三章

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忍術学園に火急の知らせが入ったのは、もう陽も暮れようとしている黄昏時。
五年い組、久々知兵助が単独で学園に戻ったことによってもたらされた。
疲労感が隠せない状態ながらも、その足は真っ直ぐ学園長室へ向かっている。
兵助は本物の千姫を護衛する班に所属していた。
その彼が単独で学園に戻ったこと、それ自体が由々しき事であるのは明らかだ。
教師たちが厳しい顔をして学園長室に集まる。
それを察知した保健委員会は、委員長不在のため三年生の数馬を中心にして、念のためにと湯を沸かし始めた。

異様なほどに静かな学園内、それから程なくして椿班が帰って来た。
戻ったばかりの伊作が保健委員に声をかけ、怪我をしている生徒を医務室へ集める。
それでも、ほとんどがかすり傷程度のものだったのが乱太郎を安心させた。
疲れの見える上級生たち、その様子に待機をしていた下級生たちは一斉に思った。

皆、久々知先輩と同じ表情をしている、と。

それが何を意味するのか、聞くに聞けない状況でも察しがついた者は口を噤んだ。


「……あれ?だけど……」


一年は組の生徒が気付いた。
土井がその中にいない。
そして椿班の五年生と伊作を除く六年生の姿もない。
不安になりながら、利吉と椿の姿を見つけて一年は組が押し寄せる。
一斉に質問を浴びる形となるが利吉が静かに彼らを制した。


「土井先生たちは別行動をしているだけだ。心配するな。」

「皆ごめんね、後でちゃんとお話しするから。」


二人はそのまま学園長室へ向かった。








踏み入れた室内、一斉に向けられる視線を受けながら椿は利吉と共に学園長の前に座った。


「……!…兵助君……」


兵助の姿がそこにあるのを見ると、彼女は落胆したような顔を見せた。
椿と目が合った兵助は、すみません…と小さく零しただけだった。


「学園長先生、」


話を切り出したのは利吉だった。


「我々囮組は、堀殻へ向かう西の森で賊に襲われました。しかし怪我人も少なく、こうして椿さんも無事です。ただ問題なのが、我々を襲ったのが差臼の手であったかの確証は持てないという点です。」

「敵を見ること叶わなんだ、と?」

「いえ、それが忍たま上級生数名が敵を追った際にその姿を確認しております。相手はタソガレドキ忍者隊でありました。」

「なんだと…!?」


学園長室内に居合わせた教師たちが騒めいた。


「なぜここでタソガレドキが?」

「彼奴ら、差臼と手を組んだとでも言うのか?」

「また黄昏甚兵衛が良からぬことを考えているのでしょうか?」


タソガレドキの名が出たのが思いもよらないことだと、憶測が憶測を呼ぶ。
答えのないその問題に椿は、必ずしもタソガレドキが悪いとは思えなかった。


「待ってください!タソガレドキが差臼と手を組んだと推測するのはまだ早いです。何故なら、私を助けてくれたのは雑渡さんだからです。」

「雑渡に助けられただと?どういうことだ?」


興奮気味の椿を抑えるように利吉が口を開く。


「私が順を追って説明します。先程の話の続きですが、襲撃を受けた際、椿さんの乗る牛車が暴走しました。そして、そのまま彼方へ走り去る牛車を土井先生が追いかけました。」

「半助……」


指揮を執るべき土井が真っ先に飛び出したと聞いて、山田はため息をついた。
山田の覗かせた内心に利吉は同調したが、横目でそれを見ただけで表には出さない。


「暴れる牛に、牛車の中にいた椿さんもあわやという時、雑渡さんが彼女を救い出してくれたということなのです。」

「一人で脱出することも牛車を止めることも出来ませんでした。でも雑渡さんが危険を顧みずに助けてくれたのです。そして雑渡さんは教えてくれました。私の状況と、千姫の状況は同じであると。つまり、千姫の身にも危機が迫っていると仰っていたのです。」


椿は精一杯雑渡を擁護した。
タソガレドキが襲撃に関わっていたとしても、自分を助けてくれたのは雑渡なのだと。


「だが椿さん、だとすると、やはりタソガレドキが差臼と組んでいた。もしくは情報を知っていたということになる。」

「意味がわからん。君たちを襲ったのも、自作自演と思わざるを得ない。」

「確かにその通りです。我々を襲ったのも、椿さんを救い出したのもタソガレドキ忍者。先日からタソガレドキの諸泉尊奈門が学園に張り付いて何かを見張っていた点を考えると、彼らの行動は無視を出来ません。では、その目的はなんなのか。そして、姿を現さなかった差臼はどこに行ったのか。」

「それについてですが、」


口を出したのは兵助だった。
学園長始め、教師たちは先に彼の話を聞いたのだろう。
皆落ち着いた態度で思考を巡らせているようだった。
利吉は兵助に声をかける。


「久々知君、君がここにいるということは……」

「はい、私たちは千姫を堀殻へお連れするはずでした。差臼の手は椿さん側に向けられていると、そう思っていたのです。それがまさか……内部に裏切られるとは……」

「裏切られた……?」


不穏な言葉の響きに利吉と椿は顔をしかめた。
利吉は嫌な予感に緊張が走る。


「兵助君、どういうこと!?」

「堀殻への街道を人目を避けて進んでいました。川辺で休憩を取り出発しようと千姫を馬へ乗せたその時です。馬印堂の従者である井頭と梨栗、この二人が急に馬に飛び乗って走らせました。千姫と戸津さんが乗る分の馬しか用意をしていなかったため、私たちは咄嗟に追いかけましたが馬の脚に追いつけるはずもなく……」

「井頭と梨栗が……?」


裏切られたと聞いた利吉は、一瞬戸津の仕業かと思った。
今回の作戦を持ち出したのも、関係者全員の動きを把握できるのも戸津だと考えたからだ。
自分に堀殻を調査させたあの戸津が、そんな企みを持っていたなど考えたくもなかったが、井頭と梨栗の仕業と聞いて内心安堵する。


「先輩方と戸津さんは、二人の行方を追っています。私は取り急ぎこの事態を報告するべく戻ってまいりました。」

「……どうやら、井頭に梨栗、この両名は差臼の者だったようじゃな。」


それまで黙っていた学園長が口を開いた。
全員が視線を学園長に集中させる。


「戸津殿の配下として馬印堂に潜り込み、今回の作戦に参加をして千姫を攫うつもりだったのじゃろう。千姫の輿入れが失敗すれば堀殻は怒り、馬印堂は成す術もない。怒りに満ちた堀殻から逃れるために差臼の提案を馬印堂は受けざるを得ないだろう。手に入れるには都合が良いという訳じゃな。」

「このままでは、馬印堂が差臼に呑まれるのも時間の問題です。」

「それだけではない、堀殻に戦を仕掛けるだろう。勿論、この学園も影響を受けかねない。」


日向、木下が不安を煽るが山田が冷静に止める。


「まあ、落ち着きなさい。千姫を手に入れた差臼がまず何をするか、考えてみればまだ猶予はある。」

「奴らが欲しいのはまず、馬印堂だ。千姫が堀殻へ輿入れする手筈だったことも考えると、姫が生きている限り堀殻の抑制にも繋がる。全面的に戦を持ち出すのはそれからだ。」

「つまり、ここが抑えどころと言うわけですな。」


熱血で突っ走りがちな厚着が山田に続いて発言した。
日向、木下は二人の話を聞いて握った拳を一先ず下ろす。
表にこそ出さないが、後ろに控えている野村や他の教師も怒気や焦りを滲ませていた。
ここで言い争っていても仕方がない。山田は学園長に打診する。


「いかがいたしますか?学園長。」


沈黙が重かった。だが皆が彼の言葉を待っている。
いつも突然の思い付きで、散々皆を振り回す学園長だが、それでもこの学園の長として信頼されている証拠でもある。
そうでなければ、こうやって人が集まることも、その言葉に耳を向けることもなかったのだろう。


「……まずは、戸津殿を含めた全員が帰ってくるのを待つ。その後、堀殻、馬印堂両城に遣いを出す。山田先生にはその人選を願いたい。」

「はい」

「差臼が馬印堂、堀殻を手に入れるのをなんとしても阻止しなければならん。厳しいことになりそうじゃ……」

「タソガレドキはどうしますか?」

「今回の件に関して、タソガレドキが我々の敵である確証は得られていない。判断を下すには、今少し、情報が必要じゃ。」


学園長は猶予を選択した。
それを聞いた椿は、一人胸を撫で下ろした。







土井と五年六年、そして戸津が戻ったのは夜中だった。
夜の番をしていた数名の教師と山田が彼らを迎え入れる。
椿もその気配に気づいて、伊作と共に彼らの元へ走った。
篝火に照らされたその姿は、いつもの元気な彼らではなかった。
帰ってきたことに安心はしたものの、彼らの表情になんと声をかけてよいのかわからない。

伊作がしきりに怪我がないかの確認を取っていた。
皆、擦れや汚れが目立つが幸いなことに治療を必要とするようなものではなかった。
いつも以上に隈を濃くした文次郎がすれ違いざまに椿の肩にポンと触れ、無事で良かった…と零した。
言葉を返すことも出来ずに離れて行く背中を見つめて、彼らがどんな想いであるのかを痛感する。

戸津の様子は更に酷いものだった。
何か気の利いたことを声掛けしようかと思うのだが、今の戸津の前に椿が顔を見せるのはなんとなく得策ではない気がした。


「お疲れのところ申し訳ありません。学園長室へ同行願えますか?」

「……はい」


教師たちが戸津を囲むようにして学園長室へと誘導した。



結局、千姫を取り戻すことは出来なかった。

怒り、落胆、無念、そこにはそれしかなかった。

忍務の失敗。


千姫に誓ったのに、あなたを必ず堀殻に送り届けると誓ったのに。
ありがとうと言って笑ったあの顔が、昨日はあったのに。
椿は溢れ出るものを必死に抑える。



土井は山田らと言葉を交わした後、椿の存在に気が付く。
不安そうに見つめる瞳、だがその輝きは鈍ってはいない。
山田が気を使って土井に休むように言い、他の教師たちを追って去って行く。
椿は残された土井に駆け寄る。


「土井先生」

椿さん……すみませんでした、守ることが出来ませんでした……」


弱気を見せる土井を椿は首を横に振って答える。


「まだです、まだ取り戻せます。そうでしょう?」


私の知ってる土井先生は弱くない。
一度の失敗で沈むような人じゃない。
負けないで。
崩れそうなのは椿の方なのに、まるで自分を鼓舞するかのように彼女は言った。

彼女のその強さに救われる。
叱ってくれてもいいのに、泣いてくれてもいいのに。
まだ休むことを許さない椿の瞳。
炎に照らされたそれは、力強くとても美しい。
これが椿だった。
惹かれていた理由を忘れてしまう前に、自分も彼女に返さなければならない。


「……もちろん。まだ諦めていないよ。君がそうやって励ましてくれるから、まだ頑張れそうだ。」


やっと、少しだけ笑うことが出来た。
顔を緩めただけなのに、心が軽く感じるのは何故なのか。
目の前の彼女も釣られたように微笑んで見せた。

……その顔は、まずいな……

弱っていた自分に椿の笑顔は甘美なる毒だ。


「……椿さん、一つだけ我儘を聞いてくれないか?」

「?……はい、勿論……」


答えは最後まで聞こえなかった。
驚いたように言葉を失う彼女、今はその華奢な体を土井が腕の中に包み込んでいた。
柔らかくて温かい。
人の温もりがこれほどまでに安心できるものだったとは……
生徒たちとはまた違う安心感。心地よくて、許されるならずっとこのままでいたい。

彼女の無事を確認した時もこうして存在を確かめたのに、その時と今とでは意味合いが違う。
こうして自分がここに在って、まだ生きているのだと認識させられる。
椿の存在、抱きしめた感触、匂い、温度、それらが全て尊いものに感じられる。
今、どんな顔をしている?困って、固まっていろうだろうな。
そう思うと少しだけ切なさが胸を過った。


「……土井、先生……」


椿の緊張した声色が、土井を現実へ引き戻した。
ゆっくりと体を解放させると、困惑で固まってしまっている彼女と目が合う。


「すまない、少しだけ勇気を貰ったよ。今日はもう遅い、椿さんも疲れているだろうから休みなさい。」

「は、い……お休みなさい。」


いつもの土井だった、いつものあの笑顔で優しく微笑んで彼は去った。
何がなんだか、いまいち理解ができない。
だけど体に残る感触、温もり、今ここに彼がいて会話をしてそして……

椿は自分の体を抱きしめる。
土井に抱きしめられた、なんて大きくて温かくて力強い存在なんだろう。
体温の上昇を止められない。
顔が熱い。
胸の音が大きく響いてくる。
だけど、

嫌じゃなかった。

彼は勇気を貰ったと言っていた。しかし与えてもらったのは自分の方だ。
包まれた体温に、安心した。

なに、これ……

雑渡に助けられた時と違う感情。
土井と再会した瞬間の安心感とは違う感情。
頭の中をぐるぐると回る思考。
昔捨てた想いに似ている気がする。
心に灯がともる。あたたかい。
大きく息を吐くと、椿もまた自室へと向かって歩き出した。
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