二章
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夜が明けた。
日の出と共に起きだす鳥たちのように、忍術学園の面々も支度を始める。
人数分の朝食を用意し終えた椿は、作法委員に呼ばれ食堂を後にした。
こんな時は彼女の代わりに下級生の子たちが食堂の手伝いをすることになっている。
慌ただしく去っていく彼女の後姿に、上級生たちはいよいよか…との思いで静かに朝食に手を付けた。
普段化粧をしない椿、その自然なままの肌に粉が叩かれ眉を整えられ、頬は薄く色づき鮮やかな紅が引かれる。
上質の着物に着替えさせられ、少し重みがあって動きにくいなと感じた。
しかし今日はただ綺麗になるだけではない。
千姫の身代わりを務めるのだ、差臼城の者を欺かなくてはならない。
千姫と椿は見た目はそっくりだと言った、だが一つ明らかに違っているところがある。
「髪……どうしよう?」
以前椿が自分で切り落とした髪、顎下の長さまでしかないそれは、千姫の腰まで届く豊かな髪を真似るには無理がある。
「心配いらない。ちゃんと手配はしてある。」
仙蔵はそう言うとある人物を招き入れた。
「……三郎君?」
部屋に入って来た三郎はどこか緊張したような、硬い表情を見せた。
椿が訳が分からずにいると隣りにいた兵太夫が、三郎が変装の名人で…と耳打ちしてきた。
それに納得して改めて彼を見上げる。何故か目が合わない。
「では三郎、仕上げを頼む。」
仙蔵の言葉に三郎は返事をして何かを取り出した。
目の前に広がったそれは、美しい艶を放つ長い髪の束だった。
「え、これ……」
戸惑う椿に断りをいれてから三郎は背後に回り込むと、あっと言う間にその髪の束を彼女の短い毛の中に忍ばせた。
櫛で撫でるように馴染ませると、まるで初めから椿の髪であるかのように自然な長い毛となってさらっと背中を流れている。
「ふむ、流石だな。」
仙蔵が満足そうに言った。
伝七が椿の目の前に鏡を引っ張り出して彼女の姿を写す。
一瞬、そこにいるのが自分だと理解できなかった椿だが、体を反転させるように何度も眺めると信じられないとため息を漏らした。
「お化粧も着物も、すごい……綺麗……」
「当たり前だ。今のお前は”輿入れをする姫君”なのだからな。それ相応の恰好をしてもらわなければならない。」
「そっか、そうだよね。うん、皆ありがとう。私頑張るよ。」
張りきったように言う彼女に作法委員の面々は笑顔を見せた。
ただ仙蔵だけは、少しだけ複雑な胸の内を隠せずに眉を寄せた。
「それに三郎君!この髪すごいね!ついてるのかわからないくらい自然だし軽いし!」
嬉しそうに振り返って椿は笑った。
彼女が動くたびに揺れる長い髪。
この姿こそが椿の本来の姿であるだろうに。
忍術学園の食堂のおばちゃん見習いに慣れてきたからと言って、それまでに彼女が失った多くのものを思えば必ずしも良かったとは言えない。
「色だって同じだし、私ちょっと茶色っぽいのにわからないくらい自然!三郎君、変装が得意だからこういうのも作ったりするんだね。」
「そりゃあ……まあ……」
確かに変装道具として付け毛を作ったこともある。
自分が今、雷蔵の恰好をしているこの髪だってそうだ。
椿の髪色を再現することなんて、できるに決まっているじゃないか。
いつも、見ているのだから……
彼女が姫君の身代わりになるとは聞いていた。
そのために上質の着物を身に着け、姫に似せるために髪の毛を伸ばす必要があることも仙蔵から聞いていた。
自分が役に立てるならと、引き受けた仕事であったのだが、実際に椿の綺麗になった姿を目の当たりにすると直視できなかった。
何故か彼女が、本当にどこかへ行ってしまうのではないかと思ってしまったからだ。
そうじゃないのに、必ず帰ってくるのに、まるでどこかに送り出さなくてはならない気持ちに襲われて、いつものように話すこともできなかった。
いつもと違う長い髪のせいかも知れない、今の椿は、本当に……
「……綺麗だ……」
そう呟くと彼女は頬を染めて笑った。
「ありがとう、三郎君。」
足場の安定した街道をその団体は通っていた。
見通しの良い開けた場所、農作業をする村人誰もが振り向く程に目立つ存在。
中心になるのは派手な牛車だ。
それも数台の牛車が連なっている様を見て、ああ、あの数は嫁入り道具でも積んでいるのだろうと誰かが漏らした。
「それにしても……花嫁様はどれに乗っているんだ?」
行列の最後尾にいた雷蔵はそんな言葉にちらりと後ろを振り返った。
同じような装飾の牛車が並ぶ様は、どれに姫君が乗っているか傍目からはわからないらしい。
少し異様なこの並びは、言わば椿を隠すための偽装である。
仮に差臼が立ち塞がったとして、彼女までその手が届くのを遅らせる目的があった。
「一先ずは、それが効いているらしい。」
「そのようだ。相手が一斉に牛車を襲わない限り、椿さんの車を見極めるのは困難なはず。」
「余程強運の持ち主でもないことを祈るけどな。」
雷蔵の言葉に三郎と八左ヱ門が答えた。
「こっちは人数がいるけど、本物の方は大丈夫かな。」
本物というのは、千姫のことだ。
こちらの派手な行列とは違い、裏の道を通って堀殻へ向かう千姫の方は馬印堂の戸津、井頭、梨栗に、六年五年のい組だけという少人数だった。
優秀ない組の面子が揃っているのだから心配は少ない。それに、
「向こうの存在は、知る由もないはずだからな。」
差臼がこの中に千姫がいないことを知るはずがない。
だから必ずこちらの餌に喰いつくだろう。
「あの、先輩。」
前を歩いていた守一郎が振り向いて八左ヱ門たちに問う。
「なぜ、椿さんが乗る必要があったのでしょうか?囮というだけなら中が空であっても良かったのでは、と思うのですが?」
「仮に中に姫がいなかった場合、差臼はどうすると思う?」
「えと…」
「これは囮である、本物は別行動を取っている。そう考えるんじゃないかな。」
「そう、そして探し回るだろう。堀殻の手前で待ち伏せするかも知れない。そうすると本物の千姫が囚われる可能性はグッと高まる。」
「万が一椿さんが差臼に捕まってしまっても、差臼は彼女を本物と勘違いしているのだから改めて探し回ることを必要としない。つまり、我々の忍務である”千姫を無事に堀殻へ送り届けろ”を成し遂げることが出来るのさ。」
「……椿さんは、差臼に囚われることも覚悟の上でこの中にいるんだ。」
そう口にした三郎は固く拳を握った。
雷蔵が心配そうに三郎を見る。
「だから僕たちは、差臼を引き付けつつ椿さんを守らなければならないんだ。」
「……なるほど。」
本物の千姫を守るために、椿に危険を強いることになる。
彼女自身が望んだとは言え、あまりにも酷な話だ。
狙われるための囮作戦、牛車で行動するという圧倒的不利な状況で、彼女が外に出ることがないようにと願わずにはいられない。
揺れる牛車に目を配りながら周囲への警戒も怠らない。
前にも後ろにも忍たまの見知った顔が揃っていた。
そう張り詰めた空気を出している利吉に、土井は軽く声をかけた。
「少し気張り過ぎじゃないかい?利吉君。」
「そうは言いますけどね、土井先生……」
「まあ、わからなくもないけどね。だけど逆に相手を刺激することになるから。」
椿が乗る牛車を見つめながら土井は言った。
千姫が乗って来たこの牛車、今は椿が中にいるのだ。
土井は先程見た彼女の姿を思い返した。
見たこともないような綺麗な着物、施された化粧は彼女をより美しく見せた。
そして三郎によって蘇った長い髪、忍術学園へ来た当初の椿を思い出させた。
彼女はあの綺麗な髪を自ら切り落とし、”竹森椿としての死”を選んだ。
だからもう、彼女はただの、食堂のおばちゃん見習いになったはずなのに。
どうしてこうも危険な道に進んでしまうのか。
そう思うだけで胃の痛みを思い出さずにはいられない。
願わくば、これ以上椿が傷つくことのないようにと、今は側にいる自分が守るしかない。
「……土井先生こそ、難しい顔しないほうがよろしいのではないですか?」
「……え?あ、ああ、そんな顔してた?」
利吉が呆れたような視線を寄越した。
へらっと見せるその笑顔に、彼が無理をしていることは明白だった。
ふーっと鼻で息を吐くと、牛車の物見が開いて控えめな声が聞こえた。
「あの、皆さんお疲れではないですか?少し休まれても?」
椿が目だけを見せてそう言った。
土井と利吉の会話が聞こえて心配になったのだろう、だがそれには及ばないと土井が答える。
「私だけ乗せて頂いて、申し訳ないです。」
「何を言うのですか、今の椿さんは姫君なのですから、そのままでいてください。」
「ええ、私たちなら大丈夫ですよ。」
「……そうですか。あの、無理だけはしないでください。忍たまの皆も。」
確かに少し長い道のりを歩いてきた。
自分たちもそうだが、忍たまたちの体力も考えなくてはならない。
もしこの後、差臼が出てくるようならば、体力はある程度温存しておいた方がいいだろう。
土井の脳裏に尊奈門の姿が浮かんだ。
彼のことは心配しなくても大丈夫だろうとは思う。ただ、昨夜言ったようにもしもの時は、力を借りたい。
人が多くてその気配を探ることは困難だが、恐らくどこかで見ているに違いない。
一行は徐々に木が生い茂る森の中へと歩を進める。
すれ違う人も少なく、すぐ側の茂みから何かが飛び出してくかもわからない。
緊張感が一気に増す。
それは後ろを歩く忍たまたちも同じようで、土井は各先生方の教えが生きているなと感じた。
「仕掛けてくるとしたら、ここだと思うのですが……」
利吉の言葉に静かに頷いた。
この長い森の終わりは開けた川辺だ。
それを考慮すると、奇襲をかけられるのはここ。
だが、待てども何も起こらない。
こちらが緊張で疲れてしまいそうだった。
おまけに湿気があってなんだか蒸し暑い。
森の中で日陰であるはずなのに汗が肌に張り付いてベタベタと不快だった。
牛車の中の彼女は一層辛いだろう。
土井がそう思い声をかけようとした、その時だった。
パァァンッ!!
空気を切り裂くような破裂音。
木に潜んでいたであろう無数の鳥が一斉に飛び立つ。
思わず身をかがめた。
こんな狭いところで火縄を撃つとは……!
音の出処を確かめようとしたが、それは叶わなかった。
火縄の音は一発で終わらない。
パァァンッ!
パァァンッ!
続けて鳴る破裂音に、思うように体が動かせない。
後続の忍たまたちにも牛車の後ろに身を隠すよう指示した。
このままではまずい……!
そう思ったのもつかの間、今度は牛車を引く牛が暴れだした。
どうにか鎮めようと縄を短く持つが、巨体相手に人間の力など及ぶはずもない。
彼女を守らなくては……!
その想いから牛車に土井はしがみついた。が、暴れる牛の動きに翻弄されて振り落とされてしまった。
「っ!」
地面に叩きつけられ体を打ち付けたが、受け身を取って最低限の負傷に留める。
それよりも、中の椿は大丈夫だろうか。
暴れる牛の力によって牛車自体も大きく揺れているに違いない。
早く、外に連れ出さないと!
「鎮めるんだ!早く!」
そう忍たまたちに言うが、暴れる巨体を宥められる者などいるはずもない。
下手をすれば、こちらが大怪我を負うことになるのだ。
近づけない。
パァァンッ!
尚も止まない火縄の音。
それが掠めたのか、牛たちが走りだした。
これが狙いか、そう思ったときには暴走する牛車は遠ざかって行く。
何人の忍たまが動けるのかわからない、だがとにかく全員に向かって指示を利吉が出した。
そうするべきは、本来は土井なのだろう。しかし彼はすでに椿が乗る牛車に向かって走り出していたのだ。
人の足で追いつくことは無謀だろう、それでも走り出さずにはいられない。
その気持ちを利吉は痛い程理解していた。
そしてその一歩を踏み出した彼に、自分が一つ及ばないことも同時に理解した。
突然暴走しだした車内、椿は何が起こったのかわからないでいた。
激しく揺れる車に、必死にしがみつくことしか出来ない。
外はどうなっているのか、皆は無事か、それを確かめることも今の彼女には困難であった。
車輪が大きく跳ねて、ガタガタと細かい揺れに変わる。
道を外れて砂利に入ってしまったのではないか、だが止まる気配がない。
牛が完全に我を失っているのだと、もう誰も近くにいないのだと、自分がどうなるかということよりも残されてしまった恐怖が椿を襲った。
このまま止まらなければ、何かの拍子に横倒しになってしまうかも知れない。
牛が急に方向を変えれば、木に激突してしまうかも知れない。
そんな恐怖に体が震えた。
誰か、助けて……!!
そう願った、脳裏に映る人物に、はっとした。
柔らかく笑う顔、いつも差し伸べてくれる手。
なんで、私……?
突然明るくなる車内、同時に聞こえた人の声。
「助けに来たよ。お姫様。」
思い描いた人物に期待を寄せて声の主を見上げる。
簾を上げ逆光を浴びながら涼しい顔のその人に、椿の想いは露と消えた。
「あ……ざ、っとさん……?」
何故彼がここにいるのかわからず、椿はここからの記憶を失った。
体が軽くなったかと思えば茂みの中を転がるような感覚。
衝撃や痛みなどは然程感じない、ただずっと暖かいものに包まれている感じだった。
雑渡が揺れる牛車の中から彼女を救い出してくれたのだ、ということだけは理解できた。
遠ざかりながら未だに止まることのない牛車。
その後ろ姿を呆然と見ながら、雑渡の腕の中で椿は息をひそめる。
自分が乗っていた車は、あちこちにぶつけたせいで大破していた。
もしも雑渡が来てくれなかったら、ゾッとする。
「……危ないところだった。」
そう言った彼の言葉に、椿は我に返ると抱きしめられる体を離すように見上げて問う。
「あの、どうして雑渡さんが……?」
周りには、つい先程まで一緒にいた面々が誰も見当たらない。
そしてこうして現れた雑渡、椿の頭が混乱している様子に雑渡は真面目な顔で答えた。
「何故って……君が窮地だったから。」
「それは、そうですけどっ、そうではなくて、」
いまいち核心を探れないこの男に椿が困った様子を見せる。
雑渡は少し意地悪な表情を浮かべながら、これも悪くないと密かに思った。
「椿」
「は、はい……!」
突然名を呼ばれて緊張が走る。
何せ、抱き寄せられた状態なのである。彼女は完全に離れるきっかけを逃してしまっていた。
こんなところを見られでもしたら……そう不安になる椿に構うことなど知らないように雑渡は顔を近づけた。
「!?……ざ、っとさ、んっ!」
目のやり場に困って瞳を伏せた。
息がかかる程の距離に男性がいて、それだけで意識してしまい顔が上気する。
が、彼の動きはそこまでだった。
「君は……月だ。」
「…………え?」
月、その言葉の意味が全くわからない。
真意を探るべく彼の顔を覗き込む。
「君が写すのはもう一つの真実。君が写しているものは何だ?それは今、どこにいる?」
「もう一つの……?どういう……?」
二人を遮るように聞こえた、遠くから彼女の名を呼ぶ声。
雑渡は名残惜しそうにため息をつくと、ここまでのようだと呟く。
椿は声の主を見た。
先程思い描いた人物、彼の登場に安心した表情を見せる。
「土井先生!」
「椿さん!」
無事な様子の彼女にほっと胸を撫で下ろすが、その体を支えている黒い男の姿を確認すると土井は顔をしかめた。
「……雑渡さん……!」
「……お早いお着きで。」
その顔は歓迎を意味していなかった。
しっかりと彼女の腰に巻かれた腕、体温が上昇するのを感じずにはいられない。
土井の顔つきが変わった。
彼の視線がずれたことで椿は今の状況を瞬時に思い出す。
雑渡に抱かれていることがとても恥ずかしくなり、それを土井に見られたということに打ちひしがれる。
引き離したくても体に力が入らない。
「そんなに睨まないでもらえるかな。君たちのお姫様を無事に救い出したのだから。」
「え?」
「あの、土井先生。本当なんです、危ないところを雑渡さんに助けて頂いただけで、これはその……ですから、」
「……椿さん」
土井がこちらへ来るようにと手を伸ばす。
彼の行動にほっとしたような嬉しいような、気持ちが先に走り出しそうだった。
抱きしめられた腕の力が緩められるのに気づいて雑渡を見上げる。
彼は目を細めながらふっと息を吐いて椿を解放する。
行きなさい。
言葉にはしなくともそう言ってくれたような気がして、彼女は軽く会釈をすると土井の元に駆け出した。
こちらに手を伸ばす彼女の姿に張り詰めた心が解けていく。
その華奢な手を取って引き寄せ、腕の中に椿を閉じ込めた。
彼女の柔らかな髪が頬をくすぐり、花のようなその香りに安心のため息を零した。
「すぐに助けられなくて、すまなかった。」
「いいえ、大丈夫です。土井先生、こうして来てくれたのですから。」
そうは言っても不安だったのだろう。
椿が土井に縋りつく力は強い。
不安だった。
作戦がどうだとか、敵がどうだとか、そんなことはどうでも良かった。
ただ彼女の安全が自分には最優先だった。
もう牛車の姿は見えない。
あちこちに散らばっている牛車の破片が、激しい衝撃だったことを物語っている。
改めて危険な目に遭わせてしまったことを詫びるように、自分自身の不安を慰めるように、土井は椿を強く抱いた。
「………………そろそろいいかね?」
気まずそうなその声に二人は顔を合わせると、状況を思い出したのかその近さに驚いたのか、顔を赤らめてお互いに慌てて体を離した。
その光景をずっと見せつけられていた雑渡は呆れたため息をつく。
「……雑渡さん、」
土井がその名を呼んだ。
敵意を隠せないその声色に、椿も土井を見上げて顔を窺う。
真っ直ぐに雑渡と見つめる彼の視線は厳しいものがあった。
「椿さんを助けてくれたことは感謝します。しかし突然現れたあなたに不信感が拭えない。尊奈門君が学園の周りをうろついていたこともそうです。考えたくはないが、ある仮説を立てなくてはならなくなってしまいます。」
土井から放たれた言葉に椿の胸はざわつく。
彼が何か良くない感情を抱いていることがわかる。そして不安になっていることも。
雑渡には良くしてもらった恩がある、だから彼らが対立することを椿は望んでいない。
嫌な予感がして雑渡を見つめた。
彼はそんなことを露程も思っていないように、涼しい顔をして土井の言葉を聞いていた。
閉じられた瞳は、全てを受け止めているようにも見える。
張り詰めた緊張を解いたのは、長い沈黙を保っていた雑渡だ。
「その仮説……というのは?」
「あなた方タソガレドキが、今回の襲撃に関わっている、いや、それ以上に何か大きな目的があって忍術学園を危機に陥れようとしている。……と、いうことです。」
雑渡の鋭い瞳が土井を捉える。
答えによってはこの場で衝突が起きかねない。
しかし、椿がいる場でそれができるのか?
願わくは、土井の仮説が外れていて欲しい。
雑渡と争うのは得策ではない。
彼女が緊張をしているのがわかる。
土井の着物をギュッと握りしめる様子に彼もまた、破裂しそうな感情をぐっと抑えられているようだった。
「流石は……土井先生だ。しかし尊奈門から聞いていなかったかな。我々は忍術学園と争う気はないんだよ。」
「では何故、邪魔をするようなことを?」
「これが邪魔だと、そう思っているのか?」
「……どういうことです?」
彼らの間を風が抜けて行く。
木々のさざめきが雑渡の言葉を攫ってしまいそうで、全てを語ろうとしない彼の性格を逃さぬように一瞬たりとも目を離すことが出来ない。
「……尊奈門を付けたのは役不足だったかな。」
「彼はどうしたんです?今日は姿が見えないようですが?」
「他人の心配より、自分たちの心配をしたらどうだ?」
「!」
僅かに雑渡の瞳が開かれた。
反射的に椿を隠すように土井が前へ出る。
足元の砂利が音を鳴らした。
「椿姫」
「……はい」
「君に言ったこと、よく考えてみることだ。君たちの相手が誰であるのかを見失ってはいけない。」
「雑渡さんっ」
声をかけた先にはもう、彼の姿はなかった。
疑問が残ってしまった、だが土井と雑渡の衝突が避けられたことに椿は少しだけ安堵する。
隣りに立つ彼もまた、緊張を解くように彼女の体をゆっくりと離す。
「……椿さん」
こちらを窺うような優しい声色、いつもの土井の声に安心する。
「雑渡さんが言っていたことというのは……?」
「それが……」
未だ謎は解けていない。
椿は雑渡が残した言葉を土井に伝えた。
”君は月だ。君が写しているものはなんだ?”
思い当たる節がないわけではない。
椿にとって月とは弟である隆光を写すもの。
月を見上げては彼を想い、彼の無事を願うもの。
しかしそのことを雑渡が知る由もない。
彼は椿のことを、食堂のおばちゃん見習いだとしか知らないはずだ。
だから何か……何か違う意味がある……。
考え込む椿を気にしながらも土井は周辺を見回す。
思えば暴走した牛によって、随分遠くまで来てしまったようだ。
襲われることは想定内だったので、こうなってしまったからといって作戦が失敗したわけではない。
だが、皆はどうなったのか。
怪我人はいないだろうか。
教師として生徒を守ることよりも、椿の身の安全を優先してしまった。
だがどれが正解かなんて、答えの出せるものじゃない。
生徒も椿も、どちらも同じくらい大切だった。
違うのは、忍たまたちと違って彼女が、一人で身を守ることが出来ないところ。
そして、自分にとって優先させるべき想いがあったということだ。
「椿さん、とりあえず皆のところへ行こう。何者かに襲われたんだ。怪我人が出ているかもしれない。」
土井の言葉に椿もはっとした表情を見せる。
「そうですね、皆が心配です。土井先生、戻りましょう。」
土井は表情険しく頷くと、自然に彼女に手を差し出した。
椿もそれに答えて手を重ねる。
二人が急ぎ走り出したその時、遠くから聞こえる知った声。
「土井先生!椿さん!」
「利吉君!」
こちらに向かってきたのは利吉と上級生数人。
互いに顔を合わせると一先ずは安心した顔を見せる。
「良かった、お二人ともご無事のようですね。」
「ああ、こちらは大事ない。そっちは?」
「はい、何発か火縄が鳴りましたが、ほとんど威嚇だったようで被害は少ないです。ただ牛車は全滅ですね。土井先生が追われた後、他の全ての牛が弾を受けたようで他方に散ってしまいました。」
「他のは目くらましであったから問題ないな。向かった先で被害がないことだけを願おう。それで、相手について何か情報は?」
妙に落ち着いて見える土井に、利吉は合点がいかない。
千姫の輿入れを狙ってくるのは差臼なはずだが、土井はそう明言しなかった。
「……まるで答えがわかっているような言い方ですね?」
「まあ、ね。」
「……大方の検討はついていますが……我々を襲ったのは差臼ではありません。それは……」
「「タソガレドキ」」
二人が同時にその名を口にする。
利吉の話では、小平太や留三郎など数人の忍たまが音の正体を突き止めようと飛び出した先で、タソガレドキ忍軍を目撃したと言うのだ。
牛に当たった数発の弾はともかくそれ以外はただの威嚇で被害が少なかったことも、忍術学園と争う気はないと言う尊奈門の言葉を納得させる。
では、何故タソガレドキが出て来たのだろうか?
差臼がタソガレドキと組んでいたということなのだろうか?
「現時点で、タソガレドキが差臼側についているという確証はありません。ですが現に現れたのはタソガレドキでした。そして、差臼の者らしき人物は現れていない。」
タソガレドキが千姫の牛車を襲った。
そこで土井はあることに気が付く。
千姫、差臼、戸津の考案した作戦、そして……椿。
様子のおかしい土井に利吉が声をかけた。
「土井先生?」
「これは……まずい……」
「椿さん、良かった無事で。」
彼女に声をかけたのは三郎と雷蔵だ。
利吉と共に椿を追ってきた二人はほっとした様子だった。
「心配かけてごめんね。皆は?他の子たちも大丈夫?」
「はい、幸い怪我人はいません。今、六年生の先輩方を中心にして隊列を組みなおしているところです。」
「そう……良かった。」
少し表情を軽くした椿に三郎は悔しさを滲ませる。
「……すみませんでした、襲撃されることはわかっていたのに、俺たちは動けなかった。椿さんを守ることが最優先だったはずなのに……」
「三郎……」
「三郎君、気にしないで。私はこうして無事だった、それだけで十分だよ。」
「十分なものか!あなたに何かあったら……そうでなくても俺たちは、椿さんを失うわけにいかないんだ。」
「三郎君……」
彼の優しさに触れるように、彼の自責の念を慰めるように、椿は三郎に手を伸ばした。
”君は月だ”
突然雑渡の言葉が蘇る。
はっとして手をとめた。
彼女の様子に雷蔵が顔を覗き込む。
椿が振り向いて目が合うと、彼女の顔色が悪い。
「椿さん、大丈夫ですか?顔色が……」
それに反応するように三郎が顔を上げた。
椿の様子を心配そうに見つめる雷蔵と三郎。
二人の顔を交互に見る。
”君が写すのはもう一つの真実。君が写しているものはなんだ?”
「……あ……」
まさか、そんな、嫌な予感が背筋を冷たく流れる。
手の震えを抑えながら彼らの呼び止めにも応じず、椿は土井の元へ駆け寄った。
「土井先生!」
「椿さん……?」
「大変です!千姫がっ!」
「!?」
「すぐに千姫の無事を確認してください!お願い!」
彼女がまさか、自分と同じ考えを口にするなんて思いもしなかった。
飛び出す言葉に驚きつつも、一つの仮説が当たってしまったのだと土井を絶望させた。
日の出と共に起きだす鳥たちのように、忍術学園の面々も支度を始める。
人数分の朝食を用意し終えた椿は、作法委員に呼ばれ食堂を後にした。
こんな時は彼女の代わりに下級生の子たちが食堂の手伝いをすることになっている。
慌ただしく去っていく彼女の後姿に、上級生たちはいよいよか…との思いで静かに朝食に手を付けた。
普段化粧をしない椿、その自然なままの肌に粉が叩かれ眉を整えられ、頬は薄く色づき鮮やかな紅が引かれる。
上質の着物に着替えさせられ、少し重みがあって動きにくいなと感じた。
しかし今日はただ綺麗になるだけではない。
千姫の身代わりを務めるのだ、差臼城の者を欺かなくてはならない。
千姫と椿は見た目はそっくりだと言った、だが一つ明らかに違っているところがある。
「髪……どうしよう?」
以前椿が自分で切り落とした髪、顎下の長さまでしかないそれは、千姫の腰まで届く豊かな髪を真似るには無理がある。
「心配いらない。ちゃんと手配はしてある。」
仙蔵はそう言うとある人物を招き入れた。
「……三郎君?」
部屋に入って来た三郎はどこか緊張したような、硬い表情を見せた。
椿が訳が分からずにいると隣りにいた兵太夫が、三郎が変装の名人で…と耳打ちしてきた。
それに納得して改めて彼を見上げる。何故か目が合わない。
「では三郎、仕上げを頼む。」
仙蔵の言葉に三郎は返事をして何かを取り出した。
目の前に広がったそれは、美しい艶を放つ長い髪の束だった。
「え、これ……」
戸惑う椿に断りをいれてから三郎は背後に回り込むと、あっと言う間にその髪の束を彼女の短い毛の中に忍ばせた。
櫛で撫でるように馴染ませると、まるで初めから椿の髪であるかのように自然な長い毛となってさらっと背中を流れている。
「ふむ、流石だな。」
仙蔵が満足そうに言った。
伝七が椿の目の前に鏡を引っ張り出して彼女の姿を写す。
一瞬、そこにいるのが自分だと理解できなかった椿だが、体を反転させるように何度も眺めると信じられないとため息を漏らした。
「お化粧も着物も、すごい……綺麗……」
「当たり前だ。今のお前は”輿入れをする姫君”なのだからな。それ相応の恰好をしてもらわなければならない。」
「そっか、そうだよね。うん、皆ありがとう。私頑張るよ。」
張りきったように言う彼女に作法委員の面々は笑顔を見せた。
ただ仙蔵だけは、少しだけ複雑な胸の内を隠せずに眉を寄せた。
「それに三郎君!この髪すごいね!ついてるのかわからないくらい自然だし軽いし!」
嬉しそうに振り返って椿は笑った。
彼女が動くたびに揺れる長い髪。
この姿こそが椿の本来の姿であるだろうに。
忍術学園の食堂のおばちゃん見習いに慣れてきたからと言って、それまでに彼女が失った多くのものを思えば必ずしも良かったとは言えない。
「色だって同じだし、私ちょっと茶色っぽいのにわからないくらい自然!三郎君、変装が得意だからこういうのも作ったりするんだね。」
「そりゃあ……まあ……」
確かに変装道具として付け毛を作ったこともある。
自分が今、雷蔵の恰好をしているこの髪だってそうだ。
椿の髪色を再現することなんて、できるに決まっているじゃないか。
いつも、見ているのだから……
彼女が姫君の身代わりになるとは聞いていた。
そのために上質の着物を身に着け、姫に似せるために髪の毛を伸ばす必要があることも仙蔵から聞いていた。
自分が役に立てるならと、引き受けた仕事であったのだが、実際に椿の綺麗になった姿を目の当たりにすると直視できなかった。
何故か彼女が、本当にどこかへ行ってしまうのではないかと思ってしまったからだ。
そうじゃないのに、必ず帰ってくるのに、まるでどこかに送り出さなくてはならない気持ちに襲われて、いつものように話すこともできなかった。
いつもと違う長い髪のせいかも知れない、今の椿は、本当に……
「……綺麗だ……」
そう呟くと彼女は頬を染めて笑った。
「ありがとう、三郎君。」
足場の安定した街道をその団体は通っていた。
見通しの良い開けた場所、農作業をする村人誰もが振り向く程に目立つ存在。
中心になるのは派手な牛車だ。
それも数台の牛車が連なっている様を見て、ああ、あの数は嫁入り道具でも積んでいるのだろうと誰かが漏らした。
「それにしても……花嫁様はどれに乗っているんだ?」
行列の最後尾にいた雷蔵はそんな言葉にちらりと後ろを振り返った。
同じような装飾の牛車が並ぶ様は、どれに姫君が乗っているか傍目からはわからないらしい。
少し異様なこの並びは、言わば椿を隠すための偽装である。
仮に差臼が立ち塞がったとして、彼女までその手が届くのを遅らせる目的があった。
「一先ずは、それが効いているらしい。」
「そのようだ。相手が一斉に牛車を襲わない限り、椿さんの車を見極めるのは困難なはず。」
「余程強運の持ち主でもないことを祈るけどな。」
雷蔵の言葉に三郎と八左ヱ門が答えた。
「こっちは人数がいるけど、本物の方は大丈夫かな。」
本物というのは、千姫のことだ。
こちらの派手な行列とは違い、裏の道を通って堀殻へ向かう千姫の方は馬印堂の戸津、井頭、梨栗に、六年五年のい組だけという少人数だった。
優秀ない組の面子が揃っているのだから心配は少ない。それに、
「向こうの存在は、知る由もないはずだからな。」
差臼がこの中に千姫がいないことを知るはずがない。
だから必ずこちらの餌に喰いつくだろう。
「あの、先輩。」
前を歩いていた守一郎が振り向いて八左ヱ門たちに問う。
「なぜ、椿さんが乗る必要があったのでしょうか?囮というだけなら中が空であっても良かったのでは、と思うのですが?」
「仮に中に姫がいなかった場合、差臼はどうすると思う?」
「えと…」
「これは囮である、本物は別行動を取っている。そう考えるんじゃないかな。」
「そう、そして探し回るだろう。堀殻の手前で待ち伏せするかも知れない。そうすると本物の千姫が囚われる可能性はグッと高まる。」
「万が一椿さんが差臼に捕まってしまっても、差臼は彼女を本物と勘違いしているのだから改めて探し回ることを必要としない。つまり、我々の忍務である”千姫を無事に堀殻へ送り届けろ”を成し遂げることが出来るのさ。」
「……椿さんは、差臼に囚われることも覚悟の上でこの中にいるんだ。」
そう口にした三郎は固く拳を握った。
雷蔵が心配そうに三郎を見る。
「だから僕たちは、差臼を引き付けつつ椿さんを守らなければならないんだ。」
「……なるほど。」
本物の千姫を守るために、椿に危険を強いることになる。
彼女自身が望んだとは言え、あまりにも酷な話だ。
狙われるための囮作戦、牛車で行動するという圧倒的不利な状況で、彼女が外に出ることがないようにと願わずにはいられない。
揺れる牛車に目を配りながら周囲への警戒も怠らない。
前にも後ろにも忍たまの見知った顔が揃っていた。
そう張り詰めた空気を出している利吉に、土井は軽く声をかけた。
「少し気張り過ぎじゃないかい?利吉君。」
「そうは言いますけどね、土井先生……」
「まあ、わからなくもないけどね。だけど逆に相手を刺激することになるから。」
椿が乗る牛車を見つめながら土井は言った。
千姫が乗って来たこの牛車、今は椿が中にいるのだ。
土井は先程見た彼女の姿を思い返した。
見たこともないような綺麗な着物、施された化粧は彼女をより美しく見せた。
そして三郎によって蘇った長い髪、忍術学園へ来た当初の椿を思い出させた。
彼女はあの綺麗な髪を自ら切り落とし、”竹森椿としての死”を選んだ。
だからもう、彼女はただの、食堂のおばちゃん見習いになったはずなのに。
どうしてこうも危険な道に進んでしまうのか。
そう思うだけで胃の痛みを思い出さずにはいられない。
願わくば、これ以上椿が傷つくことのないようにと、今は側にいる自分が守るしかない。
「……土井先生こそ、難しい顔しないほうがよろしいのではないですか?」
「……え?あ、ああ、そんな顔してた?」
利吉が呆れたような視線を寄越した。
へらっと見せるその笑顔に、彼が無理をしていることは明白だった。
ふーっと鼻で息を吐くと、牛車の物見が開いて控えめな声が聞こえた。
「あの、皆さんお疲れではないですか?少し休まれても?」
椿が目だけを見せてそう言った。
土井と利吉の会話が聞こえて心配になったのだろう、だがそれには及ばないと土井が答える。
「私だけ乗せて頂いて、申し訳ないです。」
「何を言うのですか、今の椿さんは姫君なのですから、そのままでいてください。」
「ええ、私たちなら大丈夫ですよ。」
「……そうですか。あの、無理だけはしないでください。忍たまの皆も。」
確かに少し長い道のりを歩いてきた。
自分たちもそうだが、忍たまたちの体力も考えなくてはならない。
もしこの後、差臼が出てくるようならば、体力はある程度温存しておいた方がいいだろう。
土井の脳裏に尊奈門の姿が浮かんだ。
彼のことは心配しなくても大丈夫だろうとは思う。ただ、昨夜言ったようにもしもの時は、力を借りたい。
人が多くてその気配を探ることは困難だが、恐らくどこかで見ているに違いない。
一行は徐々に木が生い茂る森の中へと歩を進める。
すれ違う人も少なく、すぐ側の茂みから何かが飛び出してくかもわからない。
緊張感が一気に増す。
それは後ろを歩く忍たまたちも同じようで、土井は各先生方の教えが生きているなと感じた。
「仕掛けてくるとしたら、ここだと思うのですが……」
利吉の言葉に静かに頷いた。
この長い森の終わりは開けた川辺だ。
それを考慮すると、奇襲をかけられるのはここ。
だが、待てども何も起こらない。
こちらが緊張で疲れてしまいそうだった。
おまけに湿気があってなんだか蒸し暑い。
森の中で日陰であるはずなのに汗が肌に張り付いてベタベタと不快だった。
牛車の中の彼女は一層辛いだろう。
土井がそう思い声をかけようとした、その時だった。
パァァンッ!!
空気を切り裂くような破裂音。
木に潜んでいたであろう無数の鳥が一斉に飛び立つ。
思わず身をかがめた。
こんな狭いところで火縄を撃つとは……!
音の出処を確かめようとしたが、それは叶わなかった。
火縄の音は一発で終わらない。
パァァンッ!
パァァンッ!
続けて鳴る破裂音に、思うように体が動かせない。
後続の忍たまたちにも牛車の後ろに身を隠すよう指示した。
このままではまずい……!
そう思ったのもつかの間、今度は牛車を引く牛が暴れだした。
どうにか鎮めようと縄を短く持つが、巨体相手に人間の力など及ぶはずもない。
彼女を守らなくては……!
その想いから牛車に土井はしがみついた。が、暴れる牛の動きに翻弄されて振り落とされてしまった。
「っ!」
地面に叩きつけられ体を打ち付けたが、受け身を取って最低限の負傷に留める。
それよりも、中の椿は大丈夫だろうか。
暴れる牛の力によって牛車自体も大きく揺れているに違いない。
早く、外に連れ出さないと!
「鎮めるんだ!早く!」
そう忍たまたちに言うが、暴れる巨体を宥められる者などいるはずもない。
下手をすれば、こちらが大怪我を負うことになるのだ。
近づけない。
パァァンッ!
尚も止まない火縄の音。
それが掠めたのか、牛たちが走りだした。
これが狙いか、そう思ったときには暴走する牛車は遠ざかって行く。
何人の忍たまが動けるのかわからない、だがとにかく全員に向かって指示を利吉が出した。
そうするべきは、本来は土井なのだろう。しかし彼はすでに椿が乗る牛車に向かって走り出していたのだ。
人の足で追いつくことは無謀だろう、それでも走り出さずにはいられない。
その気持ちを利吉は痛い程理解していた。
そしてその一歩を踏み出した彼に、自分が一つ及ばないことも同時に理解した。
突然暴走しだした車内、椿は何が起こったのかわからないでいた。
激しく揺れる車に、必死にしがみつくことしか出来ない。
外はどうなっているのか、皆は無事か、それを確かめることも今の彼女には困難であった。
車輪が大きく跳ねて、ガタガタと細かい揺れに変わる。
道を外れて砂利に入ってしまったのではないか、だが止まる気配がない。
牛が完全に我を失っているのだと、もう誰も近くにいないのだと、自分がどうなるかということよりも残されてしまった恐怖が椿を襲った。
このまま止まらなければ、何かの拍子に横倒しになってしまうかも知れない。
牛が急に方向を変えれば、木に激突してしまうかも知れない。
そんな恐怖に体が震えた。
誰か、助けて……!!
そう願った、脳裏に映る人物に、はっとした。
柔らかく笑う顔、いつも差し伸べてくれる手。
なんで、私……?
突然明るくなる車内、同時に聞こえた人の声。
「助けに来たよ。お姫様。」
思い描いた人物に期待を寄せて声の主を見上げる。
簾を上げ逆光を浴びながら涼しい顔のその人に、椿の想いは露と消えた。
「あ……ざ、っとさん……?」
何故彼がここにいるのかわからず、椿はここからの記憶を失った。
体が軽くなったかと思えば茂みの中を転がるような感覚。
衝撃や痛みなどは然程感じない、ただずっと暖かいものに包まれている感じだった。
雑渡が揺れる牛車の中から彼女を救い出してくれたのだ、ということだけは理解できた。
遠ざかりながら未だに止まることのない牛車。
その後ろ姿を呆然と見ながら、雑渡の腕の中で椿は息をひそめる。
自分が乗っていた車は、あちこちにぶつけたせいで大破していた。
もしも雑渡が来てくれなかったら、ゾッとする。
「……危ないところだった。」
そう言った彼の言葉に、椿は我に返ると抱きしめられる体を離すように見上げて問う。
「あの、どうして雑渡さんが……?」
周りには、つい先程まで一緒にいた面々が誰も見当たらない。
そしてこうして現れた雑渡、椿の頭が混乱している様子に雑渡は真面目な顔で答えた。
「何故って……君が窮地だったから。」
「それは、そうですけどっ、そうではなくて、」
いまいち核心を探れないこの男に椿が困った様子を見せる。
雑渡は少し意地悪な表情を浮かべながら、これも悪くないと密かに思った。
「椿」
「は、はい……!」
突然名を呼ばれて緊張が走る。
何せ、抱き寄せられた状態なのである。彼女は完全に離れるきっかけを逃してしまっていた。
こんなところを見られでもしたら……そう不安になる椿に構うことなど知らないように雑渡は顔を近づけた。
「!?……ざ、っとさ、んっ!」
目のやり場に困って瞳を伏せた。
息がかかる程の距離に男性がいて、それだけで意識してしまい顔が上気する。
が、彼の動きはそこまでだった。
「君は……月だ。」
「…………え?」
月、その言葉の意味が全くわからない。
真意を探るべく彼の顔を覗き込む。
「君が写すのはもう一つの真実。君が写しているものは何だ?それは今、どこにいる?」
「もう一つの……?どういう……?」
二人を遮るように聞こえた、遠くから彼女の名を呼ぶ声。
雑渡は名残惜しそうにため息をつくと、ここまでのようだと呟く。
椿は声の主を見た。
先程思い描いた人物、彼の登場に安心した表情を見せる。
「土井先生!」
「椿さん!」
無事な様子の彼女にほっと胸を撫で下ろすが、その体を支えている黒い男の姿を確認すると土井は顔をしかめた。
「……雑渡さん……!」
「……お早いお着きで。」
その顔は歓迎を意味していなかった。
しっかりと彼女の腰に巻かれた腕、体温が上昇するのを感じずにはいられない。
土井の顔つきが変わった。
彼の視線がずれたことで椿は今の状況を瞬時に思い出す。
雑渡に抱かれていることがとても恥ずかしくなり、それを土井に見られたということに打ちひしがれる。
引き離したくても体に力が入らない。
「そんなに睨まないでもらえるかな。君たちのお姫様を無事に救い出したのだから。」
「え?」
「あの、土井先生。本当なんです、危ないところを雑渡さんに助けて頂いただけで、これはその……ですから、」
「……椿さん」
土井がこちらへ来るようにと手を伸ばす。
彼の行動にほっとしたような嬉しいような、気持ちが先に走り出しそうだった。
抱きしめられた腕の力が緩められるのに気づいて雑渡を見上げる。
彼は目を細めながらふっと息を吐いて椿を解放する。
行きなさい。
言葉にはしなくともそう言ってくれたような気がして、彼女は軽く会釈をすると土井の元に駆け出した。
こちらに手を伸ばす彼女の姿に張り詰めた心が解けていく。
その華奢な手を取って引き寄せ、腕の中に椿を閉じ込めた。
彼女の柔らかな髪が頬をくすぐり、花のようなその香りに安心のため息を零した。
「すぐに助けられなくて、すまなかった。」
「いいえ、大丈夫です。土井先生、こうして来てくれたのですから。」
そうは言っても不安だったのだろう。
椿が土井に縋りつく力は強い。
不安だった。
作戦がどうだとか、敵がどうだとか、そんなことはどうでも良かった。
ただ彼女の安全が自分には最優先だった。
もう牛車の姿は見えない。
あちこちに散らばっている牛車の破片が、激しい衝撃だったことを物語っている。
改めて危険な目に遭わせてしまったことを詫びるように、自分自身の不安を慰めるように、土井は椿を強く抱いた。
「………………そろそろいいかね?」
気まずそうなその声に二人は顔を合わせると、状況を思い出したのかその近さに驚いたのか、顔を赤らめてお互いに慌てて体を離した。
その光景をずっと見せつけられていた雑渡は呆れたため息をつく。
「……雑渡さん、」
土井がその名を呼んだ。
敵意を隠せないその声色に、椿も土井を見上げて顔を窺う。
真っ直ぐに雑渡と見つめる彼の視線は厳しいものがあった。
「椿さんを助けてくれたことは感謝します。しかし突然現れたあなたに不信感が拭えない。尊奈門君が学園の周りをうろついていたこともそうです。考えたくはないが、ある仮説を立てなくてはならなくなってしまいます。」
土井から放たれた言葉に椿の胸はざわつく。
彼が何か良くない感情を抱いていることがわかる。そして不安になっていることも。
雑渡には良くしてもらった恩がある、だから彼らが対立することを椿は望んでいない。
嫌な予感がして雑渡を見つめた。
彼はそんなことを露程も思っていないように、涼しい顔をして土井の言葉を聞いていた。
閉じられた瞳は、全てを受け止めているようにも見える。
張り詰めた緊張を解いたのは、長い沈黙を保っていた雑渡だ。
「その仮説……というのは?」
「あなた方タソガレドキが、今回の襲撃に関わっている、いや、それ以上に何か大きな目的があって忍術学園を危機に陥れようとしている。……と、いうことです。」
雑渡の鋭い瞳が土井を捉える。
答えによってはこの場で衝突が起きかねない。
しかし、椿がいる場でそれができるのか?
願わくは、土井の仮説が外れていて欲しい。
雑渡と争うのは得策ではない。
彼女が緊張をしているのがわかる。
土井の着物をギュッと握りしめる様子に彼もまた、破裂しそうな感情をぐっと抑えられているようだった。
「流石は……土井先生だ。しかし尊奈門から聞いていなかったかな。我々は忍術学園と争う気はないんだよ。」
「では何故、邪魔をするようなことを?」
「これが邪魔だと、そう思っているのか?」
「……どういうことです?」
彼らの間を風が抜けて行く。
木々のさざめきが雑渡の言葉を攫ってしまいそうで、全てを語ろうとしない彼の性格を逃さぬように一瞬たりとも目を離すことが出来ない。
「……尊奈門を付けたのは役不足だったかな。」
「彼はどうしたんです?今日は姿が見えないようですが?」
「他人の心配より、自分たちの心配をしたらどうだ?」
「!」
僅かに雑渡の瞳が開かれた。
反射的に椿を隠すように土井が前へ出る。
足元の砂利が音を鳴らした。
「椿姫」
「……はい」
「君に言ったこと、よく考えてみることだ。君たちの相手が誰であるのかを見失ってはいけない。」
「雑渡さんっ」
声をかけた先にはもう、彼の姿はなかった。
疑問が残ってしまった、だが土井と雑渡の衝突が避けられたことに椿は少しだけ安堵する。
隣りに立つ彼もまた、緊張を解くように彼女の体をゆっくりと離す。
「……椿さん」
こちらを窺うような優しい声色、いつもの土井の声に安心する。
「雑渡さんが言っていたことというのは……?」
「それが……」
未だ謎は解けていない。
椿は雑渡が残した言葉を土井に伝えた。
”君は月だ。君が写しているものはなんだ?”
思い当たる節がないわけではない。
椿にとって月とは弟である隆光を写すもの。
月を見上げては彼を想い、彼の無事を願うもの。
しかしそのことを雑渡が知る由もない。
彼は椿のことを、食堂のおばちゃん見習いだとしか知らないはずだ。
だから何か……何か違う意味がある……。
考え込む椿を気にしながらも土井は周辺を見回す。
思えば暴走した牛によって、随分遠くまで来てしまったようだ。
襲われることは想定内だったので、こうなってしまったからといって作戦が失敗したわけではない。
だが、皆はどうなったのか。
怪我人はいないだろうか。
教師として生徒を守ることよりも、椿の身の安全を優先してしまった。
だがどれが正解かなんて、答えの出せるものじゃない。
生徒も椿も、どちらも同じくらい大切だった。
違うのは、忍たまたちと違って彼女が、一人で身を守ることが出来ないところ。
そして、自分にとって優先させるべき想いがあったということだ。
「椿さん、とりあえず皆のところへ行こう。何者かに襲われたんだ。怪我人が出ているかもしれない。」
土井の言葉に椿もはっとした表情を見せる。
「そうですね、皆が心配です。土井先生、戻りましょう。」
土井は表情険しく頷くと、自然に彼女に手を差し出した。
椿もそれに答えて手を重ねる。
二人が急ぎ走り出したその時、遠くから聞こえる知った声。
「土井先生!椿さん!」
「利吉君!」
こちらに向かってきたのは利吉と上級生数人。
互いに顔を合わせると一先ずは安心した顔を見せる。
「良かった、お二人ともご無事のようですね。」
「ああ、こちらは大事ない。そっちは?」
「はい、何発か火縄が鳴りましたが、ほとんど威嚇だったようで被害は少ないです。ただ牛車は全滅ですね。土井先生が追われた後、他の全ての牛が弾を受けたようで他方に散ってしまいました。」
「他のは目くらましであったから問題ないな。向かった先で被害がないことだけを願おう。それで、相手について何か情報は?」
妙に落ち着いて見える土井に、利吉は合点がいかない。
千姫の輿入れを狙ってくるのは差臼なはずだが、土井はそう明言しなかった。
「……まるで答えがわかっているような言い方ですね?」
「まあ、ね。」
「……大方の検討はついていますが……我々を襲ったのは差臼ではありません。それは……」
「「タソガレドキ」」
二人が同時にその名を口にする。
利吉の話では、小平太や留三郎など数人の忍たまが音の正体を突き止めようと飛び出した先で、タソガレドキ忍軍を目撃したと言うのだ。
牛に当たった数発の弾はともかくそれ以外はただの威嚇で被害が少なかったことも、忍術学園と争う気はないと言う尊奈門の言葉を納得させる。
では、何故タソガレドキが出て来たのだろうか?
差臼がタソガレドキと組んでいたということなのだろうか?
「現時点で、タソガレドキが差臼側についているという確証はありません。ですが現に現れたのはタソガレドキでした。そして、差臼の者らしき人物は現れていない。」
タソガレドキが千姫の牛車を襲った。
そこで土井はあることに気が付く。
千姫、差臼、戸津の考案した作戦、そして……椿。
様子のおかしい土井に利吉が声をかけた。
「土井先生?」
「これは……まずい……」
「椿さん、良かった無事で。」
彼女に声をかけたのは三郎と雷蔵だ。
利吉と共に椿を追ってきた二人はほっとした様子だった。
「心配かけてごめんね。皆は?他の子たちも大丈夫?」
「はい、幸い怪我人はいません。今、六年生の先輩方を中心にして隊列を組みなおしているところです。」
「そう……良かった。」
少し表情を軽くした椿に三郎は悔しさを滲ませる。
「……すみませんでした、襲撃されることはわかっていたのに、俺たちは動けなかった。椿さんを守ることが最優先だったはずなのに……」
「三郎……」
「三郎君、気にしないで。私はこうして無事だった、それだけで十分だよ。」
「十分なものか!あなたに何かあったら……そうでなくても俺たちは、椿さんを失うわけにいかないんだ。」
「三郎君……」
彼の優しさに触れるように、彼の自責の念を慰めるように、椿は三郎に手を伸ばした。
”君は月だ”
突然雑渡の言葉が蘇る。
はっとして手をとめた。
彼女の様子に雷蔵が顔を覗き込む。
椿が振り向いて目が合うと、彼女の顔色が悪い。
「椿さん、大丈夫ですか?顔色が……」
それに反応するように三郎が顔を上げた。
椿の様子を心配そうに見つめる雷蔵と三郎。
二人の顔を交互に見る。
”君が写すのはもう一つの真実。君が写しているものはなんだ?”
「……あ……」
まさか、そんな、嫌な予感が背筋を冷たく流れる。
手の震えを抑えながら彼らの呼び止めにも応じず、椿は土井の元へ駆け寄った。
「土井先生!」
「椿さん……?」
「大変です!千姫がっ!」
「!?」
「すぐに千姫の無事を確認してください!お願い!」
彼女がまさか、自分と同じ考えを口にするなんて思いもしなかった。
飛び出す言葉に驚きつつも、一つの仮説が当たってしまったのだと土井を絶望させた。