一章
あなたのお名前は?
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知った顔などいない。
知った風景もない。
その瞬間に自分だけが異質な存在であるかのように感じる。
いや、存在していいものかすらもわからない。
自分は何者であったのか、考える頭は捨てていた。
ただあの方を救いたい、自分に残ったのはそんな感情でしかない。
生きる理由はただそれだけ。
あの方のために。
あの方のために。
そのために自分は地に足をつける。
この世界で生きて来て、己を殺すという意味をこれ程までに感じたことなどなかった。
潮の香りが近く、足を運べば大きな港が眼前に広がる。
船の出入りが盛んに行われており大型のそれから小型のものまで様々だ。
その規模から商業が発展していること、人の多さから町の大きさも推測される。
他所からやってきた者は他にはない賑わいに圧倒されるであろう。
市があった、とても大きな市だ。
景気の良い呼び声に誘われて興味を持って見回したなら、目に入るのは鮮やかな色の反物、履物、または細部まで美しく彫られた櫛、見たこともない外来の品々。
女たちがその美しさに魅せられて群がる。
反対側を見れば港町ならではの魚介が顔を並べている。
景気の良い声が辺りに響き、こちらもまた人を寄せ集める。
店先で炭火を起こせばその香りが鼻を刺激し、道行く人の足を鈍らせる。
行き交う人々は皆明るい顔で買い物や世間話に花を咲かせる。
一見して何事もない平和な日常そのものに見えるその風景も、案外上辺だけのものだったりするもので。
すれ違う町人たちは、どこどこの城が戦を仕掛けそうだの、どこどこの城はついに姫君を人質にするつもりらしいだの、聴こえてくる会話はとても風景に似つかわしくない。
その中を男は足早に歩いていた。
小柄な男だった。歳の頃はまだ若い。
笠を深く被っているため、その表情は伺うことはできないが真一文字に結ばれた口元からは品のある顔立ちを想像をさせられる。
線が細く、どこか頼りなさそうに見えるがそれでも堂々と歩く様はすれ違う女たちの興味を引く。
男が歩くたびに揺れる漆黒の髷は綺麗に揃えられ、より一層の期待を持たらされた。
男は視線を送る女たちには目もくれず、並び揃う商品にも興味がないように、人の群れを掻き分けながらその場所を目指していた。
賑わう表通りを抜けて裏の道に入ると、途端に人の声はなくなる。
狭い通りはすれ違う人間もいない。
縄張りに入られた猫の集団が、その開かれた眼をこちらに向けて警戒を顕にする。
物が積まれて少し埃臭い路地に男の目的はあった。
日陰になっていて恐らく誰も気にもしないであろう場所に座っている人物がいた。
ほつれや汚れの目立つ着物を着たその男、同じく笠を被り口元まで布で覆っている。
若い男はその前まで来ると立ち止まり男を見下ろした。
「………客か?」
座っている男が身動きせずに声をかけた。
客かと問う割には座っている男の周りに商品らしきものは何一つない。
恐らくそれを見た者は、ここが店であるとも思わないであろう。
若い男は懐に手を忍ばせると、取り出したのは桐で作られた九寸程の細長い箱。
「これで頼む。」
差し出されたそれを受け取り中を確認した店の男は、一瞬目を見開いてこちらを見上げた。
店の男と初めて目が合う。
その浅黒い肌に鋭く光る眼、いくつもの危ない橋を渡ってきたかのように刻まれた皺が経験を物語る。
噂通り、申し分ない。
若い男は密かにそう思った。
「……兄さん、随分いい物持ってるじゃないか。どこで手に入れた?」
「形見だ。」
男の問いに若い男は表情を変えることなく淡々と答える。
その顔には感情の一つも感じられない。
「形見だぁ!?そんな大層な物、手放していいのかい?」
顔を隠した男は驚いたらしく目を見開いて声を上げた。
若い男により興味を持ったが、その本人は投げやりな返答をする。
「どうせ、血の繋がりなどない。それに私の物ではない。」
形見だと言うのに自分の物ではないから手放すと言う若い男に、冷酷さを感じざるを得ない。
では誰の形見だと言うのか……
「………」
「………」
「……まあ、いい。こちらは物さえ貰えればいいからな。あとは任せてもらおう。追って連絡する。」
気に入った。
そのくらいの心持ちでなければこの世界を生きては行けまい。
店の男は隠した口元で笑う。
「…………」
その言葉を聞いた若い男は笠に手をかけると小さく頷いてその場を去った。
後ろ姿をじっと見つめる店の男は桐の箱を懐にしまう。
「……上手く化けるものだな…」
声は誰にも届かずに消えた。
今しがたここに男が二人居たことなど、誰も知らない。知る由もない。
残されたものなど何もない。
静かになったその場所は、いつも通り猫の集団が欠伸をしながら寝転がっていた。
知った風景もない。
その瞬間に自分だけが異質な存在であるかのように感じる。
いや、存在していいものかすらもわからない。
自分は何者であったのか、考える頭は捨てていた。
ただあの方を救いたい、自分に残ったのはそんな感情でしかない。
生きる理由はただそれだけ。
あの方のために。
あの方のために。
そのために自分は地に足をつける。
この世界で生きて来て、己を殺すという意味をこれ程までに感じたことなどなかった。
潮の香りが近く、足を運べば大きな港が眼前に広がる。
船の出入りが盛んに行われており大型のそれから小型のものまで様々だ。
その規模から商業が発展していること、人の多さから町の大きさも推測される。
他所からやってきた者は他にはない賑わいに圧倒されるであろう。
市があった、とても大きな市だ。
景気の良い呼び声に誘われて興味を持って見回したなら、目に入るのは鮮やかな色の反物、履物、または細部まで美しく彫られた櫛、見たこともない外来の品々。
女たちがその美しさに魅せられて群がる。
反対側を見れば港町ならではの魚介が顔を並べている。
景気の良い声が辺りに響き、こちらもまた人を寄せ集める。
店先で炭火を起こせばその香りが鼻を刺激し、道行く人の足を鈍らせる。
行き交う人々は皆明るい顔で買い物や世間話に花を咲かせる。
一見して何事もない平和な日常そのものに見えるその風景も、案外上辺だけのものだったりするもので。
すれ違う町人たちは、どこどこの城が戦を仕掛けそうだの、どこどこの城はついに姫君を人質にするつもりらしいだの、聴こえてくる会話はとても風景に似つかわしくない。
その中を男は足早に歩いていた。
小柄な男だった。歳の頃はまだ若い。
笠を深く被っているため、その表情は伺うことはできないが真一文字に結ばれた口元からは品のある顔立ちを想像をさせられる。
線が細く、どこか頼りなさそうに見えるがそれでも堂々と歩く様はすれ違う女たちの興味を引く。
男が歩くたびに揺れる漆黒の髷は綺麗に揃えられ、より一層の期待を持たらされた。
男は視線を送る女たちには目もくれず、並び揃う商品にも興味がないように、人の群れを掻き分けながらその場所を目指していた。
賑わう表通りを抜けて裏の道に入ると、途端に人の声はなくなる。
狭い通りはすれ違う人間もいない。
縄張りに入られた猫の集団が、その開かれた眼をこちらに向けて警戒を顕にする。
物が積まれて少し埃臭い路地に男の目的はあった。
日陰になっていて恐らく誰も気にもしないであろう場所に座っている人物がいた。
ほつれや汚れの目立つ着物を着たその男、同じく笠を被り口元まで布で覆っている。
若い男はその前まで来ると立ち止まり男を見下ろした。
「………客か?」
座っている男が身動きせずに声をかけた。
客かと問う割には座っている男の周りに商品らしきものは何一つない。
恐らくそれを見た者は、ここが店であるとも思わないであろう。
若い男は懐に手を忍ばせると、取り出したのは桐で作られた九寸程の細長い箱。
「これで頼む。」
差し出されたそれを受け取り中を確認した店の男は、一瞬目を見開いてこちらを見上げた。
店の男と初めて目が合う。
その浅黒い肌に鋭く光る眼、いくつもの危ない橋を渡ってきたかのように刻まれた皺が経験を物語る。
噂通り、申し分ない。
若い男は密かにそう思った。
「……兄さん、随分いい物持ってるじゃないか。どこで手に入れた?」
「形見だ。」
男の問いに若い男は表情を変えることなく淡々と答える。
その顔には感情の一つも感じられない。
「形見だぁ!?そんな大層な物、手放していいのかい?」
顔を隠した男は驚いたらしく目を見開いて声を上げた。
若い男により興味を持ったが、その本人は投げやりな返答をする。
「どうせ、血の繋がりなどない。それに私の物ではない。」
形見だと言うのに自分の物ではないから手放すと言う若い男に、冷酷さを感じざるを得ない。
では誰の形見だと言うのか……
「………」
「………」
「……まあ、いい。こちらは物さえ貰えればいいからな。あとは任せてもらおう。追って連絡する。」
気に入った。
そのくらいの心持ちでなければこの世界を生きては行けまい。
店の男は隠した口元で笑う。
「…………」
その言葉を聞いた若い男は笠に手をかけると小さく頷いてその場を去った。
後ろ姿をじっと見つめる店の男は桐の箱を懐にしまう。
「……上手く化けるものだな…」
声は誰にも届かずに消えた。
今しがたここに男が二人居たことなど、誰も知らない。知る由もない。
残されたものなど何もない。
静かになったその場所は、いつも通り猫の集団が欠伸をしながら寝転がっていた。
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