奪い愛(野村雄三)
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奪い愛
先生方がやたら機嫌が良さそうだったり、食堂のおばちゃんに料理のリクエストをしていたりするのを見かけると、ああもうすぐあれか、なんて思ったり。
椿自身もそれは楽しみの一つであった。
普段教師として気を張っている職員達がくだけたように笑い合い、意見交換と言う名の他愛もない話に花を咲かせる。
そう、酒の席が催されるのだ。
この日ばかりは職務を早々に片付け、忍たま達を各自部屋に追いやり、夜の番もそこそこに皆が食堂に集う。
忍者の三禁とは言ったが、年がら年中それに勤めていれば逆に体に良くないのだと学園長黙認の元である。
だからこの時ばかりは食堂はいつも以上に忙しくなる。
生徒達の夕食を終えれば続いて宴席の準備。
酒を湯に通したり、おばちゃんはリクエストされた料理を用意する。
椿も後片付けやら食器の準備やらで常に動いている。
先生方が続々と集まってくると酒や料理を運び酌をして回る。
あちこちから椿を呼ぶ声に答えるだけでも目が回りそうだが、手伝いを買って出た土井のお陰もあってものが全員に行き渡った教師達は、山田の音頭で一斉に酒を煽る。
お疲れ様ですの声が食堂内に響いたのと同時に、椿はまた出来たばかりの料理を各卓へ運ぶ。
酒の減りも早い。
こちらに出したと思ったらあちらからも声がかかる。
そうして賑わいを見せる先生達の様子は好きだった。
大人同士の話はやはり楽しいらしい。
椿もその輪に入れてもらうのは嬉しかった。
今宵おばちゃんが用意した最後の料理を出し終わると椿も一緒に席につく。
山田、厚着のそれぞれの家庭の話に笑みを零したり、土井の苦労話を慰めたり、普段見せる顔と別の顔を晒してくれるのが楽しかった。
先生方の話を聞いて回っているうちに、ふと安藤に呼び止められ半ば無理矢理隣りに座らせられる。
「まあまあ、あなたも少し落ち着きなさい。ところで椿さんは17歳でしたかな?」
「はい、そうです。」
「うちの娘もね、同じ年頃なんですが……」
そこから始まるのは安藤の娘がなかなか嫁に行かないとの話で、親としては早く腰を落ち着けて安心させて欲しいだの、相手はこういう男がいいだの、椿には耳に痛い話を延々と述べている。
隣りの安藤を見上げながら話もそこそこに流してちびちびと酒に口をつける。
この手の話は苦手だ。なぜなら…
「それで椿さんはどう思いますか?あなたもそろそろでしょう?」
となるからである。
そろそろも何も、椿にはそんな予定はないし、どこかに嫁ぐなど考えたこともない。
自分は学園長に助けてもらった身、この学園のために働くことが今は全てなのだ。
愛想笑いを浮かべ返答に困っていた時だった。
「安藤先生、先日はお疲れ様でした。」
突然入って来た声に目を向けるとそこには野村が立っていた。
「おや、野村先生。いやどうも。」
安藤は野村の労いを歓迎したように会話を始める。
椿はそんな二人をポカンとした顔で見つめていたが、話が弾むと野村は安藤と椿の間に無理矢理入って座った。
追いやられる形で野村の場所を開けたので、彼の影に隠れる格好となり安藤の姿は見えなくなってしまった。
いくら詰めても狭い場所で足と足が触れてしまい、目の前の野村の背中に少しだけ胸が鳴る。
えーと、安藤先生のお話は終わりでいいのかなぁ。
椿のことは完全に置き去りにしたように安藤と野村は忍務の話だろうか、彼女にはわからないような難しい話をしている。
これは助かったのかも知れない。
心の中で野村に感謝しながらそっとその場を離れた。
宴もたけなわ、久々にリラックスしていい感じに酔いが回った教師達は各々部屋へ戻り始める。
椿は彼らを見送りながら野村の姿を探した。
松千代にくっつかれた状態で部屋に連れ帰ろうとしている野村を見つけて駆け寄る。
「野村先生。」
椿の声掛けに反応した松千代が小さくなって野村の影に隠れる。
「あの、さっきは助かりました。」
「……?」
「安藤先生の……私、結婚とかそういうお話は苦手で……野村先生が間に入ってくれたので助かりました。ありがとうございます。」
野村は、ああそのことかと眼鏡を直す仕草をしながら答えた。
「たまたまです。あなたの助けになれたのならそれで良かったですが。人には触れられたくないものの一つや二つあるものですからね。」
「……野村先生にもあるのですか?」
ふと瞬間的に浮かんだことが口から出てしまったのだが後悔するよりも野村の射抜くような視線に釘付けになる。
「………さあ、どうでしょうね?」
野村は椿を攻めようとはせず、かと言ってそれを知ることを許さないといったような圧力をかける。
「すみません、出過ぎたことをっ……」
「いえ。」
それだけを言うと野村は松千代を連れて部屋へ戻って行った。
不思議な感覚だった。
深入りを許されてはいないのに、何故か目を離せない。
椿はその後ろ姿を見つめ続けた。
太陽が天高く上がり空気が澄んでいたその日、椿は自分の洗濯物を干していた。
風が適度に吹いて気温も高く、洗濯物も乾きそうである。
水分を吸って重くなった小袖や寝間着などを竿に掛け干し台にやっとのことで引っ掛け一息ついていると、囁くような声が聞こえてくる。
「…椿さん、…椿さん…」
自分の名を呼ぶその声に反応して辺りを見回すが誰の姿も見つけられず不思議に思っていると、近くの草場がガサリと音を立てて揺れる。
「ここです、椿さん…」
「しゃ、斜堂先生…!」
日陰から現れたのは青白くおどろおどろしい気を纏わせた斜堂だった。
椿は一瞬心臓を掴まれたように驚いたが、彼の性格を考えると諦めたような納得したような苦笑いを浮かべるしかない。
「もう、驚かさないでください。」
「すみません、そんなつもりはないのですが……」
そんなつもりがないことは椿も重々承知しているところだが、毎回この登場の仕方には同じやり取りを繰り返している。
そろそろ慣れなければと思っているのだが。
声をかけるだけかけて一向に歩み寄らない斜堂に椿の方から近づき話を聞く。
「何かご用ですか?」
「はい。実はお願いがありまして。」
「はい。」
「洗濯をしたいのですがお手伝いして頂けませんか?」
「はい、構いませんよ。」
「ありがとうございます。ではこちらに…」
斜堂について行くと既に水洗いを済ませたのか、濡れた洗濯物が桶の中に残されている。
彼の説明によると、あとはこれを干すだけなのだがこの日差しの中作業するのが難しいと言う。
「干し台が日陰にあれば出来るのですが…」
「いえそれでは乾きませんよ。やっぱりお日様に当てないと。」
「椿さん、お願いします。」
みなまで言わなくても椿には斜堂の言わんとすることが理解できた。
諦めたように返事をすると、相変わらずの青白い顔で斜堂が礼を言う。
竿の片側を干し台に引っ掛け、反対側から濡れた衣類を通す。
男性物で大きいそれは水分を含んでいることもあり重たくなかなかの重労働だ。
やっとのことで袖を通し終わると、今度はそれを持ち上げて干し台に乗っける、が、
お、重い…
斜堂が洗濯物を溜め込んでいたからか、一度に干そうとすると持ち上げるのが大変なくらいの重さになった。
竿の先を二股に分かれた竿上げ棒で支える形になるのでますます不安定になる。
「斜堂先生、ちょっと手を貸してください。」
たまらず日陰にいる斜堂に声を掛けるが彼はまごまごしてそこから動くのを躊躇っている。
「そんな、無理です…」
「無理とか言わないで!ちょっとだけですから!早くー!」
椿の様子に観念した斜堂が恐る恐る足を踏み出す。
太陽の光を直接浴びると白い顔を益々白くしてフラフラした足取りで椿の元へたどり着き、彼女の持つ竿上げ棒を握る。
斜堂が来てくれたことに安心した椿はほんの僅かな時間安心して少し力を緩めてしまった。
ところが斜堂が棒を掴む手に力が入らず、へなへなとその場に崩れていき、下に引っ張られる力で椿もバランスを崩す。
「きゃあ!?斜堂先生、しっかりしてください!」
上の重さに加えて下に引きずられる力によって椿の力ではどちらも支えることができない。
これでは共倒れになる。
落ちてくる物の衝撃を恐れ目を瞑った。
覚悟をしたその時、椿に与えられたのは別の力だった。
上からの衝撃でも下に引っ張られる力でもない、別の力。
予期せぬ事態にはっと目を開けて確認する。
「………何をやっているんですか、あなたたちは。」
「……の、むら先生……」
呆れ声がすぐ側で聞こえ顔を上げるとそこにいたのは野村だった。
野村は竿上げ棒と椿が倒れないように支えている。
肩を抱かれる形になり、その力強さに気付いた椿は一瞬にして体温を上昇させる。
野村は椿が一人で立てるのを確認すると彼女から受け取った棒を持ち上げて干し台の上に竿を乗せた。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。ありがとうございます…」
竿に掛けられた洗濯物と転がる斜堂を見てなんとなく状況は理解できた。
まだ固まった状態の洗濯物を広げて竿上に綺麗に並べる。
椿もそれを手伝おうとするが、背が足りないため引っかかったものを直すのに手こずる。
それを野村がさっと直し、均等に干せた洗濯物を見て満足そうに笑った。
「これでいいでしょう。」
「手伝ってくれてありがとうございます、野村先生。」
「礼は必要ありませんよ、これはあなたの物ではないのでしょう。それより斜堂先生、あんた一体何やってんの?」
「あ、斜堂先生!大丈夫ですか?」
干からびて倒れている斜堂に目を向けると彼女が心配そうに駆け寄るので、なんだか少し面白くない。
椿が斜堂の額や手を触るのを見てモヤっとした感情が生まれるのを感じる。
それを見るのに耐えかねた野村は、斜堂の腕を肩に回して立たせると部屋に連れて行こうとする。
椿も手伝いを申し出たが、野村はそれを制して斜堂の代わりに礼を言い歩き出した。
二人が去る背中を見送ると、風に吹かれて揺れる斜堂の洗濯物が目に入る。
ぼんやりとそれを眺めているとふいに先程の光景が蘇った。
ここで、今この場で、ぐっと肩を抱かれたのだ。
力強くて、自分と違う体温で、肩に当てられた大きな手に包まれた。
支えてくれたそれは、男のものであったと意識させられてしまう。
未だ鳴り止まない胸を押さえて椿はため息をついた。
それからしばらくはいつも通りの日々が続き、今夜はまた教師達の待ちに待った日。
午前中の授業を終えた野村は日向から託された今宵のリクエストが書かれた紙を持って食堂へ向かった。
全く、何故自分が…
半ば押し付けられる形でおばちゃんに渡してくるよう頼まれたのだが、文句を呟きながらも食堂に足を運ぶのは嫌いじゃない。
それにその期待の姿が目に入ると自然と眉間の皺が緩む。
椿は食材の準備をしているのか、勝手口から出たり入ったりを繰り返していた。
忙しそうに動き回る姿に目を奪われていたが、彼女が一息つくタイミングで歩を勧め話しかけた。
「椿さん。」
椿がくるりと振り返り野村と目が合うと彼女は明るい表情を見せる。
「あ、野村先生。どうされましたか?」
「これを、日向先生から頼まれまして。」
紙を渡すと椿は中を確認して、おばちゃんに渡しておくと言った。
「野村先生は何か食べたいものありますか?」
「え?」
それは予想していなかった問いだった。
社交辞令だったのかも知れない、だが野村個人に対して椿が希望を聞いてくれたことが嬉しかった。
不意をつかれた野村が少し考える素振りを見せると椿が続ける。
「って言っても私、おにぎりくらいしか作れないんですけどね。あ、でもちょっとずつ勉強してるんですよ。まだ実践できてないですけどね。」
「……椿さんが作ってくださるんですか?」
「お望みならば、ですけど。他のでしたらおばちゃんに…」
「おにぎりがいい。」
「え、」
「おにぎりがいいです。あなたの作ったものが食べたい。」
彼女はキョトンとした顔を見せた後、視線を泳がせながら照れたようにはにかむ。
「そ、そうですか?じゃあ、あの、頑張ります。」
少し赤みが増した彼女の笑顔につられ、野村は緩む口元を手で隠した。
穏やかな時間が流れ、きっかけを与えてくれた日向に感謝の念を送った。
だがそんな空気も長くは続かない。
「野村雄三ーーー!!」
今、最高に聞きたくない声だった。
品のない笑いをして大股で近づいて来る男、大木雅乃助だ。
「勝負じゃ野村!今日もわしが勝ぁつ!」
「……お前がいつ勝ったことがあるんだ?」
場をぶち壊した大木を追い払うように手でしっしっとするが、そんなことは見えていないように椿が大木に声をかける。
「大木先生、こんにちは。」
「おう、椿!土産を持って来たぞ!ほ〜ら野村、お前の好きなやつじゃ!」
大木は背負っていた籠をどんと置くと中にはぎっしりとらっきょうが入っている。
野村は顔を引くつかせた。
「わーありがとうございます!」
「誰がいるか!」
「野村先生、好き嫌いは良くないですよ?」
「そうじゃそうじゃ!お残しは許しまへんで、だぞ?」
「ふん!椿さん、代わりにこの馬鹿に納豆持たせてやってください。」
「な!?いいいいらん!椿、持って来なくていいからな!」
「好き嫌いはいけないんじゃないのか?え?雅乃助よ。」
「煩い!!つべこべ言わんと、勝負しろ!!」
言い合いからだんだんと掴み合いの喧嘩になってしまったが、慣れとは恐ろしいもので椿はもう止める気も起きなくなっていた。
二人の気が済むまでやり合っていればそのうち終わるのはいつものことだった。
ちょうど食堂へ戻ったおばちゃんに日向のメモを渡して今晩の打ち合わせをした。
「そろそろかな。」
外が静かになった頃、椿はおばちゃんに断ると二人の様子を見に外へ出た。
いつものことだが、二人はボロボロの状態で互いに掴み合っている。
なんだかんだと喧嘩している二人はどこか楽しんでいるように思えて、椿も無理に止めたりしない。
「……今日のところは、これで勘弁してやらぁ。」
「それは、こっちの台詞だ。負けない内にとっとと帰るんだな。」
「なんじゃとー!!」
「あの〜お二人共、そのへんで終わりにしてくださーい。」
椿が間に入って声をかけると二人は揃ってふんと鼻を鳴らし背を向けた。
すると急に思い出したように大木が椿に向き直る。
「そうじゃ、こいつのせいですっかり忘れとったわ。椿、わしはお前に言おうと思っておったことがあったんじゃ。」
「はい、何でしょう?」
野村はそれを怪訝な顔で見つめる。
大木が椿に用事など、吐き気がしてくる。
「椿、前に言ったことは考えてくれたか?」
その話題に心当たりがない野村は椿をちらっと盗み見るが、彼女は急に慌てた様子で顔を真っ赤にしている。
「あ、その、えーと……」
「ああ、急がなくていい!わしは気が長い方だからな。また来るな。」
大木はそう言うと踵を返してどこか機嫌良さげに帰って行った。
なんだ?
この二人の間に何かがあったのか?
自分のいないところで。
目の前の彼女がまるで自分の知らない人になってしまったような感覚に陥る。
後ろ姿を見送る椿に不安を覚えた野村は彼女に声をかける。
「……椿さん、今の話は?」
「え、あ、………な、なんでもない、です…」
答えとは裏腹に何でもなくない様子の椿に顔をしかめる。
こんなことを言うと以前彼女に言ったことと矛盾を起こして情けなくなるが、大木が絡んでいるということが野村を苛つかせる。
「なんでもないなんて顔をしていませんが?大木雅乃助のことであなたが悩むようなことがあったら見過ごせませんね。」
「野村先生。」
椿は迷った。
とても個人的な話なので他言していいものなのか、こんな経験はしたことがないのでわからない。
それによりにもよって相手は野村だ。
大木の話を聞いて好意的な回答が来るとは思えない。
だけど、もしかしたら止めて欲しかったのかも知れない。
踏み切れない自分を、野村の一言で止めて欲しかったのかも知れなかった。
「……あの、実は……………大木先生に、嫁に来ないかと言われまして……」
「!?」
声に出さずとも、あまりにも予想外で衝撃的なその言葉に野村はひどく驚いた。
いつの間にそんな関係になっていたんだ、まるで気が付かなかった。
大木が忍術学園によく出現するなと思ったら、彼女に会いに来ていたのか。
表面上は感情を出さないように努めたが、内心は続きを聞けるのかわからないくらいに狼狽えている。
椿にそれを見透かされないように眼鏡を直す振りをして顔を隠した。
「……あなたは……それを望むのですか?」
答えを聞くのが怖かった。
もし彼女が肯定を口にしたら、自分はそれを祝福すべきなのだろうか。
とてもできる自信がない。
沈黙が怖くてまともに彼女の顔を見ることができない。
………………
「……私は、」
「……」
「大木先生のことは、いい人だとは思います……」
「……っ」
「だけど、大木先生と一緒になると考えた時に、それが想像できるのか、と言うか……よくわからない、と言うか……」
「………そう、ですか…」
正直に言うと、話の半分はほとんど聞こえなかった。
頭が真っ白になり、彼女の発した言葉を受け取ることを拒否していた。
椿は大木をいい人と言った。
それは好意的に思うと言うこと、つまり大木とそうなる可能性があると言うことではないのか?
大木を好きだと言うことと違いないのではないのか?
それが野村の頭の中で反復する。
ここから、動くことが、できない。
野村が押し黙ってしまった。
いつもなら、あの男はやめておきなさいとか、答える必要はないとか、そう言うだろうに。
?
私は、なにを…?
野村先生に、なにを期待しているの?
どうして、どうしたのだろう?
「あ、あの、すみません!今のは忘れてください!あと出来れば、内密に…」
急に恥ずかしくなって、なんで言ってしまったのか後悔に襲われて、ただこの場を逃げ出してしまいたかった。
野村に期待している自分がわからなくて、だけどそんなこと野村が知る由もないのに勝手に思い上がって恥ずかしい。
椿は一礼をするとたまらずその場を後にした。
彼女の言ったことに肯定も否定も出来なかった。
本当はしたかった、行くのはやめろと。
けど、自分にはまだその資格がない。
無責任な言葉で彼女を縛ることはできない。
なんて愚かなことか。
手を伸ばせば捕まえられたのに。
手を伸ばせば……
「もう、限界だ……」
イライラする。
楽しいはずの酒の席、いつもならここで日頃のストレスを発散するところなのに、視界に入る椿と彼女に絡む安藤の姿。
また絡まれている。
盛り上がる他の先生に混ざっていつもよりペースを早めた。
大丈夫、皆油断していて誰も野村の変化に気付いていない。
ここで話題の中心になるのは面倒なので、そうならないように上手く紛れた。
頃合いを見計らって席を立ち、安藤の元へ歩み寄る。
「安藤先生、お疲れ様です。」
「おお、野村先生。」
適当な話題を安藤に振れば、それを適当に返してくるものだから労いの言葉でもかけてやれば、あとは安藤がオヤジギャグを交えながらペラペラと喋りだしてくれる。
野村は安藤と椿の間に自然に入る形で座る。
彼女を安藤から隠すように身を前に乗り出し、あたかも話をしに来たように振る舞う。
左肩に感じる彼女の体温、居心地悪そうに少しずつ逃げながら他に移るタイミングを見計らっているのがわかる。
椿が一口、酒に口をつける。
彼女が他の席を確認するために食堂を見回す瞬間、野村は誰にも気付かれないように手を伸ばして椿の右手を掴んだ。
「!?」
食卓の下に繋いだ手を隠して、椿に胸中を悟らせないように目を合わせない。
彼女は遠慮がちに逃れようとしていたようだが、野村はそれを許さず力を込めてこの場に繋ぎ止める。
「あ、美味そうなおにぎりがあるじゃないですか。」
目の前に積んであったおにぎりに、とても自然に手を伸ばす。
椿に見せつけるようにそれを一つあっと言う間に平らげ、美味いなと言った。
椿の視線を痛い程に感じ、彼女が自分の手に力を込めて握る感覚が伝わってきた。
どれくらいの時間そうしていたのか。
他の誰にも気付かれることなく、野村の陰に隠れるようにして椿は時間を過ごした。
何故野村がそうしてきたのかわからない。
だけど、それが嫌とも逃げたいとも思わなかった。
鼓動が早いのも酒のせいにして、自分に都合の良い解釈はしない。
握られた手は熱く、椿の手をすっかり包み込む程大きかった。
勘違いしたくない、やめて欲しい、でもやめて欲しくない。
野村の本心が見えず、ただ大人しく俯いていた。
「どうかしましたか?」
自分にかけられた声に体を跳ねさせながら相手を見る。
いつもより近くにある野村の顔、椿は答えに迷って声が出ない。
「顔が赤いようですね、飲みすぎは良くありません。今日はもう休んだ方が良さそうですね。」
「あ…」
野村は安藤と食堂のおばちゃんに断りを入れて少し強引に椿を外へ連れ出した。
酒のせいで少しふらつく椿は何も言えずに野村に従う。
おばちゃんは後はやっておくから休んでねと優しい言葉をかけてくれた。
知らない内に酔ってしまったのだろうか、今はその言葉に甘えたくなってしまう。
「野村先生が送ってくれるなら安心だわ。よろしくお願いします。」
「ええ、お任せください。」
そんな会話も通り抜けてしまうくらい頭に入ってこない。
騒がしい食堂を抜けて長屋へ向かう道は毎日通っているはずなのに、ひどく長く感じる。
それは繋がれたままの手のせいかも知れない、酒が入って体が熱いせいかも知れない、または目の前の男の考えていることがわからないせいかも知れない。
先生方の笑い声も薄れ次第に虫の音が辺りを包むところまで来ると、一歩先を行く野村の歩が緩む。
太陽に代わり月が天上から見守っている。
真っ暗な空間に柔らかな光がそこにある形を映し出している。
木々の形、縁側の形、椿と野村の形。
やがて立ち止まった野村が背中越しに椿に話しかける。
「どうして、逃げないのですか?」
「……え?」
野村が振り返り目が合う。
怒りなのか悲しみなのか、それとも別の感情か、その顔は苦しみのような感情で歪んでいる。
「……この手を、何故振りほどかないのかと、聞いているのです。」
「それは…」
野村が掴んでいるから?
離してくれないから?
それとも、自分がそう望んでいるから?
わからない。
椿が答えに困る様子に野村は苛立つ。
彼女のせいではない、それはわかっているのに彼女の影に潜むそれが、彼女を連れ去ってしまうかも知れない。
手を離せないのは自分の方なのに、はっきりとした答えが聞けないことに勝手な焦りと苛立ちを持つ。
「先程の話だってそうです、あなたが聞きたくない話題なら、考えてもいないことなら、適当な理由をつけて逃げればいいじゃないですか。相手に合わせることを優しさと勘違いしているのではないのですか?」
野村の解釈はまるで椿を偽善者だと言っているようだった。
そんなことを言われる覚えもない椿はムキになって反論する。
「私は将来のことをまだ考えていないしそういう話は苦手だと思っていますけど、安藤先生に対して接することに勘違いとか思い込んでるとかそういうのはありません。あれはきっと……安藤先生なりの気遣いなのだと思うから。」
確かに結婚がどうだとか余計なお節介だとか、そういうのは聞いていたくないが、安藤自身に対して思うことは特別ないし特別気を使っていることもない。
野村が何に対して苛立っているのか見えないが誤解であるなら解きたいし、そんな風に自分を見て欲しくない。
そう思ったのだが、彼は怪訝な顔をして言う。
「……何故安藤先生が出てくるのですか?」
何故、と聞かれて何故と言いたくなるのはこっちなわけで。
野村が聞いてきたから答えたのに、返ってきた何故に椿も疑問符を浮かべる。
「え……だって、逃げればいいって仰るから…」
「確かにそう言いましたが、」
「だから、安藤先生のお話だと、」
「私が言っているのは、大木雅之助のことです。」
「大木先生?」
椿は何故大木の名前が出たのかわからなかった。
今の今まで話していたのは安藤のことではなかったのか?
そこでわかった、お互いに話がすれ違っていたことに。
あ、という顔をした椿に野村も会話の勘違いを起こしていたことに気付き小さくため息を吐く。
「……あの、私勘違いして…」
「ええ、そのようですね。」
「………」
「………」
再び、静寂が辺りに広がる。
だけど、手は離してくれないんだ。
言い合いをしていたのに相変わらず繋がれたままの右手に視線を落とし急に緊張が増す。
「……椿さん、」
「は、はいっ…!」
名前を呼ばれたことに驚いて顔を上げる。
先程までの苛ついた雰囲気はすっかりなくなった野村は寂しげに椿を見つめていて、その瞳の色に吸い込まれるように何も言えなくなる。
「……行かないで、ください。」
「……え?」
絞り出すように小さく呟く野村に椿の心はざわつく。
こんなに弱々しい彼は見たことがない。
椿は心配になって何か声をかけようとしたが、野村が繋いだ手に力を込めて彼女を引き寄せた。
「!?」
野村の胸にぶつかる形で距離が縮まった。
彼の香りが鼻をくすぐり心臓が跳ねる。
反射的に体の距離を離そうとするが、野村がもたれるように頭を下げて椿の肩に顔を寄せる。
野村の空いた右手は彼女を抱きしめるように背中に回されたが、体に触れる前にぐっと押しとどまると力なくそのまま落ちて行く。
そして今度ははっきり聞こえるように言う。
「あなたが好きです。嫁になんて、行かないでください…」
「の、野村せんせ…」
繋がれた右手が痛いくらいに握られていた。
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