手を貸してくれ。」
「……」
土井半助、まさか死んだりしないよな?
尊奈門は山田に答えることなく木から飛び降りると、椿の元へ近づいた。
解毒剤を飲ませたのだろう、竹筒が転がっている。
椿は土井の汗を拭いたり手を握ったりして必死に看病していた。
近付いた尊奈門には気付く様子もない。
「椿」
声をかけてようやく彼女が振り向いた。
青ざめていて小刻みに震えている。
先程まで張っていた気を解いたのだろう、今はいつもの椿だ。
「尊奈門、さん……」
「しっかりしろ。解毒剤は飲ませたんだろ?私が手を貸してやる。土井を忍術学園へ運ぶぞ。」
「は、はい。」
こんなことで死ぬのは許さない。
お前を倒すのは、私なのだ。
土井を背負いながら尊奈門は悔しさを滲ませたが、隣りで支える椿の様子を見ると自分が感情を爆発させるわけにはいかなかった。
身近な人間が傷ついて倒れて、それでも泣いたり喚いたりすることなく気丈に振る舞っている。
しかもそれは、彼女が慕っていた人間が付けたもの。
椿は一度に二人を失いかけている。それなのに、
強いな……
お人好しでお節介で好奇心の塊であり、人のために自分を差し出す少し間抜けな女。
それが彼女の印象だった。
だが今日の彼女はそのどれにも当てはまらない。
強い、が、脆い。
必死に自分の弱さを抑えているのは、優先させるべきなのが土井の安否だからだろう。
抑えて気を張って、倒れそうな心を必死に繋ぎとめている。
こんなに心配されて土井の奴、目覚めなかったら承知しない。
尊奈門は自分の中に小さな怒りが芽生えるのを覚えた。
だが彼はそれが、土井に対する怒りであると今はまだ錯覚していた。
土井の重みに踏ん張りながら椿を連れて、尊奈門は忍術学園へと急いだ。
山田も土井を心配しながらも彼らが去り行く様子を見守る。
さて、そろそろ戻ってくるはずだが……
そう思った時、茂みが揺れて大きな影が姿を現す。
「山田先生」
「木下先生、どうでしたか?」
やって来たのは木下だった。
学園を一緒に出た彼は、樒が応援を呼んだであろう人物を探すために別行動を取っていたのだ。
木下は少し先のところで目つきの悪い男、梨栗の姿を捉えたと言う。
梨栗が差臼の人間であることはとっくに割れていた。だから樒に近付かせるわけにはいかないと、木下は彼を追い払ったのだ。
「捕らえられれば最善だったのですが、申し訳ない。逃げられました。」
「樒さんと合流されると厄介でしたからな。まあ、差臼には今利吉が目を光らせているし、奴らが彼女に何をさせようとしていたかも明らかになるでしょうな。」
木下は小さく頷く。
そして足元の樒に目をくれた。
「ところで、これはどういうことですか?」
「実はかくかくしかじかで……」
訳を聞いた木下は驚いた顔を見せた。
「なんと土井先生が……、とにかく戻った方が良さそうですね。」
二人は頷き合うと、木下が樒を担ぎ上げて忍術学園へと走り出した。