お宅訪問大作戦!(木下鉄丸)
あなたのお名前は?
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ダダダダダッ…
誰かが足音を立てながらこちらへ向かってくる。
額の青筋がより浮きだった時、障子が気持ちの良い音を立てて開かれる。
「木下先生!大変です!」
木下の私室に飛び込んで来たのは勘右衛門だった。
廊下を走るな、入る前に声をかけろと木下の怒号が飛ぶが、強めの謝罪でそれを吹き飛ばすと木下の前に座る。
切羽詰まった様子の勘右衛門に木下も怒るのを止めて耳を傾ける。
「一体何事だ?」
「それが、椿さんが、」
「椿?」
「椿さんが、この休みに帰らずに学園に残ると言っているのです!」
「……」
忍術学園は明日から休みに入る。
忍たまや教職員はこの機会にそれぞれの家に帰ったり、学園長なんかはよく温泉に出かけたりしている。
木下も空けてある家に帰ってのんびりしようと思っていたところだ。
「誰かしら残る先生がいるだろ…」
例えば山田なんかは帰らずにここに残ることが多い。
彼女が一人で残ることはないのではないだろうかと木下は考えた。
「それが、山田先生もご帰宅されるらしく、本当に椿さん一人になってしまうのですよ。」
「じゃあ、どこかに世話になったりするんじゃないか?」
「いいえ、本人に確認しましたが、食堂のおばちゃんのところでさえ行かないと言うのです。だけど…」
「だけど?」
勘右衛門は一旦言葉を止めて木下の様子を見る。
続きを述べるのを迷っていたようだが、意を決するとおもむろに口を開いた。
「……木下先生のところなら、行くと……言っています。」
「……!」
妙な静けさに緊張する。
心臓が早鐘を鳴らして沈黙に耐えられずについ口を開いてしまいそうになるが、必死に抑えた。
勘右衛門はたまらず目線だけで木下の様子を伺う。
眉間に皺を寄せて考えているように見える師は、やがて長いため息を吐いてわかったと一言言った。
「……先生。」
「勘違いするな。椿と話をしてくる。」
「あ……はい。」
立ち上がり退室する木下に続いて廊下に出るとその背中を見送る。
少々強引だが、これで上手く行ってくれればと願う。
「……勘右衛門。」
兵助が後ろから歩み寄り声をかけた。
「いいのか?あんなこと言って。椿さん、このこと知らないだろ?」
「こうでもしないと、木下先生から話しに行ってもらえないだろ?あとは椿さんに任せるしかない。」
「んな無責任な…」
勘右衛門のことだ、半分面白がっているのかも知れなかった。
兵助は椿のことが心配だった。
彼女ならば例えどんなことが起こっても自分でなんとかするのだろう。
だが木下がそれを承諾する…ことは少し難しいかも知れない。
でも、賭けてみたい。
二人が迎える休日がどんなものになるのかを。
気の乗らない重い足取りで食堂へ向かうと、中から楽しそうに談笑する声が聞こえてくる。
顔を出すと食堂のおばちゃんと椿が休憩中だろうか、二人でお茶を飲みながら何か話をしているようだった。
「あら、木下先生。」
木下に気づいたおばちゃんが声をかけてくる。
それに促されるように振り向く椿、その顔は木下を見つけて嬉しそうに花を咲かせた。
そんな顔を見せられて嫌になるはずもなく、不覚にも胸が高鳴る。
「どうかしました?」
「……あー……椿に話があるのだが、いいだろうか。」
「私?」
椿はキョトンとした顔でおばちゃんと目を合わせる。
おばちゃんは全然構いませんよと席を立とうとするが木下はそれを止めた。
外で話したい旨を伝えるとおばちゃんは椿にいってらっしゃいと笑って言った。
木下の後に付いて松の木の下まで来ると足を止める。
そこはちょうど日陰になっていて、上を見れば茂った青の隙間から差し込む日の光がキラキラ輝いていた。
比較的人目につきにくい場所で普段聞こえるような騒がしさもなく穏やかな空気が流れている。
「椿」
「は、はい。」
背を向けていた木下が体を半分こちらに向けて彼女の名を呼んだ。
たったそれだけのことが嬉しくて声のトーンも上がってしまうことに木下は気づいていないだろう。
だが椿の反応とは逆に木下は浮かない顔をする。
「……明日からの休み、どうするつもりだ?」
「お休み、ですか?」
少しずるいと思うが探りを入れてみる。
彼女は質問の意図がわからなかったのか、悩むまでもなく学園に残ると答えた。
「私は帰る場所もありませんし、どなたかのところにお世話になるわけにもいかないので…」
「……」
考えてみれば椿に帰る家はない。
それはわかっていたはずだ、だから彼女が学園に残ると言うのは至極当然のことだ。
だが勘右衛門の言うことが本当なら、明日から彼女はここに一人きりということになる。
一人?一人にしてしまっていいのか?
この焦っているようなイライラしているような、妙な感情が渦巻いて頭を抱えた。
「木下先生?」
木下の様子に椿が心配そうに声をかける。
一体何に対しての不安なのかわからず、こんなことを自分から切り出すのもいつもの木下なら馬鹿馬鹿しいと払い除けるところだが、迷いなく答えた彼女の本質を見極めたいと思った。
「お前が…」
「?」
「お前が……儂の家に行きたいと言っていると、耳にした。」
「…え!?」
驚いた様子の彼女は顔を真っ赤にして口ごもる。
ああ何だ、勘右衛門の言っていたことは本当だったのか。
まさか彼女がそんな我儘を言うはずがないと、どこかで期待していたことが崩れてしまい落胆する。
なぜ木下がそのことを知っているのだろう?
勘右衛門が最終目標に掲げたものなのに。
だけどチャンスかも知れない。
そうだと言って木下が許可してくれれば…
「前から聞きたかったことだが、何故儂なんだ?」
そう口にしたところでそれまでと違う顔を見せる椿。
何故、儂か…
出来ればそれは聞いて欲しくなかった。
木下が好き、それだけで押し通せたならどんなに良かったことだろう。
表情を暗くしてどこか申し訳無さそうに呟く。
「……初めは、似てるなぁと思ったんです。」
「似てる?」
「幼い頃、好きになった人に…」
初恋の相手を木下に重ねていたということか。
自分を透かして顔も知らないその相手を見ていたということにいい気はしない。
変だとは思っていたんだ、歳も離れている娘が自分を好きになるなんて。
「だから、先生が気になってしまって…」
「……儂は、お前の初恋相手ではない。」
自分で聞いておきながらそんな答えは聞きたくなかったと言うように、椿を突き放すような言い方をしてしまう。
「わかっています。そんな風に見てしまって、木下先生には大変失礼だったと思っています。でも、それがきっかけじゃダメですか?先生のこと、好きと言ったことに嘘はないです。名前を呼んでくれて嬉しかった、忍たまの皆と同じように接してくれて嬉しかった、だから木下先生を好きになったんです。先生が私に幻滅しても、この気持ちに偽りはないですからっ…!」
高ぶった感情が本音を掻き出すように涙が溢れて止まらない。
嫌われてしまった、本当にそう思った。
急激に指先が冷えて震え出す。
何をしても届かない、やはり自分と木下の間には超えがたい壁があるようだ。
言葉にしたように木下にとって椿も忍たまたちとそう変わらない存在なのだろう。
もうこれ以上迷惑をかけたくなくて木下の答えも聞きたくなかった。
「…ごめんなさいっ!」
「椿…!」
制する声も無視をしてその場から走り出した。
耐えられない。
耐えられない。
どうやっても、どう足掻いても、この感情から逃れる術を知らない。
消えてなくなればいいのだろうか。
知った喜びも、知りたくなかった悲しみも、全て捨て去れば楽になれるだろうか。
どうやって?
楽になることを自分は望むのだろうか?
わからない。
ただ今は、抑えられない涙に己の気持ちを託すように流れるそれを止めることはしなかった。
彼女に向かって伸ばしかけた手、掴むことが出来なかったわけじゃない。
掴まなかったんだ。
掴んだところで、止めたところで、どうすると言うのだ?
どうしたいのだ?
答えが出せないのに椿を引き止めるなど出来はしない。
彼女は本気でぶつかって来た、ならば本気で答えなければならない。
中途半端な回答は必ず亀裂を生む。
それが還るのが自分ならばいい、だが彼女だったならば?
もしそうなれば己を許したりできないだろう。
彼女はもうこれ以上傷つく必要はない、むしろ逆であるべきなのだから。
「一体、どうしたと言うのだ…」
心の隙間に生まれた答え、それを必死に隠していた。
「……どうしてダメなんだろう…」
「……まだダメと決まったわけじゃないさ。」
「だけど……あの涙は本物だろう?」
草葉の陰から見守る二人。
椿の姿を見つけて見れば彼女から溢れる涙が勘右衛門と兵助を足止めさせる。
直接見なくても聞かなくても、それが椿と木下の答えだ。
「好きでいても、報われないこともあるんだな…」
「椿さんだけじゃない。俺だって……二人にくっついて欲しかった。」
「俺だって、そうさ。」
「悪いこと、したかな…?」
「………」
「……なぁ、知ってたか?木下先生って、椿さんを『椿』って呼ぶんだぜ?多分、最初から…」
「え…?」
「他の先生方でそう呼ぶ人はいない。俺、思うんだけど……本当は…」
「……」
勘右衛門はそれっきり黙った。
兵助もそれを深く掘り下げることはなかった。
二人はただ、彼女の涙が止まるまで見守り続けた。
翌日から休みに入るため、まだ日が高いうちに帰路につく者も多い。
生徒の大半を見送り、土井や山田など教師陣も次々に学園を去って行った。
木下は椿を避けるように人知れず学園を後にした。
非常に後ろ髪を引かれる思いだった。
道中も考えないようにしているのに気がつけば頭の中は椿でいっぱいになり足取りも重くなる。
これで、良かったのだろうか…
物思いにふけていると、道端から鳴き声が聴こえる。
目をやると草むらから顔を出したのはまだ乳離れしていないであろう仔猫だ。
ミィミィとか弱い声で親を探している。
なんだ?はぐれたのか?とぼんやり思っていると頭上より飛来する影。
一瞬の出来事だった。
物凄い早さで落ちてきたそれを認識できたのは、バサバサと羽音を立てて飛び去る姿を見た後。
鳶だ。
奴らは小さい動物を喰らう。
まさか、目の前で仔猫を生け捕ったのか?
途端に嫌な緊張が体を巡る。
鳶の姿を目で追うが、上空を旋回するように飛ぶその足元はよく見えなくてわからない。
仔猫は、どうなった?
あの早さだ、反応出来るはずがない。
捕食者が甲高い声で鳴いた。
ミィミィ
近くで声が聴こえた。
はっとして下に目をやると先程の仔猫がいた。
そのすぐ側には真っ黒なものが興奮した様子で頭上の鳶に威嚇をしている。
木下が僅かに体を動かすと真っ黒なそれはバッとこちらを振り返る。
真っ黒な体に黄金の瞳、親猫と思われるそれは仔猫の首を咥えるとこちらを見たままゆっくり後退り、かと思うと一気に走り出して姿を消した。
どうやら、喰われずにすんだようだ。
もうはぐれるなよ念を送りながらほっと胸を撫で下ろす。
あの一瞬が仔猫にとって運命の分かれ道だった。
もし近くに親がいなかったら…あまり考えたくはない。
近くに、いなかったら…?
あいつは、どうなるんだ…?
自分で自分を守る術を持たない彼女。
曲者も出入りする忍術学園。
休み期間中に何者かが侵入したら…?
今、目の前で起こったことのように、一瞬で彼女は姿を消してしまうのではないか?
心臓が嫌な音を立てる。
休み明けに出迎える笑顔がない、彼女がいない忍術学園、誰が望むであろうか。
自分は、それに耐えられるのか?…馬鹿な。
そうなってしまってからでは、遅いのだ。
なぜそこまで考えが至らなかったのか。
震え出す拳を握り締める。
木下は来た道を睨みつけると走り出した。
こういう時いつもなら吉野が最後に学園を出て鍵を預かるはずなのだが、今回は椿が残ると言うので鍵を彼女に託そうとする。
だが吉野も彼女一人を置いていくのが忍びなく、本当に残るのかと念を押して聞いた。
彼女は普段と何ら変わらない様子で、大丈夫、任せて欲しいと笑顔で答える。
「鍵はお預かりしますから、吉野先生もゆっくりお休みしてくださいね。」
彼女のその顔に心が揺れる。
「……椿さん、やはり一緒に行きませんか?」
「え?」
「あなたを一人ここに残すのは……心配が過ぎるので…」
「吉野先生…」
椿は困ったように笑う。
「お気持ちは大変嬉しいですが、私は…」
「椿!!」
話の途中で割り込んだ怒鳴り声にも近い叫び。
驚いてそれが聞こえた方を振り向くと珍しく息を切らしながら駆け寄るその姿。
「…木下先生?」
いつの間にか姿を消していた木下、もう帰ったものかと思っていたのに現れた彼に椿の胸は跳ねる。
「ど、どうされたのですか?」
「木下先生、お忘れ物でも?」
冷静に聞く吉野に息を整えながら木下は答える。
「……ええ、そんなところです。……吉野先生、」
「はい。」
木下は椿が持っていた忍術学園の鍵を奪い取ると吉野に差し出した。
「彼女は私が預かりますので、鍵をお願いします。」
「え?」
吉野が迷いながら鍵を受け取ると、一礼をした木下は椿の手を取って歩き出した。
「あ、のっ……木下先生?」
椿の声掛けに木下は反応しない。
訳がわからない様子の彼女は強引に引っ張られながらも吉野を振り返り会釈をする。
唇がわずかに、すみませんと言っていた。
二人の後ろ姿を見送りながら呆然と立ち尽くした吉野は自嘲気味に笑って吐き出した。
「……お姫様は攫われてしまいましたね…」
足早に歩を進める木下にやっとの思いでついていく椿。
木下が吉野に言った一言が頭の中で反復する。
そして繋がれた手の温かさとごつごつとした感触、意識すると顔が赤くなってしまう。
何がどうなっているのか、木下はどうしてしまったのか、聞きたいのに上手く声が出てこない。
忍術学園から遠く離れたところで木下が速度を落とした。
「……木下先生、」
「……」
「あ、あの……どうして…?」
「うちに来るのは、嫌か?」
「え?」
嫌かと聞かれて嫌だと答える口は持ち合わせていない。
むしろそれを望んでいたことを知っているはずなのに、わざわざ確認を取るのは彼の優しさなのか弱気なところなのか。
「…と言ったところで、もう忍術学園には戻れないが。」
鍵は吉野に預けてしまったし、木下の家に向かうしかない。
勝手に決めて逃げ道を塞いで、彼女に選択の余地を与えないのにそう聞くことはずるいと思う。
彼女はどう思っただろう?
横目で椿の様子を伺う。
「行っても、いいんですか?」
「……」
「だ、だって、さっき先生が…っ」
「気が変わったんだ。………いや…」
否定をこぼしたところで言うまいと口を塞ぐが、椿は聞き逃しはしなかった。
「なんですか?」
「……なんでもない。」
「言ってください、先生。お願い…」
彼女が袖をぐっと掴む。
その瞳は期待か不安、あるいは両方を含んで揺れていた。
目が離せなくなってしまう。
そこに写る自分の姿に気づいてしまったが、彼女は逃げることを許さない。
先に逃げ道を奪ったのは自分なのだ、観念するしかなかった。
「……気が変わったと言うか、今決めたことじゃない。本当は……前から、お前が欲しかった。」
「っ!」
椿が息を呑んで顔を伏せる。
「……椿?」
「だったら……もっと早く、言ってください……先生の意地悪……」
「……悪い。」
「でも、嬉しいです。……木下先生、」
「ん?」
「好きです。」
何度も聞いた言葉なはずなのに、安心したように笑う彼女を見ていると自然と顔が緩んでしまいそうだ。
「ああ。」
「好きです。」
「ん」
椿は今までの想いを重ねるように同じ言葉を繰り返す。
悪い気はしないのだがだんだんとそれがくすぐったくて恥ずかしくなる。
「先生、好きです。」
「椿、」
「はい。」
「もう、わかったから。」
聞くに耐えられなくなり顔を隠す。
椿は木下を覗くように食い下がる。
「木下先生、」
「……」
「……先生、は?」
「!?」
先生は、と聞かれて何のことかと考えを巡らすがすぐに彼女が言わんとしていることがわかった。
だがそれを、言うのか…?今?
緊張と共に体温が上昇する。
椿が期待するようにこちらを見つめている。
正直、その顔には弱い。
それに、彼女は言うまで引かない。
「……っ」
「……先生…」
「……」
「……」
「……………………………………好き、だ…」
「!」
普段の木下からは想像もつかないくらい小さい声でそう言った。
顔が熱くてまともに彼女を見ることが出来ない。
だがそれを聞いた椿は同じように頬を赤らめながら満面の笑みを見せる。
ここが外でなかったなら、彼女を腕の中に閉じ込めてしまいたいところなのに。
「ふふ、先生、好きです。」
「だから、もういいと、」
「だって、やっと通じたんですもの。」
確かに今まで彼女の言葉を受け取るどころか流してしまっていた。
それは色々な葛藤があったせいだがこんなに幸せそうに笑う椿を見ていると、自分のしてきたことが愚かであったなと反省する。
椿の幸せを願うから突き放すのはもう辞めた。
彼女がなりたい幸せを自分が叶える、それだけだ。
だがそんな言葉を口に出せるはずもなく、眉間の皺を深くして彼女の告白をしかと受け止める。
「先生、」
彼女はまた同じ言葉を繰り返すのだろう。
だがもう、言わせるわけにはいかない。
こちらの理性が持ちそうにない。
「椿、」
「?」
「今それ以上言うと、その口塞ぐぞ。」
「っ」
危険を察したのだろうか、椿は両手で自分の口を塞いだ。
その姿が愛おしくて思わず木下は笑みを漏らす。
その笑顔を見て安心した椿もつられて笑った。
「とりあえず家に向かわないとな。遅くなると風が出てきてしまう。」
日が暮れると風も冷たくなる。
彼女が体を壊してはいけないので冷える前に帰ろうと歩を進める。
すると椿の手がさり気なく木下の腕を掴んだ。
「大丈夫です。寒くなっても先生の手、温かいですから。」
「!!」
何を考えてその発言をしたのか、あるいはわかっていないのか。
掴んだ手に引き寄せられるようにして椿の体が近づく。
彼女は嬉しそうに笑っているが、こちらはそんな余裕はない。
ただでさえ…好いた女を家に連れ帰るのだ。
気づかないようにしていたのに、彼女の言動に意識がそちらへ飛んでしまいそうになる。
木下鉄丸、39歳。理性が試される帰り道だった。
休みが明けて新学期が始まる。
兵助は道すがら、勘右衛門を見つける。
声をかけるが、覇気のない返事が返ってきた。
まあ、原因はなんとなくわかる。自分だってそうだ。
「……椿さん、どうしたかな?」
「……そうだな…」
学園前まで来ると沢山の生徒たちが笑顔で挨拶を交わしながら門をくぐっていた。
勘右衛門と兵助は入門すると自室には向かわず食堂へ行った。
彼女がそこにいるはずだから。
食堂では今届いたのであろう食材を運んでいる椿の姿があった。
二人は足早に近づいて声をかける。
「椿さん。」
「あ、勘右衛門君と兵助君。」
勘右衛門たちが想像していたよりも明るい返事が返ってくる。
元気だったか、休みは楽しめたか、椿はそんな言葉を投げかける。
世間話もそこそこに、二人がここに来た理由を彼女に問う。
「あの……すみませんでした。」
「え?」
「俺たちが余計なことをしたから、椿さんを逆に悲しませることになってしまって…」
「……えーと?」
しゅんと項垂れる勘右衛門と兵助、椿は二人が落ち込む理由がわからない。
「あのね、私、二人にとっても感謝してるんだよ。そうだ、お礼言ってなかったね。二人共、協力どうもありがとうございました。んーと、だからそうやって頭を下げられる理由が思いつかないんだけどな。」
「だって休みの間、一人でここに残られたのでしょう?」
「あの日、椿さんが泣いているのを見てしまったんです。だから……上手く行かなかったのかと思って…」
「……あ…」
そうか、あの時のことを二人は言っている。
だがその後に起こったことは知らないだろう、だからこうして元気がないのだ。
なんだか気を使わせてしまって、二人がこの休みを有意義に使えなかったのではないかと申し訳なくなってしまう。
「あのね、実は、」
「椿」
後ろからかけられた声に言葉を止めると、声の主を見た勘右衛門と兵助が驚いた顔をして背筋を伸ばす。
二人は直接木下と何かあったわけではないのに、なんとなく緊張してしまう。
「き、木下先生!」
「おはようございます!」
「ん、二人共着いていたか。」
勘右衛門と兵助の姿を見てそれだけを言うと、木下は椿に畳まれた紙を手渡す。
「学園長からおばちゃんへなんだが、いないようなので渡しておいて貰えるか?」
「はい、わかりました。」
「荷下ろしをしていたのか?」
「そうです。今日からまた皆にご飯作らなくちゃなりませんからね。作るのは、おばちゃんなんですけど。」
「……お前の味も、悪くはなかったがな。」
「木下先生…ありがとうございます。」
椿の笑顔と少し照れるような木下、その雰囲気に勘右衛門と兵助は疑問を浮かべる。
あれ?なに、この空気…
椿さんが…笑ってる?
というか、木下先生がなんか優しい?
え?どういうこと?
お前の味って何?………何??
見えない、話が見えないよ。
ねぇ、一体どういうこと??
帰っていい?
「兵助、勘右衛門。」
「!」
木下に呼ばれて現実に引き戻される。
今の会話を聞いてはならなかったような気がして、二人は笑顔を保ったまま無になる。
木下は椿の荷下ろしを手伝うよう、勘右衛門と兵助に告げる。
椿はいいと遠慮したが、彼女と話をするチャンスだと勘右衛門がそれを引き受ける。
二人は彼女に近づいて小声でそっと問いかける。
「椿さん、どうなってるんですか?」
「あのね、実は……あの後、先生のお家に連れて行って貰ったの。」
「え!?ということは、」
「まさか……上手く行ったってことですか!?」
兵助の言葉に椿は顔を赤らめてうんと頷いた。
なんていい笑顔なのだろう。
人のものになってしまうとこんなに綺麗に見えるものなのか。
何がどう転じてそうなったかわからないが、最早結果が全てだ。
彼女の想いが通じて勘右衛門と兵助は驚きながらも胸が熱くなった。
感動に浸っていると再び木下が二人を呼ぶ。
勘右衛門と兵助が振り返ると、木下が不敵な笑みを浮かべた。
「そういえば椿が随分世話になったそうだな。お前達、新学期は楽しみにしておけよ。」
「!!」
温かくなったものが急激に冷める気配がした。
これは…勘右衛門と兵助が裏で動いていたことがバレているのか?
二人は椿に目で問うと、彼女は顔の前で手を合わせ眉を下げて申し訳無さそうに笑った。
バレてる…!!
彼女に色々仕込んだこともバレてるに違いない!!
つまりタイミングの悪い「好き」も、桜でんぶも「それとも…私?」も、全部木下に伝わった可能性は高い。
だがタイミングの悪い「好き」は、彼女のタイミングだと言い訳をしたい。
が、聞き入って貰えないだろうなあ。
血の気が引く音を初めて聞いた。
そして言葉が出ない二人をよそに、椿は木下の元へ駆け寄る。
「先生、」
「ん」
「いってらっしゃい。」
「ああ。」
椿の笑顔に木下も目元が緩む。
いやいやいや、目の前でいちゃつくのは止めてください!
俺たち居るんですけど!
木下先生、絶対生徒の前であんな顔しないじゃないですか!
いつもならそうやって心のツッコミを入れるのに、今の勘右衛門と兵助はこれから起こるであろう、木下のしごきを予想して感情を封印していた。
「……だーから、巻き込まれたくなかったんだ。」
その様子を遠目に見ていた八左ヱ門は小さく呟いた。
だけど、
あんな顔して笑うんだな…
椿が今まで見た中で一番の笑顔を咲かせているのは、五年い組の尊い犠牲があってこそだったのかも知れないし、そうでもないかも知れない。
ただ今は、彼女の幸せそうな姿にそっと祝福を贈った。
ーお宅訪問大作戦! 完ー
誰かが足音を立てながらこちらへ向かってくる。
額の青筋がより浮きだった時、障子が気持ちの良い音を立てて開かれる。
「木下先生!大変です!」
木下の私室に飛び込んで来たのは勘右衛門だった。
廊下を走るな、入る前に声をかけろと木下の怒号が飛ぶが、強めの謝罪でそれを吹き飛ばすと木下の前に座る。
切羽詰まった様子の勘右衛門に木下も怒るのを止めて耳を傾ける。
「一体何事だ?」
「それが、椿さんが、」
「椿?」
「椿さんが、この休みに帰らずに学園に残ると言っているのです!」
「……」
忍術学園は明日から休みに入る。
忍たまや教職員はこの機会にそれぞれの家に帰ったり、学園長なんかはよく温泉に出かけたりしている。
木下も空けてある家に帰ってのんびりしようと思っていたところだ。
「誰かしら残る先生がいるだろ…」
例えば山田なんかは帰らずにここに残ることが多い。
彼女が一人で残ることはないのではないだろうかと木下は考えた。
「それが、山田先生もご帰宅されるらしく、本当に椿さん一人になってしまうのですよ。」
「じゃあ、どこかに世話になったりするんじゃないか?」
「いいえ、本人に確認しましたが、食堂のおばちゃんのところでさえ行かないと言うのです。だけど…」
「だけど?」
勘右衛門は一旦言葉を止めて木下の様子を見る。
続きを述べるのを迷っていたようだが、意を決するとおもむろに口を開いた。
「……木下先生のところなら、行くと……言っています。」
「……!」
妙な静けさに緊張する。
心臓が早鐘を鳴らして沈黙に耐えられずについ口を開いてしまいそうになるが、必死に抑えた。
勘右衛門はたまらず目線だけで木下の様子を伺う。
眉間に皺を寄せて考えているように見える師は、やがて長いため息を吐いてわかったと一言言った。
「……先生。」
「勘違いするな。椿と話をしてくる。」
「あ……はい。」
立ち上がり退室する木下に続いて廊下に出るとその背中を見送る。
少々強引だが、これで上手く行ってくれればと願う。
「……勘右衛門。」
兵助が後ろから歩み寄り声をかけた。
「いいのか?あんなこと言って。椿さん、このこと知らないだろ?」
「こうでもしないと、木下先生から話しに行ってもらえないだろ?あとは椿さんに任せるしかない。」
「んな無責任な…」
勘右衛門のことだ、半分面白がっているのかも知れなかった。
兵助は椿のことが心配だった。
彼女ならば例えどんなことが起こっても自分でなんとかするのだろう。
だが木下がそれを承諾する…ことは少し難しいかも知れない。
でも、賭けてみたい。
二人が迎える休日がどんなものになるのかを。
気の乗らない重い足取りで食堂へ向かうと、中から楽しそうに談笑する声が聞こえてくる。
顔を出すと食堂のおばちゃんと椿が休憩中だろうか、二人でお茶を飲みながら何か話をしているようだった。
「あら、木下先生。」
木下に気づいたおばちゃんが声をかけてくる。
それに促されるように振り向く椿、その顔は木下を見つけて嬉しそうに花を咲かせた。
そんな顔を見せられて嫌になるはずもなく、不覚にも胸が高鳴る。
「どうかしました?」
「……あー……椿に話があるのだが、いいだろうか。」
「私?」
椿はキョトンとした顔でおばちゃんと目を合わせる。
おばちゃんは全然構いませんよと席を立とうとするが木下はそれを止めた。
外で話したい旨を伝えるとおばちゃんは椿にいってらっしゃいと笑って言った。
木下の後に付いて松の木の下まで来ると足を止める。
そこはちょうど日陰になっていて、上を見れば茂った青の隙間から差し込む日の光がキラキラ輝いていた。
比較的人目につきにくい場所で普段聞こえるような騒がしさもなく穏やかな空気が流れている。
「椿」
「は、はい。」
背を向けていた木下が体を半分こちらに向けて彼女の名を呼んだ。
たったそれだけのことが嬉しくて声のトーンも上がってしまうことに木下は気づいていないだろう。
だが椿の反応とは逆に木下は浮かない顔をする。
「……明日からの休み、どうするつもりだ?」
「お休み、ですか?」
少しずるいと思うが探りを入れてみる。
彼女は質問の意図がわからなかったのか、悩むまでもなく学園に残ると答えた。
「私は帰る場所もありませんし、どなたかのところにお世話になるわけにもいかないので…」
「……」
考えてみれば椿に帰る家はない。
それはわかっていたはずだ、だから彼女が学園に残ると言うのは至極当然のことだ。
だが勘右衛門の言うことが本当なら、明日から彼女はここに一人きりということになる。
一人?一人にしてしまっていいのか?
この焦っているようなイライラしているような、妙な感情が渦巻いて頭を抱えた。
「木下先生?」
木下の様子に椿が心配そうに声をかける。
一体何に対しての不安なのかわからず、こんなことを自分から切り出すのもいつもの木下なら馬鹿馬鹿しいと払い除けるところだが、迷いなく答えた彼女の本質を見極めたいと思った。
「お前が…」
「?」
「お前が……儂の家に行きたいと言っていると、耳にした。」
「…え!?」
驚いた様子の彼女は顔を真っ赤にして口ごもる。
ああ何だ、勘右衛門の言っていたことは本当だったのか。
まさか彼女がそんな我儘を言うはずがないと、どこかで期待していたことが崩れてしまい落胆する。
なぜ木下がそのことを知っているのだろう?
勘右衛門が最終目標に掲げたものなのに。
だけどチャンスかも知れない。
そうだと言って木下が許可してくれれば…
「前から聞きたかったことだが、何故儂なんだ?」
そう口にしたところでそれまでと違う顔を見せる椿。
何故、儂か…
出来ればそれは聞いて欲しくなかった。
木下が好き、それだけで押し通せたならどんなに良かったことだろう。
表情を暗くしてどこか申し訳無さそうに呟く。
「……初めは、似てるなぁと思ったんです。」
「似てる?」
「幼い頃、好きになった人に…」
初恋の相手を木下に重ねていたということか。
自分を透かして顔も知らないその相手を見ていたということにいい気はしない。
変だとは思っていたんだ、歳も離れている娘が自分を好きになるなんて。
「だから、先生が気になってしまって…」
「……儂は、お前の初恋相手ではない。」
自分で聞いておきながらそんな答えは聞きたくなかったと言うように、椿を突き放すような言い方をしてしまう。
「わかっています。そんな風に見てしまって、木下先生には大変失礼だったと思っています。でも、それがきっかけじゃダメですか?先生のこと、好きと言ったことに嘘はないです。名前を呼んでくれて嬉しかった、忍たまの皆と同じように接してくれて嬉しかった、だから木下先生を好きになったんです。先生が私に幻滅しても、この気持ちに偽りはないですからっ…!」
高ぶった感情が本音を掻き出すように涙が溢れて止まらない。
嫌われてしまった、本当にそう思った。
急激に指先が冷えて震え出す。
何をしても届かない、やはり自分と木下の間には超えがたい壁があるようだ。
言葉にしたように木下にとって椿も忍たまたちとそう変わらない存在なのだろう。
もうこれ以上迷惑をかけたくなくて木下の答えも聞きたくなかった。
「…ごめんなさいっ!」
「椿…!」
制する声も無視をしてその場から走り出した。
耐えられない。
耐えられない。
どうやっても、どう足掻いても、この感情から逃れる術を知らない。
消えてなくなればいいのだろうか。
知った喜びも、知りたくなかった悲しみも、全て捨て去れば楽になれるだろうか。
どうやって?
楽になることを自分は望むのだろうか?
わからない。
ただ今は、抑えられない涙に己の気持ちを託すように流れるそれを止めることはしなかった。
彼女に向かって伸ばしかけた手、掴むことが出来なかったわけじゃない。
掴まなかったんだ。
掴んだところで、止めたところで、どうすると言うのだ?
どうしたいのだ?
答えが出せないのに椿を引き止めるなど出来はしない。
彼女は本気でぶつかって来た、ならば本気で答えなければならない。
中途半端な回答は必ず亀裂を生む。
それが還るのが自分ならばいい、だが彼女だったならば?
もしそうなれば己を許したりできないだろう。
彼女はもうこれ以上傷つく必要はない、むしろ逆であるべきなのだから。
「一体、どうしたと言うのだ…」
心の隙間に生まれた答え、それを必死に隠していた。
「……どうしてダメなんだろう…」
「……まだダメと決まったわけじゃないさ。」
「だけど……あの涙は本物だろう?」
草葉の陰から見守る二人。
椿の姿を見つけて見れば彼女から溢れる涙が勘右衛門と兵助を足止めさせる。
直接見なくても聞かなくても、それが椿と木下の答えだ。
「好きでいても、報われないこともあるんだな…」
「椿さんだけじゃない。俺だって……二人にくっついて欲しかった。」
「俺だって、そうさ。」
「悪いこと、したかな…?」
「………」
「……なぁ、知ってたか?木下先生って、椿さんを『椿』って呼ぶんだぜ?多分、最初から…」
「え…?」
「他の先生方でそう呼ぶ人はいない。俺、思うんだけど……本当は…」
「……」
勘右衛門はそれっきり黙った。
兵助もそれを深く掘り下げることはなかった。
二人はただ、彼女の涙が止まるまで見守り続けた。
翌日から休みに入るため、まだ日が高いうちに帰路につく者も多い。
生徒の大半を見送り、土井や山田など教師陣も次々に学園を去って行った。
木下は椿を避けるように人知れず学園を後にした。
非常に後ろ髪を引かれる思いだった。
道中も考えないようにしているのに気がつけば頭の中は椿でいっぱいになり足取りも重くなる。
これで、良かったのだろうか…
物思いにふけていると、道端から鳴き声が聴こえる。
目をやると草むらから顔を出したのはまだ乳離れしていないであろう仔猫だ。
ミィミィとか弱い声で親を探している。
なんだ?はぐれたのか?とぼんやり思っていると頭上より飛来する影。
一瞬の出来事だった。
物凄い早さで落ちてきたそれを認識できたのは、バサバサと羽音を立てて飛び去る姿を見た後。
鳶だ。
奴らは小さい動物を喰らう。
まさか、目の前で仔猫を生け捕ったのか?
途端に嫌な緊張が体を巡る。
鳶の姿を目で追うが、上空を旋回するように飛ぶその足元はよく見えなくてわからない。
仔猫は、どうなった?
あの早さだ、反応出来るはずがない。
捕食者が甲高い声で鳴いた。
ミィミィ
近くで声が聴こえた。
はっとして下に目をやると先程の仔猫がいた。
そのすぐ側には真っ黒なものが興奮した様子で頭上の鳶に威嚇をしている。
木下が僅かに体を動かすと真っ黒なそれはバッとこちらを振り返る。
真っ黒な体に黄金の瞳、親猫と思われるそれは仔猫の首を咥えるとこちらを見たままゆっくり後退り、かと思うと一気に走り出して姿を消した。
どうやら、喰われずにすんだようだ。
もうはぐれるなよ念を送りながらほっと胸を撫で下ろす。
あの一瞬が仔猫にとって運命の分かれ道だった。
もし近くに親がいなかったら…あまり考えたくはない。
近くに、いなかったら…?
あいつは、どうなるんだ…?
自分で自分を守る術を持たない彼女。
曲者も出入りする忍術学園。
休み期間中に何者かが侵入したら…?
今、目の前で起こったことのように、一瞬で彼女は姿を消してしまうのではないか?
心臓が嫌な音を立てる。
休み明けに出迎える笑顔がない、彼女がいない忍術学園、誰が望むであろうか。
自分は、それに耐えられるのか?…馬鹿な。
そうなってしまってからでは、遅いのだ。
なぜそこまで考えが至らなかったのか。
震え出す拳を握り締める。
木下は来た道を睨みつけると走り出した。
こういう時いつもなら吉野が最後に学園を出て鍵を預かるはずなのだが、今回は椿が残ると言うので鍵を彼女に託そうとする。
だが吉野も彼女一人を置いていくのが忍びなく、本当に残るのかと念を押して聞いた。
彼女は普段と何ら変わらない様子で、大丈夫、任せて欲しいと笑顔で答える。
「鍵はお預かりしますから、吉野先生もゆっくりお休みしてくださいね。」
彼女のその顔に心が揺れる。
「……椿さん、やはり一緒に行きませんか?」
「え?」
「あなたを一人ここに残すのは……心配が過ぎるので…」
「吉野先生…」
椿は困ったように笑う。
「お気持ちは大変嬉しいですが、私は…」
「椿!!」
話の途中で割り込んだ怒鳴り声にも近い叫び。
驚いてそれが聞こえた方を振り向くと珍しく息を切らしながら駆け寄るその姿。
「…木下先生?」
いつの間にか姿を消していた木下、もう帰ったものかと思っていたのに現れた彼に椿の胸は跳ねる。
「ど、どうされたのですか?」
「木下先生、お忘れ物でも?」
冷静に聞く吉野に息を整えながら木下は答える。
「……ええ、そんなところです。……吉野先生、」
「はい。」
木下は椿が持っていた忍術学園の鍵を奪い取ると吉野に差し出した。
「彼女は私が預かりますので、鍵をお願いします。」
「え?」
吉野が迷いながら鍵を受け取ると、一礼をした木下は椿の手を取って歩き出した。
「あ、のっ……木下先生?」
椿の声掛けに木下は反応しない。
訳がわからない様子の彼女は強引に引っ張られながらも吉野を振り返り会釈をする。
唇がわずかに、すみませんと言っていた。
二人の後ろ姿を見送りながら呆然と立ち尽くした吉野は自嘲気味に笑って吐き出した。
「……お姫様は攫われてしまいましたね…」
足早に歩を進める木下にやっとの思いでついていく椿。
木下が吉野に言った一言が頭の中で反復する。
そして繋がれた手の温かさとごつごつとした感触、意識すると顔が赤くなってしまう。
何がどうなっているのか、木下はどうしてしまったのか、聞きたいのに上手く声が出てこない。
忍術学園から遠く離れたところで木下が速度を落とした。
「……木下先生、」
「……」
「あ、あの……どうして…?」
「うちに来るのは、嫌か?」
「え?」
嫌かと聞かれて嫌だと答える口は持ち合わせていない。
むしろそれを望んでいたことを知っているはずなのに、わざわざ確認を取るのは彼の優しさなのか弱気なところなのか。
「…と言ったところで、もう忍術学園には戻れないが。」
鍵は吉野に預けてしまったし、木下の家に向かうしかない。
勝手に決めて逃げ道を塞いで、彼女に選択の余地を与えないのにそう聞くことはずるいと思う。
彼女はどう思っただろう?
横目で椿の様子を伺う。
「行っても、いいんですか?」
「……」
「だ、だって、さっき先生が…っ」
「気が変わったんだ。………いや…」
否定をこぼしたところで言うまいと口を塞ぐが、椿は聞き逃しはしなかった。
「なんですか?」
「……なんでもない。」
「言ってください、先生。お願い…」
彼女が袖をぐっと掴む。
その瞳は期待か不安、あるいは両方を含んで揺れていた。
目が離せなくなってしまう。
そこに写る自分の姿に気づいてしまったが、彼女は逃げることを許さない。
先に逃げ道を奪ったのは自分なのだ、観念するしかなかった。
「……気が変わったと言うか、今決めたことじゃない。本当は……前から、お前が欲しかった。」
「っ!」
椿が息を呑んで顔を伏せる。
「……椿?」
「だったら……もっと早く、言ってください……先生の意地悪……」
「……悪い。」
「でも、嬉しいです。……木下先生、」
「ん?」
「好きです。」
何度も聞いた言葉なはずなのに、安心したように笑う彼女を見ていると自然と顔が緩んでしまいそうだ。
「ああ。」
「好きです。」
「ん」
椿は今までの想いを重ねるように同じ言葉を繰り返す。
悪い気はしないのだがだんだんとそれがくすぐったくて恥ずかしくなる。
「先生、好きです。」
「椿、」
「はい。」
「もう、わかったから。」
聞くに耐えられなくなり顔を隠す。
椿は木下を覗くように食い下がる。
「木下先生、」
「……」
「……先生、は?」
「!?」
先生は、と聞かれて何のことかと考えを巡らすがすぐに彼女が言わんとしていることがわかった。
だがそれを、言うのか…?今?
緊張と共に体温が上昇する。
椿が期待するようにこちらを見つめている。
正直、その顔には弱い。
それに、彼女は言うまで引かない。
「……っ」
「……先生…」
「……」
「……」
「……………………………………好き、だ…」
「!」
普段の木下からは想像もつかないくらい小さい声でそう言った。
顔が熱くてまともに彼女を見ることが出来ない。
だがそれを聞いた椿は同じように頬を赤らめながら満面の笑みを見せる。
ここが外でなかったなら、彼女を腕の中に閉じ込めてしまいたいところなのに。
「ふふ、先生、好きです。」
「だから、もういいと、」
「だって、やっと通じたんですもの。」
確かに今まで彼女の言葉を受け取るどころか流してしまっていた。
それは色々な葛藤があったせいだがこんなに幸せそうに笑う椿を見ていると、自分のしてきたことが愚かであったなと反省する。
椿の幸せを願うから突き放すのはもう辞めた。
彼女がなりたい幸せを自分が叶える、それだけだ。
だがそんな言葉を口に出せるはずもなく、眉間の皺を深くして彼女の告白をしかと受け止める。
「先生、」
彼女はまた同じ言葉を繰り返すのだろう。
だがもう、言わせるわけにはいかない。
こちらの理性が持ちそうにない。
「椿、」
「?」
「今それ以上言うと、その口塞ぐぞ。」
「っ」
危険を察したのだろうか、椿は両手で自分の口を塞いだ。
その姿が愛おしくて思わず木下は笑みを漏らす。
その笑顔を見て安心した椿もつられて笑った。
「とりあえず家に向かわないとな。遅くなると風が出てきてしまう。」
日が暮れると風も冷たくなる。
彼女が体を壊してはいけないので冷える前に帰ろうと歩を進める。
すると椿の手がさり気なく木下の腕を掴んだ。
「大丈夫です。寒くなっても先生の手、温かいですから。」
「!!」
何を考えてその発言をしたのか、あるいはわかっていないのか。
掴んだ手に引き寄せられるようにして椿の体が近づく。
彼女は嬉しそうに笑っているが、こちらはそんな余裕はない。
ただでさえ…好いた女を家に連れ帰るのだ。
気づかないようにしていたのに、彼女の言動に意識がそちらへ飛んでしまいそうになる。
木下鉄丸、39歳。理性が試される帰り道だった。
休みが明けて新学期が始まる。
兵助は道すがら、勘右衛門を見つける。
声をかけるが、覇気のない返事が返ってきた。
まあ、原因はなんとなくわかる。自分だってそうだ。
「……椿さん、どうしたかな?」
「……そうだな…」
学園前まで来ると沢山の生徒たちが笑顔で挨拶を交わしながら門をくぐっていた。
勘右衛門と兵助は入門すると自室には向かわず食堂へ行った。
彼女がそこにいるはずだから。
食堂では今届いたのであろう食材を運んでいる椿の姿があった。
二人は足早に近づいて声をかける。
「椿さん。」
「あ、勘右衛門君と兵助君。」
勘右衛門たちが想像していたよりも明るい返事が返ってくる。
元気だったか、休みは楽しめたか、椿はそんな言葉を投げかける。
世間話もそこそこに、二人がここに来た理由を彼女に問う。
「あの……すみませんでした。」
「え?」
「俺たちが余計なことをしたから、椿さんを逆に悲しませることになってしまって…」
「……えーと?」
しゅんと項垂れる勘右衛門と兵助、椿は二人が落ち込む理由がわからない。
「あのね、私、二人にとっても感謝してるんだよ。そうだ、お礼言ってなかったね。二人共、協力どうもありがとうございました。んーと、だからそうやって頭を下げられる理由が思いつかないんだけどな。」
「だって休みの間、一人でここに残られたのでしょう?」
「あの日、椿さんが泣いているのを見てしまったんです。だから……上手く行かなかったのかと思って…」
「……あ…」
そうか、あの時のことを二人は言っている。
だがその後に起こったことは知らないだろう、だからこうして元気がないのだ。
なんだか気を使わせてしまって、二人がこの休みを有意義に使えなかったのではないかと申し訳なくなってしまう。
「あのね、実は、」
「椿」
後ろからかけられた声に言葉を止めると、声の主を見た勘右衛門と兵助が驚いた顔をして背筋を伸ばす。
二人は直接木下と何かあったわけではないのに、なんとなく緊張してしまう。
「き、木下先生!」
「おはようございます!」
「ん、二人共着いていたか。」
勘右衛門と兵助の姿を見てそれだけを言うと、木下は椿に畳まれた紙を手渡す。
「学園長からおばちゃんへなんだが、いないようなので渡しておいて貰えるか?」
「はい、わかりました。」
「荷下ろしをしていたのか?」
「そうです。今日からまた皆にご飯作らなくちゃなりませんからね。作るのは、おばちゃんなんですけど。」
「……お前の味も、悪くはなかったがな。」
「木下先生…ありがとうございます。」
椿の笑顔と少し照れるような木下、その雰囲気に勘右衛門と兵助は疑問を浮かべる。
あれ?なに、この空気…
椿さんが…笑ってる?
というか、木下先生がなんか優しい?
え?どういうこと?
お前の味って何?………何??
見えない、話が見えないよ。
ねぇ、一体どういうこと??
帰っていい?
「兵助、勘右衛門。」
「!」
木下に呼ばれて現実に引き戻される。
今の会話を聞いてはならなかったような気がして、二人は笑顔を保ったまま無になる。
木下は椿の荷下ろしを手伝うよう、勘右衛門と兵助に告げる。
椿はいいと遠慮したが、彼女と話をするチャンスだと勘右衛門がそれを引き受ける。
二人は彼女に近づいて小声でそっと問いかける。
「椿さん、どうなってるんですか?」
「あのね、実は……あの後、先生のお家に連れて行って貰ったの。」
「え!?ということは、」
「まさか……上手く行ったってことですか!?」
兵助の言葉に椿は顔を赤らめてうんと頷いた。
なんていい笑顔なのだろう。
人のものになってしまうとこんなに綺麗に見えるものなのか。
何がどう転じてそうなったかわからないが、最早結果が全てだ。
彼女の想いが通じて勘右衛門と兵助は驚きながらも胸が熱くなった。
感動に浸っていると再び木下が二人を呼ぶ。
勘右衛門と兵助が振り返ると、木下が不敵な笑みを浮かべた。
「そういえば椿が随分世話になったそうだな。お前達、新学期は楽しみにしておけよ。」
「!!」
温かくなったものが急激に冷める気配がした。
これは…勘右衛門と兵助が裏で動いていたことがバレているのか?
二人は椿に目で問うと、彼女は顔の前で手を合わせ眉を下げて申し訳無さそうに笑った。
バレてる…!!
彼女に色々仕込んだこともバレてるに違いない!!
つまりタイミングの悪い「好き」も、桜でんぶも「それとも…私?」も、全部木下に伝わった可能性は高い。
だがタイミングの悪い「好き」は、彼女のタイミングだと言い訳をしたい。
が、聞き入って貰えないだろうなあ。
血の気が引く音を初めて聞いた。
そして言葉が出ない二人をよそに、椿は木下の元へ駆け寄る。
「先生、」
「ん」
「いってらっしゃい。」
「ああ。」
椿の笑顔に木下も目元が緩む。
いやいやいや、目の前でいちゃつくのは止めてください!
俺たち居るんですけど!
木下先生、絶対生徒の前であんな顔しないじゃないですか!
いつもならそうやって心のツッコミを入れるのに、今の勘右衛門と兵助はこれから起こるであろう、木下のしごきを予想して感情を封印していた。
「……だーから、巻き込まれたくなかったんだ。」
その様子を遠目に見ていた八左ヱ門は小さく呟いた。
だけど、
あんな顔して笑うんだな…
椿が今まで見た中で一番の笑顔を咲かせているのは、五年い組の尊い犠牲があってこそだったのかも知れないし、そうでもないかも知れない。
ただ今は、彼女の幸せそうな姿にそっと祝福を贈った。
ーお宅訪問大作戦! 完ー
2/2ページ