あなたのせいで、あなたのために(大木雅之助)
あなたのお名前は?
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
翌日、朝早くに食堂に来た斎藤タカ丸は笑顔の椿を見つける。
いつもと変わらないはずなのにその表情にはまるで花が咲いたようなという表現が似合っていた。
何かいいことがあったのかと尋ねると彼女はそんなところだと、はっきり言わないまでも肯定の返事をする。
タカ丸もそれは良かったと彼女の笑顔に釣られるようにして笑った。
そんな二人を怪訝な顔で見ていたのは先に来ていた仙蔵だ。
誰に言うでもなく、あれはなんなんだと口にすると隣に座っていた伊作が答える。
「? タカ丸と椿さんが、どうしたの?」
「最近の椿は変じゃないか?」
伊作の質問には答えずに質問をかぶせる。
「変って、何が?」
「訳もなくぼーっとしたり、かと思えば急に元気になったり、今日はやけに機嫌が良さそうだし。」
「そりゃあ、椿ちゃんだって色々あるでしょ。僕はいい傾向だと思うけど。気になるなら聞いてみたらいいんじゃない?」
「聞いたさ、聞いたが……」
彼女の高低する感情の中に自分はいないとわかったから。
力になりたくてもなれない、出来ないのだと知ってしまったから。
彼女を動かすのは別の存在、それを突きつけられているようで悔しくて堪らない。
いつもと違うのは椿よりも仙蔵だなと思った伊作は、その横顔から彼が何を考えていたのか少しわかった気がした。
彼女との間に何があったか知らないし聞かない代わりに、伊作は言葉を詰まらせた仙蔵の肩に拳をトンと当てた。
椿は食堂のおばちゃんに料理教えてくれるよう頼んだ。
おばちゃんはそれを快諾してくれて、椿が言い出したことを喜んでくれているようだった。
始めは汁物から、おばちゃんの流れるような作業を見て覚えた。
自分に足りなかった出汁の取り方を教わった時はその方法が思っていたのと違って驚いた。
「手間がかかるものなんですね。」
「そうよ〜、だから愛情がこもってるって言うんだら。」
確かに愛情をこめないと美味しいご飯は作れないようだ。
食べる人に喜んで欲しいから、食べた時にそれが美味しいと幸せになれるから。
椿はその人を思い浮かべる。
もしも自分で美味しく作れるようになったら、食べてくれるだろうか。
美味いと言ってくれるだろうか。
「椿ちゃん」
おばちゃんに呼ばれてはっと現実に戻る。
今はそんなことを考えるよりも勉強して作れるようにならなければ。
椿の勉強が始まって数日後、ランチを食べに来た乱太郎、きり丸、しんべヱに緊張感を漂わせながら盆を手渡す。
「いただきま〜す!」
三人は椿の様子に気付くことなく普段通りにランチを頬張った。
食堂に訪れる忍たまたちにランチを手渡しながら椿は食事をする乱太郎たちから気をそらさない。
楽しそうに会話をしながら箸を進める。その表情にもこれといって目立った変化はない。
他の生徒たちも皆次々と口に運んで食べているようだ。
とりあえず、大丈夫そうだった。
ほっとして胸を撫で下ろす。
乱太郎たちが遊びに行こうと早めに食べ終えた食器を下げた時、椿はそっと呼び止めてこっそり聞いてみた。
「今日のランチどうだった?変なとこなかった?」
三人は顔を見合わせて変なところは特になかった、美味しかったと言った。
「あ、もしかして…」
しんべヱがいつもと微妙に違う味噌汁の味がしたと、それは椿が作ったものではないのかと指摘する。
乱太郎ときり丸は言われてみればそうかも知れない、だけどほとんどわからなかったと言った。
「椿さんおばちゃんから料理教わったんですね。」
「うん。やっぱりこの前の、悔しかったからね。」
「すっげ〜、頑張ってますね。」
「僕、また食べたいな。」
「ありがとう。このこと知ってるの君たちだけだから、内緒だよ。」
乱太郎たちは元気に返事をすると外へ飛び出して行った。
ランチのピークも過ぎて使った食器を片付けていると、勝手口からひょっこり顔を覗かせた人物に椿は驚いた。
「おばちゃん、ランチ余ってる?」
「大木先生!?」
「あらぁ大木先生。ええ、あるわよ。食べてく?」
「ああ、頼む。よぉ椿、茶もよろしくな。」
「は、はい。」
大木の突然の訪問に心臓が跳ね上がったと同時に嬉しさで顔のニヤけが抑えられない。
おばちゃんに悟られないように急いでご飯をよそった。
「大木先生、今日来てくれるだなんてラッキーね。」
おばちゃんが厨房の中から大木に声をかける。
椿が慌てて人差し指を口に当てると、おばちゃんは大丈夫よと小声で言った。
「ラッキーって、何がだ?」
「さぁ、何でしょうね。食べてからのお楽しみ。」
おばちゃんの言葉に大木は怪訝な表情を浮かべる。
椿は大木が座る席までお膳を運び、少し震える手で食卓に置いた。
「どうぞ。」
「ありがとう。いただきます。」
淹れたて熱々のお茶もそっと置くとすごい勢いで食べる大木をちらっと見る。
椿が作った味噌汁にも口をつけ、おばちゃんの飯はやっぱり美味いなと言っている。
「あら、ありがと。でもね先生、今日のは私が作ったものじゃないのがあるのよ。」
「ん?そうなのか?」
「……そのお味噌汁、私が作りました。」
椿の申告に大木は目を見開いて、今度はゆっくり味わうように汁を啜った。
「……うん、そうか。気付かなくて悪かったな。あまりにも美味くておばちゃんが作ったものだと勘違いした。椿!」
「は、はい!」
「美味い!美味いぞ!!」
大木が椿を見てそう言った。
その言葉を、その笑顔を、彼女が望んだものを大木はくれた。
自分も人を笑顔にすることが出来た、それも一番そうしたかった大木に認められた、幸せが体中を駆け巡る。
「ありがとうございます!」
「良かったわね椿ちゃん。」
「はい!おばちゃん、ありがとう!」
嬉しそうな椿の様子は、おばちゃんまでも嬉しい気持ちにさせた。
「でもあれよね、椿ちゃんが料理上手になったら、いつでもお嫁に行けてしまうわね。」
「えぇ、そんな、私、まだ……」
「そうだな。椿なら嫁に出ても恥ずかしくないだろう。素直で働き者、飯も美味い、いい嫁さんになると思うぞ。」
単純に褒めて貰ったのだと受け止めればそれだけだったのに、椿には大木の言葉が何故か他人事のように聞こえた。
落胆を隠すように明るく振る舞う。
「そんなこと……まだまだですよ。」
「だがそうなってしまうとここも少し寂しくなってしまうな、おばちゃん。」
「そうね、でも椿ちゃんの幸せに繋がるなら応援したいけどね。」
やはり大木は椿が『誰か』に嫁ぐもののように口にする。
今まで考えもしなかったが、大木は彼女をそういう対象として見ていない。
ただの忍術学園の食堂のおばちゃん見習い。
そんなことも気付かず、一人で一喜一憂して自分がすごく馬鹿みたいだと思った。子供みたいだと思った。
そうか、子供だったのだ。
大木との間には越えられない壁があったのだ。
歳の差と言う壁だ。
大木にとってみれば、椿は忍たまたちとそう変わらない子供だったのだ。
到底同じ場所に立つことなど出来ない。
だから、そういう対象に見てもらえないのだ。
気付いた瞬間、足元に大きく穴が空いたように奈落へ突き落とされそうになる。
血の気が引いて足が震える。
立っているのがやっとだった。
倒れるわけにはいかない。
これ以上、大木に醜態を晒すなどできるわけがない。
「……二人とも、この話はもうおしまいです。大木先生も、早く食べちゃってくださいね。」
そう言って皿洗いに戻った。
泣くな、泣くな、泣くな、泣くな、、、
思い出さないように、聞かなかったように、知らなかったように、さっきまでの明るい気持ちに戻さなきゃ。
時折手を止めては目を押さえながら椿は皿を洗った。
大木が食べた後の食器を片付けて椿は一人で木陰に座っていた。
自分は大木に何を望んでいたのだろう。
何と言ってくれたら良かったのだろう。
この気持ちをどうしたらいいのだろう。
わからない。
考えれば考える程、大木と自分の間に壁を感じてもがくことも出来ずにただ暗闇に囚われるしかない。
何もなかった、そう考えれば楽になれるかもしれない。
だけど一度生まれたこの気持ちをないものにしてしまうなんてとても悲しい。
だって嘘じゃなかったから、本物だったから。
簡単に捨ててしまったら、自分に嘘をつくことになってしまう。
「どーしたの?」
誰かが声をかけてきて椿は慌てて涙を拭う。
振り返るとそこにいたのはタカ丸だった。
「……タカ丸君?」
タカ丸は何も言わずに遠慮がちに笑ってみせた。
「なんでもない。ちょっと……休んでただけ。」
「………そっか。俺も休んでいい?」
そう言って椿が答える前に隣に腰をかける。
沈んだ気持ちを切り替える間もなかったので、声をかけられないままタカ丸の横顔を伺う。
彼は真っ直ぐ空を見ていてそのまま沈黙したものだから居心地が悪い。
どれくらいそうしていたのか、随分長かったように思えた時タカ丸が口を開く。
「……………ねぇ椿。」
「………なに?」
「………恋、してるでしょ。」
「……………………」
「……………………」
「……………………え………」
思考が追いつかなくタカ丸が発した言葉を飲み込むのに時間がかかった。
椿は酷く驚いてタカ丸を凝視すると彼はふわりとした笑顔を向ける。
「な、に、、、なん、、??」
「えへへ、当たり。」
訳がわからない彼女にタカ丸は誰にも言わないから安心してと言う。
「俺さ、髪結いしてたから女の子の様子とか雰囲気でそういうのわかっちゃうんだよね。ちょっと前から椿が可愛くなったな〜って思ってたんだ。これはもしかしてって。今はきっとそのことで悩んでる、違う?」
「………」
言い当てられて心底驚いたがタカ丸が髪結いだからと言うのを聞くと納得できた。
椿は無言で小さく頷く。
タカ丸はそれを見ると彼女に気づかれないように、諦めたようなため息を小さく吐いた。
「……誰かは聞かないけど、椿がそうやって元気ないのは嫌だから、何があったか聞いてもいい?」
椿自身も今の状態を自分一人で処理できるものではないと感じていた。
だがどこに発散していいのか、誰に聞いて欲しいのかわからなかった。
タカ丸は誰よりも先に椿に気付いた。
これは観念して打ち明けるべきではないだろうか。
わかったと答えるとタカ丸は良かった、ちょっと待ってと言い白い布を取り出すとふわりと椿に被せて彼女の首から下を覆う。
戸惑う椿にタカ丸はサービスするから気にしないで話して、聞いてるからと言って彼女の髪に優しく触れた。
タカ丸の手付きに心が少し軽くなった椿は静かに話しだした。
気になっている人がいること、彼の話は面白くて興味深くて、顔を合わせる日が楽しみだったこと。
料理が出来ない自分のいいところを褒めてくれて、努力すればもっと良くなると言ってくれたこと、それで自分は頑張りたいと思ったこと。
そして自分の料理を食べて美味いと言ってくれたこと、笑ってくれたこと、それがとても嬉しかったこと。
だけど自分が嫁ぐ可能性があることを彼が否定しなかったこと、彼の言葉は自分が彼の隣にはいないことを暗示していたこと。
その一言で気持ちがぐらついてしまったこと、どうしたいのかわからず、でもこのままでいるのは嫌なことを全て話した。
椿が話している間、タカ丸は何も言わずにそれを聞いていた。
鋏が髪を梳く音だけが耳元で聞こえる。
「ねぇ、タカ丸君。歳の差があるのはダメなのかな……私のことはやっぱり子供としか思われてないのかな……」
「そうだな……その質問に答える前に一つ聞いて。俺も年上の人好きになったことがあるんだ。」
「そうなの?それで?」
「でも好きだなって思った時には彼女には想い人がいたんだ。俺は彼女の幸せそうに笑う顔が好きだったから、それ以上何も言わないで身を引くことにしたんだよね。」
椿が急に振り返りタカ丸にそれで良かったのと心配そうに聞くが、タカ丸はそっと前を向かせて続きを話す。
「後悔がなかったかと言われたらそうでもない。彼女に言うべきだったとか、彼女の隣を歩きたかったとかいっぱいある。俺は臆病だったんだ。何も言えなかったんだからね。だから椿には後悔して欲しくないんだ。歳が上とか下とか、悩む前にどうありたいかだと思うんだよね。」
「どうありたいか……」
「椿は、このままでいたい?仕舞っておきたい?」
タカ丸の問いに椿は首を降った。
今の自分は嫌いだ。
前に進むことも退くことも出来ずにウジウジしている自分は嫌だ。
「私……」
本当はどうするべきかわかっていたんだ。
ただ思いもよらぬ一言に自信が崩れてしまった。
それを拾い上げてくれる手が欲しかった。
タカ丸がその役を買って出てくれた、だから。
「私、後悔したくない。その人に届かなくても言いたい。」
椿の答えにタカ丸は満足そうに笑った。
丁寧に櫛で髪をとかすと彼女に被せていた布を取り払う。
「その方が椿らしいと思うよ。はい、できた。」
手鏡を渡され中を覗き込む。
伸びた状態だった毛先は切り揃えられ気持ち内側にカールされており、全体的に艶が出ている。
普段手入れをしていないわけではないが、プロに触らせるとその差は一目瞭然だ。
「タカ丸君ありがとう。」
綺麗になると心が明るくなる。
あぁ、だからタカ丸は強引にでも髪結いをしてくれたのだ、よくわかっている。
感謝と感心を込めて椿はタカ丸に笑いかけた。
「どういたしまして。やっぱり椿はその顔じゃないとダメだね。俺たちは皆、今の椿に会いに食堂に通ってるんだから。」
「ありがとう、本当にありがとう。話聞いてくれて嬉しかった。まだ少し迷うけど、きっと自分の納得するやり方でやってみる。」
「うん。頑張って。」
「タカ丸君。」
「?」
「タカ丸君も、後悔しないで。次はきっと大丈夫だよ。」
後悔というものはずっと自身に張り付いて取れない。
椿も後悔していることがあるからタカ丸が口にした後悔が、今でも彼に張り付いているのがわかる。
だから少しの勇気で後悔しない生き方があるならそれを選択して欲しい。
例えそんな都合の良い道などなかったとしても、自分自身が納得できる生き方をして欲しいと思った。
タカ丸は困ったように笑って言う。
「うん、それが椿だよね。わかった、俺も頑張ってみるよ。」
「きっとだよ。私応援してるから。」
タカ丸が軽く手を上げて返事をすると椿は微笑んで去って行った。
まいったな。
正直そんなことを言われてしまうなんて思わなかった。
彼女は自分の話をされているなんて露ほども思わなかっただろう。
彼女の頭の中には知らない誰かが住んでいて、とても割り込める隙などなかった。
だけど、それでいいとも思った。
好きな人が幸せそうに笑うならばそれでいい。
そろそろ夕食の支度をする頃、今日も派手にやり合ったのかボロボロの姿の大木を見つけて椿は駆け寄る。
「大木先生!」
彼女の姿を捉えるとたちまち大木の口角が上がる。
「お帰りですか?」
「ああそうだ。」
「また野村先生とケンカしたんですか?」
「言っておくが、食べ物は投げとらんぞ。」
椿はそれを聞くとふふっと笑った。
「大丈夫です、わかってますから。」
「お前の方は元気になったみたいじゃのう。」
まさか気付かれているとは思わなかった。
はっとして口元を隠す。
「なんですか、それ。」
「わしが何か言ってしまったかも知れんと思ってな。それならばすまなかった。だけど元気になれたなら良かった。お前を見てるとわかるからな。」
この語におよんでそんな言い方をされると嬉しさが勝ってしまう。
確かに大木の何気ない一言に傷ついたのに、それでもこの人と一緒にいたいと願ってしまう。
「先生。」
「ん?」
赤くなる顔を隠すように俯く椿と、それとはわからない大木は覗くように少しかがんで返事をする。
意を決して椿は顔を上げた。
「今度は、私が遊びに行ってもいいですか?」
椿の申し出に大木は嬉しそうに笑って、もちろんと答えた。
「だが、一人でか?道中大丈夫か?誰かといた方が……」
「大丈夫です!子供じゃありませんので!」
彼女が強気に出ると大木は、言ったなと言うようにニカッとしてみせる。
「わかった、じゃあ待ってるからな。」
そう言って去り際に椿の頭を撫でて行った。
子供扱いしてると椿は抗議の目で大木の背中を睨んだが、すぐに表情を和らげた。
やっぱりダメだ、何を言われても何をされても、椿の中は大木でいっぱいだった。
想いが溢れて涙が出そうになる。
こんなんじゃ、言わないなんてことは出来そうにない。
言いたい、本当は今すぐに。
想いをぶつけてその背中にすがりたい。
恋がこんなに苦しいものだったなんて知らなかった。
でも知らないままだったら、それ以上にある幸せな気持ちも知らないままだった。
頭にはまだ大木が触った感触が残っている。
椿はその温もりに触れるように自分の頭に手を当て、小さく彼の名を呼んだ。
それから何日か経って、椿が作れる料理の種類も増えた。
その日、食堂のおばちゃんにお願いをして、昼間抜けさせて貰えることになった。
生徒達の朝食を終えた後椿は大きな弁当箱に自分で作った料理を詰める。
彩りとか飾り映えとか、そんなものはない。
ただ頑張って一人で作った初めての弁当だ。
それを風呂敷で包むと、おばちゃんに後はお願いしますと言って食堂を後にする。
この時点でおばちゃんには椿の行く先がどこなのか、なんとなくわかっていた。
だから快く送り出したのだ。
「上手く行くといいわね。」
杭瀬村までは一度、乱太郎、きり丸、しんべヱと行っただけだった。
微かに残る記憶を辿って、あるいは道行く人に尋ねて、村までの道を歩く。
道を覚えるのは得意だったし、大木に豪語するくらいに一人で行ける自信はあった。
あったのだが………
「あれ?」
見覚えのある景色を歩いて来たつもりだったが、徐々に獣道に入っていたことに気付かず不思議に思った時には既に時遅しであった。
とりあえずここは本来の道ではない、引き返そうと振り返るが当然道なんてものは見えず、自分を信じて真っ直ぐ戻ろうとしたが歩いても歩いてもたどり着けない。
人はこれをドツボにハマると言う。
まずい、今の状況はとてもまずい。
しばらく歩き回ったところで事態が好転することもなく時間が過ぎる。
さすがの椿も心が折れ始めその場に座り込む。
どうして上手く行かないんだろう。
せっかくお弁当まで作ったのに。
先生に会いたいだけなのに。
孤独が椿の心を支配する。
普段の彼女ならそんなものに負けることはないが、自分でも驚く程先日の動揺がまだ抜けきれていなかったようである。
膝を抱えるように座り込んだ椿はすっかり自信を失くした様子だった。
その時、彼女の着物の袂を何かが強く引っ張ってきた。
驚いてその正体を見るが、何か白い生き物が鼻息荒く椿の胸元まで顔を覗かせる。
山羊だった。
え?山羊?こんなところに?
と彼女が考える間に山羊は風呂敷包みを見つけて噛み付こうとする。
「だ、ダメ!これはダメだよ!」
取られまいと椿も必死に包みを守るが、山羊は抗議の声を上げた。
なおも食らいつく山羊と格闘していると、後方の藪がガサガサ音を立てたので、山羊の仲間が来てしまったのかと椿は背筋が凍る。だが、
「こらーー!!ケロちゃんダメだろ!!どうもすみませ………ん?」
「………………お、大木、先生…………?」
藪から現れたのは大木だった。
大木も椿を見て驚いたようだったが、まずはケロちゃんと呼んだ山羊を彼女から引き剥がす。
ケロちゃんは諦めきれない声を出すが、大木に叱られると文句を言いながら草むらの中へ入って行った。
「大丈夫だったか?」
「はい………あの、どうしてここへ?」
「どうしてって………ここは家の裏だから。」
「へ?」
大木が言うにはここは杭瀬村の端の山林とのことだ。
同じことを聞かれた椿は素直に迷ったことを言うと、大木はからかうように笑う。
「なんだなんだ?一人でも大丈夫だと言っとったのにか。はっはっは。」
「もう、笑わないでください!本当に心細かったんですから。」
泣きそうな椿を大木は悪かったと言っていつものように頭を撫でた。
その優しい手付きは彼女を安心させた。
「そうだ、先生。」
椿は死守した包みを大木に差し出す。
「お弁当です。食べてください。」
「おお!弁当か!それはありがたい!ご馳走になろう!」
少し大袈裟かと思う程に大木は喜び椿から弁当を受け取る。
その反応だけでも椿は嬉しくて笑ってしまう。
「椿、せっかく来たんだから上がって行け。」
「はい、お邪魔します。」
椿の返事を待たずして大木は彼女の手を握った。
急に伝わる体温に心臓が飛び上がりそうになる。
先生の手、大きい……!
大木は近道すると言って斜面になっているところを降りた。
引っ張られるような形で椿は大木の後に続くが、足元が滑るので時折大木に密着するような体勢になる。
「大丈夫か?掴まっていいからな。」
「は、い……」
いつもより距離が近くてその体格の違いがはっきりわかる。
大木には慣れた道でもあるのだろうが、しっかりと椿をも支える男らしさになんだか目眩がしてしまう。
繋いだ手から伝わる大木の体温で椿は心の中で絶叫しっぱなしだった。
家の中へ上がりこむと弁当を広げた大木は感動した様子で目をキラキラさせる。
椿が前回と同じように茶を入れる。
まずは一口、口に運ぶと美味いと大声で言った。
その言葉に椿はほっとする。
「椿が作ったものだな?」
「はい。頑張りました。」
「ああ、努力した結果がこうして表れているな!美味いぞ!」
次々と食べ進める大木が椿にも食べるように勧めた。
見るからに多めに作ってきたのだが、それは夕飯の分もと考えたからである。
「そんなことは気にするな。二人で食べた方が美味いに決まっとる。」
そう言うので、じゃあ…と椿も箸を付けた。
隣で子供のように頬張りながら食べる大木に椿はとても幸せだった。
村の中を案内してもらったり、ケロちゃんと兔のラビちゃんともふれあったりした。
風が少し冷たくなってきた頃、椿はそろそろ帰らないとと言い出した。
「もうそんな時間か。」
「はい、みんなの夕飯を用意しなくてはなりませんので。」
「そうだな。よし、じゃあ学園まで送ろう。」
「そんな、だいじょ……」
「大丈夫って言えるのか?」
先程迷ってくじけそうだったのにかと、大木がからかい混じりに言うので椿は何も反論できない。
「冗談だ。わしがそうしたいだけだから送らせてくれんか。」
「それなら……お願いします。」
正直なところ、寂しくなりかけていた胸の内にまた火が灯る。
大木の方からの申し出と言うのもあり、嬉しさが倍増する。
肩を並べて歩くと、すぐ隣にいる大木が改めて大きく見える。
ひげ剃りで傷がついた頬、笑うと見える歯、逞しい腕、大きな手。
そういえばこの手で支えられていたんだと思い出し赤い顔を伏せる。
「どうした?疲れたか?」
「あ、違うんですその…」
その続きを言うべきか言わざるべきか……椿は迷った。
もし打ち明けたなら大木は何と答えるだろう。
困るかな……笑われるかな……それとも聞かなかった振りをされるかな……
なかなか言葉を選び出せない椿に大木が声をかける。
「今日は何か話があって来たんじゃないのか?」
「え?」
何故見透かしたようなことを聞くのだろう、急に緊張が体中を走り出す。
大木の口調は優しかった、だが言葉の意味が強烈に頭に響いたため、大木の本心を見ることができなかった。
続く言葉に安堵したような、あるいは落胆したような微妙な空気を作り出す。
「いやお前が一人でわしのとこに来るっちゅうから、何か相談とか頼みとかあるのかと思ってたんだが……」
「………」
何かあるなら聞くという姿勢を見せつつ考える素振りをした後、はっとした顔をして椿を見る。
おばちゃんとの会話を思い出して言ったと思われる続く台詞、思えば半分は冗談のつもりで言ったのかも知れなかったが、この時の椿には冗談を受け取る余裕はなかった。
「まさか……結婚するとか、言わないよな?」
「!!」
仮にそうだとしたらどうしたのだろうか。
いやそうだとしても大木の口から聞きたくはなかった。
言わないで欲しかった。
大木は場を和ませるために言ったのかも知れない、でも知らない。
どうして、どうしてそんなことを言うのだろう。
悲しくて涙が止められない。
何故、何故と思う気持ちがだんだん怒りに変わってしまって、大木が悪い訳でもないことはわかっていたが感情をどうすることも出来ずにぶつけた。
「なんで……なんでそんなこと言うんですか!?そんな訳ないじゃないですか!!ここに来た理由なんて、私がそうしたくて、ただ、ただ先生に会いたかったからに決まってるじゃないですか!!結婚なんてしません!!する訳ない!!だって私、私は…!!」
「お、おい椿、わしが悪かった!だから落ち着け、」
突然感情的になった椿に大木は驚いた。
大声で怒りをぶつける彼女をなだめようとするがそれも叶わない。
「嫌です!!だって私、先生が好きなんです!!先生に届かなくても、叶わなくても、あなたが……好き……好きです……」
全てを吐き出した椿はボロボロに泣き出した。
後悔は不思議となかった。
大木は今頃困り果てているに違いない。
大木の言葉に二度も傷ついた、だから少しくらい椿のことで困らせたって構わない。
今は自分だけを考えてくれているに違いないから。
もう、いいんだ。
気持ちを全部ぶつけたんだ、残るものなどなにもない。
自分の正直な気持ちを救って上げられたんだ、晴れやかなものだろう。
少しすっきりとして冷静さを取り戻しつつあった椿だったが、それをまたしても乱したのは大木だった。
視界が暗くなったと思いきや、背中を暖かい何かで包まれる感触。
目を開けると鼻の先に大木の体があって、抱きしめられていると思った時には大木の低音が椿の耳をくすぐった。
「なあ、ちょっと聞いてくれんか、このままで。」
声が出せない椿は恐る恐る頷いた。
「初めはただの好奇心だった。知らん顔がいると思って見ていたらその子は細い腕で到底持ちきれないものを担ごうとしていて、だがそれも自分の仕事に責任も持っていたからだと知った。礼儀もある、人に感謝もできる、いい子だと思った。その子のところに通うのが楽しくなった。理由なんてどうでも良かった、顔を合わせたくないアイツも理由に使った。料理が苦手らしかったが、助言してやるとそれを聞いて実行したらしく、料理がみるみる上手くなった。本当に、いい子だと思ったんだ。」
「………」
「だがそう思えば思う程、自分との差が悔やまれた。わしはもう三十を越えているし、若いその子とは釣り合わん。別のところに幸せがあるならそれがその子のためと思った。」
「そんなの、先生の勝手な押し付けです。」
「ああ、そうだな。だがな……結局わしはその子が欲しいんだ。……椿が欲しい。」
「……っ!」
「それに気付いているか?さっきから心臓が煩くて敵わん。指先も冷えて震えている。お前を前にすると体の制御が効かんのだ。」
聞き間違いかと思った。
だがそんなはずはない、大木の話を一字一句逃さないように注意深く聞いていたから。
その一言、聞きたかった言葉、言って欲しかった言葉。
それにそれまで気が付かなかった。
椿自身の鼓動だと思っていたが耳を大木の胸に当てると同じように早鐘を打っている。
体を離して大木を見上げる。
今までで一番近くに彼の瞳がそこにあった。
大木は両手で椿の肩を掴むと目線を合わせるように少し屈む姿勢を取る。
「椿、考え直すなら今だ。お前が首を横に振れば、今まで通りに接することを約束する。気まずい思いはさせたりしない。だが……もし首を縦に振るなら……わしは、お前を二度と離せなくなるかも知れん。言ったことだがお前はまだ若い。これから先も色んな出会いがあるだろう。お前を縛り続けるのはわしの本望ではない。」
大木の顔は今までのどれとも違って、本心を言ってくれているのだと椿にはわかった。
本気のぶつかりに本気で答えてくれた、先程まで全てを流してしまいそうだったのに、今は真剣な大木にドキドキしてしまっている。
「……先生のバカ……」
「……」
「バカですよ、そんなのもう……決まってるじゃないですか。先生を諦めることの方が私にとっては不幸以外の何者でもないんです。大木先生の側にいたい、それだけです。」
「いいのか?」
「足りないなら納得するまで何度だって言います。先生が好きです。いつだって先生に会いたくて仕方なくて、先生と話すのが好きで、ご飯だって喜んで食べて欲しくて、私は、大木先生だから………大木先生が好きでたまらな……っ」
続きは言わせてもらえなかった。
塞がれた唇は息をするのを忘れたみたいに何も発しない。
開かれた目は何も捉えることが出来ず、自身に何が起こったか理解する脳も持ち合わせていない。
繋がりが離れる際に発した水音以外、今この空間に存在するものはなかった。
「言ったな、もう後悔しても知らんぞ。」
「…後悔なんて、とっくに忘れました。」
真近で覗く椿の瞳には決意と覚悟が映し出されていて、吸われてしまいそうな感覚に大木はゾクゾクした。
ぎりぎりの理性を保って表情を和らげれば、つられて椿も微笑む。
なんて女だ。
責任感が強かったり、自分より大きな男に啖呵を切って説教したり、かと思えば可愛らしく笑ったり、努力家だったり、少し抜けているところがあったり、そして何より芯が強い、頑固だ。
全部引っくるめて椿なんだろう。
真っ直ぐで裏表のない。
せっかく逃げ道を与えてやったのに言うことを聞かない。
こんなにいい女を他には知らない。
「この、馬鹿が。」
「お互い様です。」
「そうだな。」
彼女の肩を引いて胸の中に閉じ込める。
なるべく優しく、壊れてしまわないように抱きしめる。
余裕がなくて気付かなかった暖かさ、彼女の匂いに癒やされる。
煩かった心臓は変わらず鳴り続けるが、それも椿と共に溶けてしまったように心地よいものへと変わった。
大木にしがみつくように大人しくしていた椿が小さく先生と口にする。
離れ難い、名残惜しいがそっと体を離す。
「……行くか。」
「……はい。」
二人は前を向いて忍術学園へと足を進める。
自然と体が近付いて大木が椿の手を取ると、彼女は驚いたように顔を上げたがそのまま幸せそうに笑って見せた。
学園前まで来た頃には帰路につく烏が上空を鳴きながら飛んでいた。
二人は学園の正門ではなく、食堂が近い裏口の前で立ち止まる。
「椿、忍術学園が休みの時はどうしてるんだ?」
「お休みの時はここに残って掃除したり洗濯したりですかね。」
「そうか。なら次の休みはわしのところに来い。」
「え?いいんですか?」
「いいもなにも、もう遠慮することなんてないだろう。」
自信満々にニカッと笑う大木に椿は気付いたように顔を赤くした。
「……じゃあ、お邪魔します。」
「ああ、待ってるぞ。」
「大木先生。」
「?」
椿が小さく手招きするので大木は目線を下げるように屈む体勢を取る。
やられっぱなしな訳に行かないのは彼女の性分で、完全に油断していた大木は頬に触れる柔らかい感触に不意を付かれる。
触れるだけですぐ離れた彼女の唇に釘付けになると、それは綺麗な曲線を描き満足そうに笑って見せた。
誰がいたっておかしくない学園前での大胆な行動は、一瞬にして大木の動揺を誘った。
「おまっ!…………お前なぁ〜」
「ふふ、送ってくれてありがとうございました。」
椿が戸を開けて中に入る。
「またな、椿。」
「はい、また。」
そう言って戸を閉めるまで大木を見つめる彼女の姿を美しいと思った。
あんなに綺麗に笑うのだなと、閉じられた戸を見届けた後大木は来た道をまた戻って行った。
「また、だって。」
椿もまた、大木の姿を思い出して食堂へ向かった。
秋風の吹き始めた夕暮れの風景だった。
ーあなたのせいで、あなたのために 完ー
いつもと変わらないはずなのにその表情にはまるで花が咲いたようなという表現が似合っていた。
何かいいことがあったのかと尋ねると彼女はそんなところだと、はっきり言わないまでも肯定の返事をする。
タカ丸もそれは良かったと彼女の笑顔に釣られるようにして笑った。
そんな二人を怪訝な顔で見ていたのは先に来ていた仙蔵だ。
誰に言うでもなく、あれはなんなんだと口にすると隣に座っていた伊作が答える。
「? タカ丸と椿さんが、どうしたの?」
「最近の椿は変じゃないか?」
伊作の質問には答えずに質問をかぶせる。
「変って、何が?」
「訳もなくぼーっとしたり、かと思えば急に元気になったり、今日はやけに機嫌が良さそうだし。」
「そりゃあ、椿ちゃんだって色々あるでしょ。僕はいい傾向だと思うけど。気になるなら聞いてみたらいいんじゃない?」
「聞いたさ、聞いたが……」
彼女の高低する感情の中に自分はいないとわかったから。
力になりたくてもなれない、出来ないのだと知ってしまったから。
彼女を動かすのは別の存在、それを突きつけられているようで悔しくて堪らない。
いつもと違うのは椿よりも仙蔵だなと思った伊作は、その横顔から彼が何を考えていたのか少しわかった気がした。
彼女との間に何があったか知らないし聞かない代わりに、伊作は言葉を詰まらせた仙蔵の肩に拳をトンと当てた。
椿は食堂のおばちゃんに料理教えてくれるよう頼んだ。
おばちゃんはそれを快諾してくれて、椿が言い出したことを喜んでくれているようだった。
始めは汁物から、おばちゃんの流れるような作業を見て覚えた。
自分に足りなかった出汁の取り方を教わった時はその方法が思っていたのと違って驚いた。
「手間がかかるものなんですね。」
「そうよ〜、だから愛情がこもってるって言うんだら。」
確かに愛情をこめないと美味しいご飯は作れないようだ。
食べる人に喜んで欲しいから、食べた時にそれが美味しいと幸せになれるから。
椿はその人を思い浮かべる。
もしも自分で美味しく作れるようになったら、食べてくれるだろうか。
美味いと言ってくれるだろうか。
「椿ちゃん」
おばちゃんに呼ばれてはっと現実に戻る。
今はそんなことを考えるよりも勉強して作れるようにならなければ。
椿の勉強が始まって数日後、ランチを食べに来た乱太郎、きり丸、しんべヱに緊張感を漂わせながら盆を手渡す。
「いただきま〜す!」
三人は椿の様子に気付くことなく普段通りにランチを頬張った。
食堂に訪れる忍たまたちにランチを手渡しながら椿は食事をする乱太郎たちから気をそらさない。
楽しそうに会話をしながら箸を進める。その表情にもこれといって目立った変化はない。
他の生徒たちも皆次々と口に運んで食べているようだ。
とりあえず、大丈夫そうだった。
ほっとして胸を撫で下ろす。
乱太郎たちが遊びに行こうと早めに食べ終えた食器を下げた時、椿はそっと呼び止めてこっそり聞いてみた。
「今日のランチどうだった?変なとこなかった?」
三人は顔を見合わせて変なところは特になかった、美味しかったと言った。
「あ、もしかして…」
しんべヱがいつもと微妙に違う味噌汁の味がしたと、それは椿が作ったものではないのかと指摘する。
乱太郎ときり丸は言われてみればそうかも知れない、だけどほとんどわからなかったと言った。
「椿さんおばちゃんから料理教わったんですね。」
「うん。やっぱりこの前の、悔しかったからね。」
「すっげ〜、頑張ってますね。」
「僕、また食べたいな。」
「ありがとう。このこと知ってるの君たちだけだから、内緒だよ。」
乱太郎たちは元気に返事をすると外へ飛び出して行った。
ランチのピークも過ぎて使った食器を片付けていると、勝手口からひょっこり顔を覗かせた人物に椿は驚いた。
「おばちゃん、ランチ余ってる?」
「大木先生!?」
「あらぁ大木先生。ええ、あるわよ。食べてく?」
「ああ、頼む。よぉ椿、茶もよろしくな。」
「は、はい。」
大木の突然の訪問に心臓が跳ね上がったと同時に嬉しさで顔のニヤけが抑えられない。
おばちゃんに悟られないように急いでご飯をよそった。
「大木先生、今日来てくれるだなんてラッキーね。」
おばちゃんが厨房の中から大木に声をかける。
椿が慌てて人差し指を口に当てると、おばちゃんは大丈夫よと小声で言った。
「ラッキーって、何がだ?」
「さぁ、何でしょうね。食べてからのお楽しみ。」
おばちゃんの言葉に大木は怪訝な表情を浮かべる。
椿は大木が座る席までお膳を運び、少し震える手で食卓に置いた。
「どうぞ。」
「ありがとう。いただきます。」
淹れたて熱々のお茶もそっと置くとすごい勢いで食べる大木をちらっと見る。
椿が作った味噌汁にも口をつけ、おばちゃんの飯はやっぱり美味いなと言っている。
「あら、ありがと。でもね先生、今日のは私が作ったものじゃないのがあるのよ。」
「ん?そうなのか?」
「……そのお味噌汁、私が作りました。」
椿の申告に大木は目を見開いて、今度はゆっくり味わうように汁を啜った。
「……うん、そうか。気付かなくて悪かったな。あまりにも美味くておばちゃんが作ったものだと勘違いした。椿!」
「は、はい!」
「美味い!美味いぞ!!」
大木が椿を見てそう言った。
その言葉を、その笑顔を、彼女が望んだものを大木はくれた。
自分も人を笑顔にすることが出来た、それも一番そうしたかった大木に認められた、幸せが体中を駆け巡る。
「ありがとうございます!」
「良かったわね椿ちゃん。」
「はい!おばちゃん、ありがとう!」
嬉しそうな椿の様子は、おばちゃんまでも嬉しい気持ちにさせた。
「でもあれよね、椿ちゃんが料理上手になったら、いつでもお嫁に行けてしまうわね。」
「えぇ、そんな、私、まだ……」
「そうだな。椿なら嫁に出ても恥ずかしくないだろう。素直で働き者、飯も美味い、いい嫁さんになると思うぞ。」
単純に褒めて貰ったのだと受け止めればそれだけだったのに、椿には大木の言葉が何故か他人事のように聞こえた。
落胆を隠すように明るく振る舞う。
「そんなこと……まだまだですよ。」
「だがそうなってしまうとここも少し寂しくなってしまうな、おばちゃん。」
「そうね、でも椿ちゃんの幸せに繋がるなら応援したいけどね。」
やはり大木は椿が『誰か』に嫁ぐもののように口にする。
今まで考えもしなかったが、大木は彼女をそういう対象として見ていない。
ただの忍術学園の食堂のおばちゃん見習い。
そんなことも気付かず、一人で一喜一憂して自分がすごく馬鹿みたいだと思った。子供みたいだと思った。
そうか、子供だったのだ。
大木との間には越えられない壁があったのだ。
歳の差と言う壁だ。
大木にとってみれば、椿は忍たまたちとそう変わらない子供だったのだ。
到底同じ場所に立つことなど出来ない。
だから、そういう対象に見てもらえないのだ。
気付いた瞬間、足元に大きく穴が空いたように奈落へ突き落とされそうになる。
血の気が引いて足が震える。
立っているのがやっとだった。
倒れるわけにはいかない。
これ以上、大木に醜態を晒すなどできるわけがない。
「……二人とも、この話はもうおしまいです。大木先生も、早く食べちゃってくださいね。」
そう言って皿洗いに戻った。
泣くな、泣くな、泣くな、泣くな、、、
思い出さないように、聞かなかったように、知らなかったように、さっきまでの明るい気持ちに戻さなきゃ。
時折手を止めては目を押さえながら椿は皿を洗った。
大木が食べた後の食器を片付けて椿は一人で木陰に座っていた。
自分は大木に何を望んでいたのだろう。
何と言ってくれたら良かったのだろう。
この気持ちをどうしたらいいのだろう。
わからない。
考えれば考える程、大木と自分の間に壁を感じてもがくことも出来ずにただ暗闇に囚われるしかない。
何もなかった、そう考えれば楽になれるかもしれない。
だけど一度生まれたこの気持ちをないものにしてしまうなんてとても悲しい。
だって嘘じゃなかったから、本物だったから。
簡単に捨ててしまったら、自分に嘘をつくことになってしまう。
「どーしたの?」
誰かが声をかけてきて椿は慌てて涙を拭う。
振り返るとそこにいたのはタカ丸だった。
「……タカ丸君?」
タカ丸は何も言わずに遠慮がちに笑ってみせた。
「なんでもない。ちょっと……休んでただけ。」
「………そっか。俺も休んでいい?」
そう言って椿が答える前に隣に腰をかける。
沈んだ気持ちを切り替える間もなかったので、声をかけられないままタカ丸の横顔を伺う。
彼は真っ直ぐ空を見ていてそのまま沈黙したものだから居心地が悪い。
どれくらいそうしていたのか、随分長かったように思えた時タカ丸が口を開く。
「……………ねぇ椿。」
「………なに?」
「………恋、してるでしょ。」
「……………………」
「……………………」
「……………………え………」
思考が追いつかなくタカ丸が発した言葉を飲み込むのに時間がかかった。
椿は酷く驚いてタカ丸を凝視すると彼はふわりとした笑顔を向ける。
「な、に、、、なん、、??」
「えへへ、当たり。」
訳がわからない彼女にタカ丸は誰にも言わないから安心してと言う。
「俺さ、髪結いしてたから女の子の様子とか雰囲気でそういうのわかっちゃうんだよね。ちょっと前から椿が可愛くなったな〜って思ってたんだ。これはもしかしてって。今はきっとそのことで悩んでる、違う?」
「………」
言い当てられて心底驚いたがタカ丸が髪結いだからと言うのを聞くと納得できた。
椿は無言で小さく頷く。
タカ丸はそれを見ると彼女に気づかれないように、諦めたようなため息を小さく吐いた。
「……誰かは聞かないけど、椿がそうやって元気ないのは嫌だから、何があったか聞いてもいい?」
椿自身も今の状態を自分一人で処理できるものではないと感じていた。
だがどこに発散していいのか、誰に聞いて欲しいのかわからなかった。
タカ丸は誰よりも先に椿に気付いた。
これは観念して打ち明けるべきではないだろうか。
わかったと答えるとタカ丸は良かった、ちょっと待ってと言い白い布を取り出すとふわりと椿に被せて彼女の首から下を覆う。
戸惑う椿にタカ丸はサービスするから気にしないで話して、聞いてるからと言って彼女の髪に優しく触れた。
タカ丸の手付きに心が少し軽くなった椿は静かに話しだした。
気になっている人がいること、彼の話は面白くて興味深くて、顔を合わせる日が楽しみだったこと。
料理が出来ない自分のいいところを褒めてくれて、努力すればもっと良くなると言ってくれたこと、それで自分は頑張りたいと思ったこと。
そして自分の料理を食べて美味いと言ってくれたこと、笑ってくれたこと、それがとても嬉しかったこと。
だけど自分が嫁ぐ可能性があることを彼が否定しなかったこと、彼の言葉は自分が彼の隣にはいないことを暗示していたこと。
その一言で気持ちがぐらついてしまったこと、どうしたいのかわからず、でもこのままでいるのは嫌なことを全て話した。
椿が話している間、タカ丸は何も言わずにそれを聞いていた。
鋏が髪を梳く音だけが耳元で聞こえる。
「ねぇ、タカ丸君。歳の差があるのはダメなのかな……私のことはやっぱり子供としか思われてないのかな……」
「そうだな……その質問に答える前に一つ聞いて。俺も年上の人好きになったことがあるんだ。」
「そうなの?それで?」
「でも好きだなって思った時には彼女には想い人がいたんだ。俺は彼女の幸せそうに笑う顔が好きだったから、それ以上何も言わないで身を引くことにしたんだよね。」
椿が急に振り返りタカ丸にそれで良かったのと心配そうに聞くが、タカ丸はそっと前を向かせて続きを話す。
「後悔がなかったかと言われたらそうでもない。彼女に言うべきだったとか、彼女の隣を歩きたかったとかいっぱいある。俺は臆病だったんだ。何も言えなかったんだからね。だから椿には後悔して欲しくないんだ。歳が上とか下とか、悩む前にどうありたいかだと思うんだよね。」
「どうありたいか……」
「椿は、このままでいたい?仕舞っておきたい?」
タカ丸の問いに椿は首を降った。
今の自分は嫌いだ。
前に進むことも退くことも出来ずにウジウジしている自分は嫌だ。
「私……」
本当はどうするべきかわかっていたんだ。
ただ思いもよらぬ一言に自信が崩れてしまった。
それを拾い上げてくれる手が欲しかった。
タカ丸がその役を買って出てくれた、だから。
「私、後悔したくない。その人に届かなくても言いたい。」
椿の答えにタカ丸は満足そうに笑った。
丁寧に櫛で髪をとかすと彼女に被せていた布を取り払う。
「その方が椿らしいと思うよ。はい、できた。」
手鏡を渡され中を覗き込む。
伸びた状態だった毛先は切り揃えられ気持ち内側にカールされており、全体的に艶が出ている。
普段手入れをしていないわけではないが、プロに触らせるとその差は一目瞭然だ。
「タカ丸君ありがとう。」
綺麗になると心が明るくなる。
あぁ、だからタカ丸は強引にでも髪結いをしてくれたのだ、よくわかっている。
感謝と感心を込めて椿はタカ丸に笑いかけた。
「どういたしまして。やっぱり椿はその顔じゃないとダメだね。俺たちは皆、今の椿に会いに食堂に通ってるんだから。」
「ありがとう、本当にありがとう。話聞いてくれて嬉しかった。まだ少し迷うけど、きっと自分の納得するやり方でやってみる。」
「うん。頑張って。」
「タカ丸君。」
「?」
「タカ丸君も、後悔しないで。次はきっと大丈夫だよ。」
後悔というものはずっと自身に張り付いて取れない。
椿も後悔していることがあるからタカ丸が口にした後悔が、今でも彼に張り付いているのがわかる。
だから少しの勇気で後悔しない生き方があるならそれを選択して欲しい。
例えそんな都合の良い道などなかったとしても、自分自身が納得できる生き方をして欲しいと思った。
タカ丸は困ったように笑って言う。
「うん、それが椿だよね。わかった、俺も頑張ってみるよ。」
「きっとだよ。私応援してるから。」
タカ丸が軽く手を上げて返事をすると椿は微笑んで去って行った。
まいったな。
正直そんなことを言われてしまうなんて思わなかった。
彼女は自分の話をされているなんて露ほども思わなかっただろう。
彼女の頭の中には知らない誰かが住んでいて、とても割り込める隙などなかった。
だけど、それでいいとも思った。
好きな人が幸せそうに笑うならばそれでいい。
そろそろ夕食の支度をする頃、今日も派手にやり合ったのかボロボロの姿の大木を見つけて椿は駆け寄る。
「大木先生!」
彼女の姿を捉えるとたちまち大木の口角が上がる。
「お帰りですか?」
「ああそうだ。」
「また野村先生とケンカしたんですか?」
「言っておくが、食べ物は投げとらんぞ。」
椿はそれを聞くとふふっと笑った。
「大丈夫です、わかってますから。」
「お前の方は元気になったみたいじゃのう。」
まさか気付かれているとは思わなかった。
はっとして口元を隠す。
「なんですか、それ。」
「わしが何か言ってしまったかも知れんと思ってな。それならばすまなかった。だけど元気になれたなら良かった。お前を見てるとわかるからな。」
この語におよんでそんな言い方をされると嬉しさが勝ってしまう。
確かに大木の何気ない一言に傷ついたのに、それでもこの人と一緒にいたいと願ってしまう。
「先生。」
「ん?」
赤くなる顔を隠すように俯く椿と、それとはわからない大木は覗くように少しかがんで返事をする。
意を決して椿は顔を上げた。
「今度は、私が遊びに行ってもいいですか?」
椿の申し出に大木は嬉しそうに笑って、もちろんと答えた。
「だが、一人でか?道中大丈夫か?誰かといた方が……」
「大丈夫です!子供じゃありませんので!」
彼女が強気に出ると大木は、言ったなと言うようにニカッとしてみせる。
「わかった、じゃあ待ってるからな。」
そう言って去り際に椿の頭を撫でて行った。
子供扱いしてると椿は抗議の目で大木の背中を睨んだが、すぐに表情を和らげた。
やっぱりダメだ、何を言われても何をされても、椿の中は大木でいっぱいだった。
想いが溢れて涙が出そうになる。
こんなんじゃ、言わないなんてことは出来そうにない。
言いたい、本当は今すぐに。
想いをぶつけてその背中にすがりたい。
恋がこんなに苦しいものだったなんて知らなかった。
でも知らないままだったら、それ以上にある幸せな気持ちも知らないままだった。
頭にはまだ大木が触った感触が残っている。
椿はその温もりに触れるように自分の頭に手を当て、小さく彼の名を呼んだ。
それから何日か経って、椿が作れる料理の種類も増えた。
その日、食堂のおばちゃんにお願いをして、昼間抜けさせて貰えることになった。
生徒達の朝食を終えた後椿は大きな弁当箱に自分で作った料理を詰める。
彩りとか飾り映えとか、そんなものはない。
ただ頑張って一人で作った初めての弁当だ。
それを風呂敷で包むと、おばちゃんに後はお願いしますと言って食堂を後にする。
この時点でおばちゃんには椿の行く先がどこなのか、なんとなくわかっていた。
だから快く送り出したのだ。
「上手く行くといいわね。」
杭瀬村までは一度、乱太郎、きり丸、しんべヱと行っただけだった。
微かに残る記憶を辿って、あるいは道行く人に尋ねて、村までの道を歩く。
道を覚えるのは得意だったし、大木に豪語するくらいに一人で行ける自信はあった。
あったのだが………
「あれ?」
見覚えのある景色を歩いて来たつもりだったが、徐々に獣道に入っていたことに気付かず不思議に思った時には既に時遅しであった。
とりあえずここは本来の道ではない、引き返そうと振り返るが当然道なんてものは見えず、自分を信じて真っ直ぐ戻ろうとしたが歩いても歩いてもたどり着けない。
人はこれをドツボにハマると言う。
まずい、今の状況はとてもまずい。
しばらく歩き回ったところで事態が好転することもなく時間が過ぎる。
さすがの椿も心が折れ始めその場に座り込む。
どうして上手く行かないんだろう。
せっかくお弁当まで作ったのに。
先生に会いたいだけなのに。
孤独が椿の心を支配する。
普段の彼女ならそんなものに負けることはないが、自分でも驚く程先日の動揺がまだ抜けきれていなかったようである。
膝を抱えるように座り込んだ椿はすっかり自信を失くした様子だった。
その時、彼女の着物の袂を何かが強く引っ張ってきた。
驚いてその正体を見るが、何か白い生き物が鼻息荒く椿の胸元まで顔を覗かせる。
山羊だった。
え?山羊?こんなところに?
と彼女が考える間に山羊は風呂敷包みを見つけて噛み付こうとする。
「だ、ダメ!これはダメだよ!」
取られまいと椿も必死に包みを守るが、山羊は抗議の声を上げた。
なおも食らいつく山羊と格闘していると、後方の藪がガサガサ音を立てたので、山羊の仲間が来てしまったのかと椿は背筋が凍る。だが、
「こらーー!!ケロちゃんダメだろ!!どうもすみませ………ん?」
「………………お、大木、先生…………?」
藪から現れたのは大木だった。
大木も椿を見て驚いたようだったが、まずはケロちゃんと呼んだ山羊を彼女から引き剥がす。
ケロちゃんは諦めきれない声を出すが、大木に叱られると文句を言いながら草むらの中へ入って行った。
「大丈夫だったか?」
「はい………あの、どうしてここへ?」
「どうしてって………ここは家の裏だから。」
「へ?」
大木が言うにはここは杭瀬村の端の山林とのことだ。
同じことを聞かれた椿は素直に迷ったことを言うと、大木はからかうように笑う。
「なんだなんだ?一人でも大丈夫だと言っとったのにか。はっはっは。」
「もう、笑わないでください!本当に心細かったんですから。」
泣きそうな椿を大木は悪かったと言っていつものように頭を撫でた。
その優しい手付きは彼女を安心させた。
「そうだ、先生。」
椿は死守した包みを大木に差し出す。
「お弁当です。食べてください。」
「おお!弁当か!それはありがたい!ご馳走になろう!」
少し大袈裟かと思う程に大木は喜び椿から弁当を受け取る。
その反応だけでも椿は嬉しくて笑ってしまう。
「椿、せっかく来たんだから上がって行け。」
「はい、お邪魔します。」
椿の返事を待たずして大木は彼女の手を握った。
急に伝わる体温に心臓が飛び上がりそうになる。
先生の手、大きい……!
大木は近道すると言って斜面になっているところを降りた。
引っ張られるような形で椿は大木の後に続くが、足元が滑るので時折大木に密着するような体勢になる。
「大丈夫か?掴まっていいからな。」
「は、い……」
いつもより距離が近くてその体格の違いがはっきりわかる。
大木には慣れた道でもあるのだろうが、しっかりと椿をも支える男らしさになんだか目眩がしてしまう。
繋いだ手から伝わる大木の体温で椿は心の中で絶叫しっぱなしだった。
家の中へ上がりこむと弁当を広げた大木は感動した様子で目をキラキラさせる。
椿が前回と同じように茶を入れる。
まずは一口、口に運ぶと美味いと大声で言った。
その言葉に椿はほっとする。
「椿が作ったものだな?」
「はい。頑張りました。」
「ああ、努力した結果がこうして表れているな!美味いぞ!」
次々と食べ進める大木が椿にも食べるように勧めた。
見るからに多めに作ってきたのだが、それは夕飯の分もと考えたからである。
「そんなことは気にするな。二人で食べた方が美味いに決まっとる。」
そう言うので、じゃあ…と椿も箸を付けた。
隣で子供のように頬張りながら食べる大木に椿はとても幸せだった。
村の中を案内してもらったり、ケロちゃんと兔のラビちゃんともふれあったりした。
風が少し冷たくなってきた頃、椿はそろそろ帰らないとと言い出した。
「もうそんな時間か。」
「はい、みんなの夕飯を用意しなくてはなりませんので。」
「そうだな。よし、じゃあ学園まで送ろう。」
「そんな、だいじょ……」
「大丈夫って言えるのか?」
先程迷ってくじけそうだったのにかと、大木がからかい混じりに言うので椿は何も反論できない。
「冗談だ。わしがそうしたいだけだから送らせてくれんか。」
「それなら……お願いします。」
正直なところ、寂しくなりかけていた胸の内にまた火が灯る。
大木の方からの申し出と言うのもあり、嬉しさが倍増する。
肩を並べて歩くと、すぐ隣にいる大木が改めて大きく見える。
ひげ剃りで傷がついた頬、笑うと見える歯、逞しい腕、大きな手。
そういえばこの手で支えられていたんだと思い出し赤い顔を伏せる。
「どうした?疲れたか?」
「あ、違うんですその…」
その続きを言うべきか言わざるべきか……椿は迷った。
もし打ち明けたなら大木は何と答えるだろう。
困るかな……笑われるかな……それとも聞かなかった振りをされるかな……
なかなか言葉を選び出せない椿に大木が声をかける。
「今日は何か話があって来たんじゃないのか?」
「え?」
何故見透かしたようなことを聞くのだろう、急に緊張が体中を走り出す。
大木の口調は優しかった、だが言葉の意味が強烈に頭に響いたため、大木の本心を見ることができなかった。
続く言葉に安堵したような、あるいは落胆したような微妙な空気を作り出す。
「いやお前が一人でわしのとこに来るっちゅうから、何か相談とか頼みとかあるのかと思ってたんだが……」
「………」
何かあるなら聞くという姿勢を見せつつ考える素振りをした後、はっとした顔をして椿を見る。
おばちゃんとの会話を思い出して言ったと思われる続く台詞、思えば半分は冗談のつもりで言ったのかも知れなかったが、この時の椿には冗談を受け取る余裕はなかった。
「まさか……結婚するとか、言わないよな?」
「!!」
仮にそうだとしたらどうしたのだろうか。
いやそうだとしても大木の口から聞きたくはなかった。
言わないで欲しかった。
大木は場を和ませるために言ったのかも知れない、でも知らない。
どうして、どうしてそんなことを言うのだろう。
悲しくて涙が止められない。
何故、何故と思う気持ちがだんだん怒りに変わってしまって、大木が悪い訳でもないことはわかっていたが感情をどうすることも出来ずにぶつけた。
「なんで……なんでそんなこと言うんですか!?そんな訳ないじゃないですか!!ここに来た理由なんて、私がそうしたくて、ただ、ただ先生に会いたかったからに決まってるじゃないですか!!結婚なんてしません!!する訳ない!!だって私、私は…!!」
「お、おい椿、わしが悪かった!だから落ち着け、」
突然感情的になった椿に大木は驚いた。
大声で怒りをぶつける彼女をなだめようとするがそれも叶わない。
「嫌です!!だって私、先生が好きなんです!!先生に届かなくても、叶わなくても、あなたが……好き……好きです……」
全てを吐き出した椿はボロボロに泣き出した。
後悔は不思議となかった。
大木は今頃困り果てているに違いない。
大木の言葉に二度も傷ついた、だから少しくらい椿のことで困らせたって構わない。
今は自分だけを考えてくれているに違いないから。
もう、いいんだ。
気持ちを全部ぶつけたんだ、残るものなどなにもない。
自分の正直な気持ちを救って上げられたんだ、晴れやかなものだろう。
少しすっきりとして冷静さを取り戻しつつあった椿だったが、それをまたしても乱したのは大木だった。
視界が暗くなったと思いきや、背中を暖かい何かで包まれる感触。
目を開けると鼻の先に大木の体があって、抱きしめられていると思った時には大木の低音が椿の耳をくすぐった。
「なあ、ちょっと聞いてくれんか、このままで。」
声が出せない椿は恐る恐る頷いた。
「初めはただの好奇心だった。知らん顔がいると思って見ていたらその子は細い腕で到底持ちきれないものを担ごうとしていて、だがそれも自分の仕事に責任も持っていたからだと知った。礼儀もある、人に感謝もできる、いい子だと思った。その子のところに通うのが楽しくなった。理由なんてどうでも良かった、顔を合わせたくないアイツも理由に使った。料理が苦手らしかったが、助言してやるとそれを聞いて実行したらしく、料理がみるみる上手くなった。本当に、いい子だと思ったんだ。」
「………」
「だがそう思えば思う程、自分との差が悔やまれた。わしはもう三十を越えているし、若いその子とは釣り合わん。別のところに幸せがあるならそれがその子のためと思った。」
「そんなの、先生の勝手な押し付けです。」
「ああ、そうだな。だがな……結局わしはその子が欲しいんだ。……椿が欲しい。」
「……っ!」
「それに気付いているか?さっきから心臓が煩くて敵わん。指先も冷えて震えている。お前を前にすると体の制御が効かんのだ。」
聞き間違いかと思った。
だがそんなはずはない、大木の話を一字一句逃さないように注意深く聞いていたから。
その一言、聞きたかった言葉、言って欲しかった言葉。
それにそれまで気が付かなかった。
椿自身の鼓動だと思っていたが耳を大木の胸に当てると同じように早鐘を打っている。
体を離して大木を見上げる。
今までで一番近くに彼の瞳がそこにあった。
大木は両手で椿の肩を掴むと目線を合わせるように少し屈む姿勢を取る。
「椿、考え直すなら今だ。お前が首を横に振れば、今まで通りに接することを約束する。気まずい思いはさせたりしない。だが……もし首を縦に振るなら……わしは、お前を二度と離せなくなるかも知れん。言ったことだがお前はまだ若い。これから先も色んな出会いがあるだろう。お前を縛り続けるのはわしの本望ではない。」
大木の顔は今までのどれとも違って、本心を言ってくれているのだと椿にはわかった。
本気のぶつかりに本気で答えてくれた、先程まで全てを流してしまいそうだったのに、今は真剣な大木にドキドキしてしまっている。
「……先生のバカ……」
「……」
「バカですよ、そんなのもう……決まってるじゃないですか。先生を諦めることの方が私にとっては不幸以外の何者でもないんです。大木先生の側にいたい、それだけです。」
「いいのか?」
「足りないなら納得するまで何度だって言います。先生が好きです。いつだって先生に会いたくて仕方なくて、先生と話すのが好きで、ご飯だって喜んで食べて欲しくて、私は、大木先生だから………大木先生が好きでたまらな……っ」
続きは言わせてもらえなかった。
塞がれた唇は息をするのを忘れたみたいに何も発しない。
開かれた目は何も捉えることが出来ず、自身に何が起こったか理解する脳も持ち合わせていない。
繋がりが離れる際に発した水音以外、今この空間に存在するものはなかった。
「言ったな、もう後悔しても知らんぞ。」
「…後悔なんて、とっくに忘れました。」
真近で覗く椿の瞳には決意と覚悟が映し出されていて、吸われてしまいそうな感覚に大木はゾクゾクした。
ぎりぎりの理性を保って表情を和らげれば、つられて椿も微笑む。
なんて女だ。
責任感が強かったり、自分より大きな男に啖呵を切って説教したり、かと思えば可愛らしく笑ったり、努力家だったり、少し抜けているところがあったり、そして何より芯が強い、頑固だ。
全部引っくるめて椿なんだろう。
真っ直ぐで裏表のない。
せっかく逃げ道を与えてやったのに言うことを聞かない。
こんなにいい女を他には知らない。
「この、馬鹿が。」
「お互い様です。」
「そうだな。」
彼女の肩を引いて胸の中に閉じ込める。
なるべく優しく、壊れてしまわないように抱きしめる。
余裕がなくて気付かなかった暖かさ、彼女の匂いに癒やされる。
煩かった心臓は変わらず鳴り続けるが、それも椿と共に溶けてしまったように心地よいものへと変わった。
大木にしがみつくように大人しくしていた椿が小さく先生と口にする。
離れ難い、名残惜しいがそっと体を離す。
「……行くか。」
「……はい。」
二人は前を向いて忍術学園へと足を進める。
自然と体が近付いて大木が椿の手を取ると、彼女は驚いたように顔を上げたがそのまま幸せそうに笑って見せた。
学園前まで来た頃には帰路につく烏が上空を鳴きながら飛んでいた。
二人は学園の正門ではなく、食堂が近い裏口の前で立ち止まる。
「椿、忍術学園が休みの時はどうしてるんだ?」
「お休みの時はここに残って掃除したり洗濯したりですかね。」
「そうか。なら次の休みはわしのところに来い。」
「え?いいんですか?」
「いいもなにも、もう遠慮することなんてないだろう。」
自信満々にニカッと笑う大木に椿は気付いたように顔を赤くした。
「……じゃあ、お邪魔します。」
「ああ、待ってるぞ。」
「大木先生。」
「?」
椿が小さく手招きするので大木は目線を下げるように屈む体勢を取る。
やられっぱなしな訳に行かないのは彼女の性分で、完全に油断していた大木は頬に触れる柔らかい感触に不意を付かれる。
触れるだけですぐ離れた彼女の唇に釘付けになると、それは綺麗な曲線を描き満足そうに笑って見せた。
誰がいたっておかしくない学園前での大胆な行動は、一瞬にして大木の動揺を誘った。
「おまっ!…………お前なぁ〜」
「ふふ、送ってくれてありがとうございました。」
椿が戸を開けて中に入る。
「またな、椿。」
「はい、また。」
そう言って戸を閉めるまで大木を見つめる彼女の姿を美しいと思った。
あんなに綺麗に笑うのだなと、閉じられた戸を見届けた後大木は来た道をまた戻って行った。
「また、だって。」
椿もまた、大木の姿を思い出して食堂へ向かった。
秋風の吹き始めた夕暮れの風景だった。
ーあなたのせいで、あなたのために 完ー
2/2ページ