打ち上げ花火(鉢屋三郎)
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日も落ち始めた頃、椿は五年生に連れられて忍術学園からそう遠くない神社に来ていた。
提灯に明かりが灯り、暗がりの中でのそれは期待を起こさせるものだった。
ひしめくように連なる縁日からは賑わいの声が聞こえ、非日常の空間が椿にとっては新鮮に感じられる。
「わぁ!すごい!ねえ、みんな!」
キラキラと輝いて見えるその光景に、椿の口から明るい声が漏れる。
いつもと違った浴衣姿の彼女は華やかで眩しく映る。
だが振り返って見た五年生は、皆どこか疲れた顔をしていた。
昼間の追いかけっこの後、雷蔵は八左ヱ門に連れられ保健室へ。
三郎は勘右衛門を追っかけ回し体力の限界から倒れる。
兵助は少し罪悪感があったので図書や生物委員会の仕事を買って出た。
そのようなことがあったなんて、椿は知らない。
「椿さん祭りは初めてなんでしょう?よし、俺が楽しみ方教えてあげますよ。」
椿と同じくらい目を輝かせていた勘右衛門が名乗り出ると、すかさず三郎が間に入ってくる。
「いーや、俺が教えますよ。」
「おいおい三郎。さっきのことは水に流して。ほら、お前にこいつをやるからさ。」
勘右衛門は縁日で売っていた狐の面を三郎に被せた。
視界が塞がれた三郎が狐面をずらしながら、お前が言うことかと食って掛かろうとした。
また始まるのかと五年生が呆れ返る中、椿が二人の間に入る。
「ケンカ?」
折角楽しみに来ているのにこんなところでケンカをするの?
そう言いたげな有無を言わさぬ笑顔に、二人が一瞬固まる。
必死に言い訳をする三郎と勘右衛門に、他の三人は声を出して笑った。
縁日は大変な賑わいだった。
人の数がとにかく多く、小さい子どもが走り回るのでそれを避けるのに注意しなければならない。
神社の境内からは祭囃子が聞こえ人々の足を止める。
演奏しているのは椿より年が下の子どものように見え、またその衣装は見たこともないような鮮やかな装い、金に光る装飾など、目も耳も奪われる。
どのくらいの時間そうしていたのかわからない。
初めて見る光景に胸がドキドキして、目が離せない。
何も考えずにずっと祭囃子を聴いていたい。
そうしていると幼い頃の、まだ自分が幸せだった頃の思い出がじわりと胸に広がるようだった。
辛いこともあったけれど、楽しかった思い出、大好きな人たち、幼かった自分はそれが全てだった。
曲が終る。
演者たちが立ち上がり一度奥へと引き返す。
その場にとどまって演奏を聴いていた群衆が皆、良かった等と感想を漏らしながら散り散りになる。
椿も振り返って皆と感動を分かち合おうとした。
「凄かったね、みんな……」
さっきまで一緒にいた顔ぶれが、そこにはなかった。
五人もいたのに誰一人側にはいない。
周りを見渡すが散り散りになる人の群れで思うように探せない。
どこ?みんな、どこ?
人波に押されるように少しずつ境内から離されて行く。
心細さから急激に不安に襲われた。
取り囲む声がザワザワと耳に入ってくる。
それがだんだんと喧騒のようになり、椿の脳裏に過去の出来事が重なった。
あの日、母が自害した日。
人々の叫びと混乱に陥る様子、何が起こったのか理解出来ずにただ恐怖に襲われる。
母が、大好きな母が死んだという事実を認めることも確認することも出来ず、ただ自分だけがその場を離れなければならなかった。
弟は?弟は無事なんだろうか?
まさか弟まで失うなんてことは、ないだろうか?
不安、恐怖、孤独、絶望…
負の感情が一度に渦を巻き椿を飲み込もうとする。
耐えられない。
またあの瞬間に戻されるのだろうか。
折角もう一度幸せを掴んだところなのに、過去の呪縛から逃れる術を椿は知らない。
怖い。
怖い。
誰か助けて!
私を見つけて!お願い!
母上!
不意にどこからかのびてきた手が椿の体を引き寄せる。
この感覚に過去の自分が急に己を支配する。
母から引き離される、その苦痛が甦った。
嫌だ。
やめて。
力一杯振りほどいて相手を確認する。
「……あ……」
そこにいたのは三郎だった。
今日に限ってははっきりと断言できる。
なぜなら、狐面をつけていたから。
三郎は振り払われたことに驚いていたのだろう。
行き場のなくなった右手をだらんと垂れている。
「三郎君……ご、ごめんなさ……」
「!?」
三郎が顔を歪めた。
辛そうな顔だった、もしかしたら泣いていたのかも知れない。
それを問う前に椿の視界は塞がれた。
状況を理解できなかったが、どうやら三郎が着けていた狐面を被らされたらしい。
辛うじて彼の足元が見えた。
そのうちに今度は手を引かれ、足早に人混みを掻き分けて行く。
どこに向かっていたのかわからない。
だけど、繋がれた手から伝わる体温が椿の心を慰めていく。
三郎に聞こうにも、足早に進む彼について行くのがやっとだった。
面から見える狭まった視界の中で縁日の提灯の明かりがだんだんと減って行く。
会場から遠ざかっている?
足元に草が触るような、少しチクリとした感触。
そう感じた頃には先程の喧騒はほとんど聞こえなくなっていた。
三郎の足が速度を落としやがて止まる。
辺りが暗闇に包まれた中、虫の音が微かに聴こえる。
三郎は立ち止まったまま動く様子がない。
椿はどうしていいかわからず、言葉を探す。
「……なんで、泣いてたの?」
口を開いたのは三郎だった。
「泣いてた?」
椿は何を言われているのかいまいち理解できない。
すると三郎が振り向いて彼女の狐面を外す。
「泣いてた。」
涙を確かめるように彼女の顔に手を伸ばすと、一瞬椿の体が震えたように見え一度手を止める。
その反応に複雑な思いを抱きながら椿の目元から頬にかけて、濡れた跡を指でなぞる。
「何か、思い出させちゃった?」
三郎の問いに椿は少し青ざめたような顔をして俯く。
沈黙。
三郎が答えを待っていることはわかる、けど言葉が出ない。
「……ごめん。」
「!?三郎君は、悪くないよ。私の心が弱いだけ。」
「違う。……一人にして、ごめん。」
風が二人の間を優しく通り過ぎる。
月の明かりに照らされた中ではあったが三郎の表情は椿にはよくわからない。
「わかっていたんだ。椿さんが辛い思いをしてきたこと、学園の外に出ればあなたの過去を引き出してしまうかも知れないこと。だけど、俺は……」
「……」
「あなたに普通の幸せを届けたくて。過去に囚われないように俺がそれを教えたくて。椿さんには俺が……忍術学園のみんながあなたの味方だって、側にいて寄り添うって伝えたかったのに……。一人にしてごめん。」
三郎の言葉を一つ一つ、椿は噛み締めるように聞いていた。
頭を垂れる三郎を前にして、椿は柔らかく微笑んだ。
「……母上が自害された時、さっきみたいに自分の意思とは反対の力に流されてしまったの。」
「椿さん……」
椿が自ら話し出したことに三郎は驚いた。
それは彼女の心に大きな傷痕を残した最も引き出したくない過去のはずだ。
無理に話さなくていい、辛い思いを再び繰り返さなくていいんだ。
三郎の制止を椿はやんわりと流す。
「いいの、聞いて。三郎君に聞いて欲しい。……母は私の幸せを願っていた。だから私を自由の身にしてくれたのだけど、失うものが多かった。多すぎたの、だって全て失ってしまったから。母が死を選んだことはとても悲しい、でも私は今、忍術学園に居させて貰えてとても幸せだよ。」
そう言って微笑んだ彼女はとても綺麗だった。
月の明かりしかない中で彼女の頬をつたう涙が光る。
「私の心が弱いから……時々思い出しちゃうこともあって、だめだよね忘れなきゃいけないのに。今は幸せだって実感できたのに。……自分が弱くてみんなにも迷惑かけてるって思う。ごめんなさい。」
椿が絞り出すように並べた言葉に、三郎は両手の拳をきつく握った。
「……なんで……なんでだよ?」
「三郎君?」
納得がいかなかった。
何故彼女が自分を責めるのか、理解ができない。
だから気がついた時には感情を爆発させるように彼女の肩を掴んでいた。
「なんで忘れなきゃいけないんだ!あんたが忘れてしまったら、もうなかったことになるじゃないか!辛いこともあったけど、楽しかったことだってあるだろ!?今のあんたを作ったのが誰であったか、忘れる必要なんてない!だってあんたは……!椿さんは……その人達が好きなんでしょう?大切なんでしょう?大切な思い出を辛いものになんてしないで欲しい。」
「三郎君……」
「椿さんは俺たちとは違う。感情を殺して生きる必要なんてない。辛い時には言葉に出していい、悲しい時には泣いたっていいんだ。相手が必要なら、俺がそれになる。だから、頼むから……弱いのがダメだとか、忘れなくちゃとか、思わないで。」
三郎は椿の肩から手を離すと、そのまま抱き寄せた。
突然のことに椿は動くことも、声を発することもできない。
心臓が鷲掴みにされたようにドクンと音を立てる。
だが決して、嫌な感情は沸かなかった。
椿は自分とは違う。
今まで当たり前だった世界が、彼女を知ることでまるで違う見え方をする。
世界に色がつく。
だからこんなにも惹かれてしまったのだろうか。
「三郎君……」
「……椿さん……………俺は……あなたのことが、 」
ぱっと空が明るくなり、続いて天空より打ち付けるようなドドンという低音。
三郎が確かに何かを言ったはずなのに、それは綺麗に書き消された。
椿はそれを聞き返さなかった。
空の音が自分の胸の音ではないかと勘違いさせられるくらいに波を立てる。
喉が詰まったように言葉が何も出てこない。息もできない。
彼の存在が椿の耳に頬に首に、全身を包まれて体温の上昇を止められない。
三郎の抱き締める手に力が入り、離れることを拒んでいる。
だから彼の気が済むまではこのままでいるしか椿に為す術はなかった。
どれくらいの時間が経ったのか、最早時間という概念を失くしてただそこに立ち尽くしていただけだったのか。
幾度目かわからない空に響く低音の後、一瞬の静まりの中で三郎はそっと椿の体を離す。
「…………ほら、今日は楽しむために来たんだから。せっかく花火も上がっているし。」
涼やかな笑顔を椿に向けると空を仰ぐよう促す。
半分は本心、半分は隠した。
自分がたった今口走ったことは、彼女に届いたかどうかわからない。
言うべきではなかった。
感情に流されて雰囲気に呑まれ、だけど言うべきじゃなかったんだと隠した。
隠すのは得意だから、何事もなかったように元に戻ればいい。それだけだ。
椿の視線を右に感じながら自分を偽った。
「…………花火、綺麗だね……」
同じく空を見上げた彼女が言葉を漏らす。
「すごいね……花火なんて、初めて見たよ。」
「……うん」
「私はこれからも、たくさんの知らないことを知って、いっぱい笑うんだ。」
「……ああ、そうだな。」
「……だから、」
右手に滑り込んだ少し冷たい感触に三郎は体を震わせた。
驚いて思わず彼女を見ると、怒ったような泣いたような顔にギョッとする。
「嘘つかないで。」
「椿さん…!?」
嘘なんかついていない。
彼女は自分の人生を楽しむべきだし、かと言って過去を捨てて欲しいとも思わない。
彼女に言ったことは全て本心だ。
三郎がなんのことだかわからない顔をしていると椿はますます顔を歪めた。
「三郎君、今誤魔化した。逃げた。本当のことは隠して自分に嘘をついてる。三郎君の言うように、私は今までのことやこの背中の傷も含めて前を向いて行くよ。だけど、だったら、三郎君は私から逃げないで。あなたが言うことは私には本当になるの。私の向く前には、あなたも映っているんだから。」
繋がったままの右手を少し強い力が押し潰してくる。
彼女の強い瞳が三郎を捕えて離さない。
隠せたと思ったのに、彼女は三郎の思うようには動いてくれないらしい。
「お願い。せめて、私の前では自分に嘘をつくのはやめて。」
こんな願いをされるなんてことは、彼女は、いや彼女も、自分と同じだと言うのか?あるいは三郎の望む形としてそれが繋がった右手に現れているのか。
そんな自惚れを一瞬でも勘違いしそうになる。
嘘ならやめてくれ。
……嘘?
たった今嘘をつくなと言った彼女が嘘を言うか?
考えるまでもなかった。
椿はいつだって真っ直ぐだ。三郎には眩しいくらいに。
ただ、三郎は恐れた。
自分が踏み出すことでこの関係が壊れるのではないか。
自分たちだけではない。自分たちを囲む周りの関係も崩れるのではないかと。
自分は忍として迷ってはいけない。
だが彼女は何と言っていた?
偽るな、逃げるな、少なくとも椿の前ではと。
その言葉は三郎の全てを肯定するもの、信じるということに繋がるのではないだろうか。
信頼は強さに変わる。信じられるものが少ない世の中で、たった一人の信頼は人を救う光になるのだ。
……そうか、椿は自分にとっての光だったのだな。
「………っ!」
負けた。
いつだってそう、彼女には勝てない。惚れた弱みでもあり、自分にはないその真っ直ぐさの前に隠せるものなどない。
火照った顔を空いた手で隠しながら彼女を横目に捉え、短くため息を吐く。
「……俺にもう一度言えって言ってる?」
すると椿はいつものように柔らかく微笑んだ。
「言ってくれたらいいなと思う。でも言わなくてもいい。だってもう三郎君の顔、嘘ついてないから。」
本当に、椿は人をよく見ている。
彼女と出会って、人と深く関わることを知った。
彼女と出会って、世界の明るさを知った。
彼女と出会って、心が安らぐことを知った。
知らなかった、死を意識すること以外で、胸がこんなにうるさく鳴ることを。
右手に力を込めると、それは三郎の熱が伝わってすっかり同じ体温になっていた。
溶けるというのは、きっとこういうことを言うのだろう。
「言わない、言わないからな。空に花でも咲かない限りは。」
負けっぱなしが悔しくて、少し意地の悪いことを口走る。
真っ暗になった空は静寂を取り戻していた。
離れたところの祭りの明かりが眩しい。
「残念、終わっちゃったみたい。」
表情は見えないが彼女の声は明るかった。
「また次の時は、聞かせてくれるんだよね。」
「次があればな。」
「あるよ。だって三郎君言ったよ、男にはやらなきゃいけない時があるって。来年もその次も、ずっと待ってる。」
「……よくそんなこと覚えてたな。」
あの時は気持ちがこんなに高ぶるなんて思ってもなかったのに。
軽く言ったつもりでも彼女はよく覚えていた。
正直忘れてくれていて構わなかったとも思うくらい、今聞かされると気恥ずかしい。
真っ直ぐすぎるのも考えものかも知れないと三郎は思う。
というか実はさっきの言葉は聞こえていたんじゃないだろうか。
そろそろ皆のところへ戻った方がいいのではと手を引く椿を、それは許さないと言う代わりにぐっと踏み留まる。
「三郎君?」
彼女の方が歳が上だからって、何を言っても何をしてもいつだってこちらがやられっぱなしだなんて男として情けない。
たまには椿の余裕ない顔が見たい。
「まだいい。」
「え?」
繋がった手を強引に引き寄せるとそのまま彼女の腰に手を回して自分の体に密着させる。
椿の慌てるような抗議するような声を無視した。
「約束する。」
「うん?」
「次は椿さんの望むこと言うって。だから次もあんたは俺と花火を見なきゃダメだ。」
強張っていた彼女の体が少し緩まって、ふふっと笑う気配がする。
楽しみにしてると言って椿は三郎の胸に顔を埋める。
それが彼女の答えだった。三郎が求めていた答えだった。
「残念だな。」
「な、なに?」
「あんたの今の顔、見たかった。」
きっと夜空に咲く華のように色付いていることだろう。
もしかしたらこの先、花火を見上げる度に椿に先程の言葉を請求されるかもしれない。
それでもいい。次は自信を持って言える気がするから。
−打ち上げ花火 完−
提灯に明かりが灯り、暗がりの中でのそれは期待を起こさせるものだった。
ひしめくように連なる縁日からは賑わいの声が聞こえ、非日常の空間が椿にとっては新鮮に感じられる。
「わぁ!すごい!ねえ、みんな!」
キラキラと輝いて見えるその光景に、椿の口から明るい声が漏れる。
いつもと違った浴衣姿の彼女は華やかで眩しく映る。
だが振り返って見た五年生は、皆どこか疲れた顔をしていた。
昼間の追いかけっこの後、雷蔵は八左ヱ門に連れられ保健室へ。
三郎は勘右衛門を追っかけ回し体力の限界から倒れる。
兵助は少し罪悪感があったので図書や生物委員会の仕事を買って出た。
そのようなことがあったなんて、椿は知らない。
「椿さん祭りは初めてなんでしょう?よし、俺が楽しみ方教えてあげますよ。」
椿と同じくらい目を輝かせていた勘右衛門が名乗り出ると、すかさず三郎が間に入ってくる。
「いーや、俺が教えますよ。」
「おいおい三郎。さっきのことは水に流して。ほら、お前にこいつをやるからさ。」
勘右衛門は縁日で売っていた狐の面を三郎に被せた。
視界が塞がれた三郎が狐面をずらしながら、お前が言うことかと食って掛かろうとした。
また始まるのかと五年生が呆れ返る中、椿が二人の間に入る。
「ケンカ?」
折角楽しみに来ているのにこんなところでケンカをするの?
そう言いたげな有無を言わさぬ笑顔に、二人が一瞬固まる。
必死に言い訳をする三郎と勘右衛門に、他の三人は声を出して笑った。
縁日は大変な賑わいだった。
人の数がとにかく多く、小さい子どもが走り回るのでそれを避けるのに注意しなければならない。
神社の境内からは祭囃子が聞こえ人々の足を止める。
演奏しているのは椿より年が下の子どものように見え、またその衣装は見たこともないような鮮やかな装い、金に光る装飾など、目も耳も奪われる。
どのくらいの時間そうしていたのかわからない。
初めて見る光景に胸がドキドキして、目が離せない。
何も考えずにずっと祭囃子を聴いていたい。
そうしていると幼い頃の、まだ自分が幸せだった頃の思い出がじわりと胸に広がるようだった。
辛いこともあったけれど、楽しかった思い出、大好きな人たち、幼かった自分はそれが全てだった。
曲が終る。
演者たちが立ち上がり一度奥へと引き返す。
その場にとどまって演奏を聴いていた群衆が皆、良かった等と感想を漏らしながら散り散りになる。
椿も振り返って皆と感動を分かち合おうとした。
「凄かったね、みんな……」
さっきまで一緒にいた顔ぶれが、そこにはなかった。
五人もいたのに誰一人側にはいない。
周りを見渡すが散り散りになる人の群れで思うように探せない。
どこ?みんな、どこ?
人波に押されるように少しずつ境内から離されて行く。
心細さから急激に不安に襲われた。
取り囲む声がザワザワと耳に入ってくる。
それがだんだんと喧騒のようになり、椿の脳裏に過去の出来事が重なった。
あの日、母が自害した日。
人々の叫びと混乱に陥る様子、何が起こったのか理解出来ずにただ恐怖に襲われる。
母が、大好きな母が死んだという事実を認めることも確認することも出来ず、ただ自分だけがその場を離れなければならなかった。
弟は?弟は無事なんだろうか?
まさか弟まで失うなんてことは、ないだろうか?
不安、恐怖、孤独、絶望…
負の感情が一度に渦を巻き椿を飲み込もうとする。
耐えられない。
またあの瞬間に戻されるのだろうか。
折角もう一度幸せを掴んだところなのに、過去の呪縛から逃れる術を椿は知らない。
怖い。
怖い。
誰か助けて!
私を見つけて!お願い!
母上!
不意にどこからかのびてきた手が椿の体を引き寄せる。
この感覚に過去の自分が急に己を支配する。
母から引き離される、その苦痛が甦った。
嫌だ。
やめて。
力一杯振りほどいて相手を確認する。
「……あ……」
そこにいたのは三郎だった。
今日に限ってははっきりと断言できる。
なぜなら、狐面をつけていたから。
三郎は振り払われたことに驚いていたのだろう。
行き場のなくなった右手をだらんと垂れている。
「三郎君……ご、ごめんなさ……」
「!?」
三郎が顔を歪めた。
辛そうな顔だった、もしかしたら泣いていたのかも知れない。
それを問う前に椿の視界は塞がれた。
状況を理解できなかったが、どうやら三郎が着けていた狐面を被らされたらしい。
辛うじて彼の足元が見えた。
そのうちに今度は手を引かれ、足早に人混みを掻き分けて行く。
どこに向かっていたのかわからない。
だけど、繋がれた手から伝わる体温が椿の心を慰めていく。
三郎に聞こうにも、足早に進む彼について行くのがやっとだった。
面から見える狭まった視界の中で縁日の提灯の明かりがだんだんと減って行く。
会場から遠ざかっている?
足元に草が触るような、少しチクリとした感触。
そう感じた頃には先程の喧騒はほとんど聞こえなくなっていた。
三郎の足が速度を落としやがて止まる。
辺りが暗闇に包まれた中、虫の音が微かに聴こえる。
三郎は立ち止まったまま動く様子がない。
椿はどうしていいかわからず、言葉を探す。
「……なんで、泣いてたの?」
口を開いたのは三郎だった。
「泣いてた?」
椿は何を言われているのかいまいち理解できない。
すると三郎が振り向いて彼女の狐面を外す。
「泣いてた。」
涙を確かめるように彼女の顔に手を伸ばすと、一瞬椿の体が震えたように見え一度手を止める。
その反応に複雑な思いを抱きながら椿の目元から頬にかけて、濡れた跡を指でなぞる。
「何か、思い出させちゃった?」
三郎の問いに椿は少し青ざめたような顔をして俯く。
沈黙。
三郎が答えを待っていることはわかる、けど言葉が出ない。
「……ごめん。」
「!?三郎君は、悪くないよ。私の心が弱いだけ。」
「違う。……一人にして、ごめん。」
風が二人の間を優しく通り過ぎる。
月の明かりに照らされた中ではあったが三郎の表情は椿にはよくわからない。
「わかっていたんだ。椿さんが辛い思いをしてきたこと、学園の外に出ればあなたの過去を引き出してしまうかも知れないこと。だけど、俺は……」
「……」
「あなたに普通の幸せを届けたくて。過去に囚われないように俺がそれを教えたくて。椿さんには俺が……忍術学園のみんながあなたの味方だって、側にいて寄り添うって伝えたかったのに……。一人にしてごめん。」
三郎の言葉を一つ一つ、椿は噛み締めるように聞いていた。
頭を垂れる三郎を前にして、椿は柔らかく微笑んだ。
「……母上が自害された時、さっきみたいに自分の意思とは反対の力に流されてしまったの。」
「椿さん……」
椿が自ら話し出したことに三郎は驚いた。
それは彼女の心に大きな傷痕を残した最も引き出したくない過去のはずだ。
無理に話さなくていい、辛い思いを再び繰り返さなくていいんだ。
三郎の制止を椿はやんわりと流す。
「いいの、聞いて。三郎君に聞いて欲しい。……母は私の幸せを願っていた。だから私を自由の身にしてくれたのだけど、失うものが多かった。多すぎたの、だって全て失ってしまったから。母が死を選んだことはとても悲しい、でも私は今、忍術学園に居させて貰えてとても幸せだよ。」
そう言って微笑んだ彼女はとても綺麗だった。
月の明かりしかない中で彼女の頬をつたう涙が光る。
「私の心が弱いから……時々思い出しちゃうこともあって、だめだよね忘れなきゃいけないのに。今は幸せだって実感できたのに。……自分が弱くてみんなにも迷惑かけてるって思う。ごめんなさい。」
椿が絞り出すように並べた言葉に、三郎は両手の拳をきつく握った。
「……なんで……なんでだよ?」
「三郎君?」
納得がいかなかった。
何故彼女が自分を責めるのか、理解ができない。
だから気がついた時には感情を爆発させるように彼女の肩を掴んでいた。
「なんで忘れなきゃいけないんだ!あんたが忘れてしまったら、もうなかったことになるじゃないか!辛いこともあったけど、楽しかったことだってあるだろ!?今のあんたを作ったのが誰であったか、忘れる必要なんてない!だってあんたは……!椿さんは……その人達が好きなんでしょう?大切なんでしょう?大切な思い出を辛いものになんてしないで欲しい。」
「三郎君……」
「椿さんは俺たちとは違う。感情を殺して生きる必要なんてない。辛い時には言葉に出していい、悲しい時には泣いたっていいんだ。相手が必要なら、俺がそれになる。だから、頼むから……弱いのがダメだとか、忘れなくちゃとか、思わないで。」
三郎は椿の肩から手を離すと、そのまま抱き寄せた。
突然のことに椿は動くことも、声を発することもできない。
心臓が鷲掴みにされたようにドクンと音を立てる。
だが決して、嫌な感情は沸かなかった。
椿は自分とは違う。
今まで当たり前だった世界が、彼女を知ることでまるで違う見え方をする。
世界に色がつく。
だからこんなにも惹かれてしまったのだろうか。
「三郎君……」
「……椿さん……………俺は……あなたのことが、 」
ぱっと空が明るくなり、続いて天空より打ち付けるようなドドンという低音。
三郎が確かに何かを言ったはずなのに、それは綺麗に書き消された。
椿はそれを聞き返さなかった。
空の音が自分の胸の音ではないかと勘違いさせられるくらいに波を立てる。
喉が詰まったように言葉が何も出てこない。息もできない。
彼の存在が椿の耳に頬に首に、全身を包まれて体温の上昇を止められない。
三郎の抱き締める手に力が入り、離れることを拒んでいる。
だから彼の気が済むまではこのままでいるしか椿に為す術はなかった。
どれくらいの時間が経ったのか、最早時間という概念を失くしてただそこに立ち尽くしていただけだったのか。
幾度目かわからない空に響く低音の後、一瞬の静まりの中で三郎はそっと椿の体を離す。
「…………ほら、今日は楽しむために来たんだから。せっかく花火も上がっているし。」
涼やかな笑顔を椿に向けると空を仰ぐよう促す。
半分は本心、半分は隠した。
自分がたった今口走ったことは、彼女に届いたかどうかわからない。
言うべきではなかった。
感情に流されて雰囲気に呑まれ、だけど言うべきじゃなかったんだと隠した。
隠すのは得意だから、何事もなかったように元に戻ればいい。それだけだ。
椿の視線を右に感じながら自分を偽った。
「…………花火、綺麗だね……」
同じく空を見上げた彼女が言葉を漏らす。
「すごいね……花火なんて、初めて見たよ。」
「……うん」
「私はこれからも、たくさんの知らないことを知って、いっぱい笑うんだ。」
「……ああ、そうだな。」
「……だから、」
右手に滑り込んだ少し冷たい感触に三郎は体を震わせた。
驚いて思わず彼女を見ると、怒ったような泣いたような顔にギョッとする。
「嘘つかないで。」
「椿さん…!?」
嘘なんかついていない。
彼女は自分の人生を楽しむべきだし、かと言って過去を捨てて欲しいとも思わない。
彼女に言ったことは全て本心だ。
三郎がなんのことだかわからない顔をしていると椿はますます顔を歪めた。
「三郎君、今誤魔化した。逃げた。本当のことは隠して自分に嘘をついてる。三郎君の言うように、私は今までのことやこの背中の傷も含めて前を向いて行くよ。だけど、だったら、三郎君は私から逃げないで。あなたが言うことは私には本当になるの。私の向く前には、あなたも映っているんだから。」
繋がったままの右手を少し強い力が押し潰してくる。
彼女の強い瞳が三郎を捕えて離さない。
隠せたと思ったのに、彼女は三郎の思うようには動いてくれないらしい。
「お願い。せめて、私の前では自分に嘘をつくのはやめて。」
こんな願いをされるなんてことは、彼女は、いや彼女も、自分と同じだと言うのか?あるいは三郎の望む形としてそれが繋がった右手に現れているのか。
そんな自惚れを一瞬でも勘違いしそうになる。
嘘ならやめてくれ。
……嘘?
たった今嘘をつくなと言った彼女が嘘を言うか?
考えるまでもなかった。
椿はいつだって真っ直ぐだ。三郎には眩しいくらいに。
ただ、三郎は恐れた。
自分が踏み出すことでこの関係が壊れるのではないか。
自分たちだけではない。自分たちを囲む周りの関係も崩れるのではないかと。
自分は忍として迷ってはいけない。
だが彼女は何と言っていた?
偽るな、逃げるな、少なくとも椿の前ではと。
その言葉は三郎の全てを肯定するもの、信じるということに繋がるのではないだろうか。
信頼は強さに変わる。信じられるものが少ない世の中で、たった一人の信頼は人を救う光になるのだ。
……そうか、椿は自分にとっての光だったのだな。
「………っ!」
負けた。
いつだってそう、彼女には勝てない。惚れた弱みでもあり、自分にはないその真っ直ぐさの前に隠せるものなどない。
火照った顔を空いた手で隠しながら彼女を横目に捉え、短くため息を吐く。
「……俺にもう一度言えって言ってる?」
すると椿はいつものように柔らかく微笑んだ。
「言ってくれたらいいなと思う。でも言わなくてもいい。だってもう三郎君の顔、嘘ついてないから。」
本当に、椿は人をよく見ている。
彼女と出会って、人と深く関わることを知った。
彼女と出会って、世界の明るさを知った。
彼女と出会って、心が安らぐことを知った。
知らなかった、死を意識すること以外で、胸がこんなにうるさく鳴ることを。
右手に力を込めると、それは三郎の熱が伝わってすっかり同じ体温になっていた。
溶けるというのは、きっとこういうことを言うのだろう。
「言わない、言わないからな。空に花でも咲かない限りは。」
負けっぱなしが悔しくて、少し意地の悪いことを口走る。
真っ暗になった空は静寂を取り戻していた。
離れたところの祭りの明かりが眩しい。
「残念、終わっちゃったみたい。」
表情は見えないが彼女の声は明るかった。
「また次の時は、聞かせてくれるんだよね。」
「次があればな。」
「あるよ。だって三郎君言ったよ、男にはやらなきゃいけない時があるって。来年もその次も、ずっと待ってる。」
「……よくそんなこと覚えてたな。」
あの時は気持ちがこんなに高ぶるなんて思ってもなかったのに。
軽く言ったつもりでも彼女はよく覚えていた。
正直忘れてくれていて構わなかったとも思うくらい、今聞かされると気恥ずかしい。
真っ直ぐすぎるのも考えものかも知れないと三郎は思う。
というか実はさっきの言葉は聞こえていたんじゃないだろうか。
そろそろ皆のところへ戻った方がいいのではと手を引く椿を、それは許さないと言う代わりにぐっと踏み留まる。
「三郎君?」
彼女の方が歳が上だからって、何を言っても何をしてもいつだってこちらがやられっぱなしだなんて男として情けない。
たまには椿の余裕ない顔が見たい。
「まだいい。」
「え?」
繋がった手を強引に引き寄せるとそのまま彼女の腰に手を回して自分の体に密着させる。
椿の慌てるような抗議するような声を無視した。
「約束する。」
「うん?」
「次は椿さんの望むこと言うって。だから次もあんたは俺と花火を見なきゃダメだ。」
強張っていた彼女の体が少し緩まって、ふふっと笑う気配がする。
楽しみにしてると言って椿は三郎の胸に顔を埋める。
それが彼女の答えだった。三郎が求めていた答えだった。
「残念だな。」
「な、なに?」
「あんたの今の顔、見たかった。」
きっと夜空に咲く華のように色付いていることだろう。
もしかしたらこの先、花火を見上げる度に椿に先程の言葉を請求されるかもしれない。
それでもいい。次は自信を持って言える気がするから。
−打ち上げ花火 完−
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