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あなたのお名前は?
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その花を見るたびに思い出す。
遠い日の記憶。
忘れようとも忘れられないのは、唯一無二の存在だったから。
花のように咲く笑顔が、声が、自分に向けられていたあの時。
私は、初めて、知ったのだ。
あの日の君に贈る言葉
虎若と三木ヱ門に火縄銃の稽古をつけるのも何度目のことだろうか。
忍術学園を訪れていた照星は、午後の授業が終わった瞬間に虎若に捕まり、遅れてきた三木ヱ門にも同様に後を追われる。
前もって手紙で知らせていたこともあって二人は焦がれたような瞳をこちらに向けていた。
照星は自分が尊敬されているということよりも、二人がこうして自主的に学ぼうとする姿勢は良いものだと感じていた。
教える側も指導に熱が入るし、何より本人たちの姿勢が力となって伸びやすい。
「三木ヱ門、弾が右に逸れがちだ。気持ち左に照準を合わせろ。」
「はい!」
「若太夫、肩に力が入りすぎている。焦らず気持ちを落ち着かせろ。」
「はい!」
辺り一帯に響く破裂音、漂う硝煙の香り。
この香りは自分を落ち着かせる。
なんてことも言葉に出したことがあった気がした。
目の前にいるこの二人はそう感じることがあるだろうか。
真剣な眼差しと休むことなく続く稽古。
少なくとも火縄銃が好きな気持ちは伝わってくる。
照星は顔や態度に出さなくても、虎若と三木ヱ門のことを認めていた。
指導の最中、人の気配に気付き二人に声をかける。
二人が手を止め照星の視線を追うと現れたのは一年生の乱太郎と知らない顔の若い女。
「乱太郎と、椿さん」
三木ヱ門がそう呼んだ。
忍たまたちは知っている顔のようだった。
「どうしたの?乱太郎」
「虎若、田村先輩。椿さんが二人の練習を見たいと仰るものだから、ご案内して来ました。」
「お邪魔でなければ見せてもらってもいいかな?」
「ええ、それはもちろん…」
虎若がそう言いかけて照星に目を向けると、思い出したようにはっとした顔をする。
「あ、照星さん、こちらは椿さんです。食堂のおばちゃん見習いさんです。椿さん、こちらは照星さんです。僕のお師匠さんです!」
「虎若、私のお師匠さんでもあるんだぞ。」
三木ヱ門と虎若が小さなことで言い争うのを無視するように照星は椿に声をかけた。
「椿……と言うのか。」
「はい。食堂で働かせて頂いております。」
「そうか…」
「あの、見学させて貰ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない。」
安心したように乱太郎と笑い合う彼女。
その名前、何故だか胸に引っかかる。
昔、どこかで聞いたような…
それが何なのか思い出せない。
椿とは初対面なはずなのに、大事なものを忘れているかのような感覚に陥る。
椿と乱太郎という観客がいるせいか、張り切ったように準備をする虎若。
三木ヱ門も満更でもない様子で椿に説明をしていた。
火薬と弾丸を詰めた虎若が、火縄に点火をして構えの姿勢を取る。
狙う先には的。
皆が見守る中、虎若は引き金を引いた。
カチッという金属音、直後に爆発が起こり破裂音が聴こえた時にはもう、的に風穴が空いていた。
虎若は的に当てることができてほっとしたような、誇らしげな顔をした。
乱太郎が賛辞の声を上げ椿も目を輝かせながら虎若を褒める。
「虎若君凄い!」
「えへへ、これも照星さんに教えて頂いたことの賜物です。」
「いや、それは違う。若太夫が努力した結果だ。」
「照星さん…!」
「そうだね、虎若君が頑張ったからだね。」
「椿さん……ありがとうございます!」
照れたように笑う虎若。
先程とまるで違う和やかな空気に、これも彼女が作り出したものかと目をやる。
忍たまたちと笑い合う彼女は、何かに気が付いたように声を出した。
「どうしたんですか?椿さん」
「あのね、この香り…」
「香り?火薬の、ですか?」
「そう、虎若君の香りだなって思って。」
「え?僕、そんな匂いしてました?」
「うん。かくれんぼの時香りでわかるんだよね、虎若君が近くにいるなって。」
『だって、煙の香りで近くにいるってわかるもん』
「!?」
突然目の前に蘇る光景。
何が起こったのか、照星は理解ができない。
椿の言ったことが引き金になったのか、見ているものと同じような光景が広がった。
目眩を起こす感覚。
目の前には椿がいるはずなのに、写ったのは違う少女。
この子は……
心臓が掴まれる感覚、汗が吹き出しそうだ。
「え〜そうだったの!?いつも早く見つかっちゃうからなんでだろうって思ってました。」
「確かに虎若、いつも私より先に捕まってるものね。」
「というか、椿さん巻き込んでかくれんぼなんてやってるのかお前たちは…」
三木ヱ門がお子様だなと呆れ返る。
乱太郎、虎若が不服そうに頬を膨らませるが照星はそれらがまるで目に入らない。
視線を感じた椿が顔を上げると照星と目が合った。
「あの、どうかされましたか?」
椿の声に三人も不思議そうに照星に目を向けた。
いつもと変わらないように見える照星。だがどこか上の空というか、様子が違うように見えるのは気のせいか。
首を傾げた彼女から目を逸らすことが出来ない。
先程写った少女、似ている気がする。
極めて冷静にいつも通りに、照星は椿に声をかけた。
「どこかで…………会ったことがないだろうか?」
「……え?」
「あなたと……初めて会った気がしない。」
平和ボケでも起こすのではなかろうかと思える程、医務室の時間は穏やかだった。
何もないことが平和とも言えるし、まだ若い彼らにとっては少し退屈な時間だったかも知れない。
今日も使い古した褌を巻きながら、呑気に鼻歌を歌っていた。
「平和だね〜」
「平和ですね〜」
たまにはこんな日もあっていいのだろう。
年がら年中不運と付き合う訳にはいかない、心の安らぐ時間が必要だ。
そう思っていたのに…
「た、た、た、大変ですー!!」
襖が勢いよく開いたと同時に駆け込んできた乱太郎。
嫌な予感が頭を掠めた。
左近が驚いた声を出す。
「ど、どうしたんだ乱太郎!」
「しょ、照星さんが、な、なん……!!あ、じゃなくて、田村先輩と虎若が、し、照星さんがっ…!!」
「乱太郎落ち着くんだ。それではよくわからないよ。」
伊作になだめられて乱太郎は肩で息をしながら唾を飲み込む。
「大丈夫かい?ゆっくり話して。」
「は、はい……照星さんが、椿さんをナンパしたと、田村先輩と虎若がショックで倒れてしまったんです…」
「……」
「……」
表情を変えない伊作と左近。
ゆっくりとお互いの顔を見やる。
次の瞬間二人は乱太郎に覆いかぶさるように詰め寄った。
「なんだってーーー!?!?」
倒れた二人を保健委員が連れて行く様子を椿と照星は見送った。
うわ言のように、照星さんが…ナンパを……と呟く二人を椿は心配していたが、照星の方は呆れ果てていた。
「二人とも、どうしてしまったのでしょうか?大丈夫かな…」
「大したことはない。彼らに任せておけばいい。それより…」
言葉を詰まらせた照星を椿は見上げた。
先程からやたらと見られているようだが、その理由がわからず戸惑うばかり。
彼はおもむろに口を開く。
「……少し、話がしたい。外へ出ても構わないだろうか。」
「はい。」
照星が一緒なら外へ出ても大丈夫だろう。
先程から少し様子がおかしいし、彼が何か思うところがあってのことだと椿は受け取った。
学園から少し離れた静かな水辺。
金楽寺へ向かう道を少しだけ外れると見える小さな川がある。
水面は光が反射して輝いていた。
川辺に咲く薄い青色の小さな花が、まるで自らの存在を主調しているかのようにこちらに向かって微笑んでいる。
辺りは開けた場所で人の姿もなく、暖かい春の陽気が心地良い。
乱太郎たちなら、ここに寝転がって昼寝でもしてしまうのではないだろうか。
その姿を思い浮かべて椿は少し笑った。
照星が足を止めて二人の間を風が抜ける。
椿は彼の言葉を待った。
「……昔、あなたに似た人に出会った。」
「……」
椿は無言で隣りに立つ照星を見上げる。
目が合うことはなかった。
彼はその時の記憶を呼び出すように水面を見つめている。
「……どんな方、ですか?」
「花の名がついた、美しい女性だった。どこかの城に嫁いだと、聞いている。」
恐らく自分はその女性に似ていたのだろう。椿はそう思った。
だから照星はあんなことを言ったのだと。
「どことなく、あなたに似ている気がする。」
そう言って椿を見つめる照星の瞳は、懐かしさを噛みしめるというより、どこか淋しげだった。
彼の気持ちに寄り添いたくなって椿は踏み込んだ質問を投げた。
「その方の……お名前は、何と言うのですか?」
足元の草花が、風に吹かれてどよめいた。
照星は口を閉ざしたまま、椿と視線が混じり合う。
長い沈黙が、開けてはいけない扉を叩いてしまったかのような後悔を生んだ。
「名前は………………」
「…………………」
「 」
「………え…」
絶句。
思いもよらぬその名、こんなところで、初対面の照星から出てくるなんて夢にも思わない。
だがまだ別人の可能性もある。焦る気持ちを抑えながら椿は照星に聞いた。
「その方の…!特徴とか、ど、どちらにいらしたとか、わかりますか?」
「……ここから東、それ程力のない国にいた。国の政策で近隣の城に嫁いだとの話だ。もう、二十年も昔の話だ。私が知っているのはそれまで。もしあなたの髪が長かったなら、本当に見間違っていただろう。気が強くて一度言ったことは捻じ曲げない、芯のある人だった。」
「……っ」
どうしてこんなことが起こりうるのだろう。
目の前の男が、その人物を知っているなんて、偶然なのか導きなのか。
その名を再び聞ける日が来るなんて思いも寄らない。
封じていたはずの気持ちが、後悔が、自責の念が椿を襲った。
緊張から体温が下がり体が勝手に震える。
息が詰まって胸が苦しくて、椿は自分を抱きしめた。
「大丈夫か?」
俯く椿を心配して照星が声をかける。
彼女に伸ばした手が触れる前に椿が声を絞り出す。
「……照星、さん」
「……ん」
「その人、は…………………」
「…………………」
「………その人は………私の……母、です……」
心臓が痛いくらいに胸を押す。
何も聴こえなくて何も見えない。
彼は、何を思っただろう?
自分でもどうしてそれを言ってしまったのかわからない。
初対面なのに、追手ではない確証もないのに。
ただ彼が口にした名前、過去のその人を知る人物が信用できる気がしたから。
打ち明ける迷いよりも先に、知りたい想いが先行した。
なのに怖くて顔が上げられない。
「………………そうか。」
「……!」
その声は驚く程穏やかだった。
椿の正体を知ったというのに落ち着いた声色。
この男、一体何者なのだろう。
驚いて顔を上げるとこちらを見る眼差しは柔らかい。
「そんな気がした。本当に、よく似ている。」
「っ!………照星さんは、母を……知っているのですか?」
「……ああ……よく、知っている。幼少の頃の話だ。私がまだ城に世話になっていた時、よくあの方の相手をさせて頂いていた。」
「……」
「歳が近かったからだろう。あの方はよく私に声をかけられた。遊び相手として適任とされていたのかも知れない。」
懐かしさに目を細める。
椿を通して彼女の母親の姿が写し出される。
特に意思の強い瞳がそっくりだ。
『ね、遊びましょ!稽古なら終わったでしょ?……え?私のお稽古?あとであとで!今はあなたと遊びたいの!』
『もう!あなたって規則規則って、他に言うことないの!?』
『あなたがどこに居るかなんて、煙の香りでわかるんだから。』
『あなたがいてくれるから、他に望むものなんてない。別に、ないんだから。』
『あのね、私ね…』
「よく話相手が欲しいと仰っておられた。私がいたからそれでもいいと強がっていたようだが、本当のところはもっと自分を理解してくれる同性の話し相手が欲しかったらしい。」
「……母上…」
『かわいい女の子がいいな。お話したり遊んだり。そうね、その子の名前はきっと…』
「"椿"という名がいい、と。自分に似ているけど少し違う、可憐だけど強さがある名前。そう仰っておられた。」
「…!」
母に大切にされた記憶が蘇る。
孤独だった母が望んだもの、それが自分であったなんて…
私は、本当に……母上の元に産まれて幸せだった…
胸がいっぱいになる。
母親に望まれて愛されて、最期の瞬間まで自分のことを考えてくれた。
母への感謝が溢れ出て想いが止まらない。
「……………」
彼女の娘が目の前のこの少女。
まさかこんなところで昔の記憶を思い出すとは思わなかった。
"椿"……
そうか、あの方の望みは叶ったのか……
そのことがほんの少しだけ照星を慰める。
この娘は彼女ではない。ではないのに懐かしい香りがして照星は椿から目が逸らせない。
「だが何故、あなたがここに?」
「私は…」
椿は自分がここに存在している事の顛末を話した。
照星はそれを静かに飲み込んでいた。
彼女の娘、椿がここにいるということはそういうことなんだろうと、頭の片隅では思っていた。
わかっていた、彼女の娘だと名乗った瞬間からどんな結末になっていたのかを。
大変な想いをしたに違いない。
ただ、自ら命を絶ったことだけは悔やまれてならなかった。
それを受け入れなければならない己には何も救いがない。
「あの方は、幸せだったのだろうか?」
それを願っていたのに叶うこともなく、どうすることも出来なかった非力な自分を呪う。
虚ろが故に本懐が口を割って出たことに気付くのが遅れた。
「母は言っていました。あなたは愛する人と結ばれなさいって。母自身は、愛する人と結ばれなかったのかも知れません。それに母が幸せだったのか、私にはわかりません。少なくとも父といるときの母は幸せそうに笑ってはいませんでした。」
椿の言葉に照星は黙った。
自分が知っているのは彼女が嫁いだところまで。
あの時はまだ、それがどういうことか理解に乏しかった。
彼女は心からそれを望んでいた訳ではない、それはわかっている、だが彼女を大層気に入っていた相手側には大事にされたのではなかったのだろうか。
嫁ぐことを打ち明けられた時、自分が言えたことは祝いの言葉だけ。
謝礼を返した彼女の、あの時の顔が今も胸の奥底に残っていて消えない。
幸せなはずなのに、幸せだと思っていたはずなのに、彼女はどこか寂しそうに笑っていた。
仮に彼女が別の道を望んだとして、それがどうして叶えられようか。
一介の兵士でしかない自分が、一国の姫君をどうできると言うのか。
何も出来ない。あの時の自分には何も出来なかった。
自分勝手に解釈をしてそうだと決めつけて、結局彼女の本音も自分の望みも見ないふりをした。
そうすることがこの世の定めだと、諦めた。
彼女に対する悔しさと、自分の愚かさを憎み許せずに拳を握る。
『これをあなたに。私の……たった一人の、友達に……』
近くで揺れる青い花が目に留まる。
あの日、彼女が自分に手渡したその花。
忘れようにも忘れられない、忘れるはずがない。
小さなその花をいくつか手に取ると照星は沈黙を破った。
「幸せだったに違いない、あなたが側にいたのだから。あなたは、あの方が望まれた唯一のもの、だ。」
「照星さん……」
「あの方の墓前に手向けたいがそれも叶わない、だからせめてあなたにこれを。」
そう言って椿に花を渡した。
「これは…」
小さな薄い青色の花、勿忘草。
花が秘めた言葉に気付いた椿が照星を見るが、彼は背を向けて歩き出していた。
「照星さん!あの、もしかして、本当は…!」
呼びかけに足を止める。
振り返ると彼女は目を見開いていた。
そこにあるのは僅かな希望、未来を生きる、彼女の忘形見。
「……今は昔、の話だ。」
「っ……」
過去のことだと照星は言う。
柔らかい釘だった。恐らく椿の勘は当たっているのだろう、だがそれを確かめる術はもうない。
だから、
「ありがとうございました。」
「?」
「母を、覚えていてくださって……ありがとうございました。」
照星が秘めていた想いも、彼が自分を責めたりしないように、全て含めて許せるように椿はその優しさに礼を言う。
きっと母ならそうしたに違いないから。
椿の言葉に照星は口角を上げた。
「また母のお話を聞かせてもらってもいいですか?」
「ああ、もちろんだ。」
去って行く背中を見つめながら彼がくれた花を抱きしめる。
勿忘草、その言葉は「私を忘れないで」
ただ椿には、照星がその言葉の返答をしたのではないかと、そう思えた。
忘れていない、忘れない、これからもずっと……
ーあの日の君に贈る言葉 完ー
遠い日の記憶。
忘れようとも忘れられないのは、唯一無二の存在だったから。
花のように咲く笑顔が、声が、自分に向けられていたあの時。
私は、初めて、知ったのだ。
あの日の君に贈る言葉
虎若と三木ヱ門に火縄銃の稽古をつけるのも何度目のことだろうか。
忍術学園を訪れていた照星は、午後の授業が終わった瞬間に虎若に捕まり、遅れてきた三木ヱ門にも同様に後を追われる。
前もって手紙で知らせていたこともあって二人は焦がれたような瞳をこちらに向けていた。
照星は自分が尊敬されているということよりも、二人がこうして自主的に学ぼうとする姿勢は良いものだと感じていた。
教える側も指導に熱が入るし、何より本人たちの姿勢が力となって伸びやすい。
「三木ヱ門、弾が右に逸れがちだ。気持ち左に照準を合わせろ。」
「はい!」
「若太夫、肩に力が入りすぎている。焦らず気持ちを落ち着かせろ。」
「はい!」
辺り一帯に響く破裂音、漂う硝煙の香り。
この香りは自分を落ち着かせる。
なんてことも言葉に出したことがあった気がした。
目の前にいるこの二人はそう感じることがあるだろうか。
真剣な眼差しと休むことなく続く稽古。
少なくとも火縄銃が好きな気持ちは伝わってくる。
照星は顔や態度に出さなくても、虎若と三木ヱ門のことを認めていた。
指導の最中、人の気配に気付き二人に声をかける。
二人が手を止め照星の視線を追うと現れたのは一年生の乱太郎と知らない顔の若い女。
「乱太郎と、椿さん」
三木ヱ門がそう呼んだ。
忍たまたちは知っている顔のようだった。
「どうしたの?乱太郎」
「虎若、田村先輩。椿さんが二人の練習を見たいと仰るものだから、ご案内して来ました。」
「お邪魔でなければ見せてもらってもいいかな?」
「ええ、それはもちろん…」
虎若がそう言いかけて照星に目を向けると、思い出したようにはっとした顔をする。
「あ、照星さん、こちらは椿さんです。食堂のおばちゃん見習いさんです。椿さん、こちらは照星さんです。僕のお師匠さんです!」
「虎若、私のお師匠さんでもあるんだぞ。」
三木ヱ門と虎若が小さなことで言い争うのを無視するように照星は椿に声をかけた。
「椿……と言うのか。」
「はい。食堂で働かせて頂いております。」
「そうか…」
「あの、見学させて貰ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない。」
安心したように乱太郎と笑い合う彼女。
その名前、何故だか胸に引っかかる。
昔、どこかで聞いたような…
それが何なのか思い出せない。
椿とは初対面なはずなのに、大事なものを忘れているかのような感覚に陥る。
椿と乱太郎という観客がいるせいか、張り切ったように準備をする虎若。
三木ヱ門も満更でもない様子で椿に説明をしていた。
火薬と弾丸を詰めた虎若が、火縄に点火をして構えの姿勢を取る。
狙う先には的。
皆が見守る中、虎若は引き金を引いた。
カチッという金属音、直後に爆発が起こり破裂音が聴こえた時にはもう、的に風穴が空いていた。
虎若は的に当てることができてほっとしたような、誇らしげな顔をした。
乱太郎が賛辞の声を上げ椿も目を輝かせながら虎若を褒める。
「虎若君凄い!」
「えへへ、これも照星さんに教えて頂いたことの賜物です。」
「いや、それは違う。若太夫が努力した結果だ。」
「照星さん…!」
「そうだね、虎若君が頑張ったからだね。」
「椿さん……ありがとうございます!」
照れたように笑う虎若。
先程とまるで違う和やかな空気に、これも彼女が作り出したものかと目をやる。
忍たまたちと笑い合う彼女は、何かに気が付いたように声を出した。
「どうしたんですか?椿さん」
「あのね、この香り…」
「香り?火薬の、ですか?」
「そう、虎若君の香りだなって思って。」
「え?僕、そんな匂いしてました?」
「うん。かくれんぼの時香りでわかるんだよね、虎若君が近くにいるなって。」
『だって、煙の香りで近くにいるってわかるもん』
「!?」
突然目の前に蘇る光景。
何が起こったのか、照星は理解ができない。
椿の言ったことが引き金になったのか、見ているものと同じような光景が広がった。
目眩を起こす感覚。
目の前には椿がいるはずなのに、写ったのは違う少女。
この子は……
心臓が掴まれる感覚、汗が吹き出しそうだ。
「え〜そうだったの!?いつも早く見つかっちゃうからなんでだろうって思ってました。」
「確かに虎若、いつも私より先に捕まってるものね。」
「というか、椿さん巻き込んでかくれんぼなんてやってるのかお前たちは…」
三木ヱ門がお子様だなと呆れ返る。
乱太郎、虎若が不服そうに頬を膨らませるが照星はそれらがまるで目に入らない。
視線を感じた椿が顔を上げると照星と目が合った。
「あの、どうかされましたか?」
椿の声に三人も不思議そうに照星に目を向けた。
いつもと変わらないように見える照星。だがどこか上の空というか、様子が違うように見えるのは気のせいか。
首を傾げた彼女から目を逸らすことが出来ない。
先程写った少女、似ている気がする。
極めて冷静にいつも通りに、照星は椿に声をかけた。
「どこかで…………会ったことがないだろうか?」
「……え?」
「あなたと……初めて会った気がしない。」
平和ボケでも起こすのではなかろうかと思える程、医務室の時間は穏やかだった。
何もないことが平和とも言えるし、まだ若い彼らにとっては少し退屈な時間だったかも知れない。
今日も使い古した褌を巻きながら、呑気に鼻歌を歌っていた。
「平和だね〜」
「平和ですね〜」
たまにはこんな日もあっていいのだろう。
年がら年中不運と付き合う訳にはいかない、心の安らぐ時間が必要だ。
そう思っていたのに…
「た、た、た、大変ですー!!」
襖が勢いよく開いたと同時に駆け込んできた乱太郎。
嫌な予感が頭を掠めた。
左近が驚いた声を出す。
「ど、どうしたんだ乱太郎!」
「しょ、照星さんが、な、なん……!!あ、じゃなくて、田村先輩と虎若が、し、照星さんがっ…!!」
「乱太郎落ち着くんだ。それではよくわからないよ。」
伊作になだめられて乱太郎は肩で息をしながら唾を飲み込む。
「大丈夫かい?ゆっくり話して。」
「は、はい……照星さんが、椿さんをナンパしたと、田村先輩と虎若がショックで倒れてしまったんです…」
「……」
「……」
表情を変えない伊作と左近。
ゆっくりとお互いの顔を見やる。
次の瞬間二人は乱太郎に覆いかぶさるように詰め寄った。
「なんだってーーー!?!?」
倒れた二人を保健委員が連れて行く様子を椿と照星は見送った。
うわ言のように、照星さんが…ナンパを……と呟く二人を椿は心配していたが、照星の方は呆れ果てていた。
「二人とも、どうしてしまったのでしょうか?大丈夫かな…」
「大したことはない。彼らに任せておけばいい。それより…」
言葉を詰まらせた照星を椿は見上げた。
先程からやたらと見られているようだが、その理由がわからず戸惑うばかり。
彼はおもむろに口を開く。
「……少し、話がしたい。外へ出ても構わないだろうか。」
「はい。」
照星が一緒なら外へ出ても大丈夫だろう。
先程から少し様子がおかしいし、彼が何か思うところがあってのことだと椿は受け取った。
学園から少し離れた静かな水辺。
金楽寺へ向かう道を少しだけ外れると見える小さな川がある。
水面は光が反射して輝いていた。
川辺に咲く薄い青色の小さな花が、まるで自らの存在を主調しているかのようにこちらに向かって微笑んでいる。
辺りは開けた場所で人の姿もなく、暖かい春の陽気が心地良い。
乱太郎たちなら、ここに寝転がって昼寝でもしてしまうのではないだろうか。
その姿を思い浮かべて椿は少し笑った。
照星が足を止めて二人の間を風が抜ける。
椿は彼の言葉を待った。
「……昔、あなたに似た人に出会った。」
「……」
椿は無言で隣りに立つ照星を見上げる。
目が合うことはなかった。
彼はその時の記憶を呼び出すように水面を見つめている。
「……どんな方、ですか?」
「花の名がついた、美しい女性だった。どこかの城に嫁いだと、聞いている。」
恐らく自分はその女性に似ていたのだろう。椿はそう思った。
だから照星はあんなことを言ったのだと。
「どことなく、あなたに似ている気がする。」
そう言って椿を見つめる照星の瞳は、懐かしさを噛みしめるというより、どこか淋しげだった。
彼の気持ちに寄り添いたくなって椿は踏み込んだ質問を投げた。
「その方の……お名前は、何と言うのですか?」
足元の草花が、風に吹かれてどよめいた。
照星は口を閉ざしたまま、椿と視線が混じり合う。
長い沈黙が、開けてはいけない扉を叩いてしまったかのような後悔を生んだ。
「名前は………………」
「…………………」
「 」
「………え…」
絶句。
思いもよらぬその名、こんなところで、初対面の照星から出てくるなんて夢にも思わない。
だがまだ別人の可能性もある。焦る気持ちを抑えながら椿は照星に聞いた。
「その方の…!特徴とか、ど、どちらにいらしたとか、わかりますか?」
「……ここから東、それ程力のない国にいた。国の政策で近隣の城に嫁いだとの話だ。もう、二十年も昔の話だ。私が知っているのはそれまで。もしあなたの髪が長かったなら、本当に見間違っていただろう。気が強くて一度言ったことは捻じ曲げない、芯のある人だった。」
「……っ」
どうしてこんなことが起こりうるのだろう。
目の前の男が、その人物を知っているなんて、偶然なのか導きなのか。
その名を再び聞ける日が来るなんて思いも寄らない。
封じていたはずの気持ちが、後悔が、自責の念が椿を襲った。
緊張から体温が下がり体が勝手に震える。
息が詰まって胸が苦しくて、椿は自分を抱きしめた。
「大丈夫か?」
俯く椿を心配して照星が声をかける。
彼女に伸ばした手が触れる前に椿が声を絞り出す。
「……照星、さん」
「……ん」
「その人、は…………………」
「…………………」
「………その人は………私の……母、です……」
心臓が痛いくらいに胸を押す。
何も聴こえなくて何も見えない。
彼は、何を思っただろう?
自分でもどうしてそれを言ってしまったのかわからない。
初対面なのに、追手ではない確証もないのに。
ただ彼が口にした名前、過去のその人を知る人物が信用できる気がしたから。
打ち明ける迷いよりも先に、知りたい想いが先行した。
なのに怖くて顔が上げられない。
「………………そうか。」
「……!」
その声は驚く程穏やかだった。
椿の正体を知ったというのに落ち着いた声色。
この男、一体何者なのだろう。
驚いて顔を上げるとこちらを見る眼差しは柔らかい。
「そんな気がした。本当に、よく似ている。」
「っ!………照星さんは、母を……知っているのですか?」
「……ああ……よく、知っている。幼少の頃の話だ。私がまだ城に世話になっていた時、よくあの方の相手をさせて頂いていた。」
「……」
「歳が近かったからだろう。あの方はよく私に声をかけられた。遊び相手として適任とされていたのかも知れない。」
懐かしさに目を細める。
椿を通して彼女の母親の姿が写し出される。
特に意思の強い瞳がそっくりだ。
『ね、遊びましょ!稽古なら終わったでしょ?……え?私のお稽古?あとであとで!今はあなたと遊びたいの!』
『もう!あなたって規則規則って、他に言うことないの!?』
『あなたがどこに居るかなんて、煙の香りでわかるんだから。』
『あなたがいてくれるから、他に望むものなんてない。別に、ないんだから。』
『あのね、私ね…』
「よく話相手が欲しいと仰っておられた。私がいたからそれでもいいと強がっていたようだが、本当のところはもっと自分を理解してくれる同性の話し相手が欲しかったらしい。」
「……母上…」
『かわいい女の子がいいな。お話したり遊んだり。そうね、その子の名前はきっと…』
「"椿"という名がいい、と。自分に似ているけど少し違う、可憐だけど強さがある名前。そう仰っておられた。」
「…!」
母に大切にされた記憶が蘇る。
孤独だった母が望んだもの、それが自分であったなんて…
私は、本当に……母上の元に産まれて幸せだった…
胸がいっぱいになる。
母親に望まれて愛されて、最期の瞬間まで自分のことを考えてくれた。
母への感謝が溢れ出て想いが止まらない。
「……………」
彼女の娘が目の前のこの少女。
まさかこんなところで昔の記憶を思い出すとは思わなかった。
"椿"……
そうか、あの方の望みは叶ったのか……
そのことがほんの少しだけ照星を慰める。
この娘は彼女ではない。ではないのに懐かしい香りがして照星は椿から目が逸らせない。
「だが何故、あなたがここに?」
「私は…」
椿は自分がここに存在している事の顛末を話した。
照星はそれを静かに飲み込んでいた。
彼女の娘、椿がここにいるということはそういうことなんだろうと、頭の片隅では思っていた。
わかっていた、彼女の娘だと名乗った瞬間からどんな結末になっていたのかを。
大変な想いをしたに違いない。
ただ、自ら命を絶ったことだけは悔やまれてならなかった。
それを受け入れなければならない己には何も救いがない。
「あの方は、幸せだったのだろうか?」
それを願っていたのに叶うこともなく、どうすることも出来なかった非力な自分を呪う。
虚ろが故に本懐が口を割って出たことに気付くのが遅れた。
「母は言っていました。あなたは愛する人と結ばれなさいって。母自身は、愛する人と結ばれなかったのかも知れません。それに母が幸せだったのか、私にはわかりません。少なくとも父といるときの母は幸せそうに笑ってはいませんでした。」
椿の言葉に照星は黙った。
自分が知っているのは彼女が嫁いだところまで。
あの時はまだ、それがどういうことか理解に乏しかった。
彼女は心からそれを望んでいた訳ではない、それはわかっている、だが彼女を大層気に入っていた相手側には大事にされたのではなかったのだろうか。
嫁ぐことを打ち明けられた時、自分が言えたことは祝いの言葉だけ。
謝礼を返した彼女の、あの時の顔が今も胸の奥底に残っていて消えない。
幸せなはずなのに、幸せだと思っていたはずなのに、彼女はどこか寂しそうに笑っていた。
仮に彼女が別の道を望んだとして、それがどうして叶えられようか。
一介の兵士でしかない自分が、一国の姫君をどうできると言うのか。
何も出来ない。あの時の自分には何も出来なかった。
自分勝手に解釈をしてそうだと決めつけて、結局彼女の本音も自分の望みも見ないふりをした。
そうすることがこの世の定めだと、諦めた。
彼女に対する悔しさと、自分の愚かさを憎み許せずに拳を握る。
『これをあなたに。私の……たった一人の、友達に……』
近くで揺れる青い花が目に留まる。
あの日、彼女が自分に手渡したその花。
忘れようにも忘れられない、忘れるはずがない。
小さなその花をいくつか手に取ると照星は沈黙を破った。
「幸せだったに違いない、あなたが側にいたのだから。あなたは、あの方が望まれた唯一のもの、だ。」
「照星さん……」
「あの方の墓前に手向けたいがそれも叶わない、だからせめてあなたにこれを。」
そう言って椿に花を渡した。
「これは…」
小さな薄い青色の花、勿忘草。
花が秘めた言葉に気付いた椿が照星を見るが、彼は背を向けて歩き出していた。
「照星さん!あの、もしかして、本当は…!」
呼びかけに足を止める。
振り返ると彼女は目を見開いていた。
そこにあるのは僅かな希望、未来を生きる、彼女の忘形見。
「……今は昔、の話だ。」
「っ……」
過去のことだと照星は言う。
柔らかい釘だった。恐らく椿の勘は当たっているのだろう、だがそれを確かめる術はもうない。
だから、
「ありがとうございました。」
「?」
「母を、覚えていてくださって……ありがとうございました。」
照星が秘めていた想いも、彼が自分を責めたりしないように、全て含めて許せるように椿はその優しさに礼を言う。
きっと母ならそうしたに違いないから。
椿の言葉に照星は口角を上げた。
「また母のお話を聞かせてもらってもいいですか?」
「ああ、もちろんだ。」
去って行く背中を見つめながら彼がくれた花を抱きしめる。
勿忘草、その言葉は「私を忘れないで」
ただ椿には、照星がその言葉の返答をしたのではないかと、そう思えた。
忘れていない、忘れない、これからもずっと……
ーあの日の君に贈る言葉 完ー
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