三章
あなたのお名前は?
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知らぬは仏か罪か。
もしこの場で声が出せたとしたらそれは心の底から思っていること。
本音。
「……う、そ……」
喉が渇いて上手く言葉を発せられない。
緊張が体の自由を奪い、絶望が椿を支配する。
背中が酷く冷えるようだ。
否定を口にしない樒に、今の話が嘘ではないと知らされる。
目の前の女が突然知らない人になってしまったかのように、椿は先程までの感情に蓋をする。
信じたくなかった。
彼女のことが好きだった、それを嘘にしたくはない。
失いたくはない。
この感情も、彼女とも関係も、彼女自身も。
「……椿、」
「どうして!?……どうして今なの?どうして今、思い出したの?」
差臼は最早、椿の敵であった。
こんな時に思い出して欲しくなかった。
樒にそれを求めたところでどうしようもないことは明白なのに。
嘘であって欲しかった、だが嘘をついて欲しくなかった。
これが事実ならば何をしても変わらない。
差臼は千姫を危機に陥れる存在、皆を恐怖させる私欲に塗れた獣……
「椿、聞いて欲しい。少しだけ、私の話を……」
「……」
望みはまだ、捨てたくはない。
椿は黙って樒を見つめる。
樒自身は自分が差臼の人間と知ってどう思うのか。
もしかすると人知れず苦しんでいたのかも知れない。
それを気付いてあげられなかったとしたら、先程浴びせた言葉は謝罪しなければならない。
記憶がなくなっていて良かったと樒は強張った表情で言った。
差臼のやり方は好きじゃなかった。
ここにいては自分が苦しむだけ。だから逃げて来た。
抜け出した自分に追手が迫り、襲撃された際に記憶を無くしてしまっていたのだと言う。
学園に保護され身の安全を保障されていたのに、井頭らは樒の前に現れた。
大層驚いたに違いない。彼らからすれば、始末したはずの人間が生きていたのだから。
しかし自分たちを見ても反応の薄い樒に、記憶を失ったものと見て捨て置いたのだろう。
井頭とぶつかった際、樒は自分が差臼の者であると思い出したがそれを悟られてしまっては彼らが何をするかわからない。
だから体調が悪いふりをして、距離を取ったのだ。
当然、井頭らのことも思い出していた。
彼奴らは差臼普墺からの命令を受けて動いている。
ただ、樒自身は差臼が千姫を狙っていたことなど知らなかったと言うのだ。
!?
椿は弾かれたように思い出した。
目を見開いて樒を見つめる。
緊張が背中を走り、声なき声が口から漏れ出る。
どうか、その答えは否定されるものであって欲しいと、願いながら。
「樒ちゃんは……間者、なの?」
樒の瞳が陰る。
どこか申し訳なさそうな、寂しそうな表情に椿の胸は痛んだ。
「今のお前たちには、そう見えても仕方ないかも知れない。私が差臼の者であることは事実でしかない。現に……差臼を抜け出す直前に命じられたのは、馬印堂を手に入れるための調査だった。」
「……」
「だが今の私は違う。信じて欲しい……など、軽々しく言えるものじゃない。だけど、もし椿が信じてくれるのなら、手を貸してもいい。」
「え…?」
「お前たちに助けられ、ここで生活をして来て差臼の干渉を受けない生活が羨ましく思えた。差臼がどれほど酷いところであったのか、私がどんな仕打ちを受けて来たのか……それを思い出すと、もう二度とあそこへは帰りたくない。私は普通の人間として生きていきたい。」
樒は苦しそうにそう吐いた。
それを見た椿の中で、樒への警戒は揺らいでいく。
彼女も差臼に苦しめられた人間なのだと。
「ただ……お前たちの助けになるならば、私が差臼を案内することができると思う。」
「……それって……」
椿をしっかり目に捉えて樒は頷いた。
「千姫を連れ出す、その手伝いをしよう。私はもう、差臼の人間ではないから。」
「樒ちゃん……」
樒の話は本当に記憶が戻った証なのだろう。
彼女の提案を受け取れば、行き詰ったこの状況を打破できるかも知れない。
「……ごめんなさい。樒ちゃんの事情も知らないで、私、勝手なことを言ってしまった……」
「いいんだ。お前は知らなかっただけなのだから。それに私が差臼の人間だったことを今なら逆手に取れる。」
「でも差臼に見つかったら……樒ちゃんが危ないんじゃ……?」
一度死んだと思われた人間、記憶を無くしたと思われ見逃されていたのに、それが戻ったとなると差臼はどう思うだろうか。
椿は樒の身を案じたが、彼女は首を横に振る。
「私はお前たちに恩がある。特に椿、お前だ。椿が傍にいてくれたから、私は平穏な日常がどんなに尊いものか気付くことが出来た。感謝している。だから、お前が今一番心を痛めていること、千姫を救うことに協力できるならしたい。例え何があっても、お前と千姫だけは差臼から守る。必ず、逃がす。」
「いやだよ。」
「椿……」
「そんなこと言ったら嫌だ!樒ちゃんだって、無事にここに帰って来ないと嫌なんだから!自分が犠牲になるみたいなこと、言わないでよ。私はそんなの……望んでない……」
樒の言葉に悲しくなる。
感情の爆発を抑えるように両手で顔を覆った。
例え差臼の人間だったとしても、椿にとっては初めて出来た友達と言える存在。
樒と一緒にいられることが嬉しくて、いつか彼女が帰るかも知れないと思いながらも未来に希望を持つことが出来た。
だからいくら千姫を助けるためとは言え、樒がいなくなるのは椿は望まない。そうなるくらいなら、彼女をここに閉じ込めておきたい。
自分を落ち着かせることに必死だった椿は、温かいものに包まれる感覚に顔を上げる。
抱きしめられていた。
樒の声が少しばかり優しさを帯びて椿の耳に届く。
「……本当に、お前はそうやって他人の心配までしてくれるんだな。……悪かった。私も、ここに帰ると誓う。」
「……うん……」
彼女がしてくれた約束、それが嬉しくて樒の体に縋りつく。
自分と同じ歳くらいの女の子、こんな風に抱き合うのは初めてだった。
柔らかくていい香りがしてその体温に安心してしまう。
樒と本当に友達になれたのだと、椿はそう思って胸がいっぱいだった。
「樒ちゃん、どうするつもりなの?」
樒が切り出した話、彼女の考えがあるのだろうと椿は疑問を投げかける。
「二人で行こう。お前と私で。」
「え?学園長先生に相談した方がいいんじゃ……?」
驚く椿に樒は体を離して正面から見据えた。
「学園長に相談したところで、お前や私が関わることを許してはくれないだろう。それは椿自身が良く分かっていることじゃないのか?私だって、差臼の人間などと知られたらまず学園からは出してもらえない。」
「そう、か……でも二人でって、外に出るにはどちらにしろ、外出許可を貰わないといけないんだよ。小松田君がいるの、知ってるでしょ?私たち二人がいなくなることで、先生たちにもご迷惑かけちゃうし、」
「今は迷惑をかけるなどと言ってるバヤイか?一刻も早く千姫を救い出すのが先だろう?ここの連中なら、いないとわかった時点で追ってくるさ。千姫を連れ出した後の迎えだと思えばいい。それと、許可証なら作ることができる。」
樒はそう言うと懐から紙を取り出し広げて見せた。
それはいつも貰う外出許可証と何ら変わりはない。
「まさかこれ、偽物を作ったの?どうしてこんなことまで、」
「椿わかって欲しい。それくらい、私の覚悟は決まっているということなんだ。」
「覚悟……」
樒は椿の肩を掴んで真剣な眼差しを送る。
その揺るがない瞳に彼女の想いを感じ取った椿は、根負けしてしまいそうだった。
迷った。
千姫を助けたい、そして樒を信じたい。
だがこれは、学園に対する初めての反抗だ。
学園長を始め、各先生方、忍たまの皆、食堂のおばちゃん……
土井先生……
もうあの笑顔で笑いかけてくれることはないかも知れない。
きっと凄く怒るだろう。
心配も凄くかけてしまうだろう。
もしかすると、ここを追い出されてしまうかも知れない。
これはそれくらい、裏切りに近い行為だ。
だけど、
守ると誓った自分たちを信じてくれた人がいた。
今、その人が危うい目に遭っている。
それに忍術学園も、全くの無関係で済まされないかも知れない。
椿一人の境遇など、はかり比べる天秤すらない。
目の前の樒はとっくにその覚悟を持っている。
なら自分がすることはなんなのか、自分がすべきことはなんなのか。
「……っ」
ここで樒の申し出を断ってしまうと、千姫を救う好機は逃してしまうかもしれない。
「樒ちゃん」
拳を強く握って目をきつく閉じた。
ゆっくりと顔を上げた椿は少し前の彼女とは違っていた。
心を決めたのだ。
「行こう。」
「椿……!」
樒は無言で頷いた。
二人はお互いの手を握り合う。
これからの運命を共にするように。