奪い愛(野村雄三)
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平穏無事ないつもの風景に似つかわしくないため息を吐く。
原因となったその顔とも、食堂に立つ以上合わせないわけにはいかないのだが、彼はあの夜のことがなかったかのように普段通りだ。
いちいちドキドキしてしまうのはこっちだけなのか、それともあれは酒の影響で口走ったことだったのか。
いまいち心のモヤが消えずにこうして吐き出すしかできなかった。
大木に求婚された時もこうして考えることはあったのに、今回は勝手が違っていてそれが何故なのかわからずに後ろ姿を盗み見る。
決して酒のせいではなかった。
いつからだったのか、そんな甘酸っぱい記憶を辿る程自分は若くないが、気付いた時には目で追っていた。
打ち明けないつもりだったのに、あいつが彼女を攫ってしまうとわかった瞬間にそれは崩れ落ちた。
許せなかった。
どうせ叶わぬのなら、彼女があいつを選ぶのなら、この積もり積もった想いごと連れさればいい。
だから後悔はしていない。
今も彼女は普段通り振る舞いながらも瞬間的に見せる憂いをおびた顔は、自分の言葉を考えていてくれてるに違いないと思うから。
「……お嬢さん、……お嬢さん、」
「……え?」
声をかけられてはっと顔を上げると狐顔の男が不思議そうにこちらを見ていた。
見知らぬその男に椿は体を緊張させる。
「ぼーっとしてどうしたの?買うの?買わないの?」
「買う?」
男が言っていることが理解出来ずに辺りを見回して状況を整理しようとする。
周りは見たことのある景色だった。
忍たまやくのたまと何度か足を運んだことのある町の風景。
そうだ、食堂の仕事が終わった後、気分転換にとおばちゃんに勧められて町まで来ていたのだ。
おばちゃんは椿のため息を見逃さなかった、最近の彼女を見ていて思う節があったからだ。
だが道中歩いていた記憶はほとんどない。
ずっと考え事をしながらフラフラと宛もなく歩いていたら町まで辿り着いたようだ。
何を、考えていたのか…
自問するまでもない、大木に求められていること、それに対する野村の反応を期待をしていた自分、打ち明けられた気持ち。
答えを出した方がいい、出すべきなのだろう。
だがいまだに整理がつかない自分と比べて、急かさない大木と何も言わない野村、椿の答えを待ってくれている二人がとても大人に思えた。
どうすれば自分も大人になれるのだろう、そう考えていたら自然と足がここへ向かっていたのだ。
目の前に広がる赤や朱や紅、そう紅屋だ。
紅など、自分で買ったことがなかった。
遠い記憶の中の母が紅を差していて綺麗だったことを覚えている。
大人になるとはこういうことなのか、そう思ったら紅屋の前で立ち止まっていたわけだ。
椿の顔を覗くこの狐顔の男はここの店主なのだろう、いつまでも立ち尽くしている彼女に買わないなら商売の邪魔だよと言わんばかりの表情を見せる。
「わ、私…」
「失礼、連れが何か?」
返答に困った椿の後ろから聞き覚えのある低音が響く。
振り返って見るとその見知った顔に驚いて声を失った。
「のっ…!?」
「旦那の連れかい?このお嬢さんがさっきからここで立ち止まって動かないから、どうしたもんかと思ってたんだかね。」
「そうですか、それは迷惑をかけました。」
現れたのは野村だった。
野村は椿の前に並べられた小箱にざっと目を通すと、その中の一つを手に取った。
「店主、これを貰えますか。」
「…えっ」
「毎度。旦那の…妹さんかい?」
銭を渡しながら野村が椿に一瞥をくれる。
信じられないものを見たように目を見開く彼女に野村は一瞬だけ目を細めると、男の問いに答えた。
「いえ、妻です。」
「!?」
「なんだって!?嫁さん!?随分若い嫁さんを貰ったんだねぇ!羨ましいなぁ!」
店主はその顔に似合わない程の大口で笑った。
椿は飛び出して来そうな鼓動を押さえるのに精一杯で、野村と男との世間話が耳に入ってこない。
野村先生、今、何て言った、の…?
あの夜以来まともな会話をしていなかった野村の発言に椿は動揺したが、何か考えがあってのことだろうと気持ちを落ち着かせようとする。
不意に野村の手が目の前に伸びてきて椿の顎を捉えると上を向かせた。
そして買ったばかりの紅を指で少量すくうと彼女の唇にそっと乗せた。
「!!」
「やっぱり、あなたにはこの色がいいですね。」
目が合うと野村が柔らかく微笑むので椿は顔の火照りが抑えられない。
私からの贈り物ですと、紅の入った小箱を椿に握らせる。
触れた手の温もりがあの夜の記憶を一瞬にして引き出してしまう。
何も発せず、何も抵抗出来ず、椿は野村のなすがままだった。
「かーっ!見せつけてくれるねぇ!さぁ、行った行った!そういうのは他所でやってくれよ。」
追い出される形で店を後にしたが、店主の男は律儀に店先まで見送るとまたご贔屓にと声をかけた。
野村の後をついて人通りの少ない町外れまで来ると椿は意を決したように口を開いた。
「あのっ、どうして…」
どうしてあの店に現れたのか、どうして紅を買ってくれたのか、どうして…妻と言ったのか…
聞きたいことがたくさんあって何を聞いていいのかわからなくなる。
椿の声掛けに野村は立ち止まって振り返る。
「……どうして、ですか。それは私も聞きたいですね。」
どうして紅なんか見ていたのか、どうして…妻と言ったことを否定しないのか。
わかっている、わかっているはずなのだ。
彼女は大木の元へ嫁ぐことを決めたのだろう、だから今まで必要としなかった紅などに興味を持ったのだろう。
妻を否定しなかったのはそうなる覚悟があるから、他人の前で騒ぐ程子供ではないと言うこと。
これは悪あがきだ、どうせ大木のものになるなら自分が贈る色を纏って、その色に染められた姿であいつの元へ行くがいい。
「……ごめんなさい、野村先生の仰っしゃりたいことがわかりません。」
椿は野村が何かに怒っていると勘違いしているようだった。
半分は当たっている、ただし彼女に対しての怒りではない。
「……その紅は私からあなたへの、餞別です。どうか、お幸せに…」
それ以上の言葉を重ねることも、彼女の顔を見続けるのも、耐えられなかった。
背を向け歩き出す野村。
餞別、ってどういうこと?
先生と会えなくなるということ?
その背中を追いかけなくては、捕まえなくては、もう二度と野村に会えなくなってしまうかも知れない。
もう、会ってくれなくなるかも知れない。
何故なのかわからない、でも嫌だ。
どうして会えなくなるの、嫌だ、遠くに行かないで。
餞別の品なんかいらない、野村に会えなくなるなら、いらない。
「待ってください!」
走り出していた。
今掴まないと、永遠に手に届かなくなる、そんな気がする。
野村が望まなかったとしても、何も言えないままで別れるなんて出来ない。
納得出来ない。
野村の着物を捕まえる。
絶対に離さぬよう、強く、強く。
「私まだ、何も聞いていません!何も、言っていません!お願いだから、話を…させてください。そうしたら私ちゃんと……わかりますから。先生の、望むようにしますから……だから、お願い、話をさせてください。」
立ち止まる二人の間に無情な時間が流れる。
野村は椿の手を振払わなかった。
そうすることも出来たのに、これ以上の話を望まぬならさっさと姿をくらますことも出来たはずなのに。
彼女は今、どんな顔をしている?
納得はいっていない、そうだろうな、話すことが怖くて自分は逃げたのだから。
大人のやることにしては幼稚だ。
まだ彼女と向き合う勇気が足りない、だから背を向けたまま声をかけた。
「あなたは……大木雅之助の元へ行くのでしょう?なら、これ以上会話を重ねても、もうどうにもならないことです。私はただ…あなたの幸せを願うだけです。」
結婚の申し出があったと言い出したということは、椿はそれを祝福して欲しかったのだろう、送り出して欲しかったのだろう、それが野村の感じたことだった。
それを望むか聞いたとき、はっきりした返事をしなかったのは照れからだと思った。
彼女にとって野村は、ただ同じ学園で働く職員の一人でしかない、そう思ったのだ。
だが、椿が納得できるはずもない。
何をどう勘違いしたらそういう結論に至るのか、さっぱりわからない。
「……なんですか、それ。私が大木先生のところに行くから、これをくれたのですか?大木先生のところに行くから、もう話すこともないってことですか?」
紅の小箱を強く握りしめる。
椿は素早く野村の前に回り込むと彼の瞳を覗き込む。
「これ、お返しします!」
小箱を突きつけられた野村は怪訝な顔で椿を見つめる。
「これは、あなたに贈ったものです。返されても困ります。」
「違います。先生がくれたのは、大木先生のところへ嫁ぐ私にくれたものです。」
「……そうですよ?」
「でも!そんなの、いないです!だから受け取れません。」
「どういうことですか?」
「わかりませんか、大木先生に嫁ぐ私はいないって言ってるんです。私は、大木先生のところに行くつもりはないし、行くなんて言ったこともないです。何を勘違いされてるかわからないですけど、大木先生のところへ嫁ぐ椿に贈ってくださったものだったとしたら、そんな私はいないので受け取れないと言うことです。」
「…!」
まくし立てる彼女の顔は憤りで歪み、その目には涙が光る。
感情を爆発させたように指先が震え、それでも真っ直ぐに野村を捕えて離さない。
「……行かないの、ですか?あいつのところに…」
「ですから、そう言ってる…っ」
差し出された小箱ごと彼女の手を両手で包む。
その震えを取り除くように、大切なものに触れるように。
「これは、あなたに贈ります。」
「先生、私は…!」
「雅之助のところへ行くあなたに贈るのは辞めます。これは椿さんに、ただの、食堂のおばちゃん見習いの椿さんに贈らせてください。」
「…………………野村先生…」
手の震えは収まっていた。
包まれる温かさに安心したように椿は冷静さを取り戻す。
「……椿さん、」
「……はい。」
「なぜ、…あの店に居たのですか?」
あの店とは先程の紅屋のことを指している。
野村の質問の趣旨がわからなかったが、椿は正直に答える。
「……どうしたら、大人になれるのかと思いまして…」
「大人?大人になりたいのですか…?」
「だって!……先生たちは大人で……私はまだ、将来も決められないような子供で、責任もないし、野村先生や大木先生のような大人に近づかなきゃって……じゃないと答えも出せないと思って…っ」
彼女は彼女なりに答えを出そうと藻掻いていたのだ。
それが結果として大人になる、大人になりたいという結論に位置づいたのだろう。
紅を付けることで大人の仲間入りをするとでも思ったに違いない。
そんなことをしなくても、野村も大木も胸を張れるような大人ではないというのに、まだ十七の椿にはわからないだろう。
「無理して大人になんて、なろうとしないでください。あなたは、あなたのままでいいのですから。」
彼女の瞳から溢れた涙を掬って野村は続ける。
「椿さんはそのままで、充分魅力的です。」
「でも、私、大人になりたいです…。野村先生と一緒に歩けるような大人に…!」
「あなたが私をどう思っているかわかりませんが、私はそんなに大人ではありません。嫉妬、ヤキモチ、妬みだってします。そういった感情に潰される前にあなたから逃げようともしました。あなたが雅之助に取られる、そう思った時には心穏やかになんていられやしなかった。」
「……先生…」
「………」
「……私は、どこにも行きません。ここに、野村先生の側にいます。」
「……それって…!」
椿が笑う。
随分遠回りをしたが、あの夜の答えを彼女が言ったような気がしてそれだけで全てなかったことになりそうだった。
野村は目を見開いて彼女の手を前と同じように引き寄せ、今度はその細い肩を抱く。
「せ、先生!紅が付きます…!」
「構いません…、椿さんを、感じさせてください。」
体を硬く強張らせていた椿は、野村の言葉に答えるように彼の着物をギュッと握る。
「あなたの答えだと、受け取ってよろしいのですか?」
「………はい。」
「椿さん…」
夢のようだ。
彼女をそういう目で見る輩を多く見てきた。
だから自分に振り向くことなどないと、決して打ち明けぬと、思っていたのに。
いざとなると制御が出来ずに彼女を傷付けた。
誰かのものになるなら、その前に自分の爪痕を残そうとした。
愚かだ。
愚かな男だ。
彼女は大人になりたいと言った。
自分は彼女に誇れる程大人ではない。
そんな自分の我儘も全部受け止めて包んでくれて、彼女の方がよっぽど大人ではないか。
ただ、
彼女が、
自分の隣を望むなら、
今度は決してその手を離さないと、
誓おう。
「へぇ〜、そんなことがあったんですかぁ。」
「ね、怪しいでしょう?」
洗濯にお誂え向きな天気、椿は使い終わった桶を片付けていると小松田と安藤が立ち話をしてるのを見かける。
「楽しそうですね。二人で何のお話してるんですか?」
「あ、椿ちゃん。」
「やぁ椿さん、それがね、ここだけの話ですよ?」
安藤は楽しそうに話し出す。
きっとこの様子なら、ここだけの話と言いながらほとんどの先生方に噂しているに違いない。
小声になる安藤に耳を寄せる。
「実はね……先日野村先生が帰って来た時、付いていたんですよ。」
「付くって、何がですか?」
「女性物の紅ですよ、ここに。」
「!?」
安藤は自分の胸を指差しニヤリとした笑いを浮かべる。
「あの野村先生が、ですよ?そんな素振りなんて全く見せなかったのに。いや〜彼もやるもんですねぇ。」
「へ、へぇ〜……そうなんですねー……」
背中を変な緊張が流れる。
平常を装ったつもりだが口から出た感想に心がこもっていない。
に、逃げたい…ここから、今すぐ…!
あの日野村と共に入門表にサインをしたことを小松田が思い出さないことを切に願う。
「あれ〜?そういえば…?」
小松田が何かを思い出すような素振りを見せる。
まずい、思い出されては本当にまずい。
「こ、小松田君!そういえば吉野先生が探していたよ!?」
「え、本当?なんだろ〜?」
「小松田君、また何かやらかしたんですか?」
「ん〜?」
「と、とにかく行った方がいいかも!?あ!私も!食堂のお仕事残ってたので!」
椿はそう捲し立てると素早くその場を離れた。
安藤はその後ろ姿を不思議そうに見つめる。
「んー?女性はこの手の話が好きだと思いましたけどねぇ?」
どうしよう、どうしよう…
あの後、一応拭いたのだが完全に落としきれなくて、でも野村がすぐ着替えるからと言うのでそのまま帰ったのを安藤に見つかってしまっていたのだ。
野村に知らせるべきだろうか、小松田にまで話してしまうなんて、学園中に広がるのも時間の問題だろう。
私のせいだ。
噂されるなんて、野村先生気分のいいものじゃないよな…
椿は食堂裏の陰になっているところに身を潜めると顔を覆うようにしてしゃがみ込む。
「……何をしているのですか?」
上から聞こえた声に驚いて顔を上げると、悩みの種である野村がそこで椿を見下ろしている。
「野村先生…」
「どうしました?椿さん。」
野村は椿の目線の高さまで腰を落とすと落ち着いた口調で問いかける。
椿はたった今、安藤から聞いた話を野村に告げた。
「……という話が出回っているみたいで、私のせいで、野村先生がそんな風に言われてしまって…ごめんなさい。」
彼女の話を静かに聞いていた野村は、椿が思っている程真に受けてはいなかった。
むしろ、彼女に付けられた印は嬉しささえ覚えるものであったのだが。
「大丈夫ですよ、椿さん。あなたのせいではありません。噂など勝手に流させておけばいいんです。」
「でも、私があのお店にいかなかったら…!」
「それは言わないでください。あの日がなければ私はこうして、あなたを捕まえることが出来なかったのですから。」
野村は椿に手を差し出す。
彼女は戸惑いながらゆっくりその手を取ると、野村に導かれるようにして立ち上がった。
「私はあなたが付ける印なら喜んで受け取ります。椿さんが気に病む必要はありませんよ。」
「先生…」
野村は重ねた彼女の手を持ち上げると、それに触れるだけの口付けを落とす。
椿の体は跳ねて体温は急上昇する。
「あ、あの…!」
「私もあなたに印をつけたので、おあいこです。」
本当はもっとはっきり自分のものだと示す印を付けたいのだが、今はまだ辞めておいた方が良さそうだ。
そんなことを考えているなんて彼女が知ったら、どんな反応をするのだろう。
二人の関係はまだ始まったばかり、ゆっくりと歩んで行けばいい。
すれ違ってばかりだったが、これからは一緒に同じ方向を見て進むのだから。
ー奪い愛 完ー
原因となったその顔とも、食堂に立つ以上合わせないわけにはいかないのだが、彼はあの夜のことがなかったかのように普段通りだ。
いちいちドキドキしてしまうのはこっちだけなのか、それともあれは酒の影響で口走ったことだったのか。
いまいち心のモヤが消えずにこうして吐き出すしかできなかった。
大木に求婚された時もこうして考えることはあったのに、今回は勝手が違っていてそれが何故なのかわからずに後ろ姿を盗み見る。
決して酒のせいではなかった。
いつからだったのか、そんな甘酸っぱい記憶を辿る程自分は若くないが、気付いた時には目で追っていた。
打ち明けないつもりだったのに、あいつが彼女を攫ってしまうとわかった瞬間にそれは崩れ落ちた。
許せなかった。
どうせ叶わぬのなら、彼女があいつを選ぶのなら、この積もり積もった想いごと連れさればいい。
だから後悔はしていない。
今も彼女は普段通り振る舞いながらも瞬間的に見せる憂いをおびた顔は、自分の言葉を考えていてくれてるに違いないと思うから。
「……お嬢さん、……お嬢さん、」
「……え?」
声をかけられてはっと顔を上げると狐顔の男が不思議そうにこちらを見ていた。
見知らぬその男に椿は体を緊張させる。
「ぼーっとしてどうしたの?買うの?買わないの?」
「買う?」
男が言っていることが理解出来ずに辺りを見回して状況を整理しようとする。
周りは見たことのある景色だった。
忍たまやくのたまと何度か足を運んだことのある町の風景。
そうだ、食堂の仕事が終わった後、気分転換にとおばちゃんに勧められて町まで来ていたのだ。
おばちゃんは椿のため息を見逃さなかった、最近の彼女を見ていて思う節があったからだ。
だが道中歩いていた記憶はほとんどない。
ずっと考え事をしながらフラフラと宛もなく歩いていたら町まで辿り着いたようだ。
何を、考えていたのか…
自問するまでもない、大木に求められていること、それに対する野村の反応を期待をしていた自分、打ち明けられた気持ち。
答えを出した方がいい、出すべきなのだろう。
だがいまだに整理がつかない自分と比べて、急かさない大木と何も言わない野村、椿の答えを待ってくれている二人がとても大人に思えた。
どうすれば自分も大人になれるのだろう、そう考えていたら自然と足がここへ向かっていたのだ。
目の前に広がる赤や朱や紅、そう紅屋だ。
紅など、自分で買ったことがなかった。
遠い記憶の中の母が紅を差していて綺麗だったことを覚えている。
大人になるとはこういうことなのか、そう思ったら紅屋の前で立ち止まっていたわけだ。
椿の顔を覗くこの狐顔の男はここの店主なのだろう、いつまでも立ち尽くしている彼女に買わないなら商売の邪魔だよと言わんばかりの表情を見せる。
「わ、私…」
「失礼、連れが何か?」
返答に困った椿の後ろから聞き覚えのある低音が響く。
振り返って見るとその見知った顔に驚いて声を失った。
「のっ…!?」
「旦那の連れかい?このお嬢さんがさっきからここで立ち止まって動かないから、どうしたもんかと思ってたんだかね。」
「そうですか、それは迷惑をかけました。」
現れたのは野村だった。
野村は椿の前に並べられた小箱にざっと目を通すと、その中の一つを手に取った。
「店主、これを貰えますか。」
「…えっ」
「毎度。旦那の…妹さんかい?」
銭を渡しながら野村が椿に一瞥をくれる。
信じられないものを見たように目を見開く彼女に野村は一瞬だけ目を細めると、男の問いに答えた。
「いえ、妻です。」
「!?」
「なんだって!?嫁さん!?随分若い嫁さんを貰ったんだねぇ!羨ましいなぁ!」
店主はその顔に似合わない程の大口で笑った。
椿は飛び出して来そうな鼓動を押さえるのに精一杯で、野村と男との世間話が耳に入ってこない。
野村先生、今、何て言った、の…?
あの夜以来まともな会話をしていなかった野村の発言に椿は動揺したが、何か考えがあってのことだろうと気持ちを落ち着かせようとする。
不意に野村の手が目の前に伸びてきて椿の顎を捉えると上を向かせた。
そして買ったばかりの紅を指で少量すくうと彼女の唇にそっと乗せた。
「!!」
「やっぱり、あなたにはこの色がいいですね。」
目が合うと野村が柔らかく微笑むので椿は顔の火照りが抑えられない。
私からの贈り物ですと、紅の入った小箱を椿に握らせる。
触れた手の温もりがあの夜の記憶を一瞬にして引き出してしまう。
何も発せず、何も抵抗出来ず、椿は野村のなすがままだった。
「かーっ!見せつけてくれるねぇ!さぁ、行った行った!そういうのは他所でやってくれよ。」
追い出される形で店を後にしたが、店主の男は律儀に店先まで見送るとまたご贔屓にと声をかけた。
野村の後をついて人通りの少ない町外れまで来ると椿は意を決したように口を開いた。
「あのっ、どうして…」
どうしてあの店に現れたのか、どうして紅を買ってくれたのか、どうして…妻と言ったのか…
聞きたいことがたくさんあって何を聞いていいのかわからなくなる。
椿の声掛けに野村は立ち止まって振り返る。
「……どうして、ですか。それは私も聞きたいですね。」
どうして紅なんか見ていたのか、どうして…妻と言ったことを否定しないのか。
わかっている、わかっているはずなのだ。
彼女は大木の元へ嫁ぐことを決めたのだろう、だから今まで必要としなかった紅などに興味を持ったのだろう。
妻を否定しなかったのはそうなる覚悟があるから、他人の前で騒ぐ程子供ではないと言うこと。
これは悪あがきだ、どうせ大木のものになるなら自分が贈る色を纏って、その色に染められた姿であいつの元へ行くがいい。
「……ごめんなさい、野村先生の仰っしゃりたいことがわかりません。」
椿は野村が何かに怒っていると勘違いしているようだった。
半分は当たっている、ただし彼女に対しての怒りではない。
「……その紅は私からあなたへの、餞別です。どうか、お幸せに…」
それ以上の言葉を重ねることも、彼女の顔を見続けるのも、耐えられなかった。
背を向け歩き出す野村。
餞別、ってどういうこと?
先生と会えなくなるということ?
その背中を追いかけなくては、捕まえなくては、もう二度と野村に会えなくなってしまうかも知れない。
もう、会ってくれなくなるかも知れない。
何故なのかわからない、でも嫌だ。
どうして会えなくなるの、嫌だ、遠くに行かないで。
餞別の品なんかいらない、野村に会えなくなるなら、いらない。
「待ってください!」
走り出していた。
今掴まないと、永遠に手に届かなくなる、そんな気がする。
野村が望まなかったとしても、何も言えないままで別れるなんて出来ない。
納得出来ない。
野村の着物を捕まえる。
絶対に離さぬよう、強く、強く。
「私まだ、何も聞いていません!何も、言っていません!お願いだから、話を…させてください。そうしたら私ちゃんと……わかりますから。先生の、望むようにしますから……だから、お願い、話をさせてください。」
立ち止まる二人の間に無情な時間が流れる。
野村は椿の手を振払わなかった。
そうすることも出来たのに、これ以上の話を望まぬならさっさと姿をくらますことも出来たはずなのに。
彼女は今、どんな顔をしている?
納得はいっていない、そうだろうな、話すことが怖くて自分は逃げたのだから。
大人のやることにしては幼稚だ。
まだ彼女と向き合う勇気が足りない、だから背を向けたまま声をかけた。
「あなたは……大木雅之助の元へ行くのでしょう?なら、これ以上会話を重ねても、もうどうにもならないことです。私はただ…あなたの幸せを願うだけです。」
結婚の申し出があったと言い出したということは、椿はそれを祝福して欲しかったのだろう、送り出して欲しかったのだろう、それが野村の感じたことだった。
それを望むか聞いたとき、はっきりした返事をしなかったのは照れからだと思った。
彼女にとって野村は、ただ同じ学園で働く職員の一人でしかない、そう思ったのだ。
だが、椿が納得できるはずもない。
何をどう勘違いしたらそういう結論に至るのか、さっぱりわからない。
「……なんですか、それ。私が大木先生のところに行くから、これをくれたのですか?大木先生のところに行くから、もう話すこともないってことですか?」
紅の小箱を強く握りしめる。
椿は素早く野村の前に回り込むと彼の瞳を覗き込む。
「これ、お返しします!」
小箱を突きつけられた野村は怪訝な顔で椿を見つめる。
「これは、あなたに贈ったものです。返されても困ります。」
「違います。先生がくれたのは、大木先生のところへ嫁ぐ私にくれたものです。」
「……そうですよ?」
「でも!そんなの、いないです!だから受け取れません。」
「どういうことですか?」
「わかりませんか、大木先生に嫁ぐ私はいないって言ってるんです。私は、大木先生のところに行くつもりはないし、行くなんて言ったこともないです。何を勘違いされてるかわからないですけど、大木先生のところへ嫁ぐ椿に贈ってくださったものだったとしたら、そんな私はいないので受け取れないと言うことです。」
「…!」
まくし立てる彼女の顔は憤りで歪み、その目には涙が光る。
感情を爆発させたように指先が震え、それでも真っ直ぐに野村を捕えて離さない。
「……行かないの、ですか?あいつのところに…」
「ですから、そう言ってる…っ」
差し出された小箱ごと彼女の手を両手で包む。
その震えを取り除くように、大切なものに触れるように。
「これは、あなたに贈ります。」
「先生、私は…!」
「雅之助のところへ行くあなたに贈るのは辞めます。これは椿さんに、ただの、食堂のおばちゃん見習いの椿さんに贈らせてください。」
「…………………野村先生…」
手の震えは収まっていた。
包まれる温かさに安心したように椿は冷静さを取り戻す。
「……椿さん、」
「……はい。」
「なぜ、…あの店に居たのですか?」
あの店とは先程の紅屋のことを指している。
野村の質問の趣旨がわからなかったが、椿は正直に答える。
「……どうしたら、大人になれるのかと思いまして…」
「大人?大人になりたいのですか…?」
「だって!……先生たちは大人で……私はまだ、将来も決められないような子供で、責任もないし、野村先生や大木先生のような大人に近づかなきゃって……じゃないと答えも出せないと思って…っ」
彼女は彼女なりに答えを出そうと藻掻いていたのだ。
それが結果として大人になる、大人になりたいという結論に位置づいたのだろう。
紅を付けることで大人の仲間入りをするとでも思ったに違いない。
そんなことをしなくても、野村も大木も胸を張れるような大人ではないというのに、まだ十七の椿にはわからないだろう。
「無理して大人になんて、なろうとしないでください。あなたは、あなたのままでいいのですから。」
彼女の瞳から溢れた涙を掬って野村は続ける。
「椿さんはそのままで、充分魅力的です。」
「でも、私、大人になりたいです…。野村先生と一緒に歩けるような大人に…!」
「あなたが私をどう思っているかわかりませんが、私はそんなに大人ではありません。嫉妬、ヤキモチ、妬みだってします。そういった感情に潰される前にあなたから逃げようともしました。あなたが雅之助に取られる、そう思った時には心穏やかになんていられやしなかった。」
「……先生…」
「………」
「……私は、どこにも行きません。ここに、野村先生の側にいます。」
「……それって…!」
椿が笑う。
随分遠回りをしたが、あの夜の答えを彼女が言ったような気がしてそれだけで全てなかったことになりそうだった。
野村は目を見開いて彼女の手を前と同じように引き寄せ、今度はその細い肩を抱く。
「せ、先生!紅が付きます…!」
「構いません…、椿さんを、感じさせてください。」
体を硬く強張らせていた椿は、野村の言葉に答えるように彼の着物をギュッと握る。
「あなたの答えだと、受け取ってよろしいのですか?」
「………はい。」
「椿さん…」
夢のようだ。
彼女をそういう目で見る輩を多く見てきた。
だから自分に振り向くことなどないと、決して打ち明けぬと、思っていたのに。
いざとなると制御が出来ずに彼女を傷付けた。
誰かのものになるなら、その前に自分の爪痕を残そうとした。
愚かだ。
愚かな男だ。
彼女は大人になりたいと言った。
自分は彼女に誇れる程大人ではない。
そんな自分の我儘も全部受け止めて包んでくれて、彼女の方がよっぽど大人ではないか。
ただ、
彼女が、
自分の隣を望むなら、
今度は決してその手を離さないと、
誓おう。
「へぇ〜、そんなことがあったんですかぁ。」
「ね、怪しいでしょう?」
洗濯にお誂え向きな天気、椿は使い終わった桶を片付けていると小松田と安藤が立ち話をしてるのを見かける。
「楽しそうですね。二人で何のお話してるんですか?」
「あ、椿ちゃん。」
「やぁ椿さん、それがね、ここだけの話ですよ?」
安藤は楽しそうに話し出す。
きっとこの様子なら、ここだけの話と言いながらほとんどの先生方に噂しているに違いない。
小声になる安藤に耳を寄せる。
「実はね……先日野村先生が帰って来た時、付いていたんですよ。」
「付くって、何がですか?」
「女性物の紅ですよ、ここに。」
「!?」
安藤は自分の胸を指差しニヤリとした笑いを浮かべる。
「あの野村先生が、ですよ?そんな素振りなんて全く見せなかったのに。いや〜彼もやるもんですねぇ。」
「へ、へぇ〜……そうなんですねー……」
背中を変な緊張が流れる。
平常を装ったつもりだが口から出た感想に心がこもっていない。
に、逃げたい…ここから、今すぐ…!
あの日野村と共に入門表にサインをしたことを小松田が思い出さないことを切に願う。
「あれ〜?そういえば…?」
小松田が何かを思い出すような素振りを見せる。
まずい、思い出されては本当にまずい。
「こ、小松田君!そういえば吉野先生が探していたよ!?」
「え、本当?なんだろ〜?」
「小松田君、また何かやらかしたんですか?」
「ん〜?」
「と、とにかく行った方がいいかも!?あ!私も!食堂のお仕事残ってたので!」
椿はそう捲し立てると素早くその場を離れた。
安藤はその後ろ姿を不思議そうに見つめる。
「んー?女性はこの手の話が好きだと思いましたけどねぇ?」
どうしよう、どうしよう…
あの後、一応拭いたのだが完全に落としきれなくて、でも野村がすぐ着替えるからと言うのでそのまま帰ったのを安藤に見つかってしまっていたのだ。
野村に知らせるべきだろうか、小松田にまで話してしまうなんて、学園中に広がるのも時間の問題だろう。
私のせいだ。
噂されるなんて、野村先生気分のいいものじゃないよな…
椿は食堂裏の陰になっているところに身を潜めると顔を覆うようにしてしゃがみ込む。
「……何をしているのですか?」
上から聞こえた声に驚いて顔を上げると、悩みの種である野村がそこで椿を見下ろしている。
「野村先生…」
「どうしました?椿さん。」
野村は椿の目線の高さまで腰を落とすと落ち着いた口調で問いかける。
椿はたった今、安藤から聞いた話を野村に告げた。
「……という話が出回っているみたいで、私のせいで、野村先生がそんな風に言われてしまって…ごめんなさい。」
彼女の話を静かに聞いていた野村は、椿が思っている程真に受けてはいなかった。
むしろ、彼女に付けられた印は嬉しささえ覚えるものであったのだが。
「大丈夫ですよ、椿さん。あなたのせいではありません。噂など勝手に流させておけばいいんです。」
「でも、私があのお店にいかなかったら…!」
「それは言わないでください。あの日がなければ私はこうして、あなたを捕まえることが出来なかったのですから。」
野村は椿に手を差し出す。
彼女は戸惑いながらゆっくりその手を取ると、野村に導かれるようにして立ち上がった。
「私はあなたが付ける印なら喜んで受け取ります。椿さんが気に病む必要はありませんよ。」
「先生…」
野村は重ねた彼女の手を持ち上げると、それに触れるだけの口付けを落とす。
椿の体は跳ねて体温は急上昇する。
「あ、あの…!」
「私もあなたに印をつけたので、おあいこです。」
本当はもっとはっきり自分のものだと示す印を付けたいのだが、今はまだ辞めておいた方が良さそうだ。
そんなことを考えているなんて彼女が知ったら、どんな反応をするのだろう。
二人の関係はまだ始まったばかり、ゆっくりと歩んで行けばいい。
すれ違ってばかりだったが、これからは一緒に同じ方向を見て進むのだから。
ー奪い愛 完ー