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おいかけっこ
さわり
何かが背中で揺れた。
気の所為か、初めはそう思った。
さわさわ
布越しに伝わる妙な感触。何度も、何度も。
だが振り返っても誰もいない。
気の所為…ではない?
瞬間、腕に触れた。
バッとそこを確認する、何もない。
嫌な汗が流れる。
虫であるならば手で払ってしまえるのに、背中を探ってみても一向に掴めない。
見えないのに、触れないのに、何かが確かにそこに存在しているのを感じる。
ここは学園の中、だが曲者も出入りするため得体の知れない何かに緊張と恐怖が襲う。
「…い………いやぁぁぁぁ!!」
思いの外、学園中に広がった悲鳴。
だが椿にそれを気にする余裕はなかった。
「椿さん!?何事ですか!?」
近場にいたのだろうか、真っ先に駆けつけたのは野村だった。
騒ぎを聞きつけ続々と生徒たちが群がり始める。
「の、野村せんせぇ…」
すっかり怯えてしまったように小さく体を強張らせた椿。
こちらを見上げるその瞳は微かに潤っているようで、目の当たりにした野村の胸は高い音を立てた。
自身の変化を理解するのは容易くなく、だが考えている時間もない。
怯えている椿を放っておくことも出来ずに、戸惑いながら声をかけた。
「……っ、椿さん、どうされたのですか?」
「た、」
「た?」
「助けてください!」
「!?」
体の重心が後ろに傾く。
胸に感じる温かさ。
目線を下にずらすとなんと、椿が野村に縋り付いているではないか。
自分に体を預けてしまった彼女に、浮いた手が行き場を失う。
突然のことに言葉が続かない。
周囲のざわめきに、はっと我に変える。
この場にいるのは自分だけではない、生徒たちも椿の叫びを心配して集まっていたのだ。
生徒の前で抱き合う姿など、見せられるわけがない。
野村は惜しみつつ彼女の肩を掴んでぐっと引き離すと、顔を覗き込んで尋ねた。
「とにかく落ち着いてください……何があったのですか?」
「野村先生、あの、せ、背中に……」
「背中?」
「何かがいるんです!何かを感じるんです!でもいなくて、払おうと思っても出来なくて、でもいるんです!」
そう訴える椿から視線をずらして彼女の後ろを覗き見る……までもなく、見覚えのある巨体に野村はだいたいの経緯が読めた。
「…………何やってるんですか、松千代先生。」
「……え?……松千代先生?」
巨体は顔を覆っていた手を少しだけ動かして目だけを現した。
だがそれも一瞬のことで、椿が振り向くと途端に顔を隠してしまう。
「は、恥ずかしいぃぃぃ!」
「ま、松千代先生、見ませんでしたか!?私の背中に何かがっ…」
「……椿さん」
全く気付いていない様子の椿を野村が呆れたような声で呼んだ。
彼女は何故呼び止められたのかを理解していないように野村を見つめる。
集まっていた生徒たちが、なんだ松千代先生かと散り始めていた。
それに合わせて野村が生徒たちになんでもないと声をかけ、皆興味を失ったように普段通りに戻って行った。
唯一わかっていない椿を除いて。
「野村先生、どういうことなんですか?」
「ですから、あなたの背中に触れていたのは、そこにいる松千代先生だと言うことです。」
「……え?」
椿が松千代に目を向けたが既にそこに影形もなく、辺りを見回して探していると野村がここですと自分の後ろを指差した。
「松千代先生?」
椿が覗き込むようにして声をかけると野村の後ろに隠れた松千代が体を震わせる。
指の隙間から目だけを彼女に向け、一瞬だけ視線が交じるがすぐに逸らされる。
「すみません椿さん、驚かせてしまったようで…」
「松千代先生、だったのですか?」
なんだ、正体が分かればなんのことはない。
虫でも曲者でも、得体の知れないものでなければ椿にとっては何ら問題はなかった。
落ち着きを取り戻した彼女は胸を撫で下ろしたが、それで済まないのは野村である。
「あのね、いい加減にしてください。いつまで人の後ろに隠れているつもりですか。」
「だって、恥ずかしいんです。」
「だってじゃないでしょう?背中にぴったり張り付けられるこっちの身にもなってください。」
「野村先生がそう仰るから、他の人を探していたんです。」
「私のせいだと言うのですか?」
「そうは言ってないじゃないですか。」
「あ、あの野村先生…!」
過熱しそうな勢いに椿は思わず口を挟んだ。
「私なら大丈夫ですから。松千代先生だと分かれば怖くないですし。」
「しかしですね…」
「それにその方が野村先生も気にしないで済むじゃないですか。」
「それは…」
確かにずっと背中に張り付けられているのは気になるので、他のところに移ってくれたら楽は楽なのだが。
その相手が椿となると、素直に首を縦に振ることができない。
「松千代先生がついててくれたら、何かあっても安心ですし。」
最もらしいことを言う椿に何も言えなくなる。
完全にその状況を良しとする彼女の顔。
野村、松千代双方の益となる答えを出した椿に反論するのは好ましいことではない。
「ね、野村先生。」
「……」
……負けた。
納得した訳ではない、が、これ以上言葉を重ねても彼女の意見を覆すことは出来ないだろう。
それだけ彼女が頑固者であることを知っている。
いつも、見ていたのだから…
野村がため息を吐くと背中に隠れていた松千代の気配がなくなる。
どうやら椿の方にまた戻ったようだったが、今度は彼女もワサワサと触れる松千代の髪をくすぐったがり笑っている。
じゃれ合っているように写る二人の姿に苛立ったが、なるべく抑えて野村は言った。
「松千代先生、あまり彼女を困らせないようにしてください。」
「はぁい。」
「……椿さんが返事をしてどうするんです…」
「ご心配なさらなくても大丈夫ですよ、野村先生。私、ちょっと楽しんでますから。」
先程自分に縋り付いて来たのは何であったのか。
彼女のすっかり安心しきった顔にやるせなさを感じざるを得ない。
「野村先生、」
「?」
「ありがとうございました。」
「……っ」
渋る野村を笑顔で説得したのはつい先日のことだった。
それからというもの、椿の背には隙きあらば松千代が張り付く形となった。
洗濯をする時、後片付けをする時、休憩中や買い物にもついて来た。
流石に風呂や自室にまでついて来られる訳にはいかないのだが、声掛けをしなければ松千代が離れなかったのは困りものだった。
「最近、松千代先生見かけませんね。」
「……何言ってるんです、あなたの後ろにいるではないですか。」
あまりにも顔を見ないのでそう野村に零すと呆れ返った返事をされる。
ああ、そうか、あまりに当たり前過ぎて忘れる程だった。
その日、中庭を散歩していた椿は背中に張り付く松千代に声をかけた。
「あの、松千代先生。たまには顔を見てお話しませんか?」
「無理です。」
「でもずっと側にいるのにお話出来ないのも寂しいなぁって思うんですけど。」
「私はこのままで構いません。人前に出るなんて恥ずかしくてとても出来ません。」
なかなかの強敵だ。
しかしそれで諦めないのが彼女である。
「じゃあそこの木の影なら隠れられそうですから、向かい合ってお話しませんか?」
「で、出来ません。このままで良いではないですか。」
「もう!出来ない出来ないって、ちょっとは頑張ってください!」
椿はなんとか松千代と向き合おうと、後ろを振り向いたり回り込もうと試みる。
ところが忍者の動きに適うはずもない。
松千代だって、忍術学園の先生なのだから。
「松千代先生!顔を見せてください!」
「椿さんやめてください、恥ずかしくてとても出来ません!」
「また出来ないって言うんだから!」
ここまで頑固であるなら椿にも考えがある。
「大変!!左近君が!!」
「え!?」
明後日の方を指差した。
松千代はそれにつられて彼女が差した方向を向く。
左近の名前に、また穴にでも落ちたのではないかと一瞬でも思ってしまった。
ところが振り向いたところに影も形もなく、左近の声や落とし穴の存在も確認出来なかった。
しまった…!
そう思った時には一歩遅く、彼女は前方に全力疾走を開始していた。
松千代もまた全力で追いかける。
追いつくことは容易い、と思っていた。
いくら彼女との間が空いていても、人一人分のそれではすぐに捕まえられそうだ。
それもまた、油断である。
椿は遠くへ逃げることはなかった。
少しの距離を持てたところで彼女はくるっと向きを変える。
両手を広げて受け止める姿勢を取った。
!!
全力で走っていた椿が急に足を止めるが、追いかけていた松千代が止まるのは簡単ではない。
今から足を止めたところで彼女の体にぶつかることは必至である。
そんなこと、できるはずがない。何が何でも止まらなければならない。
椿の方は受け止める自信があるかのような顔を見せる。
無理だ。
どう考えても急に止まった彼女を避けることなど出来ない。
体の進路を反らしたところで少しでも掠めれば彼女の体も吹き飛ぶだろう。
「松千代先生!」
「!!」
危ない、ぶつかる!!
そう思った時には体が勝手に動いていた。
松千代は右足に全体重をかけると体をひねるようにして飛び上がる。
避けられないなら彼女ごと包んで飛び退くしかない。
椿の体をすくうように抱き上げて、ひねった方向の遠心力に任せるようにして足を踏ん張らせた。
ズサササッ……
大きく弧を描くように地面にすられた足跡。
心臓がドクドクと嫌な音を立て、額から汗が止まらない。
呼吸は粗く彼女を抱く手は力一杯握られていた。
土煙が辺りに立ち込めていた。
「はぁ、はぁ……」
椿は?彼女は無事だろうか?
はっとして腕の中を覗き込む。
彼女は松千代の胸に顔を埋めながら装束をがっちりと掴んでいた。
「……な、なにをするんですか!突然立ち止まったりして危ないじゃないですか!」
もしあの時判断が遅れたら、椿に怪我をさせてしまっていたかも知れない。
無事でいられなかったかも知れない。
もしそうなってしまっていたら後悔するだけでは足りない。
松千代は珍しく声を荒げた。
だがまたしても彼女の行動は松千代の予想の遥か上を飛び越えた。
掴んでいた手を離すとそれは松千代の首に回さられる。
椿の体を両手で持ち上げているため、抵抗することも振り解くことも出来ず、彼女のなすがままになるしかない。
ぎゅっと抱きつかれる感覚、頭の中は混乱が渦巻く。
「やっと、捕まえた。」
「……え?」
苦しささえ覚える首元が熱く感じる。
押し付けられた彼女の体からはその鼓動が伝わって来て、自分のそれと混ざり合いどっちの音であるのか区別が出来ない。
一瞬湧いた怒りの感情が萎んでいく様をどうすることもなく見送った。
「……椿さん…」
自分の髭に頬を寄せながらくすぐったいと笑う彼女に何も言えなくなり、今はただ、無事で良かったという感情しかない。
「どうして……あんな無茶をしたのです?」
精一杯の言葉を絞り出す。
せめて、それだけでも解明しておきたかったのだろう。
自分のことであるのに、最早何をしたら良いのかわからなくなっている。
不安気な松千代とは対照的に椿の返事は明るい。
「だって、松千代先生とお話したかったんです。」
「……話?」
「そうですよ。ちゃんと顔を合わせて、お話したかったんですから。」
話をしたいと言うことは、自分に興味を持ってくれているということ。
それに気づいた時、松千代の心臓は鷲掴みにされたように縮んだ。
体中を巡る血が沸騰したように熱い。
再びぎゅっと抱きつく椿に、現状をやっと理解した松千代は顔から火が出そうになった。
「あああ、あの、わ、わかりましたから、少し、離れませんか?こっ、このままでは話しにくいですし…」
「私は、別にこのままでもいいんですよ?」
先程とは形勢逆転、今は完全に彼女が主導権を握っている。
自分が言ったことをそのまま返されてぐうの音も出ないでいる松千代を椿がクスクスと笑った。
「松千代先生、今度は逃げないでくださいね。」
「……もう、あなたからは逃げられそうにありません。」
観念して頷く。
いつも人から逃げるようにして隠れて来たが、どうやら彼女の前では隠れることが出来ない。逃げることができないようだ。
しばらくの沈黙の後、椿が口を開く。
「……あの、先生が離してくれないと、私降りられないのですが…」
「あ…」
それはそう、なのだが……
すっかり体に力が入ってしまった松千代は固く抱いた手を解くことに手こずり、それがわかった椿はまた笑う。
それにしても…
ぶつかりそうになったあの一瞬、松千代が見せた真剣な表情。
かっこ良かったなぁ…
椿はそれを思い出して自分の気持ちにくすぐったくなり、隠すように松千代に抱きつく。
「……やっぱりこのままがいいです。」
「!?……っ、椿さんっ…!」
―おいかけっこ 完―
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